松野尼御前御返事
弘安2年(ʼ79)または同3年(ʼ80)の1月21日 58歳または59歳 松野尼
と申す鳥となれり。日本国の人にはにくまれ候いぬ。みちふみわくる人も候わぬに、おもいよらせ給いての御心ざし、石の中の火のごとし、火の中の蓮のごとし。ありがたく候、ありがたく候。恐々謹言。
正月二十一日 日蓮 花押
松のの尼御前御返事
現代語訳
日蓮は日本国の人に憎まれております。この身延の山中は、道を踏みわけて訪ねてくれる人もいないのに、山中の不便な生活を思いやられてあなたの御志は、石の中の火のように、また、火中の蓮のようなものです。まことにありがたいことと存じます。恐恐。
正月二十一日 日蓮 在 御 判
松の尼御前御返事
語釈
石の中の火のごとし火の中の蓮のごとし
信じがたいことを意味する。
講義
本抄は、年号が記されていないので、いずれの年の正月21日ともわからない。宛名の松野尼御前については、松野六郎左衛門入道の妻か、子息の六郎左衛門尉の妻か、判明しないが、尼御前とあるところから、おそらく六郎座衛門入道の妻、すなわち後家尼であろうと思われる。弘安2年(1279)3月26日松野殿後家尼御前御返事に「未だ見参にも入らず候人のかやうに度度・御をとづれの・はんべるは・いかなる事にや・あやしくこそ候へ」(1393:12)とあるように、この時も使いを通じて御供養を奉った後家尼に対し、当時の状況からことのほか大聖人が喜ばれたと拝することができる。
御文全体は極めて短いものであるが、大聖人の万感の思いが込められている。「日本国の人には・にくまれ候ぬ」とあるように、過去20数年にわたる大聖人に対する世間の迫害は、隠棲の地、身延にあっても少しもやむことはなかった。しかし大聖人の御心境は、妙心尼御前御返事に「日蓮は日本第一のふたうの法師ただし法華経を信じ候事は一閻浮提第一の聖人なり」(1480:11)とあるごとく世間の反感・迫害を超越したものであった。
そのうえ、身延は交通の不便をきわまた地で「みちふみわくる人も候はぬ」といわれるように、人の往来も稀であった。夏でも身延の地は「このところは山中なる上・南は波木井河・北は早河・東は富士河・西は深山なれば長雨・大雨・時時日日につづく間.山さけて谷をうづみ・石ながれて道をふせぐ」(1551:04)と嶮しい山地であったから厳冬のころは全く人の途絶えたところであろう。弘安元年(1278)11月の兵衛志殿御返事には「このはきゐは法にすぎて・かんじ候、ふるきをきなどもにとひ候へば八十・九十・一百になる者の物語り候は・すべて・いにしへ・これほどさむき事候はず、此のあんじちより四方の山の外・十町・二十町・人かよう事候はねば・しり候はず、きんぺん一町のほどは・ゆき一丈二丈五尺等なり」(1098:08)とあり、本抄は正月であるからさらに雪は深く寒さも厳しかったと思われる。山中深く訪ね入るのはまず至難のことといわねばならない。先の日本国中の反対といい、人も通わぬ深山といい、そうした状況のなか、大聖人に御供養奉った松野尼御前の信心はまことに健気なものというべきである。
「石の中の火のごとし火の中の蓮のごとし、ありがたしありがたし」とはそうした松野殿尼御前の真心に対する大聖人の讃辞であり、未来の成仏を約束された大慈悲心と拝するのである。