教機時国抄
はじめに
本抄は、弘長2年(1262)2月、伊豆流罪中に著された書である。伊豆の流罪は、文応元年(1260)の「立正安国論」による国主諌暁を機に起こった、初めての権力による迫害であり、その背景にあった念仏者等の動きこそ、三類の強敵の中の第三・僭聖増上慢の蠢道にほかならなかった。
この法難の中で著された本抄において、日蓮大聖人は、御自身の弘められている妙法が、教・機・時・国・教法流布の先後という“宗教の五義”に照らして誤りなき大法であることを、いわば再確認され、法華経の金言によっても、正法であるが故に三類の敵人による迫害にあうのは、むしろ必然であることを述べられている。
宗教の五義の意義
“宗教の五義”は、個々には過去の論師によって、正法弘通の条件として示されてきたが、それを総合して“五義”あるいは“五網”として論じられたのは、日蓮大聖人が初めてであり、したがって、日蓮大聖人の独自の教判であるということができる。
五義それぞれの内容については本文を拝読するなかで明らかになることであるが、なぜ大聖人以前には整足されなかったかを考えると、その背景には、過去の仏法においては、究極の法を打ち立ててはいなかったことが、第一に挙げられる。即ち竜樹や天親にしても、天台大師や伝教大師にしても、経典の位置づけは行っても、その奥底にある最後究竟の法は観法・禅定によって己心中に悟る以外になく、言葉によってあらわしうるのは、そこに至る途中までであるという立場であった。したがって「教を知る」ということ自体、真実の意味では「言語道断・心行所滅であって、求めること自体がむりであったわけである。
いわんや、第二の“機”さらに“時”との関係がからんでくると、相手によっては、次善、三善の法しか説くことができないことになる。事実、天台宗等においては、初心の修行としては、称名念仏を教えたのであり、“機”に応じて教えている権教の念仏と“教”を知ったときの法華第一ということが矛盾してしまうのである。
これに対して、日蓮大聖人が初めて“教”の究竟である南無妙法蓮華経を弘められ、それは、末法の衆生の“機”に対しても、末法の“時”にも叶い、日本の“国”の条件にも、そこでの“教法流布の順序”からいっても合致している唯一の正法なのである。即ち教・機・時・国・序のいずれの観点から判じても正しい仏法が、いま日蓮大聖人の弘めている南無妙法蓮華経の大法であることを明らかにされたのである。
したがって、正法を選ぶための教判としての“五義”の中の第一「教を知る」ための基準として立てられるのが、文・理・現の三証であり、五重の相対の法門なのである。“五義”そのものは、もっと広汎な立場から、根本的に大聖人の仏法と実践の正しさを裏づける規範であり、大聖人の御確信の支えとなった基盤なのである。したがって、日蓮大聖人の仏法において三大秘法に次ぐ重要な法門として位置づけられるのである。
即ち大聖人は“教”という教理内容の面からだけでなく、救わんとされる衆生の“機”という人間観、また、出現されたこの末法という“時”、日本という“国”の社会・文化観、そして、この日本で、いかなる仏教流布の過程をたどったかという歴史観のうえから、この南無妙法蓮華経以外にないことを確信されたのである。
我々にとって五義とは、本抄で、五義それぞれについて明かされる中で「仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし」 「仏教を弘めん人は必ず時を知るべし」「仏教は必ず国に依つて之を弘むべし」「必ず先に弘まれる法を知つて後の法を弘むべし」と御指南あそばされているように、法を弘めるうえで心懸けねばなない規範であると拝することができる。
ゆえに、日寛上人は依義判文抄に「此の五義を以て宣しく三箇を弘むべし」と仰せられている。
本抄の大意および系年
本抄は、大別して三段に分かれる。
まず冒頭から「已上の此の五義を知つて仏法を弘めば日本国の国師と成る可きか」までで、教・機・時・国・序の五義をそれぞれの概要を示され、これを正しく知って仏法を弘める人が、真実の仏法指導者であると述べらている。
第二は「所以に法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るは是れ教を知る者なり」から「仏誡めて云く『悪象に値うとも悪知識に値わざれ』等と云云」までで、宗教の五義にそれぞれ照らせば、いかなる法が正法であるかを述べられ、それをわきまえない各宗を破折せられている。
最後に「法華経の勧持品」以下で、前述のような五義をわきまえない邪宗邪師の充満する中で正法を弘める者には、三類の強敵が競うことは仏説に照らして必定であり、死身弘法の実践あるのみとの決意を披瀝して結ばれている。
以上のような内容から、本抄の御述作には年代の記述がなく、古来、異説があるが、法難の最中に著されたものと考えられる。しかも、本抄には「又当世は末法に入って二百一十余年」、「如来の滅後二千二百一十余年」とあるところから、当時信じられていた説によると、弘長元年(1261)が仏滅後2210年になり、したがって、弘長2年(1262)あるいは3年と推察されるのである。
弘長3年(1263)2月22日に赦免になられて鎌倉へ帰られているので、その直前の2月10日との推定も否定できないが、ここでは弘長2年(1262)御述作としておく。
第一章 教を明かす
弘長2年(ʼ62)2月10日 41歳
本朝沙門日蓮これを註す。
一に教とは、釈迦如来の説くところの一切の経・律・論、五千四十八巻四百八十帙、天竺に流布すること一千年。仏の滅後一千一十五年に当たって、震旦国に仏経渡る。後漢の孝明皇帝の永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝の開元十八年庚午に至る六百六十四歳の間に、一切経渡り畢わんぬ。
この一切の経・律・論の中に、小乗・大乗、権経・実経、顕教・密教あり。これらを弁うべし。この名目は、論師・人師よりも出でず、仏説より起こる。十方世界の一切衆生、一人も無くこれを用いるべし。これを用いざる者は外道と知るべきなり。阿含経を小乗と説くことは、方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経より出でたり。法華経には「一向に小乗を説いて法華経を説かざれば、仏慳貪に堕すべし」と説きたもう。涅槃経には「一向に小乗経を用いて仏を無常なりと云わん人は、舌口中に爛るべし」云々。
現代語訳
本朝沙門日蓮之を註す
第一に教とは――。釈迦如来が説かれた一切の経・律・論は五千四十八巻・四百八十帙である。これがインドに流布すること一千年を経て釈尊の滅後一千十五年にあたる年に中国に仏経が渡った。後漢の孝明皇帝の永平十年丁卯から唐の玄宗皇帝の開元十八年庚午に至るまでの六百六十四年の間に、一切経は渡り終わった。
この一切の経・律・論の中に、小乗・大乗・権経・実経・顕経・密経がある。これらをわきまえ知らなければならない。この名称は、論師・人師から出たものではなく、仏説から起こったものである。したがって十方世界の一切衆生は一人ものこらずこれを用いるべきである。これを用いない者は外道の者と知るべきである。阿含経を小乗と説くことは方等・般若・法華・涅槃などの諸大乗経から出たのである。法華経には「ただ小乗経だけを説いで法華経を説かなければ仏は慳貪の罪に堕ちるであろう」と説かれている。また、涅槃経には「ただ小乗経だけを用いて、仏を無常であるという人は、舌が口の中で爛れるであろう」と説かれている。
語釈
五千四十八巻・四百八十帙
後漢の孝明皇帝の時から唐の玄宗皇帝の時までに翻訳された経・律・論の数。守護国界章巻上に「後漢の孝明皇帝永平十年歳次丁卯より、大唐神武皇帝開元十八年庚午の歳に至りて、凡そ六百六十四載……伝訳せる経律論等をみるに、一千七十六部、五千四十八巻、四百八十帙なり」とある。この記述は、開元釈教録巻一、同巻十九にもある。帙は書物の損傷を防ぐために覆い包むものをいい、書物を数える単位として用いられた。
孝明皇帝・永平十年
(0028~0075)。後漢の第二代皇帝・明帝(在位0057~0075)。光武帝の第四子。姓は劉、諱は荘。諡は孝明皇帝、廟号は顕宗。早くから頭角をあらわし、父に愛された。建武19年(0043)に皇太子、中元2年(0057)即位。光武帝の後を受けて内治外政に力を尽くした。なかでも中国に仏教を招来した皇帝として知られる。仏祖統記巻三十五等によると、明帝の7年(0064)丈六の金人が宮廷の庭の上を飛行するのを夢に見た帝が、醒めて群臣に問うたが、誰も答えられなかった。その時、太史傅毅が進み出て、周の昭王の時代に西方に聖人が出現し、その名を仏というと聞いていると申し上げた。そこで帝は、中郎将の蔡愔、秦景、博士の王遵ら十八人を西域に遣わし、それを求めさせたとある。また、金湯編には、これらの十八人が天竺の隣の月氏国に行ったとき、摩謄と竺法蘭に会い、仏像ならびに梵語の経典六十万言を得、それを白馬にのせて、摩謄と竺法蘭も連れて洛陽に帰った。時に永平10年(0067)。帝はおおいに喜び、摩謄をまず鴻臚寺に迎え、ついで洛陽の西に白馬寺を建てたという。
玄宗皇帝・開元十八年
(0685~0762)。唐の第六代皇帝(在位0712~0756)。睿宗皇帝の第三子。姓は李、諱は隆基。26歳で即位。治世の初めは宋璟・姚崇を用い、外征をおさえて民生の安定に努め、唐の繁栄に貢献し、「開元の治」と称された。在位が長くなるにつれて政治を倦み怠ったため、政情が乱れ内乱が起きた。晩年は不遇のうちに没した。
慳貪
物惜しみをし、欲が深いこと。慳は煩悩のひとつ。世親の著とされる『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち小随煩悩である。十重禁戒の第八に「不慳法財戒」(法と財とを慳むことなかれ)とある。貪は三不善根(貪・瞋・癡)のひとつ、また六根本煩悩(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)のひとつ。
講義
教を明かす
宗教の五義の中の〝教〟について述べられた段である。以下、機・時・国・序と順を追って述べられ、さらにこれら教・機・時・国・序のそれぞれについて「知ること」を示されている。
〝教〟とは「上より下をおしえる」ことであり、「上の行う処を下をして傚わしむる」義がある。もとより、ここでいう〝上〟〝下〟は社会的な上下の差別とは無関係である。法=真理を悟り、智を得ている人を〝上〟とし、まだ法=真理を知らず、愚迷の境界にいるものを〝下〟とするのである。
元来、宗教はいずれも、修行によってにせよ、神の恩寵によってにせよ、余人の及ばない覚り、智慧を得た人が、人々にそれを伝えるという原理のうえに成り立っている。そこで覚り、智慧を得た人の説いた言葉を称して〝教〟というのである。これは、あくまで自らが真理を得ようとして思索し、あるいは対話する立場をとる哲学と根本的に異なる宗教の特質である。
仏教において、覚り・智慧を得た人は仏(ブッダ)であり、したがって、仏教でいう〝教〟とは、仏の説いた教えである。仏教の開祖・釈迦牟尼世尊の教えは、八万法蔵と呼ばれ、厖大な量にのぼる。その言々句々は〝経〟として結集されたが、本抄でも「釈迦如来所説の一切の経・律・論」といわれているように、本来は釈尊が言葉で説いたのではない〝律〟、また、釈尊滅後の論師たちの著した〝論〟も〝教〟に含められる。
〝律〟が含められるのは、釈尊が直接、言葉で説いたわけではないが、自ら行動のうえで示したこと、また、滅後の教団で定められた規範も、釈尊の真意に迫るために不可欠の要素と考えられたからである。〝論〟も、釈尊自身の所説ではないが、釈尊の真意を受けついだ人々によって、分かりやすくするために説き、著されたものとして、やはり、釈尊の覚りに近づくための要件とされたから〝教〟に含めて挙げられるのである。
このように、仏教の〝教〟は「五千四十八巻・四百八十帙」の一切の経・律・論という厖大なものになるわけであるが、ただ、そのすべてに通じなければならないというのではない。これらすべてに通ずるということは、並大抵でない大学者ということになるが、ただ、すべてを知っているだけでは不足なのである。この厖大な〝教〟の中に「大小」「権実」「顕密」の勝劣があることを知らなければならない、との仰せである。
即ち、一切経論を、ただ客観的に、平等に、すみからすみまで知っているという認識だけにとどまっていては、まだ〝教〟を知っているとはいえない。そこに、大小・権実等をわきまえなければならないとは、正しい評価が加わらなければならないということである。この〝認識〟と〝評価〟が正しくそなわってこそ、真実に〝教〟を知っているといえるのである。
本段では「此の名目は論師人師よりも出でず仏説より起る」といわれ「之を用いざる者は外道と知るべきなり」と断言されている。即ちこの内容的評価事態も釈尊の〝教〟の重要な要素をなしているということである。本来、釈尊が覚った法は「一大事」の法といわれるように、ただ一つのものである。この「一大事」の法を説くために、前提とし、足がかりとして、種々の法を設け、説いたのである。したがって、そこには勝劣浅深の差別が本来あるのであり、それをわきまえなければ、釈尊の〝教〟を正しく知ることにはならないのは当然である。
逆にいうならば、一代八万の厖大な〝教〟は知らなくとも、そこに説かんとされた究極の「一大事」の法を知れば〝教を知った〟ことになるのである。日蓮大聖人は、この「一大事」の、究極の法こそ三大秘法の南無妙法蓮華経にほかならないことを示されているのである。
いま本文で「大小」「権実」「顕密」とあげられた「顕経」とは、日蓮大聖人の仏法の立場からみれば、釈尊の法華経であり、「密教」即ち、あらわに言葉に示さなかった経とは、法華経の寿量品の文底に秘沈された法であり、三大秘法の南無妙法蓮華経であることを知らなければならない。
第二章 機を明かす
二に機とは、仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし。舎利弗尊者は金師に不浄観を教え、浣衣の者には数息観を教うる間、九十日を経て所化の弟子仏法を一分も覚らずして還つて邪見を起し一闡提と成り畢んぬ。仏は金師に数息観を教え浣衣の者に不浄観を教えたもう、故に須臾の間に覚ることを得たり。智慧第一の舎利弗すら尚機を知らず、何に況や末代の凡師機を知り難し、但し機を知らざる凡師は所化の弟子に一向に法華経を教うべし。問うて云く無智の人の中にして此の経を説くこと莫れとの文は如何。答えて云く機を知るは智人の説法する事なり、又謗法の者に向つては一向に法華経を説くべし毒鼓の縁と成さんが為なり、例せば不軽菩薩の如し。亦智者と成る可き機と知らば必ず先ず小乗を教え次に権大乗を教え後に実大乗を教う可し、愚者と知らば必ず先ず実大乗を教う可し信謗共に下種と為ればなり。
現代語訳
第二に機とは――。仏教を弘める人はかならず衆生の機根を知るべきである。舎利弗尊者は金師に不浄観を教え、浣衣の者には数息観を教えたところ、九十日を経て所化の弟子は仏法を少しも覚らないで、かえって邪見を起こし一闡提となってしまった。仏は金師に数息観を教え、浣衣の者に不浄観を教えられたので、たちまちのうちに彼等は覚ることができた。智慧第一の舎利弗でさえなお衆生の機根を知らない。ましてや末代の凡師においては機根を知りがたい。ただし機根を知らない凡師は、所化の弟子にひたすら法華経だけを教えるべきである。
問うていうには、それでは法華経譬喩品の「無智の人の中において、この法華経を説いてはならない」との文はどうなのか。答えていうには、機を知るとは智人が説法する場合である。しかし、謗法の者に向かってはひたすら法華経を説くべきである。それは毒鼓の縁を結ぶためである。たとえば不軽菩薩のようなものである。また智者となるべき機根と知るならば、かならず先に小乗を教え、つぎに権大乗を教え、最後に実大乗を教えるべきである。しかし機根が愚かな者であると知るならば、かならず先ず実大乗を教えるべきである。信ずるにしても謗ずるにしても、ともに下種となるからである。
語釈
金師
鍛冶職のこと。金物を造る者のことで、金属を鍛えるとき、精神の集中をはかり、その呼吸がもっとも大事とされた。涅槃経巻二十六に「金師の子には応に数息を教うべく、浣衣の人には応に骨観を教うべし」とある。
浣衣の者
衣類の洗濯を業とする者。仏は不浄観(白骨観)をもって浣衣者を覚らせている。
毒鼓の縁
不信・謗法の衆生に正法を説き聞かせることが縁となって、誹謗を生じていったんは地獄に堕ちても、のちにかならず成仏できること。逆縁ともいう。毒鼓は毒薬を塗った鼓のことで、涅槃経巻九には「譬えば人有りて、雑毒薬を以て用いて太鼓に塗り、大衆の中に於て、之を撃ちて声を発さしむるが如し。心に聞かんと欲する無しと雖も、之を聞けば皆死す」とある。涅槃経の仏性常住の教えを聞く者は、かならず煩悩を滅尽して無上菩提を得ることにたとえたものである。さらに法華経常不軽菩薩品第二十の不軽菩薩を迫害し誹謗した衆生について、法華文句記十上では「謗るが故に悪に堕す、仏性の名を聞く、毒鼓の力は善の果報を獲るなり」と述べている。
不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる菩薩。常不軽菩薩の略。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、一切衆生に仏性があるとして「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」の二十四文字の法華経を唱え一切衆生を礼拝した。あらゆる衆生を常に軽んじなかったので常不軽と呼ばれた。釈迦仏の過去の姿の一つとされる。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、不軽菩薩はいかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うし、仏身を成就することができた。不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちたが、法華経を聞いた縁によって救われ仏道に入ることができた。
講義
宗教の五義のうち、第二の〝機〟について述べられた部分である。機とは、教を受け入れて修行し証得する衆生の能力である。そうした衆生の能力をあらわすのに、なぜ〝機〟という文字・語を選んだかという問題があるが、この漢字のもともとの意味は、たとえば弓などのように、一つの働きを起こす仕掛けをいった。そこから、ある法がどのように衆生の生命に受け容れられ、働きを起こさせるかという、その衆生の生命の能力を〝機〟という言葉であらわすようになったと考えられる。
本文で示されているように、同じ法を教えても、それを受け止める衆生の機によって、その効果は、まちまちである。仏法への理解と信を起こさせるには、この衆生の機を、よくわきまえなければならないのである。一般的にいう教育と同じく、否それ以上に、仏法の化導は、教えるものと教わるものとの協同作業なのである。
しかるに、衆生の機がいかなるものかを知ることは、きわめてむずかしい。智慧第一といわれた舎利弗すら機を正しく捉えることができなかったのである。いわんや、私達凡夫が機を正しく知るなどということは不可能に近いといわなければならない。だが、もし、ただ不可能であるということで終わってしまうならば、私達は仏法を人々に教え弘めることはできず、仏の使いとしての名誉ある行為に参画できないことになってしまう。
ただし、ここで、機が重要なのは、先の〝教〟の内容と関連するが、その教えるものが方便の教である場合である。即ち教えるものが究極の法自体でなく、究極の法へ相手を向かわせるための教えである場合、機によっては、まったく逆の、究極の法から遠ざかる方向へ心を発動させてしまうのである。舎利弗が金師に教えた不浄観や浣衣者に教えた数息観は、こうした方便の教えで、しかも相手の機にかなわなかったために、逆方向へ作用し「仏法を一分も覚らずして還って邪見を起」こさせる結果となったのである。
それに対し、日蓮大聖人が教えられた三大秘法は究極の法それ自体である。したがって、そのあと順序いずれの方向に機が発動しても、この究極の法に帰着することは間違いない。当然、順の方向をとれば即身成仏できるが、逆の方向をとれば阿鼻地獄の苦に堕ちる。しかし、後者の場合も、すでに教わった法の偉大さへの理解を深めさせることとなり、一念を逆から順へ転換することによって、同じくただちに即身成仏ができるのである。
今、私達も、この日蓮大聖人の仏法を弘めていくにあたっては、順逆ともに救うことができるのであるから、機をわきまえることができないからといって恐れる必要はなくなったのである。むしろ、結果的には、機を知らなくとも、知ったと同じ効果を得ることができるのである。
ただし、逆の方向に発動することもあり、その場合は、誹謗・中傷・迫害となって還ってくるから、いわゆる三障四魔・三類の強敵を覚悟して、それに耐える勇気ある実践を貫くことが要請されるのである。
「智者と成る可き機と知らば必ず先ず小乗を教え次に権大乗を教え後に実大乗を教う可し」とは、正像時代の弘教の方軌である。それに対し、末法においては、五濁の衆生であるから「愚者と知らば必ず先ず実大乗を教う可し」といわれている御文を根本とすべきことは、いうまでもない。
第三章 時を明かす
現代語訳
第三に時とは――。仏教を弘めようとする人は、かならず時を知るべきである。
譬えば、農人が秋や冬に田を作れば、種と土地と人の労作業に変わりがなくても、少しも収益がなく、かえって損することになる。一段(反)を作る者は少損であり、一町二町等を作る者は大損である。しかし、春や夏に耕作すれば、上中下にしたがって、皆、それぞれの分に応じた収益があるようなものである。
仏法も、また、これと同様である。時を知らないで法を弘めるならば、利益がないばかりか、かえって悪道に堕ちることになる。仏はこの世に出現されて、かならず法華経を説こうとされたが、たとい機はあっても時が来ていなかったので、四十余年の間には、法華経を説かれなかった。ゆえに法華経方便品第二には「説く時が未だ至らなかった故である」等といわれている。
仏の滅後のつぎの日から始まる正法一千年間は、持戒の者が多く破戒の者が少ない。正法一千年のつぎの日から始まる像法一千年間は、破戒の者が多く無戒の者が少ない。像法一千年のつぎの日から始まる末法一万年間は、破戒の者が少なく無戒の者が多い。正法には、破戒・無戒の者を捨てて持戒の者を供養すべきである。像法には、無戒の者を捨てて破戒の者を供養すべきである。末法には無戒の者を供養すること、仏を供養するようにすべきである。
ただし、法華経を謗る者に対しては、正法・像法・末法の三時にわたって、持戒の者をも無戒の者をも破戒の者をも、ともに供養すべきではない。もし供養するならば、かならず国に三災七難が起こり、供養した者もかならず無間大城に堕ちることになる。法華経の行者が権経を謗ずるのは、主君が所従を、親が子息を、師が弟子を処罰するようなものである。だが、権経の行者が法華経を謗ずるのは、所従が主君を、子息が親を、弟子が師を処罰するようなものである。
また今の世は、末法に入って二百十余年になる。権経・念仏等の時か、法華経の時かをよくよく考えるべきである。
語釈
一段
一反とも書く。土地の面積の単位。律令制においては六尺四方を一歩とし、三百六十歩を一段とした。三百六十歩はおよそ一一六六平方㍍にあたる。
一町
土地の面積の単位。一町は十段をいい、三千六百歩のこと。およそ一一六六四平方㍍にあたる。
三災七難
三災と七難のこと。倶舎論巻十二では、劫末に起こる三種の災厄として小三災と大三災の二つを挙げている。小三災は①刀兵災、②疾疫災、③飢饉災。一住劫の中に二十増減劫があり、その減劫の終わりに起こるとされる。大三災は①火災、②水災、③風災。壊劫に二十増減劫があり、最後の一増減劫に起こり器世間を破壊するとある。七難は経典によって異なるが、仁王経巻下によると、①日月失度難(太陽や月の異常現象。黒日赤日の出現、日食が起きたり、多くの日輪があらわれたりする)、②星宿失度難(星等の天体に異変が起き、彗星等が変現する)、③災火難(大火が国土を焼き、一切を焼き尽くす)、④雨水難(季節はずれの大水のため人々を漂没させる)、⑤悪風難(大風が吹いて人々が死に、国土、山河、樹木が一時に滅没する)、⑥亢陽難(雨季に入っても雨が降らず、旱魃のため草は枯れ穀物が実らず人々は滅尽する)、⑦悪賊難(他国からの侵略、国内の賊によって戦乱が起こる)。薬師経では①人衆疾疫難、②他国侵逼難、③自界叛逆難、④星宿変怪難、⑤日月薄蝕難、⑥非時風雨難、⑦過時不雨難である。
講義
宗教の五義の中の〝時〟について述べられている段である。
〝時〟とは、客観世界が全体的に奏でる変化のリズムといえよう。いま本文で第一に例として挙げられている農人の場合は、一年を周期とする自然界の変化のリズムである。秋に稲を植えても、成長すべき時に次第に寒くなり雪におおわれて稲の必要とする条件に合わないが故に、米は実らない。初夏に植えれば、稲の成長、成熟に必要な気温、日射、水が得られて米が実るのである。
第二の例として釈尊が法華経を説くのに、何よりも〝時〟を選んだといわれている。この中で「縦い機有れども」とあるのは、弟子・衆生の中に、一人、二人は法華経を聞き信受する機をすでにもっている人はいたけれども、ということである。
大聖人は、この点を「撰時抄」でさらに明確に、法華経を説いた時の衆生は、機根からいうと、爾前経の時の、それにふさわしい機の人々より劣るとさえ指摘されて、法華経が〝機〟によらず〝時〟によって説かれたことを強調されている。
この場合の〝時〟とは、たんに衆生の全体的な機根的条件だけでなく、釈尊の入滅が近いこと、そこから滅後の時代が始まることも含んだ意味での〝時〟と考えられる。
事実、法華経に説かれる仏の常住観等は、釈尊の入滅間近という条件のもとでこそ、衆生にもより切実に明確に受け容れられたものと思われる。
第三に挙げられている、正法は持戒、像法は破戒、末法は無戒という変化と、それに応じて重んずべき仏法指導者のあり方が変わるという例は、〝時〟に応じて、広まる法も衆生の機も異なってくるということである。
まず正法時代には、戒律を重んじた小乗教が広まった。戒を行ずることによって、仏教僧たちはおのずから禅定を得て解脱することができたのである。したがって、この時代の一般信徒は、戒律をきちんと守っている僧を仏法に叶った人として尊敬し供養すれば、功徳を積むことができたのである。
それに対して、像法時代は「破戒の者は多く無戒の者は少し」といわれている。そして、この時代には「無戒を捨てて破戒の者を供養すべし」と教えられている。像法時代に広まった大乗教においては、戒律の修行は初歩の一段階に過ぎず、智慧の研鑽や衆生化他の実践が中心になってくる。したがって、正しい仏教僧であれば、戒律だけにとどまっているのではなく、そこからつぎの段階へ進まなければならない。これが、本抄でいわれている〝破戒〟であって、元へ逆戻りして退く意味での〝破戒〟ではないことに留意しなければならない。
末法においては、法華経の実大乗、即ち大聖人の元意からいえば三大秘法の南無妙法蓮華経をただちに行ずる仏法が広まる時である。したがって、像法時代の場合のように一段階として戒を行ずることもないのであって、故に「末法一万年は破戒の者は少く無戒の者は多し」であり、人々は〝無戒〟の人、妙法をただちに行じ、妙法をただちに教え弘める人を尊び供養することが大事となる。
ここでいわれる〝無戒の者〟とは、ただ〝無戒〟であるのでなく、三大秘法の南無妙法蓮華経をただちに行じているということに重点があると拝さなければならない。それを、以下の「但し法華経」云々の御文に間接的に示されているのである。
しかも「末法には無戒の者を供養すること仏の如くすべし」の御文に〝無戒の者〟即、妙法をただちに行じ弘めている人こそ、末法の一切衆生を救済する方であり、供養する人には功徳善根を生ぜせしめる仏であることが明白である。
「但し法華経を謗ぜん者をば正像末の三時に亘りて持戒の者をも無戒の者をも破戒の者をも共に供養すべからず」以下の御文において、前述したように、妙法こそ功徳の根源であることを断わられているのである。いうなれば、持戒か破戒か無戒かということは、修行者の〝人〟のうえにあらわれた姿であるのに対し、その根本となっている〝法〟が、究極的に法華経即ち三大秘法の仏法に合致していなければならないことを示されている。つまり、〝人〟の外面にあらわれる姿は、時に応じて持戒・破戒・無戒と差別はあっても、根本の法華経の法が功徳の源泉であり、成仏の鍵であることは一貫しているのである。
ただ、それを顕すあり方が、正法・像法の場合は間接的であるのに対し、末法においては、そうした介在物を排して直接的に説き示されるのである。その姿を「末法には無戒の者」と表現されたのである。日蓮大聖人こそこうした一切の介在物を排除し、なんら方便を設けることなく、究極の正法である三大秘法の南無妙法蓮華経を行じ弘めている、この〝無戒の者〟であられる。この段は「末法には無戒の者を供養すること仏の如くすべし」と、〝人の本尊〟を示され、「又当世は末法に入つて二百一十余年なり……法華経の時か能く能く時刻を勘うべきなり」と、末法の一切衆生の尊敬すべき法即〝法の本尊〟を教えられている。そして、釈尊在世においても、正法が説かれた要件は〝時〟であったように、滅後、正像末の流れの中でも、正法流布の要件が〝時〟にあり、今まさに、その大白法流布の時である、との仰せである。
第四章 国を明かす
現代語訳
第四に国とは――。仏教はかならずその国に応じた法を弘めるべきである。国には寒い国と熱い国、貧しい国と富める国、世界の中央にある国と辺境の国、大国と小国、盗賊ばかりの国、殺生者ばかりの国、不孝者ばかりの国等があり、また、小乗だけの国、大乗だけの国、大乗と小乗を兼ね学ぶ国もある。それでは、日本国は小乗だけの国なのか、大乗だけの国なのか、それとも大乗と小乗とを兼ね学ぶ国なのか、この点をよくよく勘えるべきである。
語釈
中国・辺国……
中国は、世界の中央に位置する国のこと。辺国は、中央から遠く離れた辺境の国。一向偸盗国は、盗みが横行する国。一向殺生国は、殺生者ばかりの国。一向不孝国は、父母に孝養を尽くさない者ばかりの国の意。玄奘の大唐西域記には、そうした諸国の事情が記されている。
一向小乗の国……
伝教大師の顕戒論巻上には、玄奘の大唐西域記を用いて、仏教習学の国を三つに大別して、第一に大乗を習学する国・十五国、第二に大小を兼学する国・十五国、第三にただ小乗ばかりを学ぶ国・四十一国と、それぞれの国名、国の広さ、伽藍の数、僧数を記述している。
講義
宗教の五義のうち〝国〟について示された段である。
〝国〟の条件の捉え方には、種々の視点があり、本文にも、その多様な角度が挙げられている。「寒国・熱国」は、まず、気候的条件である。気候条件の違いは、ただ自然環境にとどまらず、人々の気性や生活態度等にも大きい影響を及ぼす。熱い国では比較的に開放的になりやすいが、寒い国では閉鎖的になりやすいであろう。また、寒い国では、長い冬のために計画的に蓄えをしなければならないのに対し、熱い国では、もちろん、さらに細かい違いは種々あるにしても、いつでも食料が得られ、刹那的・快楽的に流れやすい等々。
「貧国・富国」は、いうまでもなく、経済的条件である。豊かな富んだ国と、貧しい国とでは、いわば人生哲学、生活哲学も異なる。そこから、同じ仏法を聞いても、その受け容れ方も違えば、実践の仕方も違ってくるであろうことは、容易に推察されよう。
「中国・辺国」は、主として文化的な面での位置の問題である。文化を創造し、それが他国へ発散して、多くの国々に影響を与えていく国が「中国」であり、そうした文化の核から影響を受けていく国が「辺国」である。「中国」の人々が自信と誇りをもっていくのに対し「辺国」の人々は、どうしても卑屈になりやすい。しかし、逆に「中国」の人が独善的に陥りやすいのに対し「辺国」の人は、あらゆるものを受け容れようとする謙虚さを発揮するともいえる。
「大国・小国」は、権力的条件である。「大国」は、その強大な国力を背景に傲慢になりやすいのに対し「小国」はつねに、大国や周囲の動向をうかがいながら、自国の安全を維持しなければならない。やはり「大国」の人々は自信に満ち、おおらかになりやすいのに対し「小国」の人々は、せせこましくなる傾向が強いといえる。しかし、これも、逆に「大国」の人間が、物事をおおざっぱにとらえ、無神経になりやすいのに対し「小国」の人間は、繊細で機敏という特質をもちやすいということもいえる。
「一向偸盗国・一向殺生国・一向不孝国」の例は、いわゆる道徳観念やそこから来る風習の違いである。物を所有するという観念があまり強くないため、人の物を勝手に使ったりしても、それほど罪とされない国がある。これが「一向偸盗国」である。また「一向殺生国」とは、生命の尊厳という観念が弱く、殺人や傷害が日常茶飯事化しているような社会といえる。「一向不孝国」とは、親子の倫理がうすく、親は子をそれほど大事にせず、子も親を尊敬したり、面倒をみようとしない国ということである。
こうした、気候、経済、文化、国際、道徳などの種々な角度からの違いに応じて、人々の考え方、生き方が異なるから、そこに弘められるべき教法も、一律ではない。小乗教の戒律を主にして、倫理・道徳面から支えていかなければならない国もあるし、大乗教によって、もっと深い内面的な充実の法を必要とする国もある。また、この両方を必要とする国もある。結論として、では、日本は、これらのいずれに該当するのかを勘えなければならない、と結ばれている。ここでは、問題提起の形で一応収められているのであるが、古来、日本は法華経有縁の国であるとは、大聖人が諸御抄で、繰り返し強調されているところである。
第五章 教法流布の先後を明かす
五に教法流布の先後とは、未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり、既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり、必ず先に弘まれる法を知つて後の法を弘むべし。先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし、先に実大乗弘らば後に小乗・権大乗を弘むべからず。瓦礫を捨てて金珠を取るべし、金珠を捨てて瓦礫を取ること勿れ。
已上の此の五義を知つて仏法を弘めば日本国の国師と成る可きか。
現代語訳
第五に教法流布の先後とは――。まだ仏法が渡っていない国には、まだ仏法を聴かない者がいる。すでに仏法の渡った国には仏法を信ずる者がいる。かならず先にその国に弘まった法を知って、後の法を弘めるべきである。
先に小乗・権大乗が弘まっていたならば、後にかならず実大乗を弘めるべきである。先に実大乗が弘まっていたならば、後に小乗・権大乗を弘めてはならない。瓦礫を捨てて黄金と珠を取るべきである。黄金や珠を捨てて瓦礫を取ってはならない。
以上のこの五義を知って仏法を弘めるならば、日本国の国師となるのである。
語釈
瓦礫・金珠
瓦礫は瓦と礫のことで、価値の低いものにたとえる。金珠は黄金と珠(宝石)のこと、価値の高いものにたとえる。
国師
①奈良時代、勅令や官符によって定められた僧職の一つ。諸国において僧尼を監督しこれらに経を講じた者。国分寺の制とともに始まり、延暦14年(0795)には講師と改められた。②一国の民衆の師または帝王の師として朝廷からおくられた高僧の称号。日本では花園天皇が円爾(弁円)に正和元年(1312)聖一国師の諡号をおくったのが初めである。③本抄では、根本的に、人々に正しい仏法を教え、成仏へ導いていく師との意で用いられたと拝される。
講義
本章は、「五に教法流布の先後とは……金珠を捨てて瓦礫を取ること勿れ」と、宗教の五義中、第五の教法流布の先後について明かされ、「已上の此の五義を知つて……」の文は、以上の総じて論じてきた宗教の五義についての結論にあたるところである。
したがって、本章までで、宗教の五義の総論が終わり、以下、五義を別して論じ、最後に、法華経の行者の死身弘法が説かれるのである。
教法流布の先後とは、教法流布の前後ともたんに序とも呼ばれるもので、教法の流布する順序や次第をいうのである。
仏法を弘める人は、その国にこれまで、いかなる教法が流布されてきたかを正しく認識し把握し、これまでに流布した法よりすぐれた教法を弘めなければ、人々を救うことはできないことを示されているのである。
それは、先に弘まった法より劣る低い教法を弘めると、人々は劣った法を根本にして、勝れた法に背くことになる。このことは、人々に正法に背く謗法の罪を犯させる結果になるのである。勝れた法によって劣った法に背いても、それは仏法上の罪にはならないばかりか「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」(0509:08)といわれるように、むしろ仏法上すばらしいことである。
したがって、法を弘めるにあたっては、以前に広まった法がいかなるものかをわきまえ、間違ってもそれより劣る法を弘めてはならない。
いま、日蓮大聖人が弘められる三大秘法の南無妙法蓮華経は、最高究極の法であるから、以前に広まってきた宗教がいかなるものであれ、この順序を誤るという恐れはまったくないのである。
已上の此の五義を知つて仏法を弘めば日本国の国師と成る可きか
宗教の五義を知って仏法を弘める師が、真実の日本国の国師であるとの仰せである。国師については、語訳でふれておいたが、御文の次下を拝すると、仏法の勝劣浅深を判別して、一切衆生を一人ももれなく成仏へと導く師のことである。それでは誰が国師であるか。
過去をふり返ってみると、一切経の中で法華経が最勝の経なりと他経と分別した天台大師が中国の国師であり、桓武天皇の時に、小乗・権大乗の義を破して、法華経の実義を顕揚した伝教大師が日本国の国師であった。今末法にあっては、宗教の五義をわきまえ、三大秘法を弘める日蓮大聖人が日本の国師であられることを知らなければならない。
第六章 教を知る
所以に法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るは是れ教を知る者なり。但し光宅の法雲・道場の慧観等は涅槃経は法華経に勝れたりと、清涼山の澄観・高野の弘法等は華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと、嘉祥寺の吉蔵・慈恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経に勝れたりと云う。天台山の智者大師只一人のみ一切経の中に法華経を勝れたりと立つるのみに非ず、法華経に勝れたる経之れ有りと云わん者を諌暁せよ止まずんば現世に舌口中に爛れ後生は阿鼻地獄に堕すべし等と云云。此等の相違を能く能く之を弁えたる者は教を知れる者なり。当世の千万の学者等一一に之に迷えるか、若し爾らば教を知れる者之れ少きか。教を知れる者之れ無ければ法華経を読む者之れ無し、法華経を読む者之れ無ければ国師となる者無きなり。国師となる者無ければ国中の諸人・一切経の大・小・権・実・顕・密の差別に迷うて一人に於ても生死を離るる者之れ無く、結句は謗法の者と成り法に依つて阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵よりも多く法に依つて生死を離るる者は爪上の土よりも少し、恐る可し恐る可し。
現代語訳
ゆえに法華経は一切経の中の第一の経王であると知るのが、教を知る者である。ところが光宅寺の法雲、道場寺の慧観等は、涅槃経は法華経より勝れているといっている。清涼山の澄観、高野山の弘法等は、華厳経・大日経等は法華経よりも勝れているといっている。嘉祥寺の吉蔵、慈恩寺の窺基法師等は、般若・深密等の二経は法華経よりも勝れているといっている。天台山の智者大師ただ一人だけが、一切経の中で法華経が勝れていると立てただけではなく「法華経よりも勝れた経があるという者を諌暁しなさい。それでもいいやまないならば、現世には舌が口中で爛れ、後生は阿鼻地獄に堕ちるであろう」等といわれたのである。これらの相違をよくよくわきまえた者が教を知っている者である。
今の世の千万の学者等は、誰もがこれに迷っている。もしそうなれば、教を知っている者は少ないことになる。教を知っている者がいなければ、法華経を読む者もいない。法華経を読む者がいなければ、国師となる者もいない。国師となる者がいなければ、国中の人々は一切経の大乗・小乗・権経・実経・顕経・密経の差別に迷って、一人も生死を離れる者がなく、結局は謗法の者となり、法によって阿鼻地獄に堕ちる者は、大地の微塵よりも多く、法によって生死を離れる者は、爪の上の土よりも少ない。まことに恐るべきことである。
語釈
光宅の法雲
(0467~0529)。中国・南北朝時代の僧。光宅寺法雲と呼ばれる。開善寺の智蔵、荘厳寺の僧旻とともに梁の三大法師と称され、成実、涅槃の学匠として名高い。江蘇省常州府宜興県の人。姓は周氏。7歳で出家し、30歳で法華経・浄名経を講じた。天監7年(0508)勅により光宅寺の主となり、普通6年(0526)大僧正に登る。南三北七の南三の第三にあたる定林寺の僧柔・慧次および道場寺の慧観の立てた五時教の釈を用い、涅槃経は法華経に勝るとしている。
道場の慧観
生没年不明。中国・南北朝時代の僧。道場寺慧観と呼ばれる。清河(山東省東昌府清平県)の人。姓は崔氏。幼少にして出家し、廬山の慧遠に師事した。姚秦の弘始3年(0401)長安に来た鳩摩羅什に師事して竺道生・僧肇らとともに高弟となる。「法華宗要序」を著す。羅什の没後、荊州の高悝寺や楊都(建康)の道場寺に住み法を弘めた。著書には「弁宗論」「論頓悟漸悟義」等がある。慧厳・謝霊運らとともに法顕訳の「大般泥洹経」(六巻本)と「大般涅槃経」四十巻(北本)とを対校して、新たに「大般涅槃経」三十六巻(南本)を作り、涅槃経研究の盛行の端緒となった。また、定林寺の僧柔や慧次とともに南三北七の南三の第三にあたる五時教(有相教〈阿含経〉、無相教〈般若経〉、抑揚教〈浄名経等〉、同帰教〈法華経〉、常住教〈涅槃経〉)を立て、涅槃経を最上の教えとした。
清涼山の澄観
(0738~0839)。中国・唐代の僧。華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。十一歳で出家し、律・華厳・三論・法華・禅等の諸経典を学ぶ。後、五台山大華厳寺(清涼寺)に住し、華厳経を講じ、華厳宗の興隆に努めた。著作に「華厳経疏」六十巻、「華厳経随疏演義鈔」九十巻等多数ある。華厳経随疏演義抄巻一には、「法華は余経を摂して華厳に帰す。是れ則ち法華亦華厳を指して根本と為す」と説いて、法華経をはじめとする一切経の帰すべき根本の教えが華厳経であるとしている。
高野の弘法
(0774~0835)。平安時代初期の僧。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法は諡号。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。姓は佐伯氏。幼名は真魚。15歳で奈良に学び、18歳で京に入り経史・文学・経典を習学する。延暦12年(0793)勤操に従って出家した。延暦23年(0804)入唐し、青竜寺の慧果について密教を学び、遍照金剛の灌頂名を与えられた。大同元年(0806)帰朝。大同4年(0809)入京し、高雄山寺(後の神護寺)に住した。弘仁7年(0816)高野山を賜り、翌年より金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」三巻などがある。十住心論および秘蔵宝鑰では十住心を立て、大日経を第一とし、法華経を第三の劣と下している。
嘉祥寺の吉蔵
(0549~0623)。中国・隋・唐代の僧。三論宗の祖。祖父または父が安息(パルチア)人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれ、嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)に住したので嘉祥大師と称された。姓は安氏。金陵(南京)の人。幼時父に伴われて真諦(しんだい)に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論(中論・百論・十二門論)を学んだ。隋代の初め、開皇年中に嘉祥寺で八年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わし、三論宗を立て般若最第一の義を立てた。著作に「三論玄義」一巻、「中観論疏」十巻、「大乗玄論」五巻、「法華玄論」十巻、「法華遊意」一巻など数多くある。法華遊意では「二乗作仏を明かすことについては般若経よりも法華経が勝れているが、もし菩薩のために実恵と方便の二恵を明かす点では、般若経が勝れ法華経が劣る」として、般若経の智慧を最勝としている。
慈恩寺の基法師
(0632~0682)。窺基のこと。中国・唐代の僧。法相宗の事実上の開祖(玄奘を開祖と立てる場合は第二祖)。長安の慈恩寺に住したので慈恩大師と称された。陝西省西安府長安県の人。字は供道。17歳で出家し玄奘の弟子となる。玄奘のもとで多くの翻訳に従事し、経論疏を撰述して中国法相宗を立てた。著書には「法華玄賛」(妙法蓮華経玄賛)十巻、「大乗法苑義林章」七巻など数多くあり、百本の疏主・百本の論師と称された。三乗真実・一乗方便の説を立て、法相宗の依経・解深密経を真実の教えとし、方便である法華一乗の教えよりも勝るとしている。
天台山の智者大師
(0538~0597)。智者大師と尊称し、また天台山に住んだので天台大師という。中国南北朝・隋代の人。天台宗の事実上の開祖(数え方により三祖あるいは四祖)。姓は陳氏。諱は智顗。字は徳安。荊州華容(湖南省華容県)の人。父は梁の重臣であったが、梁末の戦乱で流浪の身となった。その後、両親を失い、18歳の時、湘州の果願寺の法緒のもとで出家し、慧曠等から方等・律蔵等を学び、大賢山に入って法華三部経を修学した。陳の天嘉元年(0560)光州の大蘇山に南岳大師慧思を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」(隋天台智者大師別伝)と、その邂逅を喜んだ。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「是真精進。是名真法」の句に至ってついに法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。南岳から付属を受け「最後断種の人となるなかれ」との忠告を得て大蘇山を下り、32歳(あるいは31)の時、陳都金陵の瓦官寺に住んで法華経を講説した。宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。太建7年(0575)天台山(浙江省)に入り、翌年仏隴峰に修禅寺を創建し、華頂峰で頭陀を行じた。至徳3年(0585)に陳主の再三の要請で金陵の光宅寺に入り仁王経等を講じ、禎明元年(0587)法華文句を講説した。開皇11年(0591)隋の晋王であった楊広(のちの煬帝)に菩薩戒を授け、智者大師の号を受けた。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じたが、間もなく晋王広の請いで揚州に下り、ついで天台山に再入し60歳で没した。彼の講説は弟子の章安灌頂によって筆記され、法華三大部などにまとめられた。
講義
この段から、五義を正しくわきまえるならば、法華経こそ第一であり、法華経を弘める人が〝国師〟の資格を有する人であることを述べられるのである。それは、やがて佐渡御流罪の際、日蓮大聖人が主・師・親三徳具備の仏であることを開示されるのであるが、その中の〝師〟の徳の片鱗を明かされたものと拝することができる。
さきに五義の中の教について明かされた段では「小乗・大乗・権経・実経・顕経・密経あり此等を弁(わきま)うべし」と、基準を示されただけであったが、その基準によって結論されるところは、法華経こそ第一であるということである。ただし、ここでは、権実の相対にとどめて、それ以上の本迹・種脱という、真実の意味での顕密にまでは触れられていない。それは、当時、まずこの権実の立て分けさえも人々は知らず、権教を実教の法華経より勝れるとしている邪義を打ち破らなければならなかったからである。
仏典の規範に照らせば、少なくとも権実の次元では法華経こそ第一と立ててしかるべきであるのに、中国でも日本でも、それを無視した邪義を立てている高僧たちの説が風靡していた。いわゆる中国仏教では、涅槃経を第一と立てた法雲・慧観、華厳経を第一と立てた澄観、般若経を第一と立てた吉蔵、深密経を第一と立てた窺基、そして日本では大日経を第一と立てた弘法等である。これらの人々は、華厳、法相、真言等の宗派の祖で、絶対的な権威を認められていたのである。いいかえれば、当時の人々が〝国師〟と仰いでいた高僧達なのである。大聖人は、それを名指しで挙げて、これらの人は〝国師〟ではありえないと弾劾されたのである。これ自体、既存の権威に対する並々ならない改革の叫びであったことを知らなければならない。
のみならず、法華経最第一の正義を唱えた唯一の先駆者として天台智者大師を挙げられ、しかも、この智者大師の、正法誹謗者を阿鼻地獄と責めた言葉を引用されて、邪義に迷っている一国の衆生を諌められている。「国中の諸人……一人に於ても生死を離るる者之れ無く、結句は謗法の者と成り法に依つて阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵よりも多く法に依つて生死を離るる者は爪上の土よりも少し、恐る可し恐る可し」の一節には、邪義を流布せしめた謗法の高僧たちに対する厳しい叱責と、それに迷って苦悩に落ちていく衆生への厳烈な慈愛の雄たけびが拝せられるではないか。
第七章 機を知る
日本国の一切衆生は桓武皇帝より已来四百余年一向に法華経の機なり。例せば霊山八箇年の純円の機為るが如し、天台大師・聖徳太子・鑒真和尚・根本大師・安然和尚・慧心等の記に之有り、是れ機を知れるなり。而るに当世の学者の云く、日本国は一向に称名念仏の機なり等と云云。例せば舎利弗の機に迷うて所化の衆を一闡提と成せしが如し。
現代語訳
日本国の一切衆生は桓武天皇以来四百余年、一向に法華経の機根である。たとえば霊鷲山で八箇年の説法を聞いた衆生が純円の機根であったのと同じである、このことは天台大師・聖徳太子・鑒真和尚・根本大師・安然和尚・慧心僧都等の文書に記されている。これが機を知るということである。ところが今の世の学者がいうには「日本国は一向に称名念仏の機根である」と。たとえば舎利弗が機根に迷い、所化の衆生を一闡提としてしまったようなものである。
語釈
天台大師……慧心等の記に之有り
日本国の一切衆生が一向に法華経の機根であることを明確に断言していた人として六人を挙げられている。①天台大師(0538~0597)の記とは、法華文句巻一上の「後の五百歳、遠く妙道に沾わん」の文をさすと思われる。②聖徳太子(0574~0622)の記は、聖徳太子伝暦巻下の「吾れ死して二百五十年の後に、一の帝皇有て、仏法を崇め尊び、彼の谷の前に於て、此の岡の上に於て並に伽藍を建て、妙典を興隆せん」の文をさすのであろう。③鑒真(鑑真)和尚(0688~0763)は奈良時代の帰化僧で、日本律宗の祖。その記とは、唐大和上東征伝の「昔聞く、南岳恵思禅師遷化の後、倭国の王子に託生し、仏法を興隆して、衆生を済度せりと。又聞く、日本国の長屋王は仏法を崇敬し、千の袈裟を造りて……此を以て思量するに、誠に是仏法興隆有縁の国なり」の文をさすと思われる。④根本大師は伝教大師(0767~0822)のこと。日本天台宗の開祖。根本大師の記とは、守護国界章巻上の「正像稍過ぎ已つて、末法太だ近きに有り。法華一乗の機、今正しく是其の時なり」の文をさすか。⑤安然和尚(0841~没年不詳)は日本天台宗の学匠。その記とは、普通授菩薩戒広釈巻上の「我が日本国は皆大乗を信ず」の文をさすと思われる。⑥慧心(0942~1017)は、日本天台宗の学匠。恵心流の祖。恵心僧都源信のこと。その記とは、一乗要決巻中の「日本一州円機純一なり、朝野遠近同じく一乗に帰し緇素貴賤悉く成仏を期す」の文をさすのであろう。
鑒真和尚
(0688~0763)。奈良時代の渡来僧。日本律宗の祖。唐の揚州(江蘇省)の人。14歳にして出家し、南山律宗の開祖・道宣の弟子道岸にしたがって菩薩戒を受け、章安の孫弟子弘景にしたがって天台並びに律を学んだ。天平勝宝5年(0753)渡来。聖武上皇の帰依を受け、東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に小乗の戒壇を建立した。来日の途上において失明したが、一切経を校し、律本を印行した。
根本大師
(0767~0822)。伝教大師最澄のこと。日本天台宗を開いたのでこう尊称する。
安然和尚
(0841~没年不詳)。比叡山の学匠。伝教大師の同族といわれる。安慧に師事し、また慈覚の弟子となった。後に遍照について顕密二教の法を受けた。晩年、比叡山に五大院を建て、著作に励んだ。元慶元年(0877)、唐に渡ろうとしたが果たさなかった。著書は「教時問答」四巻、「悉曇蔵」八巻など多数ある。
慧心
(0942~1017)。恵心とも書く。日本天台宗恵心流の祖。大和国(奈良県)葛城郡当麻郷に生まれた。父は卜部正親。幼くして出家し天暦4年(0950)比叡山にのぼる。慈慧大師に師事し、天台の教義を学んだ。13歳で得度受戒し、源信と名乗った。権少僧都に任じられた時、横川恵心院に住んで修行したので、恵心僧都・横川僧都と称された。寛和元年(0985)に「往生要集」三巻を完成した。これは浄土教についての我が国初めての著述で、浄土宗の成立に大きな影響を与えた。しかし、晩年に至って「一乗要決」三巻を著し、法華経の一乗思想を強調している。本書は寛弘3年(1006)頃の作で、一切衆生に仏性のあることを明かし、法相宗の五性各別説を破折したものである。
講義
先に第二章で、仏教を弘める人は機根を知らなければならないが、智慧第一の舎利弗ですら機を知ることはできなかったことを挙げられ「機を知らざる凡師は所化の弟子に一向に法華経を教うべし」と示された。本章では、とくに日本国の一切衆生は桓武天皇以来、法華経を信受すべき機根であることを指摘され、それに背いて念仏等を弘めることの非を責められている。
ひるがえってみるに、日本は聖徳太子の昔に正式に仏教を受容して以来、のちに述べられるように、その実義はともかくとして一往、一切経の中では法華経を根本としてきたといえる。「法華義疏」が聖徳太子の著か否かについては歴史的に疑問視されているにせよ、法華経、金光明経、仁王経を鎮護国家の経典と定めて重んじたことは事実である。また、その後、仏教が日本全国に定着した象徴ともいえる聖武天皇の勅願による国分寺においても、僧のための国分寺が金光明経を根本としたのに対し、尼のための国分尼寺は、法華経を根本とし、法華滅罪之寺と称されたのであった。
その後、大陸からの伝来によって、三論・法相・倶舎・成実・律・華厳の六宗が勢力を競い、法華経を根本とする精神は一時失われた。それを破折して法華経第一の正義を確立したのが、平安時代初め、桓武天皇の時代の伝教大師最澄である。本抄で大聖人がとくにこの伝教大師以後を「一向に法華経の機なり」といわれたのは、先に述べたように、他宗を破折したうえで法華経第一の義が樹立されたからであろうと考えられる。
そして、日本国の一切衆生が一向に法華経の機根であることは、仏法に通達していた中国の天台大師、日本の聖徳太子、鑑真和尚、伝教大師(根本大師)、安然、恵心等の人々も明確に断言していたところであると述べられている。
これは宗教の五義の中の「教法流布の先後」の原理とも関連するが、ここに仰せられているように、伝教大師によって南都六宗が破折され、比叡山を根本道場として法華経信仰が確立されたこと、即ち、法華経迹門の仏法が一国に流布したことは歴史的事実である。したがって、その後は。いかなることがあっても、方便権教を弘めることは、この「流布の先後」の原理に背くことになるのである。
このことからも、方便権教である浄土宗を弘めることは、先に仰せのように「金珠を捨てて瓦礫を取る」愚であり、薬を奪って毒を服せしめる極悪であることが明らかである。このことをわきまえて、方便権教の各宗を破折し、実大乗の法華経即ち三大秘法の南無妙法蓮華経を教え弘めていく人が、機を知る人といえるのである。
第八章 時を知る
日本国の当世は如来の滅後二千二百一十余年、後五百歳に当つて妙法蓮華経広宣流布の時刻なり、是れ時を知れるなり。而るに日本国の当世の学者、或は法華経を抛ちて一向に称名念仏を行じ、或は小乗の戒律を教えて叡山の大僧を蔑り、或は教外を立てて法華の正法を軽しむ、此等は時に迷える者か。例せば勝意比丘が喜根菩薩を謗じ、徳光論師が弥勒菩薩を蔑りて阿鼻の大苦を招きしが如し。
現代語訳
日本国の今の世は、如来の滅後二千二百十余年、後の五百歳に当たっており、妙法蓮華経の広宣流布する時刻である。これを時を知るという。ところが日本国の今の世の学者は、あるいは法華経を抛って一向に称名念仏を行じ、あるいは小乗の戒律を教えて、比叡山の大僧をあなどり、あるいは教外別伝の法門を立てて法華の正法を軽んじている。これらは時に迷っている者である。たとえば勝意比丘が喜根菩薩を謗り、徳光論師が弥勒菩薩をあなどって阿鼻地獄の大苦を招いたようなものである。
語釈
勝意比丘が喜根菩薩を謗じ
諸法無行経巻下、大智度論巻六等に説かれる。過去に師子吼鼓音如来の滅後、六万歳の世に喜根菩薩、勝意菩薩の二人の比丘がいた。喜根菩薩は容儀質直にして諸法の実相が清浄であることを説き、勝意比丘は十二頭陀を行じ、四禅と四無色定を得ていた。あるとき、勝意は喜根の弟子と婬欲の相について問答して敗れたことから「喜根は多く衆生を誑わし、邪道の中に著く」と悪口誹謗した。此のことを聞いた喜根は七十余の偈を説いて大衆を解脱させたが、勝意は地獄に堕ちて無量千万歳の苦を受け、彼の教化を受けた比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷もまた地獄に堕ちた。その時の勝意比丘は今の文殊師利菩薩であると説いている。
徳光論師が弥勒菩薩を蔑り
大唐西域記巻四にある。徳光はインドの論師。はじめ大乗を学び、いまだ奥義をきわめないうちに毘婆沙論を読み小乗に転じて数十部の論を作って大乗を破した。さらに仏経についての多年の疑難を除こうとして、天軍羅漢の神通力を借りて覩史多天に上り、慈氏(弥勒)菩薩に会ったが、礼拝しなかった。天軍羅漢がその非礼を責めると、「我は具戒の比丘・出家の弟子であるが、慈氏菩薩は天の福楽を受けてはいるが出家の僧ではない」といった。慈氏菩薩は彼の我慢の心をみて、聞法の器でないと知り疑難に答えなかった。そこで徳光は天軍羅漢に頼み菩薩を礼拝しようとしたが、天軍羅漢は彼の我慢の心を憎んで応対しなかった。そのため徳光は怒り山林に趣いて修行をしたが我慢の心がとれず、道果を証することがなかったと述べている。
講義
「時を知る」という意味で日蓮大聖人がいわれる〝時〟とは、いうまでもなく、大聖人は、いかなる法を弘めるかという立場であられるから、正法・像法・末法の大段の〝時〟であることはいうまでもない。その〝時〟を指示した法華経の文でいえば、薬王品の「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布」等である。
したがって、本抄でも、この法華経の文を前提としてそれを受けた形で「日本国の当世は如来の滅後二千二百一十余年、後五百歳に当つて妙法蓮華経広宣流布の時刻なり」と仰せられているのである。
大聖人が〝時〟を論じ、いまこそ妙法を広宣流布すべき時であると宣言される場合、かならずといってよいぐらい、この法華経の文を前提にしておられる。それは、この文が、釈尊の、明確に〝時〟を指示している文証だからである。
日蓮大聖人の御抄の中で、この〝時〟の問題をもっとも本格的に論じられているのが「撰時抄」であることはいうまでもないが、末法の法本尊を開顕された重書中の重書「観心本尊抄」も、この〝時〟について「如来滅後五五百歳」と明示されている。これも、前掲の薬王品の文を受けての表現であり、法華経に秘された三大秘法の南無妙法蓮華経が出現し弘められるべき時を、確信されていたのである。
我々が一般的に〝時〟というのは、一日の中での〝時〟や、一週間、一か月の中での何日、何曜日、一年の中でのいつの季節、一生の中での何歳の時等々、多種多様である。大聖人が「仏法においては〝時〟が大事である」といわれているからといって、こうした我々の感覚で捉えている〝時〟にあてはめていては、大聖人の御真意は捉えられないであろう。
日蓮大聖人の立場は、末法万年の衆生を救う大法を確立される仏様であられる。したがって、大聖人が御自身の行動について〝時〟をいわれるのは、この大法建立という目的のうえであり、したがって、釈尊が法華経に予言した言葉を裏づけとして、その〝時〟を確認されるのである。大聖人にとっての〝時〟とは、この意味の〝時〟であることを知らなければならない。
本抄で「而るに日本国の当世の学者、或は法華経を抛ちて一向に称名念仏を行じ」云云と仰せのように、念仏・律・禅等の各宗は、後五百歳・末法においては「妙法蓮華経」即ち三大秘法の仏法が広宣流布すべきであるとの釈尊の心に背いているのである。
戒律を修行の中心とする律宗は正法時代にこそ有効であったが、像法時代にはもはや無意味であり、まして末法今時においては百害あって一利もない。念仏の修行は、像法の天台仏法において初心の一段階の修行としては意味をもっていたが、それだけを専ら修することは、像法時代においてさえ認められなかったことである。さらに、教外別伝と称して経典を用いないなどということは、釈尊が入滅されるにあたって、仏なきあとは、自分が説き遺した教えを師とせよと弟子に与えた戒めに基本的に背くものである。
このように、諸宗は正法に真っ向から反しているのであるが、ここでは一往与えた立場で「此等は時に迷える者か」といわれている。しかしながら〝時〟を誤った法を弘めること自体、正法に背く大罪である。故に、過去師子音王仏の昔、喜根菩薩を誹謗した勝意比丘や、弥勒菩薩をバカにしたインドの論師・徳光になぞらえて、これを破折されているのである。
第九章 国を知る
日本国は一向に法華経の国なり、例せば舎衛国の一向に大乗なりしが如し。又天竺には一向に小乗の国・一向に大乗の国・大小兼学の国も之有り、日本国は一向大乗の国なり大乗の中にも法華経の国為る可きなり。瑜伽論・肇公の記・聖徳太子・伝教大師・安然等の記之有り、是れ国を知れる者なり。而るに当世の学者、日本国の衆生に向つて一向に小乗の戒律を授け一向に念仏者等と成すは「譬えば宝器に穢食を入れたるが如し」等云云、宝器の譬・伝教大師の守護章に在り。
現代語訳
日本国は一向に法華経に縁のある国である。たとえば舎衛国が一向に大乗の国であったようなものである。またインドには小乗だけの国、大乗だけの国、大乗と小乗を兼ね学ぶ国もある。日本国は大乗だけの国であり、大乗の中でも法華経の国であるというべきである。瑜伽論・肇公の記・聖徳太子・伝教大師・安然等の記に記している)。以上のことを知る者が国を知る者である。
ところが今の世の学者が日本国の衆生に向かって小乗だけの戒律を授けたり、念仏者等だけにしているのは「たとえば宝の器に穢い食物を入れたようなものである」。この宝器の譬えは、伝教大師の守護国界章にある。
語釈
舎衛国
古代、中インドの国・憍薩羅国(コーサラ Kośala)のこと。居薩羅とも書く。舎衛は梵語シュラーヴァスティー(Śrāvastī)の音写。舎婆提、室羅伐悉底とも書き、憍薩羅国の都であったが、南に同じ名の憍薩羅国(南コーサラ国)があり、これと区別するために、舎衛国と称した。玄奘の大唐西域記巻六では小乗の国に入れている。ここでは(おそらく勝鬘経を根拠に)一向大乗の国とされている。同経で、舎衛国の波斯匿王(プラセーナジット)と末利夫人(マッリカー)の子・勝鬘夫人(シュリーマーラ Śrīmālā)が隣国の阿踰闍国(アヨーデイヤー)の友称王に嫁した。その国では初め小乗を信じていたが、勝鬘が父母から仏徳を称嘆する書を授けられ、阿踰闍国の人々を皆大乗に帰依させたと説かれている。こうしたことから、勝鬘の生国である舎衛国は一向大乗の国であったとされたと思われる。
瑜伽論
安然の菩提心義巻二に「瑜伽云く『東方に小国有り。唯大乗の種姓のみ有り』。法相の古徳、日本となすと判じたまえり」とある。ただし、現行の瑜伽師地論にこの文はない。
肇公の記
中国・東晋の僧肇の法華翻経後記に「仏日西に入り遺光将に東北に及ぶ。玆の典東北に於いて有縁なり」とある文をさす。
聖徳太子・伝教大師・安然等の記
いずれも、本抄の第七章にあるのと同じと考えられるが、伝教大師の記についてはさらに法華秀句の「代を語れば則ち像の終、末の初なり。地を尋ねれば唐の東、羯の西なり。人を原ぬれば則ち五濁の生、闘諍の時なり」の文がある。
譬えば宝器に……
伝教大師の守護国界章巻上の文。維摩詰所説経巻上の「穢食を以て宝器に置くこと無かれ」の文を引用したもの。大乗の機根に小乗を授けるのは、宝器に穢い食物を入れるようなものであるとの意。
講義
日本が、仏教伝来の当初から、法華経を重んじてきたことは、第七章で述べたとおりである。この意味で、第七章の〝機〟と本章の〝国〟とは重なり合っているわけであるが、〝機〟が教法によって発動する衆生の生命の能力であり、依報・正報でいえば〝正報〟であるのに対し、〝国〟は〝依報〟の立場である。ただし、正報である衆生・人間が構成しているのが〝国〟という依報であるから、両者が重なり合うことも、また当然であろう。
日本が仏教受容の初めから、法華経を中心とした背景には、日本に影響を与えた源泉地中国において、天台大師により法華第一の正義が明らかにされていたことが考えられる。日本への仏教伝来は、最初、朝鮮半島の百済を経由したが、聖徳太子は直接、使者を中国本土の隋につかわし、ここから移入した。隋の煬帝は、晋王広といった青年時代から天台大師智顗に傾倒した人で、広は大師から菩薩界の授与を受け、智顗に智者大師の号を贈った。聖徳太子は、このような隋に仏教を求めたのであるから、一念三千法門等の天台仏法の深義が伝わるのは、後の伝教大師最澄の出現を待たなければならなかったにしても、少なくとも法華経を第一とする考え方がすでに伝えられたのは不思議ではない。
ただ、日本が弥勒菩薩説とされる「瑜伽師地論」や、中国・東晋の僧・肇公の記によって、古来、法華経有縁の国と目されてきたということは、不思議という以外にない。しかしながら、法華経有縁の国ということは、法華経のような強力な教法によってでなければ救済しえない衆生の国ということでもある。顕仏未来記や佐渡御書、如説修行抄等で、邪智謗法が強い故に、法華経の折伏による以外にないといわれているのは、このためである。法華経有縁の国といっても、仏法の場合は、絶対的な神がいて特別の恩寵を付すといった〝選民思想〟ではなく、教法と衆生の機との関係によるのである。
この段でも、このように法華経を受持すべき日本の国において小乗の戒律を人々に授けたり、方便権教の念仏を弘めたりするのは、宝器に穢食を入れているようなものであると、厳しく破折を加えられている。
第十一章 死身弘法を説く
法華経の勧持品に後の五百歳・二千余年に当つて法華経の敵人・三類有る可しと記し置きたまえり、当世は後五百歳に当れり。日蓮・仏語の実否を勘(かんが)うるに三類の敵人之有り、之を隠さば法華経の行者に非ず之を顕さば身命定めて喪わんか。法華経第四に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」等と云云、同じく第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」と、又云く「我身命を愛せず但無上道を惜む」と、同第六に云く「自ら身命を惜まず」と云云、涅槃経第九に云く「譬えば王使の善能談論し方便に巧みなる命を他国に奉け寧ろ身命を喪うとも終に王の所説の言教を匿さざるが如し、智者も亦爾なり凡夫の中に於て身命を惜まずして要必大乗方等を宣説すべし」と云云、章安大師釈して云く「寧喪身命不匿教とは身は軽く法は重し身を死して法を弘めよ」等と云云、此等の本文を見れば三類の敵人を顕さずんば法華経の行者に非ず之を顕すは法華経の行者なり。而れども必ず身命を喪わんか、例せば師子尊者・提婆菩薩等の如くならん云云。
二月十日 日 蓮 花 押
現代語訳
法華経の勧持品には、後の五百歳、釈尊滅後二千余年にあたって、法華経の敵人が三種類あるであろう、と書き残されている。当世は後五百歳の時にあたっている。日蓮が仏語(勧持品の文)の実否を勘案してみるのに、三類の敵人がたしかにある。この三類の敵人の存在を隠すならば法華経の行者ではない。三類の敵人の存在を顕すならばかならず身命を喪うであろう。
法華経第四の巻の法師品第十に「しかもこの法華経は如来のおられる現在でさえ、なお怨嫉が多い。まして如来滅度の後においてはなおさらである」等と説かれている。同じく法華経第五の安楽行品第十四に「一切世間に怨む者が多く、法華経を信じがたい」と。また勧持品第十三には「我れ身命を愛せず但無上道を惜しむ」と。同じく第六の巻の寿量品第十六には「自ら身命を惜しまず」と。涅槃経第九には「譬えば王の使で論議がよくできて方便に巧みな者が、王命をうけて他国に赴き、むしろ身命を喪うことになっても、決して王のいった言葉や教えをかくさないのと同じである。智者もまた同じである。智者は凡夫の中において身命を惜しまず、かならず大乗方等を宣説すべきである」と。章安大師はこの文を釈して、「『むしろ身命を喪うともこの教を隠さず』とは、身は軽く法は重い。ゆえに身を死しても法を弘めよ」といわれている。これらの本文を見れば、三類の敵人を顕さなければ法華経の行者ではない。これを顕すのが法華経の行者である。しかしながらそうすれば、かならず身命を喪うことになろう。たとえば師子尊者や提婆菩薩のようになるであろう。
二月十日 日 蓮 花 押
語釈
三類の敵人
釈尊の滅後の悪世に法華経の行者を種々の形で迫害を加える人々。三類の強敵ともいう。法華経勧持品第十三に説かれる。妙楽大師は法華文句記巻八のなかで、勧持品の文から三類に約している。①俗衆増上慢(法華経を弘める者に対して、悪口罵詈等したり刀杖を加える、仏法に無智な在家者)②道門増上慢(邪智で心が曲がり、覚りを得たと錯覚している我慢の心の強い出家者)③僭聖増上慢(山林に住み衣を着て、真実の仏道を行じたと思い込み人を軽蔑し、自らは利益のみにとらわれ、しかも在家に法を説き、世間から敬われ、権力を利用して正法を弘める者を迫害する出家者)の三つ。
章安大師
(0561~0632)。隋末・唐初の天台宗第二祖。第四祖と数える場合もある(①北斉の慧文、②南岳大師慧思、③天台大師智顗、④章安大師灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。姓は吳氏。字は法雲。諱は灌頂。浙江省臨海県章安の人で、7歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師智顗の弟子となり、13年間教えを受け、師の諸説を百余巻に編纂した。天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)は章安の筆記である。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」三十三巻を著わす。唐の貞観6年(0632)8月7日、天台山国清寺で入寂。弟子の智威に法灯を伝えた。
師子尊者
師子比丘ともいう。六世紀ごろの中インドの人。付法蔵第二十四祖で最後の伝灯者。鶴勒夜那について法を学び、付嘱を受けた。付法蔵因縁伝巻六によると、北インドの罽賓国で大いに仏法を弘めたが、国王・弥羅掘は邪見の心が盛んで敬信せず、塔寺を壊し衆僧を殺害した。国王は利剣で師子尊者を斬るが、このとき師子尊者の首からは一滴の鮮血も流れず、白い乳のみが涌き出た。これは、師子尊者が白法を持っていたこと、また成仏したことをあらわすという。首を斬った檀弥羅王の刀と腕は同時に地に落ち、七日後に命を終えたとも伝えられる。なお、摩訶止観巻一では、弥羅掘王を檀弥羅王としている
提婆菩薩
三世紀ごろの南インドの仏法伝灯者で、付法蔵第十四祖。バラモンの出身。迦那提婆ともいわれる。提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。大自在天の請いによって一眼を供養したため片眼となったとも、一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹菩薩の弟子となり、各国を遊化した。南インドで外道の論師を徹底的に破折したとき、凶悪な外道の弟子が怨んで提婆を殺害した。しかし提婆はかえってその狂愚をあわれみ、外道の救済を弟子に命じて死んだ。
講義
前章までに、法華経が一切経中の最勝の「教」であること、その法華経を信受する「機」が日本国の衆生であること、今、末法は法華経流布の「時」にあたること、日本国は一向に法華経の「国」であること、また流布の先後からも、法華経を流布すべきことを述べられ、宗教の五義のうえからの当然の帰結として、法華経をこそ広宣流布すべき必然性が説き明かされた。
本章は、後五百歳に法華経を弘めるならば、かならず三類の強敵を顕すことになり、そのために身命にかかわる大難を受けることは必定であると示され、しかし、たとい身命を失おうとも末法真実の法華経の行者として、法華経を身読し弘宣していくとの御決意を法華経・涅槃経・同経疏を用いて披瀝されたところである。
日蓮・仏語の実否を勘うるに三類の敵人之有り、之を隠さば法華経の行者に非ず之を顕さば身命定めて喪わんか
大聖人の並々ならぬ決意が拝される御文である。「仏語の実否を勘うるに三類の敵人之有り」とは、先に挙げた勧持品の文のとおりに、末法に法華経を弘通するならばかならず三類の敵人が現れることである。
そこで、この文を色読するか否かが問題である。もしも、正像二時の法華経修行のように、山林や閑静な処で自身だけの修行に励むのであれば、三類の敵人は顕れない。しかし、それでは、末法に法華経を色読したことにはならず、結果として三類の敵人を隠すことになる。そうであれば、末法の法華経の行者ではないのである。もし、三類の敵人を顕せば、身命を失うことになろう。
事実、大聖人は、当時すでに伊豆流罪という迫害にあわれていたのである。それでは、なぜ色読するか否かという、すでに選択済みの問題を取り上げられたのであろうか。それは、御自身が法華経の行者として死身弘法の精神に立たれて現実に振舞われていることを確認するとともに、今後、三類の敵人が現れ、命に及ぶほどの危難を加えられようとも、法華経の弘通をまっとうするとの御決意をあらわされるためであったと拝察するのである。
加えて、御文の次下の法華経法師品、同安楽行品、勧持品、寿量品の文、それに涅槃経、同経疏の文を挙げておられるが、それらの文は、末法にさまざまな形の迫害や怨嫉があること、そうした迫害等を恐れずに、身命を愛惜することなく、身命を捨てる覚悟で弘法すべきことを説いている。日蓮大聖人がそれらの経文を挙げられたのは、それらの経文を色読することが、法華経の真の行者であることを、ことさら確認されるためであったろうと拝される。
なお、「身命を愛せず但無上道を惜しむ」の文については、日寛上人が「即ちこれ宗門の菩提心なり。蓮祖既に爾なり。末弟如何ぞこの願を立てざる。励むべし励むべし」と仰せである。日蓮大聖人の御精神を受けつぐ信仰者として、たとい自己の生命にかえても、一切衆生救済のために、無上道即三大秘法の大仏法を惜しみ、弘めることこそ、生涯変わらぬ、また未来永久に伝えるべき大精神であることを胸に刻んでいきたいものである。