九郎太郎殿御返事(題目仏種の事)第一章

九郎太郎殿御返事(題目仏種の事)第一章(身延の御生活の窮状を延べる)

 弘安元年(ʼ78)11月1日* 九郎太郎〈南条殿の縁者〉

これにつけても・こうえのどのの事こそをもひいでられ候へ。

  いも一駄.くり・やきごめ・はじかみ給び候いぬさてはふかき山にはいもつくる人もなし.くりもならず・はじかみもをひず・ましてやきごめみへ候はず、たとえくりなりたりともさるのこずへからす、いえのいもはつくる人なし・たとえつくりたりとも・人にくみてたび候はず、いかにしてか・かかるたかき山へは・きたり候べき。

現代語訳

この御供養につけても、故上野殿のことが思い出されてならない。

芋一駄、栗、焼米、ショウガを頂戴した。

こうした深い山中には芋を作る人はいない。栗もならない。ショウガも生えない。まして焼米は見ることもできない。たとえ栗がなったとしても、猿が梢を枯らしてしまう。里芋は作る人がいない。たとえ作ったとしても、人は憎んで、くれようとしない。どうしてこのような高い山の中に来なければならなかったのであろうか。

語句の解説

こうえのどの

(~1265)。南条兵衛七郎入道行増のこと。日蓮大聖人御在世当時の信徒で、南条時光の父。幕府の御家人で氏は平氏。伊豆国田方郡南条(静岡県伊豆市国市)を本領としたので南条殿といった。後に駿河国富士郡上方庄上野郷(静岡県富士宮市)の地頭となったので上野殿と呼ばれる。文永2年(1265)に死去した。

 

やきごめ

保存用の食糧で、米の加工品。新米を籾のまま焙って、殻を取り去ったもの。炒米ともいう。

講義

本抄は南条家一門の九郎太郎に与えられた御手紙である。九郎太郎が南条家の一門であるとわかるのは、本抄の追申(冒頭部に掲げられているが、追申である)に「これにつけても・こうえのどのの事こそをもひいでられ候へ」と仰せになっているゆえである。また、文中にも「故上野殿信じ給いしによりて仏に成らせ給いぬ、各各は其の末にて此の御志をとげ給うか」と仰せになっているところからも、南条兵衛七郎の近親にあたることがわかる。堀日亨上人は南条時光全伝で「一つには故上野殿として別して兵衛七郎の追懐が述べられてあるから近親と云ふ事がわかる。九郎の文字から考ふると七郎の弟の子ではなかったか、時光の従弟に当る人ではなかったかと思ふ」と述べられている。

九郎太郎に与えられた御手紙は、このほかに一通あるのみで、詳しいことはわからないが、両方の御手紙を拝するかぎりでは、素直な信心をしていた人であったようである。

本抄を著されたのは大聖人聖寿57歳の弘安元年(1278)11月1日、身延においてである。南条九郎太郎が芋、栗、焼米、生姜を御供養したことに対する返礼の書であり、供養の意義をとおして九郎太郎の信心をほめ、一層の強盛な信心を貫くよう励まされている。本抄の御真筆の一部が身延に存している。

最初の一行は、すでに述べたとおり追申である。手紙を書かれた後に、冒頭の余白部分に追申をしたためられたのである。九郎太郎が素直な信心を貫き、御供養の誠を示して、立派に兵衛七郎の遺志を継いでいる姿を見るにつけ、兵衛七郎のことが思い出されるとの意である。

本文に入って、まず供養の品々をたしかに受領した旨を記された後、それらは身延の山中では見られない物であると仰せになっている。そのなかで「いえのいもはつくる人なし・たとえつくりたりとも・人にくみてたび候はず」の御文に、身延の山中でも人々の偏見は及んでいたことが拝される。自然環境の厳しさに加え、数少ない住人からも、白い目で見られる生活は、どれほど過酷であったろうか。「いかにしてか・かかるたかき山へは・きたり候べき」との御文は、それを物語って余りある。そのような不便な所に住まわれている大聖人に御供養の誠をささげた、その信心が尊いのである。

タイトルとURLをコピーしました