九郎太郎殿御返事(題目仏種の事)第三章(供養の功徳の大なるを明かす)
弘安元年(ʼ78)11月1日* 九郎太郎〈南条殿の縁者〉
此れを申せば人はそねみて用ひざりしを故上野殿信じ給いしによりて仏に成らせ給いぬ、各各は某の末にて此の御志をとげ給うか、竜馬につきぬる・だには千里をとぶ、松にかかれる・つたは千尋をよづと申すは是か、各各主の御心なり、つちのもちゐを仏に供養せし人は王となりき、法華経は仏にまさらせ給う法なれば供養せさせ給いて、いかでか今生にも利生にあづかり後生にも仏にならせ給はざるべき、その上みひんにして・げにんなし、山河わづらひあり、たとひ心ざしありとも・あらはしがたきに・いまいろをあらわさせ給うにしりぬ、をぼろげならぬ事なり、さだめて法華経の十羅刹まほらせ給いぬらんと・たのもしくこそ候へ、事つくしがたし、恐恐謹言。
弘安元年十一月一日 日 蓮 花 押
九郎太郎殿御返事
現代語訳
このことをいえば、人は妬んで用いなかったのを、故上野殿は信じられたことによって仏に成られたのである。あなたがたは、その一族であって、この御志を果たされるであろう。竜馬にとりついた蜱は千里を飛び、松に懸った蘿は千尋を攀じ登るというのはこのことであろう。あなたがたは、故上野殿と同心である。
土の餅を供養した人は王となった。法華経は仏より勝れた法であるから、この法華経に供養された人が、どうして今生でも利益を蒙り、後生に仏になれぬはずがあろうか。そのうえ、貧しい身であるから下人もいない。山河を越えるには苦労が多い。たとえ志はあっても、行為にあらわすことは難しい。しかしながら、今、貴殿が志をあらわされたのを見ても、その信心がなみなみでないことがわかる。必ず法華経の十羅刹女が守られるであろうと頼もしく思っている。申し上げたいことは多くあるが、尽くし難いのでこれで止めておく。恐恐謹言。
弘安元年十一月一日 日 蓮 花 押
九郎太郎殿御返事
語句の解説
竜馬
非常に勝れた駿足の馬のこと。駿馬。史記には「蒼蠅驥尾に付して千里を致す」とある。
利生
利益衆生の意で、衆生を利益すること。
後生
三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
十羅刹
羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
講義
このように、末法の時代にあっては南無妙法蓮華経よりほかには成仏の法はないことを大聖人は主張され、そのために怨嫉を受けられたのである。
故南条兵衛七郎は、そのなかで妙法を受持し、その功徳によって成仏の相を示したのであった。本抄をいただいた九郎太郎や、その従兄弟にあたる時光は、兵衛七郎の志を受け継いで信心に励んでいるわけであるが、まだ九郎太郎や時光は若く、信心の年数も十分ではない。しかし、竜馬につく蜱が自身では力がなくとも長い距離を飛べるように、また松にかかる蘿が高く登れるように、法華経を信ずる心を純粋にたもてば、兵衛七郎と同じく成仏への道を歩むことができるとの仰せである。
人間の偉大さは、受持する法によって決まるのであり、九郎太郎や時光はいまだ未熟であっても、妙法への純粋な信心を貫くならば、成仏という至高の目標を成就することができるのである。「各各主の御心なり」とは、兵衛七郎と同じ信心であるとほめたたえておられるのである。
土の餅を釈尊に供養した徳勝童子でさえ阿育大王となることができたのである。ましてや釈尊よりはるかに勝る法華経に供養した九郎太郎が、現世の安穏、後生の成仏という大功徳を受けないわけがあろうかと仰せである。「供養する有らん者は福十号に過ぐ」と天台大師も法華文句に述べているように、法勝人劣で人への供養より法への供養が勝るのである。
まして、ここでの法華経は文底独一本門の南無妙法蓮華経であり、迹仏である釈尊への供養にはるかに勝ることはいうまでもない。
「みひんにして・げにんなし」と仰せになっているように、九郎太郎はあまり裕福でなかったようである。もう一通の「九郎太郎殿御返事」を拝すると、つまらない物ですがといって御供養した九郎太郎に対して、このように貴重な物をどうして卑下される必要があろうかと仰せになっている。苦しいなかで御供養した九郎太郎の真心をほめたたえられる大聖人の御慈悲が拝される。
下人もいないのであるから、身延の地に御供養を届けるのさえ、たやすくない。「山河わづらひあり」なのである。信心の志があってもあらわすことが難しいのに、こうして供養したのであるから、その尊さは並大抵ではないと称賛され、九郎太郎に諸天の加護があることは疑いないと仰せになって本抄を結ばれている。