すずの御供養、送り給び候い了わんぬ。
大風の草をなびかし、いかずちの人をおどろかすように候よの中に、いかにいままで御しんようの候いけるふしぎさよ。「ねふかければはかれず、いずみに玉あれば水たえず」と申すように、御信心のねのふかく、いさぎよき玉の心のうちにわたらせ給うか。とうとし、とうとし。恐々謹言。
六月二十七日 日蓮 花押
くぼの尼御前御返事
現代語訳
種々の御供養をいただきました。大風が草をなびかし、雷が人を驚かすような世の中にあって、今まで日蓮を御信用されたことは不思議なことです。根が深ければ葉は枯れず、泉に玉があれば水が絶えないというように、心中にいさぎよい玉が輝いているからでしょう。まことに尊いことです。恐恐。
六月二十七日 日蓮 花 押
くぼの尼御前御返事
講義
本抄は弘安元年(1278)6月27日、駿河国富士郡賀島の高橋六郎兵衛入道の御家尼と思われる窪尼に与えられた手紙である。御真筆は存していないが、日興上人の写本は大石寺にある。短い手紙ではあるが、窪尼御前のいかなる状況にも変わらない信心と、大聖人が門下にかけられている心の温かさの拝される御抄である。
具体的に品名は記されていないが、種々の御供養を受領した旨を記され、尼の信心をたたえられている。「大風の草をなびかし・いかづちの人ををどろかすやうに候、よの中」の御文は、大聖人門下を迫害する世間の動向をこのように表現されたものであろう。すなわち、大風が草をなびかすように、また雷が人を驚かすように、世間は大聖人門下の人々を権力や暴力で脅迫し、威嚇しているが、そのような世の中にあっても、今まで変わることなく清い信心を貫いてきたことをほめたたえているものと拝される。その信心を「ふしぎ」と仰せにっいるのは、まことに稀であると仰せであろう。
草の根が深く堅固であれば、葉は枯れることはない。また泉に玉があれば、水が絶えることもない。信心も同じであり、いくら風が草をなびかせようとしても、またその風が強かったとしても、信心の根が深く張っているならば、倒れることもなく、瑞々しい葉を茂らせることができるのである。また心の中に信心の玉が輝いていれば、滾々と功徳の水が湧き出るのである。
ここに「御信心のねふかく」と仰せられ、また「いさぎよい玉」と仰せられているところに心をとどめたい。いかなる難や苦境にあおうとも微動だにしない信心であることが信心の根が深いということである。また「いさぎよき」とは、清らかで濁りのないということと拝せよう。
弘安元年(1278)といえば、窪尼のいた駿河国富士地方は日興上人の教化によって折伏が進み、それにともなって熱原を中心に法難の嵐が現れ始めていた時である。女性の身でそうしたなかで信心に励んでいくということは、よほど決定した信念がなければかなわないことである。尼は大聖人が本抄で讃えられているとおりの信心を貫き、大聖人滅後も妙法信仰者としての生涯を全うするのである。