窪尼御前御返事(孝養善根の事)第三章(姫御前の将来を嘱望する)

窪尼御前御返事(孝養善根の事)第三章(姫御前の将来を嘱望する)

 弘安2年(ʼ79)5月4日 58歳 窪尼

—————————————(第二章から続く)——————————————-

されば故入道殿も仏にならせ給うべし、又一人をはする.ひめ御前も・いのちもながく.さひわひもありて・さる人の・むすめなりと・きこえさせ給うべし、当時もおさなけれども母をかけてすごす女人なれば父の後世をもたすくべし。

  から国にせいしと申せし女人は・わかなを山につみて・をひたるはわをやしなひき、天あはれみて越王と申す大王のかりせさせ給いしが・みつけてきさきとなりにき、これも又かくのごとし・をやを・やしなふ女人なれば天もまほらせ給うらん仏もあはれみ候らん、一切の善根の中に孝養父母は第一にて候なれば・まして法華経にてをはす、金のうつわものに・きよき水を入れたるがごとく・すこしももるべからず候、めでたし・めでたし、恐恐謹言。

       五月四日                      日 蓮 花 押

     くぼの尼御前御返事

   このなかの御くやうのものは・ところところ略して法門を書写し畢んぬ。

 

現代語訳

それゆえ、故入道殿も成仏されるでしょうし、また、一人おられる姫御前は寿命も長く、幸福で、さすがあの人の娘よと、評判されるでしょう。姫御前は今も幼いのに母御前に孝養を尽くされるほどの女人ですから、故入道殿の後世をも助けられるでしょう。

中国の西施という女人は、若菜を山から摘んできては老いた母を養っておりました。天が哀れんで越王という大王が狩りに来たとき、見いだされて后になりました。姫御前もまた、このように親を養う女人ですから、諸天も護り、仏も憐れまれるでしょう。

一切の善根のなかで父母に孝養を尽くすことが第一であり、まして、法華経を信仰しておられるのですから、金の器に清き水を入れたように、少しも漏れることがありません。めでたいことです、めでたいことです。恐恐謹言。

五月四日              日 蓮  花 押

くぼの尼御前御返事

このなかの御くやうのものは・ところところ略して法門を書写し畢んぬ。

 

語句の解説

せいし

生没年不詳。中国春秋時代の越の国の美女。薪売りの娘で越王勾践に見いだされた。越が呉と戦って敗れると、勾践は西施を呉王夫差に献上した。夫差は西施の容色に溺れ、政を怠るようになり、その隙をついて越は呉を滅ぼしたと伝えられる。

 

越王

勾践のこと。(~ 紀元前0465)は、中国春秋時代後期の越の王。范蠡の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉を滅ぼした。春秋五覇の一人に数えられることもある。句践とも表記される。越王允常の子で、楚の恵王の外祖父にあたる。

 

善根

善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高の善根である。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383:14)とある。

 

講義

その窪尼御前の御供養の功徳によって、故入道の成仏は間違いないと、まず仰せられている。徳勝童子が阿育大王と生まれる果報を得たといっても、世間の果報であり、仏道を成就する果報に比べれば、はるかに劣るのである。まして人を成仏させることはできない。それに比べ、尼は功徳の第一として、まず亡き夫・高橋六郎兵衛入道を仏法の回向の原理により成仏させることができると仰せである。さらに尼の娘にもその功徳が及ぶと教えられている。

高橋六郎兵衛入道の娘については、ここに述べられている以外の詳しいことは分からない。「当時もおさなけれども」との仰せから拝すれば、まだ年齢のいかない娘であったようである。「いのちもながく」との仰せは、尼の、親としての最大の願いは、子が健康で長生きし、幸せになってほしいということであろう。そうした願いが、必ずやかなえられていくと励まされているのである。のみならず、必ずや親の名を高めるほどの素晴らしい娘に成長するにちがいないと仰せになっている。

親として最大の喜びは、子供が立派に成長することである。妻としての願いは夫に幸福になってほしいことである。大聖人は、亡き夫・高橋入道の成仏と娘の成長とがかなうことを仰せられ、尼の二つの願いが成就すると激励されているのである。娘も幼いながら、母の面倒をよくみ、父の成仏を願う孝行な娘であったことが「おさなけれども母をかけてすごす女人なれば父の後世をもたすくべし」との仰せから酌み取れる。

次に大聖人は、唐の西施という女性を孝行の例として挙げられている。西施は呉の国を滅ぼした女性として他の御書にも挙げられているが、ここでは親を養う孝子として引かれている。

西施は中国・春秋時代、越の諸曁(浙江省)の苧蘿山にいた女性である。薪を売って生活していたと伝えられており、本抄に「わかなを山につみて・をひたるはわをやしなひき」と仰せになっているような状況だったのであろう。この西施を見いだしたのは呉王・夫差に敗れた越王・勾践である。その美しさを利用して呉への報復を計画し、西施に諸芸を教え、呉王・夫差に献上した。計略どおり夫差は西施の色香におぼれて政治を怠り、ついに越に攻められて滅んだ。文字どおり西施は傾国の美女であった。本抄に仰せのごとく西施が越王の后となったという史実は不明だが、国を動かす存在にまでなったことは事実である。

今、窪尼の娘は親に孝行を尽くし、妙法の信仰に励んでいるのであるから「天もまほらせ給うらん仏もあはれみ候らん」と、西施とは比べものにならない福徳を得ることは疑いないと仰せられている。

西施は華やかに脚光を浴びたことはあったが、後には殺されて揚子江に沈められたともいわれる。いずれにしても幸福な生涯ではなかったようである。それに比し、窪尼の娘は諸天の加護、仏の慈悲に包まれ、福徳に満ちた生涯を送ることは疑いないのである。

父母への孝養は世間においても尊いこととして賛嘆されるが、仏法においても四恩の第一に父母の恩を挙げており、その父母に孝養の誠を尽くすことは子として尊い行為である。まして窪尼の娘は法華経によって孝養を尽くしているのであるから、これ以上の尊い行為はない。

「金のうつわものに・きよき水を入れたるがごとく・すこしももるべからず候」と仰せられ、孝養の福徳の水は、妙法を信ずる生命の金の器に満々と湛(たた)えられ、絶対に漏れることはないことを教え、娘の信心をたたえられている。

なお末文に「このなかの御くやうのものは・ところところ略して法門を書写し畢んぬ」との御文は、日蓮大聖人の仰せではなく、日興上人が大聖人の御真筆を書写された際の注であろう。御供養の品々は大聖人の御真筆では、その名が目録どおりにきちんと記されていたのを、日興上人は略して書かれ、法門の書写に重きを置いたとの意と推察される。

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