御供養の物、数のままにたしかに給び候。当時は五月の比おいにて、民のいとまなし。その上、宮の造営にて候なり。かかる暇なき時、山中の有り様思いやらせ給いて送りたびて候こと、御志殊にふかし。
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現代語訳
御供養の物、数のままに確かにいただきました。今は五月の頃で、民も農作業に忙しく、そのうえ大宮浅間神社の造営も行われており、このような多繁な折に、身延の山中の有り様を思いやられ、御供養の品々をお送りくださったその御志は、まことに深いものがあります。
語句の解説
宮の造営
富士浅間神社の造営のことであろう。吾妻鏡によれば、貞応2年(1223)6月20日の条に「今日、駿河国富士浅間宮造替遷宮の儀なり」とある。
講義
本抄は弘安2年(1279)5月4日、駿河国富士郡賀島(静岡県富士市)の高橋六郎兵衛入道の後家尼と思われる窪尼御前に与えられた御手紙である。御真筆は山梨県の妙了寺に断片が存するのみで、大部分は現存してない。しかし、日興上人の写本が大石寺に存している。御真筆の年時については弘安2年(1279)とされているが、他に建治2年(1276)との説もある。
最初に御供養の品を確かに受領した旨を記されている。「数のままに」との仰せから拝すると、窪尼が御供養を目録とともにお届けしたのであろう。その目録に記されてあるとおり確かに受け取ったと仰せられているのである。使いをもってお届けしたか、だれか身延の地に赴く人がいてその人に託したかであろうが、物情騒然たる状況であったから、確かに御供養が届いたかどうか尼も心配しているであろうとの大聖人の御心配りからの御言葉であろうと拝する。
尼が御供養した旧暦の5月は、今でいえば6月であるから、農家にとっては農作業が最も繁忙を極める時期である。しかも「宮の造営」があった。この「宮」とは、富士浅間神社のことである。この造営については、宝軽法重事に「当時はくわんのうと申し大宮づくりと申しかたがた民のいとまなし」(1476:01)との御文があり、宝軽法重事と同じ弘安2年(1279)とされるのである。
いずれにしても、浅間神社の造営といえば、それが修築のようなものであったとしても、大きな負担であったことは疑いない。とくに田植え時と重なった5月であれば、多繁極まりない時期であったろう。その5月に御供養申し上げたのであるから、大聖人は尼の信心をほめたたえられているのである。