光日上人御返事 第四章(母子一体を説き光日房を激励)

光日上人御返事 第四章(母子一体を説き光日房を激励)

 弘安4年(ʼ81)8月8日 60歳 光日尼

而るに光日尼御前はいかなる宿習にて法華経をば御信用ありけるぞ、又故弥四郎殿が信じて候しかば子の勧めか此の功徳空しからざれば子と倶に霊山浄土へ参り合せ給わん事疑いなかるべし、烏竜と云いし者は法華経を謗じて地獄に堕ちたりしかども其の子に遺竜と云いし者・法華経を書きて供養せしかば親・仏に成りぬ、又妙荘厳王は悪王なりしかども御子の浄蔵・浄眼に導かれて娑羅樹王仏と成らせ給う、其の故は子の肉は母の肉・母の骨は子の骨なり、松栄れば柏悦ぶ芝かるれば蘭なく情無き草木すら友の喜び友の歎き一つなり、何に況や親と子との契り胎内に宿して九月を経て生み落し数年まで養ひき、彼にになはれ彼にとぶらはれんと思いしに彼をとぶらふうらめしさ、後如何があらんと思うこころぐるしさ・いかにせん・いかにせん、子を思う金鳥は火の中に入りにき、子を思いし貧女は恒河に沈みき、彼の金鳥は今の弥勒菩薩なり彼の河に沈みし女人は大梵天王と生まれ給えり、何に況や今の光日上人は子を思うあまりに法華経の行者と成り給ふ、母と子と倶に霊山浄土へ参り給うべし、其の時御対面いかにうれしかるべき・いかにうれしかるべき、恐恐。

       八月八日                        日蓮花押

     光日上人御返事

 

 

現代語訳

しかしながら光日尼御前はいかなる宿習によって法華経を信ずるようになったのであろうか。また亡くなった弥四郎殿が法華経を信じていたので、その子の勧めによってであろうか。法華経を信じた功徳はないわけがないのであるから、子の弥四郎殿と共に霊山浄土に参って会うことは疑いないことである。烏竜という者は法華経を誹謗して地獄に堕ちたけれども、その子の遺竜が法華経を書写して供養したので、親の烏竜は成仏したのである。また妙荘厳王は邪見の王であったが、その子浄蔵と浄眼に導かれて、娑羅樹王仏と成ったのである。その理由は子の肉体は母の肉体より生じたもので同じであり、母の骨は子の骨と同じで親子は一体のゆえである。松が栄えれば柏は悦ぶ、芝が枯れれば蘭はなくといわれる。非情の草木ですら友の喜び、友の歎きは一体なのである。ましてや親と子との宿縁はそれ以上ではないか。母は胎内に子を宿して九か月を経て出産し数年の間養育してきた。老後はその子に荷われ、死後も追善を営んでもらえるだろうと思っていたのに、逆に子の弥四郎を弔うこの悲しさ、わが子は今どうしているだろうかと思う心の苦しさは一体どうしたらよかろうか。子を思う金鳥は子を助けるために火の中に入って一命を捨てた。子を思う貧女は最後まで子を守ってガンジス河に沈んだ。だが彼の金鳥は今の弥勒菩薩であり、ガンジス河に沈んだ貧女は大梵天王と生まれたのである。ましてや今の光日上人はわが子を思うあまり法華経の行者となったのである。よって必ず母と子が共に霊山浄土に参ることができよう。そのときの対面はどんなにか嬉しいことであろう。どんなに嬉しいことであろう。恐恐。

八月八日             日 蓮  花 押

光日上人御返事

 

語句の解説

烏竜・遺竜

中国・并州(山西省)の人。姓は李氏。烏竜と遺竜の話の原典は僧祥撰の法華伝記巻八・書写救苦第十の二・李遺竜六である。御書のなかでは「法蓮抄」に詳しく、また「光日上人御返事」にも引用される。

 

妙荘厳王

法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている雲雷音宿王華智仏の時代の王。国を光明荘厳といい、劫を憙見という。はじめバラモンを信じていたが、のち、夫人と二人の子に導かれて出家し、常に精進して法華経を修業した。その功徳によって娑羅樹王仏の記別を受けた。「三聖をやしなひて」とは、妙荘厳王が過去世において、3人の比丘を供養し、その修行を助けた。その功徳によって後の世に妙荘厳王となり、3人の比丘は、そてぞれ王の妃と2人の子供になったことをいう。

 

浄蔵・浄眼

法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている。過去の雲雷音宿王華智仏の時代に光明荘厳という国があり、その時の王を妙荘厳王、その夫人を浄徳、二人の子供を浄蔵・浄眼という。この二子は、仏の教えを信じ、無量の功徳を得て、母の浄徳夫人と共に出家して、仏のもとで修行した。その後、外道を信じていた父を化導するため、父の前でいろいろな神通力を現じてみせ、ついに仏の教えに帰依させることができた。この二人の姿こそ、真の親孝行であり、大善を意味する。さらに、その因縁をたずねると、むかし仏道を求める四人の道士がいた。生活を送るのに煩いが多く、修行の妨げとなるので、一人が衣食の方を受けもち、他の三人は仏道修行に励んで得道したという。陰で給仕した者がその功徳によって国王と生まれ、他の三人は、その夫人と、二人の王子に生まれて、王を救うことを誓った。これが浄徳夫人であり、浄蔵・浄眼の二人の子供で、三人で妙荘厳王に仏道を得さしめ、過去世の恩を返したのであった。

 

娑羅樹王仏

妙荘厳王が法華経を修行し、仏から受けた成仏の記莂。

 

松栄れば柏悦ぶ芝かるれば蘭なく

友情のあたたかさを樹木にたとえて示している。君臣のたとえにも使う。文選・陸士衡の歎逝賦に「松の茂りて柏の悦ぶことを信じ、芝の焚かれて蒐の歎くことを嗟く。翰が曰く、茂蒐は香草なり。言ふこころは親友既に逝す、其情聊きことなし」と。蒐とは蘭のことをいう。

 

子を思う金鳥

親の子を思う気持ちをあらわした故事。金鳥は雉のこと。発心集十三に「雉の子を生みて温むる時、野火にあひぬれば、一度は驚きて立ちぬれど、猶棄て難さの余りにや、煙の中に帰り入りて、終に焼け死ぬるにためし多かりしとぞ」と。雉は火のために巣を焼かれるとき、いったんは驚いて飛び出すが、子を思ってまたも火中に入り、子とともに焼死するといわれ、鳥のなかで母性愛の象徴とされている。

 

子を思いしは恒河に沈みき

涅槃経に子を思う母の姿を説かれている。「開目抄」(0233:06)に「譬えば貧女の如し居家救護の者有ること無く加うるに復病苦飢渇に逼められて遊行乞丐す、他の客舎に止り一子を寄生す是の客舎の主駈逐して去らしむ、其の産して未だ久しからず是の児を擕抱して他国に至らんと欲し、其の中路に於て悪風雨に遇て寒苦並び至り多く蚊虻蜂螫毒虫の唼い食う所となる、恒河に逕由し児を抱いて渡る其の水漂疾なれども而も放ち捨てず是に於て母子遂に共倶に没しぬ、是くの如き女人慈念の功徳命終の後梵天に生ず」とある。以下、釈を加えると次のようである。たとえば一人の貧女があり、おるべき家もなく、救護してくれる人もなく、その上に病苦と飢渇にせめられてさまよい乞食して歩いた。その時ある宿に止まり、子供を生んだ。ところがその宿の主人はこの貧女を追い出してしまった。いまだ産して日も経たないのに、赤児を抱いて他国へ行こうと欲したが、その中途で悪風雨にあい、寒さと苦しみに襲われ、多くの蚊や虻や蜂や螫等にすい食われるありさまであった。このような苦難のおりに大河にさしかかり子供を抱いて渡ろうとした。その水は急流であったが、しかも子供を放ち捨てることなく、ついに母子ともに没しておぼれ死んでしまった。このような女人は子供を愛する慈悲の心の功徳によって死んでのちは梵天に生じたのである。

 

弥勒菩薩

慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。

 

講義

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