祈禱抄

祈禱抄

 文永9年(ʼ72) 51歳

  1. 第一章 (真の祈りは法華経によるを明かす)
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
      1. 「本朝沙門 日蓮撰」について
      2. 問うて云く華厳宗……必ず祈となるべし
  2. 第二章 二乗の法華行者守護の理由を明かす
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 問うて云く其の所以は如何……不求自得等」云々
      2. されば一切の二乗……行ぜん人をば捨つべきや
  3. 第三章 (仏が法華行者を守る理由を明かす)
    1.  本文   
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 又一切の菩薩並に凡夫……供養すべしと説せ給へり
      2. 仏此の法華経をさとり……祈とならせ給はざるべき
  4. 第四章 (菩薩・諸天の守護必定なるを明かす)
    1.  本文   
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 一切の菩薩は又始め……会上の諸尊なり
      2. 仏・法華経をとかせ……たのもしき事なり
      3. されば法華経の行者……色をうかぶるがごとし
  5. 第五章 (竜女の法華経深恩と守護を明かす)
    1.  本文   
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 而るに霊山会上にして……三千大千世界にかふる珠なり
  6. 第六章 (提婆達多の守護すべき理由を明かす)
    1.  本文   
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  7. 第七章 (重ねて菩薩の守護すべき理由を示す)
    1.  本文   
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 諸の大地微塵の如くなる諸菩薩……誓ひ給いしか
      2. 其の上慈父の釈迦仏……疑うべからず
  8. 第八章 (行者の祈りの叶うを示し信心を勧む)
    1.  本文   
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 仏は人天の主・一切衆生の……返らせ給ひぬ
      2. やうやう心ぼそくなりし程に……おぼすらめ
      3. いかに申す事は・をそき……祈りのかなはざるべき
  9. 第九章 (天台・真言による祈祷の悪現証示す)
    1.  本文   
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 問うて云く上にかかせ給ふ道理・文証……いかんとをぼう
      2. それは・さてをきぬ・御房は……思食しけん
      3. 秘法四十一人の行者・承久三年……成り給いぬるなり
  10. 第十章 (真言の邪教たる理由を明かす)
    1.  本文   
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 問うて云く、真言の教を強ちに邪教と……不祥を起さざるべきや
      2. 又云く「震旦の人師等諍って……申す計りなり
      3. 疑て云く大日経は大日如来……御祈祷叶ふべきや
  11. 第十一章 (正法による祈禱を勧め慈覚を破す)
    1.  本文   
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 又慈覚大師・御入唐以後……思惟あるべきか

第一章 (真の祈りは法華経によるを明かす)

    本朝沙門日蓮撰す。
 問うて云わく、華厳宗・法相宗・三論宗・小乗の三宗・真言宗・天台宗の祈りをなさんに、いずれかしるしあるべきや。
 答えて云わく、仏説なれば、いずれも一往は祈りとなるべし。ただし、法華経をもっていのらん祈りは必ず祈りとなるべし。

現代語訳

本朝沙門  日 蓮 撰

問う。華厳宗・法相宗・三論宗、小乗の三宗、真言宗・天台宗によって祈るのに、いずれか霊験があるであろうか。

答う。仏説であるので、いずれも一往は祈りとなるが、ただ法華経をもってする祈りは必ず祈りとなるのである。

語釈

華厳宗

華厳経に基づく学派。中国・唐の初めに杜順が一宗を開いたとされ、弟子の智儼が継承し、法蔵が大成した。日本では740年、審祥が初めて華厳経を講じ、日本華厳宗を開いたとされる。第2祖の良弁は聖武天皇の帰依を得て、東大寺を建立し別当になった。華厳の思想は時代や地域によって変容してきたが、鎌倉時代に華厳教学を体系化した凝然(1240~1321)によれば、五教十宗の教判によって華厳宗の教えを最高位の円教とし、その特徴を事事無礙法界(あらゆる事物・事象が互いに妨げることなく交流しあっているという世界観)とした。

法相宗

玄奘が唐に伝えた唯識思想に基づき、その弟子の慈恩(基)が確立した学派。法相とは、諸法(あらゆる事物・事象、万法とも)がそなえる真実の相のことで、この法相のあり方を明かすので法相宗という。また、あらゆる事物・事象は心の本体である識が変化して仮に現れたもので、ただ識のみがあるとする唯識思想を主張するので唯識宗ともいう。日本には4次にわたって伝来したが、653年に道昭が唐に渡って玄奘から学び、帰国して飛鳥の元興寺を拠点に弘通したのが初伝とされる。奈良時代には興福寺を拠点に隆盛した。

三論宗

竜樹(ナーガールジュナ)の『中論』『十二門論』と提婆(アーリヤデーヴァ)の『百論』の三つの論に基づく学派。鳩摩羅什が三論を訳して、門下の僧肇が研究し、隋に吉蔵(嘉祥)が大成した。日本には625年、吉蔵の弟子で高句麗僧の慧灌が伝え、奈良時代に興隆する。平安時代に聖宝が東大寺に東南院を建立して本拠とした。般若経の一切皆空無所得(あらゆるものに実体はなく、また実体として得られるものはない)の思想に基づき、八不中道(8種の否定を通じて明らかになる中道)を観ずることで、一切の偏見を排して真理を顕すとする。

小乗の三宗

世親の俱舎論を依経とする俱舎宗。訶梨跋摩の成美論による成美宗、小乗の諸経典で説かれる戒律の修行を目的とする律宗をいう。

真言宗

密教経典に基づく日本仏教の宗派。善無畏・金剛智・不空らがインドから唐にもたらした大日経・金剛頂経などを根本とする。日本には空海(弘法)が唐から伝え、一宗派として開創した。手に印相を結び、口に真言(呪文)を唱え、心に曼荼羅を観想するという三密の修行によって、修行者の三業と仏の三密とが一体化することで成仏を目指す。なお、日本の密教には空海の東寺流(東密)のほか、比叡山の円仁(慈覚)・円珍(智証)らによる天台真言(台密)がある。真言の教え(密教)は、断片的には奈良時代から日本に伝えられていたが、体系的には空海によって伝来された。伝教大師最澄は密教を学んだが、密教は法華経を中心とした仏教を体系的に学ぶための一要素であるとした上で、これを用いた。伝教大師の没後、空海が真言密教を独立した真言宗として確立し、天皇や貴族などにも広く重んじられるようになっていった。天台宗の中でも、密教を重んじる傾向が強まり、第3代座主の円仁や第5代座主の円珍らが天台宗の重要な柱として重んじ、天台宗の密教化が進んでいった。

天台宗

❶法華経を根本として中国・隋の天台大師智顗を事実上の開祖とする宗派。天台法華宗、法華宗ともいう。天台大師は五時の教判を立てて法華経を宣揚し、また一念三千の法門を明かして法華経に基づく観心の修行を確立した。その後、法相宗・華厳宗・密教・禅の台頭に対し宗勢が振るわなかったが、唐になって妙楽大師湛然が再興した。日本では、平安初期に伝教大師最澄が唐に渡って体系的な教義を学び、帰国後の806年に日本天台宗を開いて法華一乗思想を宣揚した。また伝教大師は比叡山に大乗戒壇を建立しようと努め、没後間もなく実現している。伝教没後は密教化が進み、特に円仁(慈覚)や円珍(智証)が唐に渡り密教を積極的に取り入れ、安然が体系的に整備した。❷御書中の用例としては「天台(宗)の教え」といった意味の場合がある。例えば「撰時抄」の「天台宗」は、来日した鑑真によって伝えられた中国天台宗の教えをさす。

講義

本抄は、文永9年(1272)日蓮大聖人が佐渡において著され、同じく佐渡にいた最蓮房に与えられた御消息で、最蓮房の質問に対する御返事とされている。御真筆は現存しない。

本抄の内容は、初めに諸経の祈りも一往は祈りとはなるが、法華経をもってする祈りは必ずかなうとされている。そして、一切の仏・菩薩・二乗・人天等は法華経によって成道できたので、その恩を報ずるために法華経を受持し祈る者を守るのであり、法華経の行者の祈りがかなわないわけはないと述べられている。

更に、真言等の邪法による祈りは験がないばかりか、祈る人も祈らせた者もその身を滅ぼす結果になることを、承久の乱で朝廷側が真言宗によって祈ったため、大敗北を招いた実例を挙げて教示されている。

「本朝沙門 日蓮撰」について

冒頭に「本朝沙門 日蓮撰」と記されているが、本朝とは日本国をさし、沙門とは、桑門ともいって、出家して仏道を修する者をさし、勤息――善法を修して悪法を止める者の意――と訳す。

その元意は、日蓮大聖人が日本に出現された法華経の行者、すなわち末法の御本仏であるとの御内証、御確信に立たれて本抄におしたためになったとの意を示されている。とくに「本朝沙門」と記されたのは、日本国こそ末法に流布すべき正法が現れる所であることを意味している。

日本という国の仏法上の意義については、諌暁八幡抄に「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(0588:18)と仰せであり、インドに出現した釈尊とその教えに対比して、日本こそ聖人が出現すべき国であり、その教えは全世界に流布して末法万年の闇を照らすべきことが示されている。

また、日寛上人は「日本」という国名の深義を、依義判文抄で「日本の名に且く三意有り。一には所弘の法を表して日本と名づくるなり……日は文底独一本門に譬うるなり……二に能弘の人を表して日本と名づくるなり。謂く、日蓮の本国なるが故なり……三には本門の広布の根本を表して日本と名づくるなり。謂く、日は即ち文底独一の本門三大秘法なり。本は即ち此の秘法広宣流布の根本なり、故に日本と云うなり……然れば則ち日本国は、本因妙の教主日蓮大聖の本国にして、本門三大秘法広宣流布の根本の妙国なり」と述べられている。

なお、翌文永10年(1273)4月に御述作の観心本尊抄にも「本朝沙門日蓮撰」とおしたためになっている。

日寛上人は、観心本尊抄文段上で「本朝沙門日蓮撰文……日文字は唯我独尊の義を顕すなり……日文字の顕す所、吾が日蓮大聖人とは慧日大聖尊なり、主師親の三徳なり、久遠元初の唯我独尊なり。豈文底下種の教主、末法今時の本尊に非ずや」と釈され「本朝沙門日蓮」とは大聖人が自ら末法の御本仏であると明かされた御文と拝すべきことを示されている。

本抄においても、法華経による真の祈りを明かされ、真言等の邪法による祈禱を破折されるにあたって、天台宗の学僧だった最蓮房に対して、大聖人が御自身の御内証を示されて「本朝沙門日蓮」とおしたためになったと拝せるのである。

問うて云く華厳宗……必ず祈となるべし

まず最初に、諸宗の祈りに功徳があるかどうかとの問いを設けられ、諸宗の依る経々は仏説なので一往は祈りとなるが、再往はただ法華経による祈りこそ必ずかなうことを示されている。

ここに挙げられた華厳・法相・三論・俱舎・成実・律・真言・天台の八宗は、奈良時代に興隆した南都六宗と、平安時代に始まった天台・真言の二宗を加えたもので、当時の既成宗派といえる。

南都六宗は当時すでに衰えていたが、天台・真言の二宗は勅願寺や祈願寺として朝廷や公家、また幕府の有力者等の依頼によってさまざまな祈祷を行うなど、大きな影響を及ぼしていた。

そうした諸宗の祈りを「仏説なればいづれも一往は祈となるべし」と仰せになっているのは、あくまでも一往の立場で与えていわれている。そして「但法華経をもつていのらむ祈は必ず祈りとなるべし」と、法華経によって祈ってこそ必ずかなうと仰せられているのである。

これは一往、与えての表現であり、再往、厳格にいえば、権教による諸宗の教義は、末法の時にかなわないので功徳がないうえ、釈尊が真実であり無上であるとした法華経に背き、誹謗しているため、権教によって祈れば、毒薬を飲んだのと同様に必ず不幸を招くのである。

末法においては「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546:上野殿御返事:11)と仰せのように、釈尊の文上脱益の法華経ではなく、寿量品の文底に秘沈された下種の法華経である三大秘法の南無妙法蓮華経のみが衆生を幸せにする力をもっている。本抄で「但法華経をもつていのらむ祈」と仰せになっているのも、その元意は下種の法華経によって祈るべきことを示されていると拝すべきである。

高橋入道殿御返事には「末法に入りなば迦葉・阿難等・文殊・弥勒菩薩等・薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、所病は重し薬はあさし、其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(1458:13)と仰せのように、末法には、ただ上行菩薩の再誕である末法の御本仏日蓮大聖人が建立された三大秘法の南無妙法蓮華経のみが全世界の衆生を救う大良薬となるのである。そして、日寛上人が「この本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」と仰せのように、御本尊に祈ってこそ、無量の大功徳を受けることができるのである。

 

 

 

第二章 二乗の法華行者守護の理由を明かす

 本文

   問うて云く其の所以は如何、答えて云く二乗は大地微塵劫を経て先四味の経を行ずとも成仏すべからず、法華経は須臾の間此れを聞いて仏になれり、若爾らば舎利弗・迦葉等の千二百・万二千総じて一切の二乗界の仏は必ず法華経の行者の祈をかなふべし、又行者の苦にもかわるべし、故に信解品に云く「世尊は大恩まします希有の事を以て憐愍教化して我等を利益し給う無量億劫にも誰れか能く報ずる者あらん、手足をもて供給し頭頂をもつて礼敬し一切をもつて供養すとも皆報ずること能わず、若しは以て頂戴し両肩に荷負して恒沙劫に於て心を尽して恭敬し、又美膳無量の宝衣及び諸の臥具種種の湯薬を以てし牛頭栴檀及び諸の珍宝以つて塔廟を起て宝衣を地に布き斯くの如き等の事もつて供養すること恒沙劫に於てすとも亦報ずること能わじ」等云云、此の経文は四大声聞が譬喩品を聴聞して仏になるべき由を心得て、仏と法華経の恩の報じがたき事を説けり、されば二乗の御為には此の経を行ずる者をば父母よりも愛子よりも両眼よりも身命よりも大事にこそおぼしめすらめ、舎利弗・目連等の諸大声聞は一代聖教いづれも讃歎せん行者を・すておぼす事は有るべからずとは思へども・爾前の諸経は・すこし・うらみおぼす事も有らん「於仏法中已如敗種」なんど・したたかにいましめられ給いし故なり、今の華光如来・名相如来・普明如来なんどならせ給いたる事は・おもはざる外の幸なり、例せば崑崙山のくづれて宝の山に入りたる心地してこそ・おはしぬらめ、されば領解の文に云く「無上宝珠不求自得等」云云。

されば一切の二乗界法華経の行者をまほり給はん事は 疑あるべからず、あやしの畜生なんども恩をば報ずる事に候ぞかし、かりと申す鳥あり必ず母の死なんとする時孝をなす、狐は塚を跡にせず畜生猶此くの如し況や人類をや、されば王寿と云ひし者・道を行きしにうえつかれたりしに、路の辺に梅の樹あり其の実多し寿とりて食して・うへやみぬ、我れ此の梅の実を食して気力をます其の恩を報ぜずんば・あるべからずと申して衣をぬぎて梅に懸けてさりぬ、王尹と云いし者は道を行くに水に渇しぬ、河をすぐるに水を飲んで銭を河に入れて是を水の直とす、竜は必ず袈裟を懸けたる僧を守る、仏より袈裟を給て竜宮城の愛子に懸けさせて金翅鳥の難をまぬがるる故なり、金翅鳥は必ず父母孝養の者を守る、竜は須弥山を動かして金翅鳥の愛子を食す、金翅鳥は仏の教によつて父母の孝養をなす者・僧のとるさんばを須弥の頂にをきて竜の難をまぬかるる故なり、天は必ず戒を持ち善を修する者を守る、人間界に戒を持たず善を修する者なければ人間界の人死して多く修羅道に生ず、修羅多勢なればをごりをなして必ず天ををかす、人間界に戒を持ちて善を修するの者・多ければ人死して必ず天に生ず、天多ければ修羅をそれをなして天ををかさず、故に戒を持ち善を修する者をば天必ず之を守る、何に況や二乗は六凡より戒徳も勝れ智慧賢き人人なり、いかでか我が成仏を遂げたらん法華経を行ぜん人をば捨つべきや。

 

現代語訳

  問う。その理由はなにか。

 答う。二乗は大地微塵劫の間、法華経以前の四味の経を修行したけれども、成仏できなかった。法華経では須臾の間、これを聞いて仏になった。

 もしそうであれば、舎利弗や迦葉等の千二百人、一万二千人、総じて一切の二乗界で仏になった人は、必ず法華経の行者の祈りをかなえさせてくれるであろう。また行者の苦しみにも代わってくれるであろう。

 ゆえに信解品には「世尊には大恩がある。希有のことをもって、我らを憐愍し教化して、利益された。無量億劫を経ても、だれかよく報ずる者がいるであろうか。手足をもって給仕し、頭を低くして礼し敬い、一切をもって供養しても報ずることはできない。もしは、仏の御足を頂戴し、両肩にになって、恒沙劫の間、心を尽くして恭敬し、また美膳や無量の宝衣、及び諸々の臥具や種々の湯薬を供養し、また牛頭栴檀及び諸々の珍宝をもって塔廟を建て、宝衣を地に布く等、このようなことをして供養すること恒沙劫にわたっても、また報ずることはできない」と説かれている。

 この経文は、四大声聞が譬喩品を聴聞して、仏に成れる道理を心得て、仏と法華経の恩がいかに報じがたいかを説かれたものである。

 したがって二乗にとっては、この経を行ずる者は、父母よりも、愛子よりも、両眼よりも、身命よりも、大事であると思うであろう。

 舎利弗や目連等の諸大声聞は、一代聖教のいずれを讃歎する行者をも、見捨てることはあるはずがないとは思うけれども、爾前の諸経は、少しは怨みに思うこともあるであろう。「仏法の中に於いて、已に敗種の如し」などと強く戒められたからである。

 今の華光如来・名相如来・普明如来などになることができたのは、思いのほかの幸いである。例えば、崑崙山が崩れて宝の山に入ったような心地がしたであろう。

 そのゆえに、領解の文に「無上の宝珠、求めざるに自ら得たり」と説かれているのである。

そうであれば、一切の二乗界の衆生が法華経の行者を守られることは疑いないことである。

 卑しい畜生であっても、恩を報ずるものである。かりという鳥は、母が死のうとするときは必ず孝行をする。狐は死ぬときには塚に足を向けない。

 畜生でさえこのようである。まして人間はいうまでもないことである。したがって、王寿という者は、道を行くときに飢え疲れて、路辺に梅の樹があり、実が多かったので、これを採って食べて飢えを癒した。自分は、この梅の実を食べて気力を増したので、その恩を報じなければならないといって、衣を脱いで梅の木に懸けて去ったという。

 王尹という者は、道を行くときに渇いたので、河を渡るときに水を飲んで、銭を河に入れて、これを水の値としたという。

 竜は必ず袈裟を懸けた僧を守る。仏から袈裟を戴いて、竜宮城の愛子に懸けさせて、金翅鳥に食われる難を免れたからである。

 金翅鳥は必ず父母に孝養する者を守る。竜は須弥山を動かして金翅鳥の愛子を食べるので、金翅鳥は仏の教えによって、父母の孝養のために僧に供養した時、僧が取り分ける生飯を須弥山の頂に置いて、竜の難を免れたからである。

 天は必ず戒を持(たも)ち善事を行う者を守る。人間界に戒を持たず善事を行う者がいなければ、人間界の人は死んで多く修羅道に生まれる。修羅が多勢であれば、慢心を起こして必ず天を犯す。

 人間界に戒を持ち善事を行う者が多ければ、人は死んで必ず天に生まれる。天人が多ければ、修羅は恐れをなして天を犯さない。ゆえに、戒を持ち善事を行う者を天は必ず守るのである。

 まして二乗は、六道の凡夫より戒徳も勝れ、智慧も賢い人々である。どうして、自らが成仏を遂げた法華経を行ずる人を捨てることがあろうか。

 

語釈

 二乗

 六道輪廻から解脱して涅槃に至ることを目指す声聞乗と縁覚乗のこと。①声聞は、サンスクリットのシュラーヴァカの訳で、「声を聞く者」の意。仏の教えを聞いて覚りを開くことを目指す出家の弟子をいう。②縁覚は、サンスクリットのプラティエーカブッダの訳で、辟支仏と音写する。独覚とも訳す。声聞の教団に属することなく修行し、涅槃の境地を得る者をいう。「乗」は乗り物の意で、成仏へと導く教えを譬えたもの。もとは声聞・縁覚それぞれに対応した教えが二乗であるが、この教えを受ける者(声聞・縁覚)についても二乗という。大乗の立場からは、自身の解脱だけを目指し、他者の救済を図らないので、小乗として非難された。

 

大地微塵劫

 極めて長遠な時間。大地を微塵にしたほどの数の劫数。

 

四味の経

 法華経以前の爾前の権教のこと。

 

須臾

 時間の単位。①一昼夜の30分の1をさす場合と、②最も短い時間の単位(瞬時)をさす場合がある。

 

舎利弗

 サンスクリットのシャーリプトラの音写。身子、鵞鷺子などと訳す。釈尊の十大弟子の一人で、智慧第一とされる。法華経譬喩品第3では、未来に華光如来に成ると釈尊から保証された。声聞の代表。

【釈尊への帰依】釈尊の弟子となる前、舎利弗は目連(マウドゥガリヤーヤナ)とともに外道のサンジャヤに師事していたが、釈尊の弟子アッサジに出会い、そこで聞いた釈尊の教えに感銘を受け、釈尊に帰依した。その際、サンジャヤの弟子250人も、ともに釈尊に帰依したと伝えられる。

【釈尊からの責】『止観輔行伝弘決』巻2には『十誦律』をふまえて、次のような話が記されている。ある在家の有力信徒から釈尊の弟子たちが食事の供養を受けた時、舎利弗ら長老などがおいしいものをたっぷり食べ、初心者たちは不十分な食事しかできなかった。これを羅睺羅(ラーフラ)から聞いた釈尊は、舎利弗に対して不浄な食事をしたと叱責した。舎利弗は食べた物を吐き出し、今後二度と食事の供養を受けないと誓った。日蓮大聖人は「開目抄」で、この話を、法華経が説かれる以前には二乗が不成仏として糾弾されてきたことの傍証とされている。

 

迦葉

 サンスクリットのカーシャパの音写。摩訶迦葉のこと。釈尊の声聞の十大弟子の一人で、頭陀(欲望を制する修行)第一といわれた。釈尊の教団を支え、釈尊滅後の教団の中心となった。釈尊の言行を経典として集成したとされる。法華経授記品第6で、未来に光明如来に成ると保証された。

【鶏足山の入定】摩訶迦葉は釈尊が亡くなった後、正統な後継者となって教えを広めて、阿難にその任を譲った。それ以来、鶏足山で禅定に入って、弥勒菩薩が567000万年後にこの娑婆世界に仏として出現するのを待っているとされた。

【禅宗における伝承】大梵天王問仏決疑経(疑経)では、釈尊が霊鷲山で一房の花を手にとって人々に示した際、その意味を誰も理解できないなかで迦葉一人が理解してほほ笑んだとされる(これを拈華微笑という)。この話が、釈尊が迦葉に法を伝えたという伝説として、宋以後の禅宗で重用され、教外別伝・不立文字の基盤とされた。サンスクリットのカーシャパの音写。迦葉童子菩薩のこと。涅槃経巻33の迦葉菩薩品第12の対告衆。同経では、仏はどのようにして長寿を得て金剛不壊の身になったのか、36の問いを立てて釈尊に尋ねている。爾前経の会座にも連ならず法華経の会座にも漏れ、最後に説かれる涅槃経によって利益を受けるので、捃拾(落ち穂拾い)の機根の者とされる。優楼頻螺迦葉(ウルヴィルヴァーカーシャパ)、那提迦葉(ナディーカーシャパ)、伽耶迦葉(ガヤーカーシャパ)の三兄弟のこと。火を崇拝する儀式を行う外道のバラモンだったが、成道間もない釈尊の説法を聞いて弟子となった。3人合わせて1000人の弟子を率いており、その弟子たちもともに釈尊に帰依したという。

 

千二百

 法華経五百弟子授記品第8で釈尊から成仏の記別を受けた1200の声聞のこと。

 

万二千

 法華経序品第1に出てくる12000人の阿羅漢のこと。

 

信解品

 法華経信解品第4のこと。三周の声聞のうち譬説周の領解を説く。法華七譬の第二・長者窮子の譬が説かれる。先の譬喩品第3の三車火宅の譬を聞いた四大声聞が開三顕一の仏意を領解した旨を長者窮子の譬をもって説明している。

 

恒沙劫

 恒沙はガンジス河の砂のことで、数え切れないほどの数を示す。数えきれないほどの長遠な時間。

 

牛頭栴檀

 牛頭山(南インドのマラヤ山脈)に生ずる栴檀

 

四大声聞

 法華経信解品第4で妙法を信受できた喜びを表明した4人の優れた声聞。摩訶迦葉・摩訶迦栴延・摩訶目犍連・須菩提のこと。

 

譬喩品

 妙法蓮華経譬喩品第3のこと。迹門・正宗分の中、法説周の領解・述成・授記段・譬説周の正説段の二つの部分からなる。まず方便品の諸法実相の妙理を領解して歓喜した舎利弗に仏は未来世成仏の記莂を与え、劫・国・名号を明かす。次いで、中根の四大声聞に対する説法に入るが、譬喩を主体とするので譬え説周と呼ばれる。そのなかで仏は三車家宅の譬を説いている。この譬えにおける火宅は三界を、また羊・鹿・牛の三車は三乗を、大白牛車は一仏乗の妙理をあらわしており、一仏乗こそ仏が衆生に与える真実の教えであることを述べている。終わりに、舎利弗の智慧でも法華経の妙理を悟ることはできず、ただ「信を以って入ることができる」と、信の重要性を述べ、逆に正法への不信・誹謗の罪の大きさを説いている。

 

目連

 サンスクリットのマウドゥガリヤーヤナの音写。目犍連ともいう。釈尊の声聞の十大弟子の一人で、神通(超常的な力)第一とされる。法華経授記品第6で、目連は未来に多摩羅跋栴檀香如来に成ると釈尊から保証された。

【竹杖外道に殺される】『毘奈耶雑事』巻18によると、目連は舎利弗とともに王舎城(ラージャグリハ)を巡行中、竹杖外道に出会い、その師を破したため、杖で打ち殺されたという。

【盂蘭盆経の目連】盂蘭盆経によると、目連は亡き母・青提女が物惜しみの罪で餓鬼道に苦しんでいるのを神通力によって知り、母を助けようとするが力及ばず、仏の教えに従って供養したことで、ようやく救うことができたという。これが盂蘭盆会の起源の一つとされる。

 

一代聖教

 釈尊が生涯にわたって説いたとされる教え、または経典。聖教とは聖人の教え、すなわち仏の教えのこと。

 

於仏法中以如敗種

 浄名経の中の「仏法の中に於いて以て敗種の如し」と読むことができるが、同経にはこの文はない。おそらく取意を述べられたものであろう。

 

華光如来

 釈尊の声聞の十大弟子の一人である舎利弗が、法華経譬喩品第3で未来に仏になるとの記別を受けた時の仏としての名。舎利弗は無量無辺不可思議劫の後、菩薩道を修行して、華光如来となって離垢という国土に住するとの記別を受け、如来となって後、三乗法を説き、12小劫の後、堅満菩薩に対して次に成仏して華足如来となるとの記別を授け、寿命を終え、その後、正法32小劫・像法32小劫の間、説いた教えが衆生を教え導き救うと説かれている。

 

名相如来

 釈迦の十大弟子の中で最も “” の真理を理解し解空第一とされた須菩提が、将来仏となった時の名で、その時に住む国の名は宝生、時代は有宝であるとされる。

 

普明如来

 五百弟子授記品で阿闍憍陳女をはじめとした500人、余の700人とを合わせた1200人の阿羅漢に授記された、未来に成仏した時の名号。1200人が同一の名号を授記されている。

 

崑崙山

 崑山ともいい、チベット高原・タリム盆地・モンゴル高原にまたがる大山脈。中国では古くから美玉を産する山として有名。

 

無上宝珠不求自得等

 「無上の宝聚求めざるに自ら得たり」法華経信解品第4の文。ご本尊は無量宝珠である。

 

かり

 雁。ふつうは「がん」と呼ぶ。「かり」は雅名。その鳴き声からきているといわれる。まがん、かりがね、ひしくいなどがある。

 

狐は塚を跡にせず

 狐は、みずからが生まれた古塚を忘れず、老いて死ぬときは丘を枕にするという。礼記の檀弓篇上に「狐は死するときに、正しく丘に首するは仁なり」とある。また日寛上人の文段には、次のような諸説が引用されている。淮南子にいわく「兎は死して窟に帰り、狐は死して丘を首にす」。楚辞いわく「鳥飛びて古郷に帰り、狐死するに必ず丘を首にす」。朱子注していわく「鳥の飛びて古郷に帰るは、古巣を思うなり。狐の死して必ず丘を首にす、その生るる所を忘れず」。鄭玄注していわく「狐は穴丘(けつきゅう)をもって生まる、また、丘を背にして死するを忍びざるは、恩を忘れざるなり」と。

 

王寿

 古代中国の人か。詳細不明。「祈禱抄」では、これを王尹の故事として挙げられている。

 

王尹

 出典不明。なお本抄に「王尹と云いし者は……水を飲んで銭を河に入れて是を水の直とす」とある箇所は、開目抄上では「王寿と云いし人は河の水を飲んで金の鵞目を水に入れ」とあり、王寿と王尹とが入れ替わって伝えられる。王尹については開目抄上に説かれない。

 

 インドの想像上の生き物ナーガのこと。コブラなどの蛇を神格化したもので、水の中に住み、雨を降らす力があるとされる。しかし、中国や日本ではしばしば、中国本来の「竜」と混同される。

 

竜宮城

 竜王の住む宮殿。水底、または水上にありという。長阿含経巻十九に「大海水底に娑竭龍王宮あり。縦広八万由旬なり。宮牆七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝厳飾皆七宝より成る」とある。

 

金翅鳥の難

 もろもろの竜が金翅鳥に食われることをいう。竜には熱風・熱沙に身を焼かれる苦、突風で塔や衣類を奪われる憂い、金翅鳥に狙われる苦の、三種の苦悩があるとされる。しかし海竜王経巻四によると、竜が金翅鳥に食われるのを嘆き、仏に救いを求めたところ、仏は竜に袈裟を授けて難を逃れる方法を教えた。海竜王は袈裟を受けてもろもろの竜王に分け与え、これをかけさせて金翅鳥の難を逃れることができた。それゆえ、竜は必ず袈裟をかけた僧を守るという。

 

金翅鳥

 金翅鳥は海竜王経などに説かれる想像上の巨大な鳥、ガルダのこと。迦楼羅などと音写される。美しい金色の羽をもち、竜を食うとされるが、大雪山にある阿耨池に住む竜だけは、それを食おうとすると金翅鳥が身を滅ぼしてしまうとされる。竜王は竜(ナーガ)の王。竜は金翅鳥がかわいがっている子を食べるとされる。

 

須弥山

 須弥はサンスクリットのスメールの音写。妙高山と訳される。古代インドの宇宙観で、一つの世界の中心にあると考えられている巨大な山。須弥山の麓の海の東西南北に四つの大陸があって、一つの世界を構成する。須弥山の頂上は六欲天のうち第二天の忉利天に位置しており、ここに帝釈天が忉利天の主として地上世界を支配して住んでいる。

 

さんば

 食事の時、少しの飯粒を取り分けて悪道の衆生に布施すること。

 

竜の難

 出典不明。類文として私聚百因縁集巻三には、金翅鳥の子が阿修羅王に食われる故事がある。すなわち、金翅鳥は須弥山の一方の峰に巣を作って子を生む。しかし須弥山の海畔には阿修羅王が住んでおり、ゆえに阿修羅王は常に須弥山を動かして金翅鳥の子を振り落として食すという。金翅鳥はこのことを嘆き、仏所に詣で、どうしたらこのことを免れるか救いを求めた。仏は、七々日(四十九日忌)にあたって僧に施食した飯を供取し、須弥山の角に置けばこの難を免れることができると教えた。金翅鳥がそのとおり飯を須弥山の角に置くと、阿修羅王が力を発して須弥山を動かそうとしても動かず、金翅鳥の子は落ちることなく平安に生長したという。

 

人間界

 人道のこと。十界のうちの人界をいう。人間としてごく普通の平穏な心。生命状態・境界。

 

修羅道

 修羅(阿修羅)の世界。修羅の生命境涯。阿修羅はサンスクリットのアスラの音写。古代インドの神話に登場する神で、海辺あるいは海中に住むとされる。須弥山の周辺の天に住む神々の王である雷神インドラ(帝釈天)と覇を競ったとされる。修羅の特徴として、自分と他者を比較し、常に他者に勝ろうとする「勝他の念」を強くもっていることが挙げられる。他人と自分を比べて、自分が優れて他人が劣っていると思う場合は、慢心を起こして他を軽んじる。そして、他者の方が優れていると思う場合でも、他者を尊敬する心を起こすことができない。また、本当に自分よりも強いものと出会ったときには、卑屈になって諂う。自分をいかにも優れたものに見せようと虚像をつくるために、表面上は人格者や善人をよそおい謙虚なそぶりすら見せることもあるが、内面では自分より優れたものに対する妬みと悔しさに満ちている。「観心本尊抄」では「諂曲なるは修羅」とされ、人界所具の修羅界は諂曲なさまからうかがえるとされる。「諂曲」とは自身の本音を隠して相手に迎合していくことである。これに基づいて生命論では、勝他の念が強く諂曲である生命状態を修羅界とする。十界のうち、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に修羅を加えて、四悪趣とされる。また六道の中では、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に比べれば相対的にはよいので、人・天とともに三善道とされる。

 

六凡

 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のこと。仏教以外の外道は、この六道を輪廻するのみである。無智の凡夫の境涯であるので、六凡という。

 

戒徳

 戒律を守ることによって得られる功徳・福徳のこと。戒律を守ることによって得られる功徳・福徳のこと。

 

講義

  法華経による祈りこそ真の祈りになることを明かすにあたって、初めに二乗については、法華経によって成仏を許されたという大恩があるので、法華経を行ずる者を必ず守ることが明かされている。

 

問うて云く其の所以は如何……不求自得等」云々

 

 声聞・縁覚の二乗は、爾前経においては炒った種が芽を出さないように、成仏できないとされてきた。

 しかし、法華経では法師品第十に「是の人は歓喜して法を説かんに、須臾も之れを聞かば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟することを得んが故なり」と説かれているように、二乗もしばらくの間聞いただけで仏に成れたのである。

 したがって、舎利弗や迦葉をはじめとして、すべての二乗の身で成仏を許された者は、法華経への報恩のために、必ず法華経の行者の祈りをかなえさせ、また、その行者の苦しみに代わってくれるはずであると仰せられている。

 二乗が釈尊と法華経に深い恩があるということは、法華経の信解品第四に、迦葉が「世尊は大恩まします。希有の事を以て、憐愍教化して、我れ等を利益したまう。無量億劫にも、誰か能く報ずる者あらん。手足もて供給し、頭頂もて礼敬し、一切もて供養すとも、皆な報ずること能わじ。若し以て頂戴し、両肩に荷負して、恒沙劫に於いて、心を尽くして恭敬し、又た美饍無量の宝衣、及び諸の臥具、種種の湯薬を以てし、牛頭栴檀、及び諸の珍宝、以て塔廟を起て、宝衣を地に布き、斯の如き等の事、以用て供養すること、恒沙劫に於いてすとも、亦た報ずること能わじ」と述べていることでも明らかである。

 智慧第一の舎利弗が諸法実相の妙理を領解して歓喜したのに対し、法華経の譬喩品第三で、釈尊は劫・国・名号を説いて未来成仏の記別を与えた。更に、舎利弗が他の声聞のために詳しく説くことを請うたのに対して、三車火宅の譬喩が説かれる。

 この三車火宅の譬を聞いた須菩提・迦旃延・迦葉・目連の四大声聞が、開三顕一の仏意を領解した旨を、信解品第四で長者窮子の譬をもって述べており、本抄に引用された文はその偈のなかの一節である。

 すなわち、信解品の冒頭に「爾の時、慧命須菩提・摩訶迦栴延・摩訶迦葉・摩訶目揵連は、仏従り聞きたてまつれる所の未曽有の法と、世尊の舎利弗に阿耨多羅三藐三菩提の記を授けたまうとに、希有の心を発し、歓喜踊躍して……深く自ら大善利を獲たり、無量の珍宝は、求めずして自ら得たりと慶幸す」とあり、その後に長者の子が幼時に家出して放浪、貧窮していたが、後に自分が長者の子と知って大歓喜したとの譬えをもって、唯一乗の法を聞いた喜びを述べたのである。

 そのように、二乗にとって釈尊と法華経は、初めて成仏を許された大恩があるため、法華経を行ずる者を大事な我が親や愛する子や両眼や身命よりも大事に思うであろうと述べられている。

 爾前経では、腐敗した種子は芽が出ないように、二乗は永久に成仏しない、と嫌われていたので、二乗は爾前経については「すこし・うらみおぼす事も有らん」と仰せられている。

 ところが、法華経では一転して、舎利弗に華光如来、須菩提に名相如来、阿若憍陳如をはじめ千二百人の阿羅漢に普明如来等の名号が授けられて未来の成仏が許されたことは、二乗にとって、中国の伝説で天地の中心にあって玉を産するとされた崑崙山が崩れて、宝の山にやすやすと入ったように「おもはざる外の幸」だったであろうといわれ、法華経信解品で「無上の宝聚は、求めざるに自ら得たり」と迦葉が述べたことを挙げられている。

 

されば一切の二乗……行ぜん人をば捨つべきや

 

 卑しい畜生でさえ恩を報ずることの例として、古来、かりという鳥が、母親が死のうとするときに孝養をするといわれ、また、狐が生まれた塚の恩を忘れずに丘を枕にして死ぬといわれている。まして人間が恩を報じないわけはないと述べられ、梅の実で飢えをいやした王寿が衣を梅の木に懸けて恩を報じ、河の水を飲んで渇きをいやした王尹が銭を河に入れてその代価としたという中国の故事を挙げられている。

 またインドの伝説では、金翅鳥に食われていた竜が嘆いて仏に救いを求めたところ、仏は竜に袈裟を授け、竜の子に懸けて金翅鳥の難を逃れるように教えたという。そのとおりにして救われたため、竜は袈裟を懸けた僧を守護するといわれている。

 反対に、金翅鳥は竜が須弥山を動かしてその子を食べるため、仏の教えによって父母に最高の孝養をしている僧の生飯を須弥山の頂に置いて金翅鳥に与え、竜の難を免れることができたという。そのため、金翅鳥は父母に孝養をする者を守る、といわれている。

 また、諸天は必ず戒を持ち善を修する者を守るといわれている。

 それは、人間として生まれても戒を持たず、善を修することがなければ、その死後に修羅界に生まれ、こうして修羅界の衆生が増加すれば心がおごって天を犯すようになる。反対に、人間界に戒を持ち善を修する者が多ければ必ず死後に天に生まれ、天界の衆生が多くなる。そうなれば修羅が恐れて天を犯すことはない。そのため、天は戒を持ち善を修する者を必ず守るとされるのである。

 なお、それと同じ趣旨のことを、正法念処経巻十八には「若し閻浮提の人の正法を行わず、父母に孝養せず、沙門・婆羅門及び諸の尊長を敬わず、法行に依らず、三宝を奉ぜず、善法及び不善の法を観ぜずんば、諸天の勢力悉く滅少すと為し、四天王天は展転して相い告げらく、『悉く避けて逃逝れよ、恐らくは師子児羅睺阿修羅王来りて我等を殺さん』と。若しは閻浮提人の正法を修行し、父母に孝養し、師長に敬事し、沙門・耆旧・長宿に供養せば、一切の諸天の勢力増長す」と説いている。

 大聖人がそうしたさまざまな報恩の例を引かれたのは、「六凡より戒徳も勝れ智慧賢き人人」である二乗が、自身が成仏を遂げることを許された大恩ある法華経を行ずる人を捨てるはずがない、ということを強く示されるためである。

 

 

第三章 (仏が法華行者を守る理由を明かす)

 本文   

又一切の菩薩並に凡夫は仏にならんがために、四十余年の経経を無量劫が間・行ぜしかども仏に成る事なかりき、而るを法華経を行じて仏と成つて今十方世界におはします仏・仏の三十二相・八十種好をそなへさせ給いて九界の衆生にあをがれて、月を星の回れるがごとく須弥山を八山の回るが如く、日輪を四州の衆生の仰ぐが如く輪王を万民の仰ぐが如く、仰がれさせ給うは法華経の恩徳にあらずや、されば仏は法華経に誡めて云く「須らく復た舎利を安ずることをもちいざれ」涅槃経に云く「諸仏の師とする所所謂法なり是の故に如来恭敬供養す」等云云、法華経には我舎利を法華経に並ぶべからず、涅槃経には諸仏は法華経を恭敬供養すべしと説せ給へり、仏此の法華経をさとりて仏に成りしかも人に説き聞かせ給はずば仏種をたたせ給ふ失あり、此の故に釈迦如来は此の娑婆世界に出でて説かんとせさせ給いしを、元品の無明と申す第六天の魔王が一切衆生の身に入つて、仏をあだみて説かせまいらせじとせしなり、所謂波瑠璃王の五百人の釈子を殺し、鴦崛摩羅が仏を追、提婆が大石を放・旃遮婆羅門女が鉢を腹にふせて仏の御子と云いし、婆羅門城には仏を入れ奉る者は五百両の金をひきき、されば道にはうばらをたて・井には糞を入れ門にはさかむきをひけり・食には毒を入れし、皆是れ仏をにくむ故に、華色比丘尼を殺し、目連は竹杖外道に殺され、迦留陀夷は馬糞に埋れし・皆仏をあだみし故なり、而れども仏さまざまの難をまぬかれて御年七十二歳、仏法を説き始められて四十二年と申せしに・中天竺・王舎城の丑寅・耆闍崛山と申す山にして、法華経を説き始められて八年まで説かせ給いて、東天竺倶尸那城・跋提河の辺にして御年八十と申せし、二月十五日の夜半に御涅槃に入らせ給いき、而りといへども御悟りをば法華経と説きをかせ給へば・此の経の文字は即釈迦如来の御魂なり、一一の文字は仏の御魂なれば此の経を行ぜん人をば 釈迦如来我が御眼の如くまほり給うべし、人の身に影のそへるが・ごとく・そはせ給うらん、いかでか祈とならせ給はざるべき。

 

現代語訳

また、一切の菩薩ならびに凡夫は、仏に成るために、四十余年の経々を無量劫の間、修行したけれども、仏に成ることはできなかった。

ところが、法華経を修行して仏に成って、今十方世界におられる仏は、仏の三十二相・八十種好を具えられ、九界の衆生から、月を星が回るように、須弥山を八山が回るように、日輪を四洲の衆生が仰ぐように、輪王を万民が仰ぐように、仰がれることは、法華経の恩徳ではないか。

したがって、仏は法華経に戒めて「また舎利を安置することは必要ない」と説かれ、涅槃経には「諸仏の師とするところは法である。このゆえに如来は恭敬し供養する」と説かれている。法華経には我が舎利を法華経と並べてはならないとし、涅槃経には諸仏は法華経を恭敬し供養すべきであると説かれたのである。

仏は、この法華経を覚って仏になったのであるから、人に説き聞かせなかったならば、仏種を断つ失となる。このゆえに、釈迦如来はこの娑婆世界に出生して、この法華経を説こうとされたのであるが、そこへ元品の無明という第六天の摩王が一切衆生の身に入って、仏を怨嫉して説かせまいとしたのである。

いわゆる波瑠璃王が五百人の釈迦族を殺し、鴦崛摩羅が仏を追いかけて指を切ろうとし、提婆が大石を落として仏を傷つけ、旃遮婆羅門女が鉢を腹に入れて仏の御子を身ごもったと言ったり、婆羅門城の王が城内に仏を入れた者は五百両の罰金を取ると言ったので、道には荊棘を立て、井戸には糞を入れ、門には逆茂木を引き、食物には毒を入れたのも、皆これ仏を憎んだからである。華色比丘尼が殺され、目連は竹杖外道に殺され、迦留陀夷(かるだい)は馬糞に埋められたのも、皆仏を怨んだからである。しかしながら、仏はさまざまの難を免れて、御年七十二歳の時、すなわち仏法を説き始められてから四十二年という時に、中天竺の王舎城の丑寅にあたる耆闍崛山という山において、法華経を説き始められ、八年の間説かれて、東天竺の倶尸那城の跋提河(ばつだいが)の辺において、御年八十歳の二月十五日の夜半に御涅槃に入られたのである。

しかしながら、御悟りは法華経と説き置かれたので、この法華経の文字は即釈迦如来の御魂(みたま)である。一々の文字は、仏の御魂であるから、この経を修行する人を釈迦如来は、我が御眼のように守られるであろうし、人の身に影が添うように付き添っているであろう。どうして祈りのかなわないことがあろう。

 

語釈

十方世界

「十方」とは、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。

 

三十二相

仏や転輪聖王などがそなえている32の優れた身体的特質のこと。「相」は八十種好に対し大きな特徴をさす。名称および順序は経論によって異説もあるが、『大智度論』巻4の説を以下に挙げる。①足下安平立相。足の下が安定して立っていること。足裏の全体が地に着いてすき間なく密着している。②足下二輪相。足裏に自然にできた2輪の肉紋があり、それは千輻(1000本の矢)が放射状に組み合わさって車の輪の相を示していること。③長指相。指が繊細で長いこと。④足踉広平相。足の踉が広く平らかであること。⑤手足指縵網相。手足の指の間に縵網があり、指を張ればあらわれ張らなければあらわれないこと。⑥手足柔軟相。手足が柔らかいこと。皮膚は綿で編んだように微細である。⑦足跌高満相。足の甲が高いこと。地を踏んだ足跡は広くもなく狭くもなく、足裏の色は赤蓮華、指の間の縵網と足の周辺の色は真の珊瑚のようで、指の爪は浄い赤銅、甲は真金、甲の上の毛は毘瑠璃のように青い。その足のおごそかですばらしい様は種々の宝で荘厳しているようである。⑧伊泥延膊相(伊泥延はサンスクリットのアイネーヤの音写で鹿の一種)。膝、股が鹿の足のように繊細で引き締まっていること。⑨正立手摩膝相。立てば手で膝をさわることができること。⑩陰蔵相。陰部がよく調えられた象や馬のそれのように隠れて見えないこと。⑪身広長等相。インド産の無花果の木のように身体のタテとヨコの長さが等しいこと。⑫毛上向相。身体の諸の毛がすべて上に向いてなびくこと。⑬一一孔一毛生相。一つ一つの孔に一毛が生ずること。毛は青琉璃色で乱れず、右になびいて上に向かう。⑭金色相。皮膚が金色をしていること。⑮丈光相。四辺にそれぞれ一丈の光を放つこと。⑯細薄皮相。皮膚が薄く繊細であること。塵や土がその身につかないことは蓮華の葉に塵水がつかないのと同じである。⑰七処隆満相。両手・両足・両肩・頭の頂上の七処がすべて端正に隆起して色が浄いこと。⑱両腋下隆満相。両腋の下(わきの下)が平たく隆満しており、それは高すぎることもなく、またわきの下が深すぎることもない。⑲上身如師子相。上半身が獅子のように堂々と威厳があること。⑳大直身相。一切の人の中で身体が最も大きく、また整っていること。㉑肩円好相。肩がふくよかに隆満していること。㉒四十歯相。歯が40本あること。㉓歯斉相。諸の歯は等しく粗末なものはなく小さいものもなく出すぎることもなく入りすぎることもなく歯の間にすき間がないこと。㉔牙白相。牙があって白く光ること。㉕師子頬相。百獣の王の獅子のように、頬が平らかで広いこと。㉖味中得上味相。食物を口に入れれば、味の中で最高の味を得ることができること。㉗大舌相。広長舌相とも。舌が大きく口より出せば顔の一切を覆い、髪の生え際にいたること。しかも口の中では口中を満たすことはない。㉘梵声相。梵天王の5種の声のように声が深く遠くまで届き、人の心の中に入り、分かりやすく誰からもきらわれないこと。㉙真青眼相。好い青蓮華のように眼が真の青色であること。㉚牛眼睫相。牛王のように睫が長好で乱れないこと。㉛頂髻相。頭の頂上が隆起し、挙が頂上にのっているようであること。㉜白毛相。眉間白毫相ともいう。眉間のちょうどよい位置に白毛が生じ、白く浄く、右に旋って長さが5尺あること。ここから放つ光を毫光という。

 

八十種好

仏や菩薩がそなえている80の優れた身体的特質のこと。「好」は三十二相に対し細かな特徴をさす。80種の内容については種々の説があり、なかには三十二相と重複するものもあるが、例えば、頂を見ることがない、耳たぶが垂れ下がっているなど。

 

九界

十界の仏界を除く、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩をいう。仏界が悟りの境地であるのに対して、迷いの境界をさしている。

 

八山

須弥山をめぐる八山。須弥山を中心にして同心円状に囲むとする古代インドの世界観。持双山・持軸山・擔木山・善見山・馬耳山・象鼻山・持辺山・鉄囲山のこと。

 

四州

須弥山を中心とした古代インドの世界観で、須弥山を八重の山と香水の海が囲み、その外側、第九重の鉄囲山の内側に醎海があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとするとある。

 

輪王

転輪聖王または転輪王ともいう。仏教で説く理想の君主で、即位するとき天より輪宝を感得し、その輪宝を転じて四方を制するのでこの名がある。輪宝に金・銀・銅・鉄の四種があり、感得する輪宝によって、それぞれ金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王とよばれる。

 

涅槃経

大般涅槃経の略。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。

 

娑婆世界

娑婆はサンスクリットのサハーの音写で「堪忍」などと訳される。迷いと苦難に満ちていて、それを堪え忍ばなければならない世界、すなわちわれわれが住むこの現実世界のこと。

 

元品の無明

無明とは、根本の煩悩の一つで、生命にそなわる根源的な無知。特に自らをはじめ万物が妙法の当体であることがわからない、最も根源的な無知を「元品の無明」という。「治病大小権実違目(治病抄)」には「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」と述べられ、元品の無明が現れて正法を妨げる障魔のはたらきとなることを示されている。

 

第六天の魔王

欲界の第六天にいる他化自在天のこと。欲界は、輪廻する衆生が生存する領域を欲界・色界・無色界の三界に分けるうちの、一番低い段階。欲界には地上と天上の両方が含まれるが、天上は6段階に分かれ六欲天と呼ばれる。そのうちの第六天が他化自在天と呼ばれる。また、この第六天に住む神のことも他化自在天と呼ぶ。「他化自在」は、他の者が作り出したものを自由に享受する者の意。釈尊が覚りを開くのを妨害したといわれ、三障四魔の中の天子魔とされる。

 

波瑠璃王

サンスクリットのヴィルーダカの音写。釈尊存命中のコーサラ国の王。波斯匿王の子。波斯匿王は妃を迦毘羅衛国(カピラヴァストゥ)に求めたが、釈迦族は王の勢力を恐れ、釈摩男の召使いである女が産んだ美女を王女と偽って王に差し出した。この女と波斯匿との間に生まれたのが波瑠璃王である。波瑠璃王は後にこのことを知って激怒し、復讐として釈迦族に対し大量殺戮を行った。これは釈尊が存命中に受けた九つの難(九横の大難)の一つにあたる。

 

鴦堀摩羅

梵名アングリマーラー(Angulimālā)の音写。央掘摩羅・鴦掘摩とも書く。指鬘と訳す。釈尊在世当時の弟子。央掘摩羅経巻一等によると、人を殺して指を切り、鬘(首飾、髪飾)としたのでこの名がある。外道の摩尼跋陀を師としてバラモンを学んでいたが、ある時、師の妻の讒言にあい、怒った師は央掘摩羅に1000人を殺してその指を取るよう命じた。そのため999人を殺害し、最後に自分の母と釈尊を殺害しようとしたが、あわれんだ釈尊は彼を教化し大乗につかせたという。仏説鴦掘摩経では100人を殺そうとして99人を殺したとある。

 

提婆

サンスクリットのデーヴァダッタの音写。調達とも音写する。釈尊の従弟で、最初は釈尊に従って出家するが、慢心を起こして敵対し、釈尊に種々の危害を加えたり教団の分裂を企てた(三逆罪=破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢)。その悪行ゆえに生きながら地獄に堕ちたという。

【提婆の成仏】法華経提婆達多品第12では、提婆達多は阿私仙人という釈尊の過去世の修行の師であったことが明かされ、無量劫の後、天王如来になるだろうと記別を与えられている。これは悪人成仏を明かしている。

【釈尊や仏弟子への迫害】①仏伝によれば、提婆達多は釈尊を殺そうとして耆闍崛山(霊鷲山)から大石を投げ落としたが、地神の手に触れたことで釈尊は石を避けることができた。しかし、破片が釈尊の足に当たり親指から血が出たという。これは五逆罪の一つ、出仏身血にあたる。②阿闍世王は、提婆達多を新たに仏にしようとして、象に酒を飲ませて放ち、釈尊を踏み殺させようとしたという。これは釈尊が存命中に受けた九つの難(九横の大難)の一つにあたる。③『大智度論』などによると、蓮華比丘尼(華色比丘尼)は、釈尊の弟子で、提婆達多が岩を落として釈尊を傷つけて血を出させた時に、提婆達多を非難して、提婆達多に殴り殺されたという。

 

旃遮婆羅門女

略して旃遮女という。腹の中に鉢を入れて釈尊の子をみごもったといい、釈尊を誹謗した業因によって、無間地獄に堕ちた。

 

婆羅門城

釈尊の九横の大難があったところ。釈尊が阿難を連れ婆羅門城を乞食したが空鉢であった時、年老いた下婢が、供養する物がなくて、捨てようとした臭い鏘(米のとぎ汁)を供養した。バラモンがこのことは臭食の報いであると謗った。

 

華色比丘尼

『大智度論』などによると、釈尊の弟子である華色比丘尼(蓮華比丘尼)は、提婆達多が岩を落として釈尊を傷つけて血を出させた時に、提婆達多を非難して、提婆達多に殴り殺されたという。

 

目連は竹杖外道に殺され

目連は目犍尊者、摩訶目犍連ともいう。釈尊十大弟子の一人で、神通第一。竹杖外道は古代インドのバラモンの一派で、執杖梵士とも呼ばれる。毘奈耶雑事巻十八によると、目犍連は舎利弗と共に王舎城を巡行中、竹杖外道に出会い、その師を破したため、杖で打ち殺されたという。その際、いったんはのがれたが、過去世の宿業であることを知り、外道に殺されて業を滅したとある。

 

竹杖外道

古代インドの仏教以外の修行者の一派。目連は舎利弗と共に王舎城(ラージャグリハ)を巡行中、竹杖外道に出会い、その師を破したため、杖で打ち殺されたという。

 

迦留陀夷

梵語カーローダーイン(Kālodāyīn)の音写。迦留陀夷とも書く。黒光・黒曜と訳す。釈尊が太子であったときの師で、出家して仏弟子となったが、破戒の行為が多かった。しかし、阿羅漢果を得てから改め、舎衛国の九百九十九家を教化した。そして、千家目にバラモンの家を教化しているとき、その家の夫人の策略によって、糞の中に埋められ殺されたという。

 

中天竺

インドを東・西・南・北・中と五つにわけたなかの「中」。中央インドのこと。

 

王舎城

サンスクリットのラージャグリハの音写。古代インドのマガダ国の首都。現在のビハール州のラージギルにあたる。阿闍世王(アジャータシャトル)が都とし、釈尊がしばしば説法した。王舎城の郊外に霊鷲山がある。日蓮大聖人の御在世当時の日本では、霊鷲山は王舎城の艮(東北)にあると認識されていた。

 

丑寅

①午前2時~午前4時をいう。②方位・北東を意味する。

 

耆闍崛山

霊鷲山のこと。古代インドのマガダ国(現在のベンガル州)の首都である王舎城(ラージャグリハ、現在のラージギル)の東北にある山。サンスクリットのグリドゥラクータの訳。音写語は耆闍崛山。法華経の説法が行われたとされる。法華経本門寿量品の自我偈の教説に基づいて、久遠の仏が常住する仏国土を意味し、霊山浄土と呼ばれる。霊山ともいう。『大智度論』巻3によると、山頂が鷲に似ていることと鷲が多くいるため霊鷲山と名づけられたいう。

 

東天竺

インドを五分割したなかの東。

 

拘尸那城

梵語(Kúsi-nagara)拘尸那伽羅で、香茅城・茅城と訳す。吉祥草の都城という意味である。現在の北インド、ウッタル・ブランデーン州にあった都城で、北にヒマラヤ山脈のダウラギリ、マナスル等の高峰を背負い、南にガンジスの流れを望む地帯にある。釈尊在世当時は、十六大国の一つ末羅族の都であった。この城外、北の跋提河の西北に沙羅樹林があり、涅槃経の説処であるとともに、釈尊入滅の地となった。そのほか、釈迦本生譚である稚王の火を救った地、鹿王として身を死して生を救った地、仏最後の弟子である須跋陀羅の入滅の地、執金剛神の地に倒れて悲慟した仏滅後七日供養の地、父母慟哭の地、天冠の荼毘処など、多くの由緒ある遺跡がある。なお、当時のままという大涅槃搭も残っており、諸国からの巡礼者が跡を絶たない。

 

跋提河

華厳経が説かれた場所のこと。

 

講義

一切の菩薩や凡夫が仏に成ることができたのも法華経の恩徳によるのであり、また釈尊はさまざまな難を乗り越えてその悟りを説き残したのが法華経なので、法華経を行ずる者を必ず守るのであり、そのために法華経の行者の祈りがかなわないはずがない、と示されている。

 

又一切の菩薩並に凡夫……供養すべしと説せ給へり

 

初めに、一切の菩薩や凡夫が、法華経を行じて仏に成ったことが明かされて、法華経が諸仏に勝れる理由が示されている。菩薩等が四十余年の爾前の諸経でいかに歴劫修行をしても成仏することができなかったのは、それらの諸経には成仏の実義がないからであった。しかるに、法華経を行じて仏に成り、衆生から仰がれるようになったのは、法華経の恩徳なのである

開目抄には「されば諸経の諸仏・菩薩・人天等は彼彼の経経にして仏にならせ給うやうなれども実には法華経にして正覚なり給へり、釈迦諸仏の衆生無辺の総願は皆此の経にをいて満足す今者已満足の文これなり、予事の由を・をし計るに華厳・観経・大日経等をよみ修行する人をば・その経経の仏・菩薩・天等・守護し給らん疑あるべからず、但し大日経・観経等をよむ行者等・法華経の行者に敵対をなさば彼の行者をすてて法華経の行者を守護すべし」(021618)と仰せになっている。したがって、諸仏も自らが仏に成ることができた大恩徳のある法華経を行ずる者を必ず守護するのである。

そのように勝れた法華経だからこそ、仏は法華経の法師品第十に「若しは経巻の住する所の処には、皆な応に七宝の塔を起て、極めて高広厳飾ならしむべし。復た舎利を安んずることを須いず」と説いているのである。

これは、この文を釈した法華文句巻八上に「此の経は是れ法身の生処、得道の場、法輪の正体、大涅槃の窟なり、此の経の在る所は須らく塔もて供養すべし。不復安舎利とは、釈論に云く、砕骨は是れ生身の舎利、経巻は是れ法身の舎利なりと、此の経は是れ法身の舎利なり、更に生身の舎利を安んずるを須たず」とあるように、法華経を法身の舎利として、仏の生身の舎利よりも尊いゆえに、法華経を安置し尊崇すべきであって、仏の舎利等を安置すべきではない、との意である。

また、涅槃経には「諸仏の師とする所は、所謂法なり。是の故に如来は恭敬供養す」と説かれている。すなわち、諸仏が師として修行したのは法であり、それによって仏になることができたために、如来はその法(法華経)を敬い、供養するのである、との意である。

この二つの経文の意を「法華経には我舎利を法華経に並ぶべからず、涅槃経には諸仏は法華経を恭敬供養すべしと説せ給へり」と述べられている。

 

仏此の法華経をさとり……祈とならせ給はざるべき

 

釈尊は妙法蓮華経を悟って仏に成ったのであり、その法華経を説いて衆生に聞かせなければ仏種を断つことになって、仏として大きな過失となるのである。仏種とは衆生が成仏得道する因を草木の種子にたとえたもので、衆生の仏性を指す場合と衆生の仏性を開発させる仏の教法をいう場合があり、この場合は法華経をさしている。

曽谷殿御返事に「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(1056:14)と仰せであり、仏は法華経を仏種として、衆生心田に植え、衆生の仏性を開発して成仏の果を得させるのである。

したがって、もしも釈尊が法華経を説かないとすると、衆生に対して仏種を下さないことになり、成仏得道する者はいなくなる。

そのため、釈尊が娑婆世界に出現して法華経を説こうとすると、元品の無明が第六天の魔王の働きとなって顕れ、一切衆生の身に入って仏をあだみ、迫害して説かせまいとしたのである。

元品の無明とは、元品の法性に対する言葉で、衆生の生命に本然的に具わっている根本の迷いのことで、妙法を信ずることができないという迷いをいう。その根本の迷いが第六天の魔王となり、正法に敵対し、仏道修行の障害となり、成仏を妨げるさまざまな働きとなって顕れるのである。

治病大小権実違目には「一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:07)と述べられている。すなわち、すべての生命に具わる性善、つまり元品の法性が依報のうえに顕れれば、正法を守護する梵天・帝釈等の諸天善神の働きとなり、逆に本有の性悪、すなわち元品の無明が顕れれば、正法を行ずる者を悩ます第六天の魔王の働きになる、との意である。そして、その具体的な事例として、波瑠璃王が五百人の釈迦族を殺したことなど、釈尊が直接受けた難と、華色比丘尼・目蓮・迦留陀夷などの弟子が受けた難が挙げられている。

如説修行抄で「釈尊は法華経の御為に今度・九横の大難に値ひ給ふ」(0501:10)と仰せのように、釈尊がその在世中に受けた、孫陀利の謗、バラモン城の鏘、阿耆多王の馬麦、瑠璃の殺釈、乞食空鉢、旃遮女の謗、調達(提婆達多)が山を推す、寒風に衣を索む、阿闍世王が酔象を放つ、の九つの大難はすべて法華経のためだったのであり、本抄の意によれば、釈尊に法華経を説かせまいとした第六天の魔王の働きとされるのである。

なお、本抄で挙げられている、波瑠璃王が多くの釈迦族を殺したこと、提婆達多が山上から大石を落として釈尊の足の指を傷つけこと、旃遮婆羅門の女が鉢を腹に伏せて釈尊の子を身ごもったと誹謗したこと、婆羅門城の王が釈尊を迫害したこと(乞食空鉢)などは、九横の大難に含まれている。兄弟抄には「第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に『悪鬼其の身に入る』と説かれて候は是なり」(1082-04)と述べられており、それらの難は、第六天の魔王が釈尊を憎み、それらの人々の身に入って迫害させたのである。また、華色比丘尼が提婆達多を呵責して打ち殺され、目連が竹杖外道の師を破折したためにその杖で打ち殺され、迦留陀夷が舎衛国のバラモンの婦人に殺されてその頭を糞中に埋められた等の弟子の受けた難も、皆、釈尊を敵視してのこととされている。

しかし、釈尊はこうした数々の難を乗り越えて、72歳の時に、中インド・マガダ国の都城・王舎城の東北方にあった耆闍崛山(霊鷲山)で法華経を説き始めて、八年で説き終わり、80歳の215日に、東インドのマラ国の都城・倶尺那城の北方、跋提河(熙連河)のほとりの沙羅双樹の下で涅槃している。

釈尊の悟りは法華経にことごとく説き残されているので、法華経の文字はそのまま釈尊の魂なのであり、したがってこの経を行ずる人を、釈尊は我が眼のように大切にし、人の身に影が添うように守るので、その人の祈りがかなわないわけはないのである。

 

 

 

第四章 (菩薩・諸天の守護必定なるを明かす)

 本文   

一切の菩薩は又始め華厳経より四十余年の間・仏にならんと願い給いしかども・かなはずして、法華経の方便品の略開三顕一の時「仏を求むる諸の菩薩大数八万有り、又諸の万億国の転輪聖王の至れる合掌して敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」と願いしが、広開三顕一を聞いて「菩薩是の法を聞いて疑網皆已に断ちぬ」と説かせ給いぬ、其の後自界他方の菩薩雲の如く集り星の如く列り給いき、宝塔品の時・十方の諸仏・各各無辺の菩薩を具足して集り給いき、文殊は海より無量の菩薩を具足し、又八十万億那由佗の諸菩薩・又過八恒河沙の菩薩・地涌千界の菩薩・分別功徳品の六百八十万億那由佗恒河沙の菩薩・又千倍の菩薩・復一世界の微塵数の菩薩・復三千大千世界の微塵数の菩薩・復二千中国土の微塵数の菩薩・復小千国土の微塵数の菩薩・復四四天下の微塵数の菩薩・三四天下二四天下・一四天下の微塵数の菩薩・復八世界微塵数の衆生・薬王品の八万四千の菩薩・妙音品の八万四千の菩薩・又四万二千の天子・普門品の八万四千・陀羅尼品の六万八千人・妙荘厳王品の八万四千人・勧発品の恒河沙等の菩薩三千大千世界微塵数等の菩薩・此れ等の菩薩を委く数へば十方世界の微塵の如し、十方世界の草木の如し、十方世界の星の如し、十方世界の雨の如し、此等は皆法華経にして仏にならせ給いて、此の三千大千世界の地上・地下・虚空の中にまします、迦葉尊者は鶏足山にあり、文殊師利は清凉山にあり、地蔵菩薩は伽羅陀山にあり、観音は補陀落山にあり、弥勒菩薩は兜率天に、難陀等の無量の竜王阿修羅王は海底海畔にあり、帝釈は忉利天に梵王は有頂天に・魔醯修羅は第六の佗化天に・四天王は須弥の腰に・日月・衆星は我等が眼に見へて頂上を照し給ふ、江神・河神・山神等も皆法華経の会上の諸尊なり。

  仏・法華経をとかせ給いて年数二千二百余年なり、人間こそ寿も短き故に仏をも見奉り候人も待らぬ、天上は日数は永く寿も長ければ併ながら仏をおがみ法華経を聴聞せる天人かぎり多くおはするなり人間の五十年は四王天の一日一夜なり、此れ一日一夜をはじめとして三十日は一月十二月は一年にして五百歳なり、されば人間の二千二百余年は四王天の四十四日なり、されば日月並びに毘沙門天王は仏におくれたてまつりて・四十四日いまだ二月にたらず、帝釈・梵天なんどは仏におくれ奉りて一月一時にもすきず、わづかの間に・いかでか仏前の御誓並びに自身成仏の御経の恩をばわすれて、法華経の行者をば捨てさせ給うべきなんど思いつらぬれば・たのもしき事なり、されば法華経の行者の祈る祈は響の音に応ずるがごとし・影の体にそえるがごとし、すめる水に月のうつるがごとし・方諸の水をまねくがごとし・磁石の鉄をすうがごとし・琥珀の塵をとるがごとし、あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし

 

現代語訳

一切の菩薩は、また初め華厳経から四十余年の間、仏になろうと願っていたけれども、かなわず、法華経の方便品の略開三顕一が説かれた時、仏を求める諸の菩薩が大数八万人いた。また諸の万億国の転輪聖王が集まり、合掌して敬う心をもって「具足の道をお聞きしたい」と願ったところ、広開三顕一の説法を聞いて菩薩達は「疑網は皆すでに断たれた」と説かれたのである。

その後、この国や他方の菩薩が雲のように集まり、星のように列なったのである。宝塔品の時には、十方の諸仏が各々無辺の菩薩を引き連れて集まった。

文殊は海から無量の菩薩を引き連れ、また八十万億那由佗の諸菩薩、また八恒河沙に過ぎた菩薩、地涌千界の菩薩、分別功徳品の六百八十万億那由佗恒河沙の菩薩、また千倍の菩薩、また一世界を微塵にしたほどの数の菩薩、また三千大千世界を微塵にしたほどの数の菩薩、また二千の中国土を微塵にしたほどの数の菩薩、また小千国土を微塵にしたほどの数の菩薩、また四四天下を微塵にしたほどの数の菩薩、三四天下、二四天下、一四天下を微塵にしたほどの数の菩薩、また八世界を微塵にしたほどの数の衆生、薬王品の八万四千の菩薩、妙音品の八万四千の菩薩やまた四万二千の天子、普門品の八万四千人、陀羅尼品の六万八千人、妙荘厳王品の八万四千人、勧発品の恒河沙等の菩薩や三千大千世界を微塵にしたほどの数の菩薩、これらの菩薩をくわしく数えるならば、十方世界を微塵にしたほどになり、十方世界の草木のようであり、十方世界の星のようであり、十方世界の雨のようである。

これらは、皆法華経によって仏になられて、この三千大千世界の地上、地下、虚空のなかにおられる。迦葉尊者は雞足山におり、文殊師利は清凉山におり、地蔵菩薩は伽羅陀山におり、観音は補陀落山におり、弥勒菩薩は兜率天に、難陀等の無量の竜王や阿修羅王は海底海畔におり、帝釈は忉利天に、梵王は有頂天に、魔醯修羅は第六の佗化天に、四天王は須弥の腰におり、日月や衆星は我等の眼に見えて頂上を照らしている。江神・河神・山神等も皆法華経の会座の諸尊である。

仏が法華経を説かれてから二千二百余年である。人間こそ寿命が短いから、仏を見た人もいないが、天上は日数も永く、寿命も長いので、仏を拝み法華経を聴聞した天人は、かぎりなく多くいるのである。

人間の五十年は四王天の一日一夜である。この一日一夜をもととして、一か月を三十日、一年を十二か月として、寿命は五百歳である。したがって、人間の二千二百余年は四王天の四十四日である。

日月天並びに毘沙門天王は、仏が亡くなられてから四十四日、いまだ二月にも足らない。帝釈や梵天などの場合は、仏が亡くなられてから一月、一時にもすぎない。

これだけわずかの間にどうして仏前の御誓ならびに自身が成仏した御経の恩を忘れて、法華経の行者を捨てられるであろうかなどと思い続ければ、たのもしいことである。

したがって、法華経の行者が祈る祈りは、響きが音に応ずるように、影が身体に添うように、澄んだ水に月が映るように、方諸が水を招くように、磁石が鉄を吸うように、琥珀が塵を取るように、明らかな鏡が物の色を浮かべるようにかなうのである。

 

語釈

華厳経

大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。

 

方便品

妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を住如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。

 

略開三顕一

開三顕一を法華経方便品第2の前半で略説したこと。広開三顕一に対する語。

 

転輪聖王

全世界を統治するとされる理想の王のこと。転輪王、輪王ともいう。天から輪宝という武器を授かり、国土を支配するとされる。その徳に応じて授かる輪宝に金・銀・銅・鉄の4種があり、支配する領域の範囲も異なるという。金輪王は四大洲、銀輪王は東西南の3洲、銅輪王は東南の2洲、鉄輪王は南閻浮提のみを治める。

 

広開三顕一

「広く三を開いて一を顕す」と読む。広く三乗を開いて一仏乗を明かしたこと。法華経方便品第2の長行から法華経授学無学人記品第9までの間で、仏が今まで説いてきた三乗の法は一仏乗を説くための方便であったことを、法理・譬喩・因縁を通して広く説き明かしたことをいう。「三」とは声聞・縁覚・菩薩のために説かれた教法で爾前の諸経をさし、「一」とは一切衆生を成仏させる教法で法華経をさす。これに対し、方便品の前半で十如是を説いて、ほぼ開三顕一を明かしたことを略開三顕一という。

 

宝塔品

妙法蓮華経の第11章。正法華経の七宝塔品第11に相当する。サンスクリット文の法華経の多くは、この品に提婆達多品第12の内容が含まれている。この本品から虚空で説法がなされるので、嘱累品第22に至るまでの12品の説法の場を虚空会という。初めに大地から多宝如来の高さ500由旬の七宝の塔が涌出して、虚空に住し、その宝塔の中から法華経が真実であると保証する大音声がある。続いて裟婆世界が三変土田によって浄土となり、十方世界の分身の諸仏が集められ、次いで釈尊が宝塔に入って多宝と並んで座り(二仏並坐)、神通力で聴衆を虚空に置く。そして釈尊の滅後に法華経を護持する者は誓いの言葉を述べるよう3度、流通を勧める(三箇の鳳詔)。この中で、第3の鳳詔では他の経典は持ちやすく、法華経を受持することは難しいとの六難九易が説かれ、この後に「此経難持」の偈頌が説かれている。本品は、方便品第2から次第に説かれた三周の説法が真実であることを証明する(証前)とともに、如来寿量品第16の久遠実成の義を説き起こす(起後)遠序であると位置づけられている。

 

八十万億那由佗の諸菩薩

勧持品で、八十万億那由佗の不退の菩薩が八十万億那由佗の菩薩が仏に末法弘通の告勅を願い、いかなる難をも忍ぶと誓って、20行の偈を述べたものである。

 

過八恒河沙の菩薩

恒沙は恒河沙の略で、ガンジス川の砂の数ということからきた非常に多い数の単位。過八恒沙とは、八恒河沙を超えるとの意。涌出品の冒頭で、過八恒河沙という他国から来た無数の菩薩が、競って末法における娑婆世界の法華経弘通を望んだことをいう。

 

地涌千界の菩薩

地涌の菩薩のこと。法華経従地涌出品第15において、釈尊の呼び掛けに応えて、娑婆世界の大地を破って下方の虚空から涌き出てきた無数の菩薩たち。上行・無辺行・安立行・浄行の四菩薩を代表とし、それぞれが無数の眷属をもつ。如来神力品第21で釈尊から、滅後の法華経の弘通を、その主体者として託された。この地涌の菩薩は、久遠実成の釈尊(本仏)により久遠の昔から教化されたので、本化の菩薩という。これに対して、文殊・弥勒などは、迹仏(始成正覚の釈尊など)あるいは他方の世界の仏から教化された菩薩なので、迹化・他方の菩薩という。

 

分別功徳品

妙法蓮華経分別功徳品第17のこと。略広に開近顕遠して、菩薩大衆は種々の功徳を得たのであるが、その功徳の浅深不同を分別することを説いたので、分別功徳品というのである。全体が二段に分かれていて、初めから弥勒が領解を述べた偈頌の終わりまでは、本門の正宗分で、その中に授記と領解があり、まず総じて菩薩に法身の記を授け、大衆の供養があり、ついで、領解、分別功養がある。つぎに、後半、「爾の時、仏、弥勒摩訶薩に告げたまわく」から終わりまでは流通分に属し、次の品の終わりまでは初品の因の功徳を明かすのであって、まず一念信解、略解言趣、広為他説、深信観成の現在の四信と、随喜品、読誦品、解脱品、兼行六度品、正行六度品の滅後の五品を説き、次品の終わりまでにも及んでいる。日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の正行を、初信の位にとっておられる。

 

三千大千世界

古代インドの世界観・宇宙観を用いて説かれた仏教の世界観。須弥山を中心に、太陽・月・四洲を包含するものを小世界として、それが1000集まったものを小千世界、小千世界を1000倍したものを中千世界、中千世界を1000倍したものを大千世界と呼ぶ。小千・中千・大千の3種を総称して三千大千世界という。

 

薬王品

妙法蓮華経薬王菩薩本事品第23のこと。この品から五品は付嘱流通のなかの化他流通である。弘法の師をつとめるのであって、宿王華菩薩の問いに対し、釈尊は日月乗明徳如来の本事と、その仏から付嘱を受けた薬王菩薩の本事を説いたのであるから、この名前がある。薬王菩薩が苦行して色心三昧を得、報恩に焼身供養したことを説いてある。ここで諸仏の同賛があり、「善い哉、善い哉、善男子、是れ真の精進なり、是れを真の法をもって如来を供養すと名づく」と説かれた。後段で薬王品十喩の譬えが説かれている。

 

妙音品

法華経妙音菩薩本事品第24のこと。東方の浄光荘厳国から妙音菩薩が、霊鷲山に来て、釈尊・多寶仏を供養した。この妙音菩薩は法華経によって34身を現じて衆生を救護していることを説く。そして法華経を聞くことの価値を説き、妙音菩薩のこの説法を聞いた者は現一切色身三昧を得ることができたことを説いて。これを説き終わった妙音菩薩は本国に帰るのである。

 

普門品

観世音菩薩普門品のこと。妙法蓮華経の第25章。観音品・普門品と略す。観世音(観音)菩薩が、苦難にあってもその力を念じその名をとなえる人を守護することや33の姿(三十三身)を現して衆生を教化することを説き、法華経の護持・弘通を勧める。単独で観音経とされ、観音信仰で依拠する経典となっている。また『法華文句記』では、方便品・安楽行品・如来寿量品・観世音菩薩普門品が法華経の肝要とされ、四要品として重んじられた。

 

陀羅尼品

法華経陀羅尼品第26のこと。五番の神呪がとかれている。

 

妙荘厳王品

法華経妙荘厳王本事品第27のこと。化他流通中の人をもって法を守ることを説き明かしている。薬王・薬上菩薩の本事品とも見られる。

 

勧発品

法華経普賢菩薩勧発品第28のこと。神力品以下付嘱流通中の自行流通を勧めている。普賢菩薩が東方宝威徳上王仏の国にいて、この娑婆世界で、釈尊が法華経を説くのを聞いて来至し、仏の滅後にいかにしてこの法華経を持つかとの問いに対して、釈尊は四法成就を説いて、法華経を再演したことをあらわしている。

 

迦葉尊者

サンスクリットのカーシャパの音写。摩訶迦葉のこと。釈尊の声聞の十大弟子の一人で、頭陀(欲望を制する修行)第一といわれた。釈尊の教団を支え、釈尊滅後の教団の中心となった。釈尊の言行を経典として集成したとされる。法華経授記品第6で、未来に光明如来に成ると保証された。

【鶏足山の入定】摩訶迦葉は釈尊が亡くなった後、正統な後継者となって教えを広めて、阿難にその任を譲った。それ以来、鶏足山で禅定に入って、弥勒菩薩が567000万年後にこの娑婆世界に仏として出現するのを待っているとされた。

【禅宗における伝承】大梵天王問仏決疑経(疑経)では、釈尊が霊鷲山で一房の花を手にとって人々に示した際、その意味を誰も理解できないなかで迦葉一人が理解してほほ笑んだとされる(これを拈華微笑という)。この話が、釈尊が迦葉に法を伝えたという伝説として、宋以後の禅宗で重用され、教外別伝・不立文字の基盤とされた。

 

鶏足山

古代インドのマガダ国の山。サンスクリットのクックタパダギリの訳。現在のガヤーとビハールとの中間にあり、クルキハールの地にあたる。

 

文殊師利

文殊師利はサンスクリットのマンジュシュリーの音写。直訳すると、「うるわしい輝きをもつ者」。仏の智慧を象徴する菩薩で、仏像などでは獅子に乗った姿で釈尊の向かって左に配される。法華経では、弥勒菩薩・薬王菩薩とともに、菩薩の代表として登場する。

 

清凉山

文殊師利菩薩の住処とされる。華厳経巻29には「東北方に菩薩の住処有り、清涼山と名づけ、過去の諸の菩薩常に中に於いて住せり。彼(かしこ)に現に菩薩あり、文殊師利と名づけ、一万の菩薩の眷属有りて常に為に法を説く」とある。古来より、中国山西省北東部の五台県にある五台山が経文にある清涼山と信ぜられ、仏教の一大霊地とされた。

 

地蔵菩薩

インド神話における地神がその起源とされ、仏教においては衆生の苦を除いて成仏へ導く菩薩とされた。釈尊から忉利天の衆生の前で、釈尊滅後に弥勒菩薩が出現するまでの無仏の世界の導師として付嘱を受けたとされる。地蔵菩薩への信仰は、日本の平安時代に末法思想と結びついて広まった。

 

伽羅陀山

伽羅陀は梵語カラーディーヤ(Kharādīya)の音写。迦羅陀山、佉羅陀山とも書き、騾林山と訳す。須弥山を囲む七金山の一。地蔵菩薩の住処とされる。

 

観音

観音菩薩、観自在菩薩ともいう。「観世音」とは「世音を観ずる」ということで、慈悲をもって衆生を救済することを願う菩薩。大乗仏教を代表する菩薩の一人で、法華経観世音菩薩普門品第25などに説かれる。その名前をとなえる衆生の声を聞いて、あらゆる場所に現れ、さまざまな姿を示して、その衆生を苦難から救うとされる。浄土教でも信仰され勢至菩薩とともに阿弥陀仏の脇士とされる。

  

弥勒菩薩

弥勒はサンスクリットのマイトレーヤの音写。慈氏と訳し、慈愛に満ちた者を意味する。未来に釈尊に次いで仏としての位を継ぐとされる菩薩。釈尊に先立って入滅し、現在は菩薩として、都率天の内院で神々と人々に法を説いているとされる。そして釈尊滅後567000万年後に仏として再びこの世界に登場し衆生を救うとされる。このように次の生で仏となって釈尊の処(地位)を補うので「一生補処の菩薩」とも弥勒仏とも称する。紀元前後から、この世の救世主として弥勒菩薩の下生を願い信ずる弥勒信仰が盛んになり、インド・中国・日本を通じて行われた。古来、インドの瑜伽行派の学者である弥勒と混同されてきたのも、この弥勒信仰に起因している。

 

兜率天

都率はサンスクリットのトゥシタの音写。兜率とも書く。欲界に属する天上世界は6層に分かれるが、そのうち下から数えて第4層にあたる。須弥山の頂上のすぐ上に位置する。仏になる直前の菩薩が待機している。娑婆世界における都率天には弥勒菩薩が待機しており、567000万年後に地上に下りてきて仏と成って人々を救うとされる。

 

難陀

唯識学派の論師。世親(ヴァスバンドゥ)の『唯識三十論頌』『瑜伽師地論』などを解釈した。父は浄飯王、母は摩訶波闍波提比丘尼で、釈尊の異母弟にあたる。仏本行集経巻56によれば、難陀は出家した後も愛する妻・孫陀利を忘れられず、釈尊からたびたび教戒を受け、ついに阿羅漢果を得た。後に諸根を調伏すること(本能を統制すること)第一と言われた。八大竜王の一つ、難陀竜王のこと。跋難陀竜王と兄弟であり、ともに法華経序品第1に法華経の会座に出席したことが記されている(法華経73㌻)。

 

阿修羅王

法華経の説法の場に集っていた阿修羅王の一人。「観心本尊抄」では、法華経に十界互具が説かれていることを明かすにあたり、婆稚阿修羅王たちがこの経の一偈一句を聞いて随喜の心を起こすなら阿耨多羅三藐三菩提(仏の覚り)を得ると説かれた法師品第10の文を引かれ、これを修羅界に十界がそなわることの証文とされている。

 

帝釈

帝釈はシャクローデーヴァーナームインドラハの訳で、釈提桓因と音写する。古代インドの神話において、雷神で天帝とされるインドラのこと。帝釈天は「天帝である釈(シャクラ)という神」との意。仏教に取り入れられ、梵天とともに仏法の守護神とされた。欲界第2の忉利天の主として四天王を従えて須弥山の頂上にある善見城に住み、合わせて32の神々を統率している。

 

忉利天

サンスクリットのトラーヤストリンシャの音写。意訳が三十三天。古代インドの世界観で欲界のうちの六欲天の下から2番目。須弥山の頂上に位置し、帝釈天を主とする33の神々(三十三天)が住むとされる。

 

梵王

サンスクリットのブラフマーの訳。①古代インドの世界観において、世界を創造し宇宙を支配するとされる中心的な神。種々の梵天がいるが、その中の王たちを大梵天王という。仏教に取り入れられ、帝釈天とともに仏法の守護神とされた。②大梵天王がいる場所で、4層からなる色界の最下層である初禅天のこと。欲界の頂上である他化自在天のすぐ上の場所。法華経如来神力品第21には、釈尊はじめ諸仏が広く長い舌を梵天まで伸ばしたと説かれているが、これは欲界すべてを越えるほど舌が長いということであり、決してうそをつかないことを象徴している。

 

有頂天

三界のなかの色界の18天の最上に位せる天、色究竟天という。有色界の最長という義。

 

魔醯修羅

梵名マヘーシュヴァラ(Maheśvara)の音写。大自在天と訳す。色界の頂上の色究竟天に住み、大威力をもって三千世界を支配するとされる天のこと。その形相は三目八臂で白牛に乗って白払を持つという。ヒンドゥー教におけるシヴァ神である。教時義巻四には「入大乗論に云く摩醯首羅に二種あり。一には伊舍那摩醯首羅。二には毘遮舍摩醯首羅。前は是れ第六天魔なり。後は是れ第四禅天王なり」とあり、一種の摩醯首羅は他化自在天の主といわれる。

 

第六の佗化天

他化自在天のこと。欲界の天は六重あり、その最頂・第六にあるので第六天という。そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在天と言う」とある。

 

四天王

古代インドの世界観で、一つの世界の中心にある須弥山の中腹の四方(四王天)の主とされる4人の神々。帝釈天に仕える。仏教では仏法の守護神とされた。東方に持国天王、南方に増長天王、西方に広目天王、北方に毘沙門天王(多聞天王)がいる。法華経序品第1ではその眷属の1万の神々とともに連なり、陀羅尼品第26では毘沙門天王と持国天王が法華経の行者の守護を誓っている。日蓮大聖人が図顕された曼荼羅御本尊の四隅にしたためられている。

 

日月

日天と月天のこと①日天。日天子とも。サンスクリットのスールヤの訳。インド神話では太陽を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。月天と併記されることが多い。日宮殿に住むとされる。②月天。月天子とも。サンスクリットのチャンドラの訳。インド神話では月を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。日天と併記されることが多い。長阿含経巻22では、月天子は月宮殿に住むとされる。基(慈恩)の『法華玄賛』巻2には「大勢至を宝吉祥と名づけ、月天子と作す。即ち此の名月なり」とあり、その本地は勢至菩薩とされる。法華経序品第1には、釈提桓因(帝釈天)の眷属として名月天子の名が出ており、諸天善神の一つとされる。

 

江神・河神

ともに川をつかさどる神のこと。

 

山神

山を支配する神のこと。

 

四王天

四天王が住む天。須弥山の中腹にある。

 

毘沙門天王

四大天王、十二天のひとつ。多聞天ともいう。須弥山の中腹の北面に住し、つねに仏の説法を聞き、仏の道場を守護する働きをする。陀羅尼品では法華経の行者の守護を誓った諸天善神のひとつ。財宝富貴をつかさどり、施福の働きを持つ。

 

方諸

月から水をとるという鏡のこと。月夜のような晴れた夜には、鏡を戸外に置くと、冷えた鏡の表面に露がつくことから、鏡が水を月から得たと考えたもの。一説には大蛤のことともいわれる。

 

琥珀

古代植物の樹脂などが地中に長く埋もれて化石化したもの。透明ないし半透明で光沢があり、黄色味を帯びている。摩擦すると静電気を起こし、塵などを吸いつける性質がある。

講義

法華経の会座において、諸の菩薩は初めて成仏を許され、また諸の天人も法華経の行者を守護するとの誓いを立てており、その法華経の恩と誓いを忘れることはできないので、法華経の行者の祈りがかなわないわけがないことが明かされている。

 

一切の菩薩は又始め……会上の諸尊なり

 

一切の菩薩は、釈尊が華厳経を説いた最初から、成仏を願ってきたがかなわず、法華経の方便品第二で「具足の道を聞きたてまつらんと欲す」と願い、初めて成仏の法を聞くことができた。

それに対して釈尊は広開三顕一の法門を説き、声聞の弟子に未来作仏の授記を明かして三乗に執われた心を破し、一仏乗の法理を広く説いた。

それを聞いた菩薩達は「疑網は皆な已に除く」とあるように、一切の疑いを除いて一仏乗の法を信ずることができたのである。

その後の法華経の会座には、この娑婆世界はもとより、他方の国土の菩薩達が雲集している。見宝塔品第十一では、十方分身の諸仏が無量千万億の菩薩とともに集い、提婆達多品第十二では文殊師利菩薩の教化した無量無数の菩薩が海から涌出しており、勧持品第十三では八十万億那由佗の諸の菩薩が会座に列なっている。従地涌出品第十五では過八恒河沙の菩薩が他方の国土から来ており、また六万恒河沙の地涌千界の菩薩が涌現した。

分別功徳品第十七では六百八十万億那由陀恒河沙の衆生が無生法忍を得、千倍の菩薩が聞持陀羅尼門を得、一世界微塵数の菩薩が楽説無礙弁才を得、一世界微塵数の菩薩が百千万億無量の旃陀羅尼を得、三千大千世界微塵数の菩薩が不退の法輪を転じ、二千中国土微塵数の菩薩が清浄の法輪を転じ、小千国土微塵数の菩薩が八生に阿耨多羅三藐三菩提を得、四四天下微塵数の菩薩が四生に阿耨多羅三藐三菩提を得、三四天下微塵数の菩薩が三生に阿耨多羅三藐三菩提を得、二四天下微塵数の菩薩が二生に阿耨多羅三藐三菩提を得、一四天下微塵数の菩薩が一生に阿耨多羅三藐三菩提を得、八世界微塵数の衆生が阿耨多羅三藐三菩提の心を発す、とされている。

薬王菩薩本事品第二十三では八万四千の菩薩が解一切衆生語言陀羅尼を得たとされ、妙音菩薩品第二十四では妙音菩薩とともに八万四千の菩薩が発来し、四万二千の天子が無生法忍を得ている。観世音菩薩普門品第二十五では八万四千の衆生が阿耨多羅三藐三菩提の心を発し、陀羅尼品第二十六では六万八千人が無生法忍を得、妙荘厳王本事品第二十七では八万四千人が法眼浄を得ている。

最後の普賢菩薩勧発品第二十八では、恒河沙等の無量無辺の菩薩が百千万億旃陀羅尼を得、三千大千世界微塵等の菩薩が普賢の道を具したとされている。

このように、法華経の会座に列なった菩薩の数は、それこそ無数といえるほどで、しかもそれらの菩薩は皆、法華経によって仏に成ることができたのであり、そのうえで三千大千世界の諸の国土の地上や地下や虚空に在って尊崇され、衆生を救っているのである。

釈尊十大弟子の一人・摩訶迦葉は、釈尊滅後二十年の間、小乗教を弘め、化導を終わると法を阿難に付嘱し、中インド・マガダ国の鶏足に登って入寂したとされる。

迹化の菩薩の上首である文殊師利菩薩に対する信仰は、中国では東晋時代から、日本では平安時代以後に盛んになり、中国の五台山(清涼山)が華厳経で文殊の住処とされている東北方の清涼山であると信じられ、文殊の聖地とされた。

釈尊の付嘱を受け、釈尊が入滅してから弥勒菩薩が成道するまでの無仏の時代に衆生を救済することを託されたという地蔵菩薩は、須弥山を囲む七金山の一つである伽羅陀山が住所とされた。

法華経の観世音菩薩普門品第二十五に説かれる観世音菩薩は、三十三身を現して「怖畏急難の中」にいる一切の衆生を救うとされ、その住処はインド南海岸にあるという補陀落山とされた。

釈尊の滅後、五十六億七千万年の時に釈尊の仏位を継ぐとされた弥勒菩薩は、釈尊のまえに入滅して六欲天の第四、兜率天の内院の兜率天宮に住み、天人のために法を説いているといわれ、そこを弥勒菩薩の浄土ともいった。

法華経の序品に列座した難陀竜王らの八竜王は、大海の水底にある竜宮に住むとされ、同じく婆稚阿修羅王等の四阿修羅王は須弥山の外輪の海底・地下八万四千由旬の間の四層地に住むとされている。

また、二万の眷属とともに法華経の会座に列なった帝釈天は須弥山の頂上にある忉利天の喜見城に住み、一万二千の眷属とともに列なった娑婆世界の主とされる梵天王は色界の第四天の色究竟天(有頂天)に住むとされている。

三界のなかで欲界の魔醯修羅は、六天の頂上にある他化自在天に住むとされる。

法華経の陀羅尼品第二十六で法華経の行者を守護すると誓った持国天・増上天・広目天・多聞天の四天王は、須弥山の中腹の四面(東・西・南・北)に住するという。

太陽や月、諸の星は虚空にあって我々を照らしており、また河川を司る神や山を支配する神なども法華経説法の会座に列なっている。

それらの諸の菩薩や諸天等が、大恩ある法華経を行ずる者を守護し、祈りをかなえないわけはないのである。

 

仏・法華経をとかせ……たのもしき事なり

 

釈尊が法華経を説いてから大聖人御在世当時まで2200余年たっているが、長い諸天の寿命に換算すると数10日にすぎず、そのわずかの間に諸天が法華経の行者を守るという仏前の誓いを忘れるはずはない、と仰せられている。

持国天・広目天・増長天・多聞天の四天王が住む四王天では、「人間の昼夜五十年をもつて第一・四王天の一日一夜として四王天の天人の寿命五百歳なり」(0443:顕謗法抄:07)と仰せのように、人間の50年が1日にあたる。したがって、日・月天や毘沙門天(多聞天)にとって、末法の初めは釈尊滅後44日にしか過ぎないことになる。

また、帝釈天の住む忉利天では「人間の一百歳は第二の忉利天の一日一夜なり其の寿一千歳なり」(0444:顕謗法抄:05)と仰せのように、人間の百歳が一日となるので、2200余年は20数日間にすぎないことになる。そのために「帝釈・梵天なんどは仏におくれ奉りて一月一時にもすぎず」と述べられているのである。

したがって、数10日のわずかな間に、それらの諸天が法華経の会座に列なって陀羅尼品第26で毘沙門天王が「我れも亦た自ら当に是の経を持たん者を擁護して、百由旬の内に、諸の衰患無からしむべし」と誓ったこと等を忘れるはずはないのである。まして、自身が成仏を許された法華経の大恩を忘れるはずはなく、諸天が法華経の行者を捨てて守らないことはありえない、との仰せである。

 

されば法華経の行者……色をうかぶるがごとし

 

これまで述べられたように、諸仏・菩薩・二乗・諸天が必ず守護するので、法華経を行ずる者の祈りは、必ずかなうのである。

大聖人は、その例として、響と音、影と体、澄んだ水と月影、冷えた鏡とその表面につく露、磁石と鉄、琥珀とそれに吸いつく塵、鏡とそこに映る物の色等の必ずあいともなう自然現象を挙げられて、法華経の行者の祈りは必ずかなうと強調されている。

なお、法華経の行者とは、法華経の教説にしたがって修行する者をいう。末法の現在では、末法の法華経である南無妙法蓮華経の御本尊を信受し修行する者をさす。なお、撰時抄に「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(0284:08)と仰せのように、別しては日蓮大聖人の御事である。

また、御義口伝に「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり……無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752:05)と仰せのように、法華経の行者とは末法の御本仏の異名でもある。

日寛上人は、観心本尊抄文段に「この本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」と御本尊の功徳が広大深遠なゆえに、御本尊を信受し唱題した者の祈りがかなわないことがないと明かされているのである。

 

 

 

第五章 (竜女の法華経深恩と守護を明かす)

 本文   

世間の法には我がおもはざる事も父母・主君・師匠・妻子をろかならぬ友なんどの申す事は恥ある者は意には・あはざれども名利をもうしなひ、寿ともなる事も侍るぞかし、何に況や我が心からをこりぬる事は、父母・主君・師匠なんどの制止を加うれどもなす事あり。

  さればはんよきと云いし賢人は我頚を切つてだにこそけいかと申せし人には与へき、季札と申せし人は約束の剣を徐の君が塚の上に懸けたりき、而るに霊山会上にして即身成仏せし竜女は・小乗経には五障の雲厚く三従のきづな強しと嫌はれ、四十余年の諸大乗経には或は歴劫修行にたへずと捨てられ、或は初発心時・便成正覚の言も有名無実なりしかば女人成仏もゆるさざりしに・設い人間天上の女人なりとも成仏の道には望なかりしに・竜畜下賎の身たるに女人とだに生れ年さへ・いまだ・たけず・わづかに八歳なりき、かたがた思ひもよらざりしに文殊の教化によりて海中にして・法師・提婆の中間わづかに宝塔品を説かれし時刻に仏になりたりし事は・ありがたき事なり、一代超過の法華経の御力にあらずば・いかでか・かくは候べき、されば妙楽は「行浅功深以顕経力」とこそ書かせ給へ、竜女は我が仏になれる経なれば仏の御諌なくとも・いかでか法華経の行者を捨てさせ給うべき、されば自讃歎仏の偈には「我大乗の教を闡いて苦の衆生を度脱せん」等とこそ・すすませさせ給いしか、竜女の誓は其の所従の「非口所宣非心所測」の一切の竜畜の誓なり娑竭羅竜王は竜畜の身なれども子を念う志深かりしかば大海第一の宝如意宝珠をもむすめにとらせて即身成仏の御布施にせさせつれ此の珠は直三千大千世界にかふる珠なり。

 

現代語訳

世間の法には、自分が思わないことでも父母・主君・師匠・妻子や親しい友などの言うことには、恥を知る者は、意に合わなくても、名利を惜しまず、命をもなげうつこともある。

まして我が心から出たことは、父母・主君・師匠などの制止を加えられても成し遂げるものである。

したがって、范於期という賢人は、自分の頚を切って荊軻という人に与えた。季札という人は、約束の剣を徐の国の君の塚の上に懸けたのである。

しかるに、霊山会上で即身成仏した竜女は、小乗経では五障の雲が厚く、三従のきずなが強いと嫌われ、四十余年の諸大乗経では、あるいは歴劫修行に堪えられないと捨てられ、あるいは初めて発心した時に便ち正覚を成ずるという言も有名無実であるので、女人成仏も許されなかった。たとえ人間や天上の女人であっても成仏の道には望みがないのに、まして竜王の娘で畜生界の下賎の身であるうえに女人とさえ生まれ、年もいまだ幼くわずかに八歳であった。そのようなわけで、成仏など思いもよらなかったのに、文殊の教化によって、海中において、仏が法師品と提婆品の中間にわずかに宝塔品を説かれた時刻に仏になったことは、ありがたいことである。釈尊の一代において、際立って勝れた法華経の御力でなければ、どうしてこのようになるであろう。

したがって、妙楽大師は「行は浅く、功は深し、以って経力を顕す」と書かれたのである。竜女は自分が仏になれた経であるから、仏の諌めがなくても、どうして法華経の行者を捨てられることがあろう。

したがって、竜女自ら仏を讃歎した偈には「自分は大乗の教を闡いて、苦しむ衆生を救済しよう」と述べられたのである。

竜女の誓いはその所従の「口の宣ぶる所に非ず、心の測る所に非ず」の一切の竜という畜生の誓いである。娑竭羅竜王は竜という畜生の身ではあるが子を思う志は深かったから、大海第一の宝である如意宝珠を娘に取らせて即身成仏の御布施にされたのである。この珠は、価値が三千大千世界にも相当する珠である。

 

語釈

はんよき

(~BC0227)。中国・戦国時代の武将。樊於期とも書く。史記列伝第26によると、初め秦の将軍であったが、罪を着せられたために燕に亡命した。燕の太子丹は彼を礼遇した。丹は秦王の政を怨んでいたので、国の危急を救い、旧恩を晴らすため、刺客として荊軻を送って殺そうと図った。荊軻は、范の首と燕の督亢の地図を献ずれば、秦王に取り入ることができると思い、ひそかに范に話したところ、范は丹への報恩のため、また秦王への恨みを晴らせるならと、即座に自らの首をはねたという。

 

けいか

(~BC0227)。中国・戦国時代の刺客。燕の太子丹に招かれ、かつて丹が人質として捕らえられていた秦王政(始皇帝)を刺殺するよう頼まれた。秦都咸陽で秦王政と会見し、地図の中に隠した短刀で王を殺そうとしたが果たせず、逆に殺された。

 

季札

6世紀の、中国・春秋時代の呉の賢人。呉王・寿夢の第四子。寿夢は位を季札に譲ろうとしたが季札は受けず、延陵に封じられた。あるとき、晋へ使者として行く途中、徐の国を通った。徐君は季札の身につけている宝剣が気に入って、ほしいと思ったが、口には出さなかった。季札も徐君の心を察したが、使者の途中なので献上せず、帰りに贈ろうと心に誓った。ところが、帰りに訪れたときには既に徐君は亡くなっていた。そこで、心の誓いを果たすため、剣を徐君の墓の樹に掲げ置いて去ったという。

 

霊山会上

法華経を霊鷲山で説かれたところから、法華経の会座をいう。法華経の会座には二処三会といって、霊鷲山(序品~法師品)・虚空会(宝塔品~嘱累品)・霊鷲山(薬王菩薩本事品~普賢菩薩勧発品)がある。霊鷲山とは梵語で耆闍崛山(Gdhrakūa)のことで、インドのベンガル州の山であり、その南が尸陀林で死人の捨て場所となっていて、鷲が飛来するので「鷲山」といい、三世諸仏の法華経がとどまるので「霊山」という。日蓮大聖人の仏法から見れば、本門の題目を唱える者の住所は、いかなるところも霊鷲山である。

 

即身成仏

衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。

 

竜女

海中の竜宮に住む娑竭羅竜王の娘で8歳の蛇身の畜生。法華経提婆達多品第12には、文殊師利菩薩が法華経を説くのを聞いて発心し、不退転の境地に達していた。しかし智積菩薩や舎利弗ら聴衆は竜女の成仏を信じなかったので、竜女は法華経の説法の場で「我は大乗の教を闡いて|苦の衆生を度脱せん」と述べ、釈尊に宝珠を奉ってその身がたちまちに成仏する姿を示したと説かれている。竜女の成仏は、一切の女人成仏の手本とされるとともに、即身成仏をも表現している。

 

小乗経

小乗の教えを説いた経典のこと。

 

五障の雲

五障とは、女人の五つの障害のこと。五礙ともいう。法華経提婆達多品第十二に「又た女人の身には猶お五障有り。一には梵天王と作ることを得ず。二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何んぞ女身は速かに成仏することを得ん」とある。雲は、五つの障りを太陽の光を遮(さえぎ)る雲にたとえたもの。

 

三従のきづな

三従とは、女性の一生において、服従すべきとされた三つのこと。①幼いときは父母に従い、②嫁いでは夫に従い、③夫の死後は子に従うということ。華厳経巻二十八等に説かれる。きづなは、三つの束縛をつなぎとめておく綱にたとえたもの。

 

歴劫修行

爾前の諸経の菩薩・二乗が無量劫にわたって修行すること。小乗の菩薩は三僧祇、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は多倶低劫などと修行の時節を定め、初発心から得道までの長い期間にわたって菩薩道を行じていくこ。

 

初発心時便成正覚

円教の菩薩が初めて悟りを求める心を起こした時、即座に正しい悟りを成就すること。

 

有名無実

名ばかりあって、実のないこと。法華経已前の諸教において説かれた成仏のこと。

 

女人成仏

法華経以前の諸経では、女人は「地獄の使い」「永く成仏の期なし」等と不成仏が説かれ、また権大乗教には一応成仏も説かれているけれども、改転の成仏であり、即身成仏ではなかった。法華経提婆達多品第十二に至って、初めて女人成仏が説かれた。

 

法師

よく仏法に通じ清浄な行を修して人の師となる者のこと。

 

提婆

提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。

 

妙楽

07110782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。

 

行浅功深以顕経力

法華文句記巻10中の文。「行は浅く功は深し、以って経力を顕す」とある。

 

非口所宣非心所測

法華経提婆達多品第12の文。「口の宣ぶる所に非ず、心の測る所に非ず」とある。

 

娑竭羅竜王

娑竭羅は梵名サーガラ(Sāgara)の音写。沙竭羅とも書き、海と訳す。海竜王の意。八大竜王の一人で、竜女の父。法華経序品第一で、他の竜王とともに会座に参列した。

 

如意宝珠

意のままに宝物や衣服、食物などを取り出すことができるという宝の珠。

 

講義

法華経の会座で即身成仏した竜女が、深恩ある法華経の行者を守護しないわけはないと述べられている。

初めに、世間の法でも、自分が欲することでなくても、父母や主君、師匠、妻子、親しい友などに依頼されたことでは、自分の名誉や利益を失い、命を捨てるようなことであっても行動する場合があり、まして我が心から出たものであるなら父母や主君や師匠が強く制止しても断じて行うことがあるとして、中国の故事を引かれている。

范於期は中国・秦代の武将で、秦の将軍だったが罪に問われたため燕に亡命した。燕の太子・丹は、秦の始皇帝が燕を攻撃する口実になるので追放すべしとの臣下の意見をしりぞけて、范を保護した。後に丹太子が国の危急を救い旧怨を晴らすために、荊軻を刺客として秦に送ろうとした。

荊軻は范将軍の首と燕の地図を持っていけば、秦王も信用し油断すると思って范に話したところ、范は丹太子の恩に報い秦王への恨みを晴らすよい機会だと、自らの首を切って荊軻に与えたという。しかし、この企ては失敗している。

季札は中国・春秋時代の呉王の子で、賢人とうたわれた。あるとき、北方へ使者として行く途中に徐の国を通った。徐君は、季札の帯びていた剣をほしいと思ったが、口には出さなかった。季札も徐君の心を察したが、使者として行く途中なので剣を贈らず、帰りに徐へ行くと徐君は既に死去していたので、剣をその墓に懸けて、自分の心の誓いを果たしたという。信を重んずる故事として、古来よく用いられている。

そのように、世間の例でも自ら心に定めたことはやりとおすのであり、まして仏法においておやで、「竜女は我が仏になれる経なれば、仏の御諌めなくとも、いかでか法華経の行者を捨てさせ給うべき」と仰せのように、法華経に深恩のある竜女等が法華経の行者を守らないわけはないと断じられているのである。

 

而るに霊山会上にして……三千大千世界にかふる珠なり

 

霊山会上で即身成仏した竜女とは、娑竭羅竜王の娘で、蛇身の畜生とされ、竜宮に住んでいた。

法華経の提婆達多品第十二に「文殊師利の言わく、『有り。沙竭羅竜王の女は、年始めて八歳、智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の説きたまう所の甚深の秘蔵を、悉く能く受持し、深く禅定に入って、諸法を了達し、刹那の頃に於いて、菩提心を発して、不退転を得……慈悲仁譲あり。志意は和雅(わげ)にして、能く菩提に至れり』」と説かれている。

すなわち、文殊師子菩薩が、海中で法華経を宣説したとき、八歳の竜女が菩提心を発し、菩提に至った、と説いたのである。

それに対して智積菩薩が疑いを起こし、舎利弗も女人の身には五障があって、速やかに成仏することはありえないと言うと、竜女が現れ、価三千大千世界の宝珠を仏に奉り、仏がすぐにそれを受けると、我が成仏もそれより速やかであろうと言って、忽然の間に成仏の姿を現じている。

女人は、小乗経では五障三従ときらわれ、権大乗の諸経では歴劫修行に耐えられないと捨てられ、華厳経で成仏すると説かれていても有名無実にすぎず、女人成仏は許されていなかったのに、畜生の身でしかも年わずか八歳の竜女が文殊菩薩の教化によって成仏したことは法華経が、一代に超過した偉大な力があることによる

妙楽大師は法華文句記で、持経の功徳を「行は浅く功は深し。以って経力を顕す」と述べており、竜女が法華経を信受することで成仏の大功徳を受けたということは、法華経の偉大な功力を顕している、としているのである。

竜女は、自身が仏になった大恩があるので、たとえ仏の諌めがなくても法華経の行者を守らないはずはないのである。そのことは、提婆達多品で竜女自身が「我れは大乗の教を闡いて、苦の衆生を度脱せん」と誓っている。この竜女の誓いは、文殊師利菩薩が海中で化導した「其の数は無量にして、称計す可からず、口の宣ぶる所に非ず、心の測る所に非ず」という無量の竜畜の誓いでもあったのである。

竜女が仏に奉った価直三千大千世界の宝珠は、父の竜王が持たせたものであり、このことは竜王はじめ一族全員の願いを担って、八歳の竜女が仏前に詣でたことをあらわしている。

したがって、竜女の成仏を許した法華経の大恩は、竜女だけでなく竜王はじめ全員がこうむっているのであり、法華経の行者は彼ら全員から守られるのである。

 

 

第六章 (提婆達多の守護すべき理由を明かす)

 本文   

提婆達多は師子頬王には孫・釈迦如来には伯父たりし斛飯王の御子・阿難尊者の舎兄なり、善聞長者のむすめの腹なり、転輪聖王の御一門・南閻浮提には賎しからざる人なり、在家にましましし時は夫妻となるべきやすたら女を悉達太子に押し取られ宿世の敵と思いしに、出家の後に人天大会の集まりたりし時・仏に汝は癡人・唾を食へる者とのられし上・名聞利養深かりし人なれば仏の人に・もてなされしをそねみて・我が身には五法を行じて仏よりも尊げになし・鉄をのして千輻輪につけ・螢火を集めて白毫となし・六万宝蔵・八万宝蔵を胸に浮べ、象頭山に戒場を立て多くの仏弟子をさそひとり、爪に毒を塗り仏の御足にぬらむと企て・蓮華比丘尼を打殺し・大石を放て仏の御指をあやまちぬ、具に三逆を犯し結句は五天竺の悪人を集め仏並びに御弟子檀那等にあだをなす程に、頻婆娑羅王は仏の第一の御檀那なり、一日に五百輛の車を送り日日に仏並びに御弟子を供養し奉りき、提婆そねむ心深くして阿闍世太子を語いて父を終に一尺の釘七つをもつてはりつけになし奉りき、終に王舎城の北門の大地破れて阿鼻大城に墜ちにき、三千大千世界の人一人も是を見ざる事なかりき、されば大地微塵劫は過ぐとも無間大城をば出づべからずとこそ思ひ候に・法華経にして天王如来とならせ給いけるにこそ不思議に尊けれ、提婆達多・仏になり給はば語らはれし所の無量の悪人、一業所感なれば皆無間地獄の苦は・はなれぬらん、是れ偏に法華経の恩徳なり、されば提婆達多並びに所従の無量の眷属は法華経の行者の室宅にこそ住せ給う。

 

現代語訳

提婆達多は、師子頬王にとっては孫であり、釈迦如来の伯父である斛飯王の御子、阿難尊者の舎兄であり、善聞長者の娘の子である。転輪聖王の御一門で、南閻浮提には尊い身分の人である。

在家であったときには、夫妻となるべき耶輪多羅女を悉達太子に押し取られて宿世の敵と思っていたが、出家の後には、人間や天人の大衆が集まったときに、仏に、汝は癡人であり、人の唾を食らう者と罵られたうえ、名聞利養の心が深い人であったから、仏が人にもてなされるのを嫉んで、身には五法を行って仏よりも尊くみせかけ、鉄を延ばして千輻輪を付け、螢火を集めて白毫とし、六万宝蔵・八万宝蔵を諳んじ、象頭山に授戒場を建てて多くの仏弟子を誘い込み、爪に毒を塗って仏の御足に塗りつけようと企て、蓮華比丘尼を打ち殺し、大石を落として仏の御指を傷つけたりした。

こうしてつぶさに三逆罪を犯し、結局は五天竺の悪人を集めて、仏ならびに御弟子や檀那等に怨をしたのである。

また一方で、頻婆娑羅王は仏の第一の御檀那である。一日に五百両の車を送り、日々に仏ならびに御弟子に供養したのである。提婆は嫉む心を深くし、阿闍世太子を仲間に引き入れて、ついに父・頻婆娑羅王を一尺の釘を七つ使って磔にさせた。

こうして、ついに王舎城の北門の大地が破れて阿鼻大城に堕ちたのである。三千大千世界の人でこれを見ない人は一人もなかった。

こういうことであったから、大地微塵劫を過ぎても無間大城を出られないと思っていたのに、法華経において天王如来となることができたことは不思議に尊いことであった。

提婆達多が仏になったならば、仲間となった無量の悪人は、一業所感であるから、皆無間地獄の苦を離れたであろう。

これはひとえに、法華経の恩徳である。したがって、提婆達多ならびに所従の無量の眷属は、法華経の行者の室宅に住まわれるであろう。たのもしいことである。

 

語釈

提婆達多

サンスクリットのデーヴァダッタの音写。調達とも音写する。釈尊の従弟で、最初は釈尊に従って出家するが、慢心を起こして敵対し、釈尊に種々の危害を加えたり教団の分裂を企てた(三逆罪=破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢)。その悪行ゆえに生きながら地獄に堕ちたという。

【提婆の成仏】法華経提婆達多品第12では、提婆達多は阿私仙人という釈尊の過去世の修行の師であったことが明かされ、無量劫の後、天王如来になるだろうと記別を与えられている。これは悪人成仏を明かしている。

【釈尊や仏弟子への迫害】①仏伝によれば、提婆達多は釈尊を殺そうとして耆闍崛山(霊鷲山)から大石を投げ落としたが、地神の手に触れたことで釈尊は石を避けることができた。しかし、破片が釈尊の足に当たり親指から血が出たという。これは五逆罪の一つ、出仏身血にあたる。②阿闍世王は、提婆達多を新たに仏にしようとして、象に酒を飲ませて放ち、釈尊を踏み殺させようとしたという。これは釈尊が存命中に受けた九つの難(九横の大難)の一つにあたる。③『大智度論』などによると、蓮華比丘尼(華色比丘尼)は、釈尊の弟子で、提婆達多が岩を落として釈尊を傷つけて血を出させた時に、提婆達多を非難して、提婆達多に殴り殺されたという。

 

師子頬王

中インド迦毘羅国の王。浄飯王・斛飯王の父。釈尊・阿那律の祖父。

 

斛飯王

斛飯はサンスクリットのドローノーダナの訳。釈尊の叔父。提婆達多と阿難の父とされる。

 

阿難

サンスクリットのアーナンダの音写。釈尊の声聞の十大弟子の一人で、釈尊の従弟にあたる。釈尊の侍者として、多くの説法を聞き、多聞第一とされる。付法蔵の第2。法華経授学無学人記品第9で、未来世に山海慧自在通王如来に成ると釈尊から保証された。

 

善聞長者

釈尊の生母・摩耶夫人の父。善覚王・善覚長者ともいう。仏本行集経巻五によれば、天臂城の富豪で、八人の娘がいた。八番目の娘・大慧が生まれたとき、バラモンがこの娘は貴子を産むと占ったので、浄飯王はこの娘を嫁に求めた。長者が上の娘から順次嫁がせるといったので、浄飯王は八人とも同時にもらいうけ、二人を自分の妃として釈尊が生まれた。そして後の六人の娘を二人ずつ三人の弟に与えた。弟のうちの一人である斛飯王とこのなかの娘の一人とのあいだに生まれたのが提婆達多であるという。

 

南閻浮提

閻浮ともいう。。閻浮提はサンスクリットのジャンブードゥヴィーパの音写。閻浮(ジャンブー)という名の樹がある洲(ドゥヴィーパ、島)を意味する。贍部ともいう。古代インドの世界観では、世界の中心にあるとされる須弥山の東に弗婆提、西に瞿耶尼、南に閻浮提、北に鬱単越の四大洲があるとされ、「一閻浮提」で南の閻浮提の全体をいう。人間が住み、仏法が広まるべきところの全体とされた。もとはインドの地を想定していたものだったが、やがて私たちが住む世界全体をさすようになった。

 

在家

①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。

 

やすたら女

太子の時の正妃で羅睺羅の母。釈迦族の娘で才色ともに極めてすぐれていたという。摩訶波闍波提比丘尼とともに出家して比丘尼となり、勧持品第13で具足千万光相如来の記別を受けた。

 

悉達太子

釈尊の出家前の名。悉達はサンスクリットのシッダールタの音写で、悉多、悉達多とも。釈迦族の王子だったので、「太子」と称する。

 

宿世

前世・過去世。

 

五法

提婆達多が、釈尊より勝れていることを示すために行じた五つの修行。四分律巻五、大毘婆沙論百十六等によると、一に糞掃衣。常に糞掃衣を着る。二に常乞食。常に他に向かって食を乞うて歩く。三に一座食。一日に一度、午前中に食事をとるほかは食事をとらない。四に常露座。常に屋外の露天に坐って、家の中や樹下に坐らない。五に塩及び五味を受けない、の五つをいう。

 

鉄をのして千輻輪につけ

大智度論巻第三十四には「提婆達の如きは、足下に千輻相輪を有らしめんと欲するが故に、鉄を以って模を作り、焼いてこれを爍()く、爍き已るに足壊し身悩み、大いに呼す」とある。

 

千輻輪

仏の三十二相の一つ。足下千輻輪相、足下具足千輻輪相ともいう。輻輪とは軸の周りに矢の形をした輻を放射状にとりつけた輪状のもの。仏がその足の裏、掌に千輻輪の肉紋をそなえていること。四分律巻五十一に「時に世尊の足下に相輪あり、輪に千輻あり。輪郭成就し、輪相具足せり。光明晃曜として輪より光を出し、光、三千大千国土を照らす」とある。大智度論巻四には「二には足下の二輪の相と千輻と?轂となり」とある。

 

螢火を集めて白毫となし

提婆達多は、仏の三十二相にかけている白亳相を得ようとして、蛍を集めて代わりにしたといわれている。

 

六万の宝蔵

法蔵とは、教えの蔵の意で、仏の経説、経説を含蔵する経典・聖教。②インドのバラモン教の聖典・四韋陀のこと。神への讃歌などが説かれるインド最古の経典。迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三仙が説いたとされる。

 

八万法蔵

煩悩の数を84,000の塵労といい、これを対治する数として84,000の法蔵という。略して「八万法蔵」

 

蓮華比丘尼

『大智度論』などによると、釈尊の弟子である華色比丘尼(蓮華比丘尼)は、提婆達多が岩を落として釈尊を傷つけて血を出させた時に、提婆達多を非難して、提婆達多に殴り殺されたという。

 

三逆

提婆達多は五逆罪のうち三つまで犯したとされる。大智度論巻十四に説かれる。①和合僧を破って五百人の釈尊の弟子を誘惑した。②大石を落として釈尊の足から出血させた。③蓮華色比丘尼が提婆達多を呵責したので尼を殺した。

 

頻婆娑羅王

頻婆娑羅はサンスクリットのビンビサーラの音写。マガダ国の王で阿闍世王(アジャータシャトル)の父。釈尊に深く帰依し、竹林精舎を建てて供養した。提婆達多にそそのかされた阿闍世王によって幽閉され殺された。

 

檀那

サンスクリットのダーナの音写で、「布施」の意。あるいはダーナパティの音写の略で、「施主」を意味する。在家の有力信者で仏教教団を経済的に支える人。檀那僧正の略。天台密教の僧・覚運のこと。

 

王舎城

サンスクリットのラージャグリハの音写。古代インドのマガダ国の首都。現在のビハール州のラージギルにあたる。阿闍世王(アジャータシャトル)が都とし、釈尊がしばしば説法した。王舎城の郊外に霊鷲山がある。日蓮大聖人の御在世当時の日本では、霊鷲山は王舎城の艮(東北)にあると認識されていた。

 

阿鼻大城

阿鼻獄・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。

 

無間大城

無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。

 

天王如来

法華経において提婆達多が記莂を受けた時の如来号。法華経提婆品において「提婆達多、却ってのち、無量劫を過ぎてまさに成仏することを得べし、号をば天王如来、応供・正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊、といわん、世界を天道と名づけん」とある。

 

一業所感

一つの業因によって感ずる所の果。また、多くの人が同一の業因によって同一の果を感ずること。共業共果ともいう。

 

講義

釈尊在世に、その弟子となりながら退転し、三逆罪を犯して無間地獄に堕ちた提婆達多も、法華経で成仏を許されたのであるから、法華経の行者を守護するはずであると述べられている。

提婆達多は、中インドの迦毘羅衛国の王・師子頬王の孫で、大智度論巻三に師子頬王は「浄飯・白飯・斛飯・甘露飯の四男子と一女子甘露味をもつ」とあり、提婆達多は斛飯王の子なので、浄飯王の子である釈尊とは、いとこにあたる。また、釈尊十大弟子の一人、阿難の兄とされている。母は善聞長者の娘で、釈尊の生母・摩耶夫人とは姉妹だったので、提婆達多と釈尊は母方のいとこにもあたっている。

釈尊が出家する以前、悉達太子であったころから釈尊に敵対し、悉達太子から与えられた白象を打ち殺しており、また釈迦族の摩訶那摩大臣の娘でインド第一の美女といわれた耶輪多羅女を后にしようと望んで悉多太子と武術の競技で争い、敗れたため、耶輪多羅女は悉多太子の后となったので、提婆達多は深く恨んだのである。

法蓮抄には「今も昔も聖人も凡夫も人の中をたがへること女人よりして起りたる第一のあだにてはんべるなり、釈迦如来は悉達太子としてをはしし時提婆達多も同じ太子なり、耶輸大臣に女あり耶輸多羅女となづく五天竺第一の美女・四海名誉の天女なり、悉達と提婆と共に后にせん事をあらそひ給いし故に中あしくならせ給いぬ」(1040:09)と述べられている。

提婆達多は、釈尊が成道した後に故郷を訪問した際、阿難・阿那律・優婆離らとともに弟子となったとされる。最初は熱心に修行に励んだが、次第に名聞名利を求める心が強くなり、マガダ国の阿闍世太子に近づき、厚いもてなしを受けるようになった。また、釈尊の教団の後継者となって人々に尊敬されることを望むようになり、並み居る弟子の前で釈尊に教団を任せるように申し出たといわれる。釈尊は提婆達多の野心を厳しく叱責している。

そのため、釈尊の教団を分裂させようとして〝五法の行〟もしくは〝五事〟の遵守を主張したのである。五法とは①糞掃衣のみを着て、布施された衣を着ないこと、②托鉢のみで生活し、供養や招待を受けないこと、③一日に一度、午前中に食事をとるほかは正食をとらないこと、④樹下のみに坐して、屋内に入らないこと、⑤塩や五味をとらないこと、の五つをいった。提婆達多は、釈尊の教団の僧はこの五つを遵守すべきであると主張したが、釈尊はこうした極端な戒律主義を即座に却下した。

しかし、その主張は極めて真面目な出家者の態度を装っていたために、惑わされた新参の弟子五百人が、提婆達多とともに象頭山に去ってしまった。こうして、提婆達多は破和合僧の罪を犯したのである。だが、舎利弗等の説得によって五百人の比丘達が再び教団に戻ってしまったため、提婆達多は悲墳慷慨のあまり血を吐いたとされている。

また、そのまえに釈尊を殺害しようと爪に毒を塗って仏の足を礼した際に傷つけようとしたが失敗し、釈尊が霊鷲山にいると聞いて、山頂から自身で大石を落とし、その破片が釈尊の足の指を傷つけた。これは出仏身血の罪にあたる。

これを見た蓮華比丘尼が強く呵責すると、怒って尼を打ち殺した。これは殺阿羅漢の罪にあたる。このように三逆罪を侵したため、大地が割れ、提婆達多は生きながら無間地獄に堕ちたとされる。

それより以前に、提婆達多は、阿闍世太子をそそのかして、その父の頻婆娑羅王を幽閉して餓死させ、王位に就かせている。そして、王の臣下を使って数度にわたり釈尊の殺害を狙ったが、釈尊の姿に暗殺者がいずれもたじろいで失敗したとされる。

法蓮抄には「未生怨太子をかたらいて父・頻婆舎羅王を殺させ我は仏を殺さんとして或は石をもつて仏を打ちたてまつるは身業なり、仏は誑惑の者と罵詈せしは口業なり、内心より宿世の怨とをもひしは意業なり三業相応の大悪此れにはすぐべからず……提婆達多が身は既に五尺の人身なりわづかに三逆罪に及びしかば大地破れて地獄に入りぬ、此の穴・天竺にいまだ候」(1041:10)と述べられている。

悪逆の限りを尽くした提婆達多は、永劫に無間地獄に堕ちたままだと思われたのに、法華経の提婆達多品第十二で釈尊は、釈尊が過去世、国主の位を捨てて法を求めたとき、提婆達多は阿私仙人として法華経を教えてくれた師であったことを明かし、未来に天王如来という仏になると授記したのである。

このことを提婆達多品には「爾の時の王とは、則ち我が身是れなり。時の仙人とは、今の提婆達多是れなり……等正覚を成じて、広く衆生を度するは、皆な提婆達多の善知識に因るが故なり」と。諸の四衆に告げたまわく、「提婆達多は却って後、無量劫を過ぎて、当に成仏することを得べし。号づけて天王如来……世界を天道と名づけん」と説かれている。

提婆達多が成仏を許されたということは、提婆達多とともに悪逆の悪業を犯した衆生も成仏できることを示しているのである。

爾前の諸経では、十界互具・一念三千を明かしていないので、悪人は悪を滅し善を修して善人となって後、成仏する(改転の成仏)とされている。

しかし、この法華経における提婆達多の成仏は、悪人もその身そのままで成仏することをあらわしている。

本来、大小の差はあれ、善悪を兼ね備えているのが凡夫であり、提婆達多の成仏を明かした法華経によって、初めて一切の悪人の成仏が可能となったのである。

開目抄には「提婆達多は一闡提なり天王如来と記せらる……善星・阿闍世等の無量の五逆・謗法の者の一をあげ頭をあげ万ををさめ枝をしたがふ、一切の五逆・七逆・謗法・闡提・天王如来にあらはれ了んぬ毒薬変じて甘露となる衆味にすぐれたり」(0223:05)と仰せになっており、提婆達多への授記が悪人成仏の手本とされている。

そのように法華経に恩徳のある提婆達多とその眷属が、法華経の行者の家に住んで、守護しないわけはない、と仰せられている。

 

 

 

第七章 (重ねて菩薩の守護すべき理由を示す)

 本文   

諸の大地微塵の如くなる諸菩薩は等覚の位まで・せめて元品の無明計りもちて侍るが・釈迦如来に値い奉る元品の大石をわらんと思ふに、教主釈尊・四十余年が間は「因分可説果分不可説」と申して妙覚の功徳を説き顕し給はず、されば妙覚の位に登る人・一人もなかりき・本意なかりし事なり、而るに霊山八年が間に「唯一仏乗名為果分」と説き顕し給いしかば・諸の菩薩・皆妙覚の位に上りて釈迦如来と悟り等しく・須弥山の頂に登つて四方を見るが如く・長夜に日輪の出でたらんが如く・あかなくならせ給いたりしかば・仏の仰せ無くとも法華経を弘めじ・又行者に替らじとは・おぼしめすべからず、されば「我不愛身命但惜無上道・不惜身命当広説此経」等とこそ誓ひ給いしか。

  其の上慈父の釈迦仏・悲母の多宝仏・慈悲の父母等同じく助証の十方の諸仏・一座に列らせ給いて、月と月とを集めたるが如く・日と日とを並べたるが如く・ましましし時、「諸の大衆に告ぐ我が滅度の後誰か能く此の経を護持し読誦せんものなる、今仏前に於て自ら誓言を説け」と三度まで諌させ給いしに、八方・四百万億那由佗の国土に充満せさせ給いし諸大菩薩・身を曲・低頭合掌し倶に同時に声をあげて「世尊の勅の如く当に具さに奉行したてまつるべし」と三度まで・声を惜まず・よばわりしかば、いかでか法華経の行者には・かわらせ給はざるべき、はんよきと云いしものけいかに頭を取せ・きさつと云いしもの徐の君が塚に刀をかけし、約束を違へじがためなり、此れ等は震旦・辺土のえびすの如くなるものども・だにも友の約束に命をも亡ぼし身に代へて思ふ刀をも塚に懸くるぞかし、まして諸大菩薩は本より大悲代受苦の誓ひ深し・仏の御諌なしとも・いかでか法華経の行者を捨て給うべき、其の上我が成仏の経たる上・仏・慇懃に諌め給いしかば・仏前の御誓・丁寧なり行者を助け給う事疑うべからず。

 

現代語訳

諸の大地を微塵にしたほどの多くの諸菩薩は、等覚の位まで登って、元品の無明だけが残っていたが、釈迦如来に値って元品の無明の大石を破ろうと思ったのに、教主釈尊は四十余年の間は「因分は説く可し、果分は説く可からず」といって、妙覚の功徳を説き顕さなかった。このため、妙覚の位に登る人が一人もいなかったことは、本意ないことであった。

しかるに、霊山における八年の間に「ただ一仏乗を名づけて果分と為す」と説き顕されたので、諸の菩薩は皆妙覚の位に登って、釈迦如来と悟りも等しく、須弥山の頂に登って四方を見るように、長夜に日輪が出たように明らかになったので、仏の仰せがなくても、法華経を弘めないとか、また行者に替わらないとは思われるはずがない。

それゆえ「我身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ」また「身命を惜しまず」「当に広く此の経を説くべし」等と誓われたのである。

そのうえ、慈父である釈迦仏、悲母である多宝仏、そして慈悲の父母等と同じく助証のための十方の諸仏が一座に列なって、月と月とを集めたように、日と日とを並べたようにいらっしゃるとき、「諸の大衆に告げる。我が滅度の後に、だれかよくこの経を護持し、読誦する者がいるか。今我が前において自ら誓いの言を説きなさい」と三度まで諌められたので、八方の四百万億那由佗の国土に充満していた諸大菩薩は、身を曲げ頭を低く垂れて合掌し、ともに同時に声をあげて「世尊の勅命のように、まさに具に奉行いたします」と三度まで声を惜しまずに呼ばわったのであるから、どうして法華経の行者に代わってくれないことがあろう。

范於期と云うものが荊軻に首を取らせ、季札という者が徐の君の塚に刀を懸けたことは、約束をたがえないためであった。

これらは、中国・辺土の夷のような者でさえも、友との約束には命をも亡ぼし、我が身にも代えがたいと思う刀をも塚に懸けたのである。

まして諸大菩薩は、もとから大慈悲をもって、衆生に代わって苦を受けようという誓いが深く、仏の御諌めがなくても、どうして法華経の行者を捨てられるであろう。

そのうえ、自分が成仏できた経であるうえ、仏がねんごろに諌められたので、仏前で、ねんごろに御誓いを立てられたのであり、行者を助けられることは疑いないことである。

 

語釈

等覚

仏の異名。等正覚。等は平等の意、覚は覚悟の意。諸仏の覚りは真実一如にして平等であるので等覚という。菩薩の修行の段階。五十二位のうちの第51位。菩薩の極位をさし、有上士、隣極ともいう。長期にわたる菩薩の修行を完成して、間もなく妙覚の仏果を得ようとする段階。

 

因分可説、果分不可説

「因分は説く可し、果分は説く可からず」と読む。因分は仏果を得るために因位の修行をする分際のこと。果分は仏果のこと。因位の修行の徳は説くことができるが、仏果の徳は説くことができないということ。十地の菩薩の位について述べたもの。そこから更に菩薩の了解しうる部分的教法を因分とし、仏の悟りの境界を果分という。それゆえ、本抄では、四十余年の諸経をさして果分(仏内証の妙法)を説かない方便の教えという意から、「因分可説、果分不可説」の教えとしている。

 

妙覚

仏の優れた覚りの境地。菩薩の修行の段階。五十二位のうちの最高位の第52位。等覚位の菩薩が、42品の無明惑のうち最後の元品の無明を断じて到達した位で、仏と同じ位。六即位(円教の菩薩の修行位)では究竟即にあたる。文底下種仏法では名字妙覚の仏となる。「法華取要抄」には「今法華経に来至して実法を授与し法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり、若し爾れば今我等天に向って之を見れば生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり」と述べられている。法華経の文上の教説では、釈尊在世の衆生は、釈尊によって過去に下種されて以来、熟益の化導に従って本門寿量品に至った菩薩の最高位である等覚の位にまで登って得脱したとされる。日寛上人の『当流行事抄』によれば、これを文底の意から見た場合、等覚位の菩薩でも、久遠元初の妙法である南無妙法蓮華経を覚知して一転して南無妙法蓮華経を信ずる名字の凡夫の位に帰り、そこから直ちに妙覚位(仏位)に入ったとする。これを「等覚一転名字妙覚」という。

 

唯一仏乗名為果分

「唯だ一仏乗を名づけて果分と為す」と読む。成仏する究極のただ一つの法を果分とするの意。果分とは妙覚位の仏の境界のこと。四十余年の諸経においては、仏になるための因分を説き、仏の果分は説かなかったが、法華経において初めて三妙合論して一仏乗の果分を説き明かしている。

 

我不愛身命但惜無上道

勧持品の文。「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」と読む。勧持品では八十万億那由佗の菩薩が、釈尊滅後において三類の強敵を忍んで法華経を弘通すると誓う、請願の文。

 

不惜身命

法華経勧持品第13の文。「身命を惜しまず」と読み下す。仏法求道のため、また法華経弘通のために身命を惜しまないこと。同じ勧持品の「我不愛身命」、また如来寿量品第16の「不自惜身命」と同意。

 

当広説此経

法華経如来人力品弟21の文。「世尊我等仏の滅後、世尊分身所在の国土・滅度の処に於て、当に広く此の経を説くべし。所以は何ん、我等も亦自ら是の真浄の大法を得て、受持、読誦し解説し、書写して之を供養せんと欲す」とある。

 

多宝仏

法華経見宝塔品第11で出現し、釈尊の説いた法華経が真実であることを保証した仏。過去世において、成仏して滅度した後、法華経が説かれる場所には、自らの全身を安置した宝塔が出現することを誓願した。釈尊が法華経を説いている時、見宝塔品で宝塔が地から出現して空中に浮かんだ。宝塔が開くと、多宝如来が座していた。多宝如来は釈尊に席を半分譲り、以後、嘱累品第22まで、釈尊は宝塔の中で多宝如来と並んで座って(二仏並坐)、法華経の説法を行った。

 

十方の諸仏

四方(東・西・南・北)、四維(南東・南西・北西・北東)、上下の十方にいる仏。すなわち、すべての仏たち。法華経では、霊山浄土に集っていて法華経の行者を導き守ると説かれている。

 

三度まで諌させ給いしに

法華経見宝塔品第11において釈尊が大衆に滅後の弘教を3度勧め、命じたこと。三度の鳳詔のこと。①付属有在「爾の時に多宝仏・宝塔の中に於て、半座を分ち釈迦牟尼仏に与う、爾の時に大衆二如来の七宝の塔の中の師子の座の上に在して結跏趺坐し給うを見たてまつる、大音声を以て普く四衆に告げ給わく、誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん、今正しく是れ時なり、如来久しからずして当に涅槃に入るべし、仏此の妙法華経を以て付属して在ること有らしめんと欲す」。②令法久住「爾の時に世尊重ねて此の義を宣べんと欲して偈を説いて言く、聖主世尊・久しく滅度し給うと雖も宝塔の中に在して尚法の為に来り給えり、諸人云何ぞ勤めて法に為わざらん、又我が分身の無量の諸仏・恒沙等の如く来れる法を聴かんと欲す 各妙なる土及び弟子衆・天人・竜神・諸の供養の事を捨てて法をして久しく住せしめんが故に此に来至し給えり、譬えば大風の小樹の枝を吹くが如し、是の方便を以て法をして久しく住せしむ、諸の大衆に告ぐ我が滅度の後誰か能く此の経を護持し読誦せん今仏前に於て自ら誓言を説け」。③六難九易「多宝如来および我が身集むる所の化仏当に此の意を知るべし、諸の善男子・各諦かに思惟せよ此れは為れ難き事なり、宜しく大願を発こすべし、諸余の経典数・恒沙の如し此等を説くと雖も未だ為れ難しとするに足らず、若し須弥を接つて他方無数の仏土に擲げ置かんも亦未だ為れ難しとせず、若し仏滅後・悪世の中に於て能く此の経を説かん是則ち為れ難し、仮使劫焼に乾れたる草を担い負うて中に入つて焼けざらんも亦未だ為れ難しとせず、我が滅度の後に若し此の経を持ちて一人の為にも説かん是則ち為れ難し、諸の善男子・我が滅後に於て誰か能く此の経を護持し読誦せん、今仏前に於て自ら誓言を説け」とある。

 

震旦

真旦とも。中国の古い呼び名。古代インド人が中国を指したチーナスターナの音写語。

 

えびす

①古代のアイヌ人。②都から遠く離れた辺地の未開民族。③荒々しい武士。④外国・未開の地、そこに住む人々。

 

講義

ここでは、諸の菩薩が法華経の行者を守護するはずであることを明かされてる。

 

諸の大地微塵の如くなる諸菩薩……誓ひ給いしか

 

菩薩とは菩提薩埵の略で、無上菩提(仏果)を求める人をいう。一切の菩薩は初発心の際、四弘誓願(衆生無辺誓願度・煩悩無数誓願断・法門無尽誓願知・仏道無上誓願成)を起こし、それにしたがって菩薩戒を持ち、六波羅蜜などの修行を積んで仏果を証得するとされている。

なお、別教では、初発心から得脱までを五十二位に分類して菩薩の階位を定めており、その第五十一位を等覚とし、仏の覚りと等しい位としている。等覚位には元品の無明(根本の迷い)のみが残っていて、等覚の最後心(無余涅槃に入る直前の心)に顕れる妙覚智によって断ずることができるとしている。つまり、菩薩は三惑(煩悩)のうちの見思惑・塵沙惑を断じて等覚位に至り、最後に元品の無明惑を断じて妙覚位(仏果)に登ることができるとされていたのである。

そのため、等覚に至った諸の菩薩達は、釈尊によって元品の無明を断破して仏果に至ることを願ったが、釈尊は四十余年の間は「因分は説くべし果分は説くべからず」といって、菩薩の了解できうる因位の修行の分際は説いても、仏の悟りの境界を説くことはなかったため、妙覚の位に登る菩薩は一人もいなかったのである。

ところが、霊山における八か年の法華経説法の会座で、釈尊は唯一仏乗を果分とする法門を説き顕した。伝教大師の法華秀句には、法華経に仏の証得した法は難信難解であって、唯だ仏のみきわめ尽くすことができるとある等の文が果分の法を示している、とある。つまり、釈尊は法華経で、仏の悟りの境界のままに、十方仏土の中には唯一仏乗の教法のみがあるとして、爾前の諸経で説いた三乗(声聞・縁覚・菩薩)の法を開き、法華一仏乗に帰一させる無上の法を説いたのである。

法華経によって、諸の菩薩はことごとく妙覚の位に登ることができて、釈尊とその悟りが等しくなり、仏の境地を得られた。したがって、菩薩は、たとえ仏の仰せがなくても、大恩ある法華経を弘めよう、法華経の行者の苦難を代わって受けようと思わないわけはないのである。

それは、法華経の勧持品第十三に諸の菩薩が「是の経を説かんが為めの故に、此の諸の難事を忍ばん。我れは身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ」と誓い、如来寿量品第十六に「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまざれば」と説かれ、如来神力品第二十一で千世界微塵等の地涌の菩薩が「我れ等は仏の滅後……当に広く此の経を説くべし」と誓っていること等にあらわれている。

いずれも、法華経を説き弘めるためには身命をも惜しまないとの菩薩の誓いである。この誓いによれば、末法に法華経を弘める者を菩薩が守護するのは当然なのである。

 

其の上慈父の釈迦仏……疑うべからず

 

更に、釈尊が諸の菩薩に滅後の弘教を勧め命じ、それに応じて諸の菩薩が弘教を誓ったことが挙げられている。

法華経の見宝塔品第十一で、七宝の塔が大地から涌出し、塔中の多宝如来が法華経の真実であることを証明した後、十方分身の諸仏とその眷属が集い、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で並坐する。

そして、釈尊は大音声をもって四衆に対し「誰か能く此の娑婆国土に於いて、広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来は久しからずして、当に涅槃に入るべし。仏は此の妙法華経を以て、付嘱して在ること有らしめんと欲す」と告げている。更に「諸の大衆に告ぐ。我が滅度の後に、誰か能く、斯の経を護持し読誦せん。今仏前に於いて、自ら誓言を説け」と重ねて滅後の弘通を勧めている。その後、更に「諸の善男子よ、我が滅後に於いて、誰か能く、此の経を受持し読誦せん。今仏前に於いて、自ら誓言を説け」と三度、滅後の弘通を勧めている。

釈尊が宝塔品で三回にわたり重ねて滅後の弘教を勧め命じたことを、三箇の勅宣、または三箇の諌勅という。それに対して、嘱累品第二十二で、諸の菩薩は「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし。唯だ然なり。世尊よ。願わくは慮いしたまうこと有らざれ」と、三度にわたり、仏の命のごとく弘教することを誓っているのである。

世間の法にも命がけで約束を果たす例があり、まして衆生の苦を除き、その苦に代わることを誓った諸の菩薩が、たとえ仏の諌めがなかったとしても法華経の行者を捨てるはずはないのである。

まして自身が成仏した大恩の経であるうえ、仏からねんごろに滅後の弘教を勧め諌暁され、仏前でそれをきちんと誓っているのだから、諸の菩薩が法華経の行者を助けることは疑いがないのである。

 

 

 

第八章 (行者の祈りの叶うを示し信心を勧む)

 本文   

仏は人天の主・一切衆生の父母なり・而も開導の師なり、父母なれども賎き父母は主君の義をかねず、主君なれども父母ならざればおそろしき辺もあり、父母・主君なれども師匠なる事はなし・諸仏は又世尊にてましませば主君にては・ましませども・娑婆世界に出でさせ給はざれば師匠にあらず・又「其中衆生悉是吾子」とも名乗らせ給はず・釈迦仏独・主師親の三義をかね給へり、しかれども四十余年の間は提婆達多を罵給ひ諸の声聞をそしり菩薩の果分の法門を惜み給しかば、仏なれども・よりよりは天魔・破旬ばしの我等をなやますかの疑ひ・人には・いはざれども心の中には思いしなり、此の心は四十余年より法華経の始まで失せず、而るを霊山八年の間に宝塔・虚空に現じ二仏・日月の如く並び・諸仏大地に列り大山をあつめたるがごとく、地涌千界の菩薩・虚空に星の如く列り給いて、諸仏の果分の功徳を吐き給いしかば・宝蔵をかたぶけて貧人にあたうるがごとく・崑崙山のくづれたるににたりき、諸人此の玉をのみ拾うが如く此の八箇年が間・珍しく貴き事心髄にも・とをりしかば・諸菩薩・身命も惜まず言をはぐくまず誓をなせし程に・属累品にして釈迦如来・宝塔を出でさせ給いてとびらを押したて給いしかば諸仏は国国へ返り給ひき、諸の菩薩等も諸仏に随ひ奉りて返らせ給ひぬ。

  やうやう心ぼそくなりし程に「郤後三月当般涅槃」と唱えさせ給いし事こそ心ぼそく耳をどろかしかりしかば諸菩薩二乗人天等ことごとく法華経を聴聞して仏の恩徳心肝にそみて、身命をも法華経の御ために投て仏に見せまいらせんと思いしに・仏の仰の如く若し涅槃せさせ給はば・いかに・あさましからんと胸さはぎして・ありし程に・仏の御年.満八十と申せし二月十五日の寅卯の時・東天竺・舎衛国.倶尸那城・跌提河の辺にして仏御入滅なるべき由の御音・上は有頂・横には三千大千界まで・ひびきたりしこそ目もくれ・心もきえはてぬれ、五天竺・十六の大国・五百の中国.十千の小国.無量の粟散国等の衆生・一人も衣食を調へず・上下をきらはず、牛馬・狼狗・鵰鷲・蟁蝱等の五十二類の一類の数・大地微塵をも・つくしぬべし・況や五十二類をや、此の類皆華香衣食をそなへて最後の供養とあてがひき、一切衆生の宝の橋おれなんとす・一切衆生の眼ぬけなんとす一切衆生の父母・主君・師匠死なんとすなんど申すこえ・ひびきしかば・身の毛のいよ立のみならず・涙を流す、なんだを・ながすのみならず・頭をたたき胸ををさへ音も惜まず叫びしかば・血の涙・血のあせ・倶尸那城に大雨よりも・しげくふり・大河よりも多く流れたりき、是れ偏えに法華経にして仏になりしかば仏の恩の報ずる事かたかりしなり。

  かかるなげきの庭にても法華経の敵をば舌を・きるべきよし・座につらなるまじきよしののしり侍りき、迦葉童子菩薩は法華経の敵の国には霜雹となるべしと誓い給いき、爾の時仏は臥よりをきて・よろこばせ給いて善哉善哉と讃め給いき、諸菩薩は仏の御心を推して法華経の敵をうたんと申さば、しばらくも・いき給いなんと思いて一一の誓は・なせしなり、されば諸菩薩・諸天人等は法華経の敵の出来せよかし仏前の御誓はたして・釈迦尊並びに多宝仏・諸仏・如来にも・げに仏前にして誓いしが如く、法華経の御ためには名をも身命をも惜まざりけりと思はれまいらせんと・こそ・おぼすらめ。

  いかに申す事は・をそきやらん、大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず、法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等・二聖・二天・十羅刹等・千に一も来つてまほり給はぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り下は九界をたぼらかす失あり、行者は必ず不実なりとも・智慧はをろかなりとも・身は不浄なりとも・戒徳は備へずとも・南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし、袋きたなしとて金を捨る事なかれ・伊蘭をにくまば栴檀あるべからず、谷の池を不浄なりと嫌はば蓮を取らざるべし、行者を嫌い給はば誓を破り給いなん、正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如し・智者は麟角よりも希ならん、月を待つまでは灯を憑べし宝珠のなき処には金銀も宝なり、白烏の恩をば黒烏に報ずべし・聖僧の恩をば凡僧に報ずべし、とくとく利生をさづけ給へと強盛に申すならば・いかでか祈りのかなはざるべき。

 

現代語訳

仏は人間や天人の主君であり、一切衆生の父母であり、しかも開導の師匠である。父母であっても、賎しい父母は主君の義を兼ねていない。主君であっても、父母でなければ、恐ろしい思いもする。父母や主君であっても、師匠であることはない。

諸仏はまた世尊であるから、主君ではあるけれども、娑婆世界に出ることがないので、師匠ではない。また「其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」とも名乗られていない。釈迦仏独りが主師親の三義を兼ねておられる。

しかしながら、四十余年の間は、提婆達多を罵り、諸の声聞を謗り、菩薩の果分の法門を惜しまれたので、仏ではあっても、ときどきは天魔や破旬なんかのように我等を悩ますのではないかと疑い、人には言わなかったけれども、心のなかでは思っていた。

この疑心は、四十余年前から法華経の説法が始まるまで失われなかった。しかしながら、霊山の八年の間に宝塔が虚空に現れ、釈迦・多宝の二仏が日月のように並び、諸仏が大地に列なって大山を集めたようになり、地涌千界の菩薩が虚空に星のように列なって、諸仏の果分の功徳を説かれたので、宝蔵を開いて貧人に与えたように、崑崙山が崩れたのと似ていた。

諸人はこの玉だけを拾うように、この八か年の間は、珍しく貴いことが心髄に通ったので、諸菩薩は身命を惜しまず、言葉も明らかにして誓いを立てたから、嘱累品において釈迦如来は、宝塔を出られて扉を閉められたので、諸仏はそれぞれの国々へ帰られ、諸の菩薩等も諸仏に随って帰られたのである。

だんだん心細くなったところに、仏が「郤って後三月あって、当に般涅槃すべし」と仰せられたことは、心細く、また驚かした。諸菩薩・二乗・人天等はことごとく法華経を聴聞して、仏の恩徳を心肝に染めて、身命をも法華経の御ために投げ捨て、仏に見せたいと思っていたのに、仏の仰せのように、もし涅槃されたならば、どれほど嘆かわしいかと胸騒ぎしていた。そうしているうちに、仏の御年満八十歳という二月十五日の寅卯の時、東インド舎衛国の倶尸那城の跌提河の辺において、仏が御入滅になるという御音が、上は有頂天まで、横には三千大千世界まで響きわたったので、目の前も暗くなり、心も消え果ててしまった。

全インド・十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国等の衆生は一人も衣食を調える暇もなく、身分の上下の隔てもなく、牛・馬・狼・犬・鵰・鷲・蚊・虻等の五十二類もことごとく集まり、その一類の数も大地を微塵にしたほどであり、まして五十二類においては数えられないほどであった。

これらの類が皆、華や香や衣食を供えて最後の供養に当てたのであった。一切衆生の宝の橋が折れようとし、一切衆生の眼が抜け落ちようとし、一切衆生の父母・主君・師匠が死なれようとするなどという声が響いたので、身の毛がよだつだけでなく、涙を流すだけでなく、頭をたたき、胸を抑え、声も惜しまず叫んだので、血の涙、血の汗が倶尸那城に大雨よりも繁く降り、大河よりも多く流れたのであった。これひとえに、法華経において仏になったので、仏の恩は報じきれないからであった。

このような嘆きのなかであっても、法華経の敵は舌を切るべきである、一座に列なるべきではないなどと大声で言い立てたのであった。

迦葉童子菩薩は法華経の敵の国には霜や雹となるであろうと誓ったのである。そのときに仏は臥床より起きて喜ばれて、「善哉善哉」とほめられたのである。

諸菩薩は仏の御心を推し量って、法華経の敵を討とうと言えば少しでも生き長らえられるであろうと思って、一人一人誓いを立てたのである。

それゆえ、諸菩薩・諸天人等は、法華経の敵よ出で来たれ、仏前の御誓いを果たして、釈尊ならびに多宝仏、諸仏、如来に、実に仏前において誓ったように、法華経の御ためには名をも身命をも惜しまない者と思われようと思っていることであろう。

どうして祈ることに験の顕れることが遅いのであろうか。たとえ、大地をさして外れることがあっても、大地をつないで結ぶ者があっても、また、潮の満ち干ぬことがあっても、日が西から出るようなことがあっても、法華経の行者の祈りがかなわないことは絶対にない。

千に一つも法華経の行者を、諸の菩薩や人、天、八部衆等、二聖、二天、十羅刹女等がきたって守護しないことがあるならば、上は釈尊等の諸仏を侮りたてまつり、下は九界をたぼらかす罪科を犯すことになるので、そんなことは絶対にない。

よし行者は真実でないにしても、智慧は愚かであっても、身は不浄であっても、戒徳を備えていなくても、ただ南無妙法蓮華経と唱え奉るならば、必ず守護されるべきである。

袋が汚いからと、中の黄金を捨ててはならない。伊蘭の臭いを厭うて栴檀の香りは得られない。谷の池を汚いと嫌っては蓮を取ることはできない。行者を嫌い守護されなければ、仏前での誓いを破られることになるだろう。

正法像法時代を既に過ぎているから、持戒の僧は市中に虎を求めるようなもので、また智者を求めることは麒麟の角をもとめるよりも困難である。

月を待つまでは灯がたよりである。宝珠のないところには金や銀も宝である。白烏の恩を黒烏に報じた例もあるから、聖僧の恩を凡僧に報ずべきである。速やかにきたって利益を授け給えと強盛に申し上げるならば、どうして祈りがかなわないことがあろうか。

 

語釈

娑婆世界

娑婆はサンスクリットのサハーの音写で「堪忍」などと訳される。迷いと苦難に満ちていて、それを堪え忍ばなければならない世界、すなわちわれわれが住むこの現実世界のこと。

 

其中衆生悉是吾子

法華経譬喩品第3の文。「今此の三界は……其の中の衆生は|悉く是れ吾が子なり」(法華経191㌻)とある。三界の衆生はみな仏(釈尊)の子であるとの意。釈尊が娑婆世界の衆生に対して主師親の三徳のうち親の徳をそなえていることを示す文。

 

主師親の三義

一切衆生が尊敬すべき主徳・師徳・親徳の三徳のこと。①主徳は人々を守る力・働き。②師徳は人々を導き教化する力・働き。③親徳は人々を育て慈しむ力・働きをいう。日蓮大聖人は「開目抄」の冒頭で「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」(0186:01)と提示された上で、「日蓮は日本国の諸人にしう(主)し(師)父母なり」(237㌻)と結論され、下種仏法を弘通する御自身が末法の衆生にとって主師親の三徳をそなえられた末法の御本仏であることを明かされている。

 

天魔

天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、天子魔は大天魔・第六天の魔王ともいわれ、最も恐ろしい魔とされる。

 

波旬

殺者・悪者と訳し、魔王の呼称。

 

二仏

宝塔品の中で、多宝の塔が開き、釈迦多宝の二仏が並座して、十方分身の諸仏が集まる儀式である。閉塔を証前、開塔を起後の宝塔という。本門の説法をおこすための序であり、ゆえに「本門の密序という。

 

嘱累品

法華経嘱累品第二十二のこと。はじめに「我れは無量百千万億阿僧祇劫に於いて、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修習し、今以て汝等に付嘱す。……汝等は当に受持・読誦し、広く此の法を宣べて、一切衆生をして普く聞知することを得しむべし」と一切の菩薩への付嘱を明かした。これを神力品の上行菩薩への別付嘱に対して総付嘱という。諸菩薩は付嘱を受け、「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし。唯だ然なり。世尊よ。願わくは慮いしたまうこと有らざれ」と誓った。嘱累品で宝塔品より始まった虚空会は終わり、分身の諸仏、地涌の菩薩も本土へ還り多宝の塔も閉じてもとの霊鷲山会に移行した。

 

郤後三月当般涅槃

観音普賢菩薩行法経には「一時、仏、毘舎離国、大林精舎、重閣講堂に在して、諸の比丘に告げたまわく、却って後三月あって、我当に般涅槃すべし」とある。

 

舎衛国

コーラサ国のこと。」仏教が布教された町として多くの仏典に登場する。バーセナディ国王や息子のビルリ王が居住した。『大智度論』では、釈迦が舎衛城に25年滞在し、バーセナディ王やスダッタ長者など、多くの民衆を教化したといわれる。コーサラ国は、南北の2つの国から成り立っていたとされ、南方のコーサラ国と区別するために城の名前をもって国号としたともいわれる。また北を単にコーサラ国と呼び、南を南コーサラ国と称したとも。なお玄奘の『大唐西域記』では南を単なるコーサラ国と記し、『慈恩伝』には北をシュラーヴァスティー国、南をコーサラ国とする。現在のマヘート(マヘトあるいはマーヘートとも)の遺跡群がこの舎衛城の附近であると考えられている。南方のサヘート(サヘトあるいはサーヘート)には隣接して祇園精舎の遺跡がある。

【舎衛の三億】仏の説いた法が、遇い難く聞き難きことを表して、舎衛の三億という。なお古代のインドでは10万単位を1億と数えた。したがって3億とは30万のことである。これは『大智度論』や『摩訶止観』を出典とする用語である。『大智度論』第9巻には「仏世には遇い難し。優曇波羅樹の華の時々一度有るが如し。説くが如く、舎衛の中に9億の家あり。3億の家は眼に仏を見え、3億の家は仏ありと耳で聞くも眼では見えず、3億の家は聞かず見ず、云々」とある。つまり舎衛城には9億の家があったが、これを3億ずつ、釈迦仏を見た家、見たことはないが仏がいると聴いたことがある家、見聞きしたことのない家に3等分される。

 

十六の大国

大国とは土地が広く人口の多い国。南インドにはたくさんの国があり、大きさによって大中小とわけた。仁王経受持品には十六の大国の名前を列記している。すなわち、「吾今三宝を汝等一切諸王に付嘱す。憍薩羅国、舎衛国、摩竭提国、波羅奈国、迦夷羅衛国、鳩尸那国、鳩腅弥国、鳩留国、罽賓国、弥提国、伽羅乾国、乾陀羅国、沙陀国、僧伽陀国、揵崛闍国、波提国、是のごとき一切の諸国王等、皆般若波羅蜜を受持すべし」と。一説には人口10,000人以上の国を大国としている。

 

五百の中国

南インドにはたくさんの国があり、大きさによって大中小とわけた。仁王経受持品には十六の大国の名前を列記している。一説には人口10,000人以上の国を大国、4,00010,000人の国を中国、7003,000人の国を小国、以下国とは呼ばず、200人以下は粟散国としている。

 

狼狗・鵰鷲・蟁蝱

狼と狗、鵰と鷲、蟁(蚊)と蝱(虻)。

 

五十二類

釈尊の涅槃の会座に集まった、比丘・比丘尼・菩薩・優婆塞・優婆夷など52の異類の衆生。五十二衆ともいう。章安大師灌頂の『涅槃経疏』巻1にある。

 

迦葉童子菩薩

サンスクリットのカーシャパの音写。涅槃経巻33の迦葉菩薩品第12の対告衆。同経では、仏はどのようにして長寿を得て金剛不壊の身になったのか、36の問いを立てて釈尊に尋ねている。爾前経の会座にも連ならず法華経の会座にも漏れ、最後に説かれる涅槃経によって利益を受けるので、捃拾(落ち穂拾い)の機根の者とされる。

 

大地はささばはづるるとも

絶対に誤りないことを示す文。「ささば」には二意ある。①鋭いもので突き刺す。②指をもって示す。

 

法華経の行者

法華経をその教説の通りに実践する人。日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対して、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」とあり、また勧持品第13には悪世末法に俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(12607月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害が連続する御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」と述べられている。

 

菩薩

菩薩薩埵(bodhisattva)の音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。

 

人天

人界と天界のこと、またその衆生。

 

八部

仏法を守護する8種類の諸天や鬼神。法華経譬喩品第3などにある。天竜八部ともいう。天(神々)・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽の8種。

 

二聖

薬王菩薩と勇施菩薩のこと。法華経陀羅尼品第26で持国天王と毘沙門天王(二天)、鬼子母神、十羅刹女とともに、陀羅尼呪を説いて法華経の行者を守護することを誓った。この二聖、二天、鬼子母神を合わせて五番善神という。

 

二天

持国天王と毘沙門天王のこと。法華経陀羅尼品第26で薬王菩薩と勇施菩薩(二聖)、鬼子母神、十羅刹女とともに、陀羅尼呪を説いて法華経の行者を守護することを誓った。この二聖、二天、鬼子母神を合わせて五番善神という。

 

十羅刹

法華経陀羅尼品第26では、10人の羅刹女が、法華経を受持する者を守ることを誓っている。羅刹はサンスクリットのラークシャサの音写で、人の血肉を食うとされる悪鬼だが、毘沙門天王の配下として北方を守護するともいわれる。羅刹女はラークシャサの女性形ラークシャシーの訳で、女性の羅刹のこと。

 

九界

十界のうち、仏界を除く地獄界から菩薩界までの九つのこと。

 

戒徳

戒律を守ることによって得られる功徳・福徳のこと。

 

袋きたなしとて金を捨る事なかれ

大智度論巻49には「蔽嚢に宝を盛ならんに、嚢の悪しきを以っての故に、其宝を取らざるを得ざるが如く」とある。

 

伊蘭

サンスクリットのエーランダの音写。トウゴマの種。種子からヒマシ(箆麻子)油が取れる。強い悪臭をもつとされた。香木の旃檀と対比される。

 

栴檀

仏典にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、インド原産の香木。高さ710メートルに達する常緑高木で半寄生生活をする。香気を発し腐らないので、仏像・仏具などの材料や、医薬・香油の原料として使われる。なお、栴檀の木は火に焼けないとの伝承があったとされるが、出典は不明。ある仏典には栴檀の香を身に塗れば火に焼けないとある。悪臭を放つ伊蘭と対比される。

 

持戒

戒を受け持つことと。

 

市の中の虎

市場にいる虎。ありえないことの譬え。伝教大師最澄作とされる『末法灯明抄』には、末法に持戒の者がいるはずがないことの譬えとして用いられている。

 

麟角

麒麟(キリン)の角のこと。極めて希な物事の譬え。

 

白烏の恩をば黒烏に報ずべし

中国の故事。昔、ある王が蛇に咬まれようとしていたとき、白烏が王を突いて危険を知らせた。その後、王は恩を報ずるために白烏を捜させたが見つからなかった。そこで白烏のかわりに黒烏に恩を報じたという。天台の観心論には「烏鴉に食を施さざれば豈に白鴉の恩を報ぜんや」とある。

 

講義

諸仏・菩薩や二乗・人・天などの衆生にとって釈尊は、主・師・親の三徳を具えた方であり、その釈尊に法華経によって成仏を許され、法華経のためには身命を惜しまないと誓ったのであるから、法華経の行者の祈りがかなわないわけがないことを示され、強盛な信心を勧められている。

 

仏は人天の主・一切衆生の……返らせ給ひぬ

 

釈迦仏が、衆生を守護する力(主徳)、衆生を導き教化する智慧(師徳)、衆生を慈愛する働き(親徳)という三つの徳を具えていることを述べられ、しかしそれは法華経を説かれたからこそであることを示されている。

釈尊は、法華経譬喩品第三で「今此の三界は、皆な是れ我が有なり(主徳)。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり(師徳)。而るに今此の処は、諸の患難多し。唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す(親徳)」と、娑婆世界の衆生に対して三徳を具備していることを明かしている。

阿弥陀如来等の釈尊以外の諸仏は、娑婆世界の衆生にとって無縁の存在で、娑婆世界に出世していないので師徳が欠けており、三徳具備の仏とはいえないため、それらの仏に帰依しても全く利益はないのである。

南条兵衛七郎殿御書には、譬喩品の今此三界の文を示された後に「此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり師なり主なり、我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とには・ましまさず、ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる」(149404)と述べられている。

しかし、法華経を説く以前の釈尊は、提婆達多を呵責し、声聞の弟子達を永不成仏とそしり、菩薩に対しても果分証得の法門は説かなかったのである。そのため、それを聞いた声聞や菩薩達は、仏に天魔が魅入って自分達を悩ますのではなかろうかとの疑いをもった者もいたのである。

法華経譬喩品第三には「初め仏の説きたまいし所を聞いて、心中大いに驚疑しき。将に魔の仏と作って、我が心を脳乱するに非ずやと」とある。

ところが、後八年の霊山における法華経の会座では、宝塔が涌出して釈迦・多宝の二仏が並坐し、十方分身の諸仏も列なり、地涌千界の無数の菩薩も涌現したところで、諸仏の果分果証の功徳の法門が説かれた。それによって、ちょうど宝の蔵を傾けて貧人に与えたように、珠を抱いた崑崙山が崩れたように、諸人が成仏のできる宝珠を得ることができたのである。そのため諸菩薩は身命を惜しまずに法華経を弘通することを誓っている。

法華経嘱累品第二十二では、釈尊が無量の菩薩の頂を摩でて「汝等は応当に一心に此の法を流布して、広く増益せしむべし」と、滅後の弘通を付嘱している。それに応えた諸の菩薩が仏の命のごとく法華経を弘通すると誓った後に「爾の時、釈迦牟尼仏は、十方より来りたまえる諸の分身の仏をして、各おの本土に還らしめんとして、是の言を作したまわく、『諸仏よ。各おの安んずる所に随いたまえ。多宝仏の塔は、還って故の如くしたまう可し』」とあって、多宝如来と十方分身の諸仏、及びその眷属の諸菩薩は、それぞれの本土へ帰ったのである。

 

やうやう心ぼそくなりし程に……おぼすらめ

 

法華経を説き終わった釈尊は、仏説観普賢菩薩行法経に「是の如きを我れ聞きき。一時、仏は毘舎離国の大林精舎、重閣講堂に在して、諸の比丘に告げたまわく、『却って後三月あって、我れは当に般涅槃すべし』」とあるように、三か月後には入滅すると予言したのである。

そのとおりに、釈尊は満八十歳の二月十五日に、中インド拘尸那掲羅国を流れる跋提河の西岸の沙羅林で入滅した。

仏の入滅にあたって一切衆生の嘆き悲しんださまは、涅槃経に詳しく述べられている。衆生が嘆き悲しんだのは「偏に法華経にして仏になりしかば、仏の恩の報ずる事かたかりしなり」と仰せのように、成仏の道を示された仏の大恩に報いることはとうていできないからだったのである。

涅槃経には、迦葉童子菩薩が釈尊に向かって「既に自ら学し已りて、亦当に人の為に広く是の義を説くべし。若し諸人の能く信受せざる有らば、当に知るべし、是の輩は久しく無常を修するを、是くの如きの人には、我当に其れが為に霜や雹と作るべし」と誓ったとある。

それを聞いた釈尊は「善い哉善い哉、汝今善く正法を護持す。是くの如きの護法は、人を欺かず。人を欺かざるの善業縁を以っての故に、長寿を得、善く宿命を知らん」とほめている。

そのことから、仏の心を推した諸の菩薩や諸天等は、法華経の敵を討とうと誓えば仏がしばらくでも長生きをされるだろうと、そのことを一々に誓ったとされている。したがって、諸の菩薩や諸天等は、法華経の敵が実際に出現すれば、それを責めることによって仏前の誓いを果たし、釈尊をはじめ諸仏に不惜身命と思われたいものだ、と思っているはずである、と仰せになっている。ゆえに、末法に法華経を行ずる者を諸天等が守らないはずはなく、したがって祈りがかなわないはずはない、との意を示されているのである。

 

いかに申す事は・をそき……祈りのかなはざるべき

 

法華経の行者の祈りは必ずかなうことを、たとえをもって示されている。大地をさして外れることはありえないし、大空をつないで結びつけられる者などいるはずがなく、潮の干満がなくなることもありえず、太陽が西から出ることもありえないのである。たとえそうした、絶対にありえないことが起こったとしても、法華経の行者の祈りがかなわないことはありえないと仰せになって、法華経の行者の祈りは絶対にかなうことを強調されている。

なぜ法華経の行者が守られるのかといえば、先に述べられているように、諸の菩薩や諸天等が必ず守護するからである。しかも、法華経の行者の姿の如何や、智慧や戒徳の有無には関係なく、南無妙法蓮華経と唱えれば祈りがかなうのである。それは、法華経の行者を嫌って守らなければ、菩薩や諸天等が仏前の誓いを破ることになるからである。

そのうえ、現在は正法・像法時代は過ぎて末法に入っており、伝教大師が末法燈明記に「設い末法の中に持戒の者有らんも、既に是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可けん」と述べているように、持戒の者などほとんど存在しないし、また、今の世に智者を求めることも、麒麟の角を求めるように、極めて困難なのである、と仰せである。

これは、末法の法華経の行者とは、戒を持ったり智者の姿で現れるのではなく「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」(0766:第十三常不値仏不聞法不見僧の事:03)と仰せのように、別しての法華経の行者である日蓮大聖人は、凡夫僧の御姿のままの仏であられ、その御姿を見て法華経の行者ではないと卑しんではならないことを示されていると拝される。

白鳥から受けた恩を黒鳥に報ずるように、聖僧の恩を凡僧に報ずべしと仰せられているのは、諸菩薩等が釈尊から受けた大恩を末法の法華経の行者に報ずべきであることを示され、法華経の行者の祈りが絶対にかなう理由を明かされているのである。そして「とくとく利生をさづけ給へ」と強盛に祈るならば、どんな祈りもかなわないはずはないと仰せになり、強盛な信心を勧められている。

本抄では、法華経の行者を諸菩薩や諸天が守護することを、祈りがかなう理由として挙げられているが、その根本は御本尊の仏力・法力によるのである。

日寛上人は、観心本尊抄文段で「十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」と述べられている。

末法の法華経である文底下種の本尊、すなわち南無妙法蓮華経の御本尊を深く信じて、題目を唱える我ら衆生の信力・行力によって、御本尊の仏力・法力があらわれ、いかなる祈りもかない、即身成仏できるのである。

そのために、大聖人は「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」(1262:02)、「いかに日蓮いのり申すとも、不信ならば、ぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし。はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし」(1192:14)等と仰せになって、信力を奮い起こすよう励まされているのである。御本尊に対する深い信心と、自行化他の勇気ある実践があってこそ、いかなる祈りもかなうことを確信していきたい。

 

 

 

第九章 (天台・真言による祈祷の悪現証示す)

 本文   

問うて云く上にかかせ給ふ道理・文証を拝見するに・まことに日月の天に・おはしますならば大地に草木のおふるならば、昼夜の国土にあるならば大地だにも反覆せずば大海のしほだにもみちひるならば、法華経を信ぜん人現世のいのり後生の善処は疑いなかるべし、然りと雖も此の二十余年が間の天台・真言等の名匠・多く大事のいのりをなすに・はかばかしくいみじきいのりありともみえず、尚外典の者どもよりもつたなきやうにうちをぼへて見ゆるなり、恐らくは経文のそらごとなるか・行者のをこなひのをろかなるか・時機のかなはざるかと、うたがはれて後生もいかんとをぼう。

  それは・さてをきぬ・御房は山僧の御弟子とうけ給はる父の罪は子にかかり・師の罪は弟子にかかるとうけ給はる、叡山の僧徒の薗城・山門の堂塔・仏像・経巻・数千万をやきはらはせ給うが、ことにおそろしく世間の人人もさわぎうとみあへるは・いかに・前にも少少うけ給はり候ぬれども今度くわしく・ききひらき候はん、但し不審なることは・かかる悪僧どもなれば三宝の御意にも・かなはず天地にも・うけられ給はずして、祈りも叶はざるやらんと・をぼへ候はいかに、答て云くせんぜんも少少申しぬれども今度又あらあら申すべし、日本国にをいては此の事大切なり、これをしらざる故に多くの人口に罪業をつくる、先づ山門はじまりし事は此の国に仏法渡つて二百余年、桓武天皇の御宇に伝教大師立て始め給いしなり、当時の京都は昔聖徳太子・王気ありと相し給いしかども・天台宗の渡らん時を待ち給いし間・都をたて給はず、又上宮太子の記に云く「我が滅後二百余年に仏法日本に弘まる可し」云云、伝教大師・延暦年中に叡山を立て給ふ桓武天皇は平の京都をたて給いき、太子の記文たがはざる故なり、されば山門と王家とは松と栢とのごとし、蘭と芝とににたり、松かるれば必ず栢かれらんしぼめば又しばしぼむ、王法の栄へは山の悦び・王位の衰へは山の歎きと見えしに・既に世・関東に移りし事なにとか思食しけん。

  秘法四十一人の行者・承久三年辛巳四月十九日京夷乱れし時関東調伏の為め隠岐の法皇の宣旨に依つて始めて行はれ御修法十五壇の秘法、一字金輪法天台座主慈円僧正.伴僧十二口・関白殿基通の御沙汰四天王法成興寺の宮僧正・僧伴八口広瀬殿に於て修明門院の御沙汰・不動明王法成宝僧正・伴僧八口・花山院禅門の御沙汰・大威徳法観厳僧正・伴僧八口・七条院の御沙汰・転輪聖王法成賢僧正・伴僧八口・同院の御沙汰・十壇大威徳法伴僧六口・覚朝僧正・俊性法印・永信法印・豪円法印・猷円僧都・慈賢僧正・賢乗僧都・仙尊僧都・行遍僧都・実覚法眼・已上十人大旨本坊に於て之を修す如意輪法妙高院僧正・伴僧八口宜秋門院の御沙汰毘沙門法常住院僧正・三井・伴僧六口・資賃の御沙汰御本尊一日之を造らせらる・調伏の行儀は如法愛染王法仁和寺御室の行法・五月三日之れを始めて紫宸殿に於て二七日之を修せらる仏眼法大政僧正・三七日之を修す六字法快雅僧都愛染王法観厳僧正.七日之を修す不動法勧修寺の僧正・伴僧八口・皆僧綱大威徳法安芸僧正金剛童子法同人・已上十五壇の法了れり、五月十五日伊賀太郎判官光季京にして討たれ、同十九日鎌倉に聞え、同二十一日大勢軍兵上ると聞えしかば残る所の法・六月八日之れを行ひ始めらる、尊星王法覚朝僧正・太元法蔵有僧都五壇法大政僧正・永信法印・全尊僧都・猷円僧都.・行遍僧都・守護経法御室之を行はせらる我朝二度之を行う五月二十一日武蔵の守殿が海道より上洛し甲斐源氏は山道を上る式部殿は北陸道を上り給う、六月五日・大津をかたむる手・甲斐源氏に破られ畢んぬ、同六月十三日十四日宇治橋の合戦・同十四日に京方破られ畢んぬ、同十五日に武蔵守殿六条へ入り給ふ諸人入り畢んぬ、七月十一日に本院は隠岐の国へ流され給ひ・中院は阿波の国へ流され給ひ・第三院は佐渡の国へ流され給ふ、殿上人七人誅殺せられ畢んぬ、かかる大悪法・年を経て漸漸に関東に落ち下りて諸堂の別当・供僧となり連連と之を行う、本より教法の邪正勝劣をば知食さず、只三宝をば・あがむべき事と・ばかり・おぼしめす故に自然として是を用ひきたれり、関東の国国のみならず叡山・東寺・薗城寺の座主・別当・皆関東の御計と成りぬる故に彼の法の檀那と成り給いぬるなり。

 

現代語訳

問う。上に書かれた道理、文証を拝見するに、本当に日月天が天におられるならば、また大地に草木が生えるならば、国土に昼夜があるならば、大地が転覆しないならば、また大海の潮が満ち干るならば、法華経を信ずる人の現世の祈りは必ず成就し、後生善処は疑いないことである。ところが、この二十余年の間、天台、真言宗等の名僧学匠達が、多く大事の祈禱をなすに、顕著な験があるとも思えず、かえって外典を持つ者より拙いように思われるが、これは一体、法華経の経文が虚妄であるためか、行者の修行が不実であるためか、また時機が相応しないためであるかと疑われ、これらのことから推して後生の大事もどうかと疑われてくる。

それはさておいて、御房は比叡山で学問を修められたとうかがうが、父の罪は子にかかり、師匠の罪は弟子にかかるというから、比叡山の僧徒が薗城寺や山門の堂塔や仏像、経巻等数千万を焼き払ったということは、まことに恐ろしいことで、世間の人々もそのことで騒ぎ、比叡山の僧らを疎むようになったことをどう思うか。まえにも少々うかがったが、今度は詳しく聞きたいと思う。

ただし、自分も不審に思うことは、このような悪僧どもゆえに、仏法僧の三宝の御意にもかなわず天地の神にも受け入れられないから、祈りもかなわないのではないかと思うがどうか。

答えていう。先にも少々申し上げたことであるが、今度またあらあら申し上げよう。日本国においてこのことは実に大切なことであり、これを知らないために多くの人が口にいろいろの罪業をつくるのである。

さて比叡山延暦寺の創立は我が国に仏法が渡来して二百余年、桓武天皇の御代に伝教大師によって初めてなされたのである。当時の京都は、昔、聖徳太子が王者の都するところであると考えられたが、天台宗の渡るのを待って都を立てられなかったのである。

また聖徳太子の記にも「我が滅後二百余年に、仏法が日本に弘まるであろう」とあるが、伝教大師が延暦年中に比叡山に延暦寺を建立し、桓武天皇は平安の都を立てられ、太子の記文が見事に的中したのである。

それゆえに比叡山と朝廷とは、あたかも松と柏、蘭と芝との関係に似て、松が枯れれば柏が枯れ、蘭が凋めば芝も凋む。王法の栄えは比叡山の喜びであり、朝廷の衰えは比叡山の嘆きであるというように、深い関係であったが、世がすでに関東に移り王法が衰えてしまったことについて、朝廷ではなんと思われたことであろう。

承久三年辛巳四月十九日、京都と関東とに争いが起きた時に、隠岐の法皇の宣旨によって秘法を修する四十一人の行者が、関東を調伏する目的で初めて十五壇の秘法を行った。

一字金輪法(天台座主の慈円僧正が、伴僧十二人とともに、関白殿基通の御沙汰によって修法した)、四天王法(成興寺の宮僧正が、伴僧八人を従え、広瀬殿で修明門院の御沙汰によって修法した)、不動明王法(成宝僧正が伴僧八人とともに、花山院禅門の御沙汰で修法した)、大威徳法(観厳僧正が伴僧八人とともに、七条院の御沙汰で修法した)、転輪聖王法(成賢僧正が伴僧八人とともに、七条院の御沙汰で修法した)、十壇大威徳法(覚朝僧正、俊性法印、永信法印、豪円法印、猷円僧都、慈賢僧正、賢乗僧都、仙尊僧都、行遍僧都、実覚法眼の十人が、伴僧六人ずつを連れて大慨は本坊でこれを修法した)、如意輪法(妙高院僧正が伴僧八人と、宜秋門院の御沙汰によって修法した)、毘沙門法(三井の常住院僧正が伴僧六人と、資賃の御沙汰によって修法した)、また一日御本尊を造って調伏の作法が行われた。それは如法愛染王法(御室仁和寺の行法で、五月三日に始めて二七日の間、紫宸殿で修法した)、仏眼法(大政僧正が三七日の間、修法した)、六字法(快雅僧都が修法した)、愛染王法(観厳僧正が七日間修法した)、不動法(勧修寺の僧正が僧綱の位にある伴僧八人とともに修法した)、大威徳法(安芸の僧正の修法)、金剛童子法(同人の修法)で、以上で十五壇の秘法は終わった。

五月十五日には、伊賀太郎判官光季を京都で討ち取ったが、同十九日にはそのことが鎌倉に知れ、同二十一日、大勢の軍兵が攻め上ると聞こえてきたので、残りの法の修法を六月八日から始められた。尊星王法(覚朝僧正)、太元法(蔵有僧都)、五壇法(大政僧正、永信法印、全尊僧都、猷円僧都、行遍僧都)、守護経法(御室で修す、我が国で二度目の修法である)等である。

五月二十一日に武蔵守殿が東海道から上洛し、甲斐源氏の軍勢は東山道から、式部殿は北陸道から攻め上った。六月五日には大津を固めていた京都の兵が甲斐源氏に破られ、同じく六月十三、十四日の宇治橋の合戦でも京都方が破られ、同十五日には武蔵守殿が六条に討ち入り、諸人も入って、七月十一日に本院は隠岐の国へ流され、中院は阿波の国へ、第三院は佐渡の国へ流された。更に殿上人七人が誅殺された。

このような大悪法が年が重なるにつれ、次第に関東に流れてきて諸堂の別当、供養僧となり、相次いでこの法が行われるようになった。もとより教法の邪正勝劣などは知らず、ただ三宝を崇めさえすればよいと思って、これらの悪法を用いてきたのである。関東の国々だけではなく比叡山、東寺、薗城寺の座主や別当も皆、関東の支配となったので、皆この法の檀那となってしまったのである。

 

語釈

山僧の御弟子

大聖人が修学時代に過ごされた、比叡山延暦寺を指すものと思われる。

 

叡山

比叡山(滋賀県大津市)にある日本天台宗の総本山。山号は比叡山。山門または北嶺とも呼ばれる。延暦4年(07857月、伝教大師最澄が比叡山に入り、後の比叡山寺となる草庵を結んだことを起源とする。同7年(0788)、一乗止観院(後の根本中堂)を建立し薬師如来を本尊とした。唐から帰国した伝教大師は同25年(0806)、年分度者2名を下賜され、天台宗が公認された。ここに比叡山で止観業と遮那業を修行する僧侶を育成する制度が始まった。伝教没後7日目の弘仁13年(0822)、大乗戒壇の建立の勅許がおり、翌・同14年(0823)、延暦寺の寺号が下賜され、大乗戒による授戒が行われた。天長元年(08246月、勅令によって義真が初代天台座主となり、戒壇院や講堂が建立された。承和元年(0834)、第2代座主の円澄らが西塔に釈迦堂を、嘉祥元年(0848)、第3代座主の円仁(慈覚)が横川に首楞厳院を建立。寺内は東塔・西塔・横川の三院に区分され、山内の規模も整った。教学面では伝教没後、空海(弘法)の真言宗が勢力を増す中、円仁は唐に渡って密教を学び、帰国して『蘇悉地経疏』『金剛頂経疏』を作るなどして天台宗の教義に密教を積極的に取り入れた。第5代座主の円珍(智証)はさらに密教化を進めた。円仁の弟子であった安然は顕密二教を学び天台密教を大成した。康保3年(0966)に第18代座主となった良源は中興の祖といわれる。しかし良源没後は後任の座主をめぐって対立が起こり、円仁門徒と円珍門徒の争いが激化。正暦4年(0993)に円珍門徒は山を下って別院の園城寺(三井寺)に集まり、これから後、延暦寺は山門、園城寺は寺門として対立が続いた。このころ比叡山の守護神を祭る日吉神社が発展し、後三条天皇の行幸以来、皇族らの参詣が盛んに行われた。その権勢を利用して山門は、朝廷に強訴する時に日吉神社の神輿を担ぎ京都へ繰り出すなど横暴を極めた。平安末期になると山門の腐敗堕落も甚だしくなり、多くの僧兵を抱えた叡山は源平の争いには木曾義仲と結んで平家と対立し、承久の乱には後鳥羽上皇に味方した。日蓮大聖人は立宗前に比叡山で修学されている。また法然(源空)・親鸞・一遍・栄西・大日能忍・道元など、鎌倉時代に活躍した多くの僧が比叡山で学んでいる。

 

薗城

滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山。山号は長等山。三井寺ともいう。山門(比叡山延暦寺)に対する寺門をいう。大友皇子の子、大友与多王によって7世紀後半に建立されたと伝えられる。天智・天武・持統の3帝の誕生水があるので御井(三井)と呼ばれた。比叡山の円珍(智証)が貞観元年(0859)に再興し、同6年(086412月に延暦寺の別院とし、円珍が別当となった。しかし、円仁(慈覚)門徒と円珍門徒との間に確執が生まれ、法性寺座主が円珍系の余慶となったことをめぐって争うなど、双方の対立は深刻化する。そして正暦4年(0993)には比叡山から円珍門徒1000人余りが園城寺に移り、以降、山門(円仁派)と寺門(円珍派)の抗争が続いた。

 

三宝

「さんぼう」ともいう。仏教を構成する仏法僧の三つの要素のこと。この三宝を大切に敬うことが、仏教を信仰する者の基本となる。①仏宝は、教えを説く仏。②法宝は、仏が説く教え。③僧宝は、教えを信じ実践する人々の集い(教団)。「僧」は僧伽の略で、集いを意味するサンスクリットのサンガの音写。「和合」と意訳され、二つ合わせて「和合僧」ともいう。

 

桓武天皇

07370806。第50代天皇。光仁天皇の第1皇子。律令政治を立て直すため、長岡京、平安京への遷都を行った。伝教大師最澄を重んじ、日本天台宗の成立に大きく貢献した。

 

伝教大師

0767あるいは07660822。最澄のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山(後の延暦寺、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経の一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。

【桓武天皇らの帰依】伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇、その第1皇子・平城天皇、第2皇子・嵯峨天皇の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(0806)、伝教の「天台法華宗」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。

【得一との論争】法華経では、仏が教えを声聞・縁覚・菩薩の三乗に区別して説いたことは、衆生を導くための方便であり、一仏乗である法華経こそが、衆生を成仏させる真実の教えであると説いている。これを一乗真実三乗方便という。よって天台宗では、一仏乗を実践すればすべての衆生が成仏できるという立場に立つ。伝教大師は生涯、この一乗思想の宣揚に努めた。これに対し法相宗は、この一乗の教えがむしろ方便であり、三乗の区別を説くことこそが真実であるとした。これは三乗真実一乗方便といわれる。すなわち、五性各別の説に基づいて、衆生の機根には5性の差別があり、その中には不定性といって、仏果や二乗の覚りを得るか、何も覚りを得られないか決まっていない者がいると説く。そして一乗は、このような不定性の者に対してすべての人は成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるとした。ここにおいて、伝教大師と法相宗の僧・得一は真っ向から対立し、どちらの説が真実であるか、激しく論争した。これを三一権実論争という。この論争に関する記録は得一の現存する著作の中には残っていないが、伝教の『守護国界章』や『法華秀句』などからその内容をうかがい知ることができる。

【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊や天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」と仰せになっている。

 

聖徳太子

05740622。飛鳥時代の政治家。厩戸皇子・豊聡耳皇子・上宮王ともいう。聖徳太子とは後代における呼称。用明天皇の第2皇子。四天王寺や法隆寺を造営し、法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書である三経義疏を作ったと伝えられる。これらの業績が、実際に聖徳太子自身の手によるものであるか否かは、今後の研究に委ねられている。ただし、妃の橘大郎女に告げた「世間は虚仮なり、唯、仏のみ是れ真なり」という太子の言葉が残されていて、ここから仏教への深い理解とたどり着いた境地がうかがわれる。日本に仏法が公式に伝来した時、受容派と排斥派が対立したが、聖徳太子ら受容派が物部守屋ら排斥派を打ち破り、日本の仏法興隆の基礎を築いた。日蓮大聖人は二人を相対立するものの譬えとして用いられている。

 

上宮太子

聖徳太子のこと。

 

平の京都

延暦13年(0794)桓武天皇によって長岡京から遷都された平安京のこと。現在の京都市。

 

四十一人の行者

承久の乱に際し、後鳥羽院上皇の宣旨を受けて、鎌倉幕府調伏の祈禱を行った代表者をいう。

 

京夷乱れし時

承久3年(1221)の承久の乱をいう。

 

隠岐の法皇

11801239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈?をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。

 

宣旨

天皇の詔。朝廷から出される詔文書。

 

十五壇の秘法

承久3年(12214月19日、後鳥羽上皇の命で、当時の天台・真言二宗の高僧が関東調伏のために行った修法が15あったことをいう。①一字金剛法②四天王法③不動明王法④大威徳法⑤転輪聖王法⑥十増大威徳法⑦如意法輪⑧毘沙門法⑨如法愛染王法⑩仏眼法⑪六学法⑫愛染王法⑬不動法⑭大威徳法⑮金剛童子法。

 

一字金輪法

一字金輪を本尊として修する真言の祈禱法。

 

慈円僧正

11551225)。延暦寺62656971代座主。平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚、通称に吉水僧正、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円と紹介されている。

 

関白殿基通

11601232)。摂政藤原基実の子。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。従一位・摂政 関白・内大臣。通称は普賢寺関白。

 

四天王法

帝釈天の外将で仏法と国家の守護を誓った四天王を本尊とし、供養する密教の修法。

 

成興寺の宮僧正

11671230)。延暦寺67代座主。成興寺は九条の北烏丸西にあった天台宗の寺。

 

修明門院

11821264)。後鳥羽上皇の後宮で、順徳天皇の母・藤原重子のこと。左大臣藤原範季の娘、母は平教盛の娘・教子。

 

不動明王法

動明王を本尊として息災・増益・敬愛・調伏を目的で祈禱する真言密教の修法。

 

成宝僧正

11591227)鎌倉時代の真言宗の僧。勧修寺において出家し、雅宝・勝賢から伝法灌頂を受け東寺の長者、東大寺の別当に進む。

 

花山院禅門

11731229)。左大臣藤原兼雅の子、藤原忠経のこと。鎌倉初期に右大臣になり、出家して花山院と号した。

 

大威徳法

大威徳明王を本尊とし、修する密教の祈禱法。

 

観厳僧正

11511236)鎌倉初期の密教僧。東大寺別当、当時長者等。

 

七条院

11571228)。藤原 殖子のこと。平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。高倉天皇の後宮。後高倉院(守貞親王)と後鳥羽天皇の母。女院。坊門殖子とも。父は従三位藤原(坊門)信隆。母は藤原休子(大蔵卿藤原(持明院)通基の女)。内大臣坊門信清は同母弟。

 

転輪聖王法

転輪聖王を本尊として国家安穏・怨敵摧破ために修する真言の法。

 

成賢僧正

12621231)。鎌倉初期の真言僧。中納言藤原成範の子。醍醐寺の勝賢について出家し、遍智院に住した。醍醐寺座主、当時長者、遍智院僧正、宰相僧正を歴任。

 

十壇大威徳法

大威徳法のこと。密教の事相書に出てくる修法。

 

覚朝僧正

11601231)。鎌倉初期の天台宗の僧。園城寺の別当から権僧正となり、長吏となる。

 

俊性法印

鎌倉時代の真言宗の僧。京都仁和寺尊性院に住す。

 

永信法印

生没年不明。鎌倉初期の真言宗の僧。

 

豪円法印

11721225)。鎌倉初期の天台宗の僧。無動寺検校。

 

猷円僧都

11611232)。鎌倉時代天台宗寺門派の僧。園城寺の別当。右京太夫藤原隆信の子。

 

慈賢僧正

12751241)延暦寺第78代座主。摂津守源頼兼の子。

 

賢乗僧都

生没年不明。鎌倉時代の僧。

 

仙尊僧都

生没年不明。鎌倉時代の僧。

 

行遍僧都

11811264)。鎌倉時代真言宗の僧。三河刺史任尊法橋の子。仁和寺に入り御室の菩提院に住んだ。東寺の長者。三河僧正。

 

実覚法眼

生没年不明。鎌倉時代の僧。

 

如意輪法

如意輪観自在菩薩念誦法のこと。如意輪観世音菩薩または如意宝珠を本尊として罪障消滅などを願って行う修法。

 

妙高院僧正

生没年不明。鎌倉時代の真言宗の僧。

 

宜秋門院

11731238)。後鳥羽天皇の皇后・任子のこと。父は関白太政大臣・九条兼実。法然に従って出家して尼となったが、渧颰はしていなかった。

 

毘沙門法

毘沙門天を本尊として福徳・戦勝祈願などを目的として修する修行法。

 

常住院僧正

11881246)。常住院良尊のこと。太政大臣藤原良隆の子。後堀川・四条・後嵯峨天皇の護持寺に任じ、三井の長吏、熊野三山の検校を務めた。

 

資賃

常住院良尊によって修された毘沙門法の沙汰者。一説に土御門・順徳二代の侍読で中納言・文章博士である藤原資実の誤字との説もある。

 

如法愛染王法

如法愛染明王法のこと。愛染明王を本尊として如意宝珠法によって修する真言の祈禱法。大愛染法ともいい、真言宗東寺の大事とされる。

 

仁和寺御室

仁和寺の最高主管者のこと。京都市右京区にある古義真言宗の大本山。

 

仏眼法

仏眼を本尊として祈念する密教の修法。仏眼尊は詳しくは一切仏眼大金剛吉祥一切仏母。眼は仏の中道の眼の意で、胎蔵界漫荼羅の遍知院および釈迦院にある。息災延命、福寿増長、降伏などを祈る修法。

 

大政僧正

生没年不明。鎌倉時代の僧。

 

六字法

天台・真言密教で、六観音を本尊として調伏・息災などのために行う修法。

 

快雅僧都

生没年不明。鎌倉時代の天台僧。天台13流の一つである功徳流の祖比叡山延暦寺の東搭西谷に住む功徳院にすんでいたので、功徳院とも呼ばれている。

 

愛染王法

愛染明王法の略。愛染明王を本尊として修する祈禱法で、愛敬・利福・調伏・息災等を祈る。

 

不動法

不動明王法のこと。真言密教の修法で、不動明王を本尊として息災・増益・調伏の目的で祈禱する。

 

勧修寺

京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。「山階門跡」とも称する。

 

僧綱

仏教の僧尼を統轄し,大寺院などを管理する役職。中国の僧官にならって,推古 32(0624) に僧正,僧都,法頭が設けられたが,さらに弘仁 10 (819) に僧正,僧都,律師の3綱がおかれ,各階級が定められ,のちにはただの称号と化した。

 

安芸僧正

詳細不明。一説には園城寺長吏の覚朝をさすともいわれる。

 

金剛童子法

金剛童子を本尊として息災・調伏のための修法を行う。

 

伊賀太郎判官光季

鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人。伊賀朝光の長男。母は二階堂行政の娘。姉妹に北条義時の継室・伊賀の方がいる。姉妹が鎌倉幕府の執権北条義時の正室である事から、北条氏外戚として重用された。建暦2年(1212年)、常陸国内に地頭職を与えられる。建保3年(1215年)、左衛門尉、検非違使。建保7年(1219年)2月、大江親広と共に京都守護として上洛。

 

尊星王法

北極星を神格化したもので、妙見菩薩ともいわれます。 この尊星王を本尊とする尊星王法は、国家安泰を祈る大法で、三井寺では、智証大師が唐において師の法全より直接付与された法として 重要視されてきたもの。

 

太元法

仏教(特に密教)における尊格である明王の一つ。なお、真言密教においては「帥」の字は発音せず「たいげんみょうおう」と読み、また太元明王と記すこともある。

 

蔵有僧都

鎌倉初期の真言宗の僧。山城国醍醐山の人。理性院の宗厳から伝法灌頂を受け、後に法琳寺の別当となる。

 

五壇法

密教で行われる修法の一つ。密教修法の中で五大明王(不動明王・降三世明王・大威徳明王・軍荼利明王・金剛夜叉明王)を個別に安置して国家安穏を祈願する修法のことである。

 

全尊僧都

生没年不明。鎌倉初期の僧。

 

守護経法

金剛界37尊を本尊とし、守護国界主陀羅尼経によって国の安穏を目的として修する。密教三箇大法のひとつ。

 

武蔵の守殿

武蔵守北条宣時のこと。佐渡の知行者。良観の熱心な信者であったらしい。

 

海道

東海道のこと。

 

甲斐源氏

清和源氏の一族で、源義光の三男、武田冠者吉義清の一門から出た地方の豪族。甲斐・信濃方面に勢力を持っていた。

 

山道

東山道のこと。

 

式部殿

北条朝時(11931254)のこと。承久2年(1220)式部少丞に任命されたので式部殿と呼ばれた。

 

北陸道

七箇国。若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡。

 

宇治橋の合戦

承久3年(122161314日、京都府宇治市の宇治川をはさんで、後鳥羽上皇方と鎌倉幕府方とが争った戦。この合戦で幕府方が勝ち、711日、三上皇が流罪に処せられ、承久の乱の幕が閉じた。

 

本院

①上皇が二人以上いる場合に第一の上皇をさしていう。②寺院の境内の主たる建物。

 

隠岐の国

山陰道8ヶ国のひとつ。島根県東北部および隠岐諸島の全域をいう。遠流の地であり、承久の乱で敗れた後鳥羽天皇が流罪された地。

 

中院

土御門天皇(11961231)のこと。後鳥羽天皇の第一皇子。母は承明門院源在子。承元4年(1210)皇弟・順徳天皇に譲位し、土御門院と称した。承久の乱後、土佐に流されが、後に都に近い阿波に移された。

 

阿波の国

南海道六道のひとつ。現在の徳島県にあたる。

 

第三院

順徳天皇(11971242)のこと。後鳥羽天皇の第三皇子。母は藤原範季の娘・修明門院重子。後鳥羽院とともに、承久の乱を企てたが敗北し、佐渡に流された。以後21年間配所に在し、仁治3年(1242)没した。

 

佐渡の国

新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(127110月~文永11年(12743月までである。

 

殿上人七人誅殺せられ畢んぬ

承久の乱の計画に参加したとされる七人。坊門大納言忠信・中御門中納言宗行・佐々木前中納言光親・高倉宰相中将範茂・一乗宰相中将信能・大監物光行。

 

別当

僧官名。寺社の事務を統制する最高責任者として置かれた。法隆寺・東大寺・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などの別当が有名。

 

東寺

教王護国寺のこと。京都にある真言宗東寺派の総本山。延暦15年(796年)に桓武天皇が平安京の鎮護として、羅城門の左右に東西両寺を建立したのが始まり。平安京の東半分にある寺なので東寺と呼ばれる。弘仁14年(823年)、嵯峨天皇より空海(弘法)に与えられ、灌頂道場とされた。「一の長者」といわれる東寺の住職が、真言宗全体の管長の役目を果たした。

 

講義

法華経を信ずる人の祈りはかなうはずであるのに、天台・真言の僧等の祈りがかなわないばかりか、承久の乱の際の幕府調伏の祈禱が朝廷方の大敗を招いた事実を明かされている。

 

問うて云く上にかかせ給ふ道理・文証……いかんとをぼう

 

本抄の前章までに述べられたような、法華経の行者には仏・菩薩や諸天等の守護があるためにその祈りは必ず成就するとの道理と文証によれば、法華経を信ずる人は現世の祈りがかない、後生に善処に生まれることは疑う余地がないのである。

ところが、「然りと雖も此の二十余年が間の天台・真言等の名匠、多く大事のいのりをなすに、はかばかしくいみじきいのりありともみえず」と指摘されているように、天台・真言の名僧・高僧達の祈りがかなっていないのはなぜかとの疑問を提起されている。

「此の二十余年が間」とは、本抄が文永9年(1272)の御述作とすると、大聖人が立宗された建長5年(1253)から二十年目にあたるので、ほぼその間といえる。その間での「大事のいのり」には、その間に何回も行われた疫病退治の祈禱なども挙げられるだろうが、最大のものは蒙古調伏の祈禱であろう。

文永9年(1272)の時点ではまだ蒙古軍は来襲していないが、文永5年(1268)に最初の蒙古の国書が到来してから朝廷や幕府はおもな寺院や神社に蒙古調伏の祈願をさせたものの、文永6年(1269)、7年、8年と重ねて蒙古から牃状が届いており、当時は蒙古軍の襲来が必至の情勢だったのである。そうした事実から「はかばかしくいみじきいのりありともみえず」と断じられたのであろう。

そして、祈りがかなわないのは、経文が虚妄であるためか、行者の行いが愚かで誤っているためか、時機がかなわないためであろうと疑われ、そのことから推すると後生の大事もどうなることかと疑われてくる、と仰せである。

法華経が虚妄であるわけはないので、行者の行いが法華経に背いて真言で祈禱するという愚かな誤りをしていたためであり、また末法の時機にかなわない爾前権経による祈りのために、祈りはかなわなかったのである。なお、現世の祈りがかなわないということは、後生の大事、すなわち成仏ができないということなのである。

持妙法華問答抄に「当世の御祈祷はさかさまなり先代流布の権教なり末代流布の最上真実の秘法にあらざるなり、譬えば去年の暦を用ゐ烏を鵜につかはんが如し」(0467:10)と述べられているように、真言等の爾前権教による祈禱は去年の暦を用いるようなもので、時にかなわないばかりか、それを信じて用いると生活のうえに混乱が起こり、大きな害を招くのである。

 

それは・さてをきぬ・御房は……思食しけん

 

そして、大聖人が比叡山延暦寺で修学されたことから、当時、延暦寺の僧徒が園城寺を焼き、更には延暦寺の堂塔や仏像、経巻を焼き払った事実を挙げられて「かかる悪僧どもなれば三宝の御意にも・かなはず天地にも・うけられ給はずして、祈りも叶はざるやらんと・をぼへ候はいかに」との疑いを呈されている。すなわち、園城寺や延暦寺の堂塔等を焼くという比叡山の悪僧の存在が祈りをかなわなくしているのではないか、という疑問である。

文永元年(1264323日に、延暦寺の僧徒が自ら延暦寺を焼いており、更に同年52日には園城寺を襲って同寺の戒壇を焼き払い、梵鐘を奪っている。その後も、延暦寺の僧徒はたびたび園城寺を襲い、7回にわたって焼き打ちを行ったのである。

比叡山延暦寺第5代座主の智証大師円珍が再興して延暦寺の別院としたのが園城寺(三井寺)であり、後に慈覚(延暦寺第三代座主・円仁)の門徒と対立した智証の門徒が比叡山を離れ園城寺に移って分立し、天台宗寺門派を立てた。その後、園城寺側が独自の戒檀の建立の勅許を朝廷に請願したことから、それを阻止しようとした比叡山側(山門)と激しく対立し、武力衝突を繰り返したのでる。

延暦寺も園城寺も、多くの僧兵を養い、ことあるごとに朝廷に強訴し、他の寺院に武力闘争を挑むなど、一種の武装集団と化していた。日本の仏教の中心たるべき比叡山が、仏教本来の姿に背き、信仰のかけらもなくなっていた事実は、当時の人々の目にも釈尊の仏法の力が失われた末法到来の相と映っていたようである。

その答えとして、比叡山延暦寺と朝廷との関係を示され、仏法と王法の盛衰には深い関係があり、政治の実権が京都の朝廷から関東(鎌倉)の幕府に移ったのは、比叡山の仏法が衰えた結果であることを明かされている。

比叡山延暦寺は、伝教大師最澄の創建になり、延暦4年(0785)に19歳で入山、同7年に一乗止観院(後の根本中堂)を建てている。同13年(0794)に桓武天皇が平安京に遷都すると、叡山は都の東北(丑寅)の方角にあたったので、皇城の鬼門を守る鎮護国家の道場とされ、代々の天皇の帰依を受けた。伝教大師は同25年に唐から帰国して後、天台法華宗を開いている。更に弘仁13年(0822)には大乗戒壇を建立する勅許を得ており、それ以後は比叡山が日本の仏教の中心となった。

しかし、伝教大師の滅後、東寺の空海(弘法大師)が朝廷に取り入って急激に真言宗の宗勢を拡大し、十住心論を作って法華経を第三の劣と下し、真言の三部経を鎮護国家の秘法とした。それに紛動された延暦寺の第三代座主慈覚は、東寺に対抗して叡山を優勢にしたいと思い、入唐して顕密二教を学んで帰国し、蘇悉地経・金剛頂経の疏十四巻を作って、法華経と真言三部経は一念三千の理は同じだが、印・真言の説かれた真言が事において勝れるとした理同事勝の邪義を立てた。そのため、それ以後の天台宗は、天台真言(台密)と化したのである。

三大秘法抄に「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染(むぜん)の中道の妙戒なりしが徒(いたずら)に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」(1023:01)と述べられているように、伝教大師の法華最勝の清流に真言の土泥が流れ込んで、濁流となったのである。

比叡山の仏法が濁るとともに、帰依していた王法(朝廷)の福運もしだいに尽き、源平合戦の後に源頼朝により鎌倉幕府が開かれて関東地方に武士政権が立てられ、更に承久の乱に破れたことによって完全に幕府に実権が移行したのであった。

 

秘法四十一人の行者・承久三年……成り給いぬるなり

 

承久の乱の際に、朝廷側が鎌倉幕府を調伏するため行った真言による十五壇の秘法が、かえって朝廷側を敗北させた経緯を明かされている。

承久元年(1219)正月29日、鎌倉幕府の三代将軍源実朝が、前将軍頼家の子・公暁によって暗殺され、源氏の正統が絶えたことを好機として、承久3年(1221514日、後鳥羽院上皇は幕府討伐のために武力で決起し、幕府の京都守護・伊賀光季を討ち、執権北条義時を追討すべしとの院宣を諸国の守護・地頭へ発したのである。

上皇は、一方では幕府(北条氏)を降伏させるための祈禱を、延暦寺、成興寺、仁和寺、園城寺、東寺、勧修寺などの天台・真言の高僧41人に命じ、真言十五壇の秘法を修させた。延暦寺の座主・慈円をはじめ、園城寺の別当・覚朝、東寺の長者・観厳などが自ら修法にあたっている。

519日にそれを知った幕府側は、反撃することに決し、521日に執権・北条義時の長子・泰時が鎌倉を出発して京へ向かい、そのもとへ東国の武士が続々と加わって、吾妻鏡によれば十九万騎に達したという。北条泰時は東海道を、武田信光らは東山道を、北条朝時らは北陸道を進み、1314日には京都の防衛線である宇治・勢多で合戦が行われたが、朝廷側は敗退し総崩れになった。なお、そのときの模様は、富城入道殿御返事に詳しく述べられている。

泰時らは16日に京の六波羅館に入り、上皇の側近の公家や加担した武士達の追及と逮捕が始められた。そして、坊門大納言忠信ら6人の公家が首謀者として処刑され、朝廷側についたおもな武士達も斬られた。

更に幕府は、後鳥羽上皇を隠岐島へ、順徳上皇を佐渡島へ、土御門上皇を土佐国、後に阿波国へ配流したうえ、仲恭天皇を退位させ、後鳥羽上皇の兄・行助法親王の子を皇位につけて後堀川天皇とした。

このように、一国の国主である天皇側が、臣下である鎌倉幕府と争って破れ、三上皇が流罪にされ、政治の実権が幕府に奪われたという事態について、大聖人は諸御書で、その原因の一つを後鳥羽上皇らが禅・念仏等の邪宗邪義を流行させたうえ、真言の大悪法によって祈ったことによって、国主としての福運が尽きたためであるとされている。

頼基陳状には「第八十二代隠岐の法皇の御時、禅宗、念仏宗出来して、真言の大悪法に加えて国土に流布せしかば、天照太神・正八幡の百王百代の御誓やぶれて王法すでに尽きぬ。関東の権の大夫義時に、天照太神・正八幡の御計いとして、国務をつけ給い畢んぬ」(1161:16)と述べられている。

また、真言による祈禱については、神国王御書に「承久の合戦の御時は天台の座主・慈円・仁和寺の御室・三井等の高僧等を相催(あいもよお)して・日本国にわたれる所の大法秘法残りなく行われ給う、所謂承久三年辛巳四月十九日に十五壇の法を行わる……四十一人の高僧・十五壇の大法・此の法を行う事は日本に第二度なり……仏法の御力と申し王法の威力と申し・彼は国主なり・三界の諸王守護し給う、此れは日本国の民なり……代代の所従・重重の家人なり……いかにとして一年・一月も延びずして・わづか二日一日にはほろび給いけるやらむ」(1520:05)と述べられ、三沢抄には「隠岐の法王・代を東にとられ給いしは・ひとへに三大師の大僧等がいのりしゆへに還著於本人して候」(1490:17)と仰せである。

そのように、朝廷側が真言の大悪法によって祈禱したため、かえって敗北が早まり、政治の実権を幕府に奪われたのであった。

 

 

 

第十章 (真言の邪教たる理由を明かす)

 本文   

問て云く真言の教を強に邪教と云う心如何、答えて云く弘法大師云く第一大日経・第二華厳経・第三法華経と能能此の次第を案ずべし、仏は何なる経にか此の三部の経の勝劣を説き判じ給へるや、若し第一大日経・第二華厳経・第三法華経と説き給へる経あるならば尤も然るべし、其の義なくんば甚だ以て依用し難し、法華経に云く「薬王今汝に告ぐ我所説の諸経而かも此の経の中に於て法華最も第一なり」云云、仏正く諸教を挙げて其の中に於いて法華第一と説き給ふ、仏の説法と弘法大師の筆とは水火の相違なり尋ね究むべき事なり、此筆を数百年が間・凡僧・高僧・是を学し貴賎・上下・是を信じて大日経は一切経の中に第一とあがめける事仏意に叶はず、心あらん人は能く能く思い定むべきなり、若し仏意に相叶はぬ筆ならば信ずとも豈成仏すべきや、又是を以て国土を祈らんに当に不祥を起さざるべきや、又云く「震旦の人師等諍て醍醐を盗む」云云、文の意は天台大師等・真言教の醍醐を盗んで法華経の醍醐と名け給へる事は、此の筆最第一の勝事なり、法華経を醍醐と名け給へる事は、天台大師・涅槃経の文を勘へて一切経の中には法華経を醍醐と名くと判じ給へり、真言教の天竺より唐土へ渡る事は天台出世の以後二百余年なり、 されば二百余年の後に渡るべき真言の醍醐を盗みて 法華経の醍醐と名け給ひけるか此の事不審なり不審なり、真言未だ渡らざる以前の二百余年の人人を盗人とかき給へる事・証拠何れぞや、弘法大師の筆をや信ずべき、涅槃経に法華経を醍醐と説けるをや信ずべき、若し天台大師盗人ならば涅槃経の文をば云何がこころうべき、さては涅槃経の文・真実にして弘法の筆・邪義ならば邪義の教を信ぜん人人は云何、只弘法大師の筆と仏の説法と勘へ合せて正義を信じ侍るべしと申す計りなり。

  疑て云く大日経は大日如来の説法なり・若し爾らば釈尊の説法を以て大日如来の教法を打ちたる事・都て道理に相叶はず如何、答えて云く大日如来は何なる人を父母として何なる国に出で大日経を説き給けるやらん、もし父母なくして出世し給うならば釈尊入滅以後、慈尊出世以前、五十六億七千万歳が中間に仏出でて説法すべしと云う事何なる経文ぞや、若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり、其の迷謬尽しがたし纔か一二を出すなり、加之並びに禅宗・念仏等を是を用る、此れ等の法は皆未顕真実の権教不成仏の法・無間地獄の業なり、彼の行人又謗法の者なり争でか御祈祷叶ふべきや、

 

現代語訳

問う。真言の教えをしいて邪教というのは何ゆえか。

答えていう。弘法大師は「第一大日経、第二華厳経、第三法華経」といわれたが、この次第をよくよく考えてみるがよい。仏はいかなる経にこの三部の経の勝劣を説き、判じられているか。もし「第一大日経、第二華厳経、第三法華経」と説かれている経があれば、その言い分ももっともである。その義がないとしたら、それを信用するわけにはいかない。法華経には「薬王よ、今汝に告ぐ。我が所説の諸経中において法華経が最第一である」と、仏はまさしく諸教を挙げてそのなかにおいて法華経が最第一であると説かれているのである。このように仏の説法と弘法大師の筆とには、水火の相違がある。いずれが真実かを尋ね究めなければならない。

弘法大師のこの筆を数百年もの間、凡僧も高僧も皆これを学び、貴賎、上下も一様にこれを信じて、大日経は一切経のなかで第一であると崇めてきたことは仏の御本意にかなわないことである。

心ある人は、このことをよくよく思案すべきである。もし仏の御本意でない筆ならば、信じてもどうして成仏できようか。またこの法をもって国家を祈ったら、きっと不祥事が起きるであろう。

また弘法は「中国の人師らが争って醍醐を盗んだ」などといっている。文の意は、天台大師等が真言教の醍醐を盗んで法華経を醍醐と名づけたというものであるが、このことが最第一の大事である。

法華経を醍醐と名づけられたのは、天台大師が涅槃経の文を考えて、一切経のなかでは法華経を醍醐と名づけると判定されたのである。

真言教がインドから中国へ渡ったのは、天台大師が出世されてから二百余年後のことである。してみれば二百余年の後に渡ってくる真言の醍醐を盗んで法華経の醍醐と名づけられたのであろうか、不審なことである。

真言教がまだ渡来しない二百余年も前の人々を盗人だとする証拠はどこにあるのか。弘法大師の筆を信ずるべきか、それとも涅槃経に仏が法華経を醍醐と説かれていることを信ずるべきか。

もし天台大師が盗人ならば、涅槃経の文をなんと心得るべきか。もし涅槃経の文が真実で、弘法の筆が邪義ならば、邪義の法を信ずる人々はどうであろう。ただ弘法の筆と仏の説法とを考え合わせて正義を信じられるよう申し上げるしかない。

疑っていう。大日経は大日如来の説法である。もしそうであれば、釈尊の説法をもって大日如来の教法を打ち破ることは道理に合わないではないか。

答えていう。その大日如来はいかなる人を父母として、いかなる国に出現して大日経を説かれたのか。もし父母なくして出世されたというなら、釈尊の入滅以後、慈尊(弥勒)出世以前の五十六億七千万歳の中間に仏が出世して説法するということは、どの経文に出ているのか。もしその証拠がなければ、誰が信ずることができようか。このような僻事ばかりを構えるから邪教というのである。

その誤りは甚だ多くまだ尽きないが、今はその一、二を出したにすぎない。真言の邪教のみならず、更に禅宗、念仏宗等を用いているが、これらの法はいずれも未顕真実の権教であり、無間地獄に堕ちる所業である。また彼の行者はいずれも正法を謗る人達であり、どうして彼らの祈禱がかなうことがあろうか。

 

語釈

弘法大師

07740835)。平安初期の僧。日本真言宗の開祖。空海ともいう。唐に渡り、不空の弟子である青竜寺の恵果の付法を受け、帰国後、密教を体系的に日本に伝える。大日経系と金剛頂経系の密教を一体化し、真言宗を開創した。高野山に金剛峯寺を築き、また嵯峨天皇から京都の東寺(教王護国寺)を与えられた。同時代の伝教大師最澄と交流があったが絶縁している。主著『十住心論』『弁顕密二教論』などで、密教が最も優れているとし、それ以外を顕教と呼んで劣るものとする教判を立てた。

 

第一大日経・第二華厳経・第三法華経

弘法が十住心論で立てた教判。十住心論とは大日経の住心品や『菩提心論』をもとに衆生の心のありかたを10種に分けたもの。真言密教を最高位に位置づけ、華厳を第2、法華を第3としている。①異生羝羊(住)心。異生(衆生・凡夫)が雄羊のように善悪因果を知らず、本能のまま悪行を犯す心。②愚童持斎(住)心。愚童のように凡夫善人が人倫の道を守り、五戒・十善などを行う心。③嬰童無畏(住)心。嬰童は愚童と同意で、現世を厭い天上の楽しみを求めて修行する位をいう。外道の住心。④唯蘊無我(住)心。蘊はただ五蘊(五陰と同じ)の法のみ実在するという意で、無我はバラモンなどの思想を離脱した声聞の位のこと。すなわち出世間の住心を説く初門で、小乗の声聞の住心。⑤抜業因種(住)心。十二因縁を観じて悪業を抜き無明を断ずる小乗の縁覚の住心。⑥他縁大乗(住)心。他縁は利他を意味し、一切衆生を救済しようとする利他・大乗の住心のこと。法相宗の菩薩の境地。⑦覚心不生(住)心。心も境も不生、すなわち空であることを覚る三論宗の菩薩の境地。⑧如実一道(住)心。一仏乗を説く天台宗の菩薩の境地。⑨極無自性(住)心。究極の無自性(固定的実体のないこと)、縁起を説く華厳宗の菩薩の境地。⑩秘密荘厳(住)心。究極・秘密の真理を覚った真言宗の菩薩の境地。大日如来の所説で、これによって真の成仏を得ることができるとした。日蓮大聖人は「真言見聞」で、「十住心に第八法華・第九華厳・第十真言云云何れの経論に出でたるや」と破折されている。

 

天竺

中国および日本で用いられたインドの古称。

 

大日経

大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐の善無畏・一行の共訳。7巻。最初のまとまった密教経典であり、曼荼羅(胎蔵曼荼羅)の作成法やそれに基づく修行法などを説く。

 

大日如来

大日はサンスクリットのマハーヴァイローチャナの訳。音写では摩訶毘盧遮那といい、毘盧遮那と略す。大遍照如来などとも訳す。大日経・金剛頂経などに説かれる密教の教主で、密厳浄土の仏。密教の曼荼羅の中心尊格。真理そのものである法身仏で、すべての仏・菩薩を生み出す根本の仏とされる。

 

慈尊

弥勒菩薩のこと。弥勒はサンスクリットのマイトレーヤの音写。慈氏と訳し、慈愛に満ちた者を意味する。未来に釈尊に次いで仏としての位を継ぐとされる菩薩。釈尊に先立って入滅し、現在は菩薩として、都率天の内院で神々と人々に法を説いているとされる。そして釈尊滅後567000万年後に仏として再びこの世界に登場し衆生を救うとされる。このように次の生で仏となって釈尊の処(地位)を補うので「一生補処の菩薩」とも弥勒仏とも称する。紀元前後から、この世の救世主として弥勒菩薩の下生を願い信ずる弥勒信仰が盛んになり、インド・中国・日本を通じて行われた。古来、インドの瑜伽行派の学者である弥勒と混同されてきたのも、この弥勒信仰に起因している。

 

五十六億七千万歳

釈尊入滅から弥勒菩薩が出世成仏するまでの年数のこと。弥勒菩薩の住処は兜率天の内院で、この天の寿命は四千歳といわれる。この寿命を人界の年数に換算したもの。観弥勒菩薩上生兜率天経に「是くの如く兜率陀天に処りて昼夜恒に此の法を説き、諸天子を度す。閻浮提の歳数五十六億万歳にして、乃ち閻浮提に下生すること弥勒下生経に説くが如し」とある。

 

禅宗

座禅によって覚りが得られると主張する宗派。菩提達磨を祖とし、中国・唐以後に盛んになり、多くの派が生まれた。日本には奈良時代に伝えられたが伝承が途絶え、平安末期にいたって大日能忍や栄西によって宗派として樹立された。日蓮大聖人の時代には、大日能忍の日本達磨宗が隆盛していたほか、栄西や渡来僧・蘭渓道隆によって伝えられた臨済宗の禅が広まっていた。

【達磨までの系譜】禅宗では、霊山会上で釈尊が黙然として花を拈って弟子たちに示した時、その意味を理解できたのは迦葉一人であったとし、法は不立文字・教外別伝されて迦葉に付嘱され、この法を第2祖の阿難、第3祖の商那和修と代々伝えて第28祖の達磨に至ったとする。

【唐代の禅宗】禅宗では、第5祖とされる弘忍(06010674)の後、弟子の神秀(?0706)が唐の則天武后など王朝の帰依を受け、その弟子の普寂(06510739)が神秀を第6祖とし、この一門が全盛を誇った。しかし、神会(684年~758年)がこれに異を唱え、慧能が達磨からの正統で第6祖であると主張したことで、慧能派の南宗と神秀派の北宗とに対立した。日本に伝わった臨済宗や曹洞宗は、南宗の流れをくむ。

【教義】戒定慧の三学のうち、特に定を強調している。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追究ではなく、座禅入定の修行によって直接に自証体得することができるとして、そのために文字も立てず(不立文字)、覚りの境地は仏や祖師が教え伝えるものでなく(仏祖不伝)、経論とは別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の教法は月をさす指のようなものであり、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心がそのまま仏性であると直ちに見て成仏することができる(直指人心、見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修学せず、画像・木像をも否定する。

 

念仏

浄土宗ともいう。阿弥陀仏の本願を信じ、阿弥陀仏の浄土である極楽世界への往生を目指す宗派。浄土信仰は、中国・東晋に廬山の慧遠を中心として、念仏結社である白蓮社が創設されたのが始まりとされる。その後、浄土五祖とされる中国・南北朝時代の曇鸞が浄土教を広め、唐の道綽・善導によってその教義が整えられた。具体的には、当初、念仏といえば心に仏を思い浮かべて念ずる観想念仏を意味した。しかし、善導は『観無量寿経疏』「散善義」で、阿弥陀仏の名をとなえる称名念仏を正定の業すなわち往生のための中心となる修行とし、それ以外の浄土信仰の修行を助行・雑行とした。日本では、平安末期に法然(源空)が、阿弥陀仏の名号をもっぱら口称する専修念仏を創唱した。これは善導の影響を大きく受けており、法然も『選択集』でそれを自認しているが、称名念仏以外の仏教を排除することは、彼独自の解釈である。しかし、その専修性を主たる理由に既成仏教勢力から反発され、その教えを受けた朝廷・幕府からも念仏禁止の取り締まりを受けた。そのため、鎌倉時代の法然門下では、念仏以外の修行も往生のためのものとして認める諸行往生義の立場が主流となっていた。

 

講義

弘法の立義がいかに仏説に背き道理に外れているかを示されている。

 

問うて云く、真言の教を強ちに邪教と……不祥を起さざるべきや

 

真言を邪教というのは、日本真言宗の祖・弘法大師空海が一代聖教の勝劣を「第一大日経・第二華厳経・第三法華経」と立てたことによる、と仰せである。

弘法がその著・十住心論のなかで十住心を立て、第八の一道無為住心を天台宗(法華経)、第九の極無自性住心を華厳宗(華厳経)、第十の秘密荘厳住心を真言宗(大日経)に配立し、大日経第一、華厳経第二、法華経第三とした。つまり、法華経は大日経・華厳経に劣り、大日経からみれば三番目の低い教え(第三の劣)であると下しているのである。

しかし、弘法の立てた勝劣は、いかなる経にも根拠がなく、全くの弘法の我見にすぎない。

しかも、法華経の法師品第十には「薬王よ今汝に告ぐ、我が説く所の諸経、而も此の経の中に於いて、法華は最も第一なり」とあって、法華経が釈尊所説の諸経のなかで第一であると明らかに説かれている。

仏の説によるべきか、人師の立てた説によるべきかといえば、それが異なる場合には仏説に従うべきであることは当然であろう。したがって、この明らかな仏説に背いて、弘法が「大日経第一・法華経第三」と我見を立てたのは、邪であり謗法となるのである。

にもかかわらず、日本の上下万民が弘法の邪義を信じて、大日経を諸経のなかで第一と考え、大日如来を本尊として崇めてきたことは、仏意に背く謗法であり、成仏できないばかりか、地獄に堕ちる業因となるのである。また、こうした真言の邪義で国土の安穏を祈れば、かえって国に不祥事を招くことは必然であると警告されている。

 

又云く「震旦の人師等諍って……申す計りなり

 

また、弘法は弁顕密二教論のなかで「仏五味を以って五蔵に配当して、総持をば醍醐と称し、四味をば四蔵に譬えたまえり。振旦の人師等醍醐を争い盗んで各自宗に名づく」と述べて、天台大師が五時八教の教判を立て、五時を五味にたとえて、法華・涅槃時を醍醐味であるとしたことを、真言から盗み取ったとけなしている。

弘法は、六波羅蜜経に「所謂八万四千の諸の妙法蘊なり(中略)摂して五分と為す。一には素咀纜、二には毘奈耶、三には阿毘達磨(あびだつま)、四には般若波羅蜜、五には陀羅尼門となり、此の五種の蔵をもって有情を教化す(中略)此の五の法蔵譬えれば乳・酪・生酥・熟酥および妙なる醍醐のごとし(中略)総持門とは譬えば醍醐のごとし。醍醐の味は乳・酪・酥の中に微妙第一にして、能く諸の病を除き、諸の有情をして身心安楽ならしむ」とあるように、総持門(陀羅尼門)すなわち真言密教こそ醍醐味であり、天台大師が法華経を醍醐味としたのはこの六波羅蜜の教判を盗んだものと誹謗しているのである。

天台大師は、涅槃経に「善男子、譬えば牛従り乳を出し、乳従り酪を出し、酪従り生酥を出し、生酥従り熟酥を出し、熟酥従り醍醐を出す。醍醐は最上なり……善男子、仏もまたかくのごとし。仏従り十二部経を出し、十二部経より修多羅を出し、修多羅従り方等経を出し、方等経従り般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜従り大涅槃を出す。なお醍醐のごとし、醍醐というは仏性に喩(たと)う」とある文によって、法華経信解品第四等に説かれている五時の次第を証明し、五時を五味にたとえ、五時八教の教判を打ち立てたのである。

しかも、六波羅蜜経がインドから中国に渡ったのは唐代の貞元4年(788)であり、般若三蔵が漢訳したことによる。一方、天台大師が摩訶止観を説いたのが隋の開皇14年(0594)であり、入滅したのが同17年(597)なのである。

真言見聞に「震旦の人師争つて醍醐を盗むと云う年紀何ぞ相違するや、其の故は開皇十七年より唐の徳宗の貞元四年戊辰の歳に至るまで百九十二年なり何ぞ天台入滅百九十二年の後に渡れる六波羅蜜経の醍醐を盗み給う可きや顕然の違目なり、若し爾れば謗人謗法定堕阿鼻獄というは自責なるや」(0148:15)と仰せのように、天台大師が在世の頃にはまだ中国に存在しなかった六波羅蜜経の文を盗むことは絶対に不可能であり、したがって天台大師を盗人と決めつけている弘法の批判はおよそ道理を無視した非難という以外にない。

また、開目抄には「六波羅蜜経は有情の成仏あつて無性の成仏なし何に況や久遠実成をあかさず、猶涅槃経の五味にをよばず何に況や法華経の迹門・本門にたいすべしや、而るに日本の弘法大師・此の経文にまどひ給いて法華経を第四の熟蘇味に入れ給えり、第五の総持門の醍醐味すら涅槃経に及ばずいかにし給いけるやらん」(0222:10)と破されている。

すなわち、六波羅蜜経で醍醐味としている総持門(真言密教)の内容は、有情・非情にわたる真の成仏も説かれず、久遠実成も明かされていないので、涅槃経にも及ばず、まして法華経とは比べものにならない低い教えなのである。にもかかわらず、弘法が法華経を密教の醍醐味に劣る第四の熟蘇味であると下していることは、全くの誤りであるということである。

また、撰時抄には「法華経を醍醐と称することは天台等の私の言にはあらず、仏・涅槃経に法華経を醍醐ととかせ給い天親菩薩は法華経・涅槃経を醍醐とかかれて候、竜樹菩薩は法華経を妙薬となづけさせ給う、されば法華経等を醍醐と申す人・盗人ならば釈迦・多宝・十方の諸仏・竜樹・天親等は盗人にてをはすべきか」(0278:03)と仰せである。

このように、法華経を醍醐味とすることが仏の正意なのであり、それに背いて密教を醍醐味と立てた弘法の邪義を信ずるならば、堕地獄の因となるのである。

 

疑て云く大日経は大日如来……御祈祷叶ふべきや

 

大日経第一と立てた弘法の邪義を破折されると、大日経は大日如来の説法であって釈尊の教説ではないのであり、釈尊の説法によって大日如来の教法を打ち破ることは道理に合わない、とする真言側からの反論がなされたのであろう。大聖人はそれに対し、それなら大日如来はだれを父母とし、いかなる国に出生して大日経を説いたというのかを明らかにせよ、と破折されている。

大日如来は、大日経・金剛頂経などの密教経典に説かれており、宇宙の森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、密経はすべての仏・菩薩を生み出す根本の仏としている。しかし、あくまでも法身仏であり、父母があって現実の国土に出生して法を説いた仏ではなく、釈尊が説いた教説のなかの仏にすぎないのである。

もし、大日如来が大日経を説いたというのなら、釈尊滅後、五十六億七千万歳に釈尊の仏の位を継ぐとされる弥勒菩薩が出現するまでの間に、仏(大日如来)が出現して説法すると説いた経文があるなら出すべきであり、その証拠がないなら、だれが信じられようか、と破されているのである。そして、そのような仏法の道理や事実に合わない邪義を主張するので、真言を邪教というのである、と断じられている。

なお、真言見聞にも「真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云、若し爾れば大日の出世成道・説法利生は釈尊より前か後か如何、対機説法の仏は八相作仏す父母は誰れぞ名字は如何に娑婆世界の仏と云はば世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判なり……若し他土の仏なりと云はば何ぞ我が主師親の釈尊を蔑にして他方・疎縁の仏を崇むるや不忠なり不孝なり逆路伽耶陀なり」(0149:02)とその邪義を破されている。

しかも当時の朝廷や幕府などの為政者は、この真言の邪義を信じて何かあると祈禱させたうえ、更に念仏宗や禅宗などの謗法の悪法を用いていた。これらの法はすべて未顕真実の方便権教であり、不成仏の法であり、しかもそれらの宗は法華経誹謗の邪義を立てているので、大謗法となり無間地獄に堕ちる業因となるのである。それらの法を行ずる人も謗法の者なので、その祈禱がかなうはずがないのである。

 

 

 

第十一章 (正法による祈禱を勧め慈覚を破す)

 本文   

然るに国主と成り給ふ事は過去に正法を持ち仏に仕ふるに依つて大小の王・皆梵王・帝釈・日月・四天等の御計ひとして郡郷を領し給へり、所謂経に云く「我今五眼をもて明に三世を見るに一切の国王皆過去世に五百の仏に侍するに由つて帝王主と為ることを得たり」等云云、然るに法華経を背きて真言・禅・念仏等の邪師に付いて諸の善根を修せらるるとも、敢て仏意に叶はず・神慮にも違する者なり・能く能く案あるべきなり、人間に生を得る事・都て希なり適生を受けて法の邪正を極めて未来の成仏を期せざらん事・返返本意に非ざる者なり、又慈覚大師・御入唐以後・本師伝教大師に背かせ給いて叡山に真言を弘めんが為に御祈請ありしに・日を射るに日輪動転すと云う夢想を御覧じて、四百余年の間・諸人是を吉夢と思へり、日本国は殊に忌むべき夢なり、殷の紂王・日輪を的にして射るに依つて身亡びたり、此の御夢想は権化の事なりとも能く能く思惟あるべきか、仍つて九牛の一毛註する所件の如し。

  

現代語訳

ところで国主となられることは、過去に正法を持ち、仏に仕えた功徳によるのであり、大梵天王、帝釈天王、日天、月天、四天王等の御計らいで大小の王は皆、郡や郷を領有されているのである。

このことは経に「我、今、五眼をもって明らかに三世を見るのに、一切の国王は皆、過去世に五百人の仏に奉侍した功徳によって帝王や国主となることができたのである」と説かれているとおりである。

それを法華経に背いて真言、禅、念仏宗等の邪師について多くの善根を積まれたとしても、決して仏意にかなわないし、神慮にも違背する。これをよくよく考えなければならない。

人間に生まれることは極めてまれであるのに、たまたま生を受けながら、法の正邪を極めて未来の成仏を願い求めようとしないのは、かえすがえす不本意の者である。

また慈覚大師が入唐し帰朝して後、本師伝教大師に背いて比叡山に真言を弘めようとして祈請されたときに、日輪を射たところ日輪が動転する夢を見たといい、これを四百年の間は皆が吉夢だと思ってきた。しかしこれは日本国ではとくに忌むべき夢である。

殷の紂王は日輪を的に弓を射て、その身が滅びたのである。そのゆえこの夢は、権化のことであるといっても、よくよく思案すべきである。以上は、尋ねによって九牛の一毛だけ記したのである。

 

語釈

梵王

サンスクリットのブラフマーの訳。①古代インドの世界観において、世界を創造し宇宙を支配するとされる中心的な神。種々の梵天がいるが、その中の王たちを大梵天王という。仏教に取り入れられ、帝釈天とともに仏法の守護神とされた。②大梵天王がいる場所で、4層からなる色界の最下層である初禅天のこと。欲界の頂上である他化自在天のすぐ上の場所。法華経如来神力品第21には、釈尊はじめ諸仏が広く長い舌を梵天まで伸ばしたと説かれているが、これは欲界すべてを越えるほど舌が長いということであり、決してうそをつかないことを象徴している。

 

帝釈

帝釈はシャクローデーヴァーナームインドラハの訳で、釈提桓因と音写する。古代インドの神話において、雷神で天帝とされるインドラのこと。帝釈天は「天帝である釈(シャクラ)という神」との意。仏教に取り入れられ、梵天とともに仏法の守護神とされた。欲界第2の忉利天の主として四天王を従えて須弥山の頂上にある善見城に住み、合わせて32の神々を統率している。

 

日月

日天と月天のこと。

 

五眼

物事を見る眼を肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の5種類に立て分けたもの。仏は五眼すべてをそなえてあらゆる人々を救済する。①肉眼は普通の人間の目。②天眼は神々の目。昼夜遠近を問わず見えるという。③慧眼は二乗の目。空の法理に基づいて物事を判断できるという。④法眼は菩薩の目。衆生を救済するための智慧を発揮するという。⑤仏眼は仏の目。仏の最高の智慧を発揮する。「開目抄」には「諸の声聞は爾前の経経にては肉眼の上に天眼慧眼をう法華経にして法眼・仏眼備われり」(204㌻)と述べられている。

 

四天

東西南北の四方。四天王の略。四天下の略。

 

真言

密教経典に基づく日本仏教の宗派。善無畏・金剛智・不空らがインドから唐にもたらした大日経・金剛頂経などを根本とする。日本には空海(弘法)が唐から伝え、一宗派として開創した。手に印相を結び、口に真言(呪文)を唱え、心に曼荼羅を観想するという三密の修行によって、修行者の三業と仏の三密とが一体化することで成仏を目指す。なお、日本の密教には空海の東寺流(東密)のほか、比叡山の円仁(慈覚)・円珍(智証)らによる天台真言(台密)がある。真言の教え(密教)は、断片的には奈良時代から日本に伝えられていたが、体系的には空海によって伝来された。伝教大師最澄は密教を学んだが、密教は法華経を中心とした仏教を体系的に学ぶための一要素であるとした上で、これを用いた。伝教大師の没後、空海が真言密教を独立した真言宗として確立し、天皇や貴族などにも広く重んじられるようになっていった。天台宗の中でも、密教を重んじる傾向が強まり、第3代座主の円仁や第5代座主の円珍らが天台宗の重要な柱として重んじ、天台宗の密教化が進んでいった。

 

慈覚大師

07940864)。平安初期の天台宗の僧。第3代天台座主。円仁ともいう。伝教大師最澄に師事したのち唐に渡る。蘇悉地経など最新の密教を日本にもたらし、天台宗の密教(台密)を真言宗に匹敵するものとした。法華経と密教は理において同じだが事相においては密教が勝るという「理同事勝」の説に立った。また、五台山の念仏三昧を始めたことで、これが後の比叡山における浄土信仰の起源となった。主著に『金剛頂経疏』『蘇悉地経疏』など。唐滞在を記録した『入唐求法巡礼行記』は有名。日蓮大聖人は、円珍(智証)とともに伝教大師の正しい法義を破壊し人々を惑わせた悪師として厳しく破折されている。

 

紂王

紀元前11世紀ごろ。中国古代・殷の最後の王。遊興にふける一方、臣下の言葉に耳を貸さず、農民を重税で苦しめるなどの悪政をしいたとされる。周の武王によって滅ぼされた。

 

九牛の一毛

多数のなかの極めて少ない一部分の意。成仏の直道であることを明かされて、本抄を結ばれているのである。

 

講義

当時の権力者達が真言・禅・念仏等によって祈っていることを取り上げて破折されている。

国主となったということは、過去に正法を持って仏に仕えたという善根によるのであり、このために、梵天・帝釈など諸天の計らいで領地を領しているのであるとされ、仁王経巻下受持品の「一切の国主過去に五百の仏に侍するに由って帝王主と為ることを得たり」の文を引かれている。

仁王経では、その後に「是の故に一切の聖人羅漢は、為に彼の国に来たり生じて大利益を作さん。若し王の福尽きん時には、一切の聖人は皆捨て去らん。若し一切の聖人去らん時は七難必ず起こらん」と続いている。

ところが、当時の日本の権力者は、正法たる法華経に背いて真言・禅・念仏などの邪師に付いて邪義を信じたゆえに、いかなる仏事を修し善根をなしたとしても仏意にかなわず、諸天善神の意にも背くこととなり、かえって災難を招き寄せる結果となったのである。

大聖人は本抄で「人間に生を得る事都て希なり。適生を受けて、法の邪正を極めて未来の成仏を期せざらん事、返す返す本意に非ざる者なり」(0335:14)と仰せられ、人間に生を受けることはまれであり、たまたま人間として生まれたからには、法の正邪を極めたうえで、正法を信受することによって成仏をめざさなければ、生を受けたかいがないではないか、と戒められているのである。

なお、大聖人は「国主」を国の実権を握る者としてとらえられており、必ずしも天皇の意と限定して用いられていないことは「相州は謗法の人ならぬ上・文武きはめ尽せし人なれば天許し国主となす」(0354:下山御消息:15)「関東の権の大夫義時に天照太神・正八幡の御計いとして国務をつけ給い畢んぬ」(1161:頼基陳状:17)等の御文に明らかである。下山御消息の御文で「相州」とは北条義時である。

 

又慈覚大師・御入唐以後……思惟あるべきか

 

比叡山延暦寺の第三代座主・慈覚大師円仁は、比叡山を真言の邪義で汚濁した張本人といえる。

慈覚は十五歳で比叡山に登って伝教大師に師事し、承和5年(0838)に入唐して同14年(0847)に帰朝、仁寿4年(0854)に天台座主となっている。しかし、伝教大師の弟子でありながら真言の宗義に傾倒し、善無畏の大日経疏を本として金剛頂経疏七巻を著し、そのなかで法華経と真言の三部経は所詮の理は同じく一念三千であるが、印と真言等の事法は法華経に説かれていないので、法華経は理秘密・真言の三部経は事理俱密となり、真言の三部経が法華経に勝る、と主張したのである。

しかも、慈覚大師伝に「大師二経の疏を造り功を成し已畢って心中独り謂らく、此の疏仏意に通ずるや否や、若し仏意に通ぜざれば世に流伝せじ。仍って仏像の前に安置し、七日七夜深誠を翹企し、祈願を勤修す。五日の五更に至って夢らく、正午に当たって日輪を仰ぎ見、弓を以って之を射る。その箭日輪に当って日輪即転動す。夢覚めての後、深く仏意に通達せりと悟り後世に伝うべし」とあるように、日輪を射た夢によって我が義が仏意にかなったことを確信したとしている。

そのことを、仁明天皇に奏して宣旨を受け、天台の座主を真言の官主とし、伝教大師が鎮護国家の三部経と定めた法華経・金光明経・仁王経を改めて、真言の三部経を鎮護国家の法として、比叡山を真言密教化してしまったのである。これ以後、弘法の弘めた真言密教を東密というのに対し、比叡山の真言密教を台密(天台密教)と呼ぶようになった。

しかし、慈覚が見た、日輪を射て動転させたという夢は、決して吉夢ではなくて凶夢であり、真言の悪法が国を亡ぼし身を亡ぼす前兆だったのである。

報恩抄には「慈覚大師は夢に日輪をいるという内典五千七千・外典三千余巻に日輪をいると・ゆめにみるは吉夢という事有りやいなや、修羅は帝釈をあだみて日天を・いたてまつる其の矢かへりて我が眼にたつ、殷の紂王は日天を的にいて身を亡す、日本の神武天皇の御時度美長と五瀬命と合戦ありしに命の手に矢たつ、命の云く我はこれ日天の子孫なり日に向い奉りて弓をひくゆへに日天のせめを・かをほれりと云云、阿闍世王は邪見をひるがえして仏に帰しまいらせて内裏に返りて・ぎよしんなりしが、おどろいて諸臣に向て云く日輪・天より地に落つと・ゆめにみる諸臣の云く仏の御入滅か云云、須跋陀羅がゆめ又かくのごとし、我国は殊にいむべきゆめなり神をば天照という国をば日本という、又教主釈尊をば日種と申す摩耶夫人・日をはらむと・ゆめにみて・まうけ給える太子なり、慈覚大師は大日如来を叡山に立て釈迦仏をすて真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となせしゆへに此の夢出現せり」(0317:08)と慈覚の見た夢が凶夢であると破折され、また撰時抄では、その夢が「国をほろぼし家を失ひ後生にはあび地獄に入るべし」(0282:16)というしるしであるとされているのである。

しかし、この慈覚の立てた邪義により、真言の三部経が法華経に勝れると信じられ、比叡山の伝教大師の清流が真言の濁流に覆われ、法華経が軽んじられて真言による祈禱が中心となったため、その後の鎮護国家の祈りはかなうどころか災難を招くことになったのである。

三大秘法抄には「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしがに土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし」(1023:01)と仰せになっている。

最蓮房は比叡山の学僧として、この慈覚の流れをくんでいたため、最後に慈覚の邪義を教えられて比叡山の祈りがかなわない理由を示され、正法による祈禱こそ国土の安穏を招くとともに、成仏の直道であることを明かされて、本抄を結ばれているのである。

 

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