諫暁八幡抄 第五章(八幡が伝教大師に法衣を捧げた故事)

諫暁八幡抄 第五章(八幡が伝教大師に法衣を捧げた故事)

 弘安3年(ʼ80)12月 59歳

今之を案ずるに日本小国の王となり神となり給うは小乗には三賢の菩薩・大乗には十信・法華には名字五品の菩薩なり、何なる氏神有りて無尽の功徳を修すとも法華経の名字を聞かず一念三千の観法を守護せずんば退位の菩薩と成りて永く無間大城に沈み候べし、故に扶桑記に云く「又伝教大師八幡大菩薩の奉為に神宮寺に於て、自ら法華経を講ず、乃ち聞き竟て大神託宣すらく我法音を聞かずして久しく歳年を歴る幸い和尚に値遇して正教を聞くことを得たり兼て我がために種種の功徳を修す至誠随喜す何ぞ徳を謝するに足らん、兼て我が所持の法衣有りと即ち託宣の主自ら宝殿を開いて手ら紫の袈裟一つ紫の衣一を捧げ和尚に奉上す大悲力の故に幸に納受を垂れ給えと、是の時に禰宜・祝等各歎異して云く元来是の如きの奇事を見ず聞かざるかな、此の大神施し給う所の法衣今山王院に在るなり」云云、今謂く八幡は人王第十六代・応神天皇なり其の時は仏経無かりしかば此に袈裟衣有るべからず、人王第三十代欽明天皇の治三十二年に神と顕れ給い其れより已来弘仁五年までは禰宜・祝等次第に宝殿を守護す、何の王の時・此の袈裟を納めけると意へし而して禰宜等云く元来見ず聞かず等云云、此の大菩薩いかにしてか此の袈裟・衣は持ち給いけるぞ不思議なり不思議なり。
  又欽明より已来弘仁五年に至るまでは王は二十二代・仏法は二百六十余年なり、其の間に三論・成実・法相・倶舎・華厳・律宗・禅宗等の六宗七宗・日本国に渡りて八幡大菩薩の御前にして経を講ずる人人・其の数を知らず、又法華経を読誦する人も争でか無からん、又八幡大菩薩の御宝殿の傍には神宮寺と号して法華経等の一切経を講ずる堂・大師より已前に是あり、其の時定めて仏法を聴聞し給いぬらん何ぞ今始めて我法音を聞かずして久しく年歳を歴る等と託宣し給ふべきや、幾くの人人か法華経・一切経を講じ給いけるに何ぞ此の御袈裟・衣をば進らさせ給はざりけるやらん、

 

現代語訳

今、このことを考えてみると、八幡が日本という小国の王となり神となられたのは、小乗教では三賢の位の菩薩、大乗教では十信の位の菩薩、法華経では名字即・五品の位の菩薩である。どのような氏神がいて、尽きることのないほどの功徳を修したとしても、法華経の名を聞かず、一念三千の観法を守護しないならば、退位の菩薩となって、永く無間地獄に沈むであろう。
 ゆえに、扶桑略記には「また、伝教大師は八幡大菩薩のために神宮寺で自ら法華経を講じた。そこで、大神は聞き終わって、お告げして『私が正法を聞かなくなって久しく歳月が経っている。幸いに和尚に遇って正教を聞くことができた。まえまえから私のために種々の功徳を修してくれた。心から喜んでいる。どのようにしたら、その徳を謝することができよう。まえから私が所持している法衣がある』と言って、すなわちお告げの主は自ら宝殿を開いて、自分の手で紫の袈裟一つと紫の衣一つを捧げ、『大悲力をもって納めていただければ幸いです』と和尚に差し上げた。このときに、禰宜や祝人等は各々感嘆し不思議がって『今まで、このような珍しいことを見たことも聞いたこともない』と述べた。この大神の施された法衣は、今、山王院にある」と記されている。
 今、思うに、八幡大菩薩は人王第十六代の応神天皇である。その時代は仏経がなかったので、ここに袈裟や衣があるはずがない。
 人王第三十代の欽明天皇の治世三十二年に神と顕れられ、それ以来、弘仁五年までは、禰宜や祝人等が順次に宝殿を守護してきている。どの王の時に、この袈裟を納めたと理解したらよいのか。
 禰宜等は「もとから見たこともないし、聞いたことがない」等と言っている。この大菩薩はどのようにして、この袈裟と衣を持っておられたのか。不思議である、不思議である。

また、欽明天皇以来、弘仁五年に至るまでは、王は二十二代を経、仏法は二百六十余年経っている。その間に三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗・禅宗等の六宗七宗が日本国に渡ってきており、八幡大菩薩の御前で経を講ずる人々は数知れない。また、法華経を読誦する人も、どうしていないことがあろうか。
 また、八幡大菩薩の御宝殿の傍らには神宮寺といって法華経等の一切経を講ずる堂が、伝教大師以前にあったのである。そのとき、きっと仏法を聞かれたことであろう。
 どうして、今始めて「私が正法を聞かないでいて久しく歳月が経っている」とお告げなされたのであろうか。
 どんなにか多くの人々が法華経や一切経を講じられたのに、どうしてこの御袈裟と衣を差し上げられなかったのであろうか。

 

語句の解説

三賢
 小乗教で説く声聞の位のこと。五停心観・別相・総相をいう。これに四善根を合わせたものを七賢といい、四善根を内凡とし、三賢を外凡とする。

十信
 菩薩の修行の52の階位である五十二位のうちの最初の10の位。菩薩として持つべき心のあり方を身につける位。三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)のうちの見思惑すらまだ断じていない位で、別教の菩薩の位としては外凡と位置づけられる。円教の菩薩の位としては内凡と位置づけられる。①信心(清浄な信を起こす位)②念心(念持して忘れることのない位)③精進心(ただひたすらに善業を修する位)④定心(心を一つの処に定めて動じない位)⑤慧心(諸法が一切空であることを明確に知る位)⑥戒心(菩薩の清浄な戒律を受持して過ちを犯さない位)⑦回向心(身に修めた善根を菩提・覚りに回向する位)⑧護法心(煩悩を起こさないために自分の心を防護して仏法を保持する位)⑨捨心(空理に住して執着のない位)⑩願心(種々の清浄な願いを修行する位)をいう。

名字
 天台大師智顗が『摩訶止観』巻1下で、法華経(円教)を修行する者の境地を6段階に立て分けたものの第二段階。修行者の正しい発心のあり方を示しており、信心の弱い者が卑屈になったり智慧のない者が増上慢を起こしたりすることを防ぐ。「即」とは「即仏」のことで、その点に即してみれば仏といえるとの意。名字即。言葉(名字)の上で仏と同じという意味で、仏の教えを聞いて仏弟子となり、あらゆる物事はすべて仏法であると信じる段階。

五品
 法華経分別功徳品第17の文に基づいて『法華文句』巻10で説かれる「滅後の五品」のこと。釈尊が亡くなった後に法華経を聞く人が得る功徳を5段階に分けて示したもの。①随喜品(法華経を聞いて歓喜すること)②読誦品(自分から学び記憶し読誦すること)③説法品(他の人に説き、読誦・書写を勧めること)④兼行六度品(以上の実践を主とし、付随的に六波羅蜜を実践すること)⑤正行六度品(以上の実践に加えて、本格的に六波羅蜜を実践すること)の五つ。

一念三千の観法
 己心に一念三千の諸法が具足するのを観ずること。天台大師は法華経の法理をもとに衆生の一念の心に三千の諸法が具足するということと、それを観ずる修法を摩訶止観に説いた。

退位
 位を退くこと。仏法においては退転を意味する。

扶桑記
 神武天皇から堀河天皇の寛治(1094) までの編年史。 30巻。延暦寺の学僧皇円 (?1169)の編。 12世紀末の成立。現存するのは,巻26 (神功皇后~聖武天皇,巻 2030 (陽成天皇~堀河天皇 16巻分であるが,抜書きとして神武天皇から平城天皇までの部分があるため,散逸巻の一部分をうかがうことができる。

伝教大師
 (0767あるいは7660822)最澄のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山(後の延暦寺、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経の一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。

【桓武天皇らの帰依】伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇、その第1皇子・平城天皇、第2皇子・嵯峨天皇の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(0806)、伝教の「天台法華宗」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。

【得一との論争】法華経では、仏が教えを声聞・縁覚・菩薩の三乗に区別して説いたことは、衆生を導くための方便であり、一仏乗である法華経こそが、衆生を成仏させる真実の教えであると説いている。これを一乗真実三乗方便という。よって天台宗では、一仏乗を実践すればすべての衆生が成仏できるという立場に立つ。伝教大師は生涯、この一乗思想の宣揚に努めた。これに対し法相宗は、この一乗の教えがむしろ方便であり、三乗の区別を説くことこそが真実であるとした。これは三乗真実一乗方便といわれる。すなわち、五性各別の説に基づいて、衆生の機根には5性の差別があり、その中には不定性といって、仏果や二乗の覚りを得るか、何も覚りを得られないか決まっていない者がいると説く。そして一乗は、このような不定性の者に対してすべての人は成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるとした。ここにおいて、伝教大師と法相宗の僧・得一は真っ向から対立し、どちらの説が真実であるか、激しく論争した。これを三一権実論争という。この論争に関する記録は得一の現存する著作の中には残っていないが、伝教の『守護国界章』や『法華秀句』などからその内容をうかがい知ることができる。【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊や天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」と仰せになっている。

神宮寺
 神祇を祭祀するために、神社に付属しておかれた寺院の称。神宮院、神願寺、神供寺、宮寺などともいう。大部分は神社の境内かその付近に建てられたが、遠隔のところや、別に建立されたものもある。ここでいう神宮寺は承元2年(1208)、源実朝によって建てられた鶴岡八幡宮寺をさす。この神宮寺も焼けてしまったので、八幡宮とともに合わせて造営されたものと思われる。

託宣
 神仏が人にのりうつったり、夢にあらわれたりなどして、その意思を告げ知らせること。神に祈った事によって受けるお告げ。

袈裟
 サンスクリットのカシャーヤの音写で、くすんだ赤褐色が原義。ボロ布やくすんだ色に染めた布を継ぎ合わせて作った衣のこと。

禰宜
 昔、神主の下で祝の上に位した神職のこと。また一般に、神社に奉仕した神職の総称としても用いられた。


 神主のもとで直接に神事の執行にあたった神職のこと。また、神主・禰宜と混同して、三者の総称としても用いられた。

山王院
  比叡山延暦寺東塔の叡山9塔のひとつ。伝教大師の安置した千手観音像があり、千手堂ともいう。擣から帰国した智証がここに住んだので、智証のことを山王院と呼ぶ場合もある。

八幡は人王第十六代・応神天皇なり
 鎌倉初期、八幡大菩薩は応身天皇であると言われていた。

応神天皇
 名は誉田別尊、また品陀和気尊ともいう。御陵は大阪府羽曳野市誉田にある。明治以前、神功皇后は第十五代天皇、応神天皇は第十六代天皇であったが、明治以降に神功皇后は歴代天皇の代数に含められず、応神天皇が第十五代天皇とされた。

欽明天皇の治三十二年に神と顕れ給い
 扶桑略記巻3には、欽明天皇32年の項に「同じ此、八幡大明神筑紫に顕りたもう」とある。

欽明天皇
 (05100571)継体天皇の嫡子。在位中に百済から仏法が公式に伝えられた。現在では一般に第29代とされるが、明治時代に歴代を正式に定めるまでは神功皇后を歴代に数えるなどし、第30代とするのが一般的だった。

 

講義

八幡大菩薩が正法の法味を喜ぶことを、扶桑略記にある伝教大師の故事を挙げて論証されている。
 八幡大菩薩は、小乗では三賢の菩薩、大乗では十信位の菩薩、法華経では名字五品の菩薩であると位置づけられるが、いかなる高位の氏神で、過去の因行で無量の功徳を修めていたとしても、法華経の名を聞かず、「一念三千の観法」を守護しなければ、退位の菩薩となって、やがて無間地獄に永久に堕ちることになる。ゆえに、法華経の法味を聞くことを何よりの喜びとすると述べられている。
 八幡大菩薩が法華経を聞くことを喜ぶ例証として引用されている扶桑記とは、比叡山延暦寺の学僧・皇円の著した「扶桑略記」のことで、神武天皇から堀河天皇までの時代を漢文体で書いた史書である。内容は高僧の伝記や諸寺の縁起など仏教関係の記事が多い。
 時代の雰囲気や思想、風俗をよく伝えているといわれるが、私撰の歴史書であり、史実としては検討を要するものも少なくないとされる。全30巻のうち、現存するのは16巻と、幾つかの抄本だけである。
 大聖人が引かれている伝教大師と八幡にかかわる故事は欠落している巻にあったものと思われる。しかし、現存する伝教大師伝等の資料にも、ほとんど同じ文がみられる。
 すなわち、伝教大師が神宮寺で法華経を講じた際、八幡は「自分は久しく法音を聞かなかったが、幸い伝教大師に会って正教である法華経を聞くことができた。この功徳への感謝のしるしとして、かねてから所持していた紫の袈裟と衣を差し上げたい」といって、自ら宝殿を開き、伝教大師に捧げ、禰宜や祝などの神職の者達は「こうした奇事は前代未聞である」と驚いた。そのとき、八幡が布施した法衣は今、比叡山延暦寺東塔の叡山九院の一つ・山王院にあるというものである。
 この故事について、八幡が法衣を所持していたことについて、大聖人は「不思議なり」と仰せられている。すなわち、人王15代応神天皇は八幡大菩薩のあらわれとされるが、その時代にはまだ仏経が渡来していないから、八幡がこれ以前から袈裟・衣を所持していた道理がないわけである。
 仏経は、人王30代欽明天皇(在位、05390571)の治世13年に、朝鮮半島の一国である百済の聖明王の使者が、仏像と経教と法師とを大和朝廷に献じてきた。これが我が国における仏経の公伝とされる。そして、八幡が欽明天皇の治世32年に神として尊崇されるようになって以来、禰宜・祝等は宝殿を引き続いて守護してきている。その彼らが八幡の法衣のことを「元来見ず聞かず」と言っているのである。どの王の時にこの袈裟等が納められたか理解できなくなる。大聖人は、一体、八幡大菩薩はこの袈裟・衣をどのようにして所持するに至ったのか、まことに不思議であるといわれているのである。
 更に仏教伝来以後、伝教大師の時まで、八幡大菩薩の前で法華経が講ぜられたことは、たくさんあったのに、なぜ八幡は「我法音を聞かずして久しく歳年を歴る」といったのであろうか。また、そうした法華経等を講じた高僧に袈裟・衣を奉らなかったのはなぜか、と設問されている。

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