諫暁八幡抄 第十五章(釈尊も小乗・権教を厳しく破折)

諫暁八幡抄 第十五章(釈尊も小乗・権教を厳しく破折)

 弘安3年(ʼ80)12月 59歳

仏は且らく阿含経を説き給いて後彼の行者を法華経へ入れんと・たばかり給いしに一切の声聞等・只阿含経に著して法華経へ入らざりしをば・いかやうにか・たばからせ給いし、此をば仏説いて云く「設ひ五逆罪は造るとも五逆の者をば供養すとも罪は仏の種とはなるとも彼れ等が善根は仏種とならじ」とこそ説かせ給しか、小乗・大乗はかわれども同じく仏説なり大が小を破して小を大となすと大を破して法華経に入ると大小は異なれども法華経へ入れんと思う志は是一つなり、されば無量義経に大を破して云く「未顕真実」と法華経に云く「此の事は為て不可なり」等云云、仏自ら云く「我世に出でて華厳・般若等を説きて法華経をとかずして入涅槃せば愛子に財ををしみ病者に良薬をあたへずして死にたるがごとし仏自ら地獄に堕つべし」と云云、不可と申すは地獄の名なり況や法華経の後・爾前の経に著して法華経へうつらざる者は大王に民の従がはざるがごとし親に子の見へざるがごとし、設い法華経を破せざれども爾前の経経をほむるは法華経をそしるに当たれり、妙楽云く「若し昔を称歎せば豈に今を毀るに非ずや」文、又云く「発心せんと欲すと雖も偏円を簡ばず誓の境を解らざれば未来法を聞くとも何ぞ能く謗を免れん」等云云、

 

現代語訳

仏は、しばらく阿含経を説かれて後、阿含経を修行する行者を法華経へ導き入れようと計らわれたとき、一切の声聞等がただ阿含経に執着して、法華経に入らなかったのに対し、どのように計らわれたであろうか。このことについて仏は「たとい五逆の罪をつくっても、また五逆を犯した者を供養するとも、その罪悪が仏になる種子とはなっても、彼らの善根は仏種とはならない」と説かれたのである。小乗、大乗の違いはあっても同じ仏説である。大乗が小乗を破折して、小乗の者を大乗に引き入れようとされたのと、更に大乗を破折して実大乗の法華経に入れようとするのと、破折の対象である法が大乗、小乗の違いはあっても、法華経に導き入れようとする志は一つである。
 したがって無量義経に権大乗経を破折して「未顕真実」と説かれ、法華経には「このことはまことに不可である」と説かれている。仏は自ら「我世に出て華厳、般若等の諸経を説き、法華経を説かないで涅槃に入るならば、愛子に財を惜しみ、病者に良薬を与えずして死ぬようなものである。我は自ら地獄に堕ちるであろう」と仰せられている。ここで「不可」というのは地獄の名である。
 いわんや法華経が説かれた後も、爾前の諸経に執着して法華経に心を移さない者は、大王の命に臣民が従わないようなものであり、親に子が会おうとしないようなものである。たとい法華経を破折していなくても、爾前の諸経を讃嘆するのは法華経を謗ることにあたる。
 妙楽大師は法華文句記で「もし、昔を称嘆するならば、これは今を毀謗することではないか」と、また「発心しようと思っても、偏円の区別をせず、仏の誓いの境を解らなければ、未来に法を聞くとしても、どうして謗法を免れることができようか」といっている。

 

語句の解説

阿含経
 阿含はサンスクリットのアーガマの音写で、「伝承された聖典」の意。各部派が伝承した釈尊の教説のこと。大きく五つの部(ニカーヤ)に分類される。歴史上の釈尊に比較的近い時代の伝承を伝えている。漢訳では長阿含・中阿含・増一阿含・雑阿含の四つがある。中国や日本では、大乗との対比で、小乗の経典として位置づけられた。

五逆罪
 5種の最も重い罪で、必ず無間地獄の苦の果報を受ける原因となる行為。①父を殺す(殺父)②母を殺す(殺母)③阿羅漢を殺す(殺阿羅漢)④仏の身を傷つけ血を出す(出仏身血)⑤教団を分裂させる(破和合僧)の五つ。

小乗
 乗は「乗り物」の意で、覚りに至らせる仏の智慧の教えを、衆生を乗せる乗り物に譬えたもの。その教えの中で、劣ったものを小乗、優れたものを大乗と区別する。もともと小乗とは、サンスクリットのヒーナヤーナの訳で「劣った乗り物」を意味し、大乗仏教の立場から部派仏教(特に説一切有部)を批判していう言葉。自ら覚りを得ることだけに専念する声聞・縁覚の二乗を批判してこのように呼ばれた。部派仏教は、釈尊が亡くなった後に分派したさまざまな教団(部派)が伝えた仏教で、自身の涅槃(二度と輪廻しない境地)の獲得を目標とする。説一切有部は、特に北インドで最も有力だった部派で、「法」(認識を構成する要素)が実在するとする体系的な教学を構築した。これに対し、大乗仏教は自他の成仏を修行の目標とし、一切のものには固定的な本質がないとする「空」の立場をとる。中国・日本など東アジアでは、大乗の教えがもっぱら流布した。

大乗
 一般に大乗仏教という。サンスクリットのマハーヤーナの訳で摩訶衍などと音写し、「大きな優れた乗り物」を意味する。大乗仏教は、紀元前後から釈尊の思想の真意を探究し既存の教説を再解釈するなどして制作された大乗経典に基づき、利他の菩薩道を実践し成仏を目指す。既存の教説を劣ったものとして「小乗」と下すのに対し、自らを「大乗」と誇った。近年の研究ではその定義や成立起源の見直しが図られ、既存の部派仏教の教団内から発生したとする説が有力である。

無量義経
 中国・南北朝時代の斉の曇摩伽陀耶舎訳。1巻。法華経序品第1には、釈尊は「無量義」という名の経典を説いた後、無量義処三昧に入ったという記述があり、その後、法華経の説法が始まる。中国では、この序品で言及される「無量義」という名の経典が「無量義経」と同一視され、法華経を説くための準備として直前に説かれた経典(開経)と位置づけられた。

未顕真実
 無量義経説法品第2の文。「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経29㌻)と読む。釈尊が法華経を説く以前の40年余りの間に説いてきた諸経の教えは、方便・仮の教え(権教)であり、いまだ真実を表していないということ。

華厳
 大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。

般若
 「般若波羅蜜(智慧の完成)」を題名とする長短さまざまな経典の総称。漢訳には、中国・後秦の鳩摩羅什訳の大品般若経27巻、同じく羅什訳の小品般若経10巻、唐の玄奘訳の大般若経600巻など多数ある。般若波羅蜜を中心とする菩薩の修行を説き、あらゆるものに常住不変の実体はないとする「空」の思想を明かしている。天台教学の教判である五時では、方等部の経典の後に説いたとされ、二乗を排除し菩薩だけを対象とした教え(別教)とされる。

偏円
 偏ったものと完全なもの。部分的なものと全体的なもの。①一部の真理を説いた偏頗な教と、円融円満で余すところなく説いた教えのこと。天台大師所立の化法の四教のなか、蔵・通・別の三教を偏、円教を円という。②摩訶止観に説かれる五略十広のなか、十大章の第五・偏円章にあたる。教理に偏円等の別があるように止観にも異なりがあるが、いま説く止観はそれらの別を超えすべてを包含した円満な止観であることを述べている。

 

講義

 折伏こそ衆生を救うための大慈悲の行為であることを、釈尊自身の化導の次第を通して示され、もし正法を惜しんで説かなかったならば、慳貪の科で、仏自らも地獄へ堕すことを述べられている。
 釈尊は初めに小乗の阿含経を説いて、後に法華経へ引導しようとされたが、二乗が小乗に執着しているため、維摩経で「設ひ五逆罪は造るとも五逆の者をば供養すとも罪は仏の種とはなるとも彼れ等が善根は仏種とならじ」と説いたことを挙げられている。
 つまり、凡夫の五逆罪などの悪行は仏種になっても、二乗の善根は仏種にはならないということである。
 二乗の証果は凡夫の悪たる見思惑を断尽し、三界から出離して得たものであるから、一往は善と言えるが、成仏を目指す菩薩道という大乗の善からみるならば、いまだ真実の善でないばかりでなく、それに固執することによって求道心が妨げられることになるので、凡夫の悪よりも警戒すべきものとなる。
 凡夫の悪は、むしろ悪に苦しむことで菩提心を起こすことも可能であり、その意味で仏種となりうるからである。
 釈尊はまた、権大乗から実大乗の法華経へ導くためにも、権大乗教を強く破折している。すなわち、法華経の開経である無量義経で、権大乗の諸経を破して「四十余年には未だ真実を顕さず」と決別したのである。
 また法華経方便品第二では「若し小乗を以って、乃至一人をも化せば、我則ち慳貪に堕せん。此の事は為めて不可なり」とも説かれている。
 つまり、仏自身が「華厳・般若等の諸経を説いて法華経を説かずに入滅したならば、それはあたかも愛する子に財を譲ることを惜しみ、病者に良薬を与えないで死に至らしめるようなものであり、無慈悲このうえなく、仏自らが地獄へ落ちる」と説いて、戒めているのである。
 ちなみに「慳貪」とは、惜しみ貪ることで、物を惜しんで人に与えず、貪り求めて満足を知らない心をいう。欲深く、無情、意地の悪いことを意味する。
 ここで「不可と申すは地獄の名なり」と説かれているのは、「不可」とは文字どおりでいえば「よくない」「いけない」ということであるが、正法を人々に説かないならば、自ら堕地獄の因となるゆえに「不可」を「地獄の名」とされたと考えられる。
 法華文句巻四下には、慳貪の科は餓鬼道に堕ちる因とあるので、餓鬼道も地獄と同じ悪道の一つであるところから、悪道のなかに地獄を含めて仰せられたと拝される。
 ましてや、法華経が説かれたあと、なお爾前の諸経に執着し、法華経を信じない者は、臣下が大王の命に従わず、子が親の意に従わないようなものだとたとえられている。
 また、たとえ直接、法華経を謗らなくても、「爾前の経経をほむる」ことは、それ自体、法華経を誹謗していることになると、妙楽大師の法華文句記を引証されている。
 同巻三下にある「若し昔を称歎せば、豈、今を毀るに非ずや」の「昔」とは爾前の諸経、「今」は法華経の意である。爾前の諸経にとらわれ、ほめること自体、法華経を毀謗していることでもある、という意味である。
 次の同巻四下の「発心せんと欲すと雖も、偏円を簡ばず、誓の境を解らざれば、未来の法を聞くとも何ぞ能く謗を免れん」も同趣旨の文である。
 「偏円」の「偏」とは、仏の悟りの一分を説いた偏頗な教、すなわち爾前諸教のことである。「円」とは円融円満の意で、仏の悟りを余すところなく説いた教、すなわち、ここでは法華経をさす。
 つまり、発心して仏道を志しても、偏と円とを区別せず、あいまいにしておくことは、爾前権教を容認しているのと同じになり、謗法にあたるとの意である。「誓の境」とは、菩薩の誓願を成就せしめる対境のことで、妙法蓮華経を意味するのである。

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