諫暁八幡抄 第十二章(尼倶律陀長者の故事を引く)
弘安3年(ʼ80)12月 59歳
我が弟子等の内・謗法の余慶有る者の思いていわく此の御房は八幡をかたきとすと云云、これいまだ道理有りて法の成就せぬには本尊をせむるという事を存知せざる者の思いなり付法蔵経と申す経に大迦葉尊者の因縁を説いて云く「時に摩竭国に婆羅門有り尼倶律陀と名づく過去の世に於て久しく勝業を修し、多く財宝に饒かにして巨富無量なり摩竭王に比するに千倍勝れりと為す、財宝饒かなりと雖も子息有る事無し自ら念わく老朽して死の時将に至らんとす庫蔵の諸物委付する所無し、其の舎の側に於て樹林神有り彼の婆羅門子を求むるが為の故に即ち往て祈請す年歳を経歴すれども徴応無し、時に尼倶律陀大に瞋忿を生じて樹神に語て曰く、我汝に事てより来已に年歳を経れども都て一の福応を垂るるを見ず今当に七日至心に汝に事うべし、若し復験無ければ必ず相焼剪せん、樹神聞き已て甚だ愁怖を懐き四天王に向つて具さに斯の事を陳ぶ、是に於て四王往て帝釈に白す・帝釈閻浮提の内を観察するに・福徳の人の彼の子と為るに堪ゆる無し即ち梵王に詣で広く上の事を宣ぶ、爾の時に梵王天眼を以て観見するに梵天の当に命終に臨む有り而て之に告げて曰く汝若し神を降さば宜しく当に彼の閻浮提界の婆羅門の家に生ずべし、梵天対て曰く婆羅門の法悪邪見多し我今其子と為る事能ざるなり、梵王復言く彼の婆羅門大威徳有り閻浮提の人往て生ずるに堪ゆる莫し汝必ず彼に生ぜば吾れ相護りて終に汝をして邪見に入らしめざらん、梵天曰く諾・敬て聖教を承けん、是に於て帝釈即樹神に向つて斯の如き事を説く樹神歓喜して尋て其の家に詣で婆羅門に語らく汝今復恨を我れに起す事なかれ卻て後七日当に卿が願を満すべし、七日に至て已に婦身む事有るを覚え十月を満足して一男児を生めり乃至今の迦葉是なり」云云、「時に応じて尼倶律陀大に瞋忿を生ず」等云云、常のごときんば氏神に向いて大瞋恚を生ぜん者は今生には身をほろぼし後世には悪道に堕つべし然りと雖も尼倶律陀長者・氏神に向て大悪口大瞋恚を生じて大願を成就し賢子をまうけ給いぬ、当に知るべし瞋恚は善悪に通ずる者なり。
現代語訳
我が弟子等のなかで、謗法の残りがある者が考えていうのに「この御房は八幡大菩薩を敵にしている」云云と。
これらの非難は、道理があるのにもかかわらず祈りの法が成就しない場合は本尊を責める、ということを、いまだ知らない者が考えることである。
付法蔵経という経に大迦葉尊者の因縁を説いていうのに「時に摩竭陀国に婆羅門がいて、尼倶律陀という名であった。過去の世において久しく勝れた業を修した功徳によって、現世に豊かな財宝を有し、巨万の富を蔵していた。摩竭陀国王に比べても、千倍も勝る財宝であった。ところが、財宝は豊かではあったが子供がなかった。彼は〝老衰して死が近づいてきたが、庫に蔵した財宝を譲る者がいない〟と思った。尼倶律陀婆羅門の館の近くに樹林神が祭ってあった。尼倶律陀は子供がほしい一心で、その樹林神に詣で祈請した。ところが年月を経ても、なんの験もなかった。尼倶律陀は大いに怒り、樹林神に向かって『我は汝に仕えてすでに数年を経るが、およそ一つの福報も垂れていない。今また七日間、誠実に汝に仕えてみるが、もしそれでも効験がなければ、汝の祠を焼き払うであろう』と言った。樹林神はこれを聞いて大いに憂え、四天王に詳しく申し述べた。四天王は更に、帝釈天のところに行って言上した。帝釈天が閻浮提のうちを観察したところ、福徳の尼倶律陀の子となるに堪える人が見あたらなかった。そこで帝釈天は梵天王に詣で、詳しくこのことを申し上げた。そのときに梵天王は天眼をもって観るに、梵天でまさに命終に臨む者があった。そこで梵天王はその梵天に告げていうのに『汝がもし梵天界から降りたならば、彼の閻浮提界の尼倶律陀婆羅門の家に生まれよ』と。梵天が答えていうのに『婆羅門の法には悪見、邪見が多いから、私はそのような者の子となることはできません』と。梵天王がまたいうのに『彼の婆羅門は大威徳があって、閻浮提のうちの人で、彼の子となって生まれるに堪える者がいない。汝がもしその子となって生まれたならば、我は汝を護り、汝をして邪見に入らぬようにしてあげよう』。梵天がいう。『承知しました。仰せのとおりにいたします』。そこでこのことを帝釈天に、帝釈天が樹林神に伝えた。樹林神は歓喜して尼倶律陀婆羅門の家に行っていうには『汝は、もはや我を怨んではならない。これから七日後に卿の願を満たすであろう』と。七日して、はたして婆羅門の妻が身ごもり、十月を経て一男児を産んだ。それが今の大迦葉である」云云と。
ここに「尼倶律陀は大いに瞋りを生じた」等とある。普通ならば、氏神に向かって大瞋恚を生ずる者は今生には身を滅ぼし、後生には悪道に堕ちるであろう。しかし、尼倶律陀長者は氏神に向かって大悪口、大瞋恚を生じて大願を成就し、賢子を設けられたのである。このことからも瞋恚は善悪に通ずるものであることを知るべきである。
語句の解説
余慶
ものが余ること。
大迦葉尊者
サンスクリットのカーシャパの音写。摩訶迦葉のこと。釈尊の声聞の十大弟子の一人で、頭陀(欲望を制する修行)第一といわれた。釈尊の教団を支え、釈尊滅後の教団の中心となった。釈尊の言行を経典として集成したとされる。法華経授記品第6で、未来に光明如来に成ると保証された。【鶏足山の入定】摩訶迦葉は釈尊が亡くなった後、正統な後継者となって教えを広めて、阿難にその任を譲った。それ以来、鶏足山で禅定に入って、弥勒菩薩が56億7000万年後にこの娑婆世界に仏として出現するのを待っているとされた。【禅宗における伝承】大梵天王問仏決疑経(疑経)では、釈尊が霊鷲山で一房の花を手にとって人々に示した際、その意味を誰も理解できないなかで迦葉一人が理解してほほ笑んだとされる(これを拈華微笑という)。この話が、釈尊が迦葉に法を伝えたという伝説として、宋以後の禅宗で重用され、教外別伝・不立文字の基盤とされた。
因縁
原因・理由のこと。果を生じる内的な直接の原因を因といい、因を助けて果に至らせる外的な間接の原因を縁という。因と縁が合わさって(因縁和合)、果が生まれ報となって現れる。生命論では、一切衆生の生命にそなわる十界のそれぞれが因で、それが種々の人やその教法にふれることを縁として、十界のそれぞれの果報を受けるとする。衆生の仏界は、仏の真実の覚りの教えである法華経を縁として、開き顕され、成仏の果報を得る。
婆羅門
バラモンのこと。古代インドの身分制度における最上位の階層。サンスクリットのブラーフマナの音写。もとは祭事を司る司祭者の家柄であるが、後の時代には他の職業に就く者も少なくなかった。日蓮大聖人の時代の日本には「婆羅門」は存在しないので、御書中の使用例によっては、社会的に尊貴とされた人々、貴族などをさすと思われるものもある。
尼倶律陀
梵語ニャグローダ(Nyagrodha)の音写。無節・縦広などと訳す。インドのマガダ国にいたバラモンの富豪。摩訶迦葉の父。付法蔵因縁伝巻一によると、過去の修徳によってマガダ国王の千倍もの財宝を持ち、高才博達で智慧が勝れていた。しかし子がなかったため樹神に祈ったが子が授からなかったので怒り、願いが叶わなければ樹を切ると申しつけた。恐れた樹神は梵天・帝釈に願って一男子を授けさせた。それが摩訶迦葉であるという。
勝業
すぐれた正しい活動。
樹林神
樹林を司る神。樹木の神。
瞋忿
激怒すること。
福応
めでたいきざし。福運。功徳が生活の上に報応ずること。
四天王
古代インドの世界観で、一つの世界の中心にある須弥山の中腹の四方(四王天)の主とされる4人の神々。帝釈天に仕える。仏教では仏法の守護神とされた。東方に持国天王、南方に増長天王、西方に広目天王、北方に毘沙門天王(多聞天王)がいる。法華経序品第1ではその眷属の1万の神々とともに連なり、陀羅尼品第26では毘沙門天王と持国天王が法華経の行者の守護を誓っている。日蓮大聖人が図顕された曼荼羅御本尊の四隅にしたためられている。
帝釈
帝釈はシャクローデーヴァーナームインドラハの訳で、釈提桓因と音写する。古代インドの神話において、雷神で天帝とされるインドラのこと。帝釈天は「天帝である釈(シャクラ)という神」との意。仏教に取り入れられ、梵天とともに仏法の守護神とされた。欲界第2の忉利天の主として四天王を従えて須弥山の頂上にある善見城に住み、合わせて32の神々を統率している。
閻浮提
閻浮、南閻浮提とも。閻浮提はサンスクリットのジャンブードゥヴィーパの音写。閻浮(ジャンブー)という名の樹がある洲(ドゥヴィーパ、島)を意味する。贍部ともいう。古代インドの世界観では、世界の中心にあるとされる須弥山の東に弗婆提、西に瞿耶尼、南に閻浮提、北に鬱単越の四大洲があるとされ、「一閻浮提」で南の閻浮提の全体をいう。人間が住み、仏法が広まるべきところの全体とされた。もとはインドの地を想定していたものだったが、やがて私たちが住む世界全体をさすようになった。
梵王
サンスクリットのブラフマーの訳。①古代インドの世界観において、世界を創造し宇宙を支配するとされる中心的な神。種々の梵天がいるが、その中の王たちを大梵天王という。仏教に取り入れられ、帝釈天とともに仏法の守護神とされた。②大梵天王がいる場所で、4層からなる色界の最下層である初禅天のこと。欲界の頂上である他化自在天のすぐ上の場所。法華経如来神力品第21には、釈尊はじめ諸仏が広く長い舌を梵天まで伸ばしたと説かれているが、これは欲界すべてを越えるほど舌が長いということであり、決してうそをつかないことを象徴している。
瞋恚
怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。
講義
大聖人が八幡大菩薩を叱咤し諫暁されることについて、当時、日蓮大聖人の門下のなかに「大聖人は八幡大菩薩を敵とされているのではないか」などという者がいたようである。
それに対し、大聖人は、守護されるべき道理があるのに守護もせず、祈りが成就しない場合は、祈りの対象であるその本尊を責めてよいとの道理があることを、付法蔵経に説かれる尼倶律陀長者の故事を通して明らかにされるのである。
尼倶律陀とは、インドの摩竭国にいたバラモンの富豪で、摩訶迦葉の父のことである。付法蔵因縁伝巻一に、尼倶律陀長者は後継の子を求めて、自邸の側に祀ってあった樹神に祈ったが、何年経っても、一向に子が授からなかったのでおおいに怒り「願いがかなわなければ樹を切って焼く」と申しつけた。恐れた樹神は四天王に訴え、四天王は帝釈に伝え、帝釈は大梵天王に依頼し、大梵天王の計らいによって、ついに一人の男子が生まれた。それが釈尊在世の弟子である摩訶迦葉であるという。
この故事に「尼倶律陀大に瞋忿を生ず」とあることを指摘され、普通なら神に向かって大瞋恚を生じたならば、今生には身を滅ぼし、後生は悪道に堕さなければならないところである。
しかし、尼倶律陀長者は樹神を叱り、もし後継の子が授からなければ樹を切り、焼き払うと迫ることによって、四天王から帝釈、更には大梵天王さえも動かして、大迦葉のような「賢子」をもうけたのである。
この話で興味深いのは、長者の福徳が余りに大きいので、それを継ぐに値する衆生が、この世界に見当たらず、ゆえにこの世界を統括する四天王や帝釈では手に負えなくなり、大梵天王が梵天の衆生のなかから選んで長者の子に生まれるよう手配したという点である。
この故事をふまえ、大聖人は「瞋恚は善悪に通ずる」と述べられ、今、大聖人が八幡大菩薩に対して呵責しているのは、それをなしうる道理があるからであると言われている。