波木井殿御報
弘安5年(ʼ82)9月19日 61歳 波木井実長
畏み申し候。みちのほど、べち事候わで、いけがみまでつきて候。みちの間、山と申し、かわと申し、そこばく大事にて候いけるを、きゅうだちにす護せられまいらせ候いて、難もなく、これまでつきて候こと、おそれ入り候いながら、悦び存じ候。
さては、やがてかえりまいり候わんずる道にて候えども、所ろうのみにて候えば、不じょうなることも候わんずらん。さりながらも、日本国にそこばくもてあつこうて候みを、九年まで御きえ候いぬる御心ざし、申すばかりなく候えば、いずくにて死に候とも、はかをばみのぶさわにせさせ候べく候。
また、くりかげの御馬は、あまりおもしろくおぼえ候ほどに、いつまでもうしなうまじく候。ひたちのゆへひかせ候わんと思い候が、もし人にもぞとられ候わん、またそのほかいたわしくおぼえば、ゆよりかえり候わんほど、かずさのもばら殿のもとにあずけおきたてまつるべく候に、しらぬとねりをつけて候いてはおぼつかなくおぼえ候。まかりかえり候わんまで、このとねりをつけおき候わんとぞんじ候。
そのようを御ぞんちのために申し候。恐々謹言。
九月十九日 日蓮
進上 波木井殿御報
所ろうのあいだ、はんぎょうをくわえず候こと、恐れ入り候。
現代語訳
謹んで申しあげます。身延からの道中は、なにごともなく、池上まで着くことができました。途中の山といい河といい、たいへん難儀な道のりでありましたが、御子息たちに守られて、事故なく、ここまで着けたことを、感謝するとともに喜んでおります。やがて帰る時には通らねばならない道でありますが、病身であることゆえ、もしものことがあるかも知れません。
しかしながら、日本国中では居るところもなくて少なからずもて余している身を、身延の地で九年間にわたって帰依されたその志に対しては、言葉ではいいつくせないほど、ありがたく思っております。それだけにどこで死んだとしても墓は身延の沢に造らせたいと思っております。
またあなたから付けていただいた栗鹿毛の馬は、非常に良い馬なので、いつまでも離したくありません。常陸の湯まで引いて行きたいと思ったものの、もしかしたら他の人にとられるようなことがあるかもしれない、またその他大変であろうとも思われたので常陸の湯から帰ってくるまで、上総の藻原殿のところにおあずけすることにしました。しかし扱いなれない舎人をつけたのでは少々心配なので、常陸の湯から帰って来るまでは、いままでのこの舎人をつけておこうと思っています。この由を知っておいていただくために申し上げました。恐恐謹言。
九月十九日 日 蓮
進上 波木井殿 御報
病身のゆえに印を加えません。よろしく御了承ください。
語句の解説
そこばく
①数量の多いさま②たいそう。ひどく。程度のはなはだしいさま③若干。いくらか。本抄では②の意。
きうだち
きんだち、貴族や名門の家の子弟。ここでは、北条一門の子息たち。
所らう
所労とは①病気、煩いのこと。②疲労のこと。
もてあつかう
取り扱いに困る。もてあます。
きえ
帰依依憑して救護を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信服随従の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本とする。
くりかげの御馬
馬の毛の色が鹿の毛に似た色の馬のこと。
ひたちのゆ
福島県いわき市湯本町の温泉のこと。この湯の所在地については諸説あるが、日亨上人は『富士日興上人詳伝のなかで「磐城国の湯本の温泉である」と明らかにされている。
かづさのもばら殿
現在の千葉県茂原市にあたる。その藻原に住していた信者で斎藤兼綱のことを、もばら殿といった。
はんぎゃう
印鑑・実印。
講義
本抄は弘安5年(1282)9月8日に日蓮大聖人が湯冶のためとして身延を下山され、19日に武州池上の家に着かれた折、身延の波木井実長(さねなが)にあてて書かれたものである。
まず、はじめに波木井実長が、大聖人守護のためにつけられた一族や家族の人たちに守られ、無事到着されたことを喜ばれ感謝されている。
つぎに、やがて帰山するつもりだが病気が重いことゆえ、はっきりしないと申されている。命数の幾ばくもないことを予知されていたのであろう。また、一応日本国中の人が大聖人に敵対しているなか、九年間も、自分の領内に大聖人を無事にとどめられたことを謝し、たとえどこの地で亡くなるようなことがあったとしても、墓所は身延の沢としたい旨を述べられている。そして、波木井実長がつけられた馬はよい馬なので離しがたいが、常陸へ行って帰るまで、藻原殿に舎人とともにあずけておくので承知しておいて欲しいと申されている。
いづくにて死に候ともはかをばみのぶさわにせさせ候べく候
本抄は数多い大聖人のお手紙のうち、最後に認められたものである。ゆえに「いづくにて死に候ともはかをばみのぶさわに」との一文は御遺言であり、他にもお弟子方それぞれに御遺言があったらしく、池上で御入滅の後は、異議なく御灰骨を身延にお移ししたのであった。
大聖人が身延の地をえらんで入山された理由については、序講で述べてあるので詳細ははぶくが、当時の諸般の事情がそうせざるをえなかったことにある。したがって波木井実長の信心に対する難点等は、充分御承知の上であったと推察される。
当時大聖人が、波木井実長に直接教化指導なされたのは、数えるほどしかなく、信心については、大聖人の御生前から不安定なものがあったことは充分うかがえる。では、なぜ身延定廟について本抄でこのように申されたのであろうか。
ひとつの理由は、本抄の御文のごとく日本国中が敵対しているなか九年間も領内にとどめられたことへの謝意でもあろう。日亨上人は日興上人略伝の解説に「波木井氏の人となり薄信愎悍後必ず謗法を企て終に魔境とならん事を、故に宗祖は之れを予知し玉ひて而も聖尸を永く謗地の枯骨となさん事を深く患ひ遠く慮らせ玉ふに外ならず、是れを以って啻に常陸の温泉と方便を設け生前一度此の謗土を去らせ玉ふ者か、然りといへども9箇年所栖の山何ぞ懸恋の情なからん、故に墓をば身延の沢に立てさすべきとの御一言を残し玉ふは是れ併ら波木井氏九箇年奉養の墾志に報ひ玉ふのみ、故に文に曰く日本国にそこばく、もちあつかいて候身を九年まで御帰依候ぬる志申す計りなく候設ひいづくにて死し候とも墓をば身延の沢に立てさせ候べく候と云々」と述べられている。
ところで、日蓮大聖人が身延に入山されると、日興上人は、甲斐、駿河の地に一大法戦を展開されている。波木井一族も、波木井の郷を中心に、多くの入信をみるにいたっており、身延へ参詣する御弟子方も多く、大聖人御入滅になる前の二、三年間は、身延の山中は大いに賑わった。
日興上人の折伏弘教の活動は、ますます盛んとなり、ついに富士地方に熱原の法難を呼び起こしたほどである。このようにはげしい折伏活動と、さらにかわらぬ大聖人への常随給仕を尽くされていた日興上人に対し、日蓮大聖人はやがては付法の法器なりと、ひそかに定められていたことであろう。
したがって、日蓮大聖人は「さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを九年まで御きえ候いぬる御心ざし申すばかりなく候へば」と、実長に対し仰せではあるが、「はかをばみのぶさわにせさせ候べく」とはあくまでも日興上人が、身延院主として常住なされるという大前提のもとに、安心してこのような御遺言を残されたものと推察せられるのである。すなわち、日蓮大聖人は、波木井の郷の身延に墓所を定めたのではなく、日興上人院主としての身延の地を墓所と定めたのである。
このことを知らずして、波木井実長は大聖人がわが領地に御墓所を定められたことについて、あたかも自分が大檀那にでもなったような気持ちになっていたようである。
そして日興上人が付嘱のとおり一宗の総貫主となられた時、波木井実長は、ことのほか喜んでいたにもかかわらず、大聖人の推察どおり日向の軟風に侵され、日興上人との師弟の契を破り、日興上人身延離山の因となったのである。
また、大聖人の身延定廟については、広宣流布の展望の中に見た時、次のごとく推察されるのである。
すなわち、身延は地形からいっても、あくまで隠棲の場所であって、大法弘通の新しい出発点でもなければ、未来の広宣流布の中心に到底なりうる地でもない。したがって、隠棲地に適当であったと同じように、当時の情勢から身延の沢こそ墓所として実に適していたといえるのである。山峡の谷間、めったに人の訪れることのない辺地こそ、権力と戦いつつ大法弘通に、激闘の御生涯をとじられた大聖人にとっては、静かに眠る場所として、ふさわしく思われたのかも知れない。
また、念仏宗の我が国の開祖法然の墓所をみると、没後、念仏禁止とともに、墓をあばかれて、骨を鴨川に流された例もある。こうしたことから、信者も少なく、国家権力の迫害を受けつづけていた当時としてみれば、人里離れた地に、墓所を定められたことは当然であったともいえるようである。
ここで、古来より本抄の身延定廟の文をはじめ、「彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり」(1579:01、南条殿御返事)など諸御書の文をあげて、身延を謗ずるのは仏の金言に背くとか、大聖人の遺跡、御墓に参詣しないのは向背の罪などと非難するものがあるので一言ふれておく。
大聖人の身延における九年間、および日興上人が院主として滞在された七年間は、身延山は聖地であり、霊山にも似た地であった。しかし南条殿御返事に、「此の処は人倫を離れたる山中なり、東西南北を去りて里もなし、かかる・いと心細き幽窟なれども教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり……かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり」(1578:09)と述べられている。
すでに地頭が謗法を犯し、日興上人が離山された後は、もはや蝉脱虚戯の空山となってしまっているのである。
日蓮大聖人は富士一跡門徒存知の事に「甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は……」(1602:13)として、四箇の謗法を挙げて波木井との義絶を明らかにし、御廟に相通ぜざる理由をあげている。
また、日順の五人所破抄には「日興が云く、……身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず強いて御廟の参否を論ぜば汝等将に砕身の舎利を信ぜんとす何ぞ法華の持者と号せんや」(1615:04)と法水の清濁に約し、法身砕身の優劣に約して破折されている。
以上のように、大聖人の御遺言の意図は、あくまでも、正法現存の上からのことであって、謗法の地と化した身延山には、通用しないのである。