- 第二十二章 法相宗の謬解を挙ぐ
- 第二十三章 華厳・真言の謬解を挙ぐ
- 第二十四章 滅後の難信を結す
- 第二十五章 末法法華経行者の所由
- 第二十六章 略して法華経行者なるを釈す
- 第二十七章 経文一一に符合するを明かす
- 第二十八章 疑いを挙げて法華経行者なるを釈す
- 第二十九章 二乗の法華深恩を論ず
- 第三十章 昔の弾訶を引証す
- 第三十一章 二乗の守護無きを疑う
- 第三十二章 菩薩等について爾前無恩を明かす
- 第三十三章 法華の深恩を明かす
- 第三十四章 妙法蓮華経を釈す
- 第三十五章 法華深恩を明かす
- 第三十六章 地湧出現を明かす
- 第三十七章 略開近顕遠を示す
- 第三十八章 広開近顕遠を示す
- 第三十九章 脱益の三徳を明かす
- 第四十章 本尊に迷うを訶嘖し正しく下種の父を明かす
- 第四十一章 種子徳用・種子依経を弁ず
- 第四十二章 菩薩等守護なき疑いを結す
- 第四十三章 宝塔品三箇の諌勅を引く
- 第四十四章 諸経の浅深勝劣を判ず
第二十二章 法相宗の謬解を挙ぐ
本文
されば法相宗と申す宗は西天の仏滅後・九百年に無著菩薩と申す大論師有しき、夜は都率の内院にのぼり弥勒菩薩に対面して・一代聖教の不審をひらき・昼は阿輸舎国にして法相の法門を弘め給う、彼の御弟子は世親・護法・難陀・戒賢等の大論師なり、戒日大王・頭をかたぶけ五天幢を倒して此れに帰依す、尸那国の玄奘三蔵・月氏にいたりて十七年印度百三十余の国国を見ききて諸宗をばふりすて此の宗を漢土にわたして太宗皇帝と申す賢王にさづけ給い昉・尚・光・基を弟子として大慈恩寺並に三百六十余箇国に弘め給い、日本国には人王三十七代・孝徳天皇の御宇に道慈・道昭等ならいわたして山階寺にあがめ給へり、三国第一の宗なるべし、此の宗の云く始め華厳経より終り法華・涅槃経にいたるまで無性有情と決定性の二乗は永く仏になるべからず、仏語に二言なし一度・永不成仏と定め給いぬる上は日月は地に落ち給うとも大地は反覆すとも永く変改有べからず、されば法華経・涅槃経の中にも爾前の経経に嫌いし無性有情・決定性を正くついさして成仏すとは・とかれず、まづ眼を閉じて案ぜよ法華経・涅槃経に決定性・無性有情・正く仏になるならば無著・世親ほどの大論師・玄奘・慈恩ほどの三蔵・人師これをみざるべしや此をのせざるべしやこれを信じて伝えざるべしや、弥勒菩薩に問いたてまつらざるべしや、汝は法華経の文に依るやうなれども天台・妙楽・伝教の僻見を信受して其の見をもつて経文をみるゆえに爾前に法華経は水火なりと見るなり、
現代語訳
(このように、釈尊一代の説法では、法華経のみ二乗作仏・久遠実成と説いて信じがたいがゆえに、古来、各宗派の開祖たちはみな法華を捨てて爾前経を本にしているのである。)
されば、法相宗について見ると、インドの仏滅後九百年に無著菩薩という大論師がいた。夜は都率天の内院に上り、弥勒菩薩に対面して釈尊一代の聖教について不審の点を聴聞し、昼はインドの阿輸舎国で法相の法門をひろめられた。かの御弟子には世親・護法・難陀・戒賢等の大論師がいたのである。当時インドで非常に善政を施いていた明主たる戒日大王もその檀那となって頭を下げ、五天竺(全インド)の者が、みなそれぞれの我見を捨てて無著に帰依した。
中国の玄奘三蔵はインド各地へ行って、十七年の間、インドの百三十余の国々を訪ねて仏法を学んだ末、諸宗をば振り捨ててこの法相宗を中国に伝来し、当時は唐の太宗皇帝という賢王にこれを授けた。さらに神肪・嘉尚・普光・窺基等の大弟子を得て、大慈恩寺を始め、三百六十余箇国にこれを弘通した。日本国には、人王第三十七代孝徳天皇の御代に道慈・道昭等がこれを習い伝えて、山階寺を建立して尊崇した。これこそ三国第一の宗教である。
この宗のいわく、始め華厳経から終り法華・涅槃経にいたるまでのいっさいの経中で、声聞・縁覚・菩薩の三乗に進む性分のない、すなわち無性有情の者と、二乗と決定して永久に成仏することのない決定性の二乗は、永久に成仏できないと釈尊は説いている。仏語に二言はあるべきでないから、一度永久に成仏せずと定めた以上は、たとえ日月が地に落ちようとも大地が反覆して天になろうとも、これを変え改めて成仏するなどと説くわけがない。そうであるから法華経・涅槃経の中にも、爾前の経々が嫌う無性有情の者と決定性の者を正しく指して、成仏するとは説かれていない。まず眼を閉じて考えてみよ。法華経・涅槃経において、決定性の者と無性有情の者がまさしく成仏するならば、無著や世親ほどの大論師および玄奘や慈恩ほどの三蔵人師がこれを見ないわけがあろうか。これをその著書に載せないわけがあろうか。これを信じて伝えないわけがあろうか。弥勒菩薩に会って質問しないわけがあろうか。汝は法華経の文に依って二乗作仏と唱えるようであるが、じつは天台や妙楽や伝教の間違った独りよがりの見解を信受してその見解をもって経文を見るゆえに、爾前は二乗不作仏、法華は二乗作仏であって、その内容は水火のごとくあいいれないものと思っているのである、と。
語釈
無著菩薩
生没年不明。梵名をアサンガ(Asaṅga)といい、阿僧伽と音写し、無著、また無障礙と訳す。四世紀ごろ、北インド・健駄羅国のバラモンの家に生まれた。最初は化地部(上座部仏教の一派)の僧として出家したが、空の教えに興味をもち、さらに弥勒に大乗の空観を教えられてから、大乗に帰して大乗の諸教義を研究し、瑜伽・唯識の教えを弘めた。小乗の論師であった弟の世親を教化して大乗に帰入させた故事は有名である。著書に「摂大乗論」三巻、「金剛般若論」二巻、「顕揚聖教論」二十巻、「順中論」二巻などがある。
都率
六欲天の第四である都率天のこと。梵語トゥシタ(Tuṣita)の音写。兜率・覩史多とも書く。上足・妙足・知足・喜足・喜楽などと訳す。歓楽飽満し自ら満足を知るゆえにこの名がある。夜摩天の上空にあり、広さは縦横八万由旬である。内院と外院に分かれ、内院には都率天宮があって、釈尊に先立って入滅した弥勒菩薩が天人のために説法しているという。外院は天の衆生の欲楽する処とされる。この天の寿命は人間の四百歳を一日一夜として、4000歳である。人間の寿命に換算すると、400歳×360日×4000年で、5億7600万歳にあたる。
弥勒菩薩
弥勒に二義ある。①未来仏と信仰される菩薩。一生補処の菩薩といわれ、兜率天の内院に住み、釈尊滅後五十六億七千万年後に仏として再びこの世界に登場し衆生を救うとされる。②瑜伽唯識の学問を基とする法相宗の開祖。梵名マイトレーヤ(Maitreya)。3~4世紀、または4~5世紀頃の人とされる。摂大乗論を著した無著は兜率天に上り弥勒菩薩に教えを受けたと伝えられ、弥勒は未来仏と信仰される弥勒菩薩と同じ存在とみられた。よって法相宗の本尊は唯識曼荼羅であり、弥勒菩薩でもある。
護法
唯識十大論師の一人。世親(vasubandhu)の唯識三十頌を注釈した。のちに唐の玄奘がこの護法の釈を中心として、他の釈を取捨、合訳して唯識の義理・修行の位などを立てた。
難陀
唯識十大論師の一人といわれる、六世紀のインドの仏教学者。
戒賢
戒賢論師。梵名シーラバドラ(Śīlabhadra)の音写、尸羅跛陀羅の訳。東インド・サマタタ国の王族の出身で、幼少のときから学問を好み、諸国を周遊して師を求めた。摩掲陀国那爛陀寺にいたって護法論師に会い、護法を師として出家した。三十歳にして、南インドからきた外道を弁論で破り、国王はおおいに喜び、伽藍を建てて戒賢を迎えた。唐の玄奘が西遊して戒賢に会ったとき、戒賢は百余歳になり那爛陀寺の大長老として、大衆の帰依を集めていたといわれる。中国法相宗の祖・玄奘に「瑜伽」「唯識」を授けた。法相宗では、戒賢は遠く弥勒・無著に法を承け、世親・護法につぐ第五祖といって尊んでいる。
戒日大王
古代北インドのバルダナ朝を創始した王。梵名ハルシャ・バルダナ(Harsha Vardhana,)。曷利沙伐弾那と音写、喜増と訳す。兄王の跡をつぎ、名をシーラーディティヤ(Siilāditya)と改めた。この漢訳が戒日王である。この在位の時代(0606年~0647年)に玄奘が入竺した。戒日王は即位後、グプタ朝末期に分立していた北インドを統一した。これより王が没するまでの三十年間は、兵乱がなく、王は内治に力を注いだ。政治の理想を阿育王におき、また、自ら詩人として、仏教戯曲ナーガーナンダ(Nāgānanda)(「竜の歓喜」)等をつくり、文芸の復興につとめた。仏教に深く帰依し、はじめ小乗教を信じたが、のちに大乗を奉じて多くの寺塔を建立した。毎年、公場に全国から僧を集めて経釈を論議させ、五年に一度、無遮大会(聖俗貴賤を問わない布施の行事)を行い、入竺中の玄奘もこの大会に参加したことを記録にとどめている。戒日王みずから高僧に法を求め、その思想を根本として善政につとめた。しかし、王の死後、バルダナ朝の勢威は急速に落ち、北インドはふたたび分裂していった。
太宗皇帝
(0598~0649)。中国、唐の第二代皇帝(在位0626~0649)李世民のこと。太宗は廟号。隋末、天下おおいに乱れたとき、父の李淵とともに、太原に兵をあげ、天下を平定した。のち、李淵が帝位につくや秦王となり、皇太子を経て高祖より王位を受けた。房玄齢・杜如晦・魏徴らの名臣を用いて「貞観の治」を現出した。しかし、よき後継者に恵まれず、死後は則天武后の専制と革命(武周の建国)を許すことになった。
肪・尚・光・基
神肪)・嘉尚・普光・窺基の略で、いずれも玄奘の弟子。窺基は慈恩大師で「法華玄賛」等をあらわし、名を馳せたが粗漏が多く、伝教大師は徳一にあてた「守護国界章」で、法相宗の謬解を破折している。
山階寺
奈良市にある法相宗の大本山、興福寺の古称。天智天皇8年(0669)、藤原鎌足の遺志により、夫人の鏡王女が山城国(京都市)山階に創建した山階寺を起源とする。天武天皇元年(0672)飛鳥浄御原に移し厩坂寺と呼び、和銅3年(0710)平城京遷都に伴い、鎌足の子不比等が現在地に移し、現名に改めた。
無性有情
法相宗の「五性各別」の法門から出た語。すなわち法相宗では、衆生が本来具えている性質を、阿頼耶識に蔵する種子によって五種に分類し、それらは永久に区別されているとする。仏地経論巻二等に説かれる。五性とは①声門定性(阿羅漢果)を得ることに定まった者)、②緑覚定性(辟支仏果)を得ることに定まった者)、③菩薩定性(仏果を得ることに定まった者)、④不定性(三乗のいずれとも定まっていない者)、⑤無性(三乗の種がなく永遠に生死の苦界を免れることのない者)をいう。この第五は、声聞・縁覚・菩薩になる性(三乗性)がなく、成仏の因がないものとして、この者を無性有情という。有情とは衆生の意で、玄奘による新訳語。
決定性の二乗
決定性とは、決定種性といって、爾前経で声聞・縁覚の二乗は、六道へも、菩薩・仏界へも絶対に出ることができないとした。この二乗をさして決定性とよんだ。法相宗はとくにこれを強調し、法華経とは全く逆に一乗方便、三乗真実と立てる。諸法実相を説いて十界の平等を説く法華経は方便と邪義を立てるのである。
講義
第十一章の「此に予愚見をもって」より以下は、難信難解をもって法華の真実をあらわす段であり、本章以後は謬解を挙げて難信を結している。そのうち第一項は法相宗の謬解を挙げて、法華経は信じがたく、法相宗は三国に弘通されたがゆえに第一の勝れた教であるかのごとき錯覚に陥りやすきを述べられている。
第二十三章 華厳・真言の謬解を挙ぐ
本文
華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観・真言宗の善無畏・金剛智・不空等は天台・伝教には・にるべくもなき高位の人なり、其の上善無畏等は大日如来より糸みだれざる相承あり、此等の権化の人いかでか悞りあるべき、随つて華厳経には「或は釈迦・仏道を成じ已つて不可思議劫を経るを見る」等云云、大日経には「我れは一切の本初なり」等云云、何ぞ但久遠実成・寿量品に限らん、譬へば井底の蝦が大海を見ず山左が洛中を・しらざるがごとし、汝但寿量の一品を見て華厳・大日経等の諸経をしらざるか、其の上月氏・尸那・新羅・百済等にも一同に二乗作仏・久遠実成は法華経に限るというか。
されば八箇年の経は四十余年の経経には相違せりというとも先判・後判の中には後判につくべしというとも猶爾前づりにこそをぼうれ、
現代語訳
(前項に述べた法相は低い教の宗であるが、)華厳宗と真言宗とは、法相や三論などと比較にならぬ勝れた宗である。二乗作仏と久遠実成は法華経のみに説かれているのではなく、華厳経・大日経にも明らかに説かれている。華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等の人々や、真言宗の善無畏・金剛智・不空等の人々は、天台大師や伝教大師とは比較にならない高位の人であり、学徳ともに秀れた人たちである。その上、善無畏等の真言をひろめた人々は、大日如来より直系の乱れることのない相承がある。これらの仏菩薩の権化たる人にどうして誤りがあろうか。
したがって、華厳経には「釈尊が仏道を成就しおわって不可思議劫の永い間を経るを見た」とある。また大日経には「われいっさいの本初なり」と説いている。どうして釈迦久遠の成道を説く経文が寿量品に限ろうか。たとえば井戸の底にいる蛙が大海を見ないがごとく、山奥に住む人が都を知らざるごとく、汝はただ寿量の一品を見るのみで、華厳や大日経等を知らないのではないか。その上インド・中国・朝鮮等の諸国においても、みな一同に二乗作仏と久遠実成は法華経に限るといっているか。このような意見から推して考えるならば、八箇年に説いた法華経は四十余年の経々に異なっているが、八箇年の教判と四十余年後の教判の中では、とうぜん後の八箇年の教判に依るべきである、すなわち法華経に説かれた勝劣の決定を用いるべきであるとはいいながらも、なお爾前経の論拠が強く、法華は薄弱のように考えられる。
語釈
杜順
(0557~0640)。中国華厳宗の開祖。帝心尊者ともいわれる。18歳で出家し、僧珍に仕えた。のちに唐の太宗に厚く信任され、華厳宗を弘めた。著書に「華厳法界観門」一巻などがある。
智儼
(0602~0668)。中国華厳宗の第二祖。至相大師・雲華尊者ともいわれる。十四歳で杜順について出家し、四分律や涅槃などの諸経論を学んだが、のちに華厳経の研究に専念した。著書に「華厳経捜玄記」五巻、「華厳孔目章」四巻などがある。
法蔵
(0643~0712)。華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。「華厳経探玄記」「華厳五教章」「華厳経伝記」などの著があり、則天武后の帰依をうけた。
澄観
(0738~0839)。華厳宗の第四祖。清涼大師。11歳のとき出家し、南山律、三論等を学び、妙楽湛然について天台の止観等を学んだ。五台山清涼寺に住して華厳宗を弘めた。「華厳経疏」六十巻、「華厳経随疏演義鈔」九十巻等と著述が多い。
善無畏
(0637~0735)。梵名シュバカラシンハ(Śubhakarasiṃha)、音写して輸波迦羅、善無畏はその意訳。中国・唐代の真言宗の開祖。東インドの烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」「蘇婆呼童子経」「蘇悉地羯羅経」などを翻訳、また「大日経疏」を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てている。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。
金剛智
(0671~0741)。梵名バジラボディ(Vajrabodhi)、音写して跋日羅菩提、金剛智はその意訳。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。十歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき七年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
不空
(0705~0774)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、音写して阿目佉跋折羅、意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。15歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家した。開元29年(0733)、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、6年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。
大日如来より系みだれざる相承あり
真言宗では、大日如来が色究竟天法界宮において大日経を説き、金剛宮において金剛頂経を説いた。それらを金剛薩埵が結集して、南天の鉄塔においた。釈尊滅後七百年ごろ、竜猛がその鉄塔を開き、経典を金剛薩埵より授けられて、さらにそれを竜智に伝付、竜智は大日経を善無畏に、金剛頂経を金剛智に授けた。これを不空が相承して慧果に伝え、慧果から弘法に伝えた、と主張している。
先判・後判
譲与者から受取人に与えた譲状が同一物件につき二通ある場合、前の譲状を先判といい、後の譲状を後判という。判とは、判形、すなわち花押のこと。御成敗式目第二十六条には「一、所領を子息に讓り、安堵の御下文を給はるの後、その領を悔い還し、他の子息に讓り与ふる事 右、父母の意に任すべきの由、具に以て先条に載せ畢んぬ。よって先判の讓につきて安堵の御下文を給はると雖も、その親これを悔い還し、他子に讓るに於ては、後判の讓に任せて御成敗あるべし」とある。ここでは、四42年間の爾前権教の説法を先判とし、のち、「四十余年、未顕真実」「正直捨方便、但説無上道」「世尊法久後、要当説真実」として法華経を説いたことを後判としている。
講義
この項では、華厳宗と真言宗の主張の上から法華経の難解を説かれている。
「釈迦・仏道を成じ已って不可思議劫を経るを見る」との華厳経の文を釈して、華厳疏抄八十にいわく「すでに多劫を経るを見るというからには、すなわち華厳が始成をいっていると定めるわけにはいかない」と。また「この文に依れば、天台が久遠実成は法華経に限るといった事の謬りが判明する。すなわち天台が華厳は始成というといった難を遮するのである」と言っている。
これに対し、天台宗の側では「華厳の文は或見というからには、衆生の機根によってあるいは見る者もあるという意ではないか。まして普賢菩薩のごとき九界の衆生が、どうして仏寿の久遠を知ることができよう」かと輔註に破しており、その他、これに対し重々の打破がある。要するに、華厳宗の主張は、華厳経は劣り法華は勝れているのを、なんとかして華厳の地位を引き上げようとするごまかしに過ぎないのである。
また、「われはいっさいの本初なり」とは、大日経第三巻転字輪漫陀羅行品の文である。義釈九には「本初とはすなわち寿量の義である」といっている。これもまた大なる誤謬で「一切本初」とは法身本有の理に約していった言葉である。玄私七には「本有の理に帰す故に本初と云う、本有の仏性を名けて自覚となす」といっている。
要するに、華厳・真言のやからが天台の教えをねたんで我見に執着して「あるいは釈迦・仏道を成じおわって不可思議劫を経るを見る」の文および「われはいっさいの本初なり」の文を、無理に一念三千の出処にして、一念三千の法門を盗み、法華経にすぐれたりと説かんとするのを明かされたのである。
第二十四章 滅後の難信を結す
本文
又、但在世計りならば・さもあるべきに滅後に居せる論師・人師・多は爾前づりにこそ候へ、かう法華経は信じがたき上、世もやうやく末になれば聖賢はやうやく・かくれ迷者はやうやく多し、世間の浅き事すら猶あやまりやすし何に況や出世の深法悞なかるべしや、犢子・方広が聡敏なりし猶を大小乗経にあやまてり、無垢・摩沓が利根なりし権実・二教を弁えず、正法一千年の内、在世も近く月氏の内なりし・すでにかくのごとし、況や尸那・日本等は国もへだて音もかはれり人の根も鈍なり寿命も日あさし貪瞋癡も倍増せり、仏世を去つてとし久し仏経みなあやまれり誰れの智解か直かるべき、仏涅槃経に記して云く「末法には正法の者は爪上の土・謗法の者は十方の土」とみへぬ、法滅尽経に云く「謗法の者は恒河沙・正法の者は一二の小石」と記しをき給う、千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん、世間の罪に依つて悪道に堕る者は爪上の土・仏法によつて悪道に堕る者は十方の土・俗よりも僧・女より尼多く悪道に堕つべし。
現代語訳
釈尊在世においては、爾前の経々が多年にわたり多く説かれていたから、最後に説かれた法華経を智者は信じたとしても、その時の多くの人々は、爾前が勝れ法華経が劣れるように考えられたということもありうるであろうが、滅後に出現して仏法を弘通した論師・人師もまた多くは爾前に片寄っている、このように法華経は信じがたい上、世もしだいに末法時代に入れば、聖人・賢人と仰がれるべき人はようやくかくれて迷者がしだいに多くなってきた。世間の小さな問題すらなお誤りやすい。いわんや出世間の深法たる成仏得道の教法に誤りがないと言えようか、必ず宗教に誤りが多く出てきているはずである。
ゆえに犢子や方広のごとき智慧のある人すら、なお大乗経と小乗経の区別に迷って破仏法の原因となった。無垢や摩沓のごとき利根の人でさえ、権教と実教の区別に迷って謗法罪をつくり地獄へ堕ちている。これらの四人は正法時代一千年の人で、釈迦仏の在世にも近く、同じインドの国内においてすらこのような状態であった。まして中国や日本等は、国も遠くへだて、言語も変わり、人の根も鈍根で寿命も短命になってきており、貪・瞋・癡の三毒も倍増している。仏が世を去って永い年月を経過し、仏教はみな誤られている。だれの仏経の理解が正しいか、みな誤っているに違いない。釈尊は涅槃経に予言して「末法には正法を持つ者が爪の上の土ほど少数であり、謗法の者は十方世界の土ほど多数である」と言っている。法滅尽経には「謗法の者が恒河の沙ほど多く、正法の者は一、二の小石ほど少数である」と予言している。千年に一人か五百年に一人ほども正法の者があることはむずかしいであろう。世間の罪により、強盗や殺人をして悪道へ堕ちる者は、爪の上の土ほど少なく、仏法によって悪道へ堕ちる者は十方の土ほど多いのである。俗人よりも出家の僧が、女よりも出家した尼の方が仏法を誤り謗法の罪によって多く悪道へ堕ちるのである。
語釈
犢子・方広
いずれも附仏教の外道。犢子は小乗の分派の一つである犢子部の部主で、外道より出て仏教に帰依したが、不可説我を立て、無我の理に迷ったので、附仏教の外道と呼ばれる。方広は「一切法不生不滅、空にして所有なし」と説き、外道におちた。妙楽大師は弘決に「犢子は小乗により、方広は大乗によって、我見を立てた」と述べている。
無垢・摩沓
無垢は無垢論師。迦湿弥羅国の人で、小乗において出家し、五天竺の中を遊学した。三蔵教を学び、後に大乗を誹謗し、世親菩薩に反対した。そのため心に狂乱を起こし、舌は五つに裂け、血を噴き出して死んだといわれる。摩沓は摩沓婆。数論派の学者で、広学多聞であったが、徳慧菩薩によって破折され、六日目に血を吐いて死んだ、と西域記にある。
利根
かしこい性質。鈍根の逆。
法滅尽経
仏説法滅尽経。一巻。訳者不明。仏の涅槃が近づき、説法せず、また光明を現じなかった。そこで阿難が三回たずね、仏はそれに対し、末法法滅の時、魔が比丘となって現れ、非法の言動をすると説いている。
講義
この章は在世と滅後を相対して、ますます法華経が信じがたくなり、正法はまったく失せ果てたと説かれている。
爾前経と法華経とは宇宙の実相・生命の哲理を説くにあたって天地雲泥の差がある。爾前経は部分的に、あるいは前提的に宇宙の実相・生命の哲理を取り扱ったのに対し、法華経は全体的にかつ根本的にこれを説いている。
現代においても、部分的にしてまた皮相的な宗教は一般に普及されている。しかし智者や学者がこれを信じないのはもちろんである。智者や学者がこれを聞いてもっともなりと信ずる、最高にして純一無雑な宗教は、なかなか大衆には入りがたいという事実から推して、この章の意味がよく了解されるであろう。
世間の罪に依って悪道に堕る者は爪上の土云云
このおことばは、仏法律の厳しさを申された、重大なご警告であると拝すべきであろう。われわれの人生において、幸・不幸を決定する、さまざまの法がある。大きく分けて、それは、三つに集約される。世間法、国法、仏法である。
世間法とは、社会の風俗、習慣、慣習であって、これが規制するところは、相対的であり、ゆるい。ある地方では、禁じられていることでも、別の地方では許されることが多い。また、これに違反したことを行なっても、せいぜい、笑われたり、悪口をいわれたり、交際を禁じられたりするに留まる。
国法は国家や地方自治体で定められた法律で、これに反したことを行なった場合、それがはっきりと認められれば、刑罰を受ける。これは罰金なり、体刑なりの実質的効果をもつもので、ある程度の情状酌量はあっても、法に定められた規則は曲げられない。しかし、これとて、つぎの仏法律に較べれば、きわめて目の粗い網といえよう。
仏法は、自己の生命の因果律であって、仏法に反したことをすれば、絶対にその結果生ずる罰の現証をまぬかれることはできない。しかも、世間法、国法は、その正邪の判別が、かんたんであるが、仏法は、生命の本源を解明せられた深々の哲学である。しかも、これを修行する人を妨げんとする魔の働きも盛んである。したがって、これに迷い、罰をうけて、悪道におちる者は、世間、国法の罪によって悪道に堕ちる者より、比較にならないほど多いのである。
真実の人生の幸福をめざすならば、世間法、国法を知り、守ることはとうぜんのこととして、もっとも根本的に幸、不幸を左右する仏法を知り、守るべきことを主張するものである。それを明示された文こそ、仏の言々句々であり、すなわち経文、大聖人の御書なのである。
第二十五章 末法法華経行者の所由
本文
此に日蓮案じて云く世すでに末代に入つて二百余年・辺土に生をうけ其の上下賤・其の上貧道の身なり、輪回六趣の間・人天の大王と生れて万民をなびかす事・大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず、大小乗経の外凡・内凡の大菩薩と修しあがり一劫・二劫・無量劫を経て菩薩の行を立てすでに不退に入りぬべかりし時も・強盛の悪縁におとされて仏にもならず、しらず大通結縁の第三類の在世をもれたるか久遠五百の退転して今に来れるか、法華経を行ぜし程に世間の悪縁・王難・外道の難・小乗経の難なんどは忍びし程に権大乗・実大乗経を極めたるやうなる道綽・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者・法華経をつよくほめあげ機をあながちに下し理深解微と立て未有一人得者・千中無一等と・すかししものに無量生が間・恒河沙の度すかされて権経に堕ちぬ権経より小乗経に堕ちぬ外道・外典に堕ちぬ結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり、日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。
これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり、我等程の小力の者・須弥山はなぐとも我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも我等程の無智の者・恒沙の経経をば・よみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願じぬ。
現代語訳
このように、仏教がすべて誤っている末法の時代に入って、すでに二百余年を過ぎた。この時に、日蓮は東海の辺国に生まれ、その上、社会的な身分は下賤で、しかもきわめて貧乏な身の上である。六道輪廻の間にある時は人界・天界の大王と生まれて、万民をなびかすことは大風の小木の枝を吹きゆるがすようにした時にも成仏せず、大乗経や小乗経の修行に努めて外凡・内凡の大菩薩の位にまで修し上がり、一劫・二劫・無量劫等の長い期間にわたって菩薩の行を立て、すでに不退転の位に入るべきはずであった時も、強盛の悪縁にふれ、その悪縁に動かされ悪道に逆戻りして成仏できなかった。その過去の因縁をたずねるならば、三千塵点劫のその昔に出世した大通智勝仏の法華経を説かれた時代に生まれながら、まったくこれを信じなかった第三類の者が、さらに釈尊在世の法華経にも会うことなくて、迷いのまま末法に生まれてきたのであろうか。あるいは久遠五百塵点劫の昔に法華経の下種を受けながら、退転して悪道に堕ち、今日ここへ生まれてきているのであろうか。
法華経を修行していくうちに数々の災難を受けた。人々の悪口とか、病気とか貧乏のような世間の問題は、これを耐え忍ことができた。また父母や国王が法華経に反対し、持経者を迫害した時も退転することなく、また外道の難や小乗経の上から難じられても、これを耐え忍んできたのであるが、しかし権大乗も実大乗も、仏法のことはすべてきわめつくしたような姿をしている、道綽・善導・法然等のごとき悪魔の身に入って邪教を説く者が、一方では法華経が大変りっぱな経であるとほめ上げ、一方では今の人の機根は下劣であるから、法華のような深遠の経では成仏できないと立て、「法華経は理が深くて、かすかにしかわかることができない」「まだ法華によって一人も得道した者はない。千人も法華を修行して、ただの一人も得道する者はない」等々と言って法華の修業を妨害する者に、無量生の間、数え切れないほど幾度となくすかされて、ついには法華を退転して念仏のような権経へ堕ちた。さらに権経より小乗経へ堕ち、さらに外道や外典に堕ち、結局は地獄・餓鬼等の悪道へおちいってしまったのだということを、日蓮は深くこれを悟ったのである。
日本国にこれを知っている者は日蓮がただ一人である。これを一言でも申し出すならば、父母・兄弟・師匠が必ず反対するであろうし、さらに国主が必ず迫害するであろう。しかし、これを知っておりながらいわないのは、慈悲がないことになると考えている時に、法華経・涅槃経等の文に、この言うか言わないかの二つの辺を合わせ見るに、言わないならば今生では事がないけれども後生は必ず無間地獄へ堕ちるであろう、言うならば三障四魔が必ず競い起こってこれを妨げるのであるということがわかった。この二辺の中には言うべきである。しかし王難等の大迫害が起きたなら、一度に思いとどまるであろうと、しばらく考えつつある時に、思い当たったのが宝塔品の六難九易である。われらほどの小力の者が、須弥山のごとき大山を投げるとも、われらほどの通力のない者が、燃えやすい乾草を背負って劫火の中をくぐり、しかも焼けないことがあろうとも、われらほどの無智の者が、数え切れない多数の経々を読みおぼえることができるとしても、法華経は一句一偈をすら末法に持つことは困難であると説かれているのはこれである。今度こそ強盛の菩提心を起こして、いかなることがあろうとも、絶対に退転しないと誓願したのである。
語釈
貧道の身
身に一物もないということで、現在では、一般に僧が自分の謙称として用いている。
外凡・内凡
仏道修行の位であって、まだ聖位に入らない者を、凡位または賢という。この凡位のなかでも、あるていど理のわかった者を内凡といい、まだまったくわからない者を外凡という。化法の別によって、その次位を分けると、三蔵教の外凡は三賢、内凡は四善根。通教の外凡は乾慧地(浄観地)、内凡は性地(種地)。別教の外凡は十信、内凡は十住・十行・十回向。円教の外凡は五品弟子・内凡は十信となる。五品弟子位は法華経分別功徳品第十七に説かれる「滅後の五品」の段階で、随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品である。日蓮大聖人の仏法では、五品の位より下位である名字即の位で、五十二の階位を経ずに成仏すると説かれる。
大通結縁の第三類の在世をもれたるか
久遠下種を忘失していたために、大通覆講の際に法華経を聞いても発心できなかった(未発心)者が、迷いのまま末法に生まれてきたのであろうか、ということ。法華経化城喩品第七に説かれる。三千塵点劫の昔、大通智勝仏が十六王子に法華経を説き、その十六王子がのちにそれぞれ法華経を説いて衆生を化導した。これを大通覆講という。第十六の王子が釈尊の過去世の姿で、この第十六の王子との結縁を大通結縁といい、三種の衆生に分かれる。第一を不退、第二を退大取小、第三を未発心という。
道綽
(0562~0645)。中国の隋・唐代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を承けて釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」二巻等がある。
善導
(0613~0681)。中国・初唐の僧。中国浄土教善導流の大成者。姓は朱氏。泗州(安徽省)(一説に山東省・臨淄)の人。若くして密州の明勝法師について出家。初め三論宗を学び、法華経・維摩経を誦したが,経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志した。貞観年中に石壁山の玄中寺(山西省)に赴いて道綽について浄土教を学び、師の没後、長安の光明寺等で称名念仏の弘通に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」(観無量寿経疏)四巻、「往生礼讃偈」一巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
法然
(1133~1212)。平安時代末期の僧。日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作(岡山県北部)の人。幼名を勢至丸といい、伝記によると、母が剃刀をのむ夢をみて源空をはらんだという。9歳で菩提寺の観覚の弟子となり、15歳で比叡山に登り功徳院の皇円に師事し、さらに黒谷の叡空に学び、24歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学んだ。再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧した。承安5年(1175)43歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永2年(1207)に門下の僧が官女を出家させた一件が発端となって、勅命により念仏を禁じられて土佐(実際は讃岐)に流された。同年12月に赦があり、しばらく摂津国(大阪府)の勝尾寺に住した後、建暦元年(1211)京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、80歳で没した。著書に、「選択集」二巻をはじめ、「浄土三部経釈」三巻、「往生要集釈」一巻等がある。
千中無一
善導の「往生礼讃偈」に五種の正行以外の法華経・その他の経教の修行によって極楽往生できる者は千人の中に一人もいないとある。
三障・四魔
仏道修行を妨げ善心を害する三種の障りと四種の魔。三障は①煩悩障(貪瞋癡等の惑によって起こる障)、②業障(五逆・十悪等によって起こる。また妻子等によって起こる障)、③報障(三悪道・謗法・一闡提の果報が仏道の障礙となること。また国王や父母、権力者からの障礙)である。四魔は①煩悩魔(貪瞋癡等の惑によって起こる魔)、②陰魔(衆生は五陰の仮和合したものであるからつねに苦悩の中にあるゆえに五陰を魔とする)、③死魔(死の苦悩で、死がよく命根を断つので魔という)、④天子魔(他化自在天子魔の略称。他化自在天王がよく人の善事・善行を害すること。権力者による迫害等がこれにあたる)である。
宝塔品の六難九易
法華経見宝塔品に、法華経を持つことのむずかしさが示されている。
九易とは、
一、諸余の経典は数恒沙の如し此れ等を説くと雖も未だ難しと為すに足らず
二、若し須弥を接って他方の無数の仏土に擲げ置かんも亦た未だ難しと為さず
三、若し足の指を以て大千界を動かし遠く他国に擲げんも亦た未だ難しと為さず
四、若し有頂に立って衆の為めに無量の余経を演説せんも亦た未だ難しと為さず
五、仮使い人有って手に虚空を把って以て遊行すとも亦た未だ難しと為さず
六、若し大地を以て足の甲の上に置いて梵天に昇らんも亦た未だ難しと為さず
七、仮使い劫焼に乾ける草を担い負いて中に入って焼けざらんも亦た未だ難しとせず
八、若し八万四千の法蔵十二部経を持って人の為めに演説して諸の聴かん者をして六神通を得しめんも能く是の如くすと雖も亦た未だ難しと為さず
九、若し人は法を説いて千万億無量無数恒沙の衆生をして阿羅漢を得六神通を具せしめんも是の益有りと雖も亦た未だ難しと為さず
六難とは、
一、若し仏の滅度して悪世の中に於いて能く此の経を説かば是れは則ち難しと為す
二、我が滅後に於いて若しは自らも書き持ち若しは人をしても書かしめば是れは則ち難しと為す
三、仏の滅度の後に悪世の中に於いて暫くも此の経を読まば是れは則ち難しと為す
四、我が滅度の後に若し此の経を持って一人の為めにも説かば是れは則ち難しと為す
五、我が滅後に於いて此の経を聴受して其の義趣を問わば是れは則ち難しと為す
六、我が滅後に於いて若し能く斯の如き経典を奉持せば是れは則ち難しと為す
講義
「此に日蓮案じて云く」より下は、日蓮大聖人が、まさしく法華経に予言された末法ただ一人の法華経の行者であり、上行菩薩の再誕であらせられる旨を述べて、末法下種の三徳の深恩をあらわされた段である。とくにこの第二十五章は法華経の行者たる所由を述べられている。
「辺土に生をうけ其の上・下賎」の文
辺土とは、インド・中国に対して日本をさすという論と、日本の中において辺土たる房州をさすとの二論があるけれども、日寛上人は後義にしたがうべしとおおせられている。房州のごとき辺土においても、また尊貴な人もいるが、「その上・下賤」として種姓を明らかにせられた。末法の御本仏がなぜ下賤の生まれであるかといえば、末法下種の法華経の行者は三類の強敵が競い起こることによって、まさしく経文の予言に合致するのであり、また邪智謗法の極悪人が充満する末法においては、下種逆縁の功徳によってのみ一切衆生が救われるのである。もし大聖人が尊貴の生まれであるならば、三類の強敵も競い起こりがたく、したがって、法華経の行者としてのご身分をもあらわしがたいゆえである。さらにまた、悲門は下賤の一切大衆の救済を妙となす。ゆえに大聖人は凡夫のお姿で下賤の大衆の中に御生誕あそばされたのである。
他宗では、大聖人のご出生が下賤であるといって卑下するけれども、これに対しては、つぎの御抄をよく拝すべきである。
佐渡御書にいわく
「日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり……心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり」(0958:09)
中興入道御消息にいわく
「然るに日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子にて候いしかば・日本国・七百余年に一人も・いまだ唱へまいらせ候はぬ南無妙法蓮華経と唱え候のみならず、皆人の父母のごとく日月の如く主君の如くわたりに船の如く渇して水のごとくうえて飯の如く思いて候」(1332:07)
以上のごとく、日蓮大聖人は下賤の身としてお生まれになりながら、日本第一の尊徳をそなえられ、じつに尊貴中の極尊であらせられる。これに対し、日寛上人は六意を明かして、つぎのごとく述べられている。
「一には謂く智慧尊貴なり能く流転の所以を知り給う故なり、二には謂く慈悲尊貴なり能く大悲を以て折伏の心地を決定し給う故なり、三には謂く誓願尊貴なり能く身命を愛せざるの誓願を立て給う故なり、四には謂く行者尊貴なり能く三類の強敵を忍び給うゆえなり、五には謂く本地尊貴なり云云六には謂く三徳尊貴なり云云、且らく当抄の意に依って略して以て六意を示す、何ぞ六意のみに止まらんや、実に無量の徳を備う、誰か尊重讃嘆せざらんや」
「輪回六趣の間・人天の大王と生れて万民をなびかす事・大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず」等以下の文は、現代の宗教哲学に闇き者にとっては不思議の感があるであろう。
しかし、われら人間生命の実相を説かれたものであって、これこそ真実の姿である。この文は、
第一にわれらが貧窮に生まれて、あるいは病弱・不具に生まれて、あるいは種々なる不幸に生きねばならぬ原因を説かれている。その不幸の原因は、みな過去世において邪宗にだまされたがゆえであって、邪宗にだまされたという事は、正法に会えなかったということである。ゆえに大聖人も過去に会わなかったかのゆえに、今度こそ決定して正法をひろめ、地獄の門を閉じんとされたのである。
呵責謗法滅罪抄にいわく
「無始より已来法華経の御ゆへに実にても虚事にても科に当るならば争か・かかる・つたなき凡夫とは生れ候べき」(1225:02)
この御文も同意である。よくよく考え合わせなければならない。
されば、過去世を知りてこそ未来を考うべきであって、未来において幸福にならんとするならば、現世において正法を信じ正法をひろむべきであると信ずる。今日、邪教邪宗を信ずる者は、未来永劫において幸福になり得ないのであるから、じつに憐れむべき徒輩である。これらの信者を憐れむとともに、憎むべきは、文証も理証も現証もなき邪宗をひろめる、邪宗の教祖ともいうべき徒輩である。かれらこそ永遠に無間地獄の大火にむせぶことを思えば、哀れとも憐れむべき者であろう。
悪鬼の身に入りたる者
涅槃経にいわく「菩薩・悪象等に於いては心に恐怖すること無かれ、悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ・悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に到る」と。悪象とは、世間の悪縁であり、現代の世相にあてはめていえば、交通事故、不慮の災害による死、政治の貧困によるゆえの種々の苦しみ等をさすといえよう。
悪知識とは、出世間の悪縁、すなわち、誤れる宗教、邪悪なる宗教に迷わされて、生命の根源よりむしばまれ、福運をなくし、不幸におちゆくことである。三趣とは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道である。
すなわち、いっさいの不幸の本源として、もっとも恐るべきは、邪宗教であり、その他の世間の不幸、苦しみは、それによってもたらされたところの助縁にすぎないのである。こんにちの政治の腐敗堕落、貧困も、その本源は、邪宗教にあることを知らねばならない。
兄弟抄にいわく
「されば法華経を信ずる人の・をそるべきものは賊人・強盗・夜打ち・虎狼・師子等よりも当時の蒙古のせめよりも法華経の行者をなやます人人なり、此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり……貪瞋癡の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす、但あくのさかなのみを・すすめて三悪道の大地に伏臥せしむ、たまたま善の心あれば障碍をなす、法華経を信ずる人をば・いかにもして悪へ堕さんとをもうに叶わざればやうやくすかさんがために相似せる華厳経へをとしつ・杜順・智儼・法蔵・澄観等是なり、又般若経へすかしをとす悪友は嘉祥・僧詮等是なり、又深密経へ・すかしをとす悪友は玄奘・慈恩是なり、又大日経へ・すかしをとす悪友は善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証是なり、又禅宗へすかしをとす悪友は達磨・慧可等是なり、又観経へすかしをとす悪友は善導・法然是なり、此は第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に「悪鬼其の身に入る」と説かれて候は是なり」(1081:14)
このおことばこそ、一切衆生の不幸の根源は邪宗およびその教祖なりと喝破せられた、御本仏の師子吼である。われら創価学会員こそ、この大聖人の師子吼のままに、不幸の原因は邪宗邪義にありと折伏行に励む、真の仏弟子なりと確信してやまない。
かつ、大聖人御在世当時以来、今日にいたるも、わが日本民族をむしばみ、不幸におとしいれてきた元凶は、念仏、真言、禅などの既成仏教である。また、これらが結束して全日仏となり、その後の新興宗教は結託して新宗連をつくり、政界への進出を企てる姿は、「悪鬼其の身に入る」の現実の姿であると断ずるものである。
立正安国論にいわく、
「悲いかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(0024:02)と。
「日本国にこれを知れるものは但日蓮一人なり」
とのおおせは、じつに強きご確信ではないか。文に心を留めて読まれよ。大聖人御一人が知り給うものは何か。あらゆる邪宗が、大衆をして悪道に堕すということをお知りあそばされたのである。ゆえに名誉も栄達をも考える事なく、身を凡愚に具して、身命を捨てて大衆の救済に立たれたのである。末法においてただ一人、民衆救済の大原理をお知りあそばされたからこそ、この御方こそ聖人であり、仏であらせられるのである。この一言の中に大聖人の勇猛心と精進力がうかがわれるではないか。ゆえに六難九易の文を引かれて、強き大決意をお示しあそばされたのである。「この度強盛の菩提心を起こして退転せじと願しぬ」の御一言、強くわれわれの頭上を打つではないか。
第二十六章 略して法華経行者なるを釈す
本文
既に二十余年が間・此の法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ、今度はすでに我が身命に及ぶ其の上弟子といひ檀那といひ・わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる謀反なんどの者のごとし。
法華経の第四に云く「而も此経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」等云云、第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん」等云云、第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云、又云く「諸の無智の人の悪口罵詈する有らん」等、又云く「国王・大臣・婆羅門・居士に向つて誹謗し我が悪を説いて是れ邪見の人なりと謂わん」と、又云く「数数擯出見れん」等云云、又云く「杖木瓦石もて之を打擲せん」等云云、涅槃経に云く「爾の時に多く無量の外道有つて和合して共に摩訶陀の王・阿闍世の所に往き、今は唯一の大悪人有り瞿曇沙門なり、一切世間の悪人利養の為の故に其の所に往集して眷属と為つて能く善を修せず、呪術の力の故に迦葉及び舎利弗・目犍連を調伏す」等云云、天台云く「何に況や未来をや理化し難きに在るなり」等云云、妙楽云く「障り未だ除かざる者を怨と為し聞くことを喜ばざる者を嫉と名く」等云云、南三・北七の十師・漢土無量の学者・天台を怨敵とす、得一云く「咄かな智公・汝は是れ誰が弟子ぞ三寸に足らざる舌根を以て覆面舌の所説を謗ずる」等云云、東春に云く「問う在世の時許多の怨嫉あり仏滅度の後此経を説く時・何が故ぞ亦留難多きや、答えて云く俗に良薬口に苦しと云うが如く此経は五乗の異執を廃して一極の玄宗を立つ、故に凡を斥け聖を呵し大を排い小を破り天魔を銘じて毒虫と為し外道を説いて悪鬼と為し執小を貶して貧賤と為し菩薩を挫きて新学と為す、故に天魔は聞くを悪み外道は耳に逆い二乗は驚怪し菩薩は怯行す、此くの如きの徒悉く留難を為す多怨嫉の言豈唐しからんや」等云云、顕戒論に云く「僧統奏して曰く西夏に鬼弁婆羅門有り東土に巧言を吐く禿頭沙門あり、此れ乃ち物類冥召して世間を誑惑す」等云云、論じて曰く「昔斉朝の光統に聞き今は本朝の六統に見る、実なるかな法華に何況するをや」等云云、秀句に云く「代を語れば則ち像の終り末の始め地を尋ぬれば則ち唐の東羯の西・人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり、経に云く猶多怨嫉・況滅度後・此の言良に以有るなり」等云云、
現代語訳
すでに、日蓮は建長五年以来二十余年の間、この法門を申すに、日日・月月・年年に難がかさなってきている。悪口や打たれるような少少の難は数知れず、流罪・死罪の大難がすでに四度におよび、そのうち二度は王難で遠島に追放流罪されたのである。このたびはすでにわが身命におよんで、生きながらえることがむしろ不思議である。その上、弟子も檀那もいうにおよばず、わずかに聴聞した俗人などをさえ捉えて重罪に処しているさまは、謀反人などに対する刑罰と同じである。
しかし、また末法の法華経の行者が、このように迫害を受けるであろうことについては、すでに釈尊・天台・伝教等がこれを予言しているのである。法華経第四の巻法師品には「しかもこの法華経は、釈尊の在世すらなお怨嫉が多い。いわんや滅度の後においては、人心もますます邪智諂曲になって、正法の行者に対しては、さらに大怨嫉を起こすのである」と。また第二の巻譬喩品にいわく、「法華経を読誦し書持する人を見て、軽んじ賤しみ憎み嫉んで、深くこの人を怨むようになる」と。また第五の巻にいわく「一切世間の人は怨が多くて、正法を信じがたい」と。同じく勧持品に「もろもろの無智の人があって悪口罵詈するであろう」と。また同じく「国王・大臣や婆羅門・居士等に向かって法華経の行者を誹謗し、行者の悪い点を挙げて、この人は邪見の人であると訴えるであろう」と。また同品に「法華経の行者は、権力者や大衆に迫害されて数々擯出されるであろう」と。またいわく「杖木や瓦石をもって行者を打擲するであろう」等々と説かれている。また涅槃経にいわく「その時に多く無量の外道があって、和合して摩訶陀国の阿闍世王の所へいき、つぎのごとく訴えた。現世にはただ一人の大悪人がいる。それは釈迦(瞿曇沙門)である。一切世間の悪人たちは利養のために釈迦の所へ往集しその眷属となって能く善を修しない。まじないの力で迦葉・舎利弗・目犍連を調伏して弟子とし、悪事ばかり働いている」と云云。天台いわく「釈尊在世すら怨嫉が多かったので、いわんや未来はさらに大怨嫉があり、衆生の機根がますます濁悪となり、時代が濁悪となるので、正法は信じがたく、化導が困難となる」と。妙楽いわく「障りがまだ除かれず、行者に対してすっきりした気持ちで会うことのできないのを怨と名づけ、行者の説法を聞くことを喜ばないのを嫉と名づける」と怨嫉を定義して、南三北七の十派の学者を初めとし、中国全土の無量の学者を天台の怨敵であると断定した。得一がいわく「つたないかな智公(天台)よ、汝はこれ、だれの弟子であるか。三寸に足らざる舌根をもって釈尊一代の所説を謗じ、世間を迷わしている」と。東春に智度法師がいわく「問う、釈尊在世においても若干の怨嫉があったが、仏滅後にこの経を説く時また何がゆえに留難・迫害が多いのであるか。答えていわく俗に良薬口に苦しというがごとく、この法華経は、人・天・声聞・縁覚・菩薩の五種類に人生の目的を定める異執を打破して、人生の目的はただ一つ成仏することであると説くのである。ゆえに爾前の凡位のものを斥け聖位の者を呵し、大乗を排し小乗を破り、天魔を毒虫であるとなし外道を悪鬼となし、小法に執着するものを貶して貧賎となし、菩薩を挫いて新学の者となす、このゆえに天魔は聞くを悪み、外道は耳に逆って憤り、二乗は驚き怪しみ、菩薩は怯えて行く。このような徒輩がことごとく留難をなすから、怨嫉が多いという仏の予言が、どうしてむなしかろうか」と。顕戒論にいう「伝教大師の時代に、六人の僧統が天皇に上奏していうには、西夏には鬼弁婆羅門があって、逆説的な論議をもてあそび、東の国たる日本には巧みな言をもって民衆を惑わす禿頭沙門がある。これらがすなわち同類を自然に集めて世間を誑惑している、と。今これを論じていわく、天台大師の時代には斉朝の光統等が天台に反対し、今日本においては、奈良六宗の髙僧が伝教大師に反対する。じつにこれらは釈尊の予言どおり如来滅後における、さらにはなはだしい大怨嫉である」と。秀句にいわく「大白法の広宣流布する時機は、像法の終わり末世の始めであり、その国を尋ねるならばすなわち唐の東で羯の西にあたり、その時代の人はすなわち五濁の衆生で闘諍堅固の時である。法華経には如来の現在にすらなお怨嫉が多いので、いわんや滅度の後には、さらにはなはだしいとあるが、この言はじつに理由のあることである」とある。
語釈
大事の難・四度なり
第一は松葉ケ谷の法難(文応元年:1260)、第二は伊豆流罪(弘長元年:1261から同3年:1263)、第三は小松原の法難(文永元年1264)、第四は竜の口の法難(文永8年1271)、それにつづく佐渡流罪(~同11年1274)。
王難すでに二度にをよぶ
伊豆流罪と竜の口の法難および佐渡流罪をさす。
阿闍世
梵名アジャータシャトル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って釈尊を殺そうとするなどの悪逆を行った。後、体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど仏法のために尽くした。
得一
生没年不明。平安時代初期の法相宗の僧。徳一・徳溢とも書く。藤原仲麻呂の子と伝える。出家して興福寺の修円から法相宗を学び、東大寺で弘教したといわれる。法華一乗は権教であるとして三乗真実・一乗方便の説を立て、伝教大師と法華経の権実に関する論争を行った。常陸国筑波山に中禅寺を開き、また陸奥国会津に慧日寺を創建した。著書に「仏性抄」一巻、「中辺義鏡」三巻などがある。
東春
「天台法華疏義纉」(法華経疏義纘)のこと。六巻。中国・唐代の智度述。智度が東春に住んでいたところから、その人と著書を「東春」と呼んだ。天台大師の法華文句の註釈書であるが、その内容は初めに法華玄義によって五重玄を概説し、つぎに法華経の本文、法華文句記等にわたって懇切に注釈し、自己の見解を主張している。
新学
新発意、すなわち発心して新たに仏門に入った者ということ。ここでは、未熟者、初心者と見下した言葉。
顕戒論
伝教大師最澄の著作。三巻。弘仁10年(0819)、伝教大師は大乗戒壇建立を請う上表文を朝廷に提出したが、南都六宗の僧らが反論したので、これを破折するために本書が著された。
僧統
僧の支配階級の名称で、ここでは、伝教大師在世当時の奈良七大寺の僧官である僧都や律師などをさしている。
西夏
歴史的には、唐の夏州節度使の後裔である李元昊が建てた国で、国号を大夏といった。西夏は宋人の呼名。今の甘粛省・オルドス地方にあたるが、ここで用いられている意味は、北インドあるいはインド北方をさすものと考えられる。
鬼弁婆羅門
二世紀ごろインドにいたバラモンの一人。大唐西域記に「摩訶陀国鶏園寺の鐘塔の北に住み、逆説的理論をもてあそんでいた。世をさけて林中におり、鬼を祀って世人の尊敬をうけていた。常に帷をたれ、問答を行なっていたので、だれもその正体を知らなかった。阿濕縛窶沙菩薩(馬鳴菩薩)は、ある日、国王とともにその場所へ趣き、問答をしたところ、鬼弁は口を閉じてしまったので、馬鳴は、帷をあけてその妖態を見破った」とある。
物類冥召
同類のものが、冥々に通じ合わせて。
斉朝の光統
(0468~0537)。慧光のこと。中国・南北朝時代の北魏(0439~0534)から東魏(0534~0550)の僧。若くして道覆律師の「四分律疏」のさらに疏をつくって律をひろめ、四分律宗の祖と称せられた。0508年、中天竺の僧、勒那摩提が洛陽にきて世親の「十地経論」を講じ、菩提流支とともに翻訳したが、諍って二種の訳ができた。慧光はこの二訳を会通して一本となし、地論宗を盛んにさせたので、地論宗南道派の祖とも称される。南三北七のうち江北七家の一つ。洛陽で国僧都(国統)。一国の僧侶を統括する役)に任用され、光統律師と呼ばれた。また菩提達磨と法論して、これを誹謗したと伝えられる。著書には華厳・十地等の経疏のほか僧制十八条、大乗律儀などがある。
秀句
法華秀句のこと。三巻(または五巻)。伝教大師最澄の著述。弘仁12年(0821)成立。法華経が諸経より優れていること十点(法華十勝)をあげて説き示し、当時流行していた法相・三論・華厳・真言など諸宗の邪義を破折している。特に、法相宗の得一が法華経を誹謗したことを糾弾している。
唐の東羯の西
唐は中国をさす。羯は靺鞨(カムチャッカか?)で、六世紀半ばから約一世紀の間、中国東北部の松花江流域に住んだツングースの一種族を、中国では隋・唐の時代にこう呼んだ。日蓮大聖人当時の地理観では、日本はその国より西に位置していると考えられていた。すなわち「唐の東羯の西」とは日本をいう。
講義
開目抄の目的は、日蓮大聖人が法華経の行者であることをあらわし、末法の法華経の行者はすなわち末法の一切衆生を救護し給う御本仏であらせられ、これすなわち人の本尊であらせられる旨を明かされるにある。本章は、略してこれを明かす御文であり、この段は法華の行者値難の文証をまずあげられている。
この章は、まず第一節に大聖人およびその眷属が二十余年の間、法華経のゆえに難に値ってきている現証を述べられているのである。この現証のゆえに、大聖人が法華経の行者たることを釈していられるのである。
第二節「法華経の第四に云く」の文以下は、法華経の文証を挙げて法華経の行者は難に値うことを説き、第一節の現証を証明せられたのである。「涅槃経に云く」は、同じく涅槃経を引いて、正法たる法華経の行者・釈尊が難に値えるを示し、ご自身の値難と照合せられたのである。
つぎに天台・妙楽が難のきたる所以を明かされているのを説き、得一よりおおいなる怨嫉を受けている文証を引いて、ましてや末法においてをやの意を示されている。
法師品の「況や滅度の後をや」とは、三重の意があり、一には在世より正法年間をさし、二には正法より像法をさし、三には像法より末法をさす、すなわち末法こそもっとも大怨嫉が競い起こるとの意である。
「東春に云く」については、なぜこの経を聞いて怨嫉ありやというて、その留難のよってきたる所以を説いているのは、なかなか興味深いことである。今日末法においても、五乗の異執を廃して一極の玄宗たる三大秘法の仏法興隆するや、種々の留難の起こるのは、またもちろんである。今日の五乗とは、いかに配置すべきかを考察するに、菩薩の階級に当たる者には社会事業家があり、縁覚・声聞に当たる者には、政治家・芸術家・学者・文学者、人天に当たる者には道徳家・資本家・富豪等がある。ゆえに最高の仏教哲理を理解せぬを凡愚とののしり、聖人顔する者を指導原理を知らぬ者と叱りつけ、大小の釈迦仏法を破る邪教を天魔と名づけて毒虫となし、神道、キリスト教を説くを悪鬼となし、釈迦仏法の者および資本主義・共産主義者・富豪等を執小と名づけて貧賎となす。正法を聞いて道をひろめざる者を新学となす。ゆえに邪教の輩は聞くを憎み、神道、キリスト教徒は耳に逆らい、聖人・学者といわれる者は驚怪し、正法の信者にして道をひろめざる者は怯行すとなる、といわざるを得ない現状ではないか。
「秀句に云く」の文に、伝教大師が末法に正法興隆の時と所と人とを予言しているのは、じつにまた意味深いものと思わざるを得ない。
第二十七章 経文一一に符合するを明かす
本文
夫れ小児に灸治を加れば必ず母をあだむ重病の者に良薬をあたうれば定んで口に苦しとうれう、在世猶をしかり乃至像末辺土をや、山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし、像法の中には天台一人法華経・一切経をよめり、南北これをあだみしかども陳隋・二代の聖主・眼前に是非を明めしかば敵ついに尽きぬ、像の末に伝教一人・法華経一切経を仏説のごとく読み給へり、南都・七大寺蜂起せしかども桓武・乃至嵯峨等の賢主・我と明らめ給いしかば又事なし、今末法の始め二百余年なり況滅度後のしるしに闘諍の序となるべきゆへに非理を前として濁世のしるしに召し合せられずして流罪乃至寿にも・をよばんと・するなり。
されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし、定んで天の御計いにもあづかるべしと存ずれども一分のしるしもなし、いよいよ重科に沈む、還つて此の事を計りみれば我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし、而るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ、「悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲」又云く「白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し」此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く「数数見擯出」等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり、例せば世尊が付法蔵経に記して云く「我が滅後・一百年に阿育大王という王あるべし」摩耶経に云く「我が滅後・六百年に竜樹菩薩という人・南天竺に出ずべし」大悲経に云く「我が滅後・六十年に末田地という者・地を竜宮につくべし」此れ等皆仏記のごとくなりき、しからずば誰か仏教を信受すべき、而るに仏・恐怖悪世・然後末世・末法滅時・後五百歳なんど正妙の二本に正しく時を定め給う、当世・法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん、南三・北七・七大寺等・猶像法の法華経の敵の内・何に況や当世の禅・律・念仏者等は脱るべしや、経文に我が身・普合せり御勘気をかほれば・いよいよ悦びをますべし、例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して・つくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦を・うくるを見てかたのごとく其の業を造つて願つて地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし、此れも又かくのごとし当時の責はたうべくも・なけれども未来の悪道を脱すらんと・をもえば悦びなり。
現代語訳
だいたい子供に灸をすえれば、必ず母をあだむ。重病者に良薬を与えれば、きっと口に苦くて飲みにくいという。釈尊在世すら、なおこの理法で、法華経に対しては怨嫉が多かった。まして時代が像法、末法とくだり、しかも日本のような辺土においては、なおさらしかりである。山にまた山をかさねるごとく、波にまた波をたたむがごとく、難に難を加え、非に非を増大して、いよいよ正法は説きがたく信じがたくなるのである。像法の中には、天台が一人、法華経・一切経を読み切って、正しく説いた。南北の各宗がこれを怨んだけれども、陳・隋の二代の聖主がその面前で対決せしめて、是非を明らかにしたので、天台の敵はついにみな降伏してしまった。像法の末には、伝教が一人、法華経・一切経を仏説のとおりに読んだ。奈良の七大寺が伝教に反対して蜂起したけれども、桓武天皇や嵯峨天皇等の賢主がみずから仏法の正邪を明らめ給うたので、また事なきをえた。今、末法の初め二百余年である。仏の予言のごとく「いわんや滅度の後をや」という大怨嫉が起こる前兆として、また闘諍の序となるべきゆえに、日蓮が法華経を正しく説くといえども非理の邪法を立てていて、濁世のしるしに、彼の邪宗と対決させることなく、かえって日蓮を流罪し、ないし命にも及ぼうとしているのである。
されば、日蓮の法華経に対する智解は、天台・伝教に比べて、千万が一分もおよぶことはないけれども、難を忍び慈悲の勝れている点では、像法の天台・伝教は末法の日蓮に恐れをもいだくであろう。定めて仏の使いたる日蓮を、諸天善神も守護すべきはずであるのに、一分のしるしもない。かえってますます重罪におとしいれられている。このことからふりかえって考えてみれば、わが身が法華経の行者でないのか、あるいはまた諸天善神がこの国を捨てて去り給うのか、じつに疑わしき次第である。しかるに、法華経の第五の巻・勧持品に、諸大菩薩が仏滅後に法華経を説くと誓った二十行の偈は、日蓮さえもこの国に生まれないならば、ほとんど釈尊は大妄語の人となり、これを誓った八十万億那由佗の多数の大菩薩たちは提婆の虚誑罪と同じような嘘つきの罪におちいるであろう。すなわち日蓮がただ一人、法華経を予言のごとく正しく説きひろめているのである。経にいわく「もろもろの無智の人があって悪口罵詈等し刀杖瓦石を加う」と。今の世を見るに、日蓮よりほかの諸僧で、だれが法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ、刀杖等を加えられる者があるか。日蓮がなければ、この一偈の未来記は妄語となるのである。「悪世の中の比丘は邪智で心が諂曲である」と。またいわく「邪宗の僧が在家の者のため法を説いて、世人には六通の羅漢のごとく恭敬されている」と。これらの経文は、今の世の念仏・禅・律等の諸宗の法師がなければ、仏が大妄語の人となる。「つねに大衆の中にあり、ないし国王、大臣、婆羅門、居士等に向かって法華経の行者を訴えるであろう」と。今の世の僧等が、日蓮を讒奏して島流しにしないならば、この経文はむなしくなるであろう。またいわく「数数擯出せらるる」と。日蓮が法華経のゆえにたびたび流されなければ、数数の二字をどうするか。この二字は天台・伝教もまだ読まれてない。まして余人が読むはずがない。末法の始のしるし、恐怖悪世の中という金言のあうゆえに、ただ、日蓮一人がこれを身で読んだのである。
たとえば、釈尊が付法蔵経に記していわく「わが滅後一百年に阿育大王という王が出現するであろう」と。摩耶経にいわく「わが滅後六百年、竜樹菩薩という人が南インドに出るであろう」と。大悲経にいわく「わが滅後六十年に末田地という者が、地を竜宮に築くであろう」と、これらの予言はすべて、仏の記しておいたとおりになった。もしそのとおり予言が合わないならば、だれが仏教を信受できようか。しかるに、仏は法華経の行者が出現して、大白法を広宣流布せしむる時を定めて、「恐怖の多い悪世である」また「然後末世」「末法滅時」「後五百歳」などと、正法華経にも妙法蓮華経にも、正しく定められている。当世において、法華経に説かれたごとく、三類の強敵がないならば、だれが仏説を信受できようか。日蓮が出現しなければ、だれをか法華経の行者として、仏の予言をたすけようか。天台大師に反対した南三北七の邪宗の僧も、伝教大師に反対した奈良七大寺の邪宗の僧も、なお像法の法華経の敵と定められている。いわんや当世の禅や律や念仏を説いている者が、法華経の敵でないわけがあろうか。経文に予言されたことと、自身の行動とがぴったりと一致している。幕府の迫害を受ければ、いよいよ悦びを増すのである。たとえば、小乗経を修業する菩薩がいまだ惑を断じていないので、「願って業を兼ぬ」と申して、作りたくない罪であるけれども、父母等が地獄に堕ちて大苦を受けているのを見て、形どおりの罪業をつくり、願って地獄に堕ちて苦しむのと同じである。日蓮もまたこのとおりであって、現在の大難は耐えられないほどであるが、未来に堕つべき悪道の因縁を断ち切って成仏すると思えば、かえって悦びとなるのである。すなわち小乗の菩薩、父母の苦に代わるを喜ぶごとく、日蓮は大難を受け、法華経の予言にわが身の一致するを見て、わが身が上行菩薩であり、末法の本仏であることを確信して喜ぶのである。
語釈
陳隋・二代の聖主
天台大師は、存命中に陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。
提婆
梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写・提婆達多の略。また調達とも書く。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従弟とされるが異説もある。出生のとき諸天が、提婆が成長の後、三逆罪を犯すことを知って、心に熱悩を生じさせたので、天熱と名づけたという。釈尊が出家する以前に悉達太子であったころから釈尊に敵対し、悉達太子から与えられた白象を打ち殺したり、耶輸陀羅女を悉多太子と争って敗れたため、提婆達多は深く恨んだ。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。最後は、王舎城の中で、大地が自然に破れて生きながら地獄に堕ちたとされる。しかし法華経提婆達多品第十二で釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に千年間仕えて法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられ悪人成仏が説かれた。
付法蔵経
付法蔵因縁伝ともいう。中国・北魏の吉伽夜・曇曜による共訳。六巻。釈尊の付嘱を受けて正法一千年の間に出現し仏法を広めた後継者(付法蔵)二十三人の事跡が記されている。
阿育大王
BC3世紀頃の人(在位BC0268~BC0232年頃)。阿育は梵名アショーカ(Aśoka)の音写。阿輸迦等とも書き、無憂と漢訳する。また天愛喜見王とも呼ばれる。インドのマウリア朝第三代の王。祖父チャンドラグプタがナンダ朝を倒してマウリア王朝を建て、阿育王は治世の前半を征服戦に費やし、ほぼ全インドにわたる最初の大国家を建設した。しかし自ら行なった殺戮の跡を眼のあたりにして改心し、以後は平和主義に徹し篤く仏教を信じてその慈悲の精神を施政に反映した。更に、八万四千(数多くの意)の塔を造り、仏舎利を供養した。第三次の仏典の結集を行ない、五年ごとに大会を設けて教法の義理を論議させた。また、遠くギリシャ、エジプトの地にも使者を派遣し平和の精神を訴えた。
摩耶経
詳しくは、摩訶摩耶経とも仏昇忉利天為母説法経ともいう。斉の曇景訳。二巻。仏が母の摩耶夫人の恩を奉ずるために、忉利天に四月十五日に昇り七月十五日に帰るまでの九十日間に説法し、初果の益を得させた。この経には貧者の一灯の教えがある。すなわち願って多くの財を布施しても信心が弱くては仏に成ることはできないが、たとえ貧しくても信心が強く志が深ければ、仏に成ることは疑いないということである。のちに、仏が入滅したことを聞いた摩耶夫人は急ぎ忉利天より下り、涅槃の場にかけつけ仏の鉢と錫杖とを抱いて泣いた。そのとき、仏は大神通力をもって金棺の蓋をあけ、身を起して毛孔から千百の光明を放ち、一一の光明中に千百の化仏を現じて、母子が相いまみえた。仏は母のために世の無常の理を説き、説き終って再び棺の蓋を閉じたと説かれている。後半では、釈尊滅後千五百年までの法を広める人の出世年代・事跡などが記されている。竜樹の出現する年数について、本抄では「我が滅後・六百年に竜樹菩薩という人・南天竺に出ずべし」とされ、摩耶経の原文「七百歳已。有一比丘名曰龍樹」とは異なる。これは、流罪中の経典の乏しい状況下で執筆されたからであると考えられる。一方、身延で執筆された報恩抄では「正く摩耶経には六百年に馬鳴出で七百年に竜樹出でんと説かれて候」(0327:06)と、経文どおりの記述がなされている。
竜樹菩薩
仏滅後七百年ごろ、南インドに出現して、大乗の教義を大いに弘めた大論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」一巻、「十住毘婆沙論」十七巻、「中観論」四巻等がある。
大悲経
中国・北斉の那連提耶舎の訳。大悲華経ともいう。五巻。仏が涅槃の際に梵天・帝釈・迦葉・阿難などに法を付嘱し、滅後の正法護持者を予言している。
末田地
梵語マディヤーンティカ(Madhyantika)の音写。末田底迦、末田提とも書く。付法蔵の第三。阿難から法を受けて、師の滅後罽賓国(加湿弥羅国)に仏教をひろめた。大悲経には、北インドのカシミールの川に竜が住んでいたが末田地が神通力で退治したので、人々が住めるようになって伽藍を建てたという話が記されている。また玄奘の大唐西域記には、カシミールはもともと竜の住む湖であったが、末田地が神通力で大地としたという逸話が記されている。
正妙の二本
正とは、西晋の竺法護が0286年に訳した「正法華経」十巻のこと。妙とは、姚秦の鳩摩羅什が訳した「妙法蓮華経」八巻。
願兼於業
妙楽大師の法華文句記第八の三にある語。法師品の「薬王よ。当に知るべし、是の人は自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶ」の文を、妙楽大師がうけて「次に薬王ないし是の人、清浄の業報を捨ててとは、悲願牽くゆえになおこれ業生なり、いまだ通応あらず願いを業に兼ぬ」と釈した。ここでいう願いは願生、業は業生のことで、天台の迹門十妙の第九眷属妙を明かすなかに、五眷属(理性属、業生、願生、神通生、応生)として説かれている。業生とは過去世の罪業によって今世に生まれることであり、願生とは仏法弘通のために、過去世の誓願によって今世に生まれることをいう。すなわち、「願を業に兼ぬ」とは、法華経修行の功徳によって、安住の境涯に生ずべきところを、苦悩に沈んでいる一切衆生を哀れむがゆえに、みずから願って悪業をつくり、悪世に生まれて妙法を弘通することをいう。
講義
前章で、末法の法華経の行者は大難にあうべき文証を引き、ここでは、その文旨を釈されている。はじめに在世および正像の怨嫉を挙げ、いわんや末法の大怨嫉はさらにはなはだしきを示し、「されば日蓮が法華経の智解は……慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」と、大聖人の大慈悲、大功徳を挙げて疑いを立てている。千万が一分等とは、一にはご自身を卑下されて天台・伝教を立て、二には慈悲を相対して、大聖人の大慈大悲に天台・伝教の遠くおよばざるを示されている。すなわち法華経を解釈し、法華経を弘通するのは天台・伝教の役目であり、しかも天台・伝教は法華経の最高権威者であって、像法時代にこれを広宣流布させている。さて末法に入ると、法華経はすでに白法隠没して何の効力もなくなる。この時に天台・伝教すら恐れをいだくような、大慈大悲の仏さまが出現する。これすなわち日蓮大聖人である。以上が釈迦仏法の予言であり、しかも日蓮大聖人が現実にこれを証明しているとの意である。これほど秀れた日蓮大聖人がなぜ大難にあうのかと、疑いを強く立てて、法華経の行者であらせられるゆえんを断定されるのである。
わが身が法華経の行者にあらざるか、また諸天善神等、この国を捨てて去り給えるか、かたがた疑わしとおおせある御文は、大聖人が法華経の行者にあらせられるならば、諸天善神の加護がなければならないはずである。大聖人が法華経の行者でないならば、諸天善神の加護がないのが当然である。しかして、後段において述べるがごとく、釈尊の予言のごとくに、大聖人は法華経の行者にてあらせられる。しかりとせば、諸天善神はどうしているのかということが問題になる。すなわち大聖人が立正安国論においてお述べのごとく、諸天善神が国を捨て去り給うがゆえに、加護の力があらわれなかったと見るべきである。
しかるに、法華経第五の巻・勧持品の二十行の偈は、日蓮だにもこの国に生まれずば、ほとんど世尊は大妄語の人、八十万億那由佗の菩薩は、提婆が虚誑罪にも堕ちぬべしの文について考うるに、次下の文は、大聖人が勧持品の偈に符節を合わせており、かつ大聖人在世の仏教界の現状は、また二十行の偈に読まれているのである以上、仏には妄語なく、また大聖人は法華経の行者であること疑いない。かつ、「例せば」において仏に妄語なきを説かれ、大聖人が法華経の行者なるを確信せるを立証せられているのである。されば当時の責めは耐うべくもなけれども、未来の悪道を脱すらんとをもえば悦びなりとおおせられて、強き強き法華経の行者なりとのおおせは、みずから仏なりとのおおせと拝すべきである。
ここに日蓮門下の考えねばならないことは、大聖人は法華経の行者、すなわち末法の御本仏である以上、顕仏未来記に大聖人の仏法を予言せられている点である。末法において真の仏法はただ一つであり、ひとまず東洋へ広宣流布するとの予言に対して、門下生は仏のことばを妄語にしてはならぬのではないか。深く考うべきは、このことである。
第二十八章 疑いを挙げて法華経行者なるを釈す
本文
但し世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん、諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし。
現代語訳
末法の現世には三類の強敵があり、法華経の行者として日蓮が出現している。しかるに日蓮は、度重なる大難を受けている。これに対し世間の人々は、日蓮が法華経の行者であることを疑い、また自分自身もこれを疑わざるをえないような事件が、つぎつぎと起きている。どうして諸天善神は、法華経の行者たる日蓮を扶けないのか。諸天等の守護神は、釈迦仏の法華経の会座で法華経の行者を守護すると誓っている。法華経の行者に対しては、たとえ行者が猨になっておっても、法華経の行者ですと言えば早急に仏前の誓いをとげるべきであると思うのに、それがないのは、わが身が法華経の行者でないのか。この疑いは、この開目抄の肝心であり、日蓮一期の大事であるゆえに、処々にこれを書き、疑を強くして答えを設けよう。
語釈
仏前の御誓言あり
諸天善神が、仏滅後、法華経の行者を守護するとの誓いである。法華経安楽行品にいわく「諸天は昼夜に、常に法の為めの故に、而も之れを衛護し、能く聴者をして皆な歓喜することを得せしめん。所以は何ん、此の経は、是れ一切の過去・未来・現在の諸仏の神力もて護りたまう所なるが故に」、またいわく「天の諸の童子は以て給使を為さん刀杖も加えず毒も害すること能わじ 若し人は悪み罵らば口は則ち閉塞せん遊行するに畏れ無きこと師子王の如く智慧の光明は日の照らすが如くならん」と。
また陀羅尼品では、薬王・勇施等の菩薩、毘沙門天、持国天、十羅刹女、鬼子母神などが、つぎつぎと法華経の行者を守護せんと誓いをなしている。鬼子母神、十羅刹女が仏前の誓いにいわく「若し我が呪に順ぜずして 説法者を脳乱せば 頭破れて七分に作ること 阿梨樹の枝の如くならん」。
講義
なぜこのように強く疑いを設けられたか。「此の疑いは此の書の肝心・一期の大事」とおおせられている。すなわちこの疑いというのは、日蓮大聖人が末法の法華経の行者であるとの断定であり、これを断定されることが末法下種の三徳をあらわすゆえんであり、末法の御本仏すなわち、人の本尊をあらわすゆえんである。すなわち開目抄を人本尊開顕の書と日寛上人のおおせられるは、大聖人ご自身の、おことばであらせられるのである。
第二十九章 二乗の法華深恩を論ず
本文
季札といひし者は心のやくそくを・たがへじと王の重宝たる剣を徐君が墓にかく・王寿と云いし人は河の水を飲んで金の鵞目を水に入れ・公胤といひし人は腹をさいて主君の肝を入る・此等は賢人なり恩をほうずるなるべし、況や舎利弗迦葉等の大聖は・二百五十戒・三千の威儀・一もかけず見思を断じ三界を離れたる聖人なり、梵帝・諸天の導師・一切衆生の眼目なり、而るに四十余年が間・永不成仏と嫌いすてはてられて・ありしが法華経の不死の良薬をなめて燋種の生い破石の合い・枯木の華菓なんどならんとせるがごとく仏になるべしと許されて・いまだ八相をとなえず・いかでか此の経の重恩をば・ほうぜざらん、若しほうぜずば彼彼の賢人にも・をとりて不知恩の畜生なるべし、毛宝が亀はあをの恩をわすれず昆明池の大魚は命の恩をほうぜんと明珠を夜中にささげたり、畜生すら猶恩をほうず何に況や大聖をや、阿難尊者は斛飯王の次男・羅睺羅尊者は浄飯王の孫なり、人中に家高き上証果の身となつて成仏を・をさへられたりしに八年の霊山の席にて山海慧・蹋七宝華なんど如来の号をさづけられ給う、若し法華経ましまさずば・いかに・いえたかく大聖なりとも誰か恭敬したてまつるべき、夏の桀・殷の紂と申すは万乗の主・土民の帰依なり、しかれども政あしくして世をほろぼせしかば今に・わるきものの手本には桀紂・桀紂とこそ申せ、下賤の者・癩病の者も桀紂のごとしと・いはれぬればのられたりと腹たつなり、千二百・無量の声聞は法華経ましまさずば誰か名をも・きくべき其の音をも習うべき、一千の声聞・一切経を結集せりとも見る人よもあらじ、まして此等の人人を絵像・木像にあらはして本尊と仰ぐべしや、此偏に法華経の御力によつて一切の羅漢帰依せられさせ給うなるべし、諸の声聞・法華を・はなれさせ給いなば魚の水をはなれ猿の木をはなれ小児の乳をはなれ民の王を・はなれたるが・ごとし、いかでか法華経の行者をすて給うべき、諸の声聞は爾前の経経にては肉眼の上に天眼慧眼をう法華経にして法眼・仏眼備われり、十方世界すら猶照見し給うらん、何に況や此の娑婆世界の中法華経の行者を知見せられざるべしや、設い日蓮・悪人にて一言・二言・一年・二年・一劫・二劫・乃至百千万億劫・此等の声聞を悪口・罵詈し奉り刀杖を加えまいらする色なりとも法華経をだにも信仰したる行者ならばすて給うべからず、譬へば幼稚の父母をのる父母これを・すつるや、梟鳥が母を食う母これをすてず・破鏡父をがいす父これにしたがふ、畜生すら猶かくのごとし大聖・法華経の行者を捨つべしや、
現代語訳
季札という人は自分の心の内で約束していたとおり、王の重宝たる剣を徐君の墓にかけて心の約束を果たしたという。王寿という人は河の水を飲み、ただではすまないと思って、金の鵞目を代金として河の中に入れた。公胤という人は主人が殺されて恥ずかしめられているのを見て、主君の肝を自分の腹の中へ押し入れて死んだという。これらの人はみな賢人であって、それぞれ恩を報じたのである。
いわんや舎利弗・迦葉等の大聖は二百五十戒・三千の威儀が一つも欠けることなく、見思の惑を断じて三界を離れた聖人たちである。梵天・帝釈は諸天の導師であり一切衆生の眼目である。これら二乗も諸天も、四十余年の爾前経では「永く成仏することがない」と、きらい捨て果てられてあったが、法華経の不死の良薬たる永遠の生命観を聞いて、たちまち成仏すべしと許された。それは燋れる種が芽を生じ、破れた石が合い、枯木に華が咲き菓がなるようなものである。しかしまだ未来の成仏を許されたのみで八相成仏を現じていない。どうして法華経の重恩を報じないでいられようか。もし報じないならば、外道の賢人たちにも劣る不知恩の畜生である。
毛宝に救われた亀は、毛宝が自分の衣類を売って救ってくれた恩を報じ、昆明池の大魚は、漢の武帝に救われた恩を報じようとして、明珠を夜中に捧げたと伝えられている。畜生すらかくのごとく恩を報じているから、まして舎利弗・迦葉等の大聖が恩を報じないわけがあろうか。阿難尊者は斛飯王の次男で釈尊の従弟であり、羅睺羅尊者は浄飯王の孫で釈尊の子である。世間の人々の中では家柄が高い上、爾前経では声聞の道を修業し、証果の身となって、成仏できないとおさえられていたのに、八年の法華経を説かれる席では、山海慧および蹈七宝華などと如来の号をさずけられたのである。もし法華経が説かれないならば、どんなに家柄が高く大聖といわれていても、だれが恭敬するだろうか。
夏の桀・殷の紂と申すは、万乗の主であり土民の帰依するところであった。しかれども、悪政のため世をほろぼしてしまったので、今日でも悪人の手本には桀紂・桀紂というではないか。下賎の者や癩病の者でさえも「お前は桀紂のようだ」といえば、バカにされたと思って腹が立つのである。このように、国王であっても、無徳ならば、だれも崇めることはないのである。千二百の声聞も無量の声聞も、法華経が説かれなかったならば、だれがその名すら聞くことがあろうか。またこれらの声聞が出す声も、習うことはないはずである。一千の声聞が一切経を結集したと見る人もないであろう。ましてこれらの人々を絵像・木像にかきあらわして本尊とあおぐわけがない。これひとえに法華経の御力によって一切の羅漢たちは大衆に帰依される身となったのである。もろもろの声聞は法華経から離れたならば、魚が水から離れ、猿が木から離れ、小児が乳をはなれ、民が王から離れたようなものである。どうして法華経の行者を捨てようか。
もろもろの声聞は、爾前の経では肉眼の上に天眼・慧眼を得た。その上、法華経では、法眼・仏眼をそなえたのである。十方世界すらなお照見されているであろうから、この娑婆世界にいる法華経の行者を知見できないわけがない。たとい日蓮が悪人であって一言・二言あるいは一年・二年・一劫・二劫ないし百千万億劫の間、これらの声聞を悪口罵詈し刀杖をも加えてきたとしても、法華経さえ信仰している行者であるならば、捨て去ることがないはずである。たとえば幼稚の者が父母の悪口を言ったからとて、父母がこれを捨てようか。梟鳥は自分の母を食うけれども、母はこれを捨てない。破鏡は自分の父を殺すけれども、父は子のなすがままに従っている。畜生すらこのとおりである。まして釈尊のお弟子たる大聖が、法華経の行者を捨てようか。絶対に捨てるわけがないのである。
語釈
季札
前六世紀、中国・春秋時代の呉の賢人。呉王・寿夢の第四子。寿夢は季札が賢明であったので位を譲ろうとしたが、季札は受けず、延陵に封じられたので延陵の季子として知られる。あるとき、晋へ使者として行く途中、徐の国を通った。徐君は季札の身につけている宝剣が気に入り、ほしいと思ったが、口には出さなかった。季札も徐君の心を察したが、使者の途中なので献上せず、帰りに贈ろうと心に誓った。ところが、帰りに訪れたとき、徐君は既に亡くなっていた。そこで、心の誓いを果たすため、剣を徐君の墓の樹に掲げ置いて去ったという。季札挂剣といわれ、信を重んじるたとえとして名高い。
王寿
伝未詳。
公胤
開目抄第二章(儒家の三徳)に既出。弘演のこと。中国の春秋時代、前六六〇年頃、衛の懿公に仕えた忠臣。「呂氏春秋」巻十一〈仲冬紀‧忠廉篇〉、「韓詩外伝」七、「魏志」陳矯伝などによれば、弘演が使者としての役目を終えて帰国したところ、衛は狄(北方民族)に攻め滅ぼされており、主君の懿公は殺され、その遺体の内臓が散乱しているのを見て、主の名誉を守るため自分の腹をさいて、懿公の臓物を収めて死んだという。
八相
仏が応身または化身を現じて、作仏を中心とする八種の相を示現して、説法教化することをいう。すなわち、①下天、②託胎、③出胎、④出家、⑤降魔、⑥成道、⑦転法輪、⑧入涅槃である。
毛宝が亀
「捜神記」によると、中国・晋代に毛宝という少年が、河辺で漁師が一匹の白亀を捕ったのを見た。毛宝は哀れにおもい、自分の着物と交換して買い受け、これを河に放ってやった。二十年後、毛宝が予州の刺史となり邾城の守備の任についていた時、石虎将軍(李広)と戦い、敗れて城は陥落した。毛宝は城を逃がれて河岸へたどり着いたが、乗るべき舟がなく、川に身を投げた。すると、大きな石の上に居る心地がして、次第に浮かび上がり、川岸にたどり着いて助かった。毛宝が見ると、なんと昔、放してやった白い亀であった。「あを」とは衣類のことである。
昆明池の大魚
昆明池は、前漢の武帝が水戦訓練のために都の長安(西安)に造った大池である。帝がこの池で大魚を釣ったが、糸が切れて逃げてしまった。すると、その魚は帝の夢の中に現れて、釣針をのみこんで苦しいから、はずしてほしいと懇願した。その翌日、帝が昆明池に行ってみると、はたして釣針をのんでいる大魚を発見し、釣針を取り除いて池に放してやった。帝は、のちに明珠を手に入れたが、これは魚が帝の恩を報いたものだと伝えられている。
夏の桀
中国古代の夏王朝最後の王である桀王のこと。名は履癸。妺嬉を溺愛し、政道を顧みなかった。徳を修めず暴虐で、諌める忠臣の首をはねるなど百官を殺傷したという。人心が離れ、殷の湯王に滅ぼされた。
殷の紂
紀元前十一世紀ごろ、中国古代の殷王朝最後の王である紂王のこと。名は辛。才智・体力にすぐれていたが、妲己を溺愛し、酒池肉林をつくって終夜の宴にふけり、良臣を殺し、民を苦しめるなどの悪政をしいたといわれる。夏の桀王とともに桀紂と並称されて悪王の代表とされる。周の武王に滅ぼされ、殷王朝は崩壊した。
肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼
肉眼とは普通の人間の眼。天眼は天界所具の目で、近くでも遠くでも、昼でも夜でも物事を見ることができる。慧眼は二乗の人が空無相の理を見る智慧の目で、われわれ凡夫においては深い知識・体験にもとづく判断力といえる。ここまでは外道・爾前経でも得ることができる。法眼とは、菩薩がもろもろの仮名の法に達して誤らず、一切衆生を度するために法門を照了する智慧の目で、われわれの立ち場でいえば、仏法の法則の上から一切の事物を判断する力。仏眼は、三世十方にわたり、一切の事物を見通す仏の目をいう。これらを五眼という。
梟鳥が母を食う・破鏡父をがいす
梟鳥はフクロウのこと。俗に成長すると母を食うといわれるので、母食鳥とも不孝鳥ともいう。破鏡は破獍とも書く。ムジナの一種で、父を食うといわれる。史記の封毒書等にある。
講義
本章は、二乗の守護なきを疑う文で、この項においては、二乗が法華の深恩を報ずべき道理を示されている。
思うに、人として恩を知り恩に報ずればこそ、他の生類と異なるゆえんがあるのである。好き嫌いを基調としたり、強きにのみ従ったり、迷ったりして、恩を知らず恩を報ぜざるは、じつに人にして人にあらざるものである。ひたすら現在の世相を見るに、人の道たるべき知恩・報恩の者がごく稀である。ここに、社会の乱れや恨みの生活が生ずるのである。この世相を一新せんとすれば、すべからく一乗妙法を弘通して、いっさいの民衆に帰趣する所を知らしめなくてはならない。
また世に子多しといえども、親の恩を知り親の恩を報ずる者が、幾人あろうか。それも、生きているうちに、恩を報じたような形の者もいくぶんあるであろうが、死んだ親に恩を報ずる者は皆無といってよいであろう。その人々は恩を報ずるのが嫌いなのではなくて、恩を報ずる道を知らないのである。すなわち永遠の生命を知らざるがゆえに、親が黄泉においていかに悩みつつあるかを理解せず、死後の生命の悩みをいかにしたら救い得るかを求めないがゆえである。
生きている間に親に孝行するとしても、その孝行の方法はいかなるものであるかを、現代の人は知る者がごく少ない。すなわち親に衣食を供するを下品の孝となし、親の意に違わざるを中品の孝となし、親に功徳を回向するを上品の孝となすのである。上品の孝とは、三大秘法の真の仏法を知らしめて永遠の幸福を得さしめることで、死後にいたっては、この三大秘法の利益によって冥土へ功徳を回向することである。
第三十章 昔の弾訶を引証す
本文
されば四大声聞の領解の文に云く「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に阿羅漢なり諸の世間天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし、世尊は大恩まします希有の事を以て憐愍教化して我等を利益し給う、無量億劫にも誰か能く報ずる者あらん手足をもつて供給し頭頂をもつて礼敬し一切をもつて供養すとも皆報ずること能わじ、若しは以て頂戴し両肩に荷負して恒沙劫に於て心を尽して恭敬し又美膳・無量の宝衣及び諸の臥具・種種の湯薬を以てし、牛頭栴檀及び諸の珍宝を以て塔廟を起て宝衣を地に布き斯くの如き等の事を以用て供養すること恒沙劫に於てすとも亦報ずること能わじ」等云云。
諸の声聞等は前四味の経経にいくそばくぞの呵嘖を蒙り人天大会の中にして恥辱がましき事・其の数をしらず、しかれば迦葉尊者の渧泣の音は三千をひびかし須菩提尊者は亡然として手の一鉢をすつ、舎利弗は飯食をはき富楼那は画瓶に糞を入ると嫌わる、世尊・鹿野苑にしては阿含経を讃歎し二百五十戒を師とせよなんど慇懃にほめさせ給いて、今又いつのまに我が所説をば・かうはそしらせ給うと二言・相違の失とも申しぬべし、例せば世尊・提婆達多を汝愚人・人の唾を食うと罵詈せさせ給しかば毒箭の胸に入るがごとく・をもひて・うらみて云く「瞿曇は仏陀にはあらず我は斛飯王の嫡子・阿難尊者が兄・瞿曇が一類なり、いかにあしき事ありとも内内・教訓すべし、此等程の人天大会に此程の大禍を現に向つて申すもの大人・仏陀の中にあるべしや、されば先先は妻のかたき今は一座のかたき今日よりは生生・世世に大怨敵となるべし」と誓いしぞかし、此れをもつて思うに今諸の大声聞は本と外道・婆羅門の家より出でたり、又諸の外道の長者なりしかば諸王に帰依せられ諸檀那にたつとまる、或は種姓・高貴の人もあり或は富福・充満のやからもあり、而るに彼彼の栄官等をうちすて慢心の幢を倒して俗服を脱ぎ壊色の糞衣を身にまとひ白払・弓箭等をうちすてて一鉢を手ににぎり貧人・乞丐なんどの・ごとくして世尊につき奉り風雨を防ぐ宅もなく身命をつぐ衣食乏少なりし・ありさまなるに五天・四海・皆外道の弟子・檀那なれば仏すら九横の大難にあひ給ふ、所謂提婆が大石をとばせし阿闍世王の酔象を放ちし阿耆多王の馬麦・婆羅門城のこんづ・せんしや婆羅門女が鉢を腹にふせし、何に況や所化の弟子の数難申す計りなし、無量の釈子は波瑠璃王に殺され千万の眷属は酔象にふまれ、華色比丘尼は提婆にがいせられ迦盧提尊者は馬糞にうづまれ目犍尊者は竹杖にがいせらる、其の上六師同心して阿闍世・婆斯匿王等に讒奏して云く「瞿曇は閻浮第一の大悪人なり、彼がいたる処は三災七難を前とす、大海の衆流をあつめ大山の衆木をあつめたるが・ごとし、瞿曇がところには衆悪をあつめたり、所謂迦葉・舎利弗・目連・須菩提等なり、人身を受けたる者は忠孝を先とすべし、彼等は瞿曇にすかされて父母の教訓をも用いず、家をいで王法の宣旨をも・そむいて山林にいたる、一国に跡をとどむべき者にはあらず、されば天には日月・衆星・変をなす地には衆夭さかんなり」なんど・うつたう、堪べしとも・おぼえざりしに又うちそうわざわいと仏陀にもうちそい・がたくて・ありしなり、人天大会の衆会の砌にて時時呵嘖の音をききしかば・いかにあるべしとも・おぼへず只あわつる心のみなり、其の上大の大難の第一なりしは浄名経の「其れ汝に施す者は福田と名けず汝を供養する者は三悪道に堕す」等云云、文の心は仏・菴羅苑と申すところに・をはせしに梵天・帝釈・日月・四天・三界諸天・地神・竜神等・無数恒沙の大会の中にして云く須菩提等の比丘等を供養せん天人は三悪道に堕つべし、此等をうちきく天人・此等の声聞を供養すべしや、詮ずるところは仏の御言を用つて諸の二乗を殺害せさせ給うかと見ゆ、心あらん人人は仏をも・うとみぬべし、されば此等の人人は仏を供養したてまつりしついでに・こそ・わづかの身命をも扶けさせ給いしか、
現代語訳
されば法華経信解品に四大声聞が領解していわく「われらは今こそ真に仏の声を聞いた声聞である。仏道の声をもって一切をして聞かしむるであろう。われらは今真に阿羅漢である。もろもろの世間・天人・魔・梵の中にあって普くその供養を受けるであろう。世尊は大恩ましまして、希有の事をもってわれらをあわれみ教化して利益を与えてくださったのである。無量億劫にもだれかその恩を報ずることができようか。手足をもって仏さまに供養し、頭を地につけて礼拝し、一切をもって供養し奉っても、みな仏恩を報ずることはできないのである。もしは仏の身を頂戴し両肩に荷って恒沙劫の間・心をつくして恭敬し、また美味の膳を供え無量の宝衣および、もろもろの寝具、種々の薬湯をもって供養し、牛頭栴檀およびもろもろの珍宝をもって塔廟をたて宝衣を地に布き、このようにして恒沙劫の間、あらゆる御供養を申し上げても、また仏恩を報ずることはできないのである」と四大声聞はいっている。
もろもろの声聞らは、前四味の爾前経においては、どれほどの呵嘖をこうむり、人天大会の中で、恥辱がましきことを数知れず受けた。そのゆえに、迦葉尊者の泣き叫ぶ声は三千世界をひびかし、須菩提尊者はぼう然として手の一鉢を捨てた。舎利弗は食べている飯を吐き出し、富楼那は宝器に糞を入れているような下劣な人間であると嫌われた。
世尊は初めて成道した時、鹿野苑において阿含経を讃歎し、二百五十戒を師として修業せよなどと、ねんごろにほめさせ給うておきながら、今また、いつの間に自分の所説を、このようにまでそしり、声聞の弟子を弾呵されるのであろうか。一仏二言で前後の相違する失というべきである。たとえば、世尊は提婆達多を「汝は愚人で、人の唾を食う」と罵詈されたので、提婆は毒の箭が胸に食いいるごとき思いで怨んでいわく「釈迦は仏ではない。自分は斛飯王の嫡子であり、阿難尊者の兄で、釈迦とは従兄弟の仲にある。どんなに悪いことがあったからとて、内々に教訓すべきである。これほど大衆の面前で一族の者を痛罵するような非常識の者は、大人とか仏陀の中にありえないであろう。されば、釈迦出家以前には恋人を奪われた敵であり、今は一座の敵である。今日よりは生生・世世に、必ず釈迦の大怨敵となるべし」と誓ったのである。
これをもって思うに、今もろもろの大声聞は外道の婆羅門の家から出ている。また、もろもろの外道の長者であったから、諸国の王に帰依され、多くの檀那に尊ばれていた。あるいはその種姓が高貴の人もあり、あるいは富福が充満している者もあったのである。しかるに声聞の弟子たちは、これらの栄官等を打ち捨て慢心を打ち捨て折り伏せ、俗服を脱ぎ薄墨色の糞衣を身にまとい、白払・弓箭等をうちすて一鉢を手ににぎり、貧乏人や乞食のようになって釈尊にしたがったのである。風雨を防ぐ宅もなく、身命をつぐ衣食も乏しくて、難行・苦行をかさねたのである。その上、全国はこぞってみな外道の弟子・檀那であったから、釈尊すら九度も大難にあわれた。すなわち提婆が大石を転がして殺害しようと企て、阿闍世王は釈尊が乞食に出た時に酔象を放って殺そうとし、阿耆多王は九十日の間、馬の麦を釈尊と弟子に与えた。婆羅門城下を乞食した時は、下婢より腐った食物を与えられ、旃遮婆羅門の女が鉢を腹にふせて、釈尊の子供を生むのだといって誹謗し等々の難を受けたのである。
仏ですらこのとおりで、まして弟子たちの受けた迫害は申すまでもない。無量の弟子たちは波瑠璃王に殺され、千万の眷属は酔象に踏みにじられ、華色比丘尼は提婆に害せられ、迦廬提尊者は馬糞に埋められ、目連尊者は竹杖外道に殺害された。その上、六師外道は共謀して阿闍世王や婆斯匿王等に讒奏していわく「瞿曇(釈迦)は閻浮第一の大悪人である。かれが行くさきざきでは、三災七難が競い起こっている。それはあたかも大海にあらゆる河川の流れを集め、大山に衆木を集めているようなもので、釈迦のところにはあらゆる邪悪を集めている。いわゆる迦葉・舎利弗・目連・須菩提等がこの悪人の標本である。人間に生まれてきた以上は、忠孝をまず第一としなければならないのに、彼らは釈迦に迷わされて父母の教訓を用いることなく出家し、王法の宣旨にも背いて世を捨て、山林に遁れている。このような不忠不孝の者は、一国に跡をとどむべき者ではない。そのゆえに天には日月・衆星が変をなし、地には多くの不祥事が盛んに起きている」などといって訴えている。
まったく堪えられないほどの難を受けている上に、さらに釈尊からも不成仏の者と嫌われていた。人天大会の説法の座で、時々呵責の声を聞くのでどうしてよいかもわからず、あわてる心のみであった。その上、これらの中で第一の大難は、浄名経に「声聞の弟子たちに布施する者は福田と名づけず、ただかえって三悪道に堕ちる」と説かれていることである。文の意は、仏が菴羅苑という所にいた時に、梵天・帝釈・日月・四天・三界の諸天・地神・竜神等、無量無数の大会の中において、説法していわく、「須菩提等の比丘等を供養する天人は三悪道に堕ちるべし」といったのである。これを聞いた天人たちは、これらの声聞に供養するはずがない。結局は仏のお言葉をもって、もろもろの二乗の弟子を殺害されるのかとすら思われた。心あらん人々はかえって釈迦仏をも、うとんだであろう。されば、これらの人々は仏を供養し奉るついでにこそ、わずかの供養を得て身命を保っていたのであろう。
語釈
牛頭栴檀
南天竺の牛頭山(摩羅耶山)に産する栴檀から製するので、牛頭栴檀という。赤銅色の栴檀で、赤栴檀ともいう。麝香の香のする香料で、古来、万病を除く効能があるといいならわされている。
迦葉尊者の渧泣の音は三千をひびかし
摩訶迦葉は釈尊のもとに加わり、小乗の大聖者として見思の煩悩を断じたが、大乗教・維摩経の会座では、維摩詰の菩薩不可思議解脱法門を聞いて「我らは大乗において敗種のごとし」と泣き、その声は三千大千世界を振わしたという。
須菩提尊者は亡然として手の一鉢をすつ
維摩経で、維摩居士(維摩詰)が病気になったのを釈尊が須菩提に見舞いを命ずる。須菩提が、その任に堪えられずと答えていうのに、かつて維摩詰が鉢に食べ物を盛りながら小乗の沈空を呵責し、もし君がこれを受けられるなら食べなさいといって渡した。須菩提は鉢をおいて去った、という話を釈尊にした。
舎利弗は飯食をはき
舎利弗が方等経で釈尊から「不浄食を食す」と呵責されたことをさすものと思われる。
富楼那は画瓶に糞を入ると嫌わる
維摩経に説かれる。富楼那が新学の比丘のために法を説いたとき、維摩が来ていうのに「富楼那よ、まずこれらの人の心を観じて、しかるのちに説法せよ。穢食を宝器に入れるようなことではいけない」と語ったとある。
鹿野苑
梵語ムリガダーヴァ(Mṛgadāva)の訳。古代インドの波羅奈国(ヴァーラーナシー)にあった園林。現在のヴァーラーナシーの北方にあるサールナート(追記参照)に位置する。釈尊が苦行を捨てて菩提樹下で初めて覚りを開いたのち、この鹿野苑において阿若憍陳如ら五人の比丘に初めて法を説いたので、初転法輪の地といわれる。この地は早くから仏教徒の巡拝が行われ、それに伴って仏塔や僧院などが建造され、付近からインド彫刻史上の傑作といわれるアショーカ石柱の獅子柱頭も出土している。
先先は妻のかたき
釈尊は出家前、悉達太子といったころ、インド第一の美女といわれた、拘利城主の女である耶輸多羅女をめとったが、提婆達多も姫に懸想していたので、これを深くうらんでいた。
壊色の糞衣
如法衣(法にかなった衣)の一つ。壊色とは、五正色(青・赤・白・黒・黄)と五間色(緋・紅・紫・緑・硫黄)を離れた混濁した色。古来インドでは白色が尊ばれたが、僧は在家の白色や正色、単純色を嫌い、木蘭色(黄、紅、赤の雑色)や泥色を衣に使用した。木蘭色とは、木蘭の樹皮で染めるのでこのように呼ぶ。また泥色が日本に入って薄墨色となった。大聖人御在世当時は天台宗の僧がこの薄墨色の衣を使用していた。糞衣とは、糞掃衣ともいい、もっともきたない衣のこと。僧は衣に執着をもってはならないとして、墓場などで拾いあつめた布きれを、一般人の好まない色に染めたといわれている。
白払
白い毛でつくったもので、蚊やはえを追った。一般に払子という。
九横の大難
①孫陀梨の謗。外道の美女であった孫陀梨が、外道にそそのかされて釈尊と関係があったといいふらしたこと。
②婆羅門城の金鏘。釈尊が婆羅門城を乞食していた時に、年老いた下婢が、供養する物がなくて、捨てようとした臭い米汁を供養した。その果報を説いた釈尊が一人の外道から嘘だと謗られたこと。
③阿耆多王の馬麦。阿耆多王の請いに応じた釈尊が五百人の弟子とともに毘蘭邑に行ったところが、王は遊び戯れて釈尊が来たことを忘れてしまい、九十日間も食事が出されなかったので、馬の餌となる麦を食べて飢をしのいだという難。
④瑠璃の殺釈。舎衛国の波瑠璃王が、釈迦族を、過去の怨みから滅ぼしてしまったこと。
⑤乞食空鉢。釈尊が乞食行をしていた時、婆羅門城に入ろうとしたところが、王が人々に布施と法を聞くことを禁じたので、釈尊は乞食をしても誰も供養しなかったという難。
⑥旃遮女の謗。婆羅門の旃遮女が、釈尊が説法をしている時に、腹に鉢を入れて紐で巻き結んで、釈尊の子を身ごもったといって釈尊を誹謗したこと。そのとき、帝釈天が神通力でネズミに変化して紐をかみ切ったため、鉢が落ちて嘘がばれてしまったという。
⑦調達が山を推す。提婆達多が釈尊を殺そうとして耆闍崛山から長さ三丈、幅一丈六尺もの大石を落とした難。その時、大石のかけらが釈尊の足の指に当たって血を出したという。
⑧寒風に衣を索む。冬至前後に、八夜の間、寒風が吹きすさんで、釈尊は三衣を求めて寒さを防いだという難。
⑨阿闍世王の酔象を放つ。阿闍世王が提婆達多にそそのかされて、悪象に酒を飲ませ、酔わせて釈尊の一行の中に放って釈尊を踏みつぶさせようとした難。
九横の大難の内容は、経文、御書により若干の相違がある。興起行経には「孫陀利の謗、奢弥跋の謗、頭痛、骨節痛、背痛、木槍刺脚、調達擲石、栴遮の謗、食馬麦、苦行」とある。大智度論には「孫陀利謗、栴遮女謗、提婆推山、迸木刺脚、琉璃殺釈、一夏馬麦、冷風背痛、六年苦行、乞食空鉢」とある。
華色比丘尼
釈尊の弟子。華色比丘尼、蓮華女ともいう。釈尊在世の弟子。大智度論巻十四によれば、釈尊を圧し殺そうとして山から岩を落とした提婆達多に対し、その非を責めたため提婆達多に拳で打ち殺されたという。
迦廬提尊者
梵名カーローダーイン(Kālodāyīn)の音写。迦留陀夷とも書く。黒光・黒曜と訳す。からだが黒く、輝いていたので、この名がある。出家して仏弟子となったが、破戒の行為が多かった。しかし、阿羅漢果を得てから改め、舎衛国の九百九十九家を教化した。そして、千家目にバラモンの家を教化している時、その家の子の夫人が賊の首領と密通していることが迦盧提に知られたと思い込み、賊に殺させた。その首は切られて馬糞にうずめられたという。
目犍尊者
摩訶目犍連のこと。釈尊の声聞十大弟子の一人で神通第一。釈尊入滅の前に羅閲城で托鉢の修行をしていたとき、竹杖外道にかこまれた。いったんはのがれたが、過去世の宿業であることを知って自ら外道に殺されて業を滅したといわれる。
菴羅苑
菴羅は梵語でマンゴーのこと。菴羅苑とは、中インドの毘舎離国にあった庭園。ここで維摩経などが説かれた。
講義
本章は、二乗は法華経でのみようやく成仏を許されたのであるから、当然に法華経の行者を守護すべきであるとの引証である。
世尊大恩について
御義口伝にいわく、
「世尊とは釈尊大恩とは南無妙法蓮華経なり、釈尊の大恩を報ぜんと思わば法華経を受持す可き者なり是れ即ち釈尊の御恩を報じ奉るなり……今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて日本国の一切衆生を助けんと思うは豈世尊の大恩に非ずや」(0727:世尊大恩の事:01)
この四大声聞の領解は、求めずしてみずから得たる仏の境涯を感謝しつくし、人法ともに恩を報ぜねばならぬことを誓ったもので、声聞の誓願というべきものであろう。次下の文にあるがごとく、釈尊には弾呵され、仏敵には苦しめられ、進むことも退くこともできない境涯の声聞が、これを赦されて等覚を成じたのであるから、どれほどうれしかったかは、想像にあまりある。
もともと、仏がいかようにして菩薩・二乗・人天を指導したかというに、人として生まれてきた目的を明らかにして、その目的に向かっての指導である。しからば、人生の目的は何かというに、菩薩になることでもなく、二乗・天人の生活をすることでもない。ただ仏の境涯を成ずることが人生の目的であると仏は断じているのである。この仏の境涯は、在世には法華経、末法には南無妙法蓮華経による以外に、仏になる方法はないのである。詮ずるところは、法華経を説かんがための爾前経であって、このように法華経の立ち場より爾前経を見るのを絶待妙というのである。
提婆達多が仏に敵をなしたということもおもしろいことである。提婆達多は、過去においては、阿私仙人といって、釈尊の師匠であった。しかるに、このたび釈尊化導の終わりとして出世するに当たり、かれもまた、ともに出世して仏敵の総大将となり、仏罰をこうむって仏威を助けた、じつにおもしろき因縁ではないか。最高の南無妙法蓮華経の境涯よりすれば、善悪一如というべきか。
また婆羅門が仏教に敵したということも、仏教興隆の前提であって、婆羅門なくんば、仏教があれほどすみやかに盛んにならなかったであろう、かく観ずれば、今日、日蓮宗に似たる偽仏教が山ほどできているのも、真実の仏教たる三大秘法の本尊流布の前提か。
第三十一章 二乗の守護無きを疑う
本文
されば事の心を案ずるに四十余年の経経のみとかれて法華八箇年の所説なくて御入滅ならせ給いたらましかば誰の人か此等の尊者をば供養し奉るべき現身に餓鬼道にこそ・をはすべけれ。
而るに四十余年の経経をば東春の大日輪・寒冰を消滅するがごとく無量の草露を大風の零落するがごとく一言一時に未顕真実と打ちけし、大風の黒雲をまき大虚に満月の処するがごとく青天に日輪の懸り給うがごとく世尊法久後・要当説真実と照させ給いて華光如来・光明如来等と舎利弗・迦葉等を赫赫たる日輪・明明たる月輪のごとく鳳文にしるし亀鏡に浮べられて候へばこそ如来滅後の人天の諸檀那等には仏陀のごとくは仰がれ給しか、水すまば月・影を・をしむべからず風ふかば草木なびかざるべしや、法華経の行者あるならば此等の聖者は大火の中をすぎても大石の中を・とをりてもとぶらはせ給うべし、迦葉の入定もことにこそ・よれ、いかにと・なりぬるぞ・いぶかしとも申すばかりなし、後五百歳のあたらざるか広宣流布の妄語となるべきか日蓮が法華経の行者ならざるか、法華経を教内と下して別伝と称する大妄語の者をまほり給うべきか、捨閉閣抛と定めて法華経の門をとぢよ巻をなげすてよと・ゑりつけて法華堂を失える者を守護し給うべきか、仏前の誓いはありしかども濁世の・大難のはげしさ・をみて諸天下り給わざるか、日月・天にまします須弥山いまも・くづれず海潮も増減す四季も・かたのごとく・たがはず・いかに・なりぬるやらんと大疑いよいよ・つもり候。
現代語訳
されば、釈迦仏法における二乗の作仏・不成仏ということの心を案ずるに、四十余年の爾前経のみを説かれて、法華経八箇年の説法がなくて釈尊が入滅したとすれば、だれの人がこれら声聞の弟子たちを供養するであろうか。おそらく供養する者もなく、現身に餓鬼道に堕ちたであろう。しかるに、四十余年の経々をば、春先の太陽が氷を消滅するがごとく、無量の草の露を大風が吹き落とすごとく、一言をもって一時に「未だ真実を顕わさず」と打ち消してしまった。しこうして、大風が黒雲を吹き散らし、大空に満月が輝いているごとく、青空に太陽が輝いているごとく「世尊の法は久しくして後要ず当に真実を説くべし」と照らさせ給いて、舎利弗は華光如来・迦葉は光明如来等と、赫赫たる太陽、明明たる満月のごとく法華経に説き示されたので、釈尊滅後の人天の諸檀那等から仏さまのごとく仰がれたのである。
水が澄むならば月は必ず影を浮べ、風が吹けば草木はなびくのである。そのように、法華経の行者があるならば、これらの聖者は大火の中をくぐってでも、大石の中を通ってでも、法華経の行者を訪うべきである。迦葉が入定したというのも事によりけりで、法華経の行者が難にあうをだまって見ておれるだろうか。不審きわまりないことである。後五百歳の予言があたらないのか、広宣流布は妄語となるべきか、日蓮が法華経の行者ではないのか。法華経を教内と下して教外別伝と称する大妄語の禅徒を守るべきであるのか。法華経を捨てよ閉じよ閣け抛て等と書いて法華の寺を失なわせる、念仏の徒を守護するのであろうか。仏前では法華経の行者を守護すると誓ったが、末法濁世の大難の激しさを見て、諸天は怖れをなして日蓮を守護しないのか。日月は天にまします。須弥山は今もくずれてはいない。海潮も増減し、春夏秋冬の四季も形のとおり違(たが)わないが、法華経の行者にさっぱり守護がないとはどうしたことか、と大なる疑いが、いよいよつもってくるのである。
語釈
迦葉の入定もことにこそ・よれ
付法蔵経によると、仏滅後に摩訶迦葉が化導を終え、法を阿難に付属して、インド伽耶城の東南にある鶏足山で入定した。三岳のあいだに草をしいてすわり、釈尊の経典と衣を奉持して、身は大形となり、世界に充満して、弥勒の出現を五十六億七千万歳待つという。だが、末法法華経の行者が大難にあっているのに、のんびり弥勒などを待っているバカがあるか、とのお叱りである。
法華経を教内と下して別伝と称する云云
禅宗の教義では、霊山会上で釈尊が、黙然として華を拈って大衆に示したところ、だれもその意味を理解することができなかった。そのなかに、迦葉だけがその意を悟り破顔微笑した。そして大梵天王問仏決疑経に「正法眼蔵・涅槃の妙心・微妙の法門あり、文字を立てず、教外に別伝して迦葉に付属す」とあり、迦葉から阿難、商那和修と付属され、達磨に伝えられたのが禅宗であるという。そして仏みずから「要当説真実」といった法華経を〝教内〟と下して正法を誹謗するがゆえに、禅宗は仏に敵対する魔の眷属と断ずるのである。
講義
最後に、二乗はたとえ大火をくぐっても、大石の中を通ってでも、法華経の行者があるならば、すぐ飛んできて守護すべきであると結び、それにもかかわらず、なぜ日蓮大聖人は大難にあうのか、禅や念仏の邪宗の者を守護しているのか、法華経は虚言であるのか、それとも末法の大難に恐れをなして守りにこないのか、と疑いを設けている。この疑いは前述のごとく、大聖人が法華経の行者であり、末法・主師親の本仏であるとの断定に導くためである。また、大聖人がなぜ難にあわれるかについては、下巻に詳述する。
「されば事の心を案ずるに四十余年の経経のみとかれて法華八箇年の所説なくて御入滅ならせ給いたらましかば誰の人か此等の尊者をば供養し奉るべき現身に餓鬼道にこそ・をはすべけれ」とおおせの御文は、ひとり釈尊在世の声聞に限るわけではない。もし釈尊がこの経文を説かざれば、在世の衆生はもちろん、正像二千年の大衆も、貧窮下賤の者のみで、一人として成仏するものはなかったであろう。同様に、末法に大聖人出現して、文底秘沈の大法たる南無妙法蓮華経をお説きくださらなかったならば、この世は闇にして、いかように悶えようとも民衆を真に助ける道はないであろう。
「如来滅後の人天の諸檀那等には仏陀のごとくは仰がれ給しか」との御文は、先におおせのごとく、法華経がましましたからであって、この原理のごとく、末法濁悪世のわれわれ凡夫は、大聖人の大慈悲によって、文底秘沈の三大秘法の御本尊様を受持するならば、大聖人と同様に法華守護の諸天善神に守られることを思えば、歓喜の極みである。されば、一日も早く真の仏法を日本の大衆に知らしめて、日本一国をして、法華守護の諸天善神に守らせなくてはならぬ。
第三十二章 菩薩等について爾前無恩を明かす
本文
又諸大菩薩天人等のごときは爾前の経経にして記莂を・うるやうなれども水中の月を取らんと・するがごとく影を体とおもうがごとく・いろかたち・のみあつて実義もなし、又仏の御恩も深くて深からず、世尊初成道の時はいまだ説教もなかりしに法慧菩薩・功徳林菩薩・金剛幢菩薩・金剛蔵菩薩等なんど申せし六十余の大菩薩・十方の諸仏の国土より教主釈尊の御前に来り給いて賢首菩薩・解脱月等の菩薩の請にをもむいて十住・十行・十回向・十地等の法門を説き給いき、此等の大菩薩の所説の法門は釈尊に習いたてまつるにあらず、十方世界の諸の梵天等も来つて法をとく又釈尊に・ならいたてまつらず、総じて華厳会座の大菩薩・天竜等は釈尊以前に不思議解脱に住せる大菩薩なり、釈尊の過去・因位の御弟子にや有るらん・十方世界の先仏の御弟子にや有るらん、一代教主・始成の正覚の仏の弟子にはあらず、阿含・方等・般若の時・四教を仏の説き給いし時こそ・やうやく御弟子は出来して候へ、此も又・仏の自説なれども正説にはあらず、ゆへ・いかんとなれば方等・般若の別・円・二教は華厳経の別・円・二教の義趣をいでず、彼の別・円・二教は教主釈尊の別・円・二教にはあらず、法慧等の大菩薩の別・円・二教なり、此等の大菩薩は人目には仏の御弟子かとは見ゆれども仏の御師とも・いゐぬべし、世尊・彼の菩薩の所説を聴聞して智発して後・重ねて方等・般若の別・円をとけり、色もかわらぬ華厳経の別・円・二教なり、されば此等の大菩薩は釈尊の師なり、華厳経に此等の菩薩をかずへて善知識ととかれしはこれなり、善知識と申すは一向・師にもあらず一向・弟子にもあらずある事なり、蔵・通・二教は又・別・円の枝流なり別・円・二教をしる人必ず蔵・通・二教をしるべし、人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり、例せば仏より前の一切の人天・外道は二天・三仙の弟子なり、九十五種まで流派したりしかども三仙の見を出でず、教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にて・ましませしが苦行・楽行・十二年の時・苦・空・無常・無我の理をさとり出してこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給いしか、又人天も大師とは仰ぎまいらせしか、されば前四味の間は教主釈尊・法慧菩薩等の御弟子なり、例せば文殊は釈尊九代の御師と申すがごとし、つねは諸経に不説一字と・とかせ給うも・これなり。
現代語訳
また諸大菩薩・天人等は、爾前の経々で記莂をうけ成仏すると説かれているようであるけれども、それは水中の月を取ろうとするごとく、影を体と思うごときものであって、形式的に成仏を許されているのみで実義はないのである。それゆえ爾前経を説いている釈尊の恩というものは、深いようでいて実は浅いのである。釈尊が最初成道の時にはまだ説教もないのに法慧菩薩・功徳林菩薩・金剛幢菩薩・金剛蔵菩薩などという六十余の大菩薩が、十方の諸仏の国土より教主釈尊の御前に集まりきたって、賢首菩薩・解脱月菩薩等の請に応じて、十住・十行・十回向・十地等の法門を説かれたのである。これらの大菩薩が説いた法門は、釈尊に習い奉ったのではない。十方世界のもろもろの梵天等も来て法を説いたが、また釈尊に習ったのではない。総じて、華厳の会座に集まった大菩薩・天竜等は釈尊以前に不思議解脱に住していた大菩薩である。釈尊の過去因位の修業時代の御弟子であろうか、十方世界の先仏の御弟子であろうか。いずれにしてもインドに生まれて三十歳で成道した釈迦の弟子でないことは明らかである。
阿含・方等・般若の時、蔵・通・別・円の四教を釈尊が説いた時にいたって、ようやく弟子ができてきたのである。これもまた釈尊のみずから説いた教えではあるが正説ではない。なぜならば、方等・般若の別円二教は華厳経の別円二教の範囲を出ていない。すなわち、これらの別円二教は、教主釈尊の教えではなくて法慧菩薩等の教えである。これらの大菩薩は、人目には釈迦仏の弟子であるかのように見えるけれども、かえって釈迦仏の師ともいうべきである。釈尊は、華厳の時に、彼の菩薩が説いた説法を聴聞して智慧を啓発してのち、かさねて方等・般若の別円をといたのである。方等・般若の別円は、華厳の別円とまったく同じである。であるから、これらの大菩薩は釈尊の師である
華厳経には、これらの菩薩を数え上げて善知識と説かれているのはこのゆえである。善知識というのは、一向に師匠というのでもなく、また一向に弟子という立ち場でもないことをいうのである。蔵通の二教は、また別円二教の枝流であるから、別円二教を知る人は必ず蔵通二経をも知るのである。人の師というのは弟子の知らないことを教えるのが師である。しかるに、始成の釈尊は、華厳の会座以上のものを教えていないから、師というわけにいかない。たとえば、釈迦仏より前のいっさいの人天・外道は、二天・三仙の弟子である。九十五種まで流派したけれども、結局は三仙の教えの範囲から出てはいない。教主釈尊も、外道の師から習い伝えて弟子となっていたが、苦行・楽行を十二年間つづけて苦・空・無常・無我の理を悟った時に初めて外道の弟子ではなくなり、「無師智」と名のられたのである。また人天も、釈尊を大師と仰ぎまいらせたのである。
されば前四味・四十余年の間は、釈尊は法慧菩薩等の御弟子である。たとえば文殊は釈尊の九代前のお師匠であるというようなものである。つねは諸経に「一字をも説かず」と説かせられたのもこれである。
語釈
法慧菩薩・功徳林菩薩・金剛幢菩薩・金剛蔵菩薩等
華厳経の四菩薩という。華厳の説法のうち、人中の三処と天上の四処があり、このうちの天上四処における説法主である。図示すると、
(説法主) (説処) (説法)
法 慧 …… 忉利天会(第三会)………十住法門
功徳林 …… 夜摩天会(第四会)………十行法門
金剛幢 …… 兜率天会(第五会)………十回向法門
金剛蔵 …… 他化自在天会(第六会)…十地法門
賢首菩薩・解脱月等の菩薩
華厳経の第六会、他化自在天宮の会座に、金剛蔵菩薩を上首として来集した諸菩薩。金剛蔵菩薩はこの会座で十地の名を説き、それを詳説しなかった。そこで解脱月等が大衆の心を知って、その義を解釈するように金剛蔵に請うた。二止三請して金剛蔵は十地の法門を開説したのが、華厳経の十地品である。
十住・十行・十回向・十地
菩薩の修行段階を、別教では五十二位と立てる。
十 信 …… 見思を伏す ………………… 外 凡
十 住 …… 見思を断じ塵沙を伏す …┐
十 行 …… 塵沙を断ず ………………├ 内 凡
十回向 …… 無明を伏す ………………┘
十 地 …… 十品の無明を断ず ………┐
等 覚 …… 同じく十一品を断ず ……├ 聖
妙 覚 …… 同じく十二品を断ず ……┘
四教
天台大師は釈尊一代の経教を五時と八教に分類し、八教をまた化法の四教と化儀の四教に分け、この化法の四教とは蔵教・通教・別教・円教である。①蔵教とは三蔵教の略で、三蔵教とは阿含経の意であり、六道内の因果の道理を明かす。②通教とは大乗の初めである。戒定慧の三学を説くけれども大旨は六道を出ない。蔵教にも通じ、後の別教にも通ずるゆえに通教という。③別教とは、前の蔵通二教とも、後の円教とも別なので別教という。この教には戒定慧の三学を述べ、ただ菩薩ばかりを対象として歴劫修行を説き、声聞・縁覚をまじえない。この教えの位を五十二位に説く。④円教とは、その法門が円融円満なるに名づける。円教に二あり、爾前の円と法華の円がこれである。爾前の円とは爾前経においても、凡夫が位の次第を経ないで成仏するとか、あるいは煩悩を断じないでも成仏すると説いている教えがあるのがそれである。法華の円については、三諦・十界互具・一念三千等である。
二天・三仙
古代インドのバラモン教でとくに崇拝された二天と三仙のこと。この二天三仙は神の啓示を得てヴェーダを説いたといわれる。二天とは摩醯首羅天と毘紐天をさし、三仙とは迦毘羅(数論派の祖)・漚楼僧佉(勝論派の祖)・勒沙婆(尼犍子外道の祖)をいう。
無師智
仏は師なくして悟りを得るので、仏の智慧を無師智という。
文殊は釈尊九代の御師
法華経序品第一にある。昔、日月燈明仏の世に、妙光菩薩という菩薩がいた。仏が涅槃してのち、仏の八人の王子が、みな妙光菩薩を師として無上菩提を得た。そして、最後に末子の王子が成仏して燃燈仏(燃灯仏)となった。生まれたときに、身の光りが灯のようであったために、成仏後も、燃灯仏と称した。錠光仏(定光仏)とも訳される。その師・妙光菩薩の後身が文殊菩薩である。また、太子瑞応本起経(瑞応経)巻上によると、釈尊が因位の修行のとき儒童菩薩として、五百の金銭で買い取った五茎の青蓮華を錠光仏(燃灯仏の別訳)に奉り、己の髪を道に敷いて仏に通らせた。その功徳をもって、仏は儒童菩薩に、「汝は将来仏となり、釈迦牟尼仏という名で世界の燈明となるであろう」と授記した。ゆえに、文殊菩薩(妙光菩薩を前身とする)の弟子が燃灯仏、その燃灯仏の弟子が釈尊(儒童菩薩を前身とする)であるところから、文殊を釈尊の九代前の師という。
講義
前章までは二乗について論じたが、これ以後は諸菩薩の守護なきを疑う段である。本章は爾前の経教において諸菩薩は成仏することができなかった。むしろ爾前経の別円二教は華厳の時、法慧菩薩等の説かれた教であって、釈尊はむしろその弟子に当たる、ゆえに菩薩は爾前経に無恩であるとの意が述べられている。
爾前の記莂について、爾前経で菩薩が成仏すると説いているのは、つぎのような理由がある。すなわち、二乗の不作仏を断ぜんがため二乗に対して菩薩は成仏すると説くのである。しかし、菩薩のみ特別に成仏すると説いても、十界の皆成成仏を説かないために有名無実であり、過去の下種結縁が説かれていないから、これまた有名無実という以外にない。
つぎに、華厳の時は釈尊が諸菩薩の弟子のようであると述べられているが、華厳経には処々に「仏力」等と説かれているから、菩薩も釈迦仏の御弟子であろうとの疑いが起こる。それに対しては、日寛上人はつぎのごとくおおせられている。すなわち「今は内証を論ずるのではなくて化儀を論じている。すでにこれらの菩薩は開権とか開迹等の法門をまだ聞いていないので、実の御弟子ではない。ゆえに今は化儀に寄せてこの義をあらわされているのである」と。
不説一字等について
一義にいわく「先師の所説の外に我一字をも説かず」の文を引かれて、四菩薩所説のごときを一字をも説かずの意とせられた、と。また一義には、止観第五の文を引いて「如来自証の本法をば一字をも説かず。すなわち法華の中にいたって始めてこれを説く」の意であるという。日寛上人は初めの義がよろしいとおおせられている。
「釈尊の過去・因位の御弟子にや有るらん」とは、この華厳会座の大菩薩等は、釈尊が過去世において仏にならんとするために修業した時の弟子であっただろうかの意である。すなわち果成の釈尊の御弟子ではないが、過去世に縁を結べるがゆえに出来せるという御意であろう。
また善知識とは、おおせのとおりであるが、この末法の仏法たる三大秘法の本尊に導く者は、すなわち善知識というのである。
第三十三章 法華の深恩を明かす
本文
仏・御年・七十二の年・摩竭提国・霊鷲山と申す山にして無量義経を・とかせ給いしに四十余年の経経をあげて枝葉をば其の中におさめて四十余年・未顕真実と打消し給うは此なり、此の時こそ諸大菩薩・諸天人等はあはてて実義を請ぜんとは申せしか、無量義経にて実義とをぼしき事一言ありしかども・いまだまことなし、譬へば月の出でんとして其の体東山にかくれて光り西山に及べども諸人月体を見ざるがごとし、法華経・方便品の略開三顕一の時・仏略して一念三千・心中の本懐を宣べ給う、始の事なればほととぎすの初音をねをびれたる者の一音ききたるが・やうに月の山の半を出でたれども薄雲の・をほへるが・ごとく・かそかなりしを舎利弗等・驚いて諸天・竜神・大菩薩等をもよをして諸天・竜神等・其の数恒沙の如し仏を求むる諸の菩薩大数八万有り・又諸の万億国の転輪聖王の至れる合掌して敬心を以て具足の道を聞かんと欲す等とは請ぜしなり、文の心は四味・三教・四十余年の間いまだ・きかざる法門うけ給はらんと請ぜしなり、此の文に具足の道を聞かんと欲すと申すは大経に云く「薩とは具足の義に名く」等云云、無依無得大乗四論玄義記に云く「沙とは訳して六と云う胡法に六を以て具足の義と為すなり」等云云、吉蔵の疏に云く「沙とは翻じて具足と為す」等云云、天台の玄義の八に云く「薩とは梵語此に妙と翻ずるなり」等云云、付法蔵の第十三真言・華厳・諸宗の元祖・本地は法雲自在王如来・迹に竜猛菩薩・初地の大聖の大智度論千巻の肝心に云く「薩とは六なり」等云云、
現代語訳
釈迦仏が御年七十二歳の時、摩竭提国・霊鷲山と申す山において無量義経を説かれた時に、四十余年の経々をあげて、枝葉の教をいっさいその中におさめて「四十余年には未だ真実を顕さず」と打ち消された理由はここにある。すなわち、この時こそ諸大菩薩・諸天人等は、あわてて「それでは真実の教えはどうか」と質問したのである。無量義経にては、実義とおぼしい事はただ一言説かれているけれども、まだ実義はあらわれていない。たとえば、月が出ようとしてその体はまだ東山に隠れており、光は西山を照らしているけれども、人々は月の体を見ないのと同じである。
法華経方便品の略開三顕一の時、仏は略して一念三千を説き、心中の本懐を述べられた。しかし始めてのことゆえ、ほととぎすの初音を寝とぼけた者が一音聞いたように、月が山の端から出てきたが薄雲がこれをおおっているごとく、かすかであった。舎利弗等は、驚いて諸天・竜神・大菩薩等を加えて、経文に「諸天・竜神等は、その数が恒沙のごとく多数であり、また仏を求めるもろもの菩薩の大数八万もあり、またもろもろの万億国の転輪聖王も集まってきて合掌して敬心をもって具足の道を聞かんと欲す」等とあるごとく、釈尊に対して真実の悟りを説法してくださいと請うたのである。この文の心は、四味・三教・四十余年の間、いまだ聞かざる法門をうけたまわりたいと請うたのである。この文に「具足の道を聞かんと欲す」ということは、大般涅槃経にいわく「薩とは具足の義に名づく」等云云と説かれている。また無依無得大乗四論玄義記にいわく「沙とは訳して六という。胡法(西域・インド)には六をもって具足の義となすのである」と。吉蔵の疏にいわく「沙とは翻じて具足となす」と。天台の玄義の八にいわく「薩とは梵語であり、中国のことばに妙と翻ずるのである」と。付法蔵の第十三であり真言・華厳・その他諸宗の元祖で、本地は法雲自在王如来・迹に竜猛菩薩と号した初地の大聖の大智度論千巻の肝心にいわく「薩とは六である」等と云云。
語釈
霊鷲山
中インド・摩竭提国(ガンジス川の下流域)の首都である王舎城の丑寅(東北)の方角にある。法華経の説処。梵名グリドゥラクータ(Gṛdhrakūṭa)、音写して耆闍崛山。その南を尸陀林といって、死人の捨て場になっていたため、鷲が飛来するので「鷲山」といい、三世諸仏成道の法である法華経が説かれたので「霊山」という。末法においては、御本尊のましますところこそ、霊鷲山であり、また、御本尊を受持する者の住所も、霊鷲山である。
大経
大般涅槃経の略。中国・北涼の曇無讖訳の四十巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した三十六巻本(南本)がある。
無依無得大乗四論玄義記
略して大乗四論玄義。唐の均正(慧均僧正)撰で十巻。
法雲自在王如来
「妙雲自在王如来」のこと。妙雲如来、妙雲相仏ともいう。密教で、竜猛菩薩の本地である仏。
吉蔵
(0549~0623)。中国・南北朝から唐代にかけての僧。三論宗の大成者。祖父または父が安息(パルチア)人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれ、嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)に住したので嘉祥大師と称された。姓は安氏。金陵(南京)の人。幼時、父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。十二歳で法朗に師事し、三論(中論・百論・十二門論)を学ぶ。隋代の初め、開皇年中に嘉祥寺で八年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わし、三論宗を立て般若最第一の義を立てた。その後、晋王広(後の煬帝)に招かれて揚州(江蘇省)の慧日道場に移り、諸経論の講義を行なった。また天台大師智顗とも交友があった。著作に「三論玄義」一巻、「中観論疏」十巻、「大乗玄論」五巻、「法華玄論」十巻、「法華遊意」一巻など数多くある。法華遊意では「二乗作仏を明かすことについては般若経よりも法華経が勝れているが、もし菩薩のために実恵と方便の二恵を明かす点では、般若経が勝れ法華経が劣る」として、般若経の智慧を最勝としている。
竜猛菩薩
付法蔵第十三祖(十四祖とも)竜樹のこと。玄奘らの新訳では竜猛という訳を用いる。弘法の秘密曼荼羅教付法伝では「唐には竜猛菩薩といい、旧に竜樹というは訛略なり」とあり、真言宗では竜猛と呼ぶ。
講義
「仏・御年七十二」の下は、法華の深恩を明かされている。その中で、はじめに迹門、つぎに本門であり、迹門はまた、はじめに序分、つぎに正宗分、つぎに下巻のはじめより流通分を引いて明かされている。
「無量義経にて実義とをぼしき事一言あり」とは「無量義は一法より生ず」との文である。これに一法より無量の法を生ずと明かしているが、いまだ無量の法が一法に帰一すべきことを説かれていないから、今文のごとくおおせられたのである。
つぎに「法華経方便品の時・仏略して一念三千を」云云とのおおせは、十如実相の文である。これを、ほととぎすや月に譬えられたのは、まだ一念三千の名のみあって実義がないからである。
「具足の道を聞かんと欲す」については、今文に詳述されているとともに、また、つぎの御文においても、さらに詳述されている。すなわち、
観心本尊抄に
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246:15)云云。
第三十四章 妙法蓮華経を釈す
本文
妙法蓮華経と申すは漢語なり、月支には薩達磨分陀利伽蘇多攬と申す、善無畏三蔵の法華経の肝心真言に云く「曩謨三曼陀没駄南帰命普仏陀唵三身如来阿阿暗悪開示悟入薩縛勃陀一切仏枳攘知 娑乞蒭毘耶見 誐誐曩三娑縛如虚空性羅乞叉儞離塵相也薩哩達磨正法浮陀哩迦白蓮華蘇駄覧経 惹入 吽遍 鑁住 発歓喜縛曰羅堅固羅乞叉〓擁護吽空無相無願娑婆訶決定成就」此の真言は南天竺の鉄塔の中の法華経の肝心の真言なり、此の真言の中に薩哩達磨と申すは正法なり薩と申すは正なり正は妙なり妙は正なり正法華・妙法華是なり、又妙法蓮華経の上に南無の二字ををけり南無妙法蓮華経これなり、妙とは具足・六とは六度万行、諸の菩薩の六度万行を具足するやうを・きかんとをもう、具とは十界互具・足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり満足の義なり、此の経一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四字・一一に皆妙の一字を備えて三十二相・八十種好の仏陀なり、十界に皆己界の仏界を顕す妙楽云く「尚仏果を具す、余果も亦然り」等云云、仏此れを答えて云く、「衆生をして仏知見を開か令めんと欲す」等云云、衆生と申すは舎利弗・衆生と申すは一闡提・衆生と申すは九法界・衆生無辺誓願度・此に満足す、「我本誓願を立つ一切の衆をして我が如く等しくして異なること無からしめんと欲す我が昔の願ぜし所の如き今は已に満足しぬ」等云云。
諸大菩薩・諸天等・此の法門をきひて領解して云く「我等昔より来数世尊の説を聞きたてまつれども未だ曾て是の如き深妙の上法を聞かず」等云云、伝教大師云く「我等昔より来数世尊の説を聞く・と謂うは昔法華経の前・華厳等の大法を説くを聞けども・となり、未だ曾て是くの如き深妙の上法を聞かずと謂うは未だ法華経の唯一仏乗の教を聞かざるなり」等云云、華厳・方等・般若・深密・大日等の恒河沙の諸大乗経はいまだ一代の肝心たる一念三千の大綱・骨髄たる二乗作仏・久遠実成等をいまだきかずと領解せり。
現代語訳
妙法蓮華経と申すは漢語である。インドでは薩達磨分陀利伽蘇多攬といっている。善無畏三蔵の法華経の肝心の真言には「ノウマクサーマンダボダナン」等といっている。この真言は南インドの鉄塔の中から発見された、法華経の肝心の真言である。この真言の中に薩哩達磨というのは正法である。薩というのは正である。正は妙であり妙は正である。正法華・妙法華と二様に訳されたのも、このゆえである。また妙法蓮華経の上に南無の二字を置き、南無妙法蓮華経というのがこれである。
妙とは具足であり、六とは六度万行である。もろもろの菩薩の六度万行を具足する様を聞きたいと思うとの意である。具とは十界互具、足とは十界おのおのに十界を互具するのでそのままの位で他の九界をそなえる、すなわち満足の義である。この法華経は、一部・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字・一一にみな妙の一字をそなえて、三十二相・八十種好の仏陀である。十界にみなそれぞれの界の仏果をあらわす。妙楽は「十界にみな仏果を具している。いわんや、他の果もまた具すのはとうぜんである」といっている。
仏は答えていわく「衆生をして仏の知見を開かしめんと欲する」と。この衆生というのは舎利弗であり、また衆生というのは一闡提。また衆生というのは九法界であって、「衆生の無辺なるを度せん」と誓願したことがここに満足した。ゆえに「自分は過去世に誓願して、いっさいの衆をして仏と等しくして異なること無からしめんと欲した。この昔の所願は今はすでに満足した」云云、と説かれているのである。諸大菩薩・諸天等はこの法門を聞いて領解していわく「われらは昔よりこのかた、しばしば世尊の説法を聞き奉ったが、いまだかつて、かくのごとき深妙の上法を聞かなかった」といっている。伝教大師いわく「われらは昔よりこのかた、しばしば世尊の説法を聞いたというのは、昔、法華経の前に華厳等の大法を説くのを聞いたけれども、との意である。いまだかつてかくのごとき深妙の上法を聞かなかったというのは、いまだ法華経の唯一仏乗の教を聞かなかったとの意である」云云と釈している。
これを要するに、華厳・方等・般若・深密・大日等の恒河沙の諸大乗経には、いまだ一代仏教の肝心たる一念三千の大綱・骨髄である二乗作仏と久遠実成等をば説き示されていないことがはっきりしたのである。
語釈
妙法蓮華経
大乗仏典の極説。梵名サッダルマプンダリーカ・スートラ(Saddharmapuṇḍarīka-sūtra)、音写して薩達摩芬陀梨伽蘇多覧、「白蓮華のごとき正しい教え」の意。経典として編纂されたのは紀元一世紀ごろとされ、すでにインドにおいて異本があったといわれる。そのためこれを中国で漢訳する段階では、訳者によって用いた原本が異なり、種々の漢訳本ができたと推察される。こうしてできた漢訳本は、①法華三昧経(六巻。魏の正無畏訳。0256年訳出)。②薩曇分陀利経(六巻。西晋の竺法護訳。0265年)。③正法華経(十巻。西晋の竺法護訳。0286年)。④方等法華経(五巻。東晋の支道根訳。0335年)。⑤妙法蓮華経(八巻。姚秦の鳩摩羅什訳。0406年)。⑥添品妙法蓮華経(七巻。隋の闍那崛多・達磨笈多共訳。0601年)の六種である。このうち現存するのは③正法華経、⑤妙法蓮華経、⑥添品法華経の三種があるが(六訳三存)、⑤妙法蓮華経が古来から名訳とされて最も普及しており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。内容は、それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一し、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調する。
薩達磨分陀利伽蘇多攬
薩達磨は梵語サッダルマ(Saddharma)の音写。正しい法と訳す。分陀利伽は梵語プンダリーカ(Puṇḍarīka)の音写。芬陀梨伽、芬陀利華とも書き、善無畏三蔵の法華経の肝心真言には浮陀哩迦とある。白蓮華と訳す。花弁の多いことから百葉華ともいい、多く阿耨池(閻浮提の中心、雪山の北にあって竜王が住むという)に咲いて人中にないとされることから人中好華・希有華などと称される。法華玄義巻八上には「法華経の経題を釈せば薩達磨分陀利修多羅といい、分陀利を中国では蓮華と釈す」とある。蘇多攬は梵語スートラ(Sutra)の音写。経典の意。
衆生無辺誓願度
いっさいの菩薩の立てる四弘誓願の一つ。すなわち衆生無辺誓願度(いっさいの衆生をすべての悟りの彼岸にわたそうと誓う)、煩悩無数誓願断(いっさいの煩悩を断とうと誓う)、法門無尽誓願智(仏の教えをすべて学び知ろうと誓う)、仏道無上誓願成(仏道の無上の悟りに至ろうと誓う)の四つをいう。
講義
「妙とは具足」「六とは六度万行」「具とは十界互具」等とは、いっさいの諸法すべて一念三千の当体であり具足円満の本仏の当体であるとの謂である。その当体を妙法蓮華経と名づけるのである。ゆえに地獄は地獄のままで、餓鬼は餓鬼のままで、われわれのごとく貪瞋癡の三毒に悩み苦しむ凡夫そのままの姿がすなわち妙法蓮華経の当体である。これを悟るを仏といい、これに迷うを凡夫と名づけるのである。一代仏教の骨髄たる妙法蓮華経の当体は、まったく余処に求むべきでない。われわれの立ち居振舞いそのままが、すなわち当体真実の仏体であるのである。
爾前の諸経においては衆生の機根が万差であったものを、法華経迹門において根性の円融を説き、諸法実相に約して一念三千を明かされて、はじめて二乗作仏を説いている。ついで、本門寿量品にいたって久遠実成を説き永遠に実在する生命の実体が明らかとなったのである。すなわち二乗作仏・久遠実成は一念三千の大綱であり骨髄であるとおおせられるゆえんである。ここにおいて、十界みな成仏を現じて釈尊の使命は終わったのである。
さて、末法にいたって、今日、われわれは、いかにしてこれを悟り得るか。その道はただ一つ、日蓮大聖人ご建立の御本尊を信じ奉ることによってのみ、われわれは凡夫即極、当体の蓮華仏と顕われるのである。すなわち、この時においては、釈迦所説の法華経本門迹門とも理上の一念三千となり、もし事に拠って論ずるならば、この御本尊を信ずるか不信かによって「具」「不具」を生ずる。幸いにして、われわれはこの三大秘法の御本尊を信じ奉るがゆえに、凡夫そのまま倶体倶用の本仏なのである。
すなわち、御本尊を信じ奉る者は、いまだ六波羅蜜を修行していなくとも布施・持戒・忍辱・禅定・精進・智慧の果徳が厳然と具足しているのである。さらにまた、われわれ凡夫の当体に仏界を具足している以上は、余の九界も具足していることを推して知るべきである。
かくのごとく、御本尊の功徳は、無量無辺にして広大深遠の妙用があらせられる。しかし、せっかく御本尊を受持しておりながら、信心が弱く、折伏を行ずることなく、あるいは形式的な信心で、謗法をかさねているならば、現世における成仏得道の機会を失って、ふたたび地獄へ堕ちなければならない。よくよく誡心して信心強盛に努め、倦まず撓まず精進しなければならないのである。
第三十五章 法華深恩を明かす
本文
又今よりこそ諸大菩薩も梵帝・日月・四天等も教主釈尊の御弟子にては候へ、されば宝塔品には此等の大菩薩を仏我が御弟子等とをぼすゆへに諫暁して云く「諸の大衆に告ぐ我が滅度の後・誰か能く此の経を護持し読誦する今仏前に於て自ら誓言を説け」とは・したたかに仰せ下せしか、又諸大菩薩も「譬えば大風の小樹の枝を吹くが如し」等と吉祥草の大風に随い河水の大海へ引くがごとく仏には随いまいらせしか。
而れども霊山日浅くして夢のごとく・うつつならずありしに証前の宝塔の上に起後の宝塔あつて十方の諸仏・来集せる皆我が分身なりとなのらせ給い宝塔は虚空に釈迦・多宝坐を並べ日月の青天に並出せるが如し、人天大会は星をつらね分身の諸仏は大地の上宝樹の下の師子のゆかにまします、華厳経の蓮華蔵世界は十方・此土の報仏・各各に国国にして彼の界の仏・此の土に来つて分身となのらず此の界の仏・彼の界へゆかず但法慧等の大菩薩のみ互いに来会せり、大日経・金剛頂経等の八葉九尊・三十七尊等・大日如来の化身とはみゆれども其の化身・三身円満の古仏にあらず、大品経の千仏・阿弥陀経の六方の諸仏いまだ来集の仏にあらず大集経の来集の仏・又分身ならず、金光明経の四方の四仏は化身なり、総じて一切経の中に各修・各行の三身円満の諸仏を集めて我が分身とはとかれず、これ寿量品の遠序なり、始成四十余年の釈尊が一劫・十劫等・已前の諸仏を集めて分身ととかる・さすが平等意趣にもにず・をびただしくをどろかし、又始成の仏ならば所化・十方に充満すべからざれば分身の徳は備わりたりとも示現して益なし、天台云く「分身既に多し当に知るべし成仏の久しきことを」等云云、大会のをどろきし意をかかれたり。
現代語訳
また今よりこそ(法華経に入って)諸大菩薩も梵天・帝釈・日天・月天・四天等も教主釈尊の御弟子たることが定まったのである。されば宝塔品には、これらの大菩薩を仏が自分の弟子であるとおぼしめすゆえに諌暁していわく「もろもろの大衆につぐ、仏の滅後において、だれかよくこの経を護持し読誦するか。いまここにみずから進んで誓いをのべよ」と、したたかにおおせくだされたのである。また諸大菩薩も「たとえば大風が小樹の枝を吹きなびかすようなものである」と、吉祥草が大風にしたがい、河水の大海へ流れ入るがごとく、仏にしたがいまいらせたのである。
しかれども、迹門ではいまだ霊鷲山の説法も日浅くして、夢のごとくはっきりしないでいたが、迹門を証明する証前の宝塔についで本門を説き起こす起後の宝塔があって、十方の諸仏が来集したのをみなわが分身であると名のらせ給い、宝塔は虚空にあって、釈迦仏・多宝仏が坐をならべ、日月が同時に青天へ並び出でたるごとき荘厳さであった。人天大会の大衆は星をつらねるごとく虚空にならび、分身の諸仏は大地の上で宝樹の下の師子座にましました。このように荘厳雄大な儀式は爾前経ではとうていみることができなかった儀式である。すなわち華厳経の説法された蓮華蔵世界は他受用報身仏の説法であるが、十方世界と娑婆世界が別々で、かの界の仏がこの土に来って法華経のごとく分身となのることもなく、この界の仏もかの界へ行くことなしに、ただ法慧等の大菩薩のみが釈尊の説法の会座へ来たにすぎなかった。大日経・金剛頂経等の八葉九尊の三十七尊等の仏菩薩も大日如来の化身とはみえるけれども、その化身も三身円満の久成の古仏ではない。大品般若経の千仏・阿弥陀経の六方の諸仏もいまだ来集した分身仏ではない。大集経に来集した仏もまた分身ではない。金光明経の四方の四仏は化身である。
このようにいずれの経々にも、総じて一切経中に各修各行の三身円満の諸仏を集めてわが分身であると説かれた例はない。これすなわち宝塔品は寿量品の遠序たるゆえんである。いまだ顕本してない釈尊が悟りを開いて四十余年であるのに、一劫十劫等のむかしから成道している諸仏を集めて分身であると説かれたことは、さすがに諸仏はすべて平等であるとの平等意趣にも似ることなく、おびただしくおどろかしいことである。また始成の仏であるならば、所化の弟子が十方に充満するわけもなく、分身の徳は備わっていても、示現して利益のあるわけがない。天台はいわく「分身がすでに多いことを見て成仏の久しいことを知るべきである」と、会座の大衆が驚いた意を述べている。
語釈
吉祥草
吉祥蘭、観音草、香茅、犧牲草ともいう。湿地に生ずる茅に似た草。ユリ科の常緑多年草で、長さ約60㌢。冬も枯れず、小雪の中に花を咲かせる。インドにおいては古来、この草をもって神聖な草とし、諸種の儀式をするのに、この草を組んで蓆とし、その上に供物をおき、またみずからこの上にすわる風習があった。釈尊が菩提樹下で成道したときにも、この草を敷いたという。
証前の宝塔の上に起後の宝塔
天台大師が法華文句の中で、法華経見宝塔品の多宝の塔を解釈したことば。すなわち、見宝塔品で、多宝塔が涌出して、多宝如来が「善哉善哉……妙法華経、皆是真実」と証明したのは、前十品の迹門の真実なることを証明したのであり、これを迹門を証する――すなわち証前の宝塔といい、つぎに、多宝塔を開かんがために、十方分身の諸仏を集め、二仏並座して滅後の弘法を付属すべき地涌の菩薩を召して寿量品(本門)を説く起となった。これを本門を起こす――すなわち起後の宝塔という。
師子のゆか
師子座に同じ。師子が百獣の王であるごとく、仏は人中の師子にたとえられ、その説法の無所畏であるところから、すべて仏の坐し給う座を師子の座という。猊座というも同じ意。
法慧等の大菩薩
法慧のほか功徳林、金剛幢、金剛蔵の三菩薩を加えて、華厳経の四菩薩という。華厳経説法の七処八会(人中の三処と天上の四処)のうち、天上四処における説法主である。
大品経の千仏
大品般若経に説かれている千仏のこと。東西南北の四方と、東北・東南・西北・西南の四維と、上下の二方を合わせた十方におのおの千仏が現じて、般若波羅蜜を説いたと説かれている。
平等意趣
四意趣の中の一つ。意趣とは心のむかうところ、心ばせ、考え。無著菩薩の摂大乗論に出ている。その意味は、むかし出世した毘婆尸仏という仏と、いまインドに出現した釈尊とは異なった仏であるが、じつは釈尊自身がむかし出世して毘婆尸仏と称したのである。すなわち、仏の所詮の法は平等である故に、彼即我、我即彼と説く。これを通平等といい、また仏によっておのおの因行果徳が異なっているが、またみな同じであると説くのを別平等という。
講義
上巻では五重相対を立てて「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」と結論されてから、権迹相対と本迹相対を、二乗作仏・久遠実成によって証明されている。しかしてのち、末法に出現する地涌の菩薩が末法の本仏であらせられること、および日蓮こそその本仏であると断定するために「この疑いはこの書の肝心」等と述べられてきているのである。日蓮大聖人が真実の法華経の行者であり、日本国の上下万民はことごとく三類の強敵である、と説かれても容易に世間に受けいれられるわけがない。それゆえに開目抄では一々経文をあげてこれを証明し、道理と現証を示して「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」と下巻にいたって断定されるのである。
さて世間の人々も弟子檀那も最大の疑いとしていることはなにか。それは日々月々に日蓮大聖人に対して襲いくる大迫害の嵐である。伊東の流罪と小松原の襲撃と竜の口の首の座と、しだいに深刻となってきた迫害は、ついに大聖人を佐渡の孤島へ流す結果となり、いつの日、ふたたび鎌倉へお帰りになることすら考えられないのみか、弟子や檀那でも熱心なものはあるいは追放され、あるいは投獄され、わずかに法門を聴聞したからといって処罰されるという惨憺たる状況にあった。この時になにゆえに日蓮および日蓮が弟子檀那は迫害を受けるのか。二乗にせよ、もろもろの大菩薩にせよ、一切経中に法華経がなければ天に日も月もなく、人に魂のないのと同じではないか。たとえ日蓮が悪人であろうとも、畜生であろうとも、日蓮が法華経の行者であるならば、二乗も菩薩もさっそく飛んできて守護すべきである。
しかしてこの段は諸菩薩の守護なきを疑う段である。また「今より」から「随いまいらせしか」までは迹門であり「しかれども霊山」以後は本門の意をもってこれを疑う段となる。
宝塔品の儀式
迹門の流通分たる見宝塔品において、多宝塔が虚空にたち、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中に並座し、十方分身の諸仏、迹化他方の大菩薩・二乗・人天等がこれにつらなるいわゆる虚空会の儀式が説かれている。これは一面から考えればはなはだ非科学的のように思われるが、仏法の奥底よりこれを見るならば、きわめて自然の儀式である。もしこれを疑うならば、序品の時にすでに大不思議がある。数十万の菩薩や声聞や十界の衆生がことごとく集まって釈迦仏の説法を聞くようになっているが、はたしてこんなことができるかどうか。スピーカーもなければまたそんな大きな声が出るわけがない。しかして八年間もそれが続けられるわけがない。すなわちこれは釈尊己心の衆生であり、釈尊己心の十界であるから、何十万集まったと言っても不思議はないのである。
されば宝塔品の儀式も観心の上に展開された儀式である。われわれの生命には仏界という大不思議の生命が冥伏している。この生命の力および状態は想像もおよばなければ、筆舌にも尽くせない。しかし、これをわれわれの生命体の上に具現することはできる。現実にわれわれの生命それ自体も冥伏せる仏界を具現できるのだと説き示したのが、この宝塔品の儀式である。すなわち釈尊は宝塔の儀式をもって、己心の十界互具、一念三千を表わしているのである。
日蓮大聖人は同じく宝塔の儀式を借りて、寿量文底下種の法門を一幅の御本尊として建立されたのである。されば御本尊は釈迦仏の宝塔の儀式を借りてこそおれ、大聖人己心の十界互具一念三千……本仏の御生命である。この御本尊は御本仏の永遠の生命をご図顕遊ばされたので、末法唯一無二の即身成仏の御本尊であらせられる。末法の民衆はこの御本尊によってのみ救済されるのである。しかしてそれは今日、我ら創価学会のみ授与しうるところである。
証前起後
多宝の塔には二つの意がある。一つにはすでに説いてきた迹門を真実なりと証明するために、二つにはのちに本門を説き起こすためである。
さて証前起後に傍正があり、証前は傍・起後は正である。また、本迹二門の証明をいわば、迹門は傍・本門は正である。また釈尊在世と滅後末法を比較するならば、在世は傍・滅後は正である。くわしくは法華取要抄に、迹門は逆次に読む時は滅後のためであり、本門は一向に滅後のためである等とお示しのとおりである。すなわち証前起後の宝塔というも、まったく末法弘通の下種三大秘法を説き起こすためであり、かつこれを証明するために説かれているのである。
釈迦・多宝・分身
宝塔品に現われる三仏である。釈迦・多宝の二仏並座は境智の二法を表わす。多宝は境で法身を表わし、釈迦は智で報身を表わす。境智の冥合するところに慈悲あり、これが応身如来で、すなわちこれが久遠元初の自受用無作三身如来を表わすのである。ゆえに二仏並座、分身来集は久遠元初の自受用身・報中論三の無作三身を表わすのである。この無作三身は末法に出現する日蓮大聖人であらせられる。
ゆえに御義口伝にいわく「無作の三身とは末法の法華経の行者なり」(0752:第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事:06)と。
つぎに十方諸仏来集等といって、釈迦仏以外に諸仏が同じ法華経の会座に現われることはどうか。多宝の出現はすでに述べたとおり、釈尊の説法を証明するためである。分身の諸仏は寿量品より立ちかえってみれば、ことごとく寿量顕本の釈尊の分身である。また寿量顕本にも文上顕本と文底顕本があり、文上顕本は久遠実成本果の釈尊を本仏とするゆえに釈尊のほかに余仏がある。文底の顕本は久遠元初の自受用身をもって本仏となすゆえ自受用身の唯一仏のみである。
また「宝塔空に居し」等とは因果国の三妙を表わし、宝塔は本国土妙・釈迦多宝分身は本果の三身・人天大会等は本因の九界を表わしている。この三妙は即事の一念三千であり、事の一念三千とは即本門の御本尊である。ゆえに新尼御前御返事にいわく
「今此の御本尊は……宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候等云云」(0905:12)と。
すなわち末法日蓮大聖人のご出現より立ちかえってみれば、宝塔の出現がまったく大聖人のご建立遊ばされる御本尊を表わしているのである。
分身諸仏について
宝塔品の儀式において釈尊の分身雲集せりというが、この分身の意義は、ある仏が成仏した時、この仏に結縁した衆生がひじょうに多くてわが仏土に摂し切れぬ時は、他に仏土を建設して、わが身を分かって、その仏土の衆生を救済するのである。されば分身の仏も本の仏と同じく、同じ仏法をもって衆生を済度するのである。けっして異なった仏法を用いることがない。釈尊の分身が善徳仏の仏法をもって衆生を済度するということはなく、かならず釈尊の教えをもって済度するのである。されば無量義経十功徳品に、
「善男子よ。第九に是の経の不可思議の功徳力とは、(中略)速やかに上地に越ゆることを得、善能く分身散体して、十方の国土に遍じ、一切二十五有の極苦の衆生を抜済して、悉く解脱せしめん」云云。
さて、天台においては、釈尊の宝塔の儀式に分身が集まった。しこうして釈尊以外の仏にも分身がありとなすのである。
そのゆえは観普賢菩薩行法経に
「南無釈迦牟尼仏、南無多宝仏塔、南無十方釈迦牟尼仏分身諸仏と。是の語を作し已って、遍く十方の仏を礼したてまつれ、南無東方善徳仏、及び分身諸仏と」云云。
また、「南方に仏有して、栴檀徳と名づけたてまつる。彼の仏に亦た無量の分身有す」云云。
この文証によって余仏にも分身ありとなしている。これは天台としては迹面本裏の仏法であるがゆえにやむを得ないのであるが、大聖人におかせられては十方の諸仏をことごとく本仏の分身に摂するのである。
しかるに誤まれる日蓮宗各派の中においても、この天台の流義を認容するものもあり、かつ経の文相にしたがうと称して、大聖人の意を、十方の諸仏が寿量文上の釈尊の分身なりと解して、本仏の分身なりとは思わないのである。経の文相によるなどということは天台と大聖人の相違をどう調和したらよいかというごまかしであって、文底深秘を知らぬものの世迷い言である。日蓮宗とはいうけれども、大聖人の文底の深秘をしらぬものは、天台の、余仏もまた分身ありとなして釈迦と肩をならべる学説に対し、大聖人が釈尊一仏のみを唱えて余仏の分身はことごとく余仏の所化となし、いっさいが釈尊一仏の分身なりとおおせられる深義を正釈できないがゆえに迷いを生じているのである。
一口に釈尊というが、釈尊には六通りの釈尊がある。すなわち蔵教の釈尊・通教の釈尊・別教の釈尊・迹門の釈尊・本門文上の釈尊・文底下種本門の釈尊と六種類に分かれるのであって、大聖人の御書を拝するにあたっては釈尊の義は文によって判じなければならない。ここでいう三世十方の諸仏を釈尊一仏の分身となす意は、文底下種本門の釈尊なるがゆえである。天台が余仏にも分身がありとなすゆえんは、釈尊の義を本門文上の釈尊にとっているからである。大聖人の仏法は末法利益の仏法であり、その法門は文底下種本門であることを深く心にきざまなければならない。しこうして文底の本門あらわれ出でたる上は、いっさいの仏法は、この経にのぞんで見なくては、大聖人の真意を了することはできないのである。同名異体の仏を論ずるのに、一例をひいてわかりやすくしよう。
阿弥陀仏と一口にいうが、今日念仏宗の阿弥陀仏は四十八願をたてて成仏した法蔵比丘の阿弥陀である。法華経迹門の阿弥陀は大通覆講(だいつうふっこう)の時の十六の数に入る阿弥陀である。法華経本門の阿弥陀は本門文上の釈尊の分身の阿弥陀である。同名異体の義、よくよく心得なければならない。
さて末法今時において衆生を利益する本尊は、創価学会授与の御本尊であるが、会員がその功徳にあやからんとする時は、この御本尊分身散体の理によって、同じき功徳力ある本尊として各会館、各家庭に分身して現れるのである。
第三十六章 地湧出現を明かす
本文
其の上に地涌千界の大菩薩・大地より出来せり釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢文殊等にも・にるべくもなし、華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集する大菩薩・大日経等の金剛薩埵等の十六の大菩薩なんども此の菩薩に対当すれば獼猴の群る中に帝釈の来り給うが如し、山人に月卿等のまじはるにことならず、補処の弥勒すら猶迷惑せり何に況や其の已下をや、此の千世界の大菩薩の中に四人の大聖まします所謂・上行・無辺行・浄行・安立行なり、此の四人は虚空・霊山の諸菩薩等・眼もあはせ心もをよばず、華厳経の四菩薩・大日経の四菩薩・金剛頂経の十六大菩薩等も此の菩薩に対すれば翳眼のものの日輪を見るが如く海人が皇帝に向い奉るが如し、大公等の四聖の衆中にありしに・にたり商山の四皓が恵帝に仕えしにことならず、巍巍堂堂として尊高なり、釈迦・多宝・十方の分身を除いては一切衆生の善知識ともたのみ奉りぬべし、弥勒菩薩・心に念言すらく、我は仏の太子の御時より三十成道・今の霊山まで四十二年が間此の界の菩薩・十方世界より来集せし諸大菩薩皆しりたり、又十方の浄穢土に或は御使い或は我と遊戯して其の国国に大菩薩を見聞せり、此の大菩薩の御師なんどは・いかなる仏にてや・あるらん、よも此の釈迦・多宝・十方の分身の仏陀にはにるべくもなき仏にてこそ・をはすらめ、雨の猛を見て竜の大なる事をしり華の大なるを見て池のふかきことは・しんぬべし、此等の大菩薩の来る国・又誰と申す仏にあいたてまつり・いかなる大法をか習修し給うらんと疑いし、あまりの不審さに音をも・いだすべくも・なけれども仏力にやありけん、弥勒菩薩疑つて云く「無量千万億の大衆の諸の菩薩は昔より未だ曾て見ざる所なり是の諸の大威徳の精進の菩薩衆は誰か其の為に法を説いて教化して成就せる、誰に従つてか初めて発心し何れの仏法をか称揚せる、世尊我昔より来未だ曾つて是の事を見ず、願くは其の所従の国土の名号を説きたまえ、我常に諸国に遊べども未だ曾つて是の事を見ず、我れ此の衆の中に於て乃し一人をも識らず忽然に地より出でたり願くは其の因縁を説きたまえ」等云云、天台云く「寂場より已降今座已往十方の大士来会絶えず限る可からずと雖も我補処の智力を以つて悉く見悉く知る、而れども此の衆に於て一人をも識らず然るに我れ十方に遊戯して諸仏に覲奉し大衆に快く識知せらる」等云云、妙楽云く「智人は起を知る蛇は自ら蛇を識る」等云云、経釈の心・分明なり詮ずるところは初成道よりこのかた此の土十方にて此等の菩薩を見たてまつらず・きかずと申すなり。
現代語訳
その上に地涌千界の大菩薩が大地より出来した。釈尊にとっては第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の樵夫・杣人の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。釈迦仏のあとを嗣ぐといわれた弥勒すら、なお地涌の出現に惑われた。しかしてそれ以下の者の驚きと当惑はひじょうなものであった。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖がましました。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行であらせられる。
この四人は虚空会および霊山会に来集している諸菩薩等が、眼をあわせることも心のおよぶこともなかった。華厳経の四菩薩・大日経の四菩薩・金剛頂経の十六大菩薩等も、この菩薩に対すれば翳眼のものが太陽をまともに見られないごとく、いやしい海人が皇帝に向い奉るような状態であった。太公望等の四聖が大衆の中にいるごとく、商山の四人の君子が漢の恵帝に仕えたのと異ならない。じつにぎぎ堂々として尊高であった。釈迦・多宝・十方分身の諸仏をのぞいては、一切衆生の善知識ともたのみ奉るべきであろう。
そこで弥勒菩薩は心の中ではつぎのように思っていた。自分は釈迦仏が出家する以前の太子であった時から、三十歳で成道し、いまの霊鷲山で法華経の説法が開かれるまでの四十二年のあいだ、この世界の菩薩も十方世界より来集した菩薩もみなことごとく知っている。またその上に十方の浄土へも穢土へも、あるいはお使いとしてあるいはみずから遊びに行って、その国々の大菩薩も見聞して知っている。しかしこの地涌の大菩薩はいまだかつて見聞したことがない。この大菩薩のお師匠はどのような仏さまであろうか。よもこの釈迦・多宝・十方の分身の諸仏には似るべくもない仏さまであらせられるであろう。雨の猛烈に降るを見て竜の大なることを知り、華の大きく盛んなるを見てこれを育てている池の深いことは知られるであろう。これらの大菩薩はいかなる国から来て、また誰と申す仏にあい奉り、いかなる大法をか修習し給うているのかと疑っていた。あまりのふしぎさに声を出すことすらできなかったけれども、仏力の加護によるのであろう、つぎのように質問した。
すなわち弥勒菩薩は疑っていわく「無量千万億の大衆のもろもろの菩薩は、昔よりいまだかつて見たことのないところである。このもろもろの大威徳・大精進の菩薩衆に対して、だれがそのために法を説いて教化して仏道を成就せしめたのか。誰にしたがって初めて発心し、いずれの仏法をか称揚して修行を積んできたのか。世尊よ、われ昔よりこのかたいまだかつてこのことを見たことがない。願わくば、その住する国土の名を説き聞かせてください。自分はつねに諸国に遊んできたが、いまだかつてこの事を見たことがない。自分はこの地涌の大衆を見てもひとりも知っているひとはない。忽然として大地より涌出せられた。願わくばその因縁を説いてください」と。
天台いわく「寂滅道場における最初の説法より以来、法華経の座にいたるまで十方の大菩薩が絶えず来会してその数は限りないとはいえ、自分は補処の智力をもってことごとく見、ことごとく知っている。しかれどもこの衆においてはひとりをも知らず。しかるに自分は十方に遊戯して諸仏にまのあたり奉仕し、大衆によく識知せられているのである」と。妙楽はさらにこれを釈していわく「智人は将来起こるべきことを知るが愚人は知らない。蛇の道は蛇で、蛇はみずから蛇を知っている」と、このように経文も解釈も説明するところの意味は分明である。要するに初成道より法華の会座にいたるまで、この国土においてもまた十方国土においても、これらの大菩薩を見たてまつらず、また聞いたこともないというのである。
語釈
地涌千界
無数の地涌の菩薩のこと。千界は千世界のこと。法華経如来神力品第二十一には「千世界微塵等の菩薩摩訶薩の地従り涌出せる者」とあり、地涌の菩薩は千の世界をすりつぶしてできる微塵ほどに数が多いと説かれている。
月卿
公卿ともいう。禁中(宮中)を天に、天子を日に、公卿を月になぞらえていったもの。公と卿との併称で、公は太政大臣・左大臣・右大臣をいい、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいった。大臣公卿と分けていうときは、公卿とは納言以下の公家をいう。
華厳経の四菩薩
法慧、功徳林、金剛幢、金剛蔵の四菩薩をいう。華厳経説法の七処八会のうち、天上四処における説法主である。
大日経の四菩薩
大日経に説かれる胎蔵界曼荼羅の八葉の蓮華に坐している四仏四菩薩のうち、普賢、観音、文殊、弥勒の四菩薩をいう。
金剛頂経の十六大菩薩
金剛頂経に説かれる金剛界曼荼羅に登場する十六人の菩薩のこと。この曼荼羅では、中央の大日如来を除く四仏のそれぞれの周囲を四人の大菩薩が取り囲んでおり、合計して十六大菩薩という。
大公等の四聖
大公は太公望のこと。四聖とは尹寿・務成・太公望・老子の四人で、いずれも中国古代の賢王の師となった儒教の聖人のこと。
商山の四皓
中国秦代の末、国乱を避けて陝西省商山に入った隠士のこと。すなわち東園公、綺里季、夏黄公、甪里先生の四人。みな鬚眉皓白の老人だったところからこの名がある。漢代の高祖が、性格の柔弱な盈太子を廃して、戚夫人の子・隠王如意を立てようとした。この時、盈太子の母・呂皇后は高祖の功臣・張良と謀り、四皓を盈太子の補佐役とした。高祖はこの四人が高齢ながら威容を持つ商山の四君子であることを知り、盈太子の廃嫡の不可能なるを悟り、その決意を翻したという。この盈太子が高祖の没後に即位し、第二代恵帝となった。
講義
前項で証前起後の宝塔が説明されているとおり、多宝塔の涌現は迹門に引きつづき、本門の説き起こされるためである。本項は本門の序分として、まず涌出品第十五に地涌の菩薩が出現する段である。爾前四十二年はいうまでもなく、法華経迹門にすら姿を見せなかった地涌の大菩薩が、突然に出現したのを見て、法華経を聴聞していた会座(えざ)の大衆がいかにびっくりぎょうてんしたかは、本文にご説明のとおりである。
弥勒菩薩の念言に「いかなる仏にてや・あるらん」等というのは、地涌の菩薩が法華経の文上においてもすでにたんなる菩薩ではない。仏として振舞われていたことを知るべきである。また、「いずれの仏にあい、いずれの仏法を修行したか」等とは、現代人が仏といえば釈尊しかおらないと思っていることが、いかに誤っているかという点に注意すべきである。
その上に地涌千界の大菩薩等の文
一、四大菩薩の意味
四大菩薩とは、地涌の菩薩の棟梁である上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩をいう。
道暹が法華文句および疏記を釈した輔正記の九にいわく
「経に四導師有りとは今四徳を表す上行は我を表し無辺行は常を表し浄行は浄を表し安立行は楽を表す、有る時には一人に此の四義を具す二死の表に出づるを上行と名け断常の際を踰ゆるを無辺行と称し五住の垢累を超ゆる故に浄行と名け道樹にして徳円かなり故に安立行と曰うなり」(0751:第一唱導之師の事:03)
地涌の菩薩は、総体の地涌と別体の地涌がある。いま、上記の文によって説明する。
「二死の裏に没する」とはくだる義であり、すなわち繫縛不自在である。「二死の表に出づる」とはのぼる義であり、すなわち解脱自在である。ゆえに、上行は我を表するのである。「断常を踰え辺際無し」とは中道常住である。ゆえに無辺行は常を表するのである。「五住の垢累を超ゆる」とはすなわち清浄である。ゆえに浄行は浄を表するのである。「道場菩提樹の下で万徳円満す」とは安楽に成立することである。ゆえに安立行は楽を表するのである。これらは別体の地涌である。
つぎに「ある時は一人にこの四義を具す」とはすなわち総体の地涌である。
在世は別体の地涌であり、末法は総体の地涌である。なぜなら「ある時」とは末法を指すゆえである。ゆえに末法の地涌の菩薩には常楽我浄の四徳が一身にそなわっているのである。これこそ、御本仏日蓮大聖人であらせられる。
日蓮大聖人は次のごとくおおせられている。
御義口伝にいわく「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり」(0751:第一唱導之師の事:07)
二、四大菩薩の行
御義口伝にいわく、
「又云く火は物を焼くを以て行とし水は物を浄むるを以て行とし風は塵垢を払うを以て行とし大地は草木を長ずるを以て行とするなり四菩薩の利益是なり、四菩薩の行は不同なりと雖も、倶に妙法蓮華経の修行なり」(0751:第一唱導之師の事07)
すなわち四大菩薩を、万物を構成する地水火風の四大に配するならば、火は空にあがるゆえに上行は火大であり、風は辺際がないゆえに無辺行は風大であり、水は清浄なるゆえに浄行は水大であり、地は万物を安立(あんりゅう)する故に安立行は地大に配せられるのである。四大菩薩はおのおのこのような行をなして利益を得させるのであるが、総体の地涌に約していえば、これらはぜんぶ妙法蓮華経の修行であり、妙法蓮華経の利益なのである。
三、四大菩薩の住処
御義口伝にいわく、
「此の四菩薩は下方に住する故に釈に『法性之淵底玄宗之極地』と云えり、下方を以て住処とす下方とは真理なり、輔正記に云く『下方とは生公の云く住して理に在るなり』と云云、此の理の住処より顕れ出づるを事と云うなり」(0751:第一唱導之師の事:09)
四、地涌の菩薩の意味
地涌の菩薩とは四大菩薩、およびこれにしたがって眷属として涌出品において涌出した六万恒河沙また五万、四万、三万、二万、一万恒河沙乃至一、半、恒河沙乃至十万億那由陀、乃至一千、一十、五、四、三、二、一、単己等の菩薩をいい、末法にご出現の日蓮大聖人は、文上の義では地涌の大導師上行菩薩の再誕であらせられると諸御書に明かされ、また創価学会員として、御本尊を拝み奉って折伏を行ずるものは、みな地涌の菩薩であるとのおおせと拝せられる。大聖人は地涌の菩薩について、さらに奥深くおおせられている。すなわち、
御義口伝にいわく
「又云く千草万木・地涌の菩薩に非ずと云う事なし、されば地涌の菩薩を本化と云えり本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり、此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり、此の題目は必ず地涌の所持の物にして迹化の菩薩の所持に非ず、此の本法の体より用を出して止観と弘め一念三千と云う、惣じて大師人師の所釈も此の妙法の用を弘め給うなり、此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し云云」(0751:第一唱導之師の事:11)
「本法所持の地涌の菩薩」とは別しては御本仏日蓮大聖人であり、「本法の体」とはとりもなおさず御本尊のことである。無始無終より南無妙法蓮華経を所持なさる日蓮大聖人こそご内証は久遠元初の自受用身であられることはいうまでもない。われらが本法を受持し元品の無明を対治して成仏するのも、この人法一箇の御本尊を信じ奉る以外にないのである。
第三十七章 略開近顕遠を示す
本文
仏此の疑を答えて云く「阿逸多・汝等昔より未だ見ざる所の者は我是の娑婆世界に於て阿耨多羅三藐三菩提を得已つて是の諸の菩薩を教化し示導して其の心を調伏して道の意を発こさしめたり」等、又云く「我伽耶城菩提樹下に於て坐して最正覚を成ずることを得て無上の法輪を転じ爾して乃ち之を教化して初めて道心を発さしむ今皆不退に住せり、乃至我久遠より来是等の衆を教化せり」等云云、此に弥勒等の大菩薩大に疑いをもう、華厳経の時・法慧等の無量の大菩薩あつまるいかなる人人なるらんと・をもへば我が善知識なりとをほせられしかば、さもやと・うちをもひき、其の後の大宝坊・白鷺池等の来会の大菩薩も・しかのごとし、此の大菩薩は彼等にはにるべくもなき・ふりたりげにまします定めて釈尊の御師匠かなんどおぼしきを令初発道心とて幼稚のものども・なりしを教化して弟子となせりなんど・をほせあれば・大なる疑なるべし、日本の聖徳太子は人王第三十二代・用明天皇の御子なり、御年六歳の時・百済・高麗・唐土より老人どものわたりたりしを六歳の太子・我が弟子なりと・をほせありしかば彼の老人ども又合掌して我が師なり等云云、不思議なりし事なり、外典に申す或者道をゆけば路のほとりに年三十計りなる・わかものが八十計りなる老人を・とらへて打ちけり、いかなる事ぞと・とえば此の老翁は我が子なりなんど申すと・かたるにもにたり、されば弥勒菩薩等疑つて云く「世尊・如来太子為りし時・釈の宮を出で伽耶城を去ること遠からずして道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得給えり、是より已来始めて四十余年を過ぎたり、世尊・云何ぞ此の少時に於て大いに仏事を作し給える」等云云、一切の菩薩始め華厳経より四十余年・会会に疑をまうけて一切衆生の疑網をはらす中に此の疑・第一の疑なるべし、無量義経の大荘厳等の八万の大士・四十余年と今との歴劫・疾成の疑にも超過せり、観無量寿経に韋提希夫人の子阿闍世王が提婆にすかされて父の王をいましめ母を殺さんとせしが耆婆月光に・をどされて母をはなちたりし時仏を請じたてまつて・まづ第一の問に云く「我れ宿し何の罪あつて此の悪子を生む世尊・復た何等の因縁有つて提婆達多と共に眷属となり給う」等云云、此の疑の中に「世尊復た何等の因縁有つて」等の疑は大なる大事なり、輪王は敵と共に生れず帝釈は鬼と・ともならず仏は無量劫の慈悲者なりいかに大怨と共にはまします還つて仏には・ましまさざるかと疑うなるべし、而れども仏答え給はず、されば観経を読誦せん人・法華経の提婆品へ入らずば・いたづらごとなるべし、大涅槃経に迦葉菩薩の三十六の問もこれには及ばず、されば仏・此の疑を晴させ給はずば一代の聖教は泡沫にどうじ一切衆生は疑網にかかるべし、寿量の一品の大切なるこれなり。
現代語訳
仏は弥勒菩薩の質問に答えていわく「阿逸多(弥勒)よ、なんじらが昔よりいまだ見たことのないというこれらの大菩薩たちは、自分がこの娑婆世界において成仏してよりこのかたこのもろもろの菩薩を教化し、指導して、その心を調伏して大道心をおこさしめたのである」と。またいわく「われは伽耶城の菩提樹の下に坐して、最正覚を成ずることを得、しかして無上の法輪を転じ、これらの大菩薩を教化して初めて道心をおこさしめ、いまはみな不退の位に住している。乃至自分は久遠よりこのかたこれらの衆を教化した」と涌出品に説き明かしている、これはすなわち略開近顕遠である。
ここにおいて弥勒等の大菩薩はおおいに疑いを持った。華厳経の時には法慧等の無量の大菩薩が集まった。いかなる人々かと思われた時に、仏はわが善知識であるとおおせられたから「そうかもしれない」と思っていた。その後の大集経を説いた大宝坊や、大品般若経を説いた白鷺池等に集まってきた大菩薩もまた仏の善知識であるように思われた。この地涌の菩薩たちはかれらには似もつかぬ古くて尊げに見える。定めて釈尊のご師匠かなどと思われるのに「初めて道心をおこさしめた」と説いて、かつては幼稚のものであったのを、教化して弟子としたなどとおおせられたことは、大なる疑いである。日本の聖徳太子は人王第三十二代用明天皇の御子である。御年六歳の時、朝鮮半島や中国大陸から渡ってきて学問技芸等を伝来した老人たちを指して「わが弟子なり」とおおせられたので、かの老人たちはまた六歳の太子に合掌して「我が師であらせられる」といったというが、実にふしぎなことである。外典にはまたつぎのような話がある。ある人が道を行くと路傍において、三十歳ばかりの若者が八十歳ばかりの老人をとらえて打っていた、どうしたことかと問えば「この老人はわが子である」と青年が答えたという話にも似ている。
されば弥勒菩薩等は疑っていわく「世尊よ、如来は太子であらせられた時、釈の宮を出で、伽耶城を去ること遠からずして道場に坐して悟りを開かれたのである。それよりこのかた始めて四十余年を過ぎたのであるが、世尊よ、いったいどうしてこの少ない期間にこのような偉大な菩薩大衆を化導しておおいなる仏事をなしとげられたのか」と。一切の菩薩を始め、華厳経より四十余年、それぞれの時々に疑いを設けて一切衆生の疑いを晴らせてきた中に、この疑いこそもっとも第一の疑いである。無量義経において大荘厳菩薩等が四十余年の爾前経は歴劫修行であり、無量義経にいたって始めて速疾成仏道と説かれて生じた疑いにもまさる大疑である。
観無量寿経において韋提希夫人が子息の阿闍世王に殺されようとし、しかも夫人の夫で阿闍世の父たる頻婆沙羅王が幽閉されて殺されたのは、阿闍世が提婆達多を師としたからである。阿闍世は韋提希夫人をも殺そうとしたが耆婆と月光の二人の大臣に諌められて、これを放ったが、この時に夫人は釈尊に会ってまず第一の質問に「自分の過去世になんの罪業があって、このような悪子を生んだのか。世尊はまたなんの因縁があって提婆達多のごとき悪人と従兄弟の間柄に生まれてきたのか」と、この疑いの中に「世尊はまたなんの因縁があって……」等の疑いは大なる大事である。転輪聖王は敵とともに生まれず、帝釈は鬼とともにいないといわれているが、仏は無量劫以来の大慈悲者であらせられるのになにゆえに大悪逆の達多とともにいるのか。かえって仏ではないのであろうかと疑ったのである。しかれどもその時に仏は答えなかった。されば観経を読誦する人は、法華経の提婆品に来て初めて説き明かされる因縁を聞かなければなんにもならないのである。大涅槃経に迦葉菩薩が三十六の質問を出しているが、それも涌出品におけるこの弥勒の疑いにはおよばない。されば仏がこの疑いを晴らさないならば、一代の聖教は泡沫と同じになり、一切衆生は疑いの網にかかってしまうであろう。すなわちこの疑いに正しく答えられた寿量の一品が大切なる理由はこのゆえである。
語釈
大宝坊
大集部の経教が説かれた所。欲界と色界の中間にある大庭とされる。
白鷺池
大般若経四処十六会のうち第十六会の説法の場所をさす。摩訶陀国の王舎城(ラージャグリハ)近くの竹林精舎の付近にあったらしいが、遺跡は見当たらない。
令初発道心
「初めて道心を発さ令む」と読む。釈尊が一番最初に自分の弟子として、仏道修行の心をおこさせたとの意。
百済・高麗・唐土より老人どものわたりたりしを六歳の太子・我が弟子なりと・をほせありしかば……
聖徳太子が過去世の師として、大陸から渡ってきた弟子に相対したことを記されてある。これは現代人には想像もできないことであるが、生命は三世にわたるのであって、とうぜんありうることである。日本書紀に、敏達天皇六年冬十一月、百済国王が還使の大別王等に付けて、経論若干巻、併せて律士・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工・六人を献るとある。聖徳太子伝暦によると、このとき六歳の聖徳太子が天皇に奏していわく、「持来せる経論を見んと欲う」と。天皇問いたもうに「何の由ぞや」。太子、「われ昔、漢の衡山にて仏道を修行しき」。天皇、「汝は年六歳なり、何をもって詐言する」。太子、「わが前身意に慮ゆるところなり」と。衡山は中国・五岳の一つ、南岳として尊ばれた。天台大師智顗の師・慧思はここに住んだので南岳大師と通称された。日蓮大聖人の時代の日本では、観音菩薩が南岳大師として現れ、さらに南岳の後身として聖徳太子が現れ仏法を広めたという説が広く知られていた。聖徳太子伝暦とは、通説では藤原兼輔が延喜17年(0917)に撰したとされるが、異説もある。
四十余年と今との歴劫・疾成の疑にも超過せり
釈尊は30歳のときに成道してのち、法華経を説くまで、四十二年間のあいだ、数々の経文を説いてきたが、そこではつねに歴劫修行を説いてきた。これに対し、無量義経にきてはじめて速疾頓成を明かしたのであるが、これを聞いたときの周囲の菩薩衆の驚きようはたいへんなものであった。しかし、いま涌出品にきて、たくさんの地涌の菩薩が大地の中から涌現してきたのをみたときの迹化の菩薩方の驚きようは、そのときの驚きをはるかに超えたたいへんなものであった。
観無量寿経
中国・劉宋代の畺良耶舎訳。観経と略す。一巻。内容は、悪子・阿闍世のいる濁悪世を嘆き、極楽浄土を願う韋提希夫人に対し、釈尊は神通力によって諸の浄土を示し、そこに生ずるための三種の浄業を説き、特に阿弥陀仏とその浄土の荘厳の相を十六観に分けて説いている。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的に答えていない。この答えが説かれるのは、法華経提婆達多品第十二であって、観経ではわずかに問いを起こしたというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在の悩みに対する解決とはなっていない。
耆婆
梵語でジーヴァカ(Jīvaka)の音写。釈尊在世の名医。阿闍世王の侍医。画期的な外科療法を行なったといわれる。
月光
阿闍世王の臣下で、耆婆と力を合せて王を諌め、釈尊に帰依させた。
迦葉菩薩の三十六の問
迦葉菩薩は涅槃経の迦葉菩薩品の対告衆で、迦葉童子、迦葉童子菩薩ともいう。いわゆる摩訶迦葉とは別人。涅槃経で仏に三十六の問いを発しているが、前四十余年の会座にも連ならず、法華の会座にも漏れた捃拾の機の人である。
講義
略開近顕遠の文である。涌出品に地涌の菩薩が出現したのを見て驚いた大衆を代表して、弥勒菩薩が質問したのは前項のとおりであり、仏はこの疑いに答え、略してその本地を説くことばが「久遠よりこのかたこれらの衆を教化した」との文である。「動執生疑」といって真に重大な問題を解き明かすためには、まず聴衆の執着を動転させ、疑いを生ぜしめてから真実を説き示す。すなわち涌出品では略開近顕遠と動執生疑の順序を経て、つぎの寿量品に正しく広開近顕遠を説き明かすわけである。
弥勒の質問は、真に一代仏教のもっとも重大な問題である点を爾前経と比較して述べられ、寿量品のたいせつなるゆえんを証明せられている。しかし寿量品の大切なるゆえんにも二意あり。一には在世の諸衆を得脱せしめんがため「迹の上の本門寿量ぞと得意せしめる」(0877:03)と本因妙抄におおせの意であり、すなわちこれは脱益の文上である。二には寿量品がまったく滅後の衆生のために説かれている点であり、すなわち文底に「久遠実成名字の妙法を直達正観せしむる事行の一念三千の南無妙法蓮華経」(0877:04)を秘し沈められているがゆえにこそ寿量の一品が大切なのである。略開近顕遠より始まる一品二半の意味と、動執生疑より始まる一品二半と、すなわち天台大師と日蓮大聖人とに一品二半に配立の不同があることは、次の御文にお示しのとおりである。
法華取要抄にいわく、
「本門に於て二の心有り一には涌出品の略開近顕遠は前四味並に迹門の諸衆をして脱せしめんが為なり、二には涌出品の動執生疑より一半並びに寿量品・分別功徳品の半品已上一品二半を広開近顕遠と名く一向に滅後の為なり」(0334:04)
また日寛上人は同じく一品二半というもつぎのように異なるとお示しになっている。
一には配立の不同
天台の配立は、涌出品の略開近顕遠および動執生疑の半品と寿量品と分別功徳品の半品、これらを一品二半としている。
日蓮大聖人の配立は、前の涌出品の略開近顕遠の三十余行をのぞいて、涌出品の動執生疑の半品と寿量品と分別功徳品の半品を一品二半と名づけている。
二には種脱の不同
天台の一品二半は在世脱益のためである。
日蓮大聖人の一品二半は末法下種益のためである。
三には異名の不同
天台の一品二半は略広開近の一品二半といい、在世の本門ともいわれる。
日蓮大聖人の一品二半は広開近顕遠の一品二半であり、末法の本門または我が内証の寿量品、または文底下種の本因妙等と名づけられる、あるいは略してただ寿量品と呼ばれることもある。
以上のごとく、天台の配立である略広開顕の一品二半は、五重三段の中の第四の本門脱益三段の正宗分であり、日蓮大聖人の配立である広開近顕遠の一品二半は第五の文底下種三段の正宗分であり、同じ一品二半といっても名同体異であり、格段の相違があるのである。
「されば観経を読誦せん人・法華経の提婆品へ入らずば・いたづらごとなるべし」
浄土宗系の人々の中に観無量寿経は法華経と同じ時に同じところで説いたものであるから法華経と同じである、法華経が実大乗経で観無量寿経が権大乗経であるわけがないという暴論をなすものがある。その理由としては観無量寿経に「かくのごときをわれ聞きき。一時、仏は王舎城の耆闍崛山の中に在して、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。菩薩三万二千あり、文殊師利法王子を上首となす」云々。
法華経には「かくのごときをわれ聞きき。一時、仏は王舎城の耆闍崛山の中に住したまい、大比丘衆、万二千人と倶なりき。みなこれ阿羅漢なり。乃至また学・無学の二千人あり。摩訶波闍波提比丘尼は、眷属六千人と倶なり。羅睺羅の母の耶輸陀羅比丘尼もまた眷属と倶なり。乃至菩薩摩訶薩の八万人倶なり」云云。
ちょっと見ると文相似ているように思われる。しかしまったくの相違で、ところは同じく耆闍崛山であるが、時と機縁が違うのである。「一時」とあるが一時とは衆生の機縁が熟して仏がこれに感応した時であって、およそ仏は衆生の機縁が熟するところ、いずれの時といえども、これに感応して法を説かれるのである。それがため一切経すべて年月日を限定しないでただ、一時というのである。されば観無量寿経の衆生の機縁と法華経の衆生の機縁とは天地の差があるのであるから、文相が似ているからとて同じ時だと取ることはできないのである。かつまた内容にわたるまでもなく、その会座の大衆の数の差をみても天地雲泥の差であることは、その説く法がまた天地雲泥の差があることに気がつかなければならない。
韋提希夫人は阿闍世王の母であり、頻婆沙羅王の夫人である。頻婆沙羅王は跡継ぎの子がなかったため、ある占師に、夫人を占わさせたが、その占師に「山中にひとりの道人がいる。その道人が死ねば、夫人の胎内に入って太子となる」と告げた。頻婆沙羅王は早く太子が欲しいので、山中に住む道人の糧食を断ち、道人の化作であった白うさぎを殺してしまった。夫人はまもなく懐妊したので、王が占い師に再び占ってもらったところ「男子が生まれる。しかしその太子は、頻婆沙羅王の怨となるであろう」といった。月満ちてはたして容貌端正な男子が出生した。その子は占師の言によって、いまだ生じない以前から怨をもっていた子なので、未生怨と名づけられた。この因縁は涅槃経にきて明かされたものである。王はその子の成長をおそれて夫人とともに高楼にのぼり、王子を地に投げ捨てたのであるが、わずか一指を折ったのみで助かった。折指太子と呼ばれるのはこのことによる。王は子を殺すことをあきらめ、ついに太子とした。これがすなわち阿闍世太子である。そして、王は前非を悔い、仏に帰依してもっぱら供養につとめたのである。
ちょうど、そのころ、提婆達多が釈尊にそむき教団を立てて、一時名声が高かった。提婆達多は神通力をもって、阿闍世太子の歓心を得ることに成功し、さらに阿闍世太子にむかって「太子、お前の父頻婆沙羅王は瞿曇沙門(釈尊)を信じ、帰依して国の大半を棄捨してしまった。これは太子の財産を減らしていることになるのである。太子のこれからの人生にどんなことがあるかわからぬ。太子よ、父王を殺して、新王となるのだ。私は瞿曇を殺して新仏になるであろう」と甘言をもってすすめた。太子は父母の恩愛がひじょうに深いことを理由に、それは忍びないと一度はそれをふりきった。しかし提婆は「太子は何も知らないが、国中の人は皆太子が、未生以前から王の怨であると誹っている。そして頻婆沙羅王は、太子の生まれたばかりのときに殺そうとはかったのである」とそそのかした。
そこで、阿闍世はついに逆心を起こして、父王を幽閉し、食事を与えなかった。そしてみずからは、新王となったのである。母韋提希夫人は身に蜜をぬって王を養うことに努めたが、これを知った阿闍世は怒って母をも殺そうとした。そのとき耆婆・月光はいまだかつて母を害するような無理極悪のものは聞いたことがないと諌めたので、阿闍世はこれを思い止まっていったんは放免したものの、ふたたび出ることのできないように、深宮に幽閉してしまったのである。頻婆沙羅王は、はるかに釈尊を拝礼して、目連尊者をつかわして受戒してほしいと願った。目連尊者は神通力をもって王に授戒した。これによって王は蜜を食し、顔面紅潮し、説法を聞いて和悦してなくなっていった。
また韋提希夫人も、憂愁憔悴し、耆闍崛山に向かって仏を念じたのである。仏はひじょうにあわれんで夫人の幽閉された一室に、目連・阿難両尊者をつれて現われた。そのとき夫人は号泣してのべたことばが「我れ宿し何の罪あつて此の悪子を生む世尊・復た何等の因縁有つて提婆達多と共に眷属となり給う」との問いなのである。そこで仏は夫人のために、この苦をのがれる仮の教えとして観無量寿経を説いたのである。だがこの疑いを観無量寿経では説き明かしてはいない。とくに「世尊復た何等の因縁有って」等の重要な問いに対しては、法華経の提婆品にきてはじめて解決されるのである。
このゆえに大聖人は「されば観経を読誦せん人法華経の提婆品へ入らずばいたづらごとなるべし」とおおせられているのである。
提婆達多は無量劫の昔、阿私仙という仙人であり、法華経を持っていた人である。その時に釈尊は国王と生れて、法華経を求める心が熱烈で、阿私仙が法華経を持っていることを知って国位を捨てて阿私仙の弟子となり千年のあいだ、薪をとり、果物を採り、水を汲み、身を牀座となして仙人に仕えて、法華経を修行しついに成仏することができたのである。
しかるがゆえに釈迦仏は提婆達多品において、提婆達多をわが善知識なりとよんだのである。
かかる法華経の行者がなにゆえにみずから五逆の罪をつくって現に地獄におちたのであろうか。これは業因感果の理を衆生に示さんがためであり、かつはまた釈尊の大善をいよいよ熾んならしめたのである。
提婆達多が天王如来と記別を受けて成仏したことは、法華経の功徳の深重なるを示したのである。されば観無量寿経の疑いも提婆達多品に来なければ明瞭となることはできないのである。
再往この問題を考える時には、釈尊にしても、日蓮大聖人にしても、およそ仏法を説かれるにあたっては前世の業因が今世の業果と現われると確信しているのである。またそれは生命の哲理なのである。現代の人々は過去に生き、現在も生き未来もまた生命活動をなすのであるということをなかなか信ずるものが少ない。しかしわれわれはみな過去世の業因をもって現世に生まれているのである。されば阿私仙が提婆達多と生まれて来て、釈尊の仏法を助け業因業果を衆生に示したことはとうぜんのことである。過去の師匠が今世の弟子となって現われたのである。日蓮大聖人も前世後世ということをかたく信じられて、つぎのようにおおせられている。
生死一大事血脈抄にいわく、
「過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、『在在諸仏土常与師倶生』よも虚事候はじ」(1338:01)
また韋提希夫人がかかる阿闍世という悪子を生んだのも、業因感果の理法によるもので前述のように涅槃経にそのことがくわしく説かれている。
しからば業因感果の理法が定まっているとすれば、人の宿命はどうすることもできないかという問題が起こってくる。すなわち現世の不幸という感果は過去世の不幸をもたらす原因であると断じてしまう。それだけでは人生の救いはない。要はその過去世の不幸な原因をどう転換して現世に幸福を享受していくかということである。
「あなたが現在、不幸なのは、過去にこのようなことをしたからだ」とその原因が明確に示されたところで何になるか。それを宿命転換し、その人にその不幸を打開させ、幸福を与えてこそ、真の宗教といえるのである。ここに法華経の偉大さがあるのである。過去世の悪業の因を転じ、そのまま善業の因となすのが法華経の力である。ただし末法の法華経とは南無妙法蓮華経の七文字であり、三大秘法の御本尊である。この御本尊にひとたび縁するならば、いかなる宿命といえども、転換できえぬものはない。どんな不幸も、どんな苦しみも、この御本尊によって宿命転換していくことができるのである。
されば佐渡御書にいわく「般泥洹経に云く『善男子過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに是の諸の罪報・或は軽易せられ……余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり』等云云」(0959:16)。
転重軽受法門にいわく「涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候」(1000:03)。
第三十八章 広開近顕遠を示す
本文
其の後・仏・寿量品を説いて云く「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出で伽耶城を去ること遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得給えりと謂えり」等云云、此の経文は始め寂滅道場より終り法華経の安楽行品にいたるまでの一切の大菩薩等の所知をあげたるなり、「然るに善男子・我れ実に成仏してより已来・無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云、此の文は華厳経の三処の「始成正覚」阿含経に云く「初成」浄名経の「始坐仏樹」大集経に云く「始十六年」大日経の「我昔坐道場」等・仁王経の「二十九年」無量義経の「我先道場」法華経の方便品に云く「我始坐道場」等を一言に大虚妄なりと・やぶるもんなり。
現代語訳
その後仏は寿量品を説いていわく「いっさい世間の天人および阿修羅はみないまの釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出で、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たとおもっている」と。すなわちこの経文は始め寂滅道場より終わりは法華経の安楽行品第十四にいたるまでのいっさいの大菩薩たちの考えているところを指摘したのである。ついで「しかるに善男子よ、われはじつに成仏してよりこのかた無量無辺百千万億那由佗劫である」と説き示された。この文は華厳経の三箇所に説いてある「始めて正覚を成じ」の文、阿含経にある「初めて成道す」の文、浄名経の「始め仏樹に坐し」の文、大集経の「始めて十六年」の文、大日経の「われ昔道場に坐して」の文等、仁王経の「二十九年」無量義経の「われさきに道場に坐して」の文、法華経方便品の「われ始め道場に坐して」等のながいあいだの説法をわずか一言で大虚妄であると破折する文である。
語釈
寿量品
如来寿量品の略。妙法蓮華経の第十六章。同品で釈尊は、久遠実成を説き明かし、成仏した因と果、仏として振る舞ってきた国土が明かされている。久遠実成とは、インドに生まれ今世で成仏したと説いてきた釈尊が、実は五百塵点劫という非常に遠い過去(久遠)に成仏していたということ。さらに釈尊は、自らが久遠の昔から娑婆世界で多くの衆生を説法教化し、下種結縁してきたことを明かした。五百塵点劫の久遠における説法による下種結縁を久遠下種という。
講義
広開近顕遠の文である。寿量品にいたって釈尊の成道は久遠五百塵点劫にあると示す時、爾前経から法華経の迹門にいたるまで一様に説いてきたところの「始成正覚」はただの一言で大虚妄なりと打ち破られるわけである。
現代人は生命がこの世かぎりであると思い、来世とか過去世といえば迷信であるかのように思っているものが多い。しかし仏教では初めから生命は三世にわたるものとして教を説いており、しかも生命の実体をつききわめるならば、あらゆる生命は地獄界より仏界にいたる十界を本然に具しており、釈尊在世の衆生は五百塵点劫という無量無数の昔に釈迦仏の説く法華経を聞いて下種結縁されたのである。その因縁によっていまだ釈尊の法華経を聞いて成仏するのであると説かれたわけである。
釈尊は五百塵点劫以来、仏として常住してきたと説いたことは、まさに画期的なことであった。それまで、自分はインドで初めて成仏したと、いわゆる始成正覚を説いてきた。寿量品と爾前迹門の説法とは、このように天地雲泥の開きがある。されば、寿量品こそ釈尊一代の骨髄であり、眼目であり、本源なのである。
しかしながら、たとえ五百塵点劫成道の釈尊といえども、もし文底にのぞむるならば、色相荘厳の仏であり、作られた仏である。三十二相八十種好をそなえた理想仏であり、未来の衆生からは縁遠いものである。
日蓮大聖人は、さらにこの五百塵点劫をうち破って、久遠元初をあらわし、無始無終の仏を説き出だしたのである。これこそ、横には、宇宙即我の原理を徹底して説かれたものであり、竪には永遠の生命を説き究め、またそれが瞬間にあると説ききったものである。今この立ち場から、寿量品の「我実成仏已来」等の文を読めば、我とは、別しては日蓮大聖人であり、日蓮大聖人が、久遠元初において、「実と成けたる」すなわち、無作三身如来とあらわれて已来、無始無終であるとの意である。総じては、我とは、十界の衆生全体であり、あらゆる生命が、無始無終であるとの意なのである。
御義口伝にいわく「我実成仏已来無量無辺等の事 御義口伝に云く我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり、然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり、実とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云うなり成とは能成所成なり成は開く義なり法界無作の三身の仏なりと開きたり、仏とは此れを覚知するを云うなり已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり、我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり」(0753: 第三我実成仏已来無量無辺等の事:01)
釈尊の寿量品が、一切経の骨髄であるゆえんは、その文底に、久遠元初の妙法が秘沈されているからである。もし、大聖人の仏法にのぞむるならば、釈尊の広開近顕遠たる寿量品も、略広開の寿量品にすぎない。大聖人の久遠元初の妙法こそ、広開近顕遠なのである。これ、永遠の生命を完全無欠に説ききった大哲理であるがゆえである。
第三十九章 脱益の三徳を明かす
本文
此の過去常顕るる時・諸仏皆釈尊の分身なり爾前・迹門の時は諸仏・釈尊に肩を並べて各修・各行の仏なり、かるがゆへに諸仏を本尊とする者・釈尊等を下す、今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏は皆釈尊の眷属なり、仏三十成道の御時は大梵天王・第六天等の知行の娑婆世界を奪い取り給いき、今爾前・迹門にして十方を浄土と・がうして此の土を穢土ととかれしを打ちかへして此の土は本土なり十方の浄土は垂迹の穢土となる、仏は久遠の仏なれば迹化・他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり、一切経の中に此の寿量品ましまさずば天に日月の・国に大王の・山河に珠の無く・人に神のなからんが・ごとくして・あるべきを華厳・真言等の権宗の智者とをぼしき澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往・権宗の人人・且は自の依経を讃歎せんために或は云く「華厳経の教主は報身・法華経は応身」と・或は云く「法華寿量品の仏は無明の辺域・大日経の仏は明の分位」等云云、雲は月をかくし讒臣は賢人をかくす・人讒すれば黄石も玉とみへ諛臣も賢人かとをぼゆ、今濁世の学者等・彼等の讒義に隠されて寿量品の玉を翫ばず、又天台宗の人人もたぼらかされて金石・一同のをもひを・なせる人人もあり、仏・久成に・ましまさずば所化の少かるべき事を弁うべきなり、月は影を慳ざれども水なくば・うつるべからず、仏・衆生を化せんと・をぼせども結縁うすければ八相を現ぜず、例せば諸の声聞が初地・初住には・のぼれども爾前にして自調自度なりしかば未来の八相をごするなるべし、しかれば教主釈尊始成ならば今此の世界の梵帝・日月・四天等は劫初より此の土を領すれども四十余年の仏弟子なり、霊山・八年の法華結縁の衆今まいりの主君にをもひつかず久住の者にへだてらるるがごとし、今久遠実成あらはれぬれば東方の薬師如来の日光・月光・西方阿弥陀如来の観音勢至・乃至十方世界の諸仏の御弟子・大日・金剛頂等の両部の大日如来の御弟子の諸大菩薩・猶教主釈尊の御弟子なり、諸仏・釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化申すにをよばず何に況や此の土の劫初より・このかたの日月・衆星等・教主釈尊の御弟子にあらずや。
現代語訳
さてこのように釈尊の過去常住が顕われる時に諸仏はみな釈尊の分身である。爾前経や法華経の迹門が説かれた時には、これらの諸仏が釈尊と肩を並べてそれぞれの修業を積んだ仏であった。このゆえに爾前迹門の諸仏を本尊とするものは、釈尊等を卑下している。しかるにいま、発迹顕本されてみると、華厳の台上の仏も、方等・般若・大日経等の諸仏も、みな釈尊の眷属である。釈迦仏が三十で成道した時には、それまで大梵天王・第六天の魔王等が知行していた娑婆世界を奪い取って釈尊の国土であることを明らかにした。しかして爾前迹門の時には十方の国土を浄土であるといい、この土を穢土であると説かれたのを、寿量品にいたって、この土は本土であり十方の浄土はかえって垂迹の穢土であると説き示したのである。このように、寿量品の仏は久遠の本仏であるから、迹化の大菩薩も、他方国土の大菩薩も、みな教主釈尊の御弟子である。一切経の中にこの寿量品がなかったならば、天に日月のないごとく、国に大王のないごとく、山河に宝珠のないごとく、人に神のないのと同じである。
しかるに華厳宗や真言宗等の権経を立てる宗派において、智者であるとあおがれている澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の人々は釈尊の方便をもって一往説いた爾前経に執着して、再往の実義たる法華経を知らず、かつはまた、みずからの依経を讃歎するためにつぎのようにいっている。すなわち華厳宗では「華厳経の教主は報身如来であり法華経の教主は応身如来で劣る」といい、真言宗では「法華寿量品の仏は無明の辺域でいまだ煩悩を断ち切らない迷いの地位にあり、大日経の仏は明の分位で悟れる仏である」等といっている。世間の例を見ても雲は月をかくし、讒言をする臣は賢人をかくす。多数の人が讃めたたえれば黄色の石が玉と見え、へつらいの臣も賢人かと思われる。いま末法濁世の学者たちはかれらの讒言の義にとらわれ隠されて、寿量品の宝珠を尊重していない。それのみか法華経を依経とする天台宗の人々さえも、たぼらかされて金と石の見分けがつかないごとく、爾前と法華とを同じように思っている人々がある。
仏が久遠実成の仏でないならば、所化の弟子も少ないことを弁うべきである。月は影を惜しむことはないけれども、水がなければうつるわけがない。それと同様に仏も衆生を化導しようと思っても衆生の結縁が薄ければ応誕して八相作仏を現ずることがない。たとえばもろもろの声聞が初地・初住までは修業して登っても、爾前経では自調自度で、すなわちみずからの修業にのみ励み化他行が欠けていたから、未来の八相作仏を期して現世の成道がなかったのと同じである。しかれば教主釈尊がインドで成仏した始成の仏であるとするならば、この娑婆世界の梵天・帝釈・日天・月天・四天等は、劫初よりこの国土を領有しているといっても四十余年来の仏弟子である。あたかも霊山会八年間の法華に結縁した衆生が、新参者の主君たる釈尊になじまず、かえってこの娑婆世界に久住古参の梵帝等にへだてられ遠慮しているようなものである。いま久遠実成があらわれてみれば、東方薬師如来の弟子たる日光菩薩・月光菩薩、西方阿弥陀如来の弟子たる観音菩薩・勢至菩薩、その他十方世界の諸仏の御弟子、大日経金剛頂経等の両部の大日如来の御弟子たる諸大菩薩等々いっさいの菩薩はすべて教主釈尊の御弟子である。諸仏が釈尊の分身である以上は、その諸仏の弟子たちは申すまでもなく釈尊の弟子であり、ましてこの娑婆世界の劫初より住している日月や衆星等は教主釈尊の御弟子であることはいうまでもないことである。
語釈
華厳の台上
華厳経の教主、盧舎那仏(るしゃなぶつ)のこと。
八相を現ぜず
八相とは、仏が応身または化身を現じて、作仏を中心とする八種の相を示現して、説法教化すること。下天、託胎、出胎、出家、降魔、成道、転法輪、入涅槃をいう。八相を現ぜずとはすなわち、仏が化他のためにこの世に出現することがない、ということ。
初地・初住
初地とは、菩薩の修行の段階である五十二位の中の第四十一位、十地の初め。初地を歓喜地ともいう。初住とは、五十二位の中の第十一位、十住の初め。初住を発心住ともいう。
五十二位は、華厳経や菩薩瓔珞本業経に基づくとされる。①十信・②十住・③十行・④十回向・⑤十地・⑥等覚・⑦妙覚を合計して五十二位となる。
天台宗の解釈では、五十二位の内容の立て分け方が別教と円教とで異なっている。別教では初地以上を聖位、十回向以下を凡位とする。これに対し円教の菩薩の位では、初住以上を聖位、十信以下を凡位とする。
すなわち、本抄に初地・初住とあるのは、別教あるいは円教のいずれの場合においても、修行して不退位に登った聖者であることを示されている。しかし日蓮大聖人の仏法では、初住位より以前に、妙法(南無妙法蓮華経)を信受した名字即の位から直ちに妙覚の位に至ると説く。
自調自度
自分だけが煩悩を調え、自分だけが悟りを得るという意味で、二乗は菩薩のごとく衆生を救わんとする弘願がないことから自調自度という。
今まいりの主君
新参者の主君。ここでは釈尊を指している。
久住の者
久遠の昔から住していた者の意で、ここでは梵帝・日月・四天等を指している。
講義
これより本門の第二・脱益の三徳を明かす。本章は国土の上から寿量品の仏が一切経の中心であるむねを説き示されている。
諸仏皆釈尊の分身なりの文
結縁の衆生が十方に充満するゆえに東方に分身して薬師仏と現じ、西方に分身して阿弥陀仏と現じ衆生を利益している。すなわち薬師の弟子も阿弥陀の弟子もその根源を尋ねればことごとく釈尊の御弟子である。爾前迹門にはただ当分の根源を明かしてきたが、本門寿量品にいたって真実の根源を明かされたのである。このように爾前迹門では最初下種の師を知らないから、真実の成仏があるわけがない。寿量品において最初下種の師の仏恩深重を感じ、本地難思境智の妙法を信じて名字妙覚の悟りを開くのである。ゆえに寿量品を一切経の肝心というのである。他仏の弟子すらこのとおりで、まして此土娑婆世界はいうまでもないのである。
国土の知行について
法華取要抄にいわく
「梵王云く此の土には二十九劫より已来知行の主なり第六天・帝釈・四天王等も以て是くの如し、釈尊と梵王等と始めて知行の先後之を諍論す爾りと雖も一指を挙げて之を降伏してより已来梵天頭を傾け魔王掌を合せ三界の衆生をして釈尊に帰伏せしむる是なり」(0332:13)
つぎに釈尊の成道より、だれだれがいつの時代より御弟子になったかについては次におおせのごとくである。
法華取要抄にいわく
「文殊弥勒等の諸大菩薩・梵天・帝釈・日月・衆星・竜王等初成道の時より般若経に至る已来は一人も釈尊の御弟子に非ず此等の菩薩天人は初成道の時仏未だ説法したまわざる已前に不思議解脱に住して我と別円二教を演説す釈尊其の後に阿含・方等・般若を宣説し給う然りと雖も全く此等の諸人の得分に非ず、既に別円二教を知りぬれば蔵通をも又知れり勝は劣を兼ぬる是なり委細に之を論ぜば或は釈尊の師匠なるか善知識とは是なり釈尊に随うに非ず、法華経の迹門の八品に来至して始めて未聞の法を聞いて此等の人人は弟子と成りぬ舎利弗目連等は鹿苑より已来初発心の弟子なり、然りと雖も権法のみを許せり、今法華経に来至して実法を授与し法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり」(0334:06)。
第四十章 本尊に迷うを訶嘖し正しく下種の父を明かす
本文
而るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり、倶舎・成実・律宗は三十四心・断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の太子が迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし、華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり、法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす大王の太子・我が父は侍と・をもうがごとし、華厳宗・真言宗は釈尊を下げて盧舎那・大日等を本尊と定む天子たる父を下げて種姓もなき者の法王のごとくなるに・つけり、浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもうて教主をすてたり、禅宗は下賤の者・一分の徳あつて父母をさぐるがごとし、仏をさげ経を下す此皆本尊に迷えり、例せば三皇已前に父をしらず人皆禽獣に同ぜしが如し、寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ不知恩の者なり、故に妙楽云く「一代教の中未だ曾て遠を顕さず、父母の寿知らずんばある可からず若し父の寿の遠きを知らずんば復父統の邦に迷う、徒に才能と謂うとも全く人の子に非ず」等云云、妙楽大師は唐の末・天宝年中の者なり三論・華厳・法相・真言等の諸宗・並に依経を深くみ広く勘えて寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり、徒謂才能とは華厳宗の法蔵・澄観・乃至真言宗の善無畏三蔵等は才能の人師なれども子の父を知らざるがごとし、伝教大師は日本顕密の元祖・秀句に云く「他宗所依の経は一分仏母の義有りと雖も然も但愛のみ有つて厳の義を闕く、天台法華宗は厳愛の義を具す一切の賢聖・学・無学及び菩提心を発せる者の父なり」等云云、真言・華厳等の経経には種熟脱の三義・名字すら猶なし何に況や其の義をや、華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は経は権経にして過去をかくせり、種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり道鏡が王位に居せんとせしがごとし。
現代語訳
このように法華経寿量品における久遠実成の釈尊こそいっさいの諸仏諸経の根源であるにかかわらず、天台宗以外の諸宗はみな本尊に迷っている。倶舎・成実・律の三宗は小乗の三十四心・断結成道の釈尊を本尊としている。これはたとえば、天王の皇太子が迷ってわが身は種姓もない民の子であると思うようなものである。華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗経の宗旨であるが、法相と三論は勝応身に似た仏を本尊としている。これはあたかも天王の太子が、自分の父は普通の侍であるくらいに思っているようなものである。華厳宗・真言宗は釈尊を卑下して法身の大日如来等を本尊と定めているが、これは天子である自分の父を卑下して、種姓もない、ただ形ばかり法王のごとく見せかけているものにつきしたがっているようなものである。浄土宗は釈尊の分身である阿弥陀仏を有縁の仏であると思って、真実の教主たる釈尊を捨てている。禅宗は下賎の者が自分の一分の徳をもって父母を卑しみ下げるがごとく、坐禅によって見性成仏と立て、仏と経を下げている。
このように各宗派はすべて仏をさげ、経をくだして信心修行の根本となるべき本尊に迷っている。たとえば中国における三皇以前の古代には、人々は父母を尊敬すべきことを知らずに禽獣に同様であったのと同じである。寿量品の仏を知らない諸宗のものは畜生と同じで不知恩のものである。ゆえに妙楽大師は「釈尊一代の仏経中に寿量品をのぞいては、いまだかつて仏寿の長遠を顕わしたものがない。父母の寿命は子として知っているべきであり、もし父の寿の長遠を知らないならば、また父の統治する国をも知らずに迷っていることになる。これではいたずらに才能があるからといっても、まったく人の子ではなく畜生である。すなわち寿量品を知らない諸宗の学者は畜生である」といっている。
妙楽大師は唐の末で天宝年中の人である。三論・華厳・法相・真言等の諸宗の主張や依経を深く見聞し広く勘(かんが)えた結果、寿量品の仏を知らないものは父の統治する国に迷う才能のある畜生であると書かれたのである。いたずらに才能があるという人間とは華厳宗の法蔵や澄観や乃至真言宗の善無畏三蔵等は才能のある人師であるけれども、子の父を知らないようなものである。伝教大師は日本における顕密二教の元祖であるが、その著述された秀句に「他宗のよりどころとしている経は仏母の義が一分はあれどもただ愛のみがあって厳の義を欠いている。これに対し天台法華宗は厳愛の義をそなえているゆえに、いっさいの賢人・聖人・学・無学者および菩薩心をおこさせるものの父である。すなわち仏道修行における下種の父であり本源である」といっている。真言・華厳等の経々には種・熟・脱の三義が名字すらなお説かれてない。いわんやその義があろうはずはない。華厳・真言等の経文に一生初地の即身成仏を説くのはどこまでも権経であって過去の生命をかくしている。下種を知らない脱であるから、叛逆者たる超高や道鏡が王位にのぼろうとしたのと同じである。
語釈
天台宗
法華経を依経として、中国・隋代に天台大師智顗が開創した宗派。法華宗・天台法華宗・天台法華円宗ともいう。教相には南三北七の諸義を破して五時八教を立て、観心には円融の三諦をとなえ、一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期することを説く。中国では北斉代の慧文が、竜樹の大智度論と中論によって一心三観の理を説き、これが南岳大師慧思を経て天台に伝えられた。天台は「法華文句」「法華玄義」「摩訶止観」の法華三大部を著して天台宗の教義および観心の行法を大成した。
三十四心・断結成道の釈尊
三十四心とは八忍八智の十六心と、九無礙九解脱の十八心とをいう。十六心は見惑を断じ、十八心は思惑を断ずる。この三十四心で見思惑を断じて成道するのを三十四心断結成道となづける。三蔵経の果位を得、煩悩を断尽した劣応身、丈六の釈尊のこと。
勝応身
法・報・応の三身のうち、応身を説法の内容に分けて、三蔵経の仏を劣応身と名づけ、大乗の初門たる通教の仏を勝応身という。勝応身は、五十二位のうち初地以上の菩薩に対して応現する仏身であり、四土の中には方便有余土に住している。
三皇
中国古代の伝説上の君主。伏羲・神農・黄帝とする説、また伏義・神農までは共通していても、三人目を女媧、燧人、あるいは祝融とする諸説がある。また天皇・地皇・人皇とする説がある。
法蔵
(0643~0712)。華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。「華厳経探玄記」「華厳五教章」「華厳経伝記」などの著があり、則天武后の帰依をうけた。
澄観
(0738~0839)。華厳宗の第四祖。清涼大師。11歳のとき出家し、南山律、三論等を学び、妙楽湛然について天台の止観等を学んだ。五台山清涼寺に住して華厳宗を弘めた。「華厳経疏」六十巻、「華厳経随疏演義鈔」九十巻等と著述が多い。
善無畏三蔵
(0637~0735)。中国・唐代の真言宗の開祖。宋高僧伝によれば、東インドの烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」「蘇婆呼童子経」「蘇悉地羯羅経」などを翻訳、また「大日経疏」を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てている。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。
秀句
法華秀句のこと。三巻(または五巻)。伝教大師最澄の著述。弘仁12年(0821)成立。法華経が諸経より優れていること十点(法華十勝)をあげて説き示し、当時流行していた法相・三論・華厳・真言など諸宗の邪義を破折している。特に、法相宗の得一が法華経を誹謗したことを糾弾している。
学・無学
「学」は学問未熟の人、これから勉学する無智の人をいい、「無学」とはすでに学問に到達した人、学問の修行が終わった有智の人をいう。いわゆる世間で用いられていることばとは反対である。
講義
「皆本尊に迷えり」の御文はひじょうにたいせつである。本尊とは外道にも仏教にもあらゆる宗教に通じていえることである。すなわち本尊とはそれぞれの宗派において「根本となして尊崇する」ものが本尊である。本文にお示しのごとく諸宗はことごとく本尊に迷っている。あるいは大日如来を、あるいは阿弥陀如来を、あるいは応身の釈尊を、あるいは他受用報身の釈尊を本尊としている。なにゆえこのように迷うかとなれば、信ずべき仏と経教に迷っているからである。
この点をよく知るためには現代の世相を見よ。題目のありがたいことはわれも知る、人も知る、国中の人々がこれを知っているが、諸宗はことごとく本尊に迷っている。あるいは釈迦を、あるいは曼荼羅をあるいは大聖人の像を本尊とし、このような雑乱に乗じてあるいは稲荷を、あるいは鬼子母神を、あるいは先祖の戒名などまで本尊として無智の大衆を迷わしめている。このような雑乱の原因はすべて大聖人の仏法にあってだれを本仏と仰ぎ、何を本尊と信ずべきかに迷っているからである。すなわち大聖人の仏法にあっては、日蓮大聖人こそ主師親三徳の本仏であらせられ、大聖人御図顕の曼荼羅を本尊とすることを知らなければならない。
「才能ある畜生」とはいかにも適切なご批判ではないか。法華経や天台学を学び、御書の解釈をいくら勉強したところで、仏と本尊に迷うものは畜生である。人間ならいかに無智であり悪人であっても、自分の主人や、師匠や親を知らないものはない。この主師親を知らないような徒輩は才能があるからといっても畜生という以外にない。ゆえに「才能ある畜生」とはじつに現代の身延や中山や立正大学や顕本法華・本門法華・仏立宗等の僧侶がことごとくこれにあたる。なぜなら仏に迷い、本尊に迷っているがゆえに、前述のような雑乱を呈しているではないか。
いままた重ねてこのことを論ずれば、日蓮宗の各宗派はすこぶる多い。この宗派を大別するならば、日蓮大聖人を人本尊と崇める宗旨と、久遠実成の釈尊を人本尊と崇める宗旨とがある。いずれが真なりとするか。日蓮宗というからには日蓮大聖人のおおせ通りの宗旨でなければならない。自分勝手に教義を作ったり、大聖人の教えを曲げて取ったりするものは日蓮宗というわけにはいかないのである。
この本尊論についていうならば、法の本尊は七文字の南無妙法蓮華経であり、いいかえれば、大聖人図顕の曼荼羅である。さて人本尊を大聖人とすべきか釈尊とすべきか。いまこれを論ずるにあたって人法は一箇であるということを知らなくてはならない。たとえばこの人は医者だという時には医業が法であり、医業を営むその人が人である、医業の法と医業の人と合して医者といえるのである。すなわち人法一箇である。もし医者と称しながら、その人が八百屋を営んでいたとするならば、法と人とは合しないから人法一箇とはいえない。
釈尊は法華経二十八品を説けども南無妙法蓮華経とは唱えない。法華経の受持、読、誦、解説、書写の五種の修行をすすめたが、南無妙法蓮華経はすすめない。されば法本尊を南無妙法蓮華経として釈尊を人本尊とするなら、人法体別であって人法一箇とはいわない。しかるに日蓮大聖人は南無妙法蓮華経と唱えて南無妙法蓮華経の五字七字の題目こそ民衆が救われるものであって、「末法に入りぬれば余経も法華経もせんな(詮無)し」と法華経の修行を制止して、題目を三十年間声も高らかにすすめていられたではないか。大聖人より題目の修行を取ったならばあとに何が残るか。かく観ずれば大聖人こそ南無妙法蓮華経のその人ではないか。さればこそ人法一箇の本体であって、人本尊は大聖人という以外にはないではないか。釈尊を人本尊とするものは、父統の邦に迷い、父を知らざる畜生と大聖人様のおおせられているのにぴったりと符合しているではないか。
第四十一章 種子徳用・種子依経を弁ず
本文
宗宗・互に種を諍う予此をあらそはず但経に任すべし、法華経の種に依つて天親菩薩は種子無上を立てたり天台の一念三千これなり、華厳経・乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子・皆一念三千なり天台智者大師・一人此の法門を得給えり、華厳宗の澄観・此の義を盗んで華厳経の心如工画師の文の神とす、真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし、善無畏三蔵・震旦に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として其の上に印と真言とをかざり法華経と大日経との勝劣を判ずる時・理同事勝の釈をつくれり、両界の漫荼羅の二乗作仏・十界互具は一定・大日経にありや第一の誑惑なり、故に伝教大師云く「新来の真言家は則ち筆受の相承を泯じ、旧到の華厳家は則ち影響の規模を隠す」等云云、俘囚の嶋なんどに・わたて・ほのぼのといううたはわれよみたりなんど申すは・えぞていの者は・さこそとをもうべし、漢土・日本の学者又かくのごとし、良諝和尚云く「真言・禅門・華厳・三論乃至若し法華等に望めば是接引門」等云云、善無畏三蔵の閻魔の責にあづからせ給しは此の邪見による後に心をひるがへし法華経に帰伏してこそ・このせめをば脱させ給いしか、其の後善無畏・不空等・法華経を両界の中央にをきて大王のごとくし胎蔵の大日経・金剛の金剛頂経をば左右の臣下のごとくせし・これなり、日本の弘法も教相の時は華厳宗に心をよせて法華経をば第八にをきしかども事相の時には実慧・真雅・円澄・光定等の人人に伝え給いし時・両界の中央に上のごとく・をかれたり、例せば三論の嘉祥は法華玄十巻に法華経を第四時・会二破二と定れども天台に帰伏して七年つかへ廃講散衆して身を肉橋となせり、法相の慈恩は法苑林・七巻・十二巻に一乗方便・三乗真実等の妄言多し、しかれども玄賛の第四には故亦両存等と我が宗を不定になせり、言は両方なれども心は天台に帰伏せり、華厳の澄観は華厳の疏を造て華厳・法華・相対して法華を方便とかけるに似れども彼の宗之を以て実と為す此の宗の立義・理通ぜざること無し等とかけるは悔い還すにあらずや、弘法も又かくのごとし、亀鏡なければ我が面をみず敵なければ我が非をしらず、真言等の諸宗の学者等・我が非をしらざりし程に伝教大師にあひたてまつて自宗の失をしるなるべし。
現代語訳
各宗派とも成仏の種は自宗の経であるといって争っているが、自分はこれと争わないで、ただ釈尊の経文を証拠として判定しようと思う。法華経を十無上であると立てた天親菩薩はその中に種子無上を立てている。天台の一念三千はすなわちこれである。華厳経や乃至もろもろの大乗経等の諸仏の成仏した種はなにかといえば、すべて法華の一念三千である。天台智者大師のみがただ一人この奥底を得られたのであって、諸宗の学者がこれを知るわけがない。華厳宗の澄観はこの天台の義を盗んで華厳経の「心は工なる画師のごとし」の文を一念三千であると立てた。真言大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門がない。しかるに善無畏三蔵は中国へ来てのち、初めて天台大師の止観を見て一念三千を知り、大日経の「心の実相」「われは一切の本初なり」等の文が一念三千であると立てて、これを真言宗の肝心とした。
そのように盗み入れたのみか、その上に印と真言とは天台法華宗になく、真言宗にあると主張し、法華経と大日経との勝劣を判定する時「理は両方とも一念三千で同じであるが、事相においては真言がすぐれている」との釈を作ったのである。金剛界胎蔵界の漫荼羅にあらわされている二乗作仏・十界互具の原理が、はたして大日経にあるというのか。これこそ天下第一のごまかしである。ゆえに伝教大師は「最近中国から渡来してきた真言家は善無畏が天台の義によって釈して伝えた筆受の相承――もとよりごまかしであるが――を亡失し、弘法は法華経が三重の劣であるといっている。また旧来の華厳家はすなわち中国の法蔵が天台の義に影響を受けて論議を立てたことを隠して、法華経天台宗を誹謗しているのはじつにおかしなことである」といっている。
俘囚の島のごとき未開の地へ行って「ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ」という歌は自分が作ったのだといったら、無知文盲の連中はそうだと思うであろう。中国、日本の仏教学者もまたこのとおりである。されば天台宗九世の良諝和尚は「真言・禅・華厳・三論その他あらゆる宗の経々は一往はすぐれた法門であるようでも、もし法華経等に相対すれば一時的に説いて誘引摂帰する方便の門である」といっている。善無畏三蔵が謗法の罪により閻魔の責にあったのも、この権実相対を誤って理同事勝等と説いたからである。のちにこの邪見をひるがえして法華経に帰伏してこそ、閻魔の責をのがれることができたのである。
その後、善無畏・不空等の真言宗の先輩は金剛界・胎蔵界の曼荼羅の中央に法華経を安置して、法華経を大王のごとく、胎蔵の大日経と金剛の金剛頂経をば、左右臣下のようにしたのもこのゆえである。日本の弘法も教相の十住心判には華厳宗を第九、法華経を第八となしたが、実際にはその弟子実慧・真雅・円澄・光定等の人々に伝える時、両界の中央に法華経を安置せよと説いている。これもまた内心では法華に帰伏している証拠ではないか。たとえば三論宗の嘉祥は、法華玄論十巻に、法華経を第四時の説で会二破二の一乗であると定めたが、のちには自説の非を悟り、天台に帰伏して七年のあいだつかえ、それまで持っていた自分の講席を廃し、衆徒を解散して天台大師の行かれる時に自分の身体を橋にして渡らせてまで前非を悔いたと伝えられている。
また法相の慈恩は法苑林の七巻と十二巻に「一乗の経は方便で三乗の経は真実だ」等の妄言が多い。しかしながら、その弟子栖復の法華玄賛要集第四巻には「ゆえにまた両存す」といって一乗・三乗の双方を認め、法相集の主張たる五性格別をあいまいなものにしてしまった。ことばの上では両方を認めた形であっても、心は天台に帰伏していたのである。華厳の澄観は華厳の疏をつくり、華厳と法華と相対して法華は方便である、と書いているようであるけれども「天台宗は実義であり、わが宗の立義とその理が通じないところはなく同一である」などと書いているのは、後悔して天台宗の誹謗をやめた証拠ではないか。弘法もまたこのとおりである。亀鏡がなければ自分の顔を見ることができない。敵がなければ自分の非を知ることがない。真言宗の諸宗の学者等は自分の謗法を知らなかったけれども、伝教大師にあい奉って以上のとおり自宗の失を知ったのであろう。
語釈
一生初地の即身成仏
華厳経・大日経等に説かれている権教の法門。一生初地の即身成仏とは、この身が華厳宗あるいは真言宗を信仰することによって、五十二位の十地のはじめ、歓喜地の位に達することができる。そして等覚妙覚の仏の位までものぼることができ、成仏疑いなしとする説である。しかし、権教方便の教えであるから、有名無実であり、真の成仏はできないのである。
超高
(~BC0207)。趙高に同じ。中国・秦代の宦官。史記等によると始皇帝に仕えていたが、帝の死後、丞相の李斯と謀って詔を偽造し、帝の長子の扶蘇を殺して末子の胡亥を即位させ権力を握った。旧臣を退けて酷政を行ったため、国中に乱を招いた。二世王(胡亥)を意のままに操り、李斯をも殺させたが、秦軍の形勢が不利と見るや二世王を殺害した。しかし、次いで即位した子嬰によって殺された。
道鏡
(~0772)。奈良時代の法相宗の僧。俗姓は弓削氏。河内国の人で、出家して葛木山に登り修学の後、東大寺に入った。天平宝字5年(0761)、孝謙上皇の病を平癒させて信任を得、上皇が重祚して称徳天皇になると、天平神護元年(0756)、太政大臣禅師に任ぜられ、翌2年(0766)法王の位を得て政治の実権を握り、専横を極めた。更に皇位を窺ったが、和気清麻呂に退けられた。神護景雲4年(0770)、天皇の死後、下野国(栃木県)薬師寺別当に左遷され、その地で没した。
天親菩薩
生没年不明。四、五世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。唯識思想(実在するのは認識主体の識だけであって、外界は心に立ち現れているだけで実在しないという思想)を発展させた。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
種子無上
天親の著「法華論」に説かれてある十無上のひとつ。法華経の種子の無上であることを説いたもの。
澄観
(0738~0839)。中国華厳宗の第四祖。浙江省越州山陰の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、南山律、三論等を学び、蘇州妙楽大師から天台の止観等を習うなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺(清涼寺)で請われて華厳経を講じた。多くの書を著し、華厳宗の興隆に努めた。華厳経随疏演義鈔巻十九では、華厳経の「心如工画師」の文を天台大師の一念三千の法門が説かれてはじめて可能な性悪性善の法門を用いて解釈している。著作には「華厳経疏」六十巻、「華厳経随疏演義鈔」九十巻等と著述が多い。
心如工画師
華厳経に「心は工なる画師の種々の五陰を造るが如く、一切世界の中に法として造らざること無し」とあることをいう。これは、われわれの一心が、あらゆる諸法を形づくるのを、あたかも、巧みなる画師が種々の画をかいて、あらゆる場合を表現するようなものであるという意味の文である。華厳宗の澄観は、天台の一念三千を盗み取って、この文を一念三千の依処であると主張した。
震旦
中国の歴史的呼称。梵名チーナ・スターナ(Cīna-sthān)の音写。真旦・真丹とも書く。中国人の住んでいる地域との意。チーナ(Cīna)とは秦の音写。スターナ(sthān)とは地域・場所の意。古代インド人が秦(中国)をさした呼称。おもに仏典の中に用いられた。
「新来の真言家は則ち筆受の相承を泯じ」
伝教大師がその著・依馮集で弘法の真言を破折した文。「筆授の相承」とは、中国・唐代の真言宗の一行阿闍梨が、善無畏三蔵より筆受した真言の相承をいう。一行阿闍梨は嵩山の普寂について禅を学び、更に諸方で律蔵ならびに諸経論を研鑽し、また天台の教義にも通じていたといわれる。善無畏述・一行記の「大日経疏」は、まったく天台宗の意によって大日経を釈したものであるが、弘法の東密は大日経を学ぶうえでこの大日経疏を唯一絶対の権威とするのに、天台法華を大日の三部より劣ると下している。よって、これは善無畏・一行の真言の相承を破ったものといわれるのである。なお「泯す」とは、ほろぼす、すたれさせるなどの意である。
「旧到の華厳家は則ち影響の規模を隠す」
前項に同じく、伝教大師がその著・依馮集で華厳宗の義を破ったもの。華厳宗の法蔵三蔵の五教(小乗教・大乗始教・大乗終教・大乗頓教・大乗円教)は、天台の五時(華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時)に範をとり、それに影響されたのである。このことを「華厳宗の沙門恵苑判じて云わく法蔵師の所立の義は天台の義に影響す」(『依憑天台集』)と判じた明文があるにもかかわらず、日本の華厳宗はこれを隠して天台宗を下している非を指摘した文である。「旧到の」とは、華厳宗が真言宗などより古くから伝えられていたところから、このようにいったもの。「影響の規模」とは、影響を受けて手本とすること。規模には「構造・仕組みの大きさ」だけでなく、「手本・模範」「名誉・面目」「ききめ・成果」「代償・返礼」「よりどころ・証拠」等、古語として多くの意がある。
ほのぼのといううた
「ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ」という古今和歌集にある歌で、柿本人麻呂の作と伝えられる。
良諝和尚
生没年不明。中国・唐代の天台宗の僧。良湑とも書く。天台大師から第九代の伝法弟子。開元寺に住み、後に日本天台宗第五代になる智証が嘉祥4年(0851)にこの寺を訪れた時、天台宗旨を講述した。和尚は弟子から呼ぶ師匠の称。なお禅宗では「おしょう」、天台では「かしょう」、真言、律宗では「わじょう」と読む。
閻魔の責
善無畏が講述し、一行が筆記した大日経疏巻五に「阿闍梨(善無畏)の言く、少かりし時、嘗て重病に因りて、神識を困絶せしに、冥司に往詣して、此の法王(閻魔)を覩たり(中略)因りて放されて、此に却還せらる。蘇るに至りて後、その両臂の縄に繄持せられし処に、猶お瘡痕あり、旬月にして癒たりき」とある。日蓮大聖人は、善無畏三蔵抄に「善無畏はあるとき、一時に頓死して、再び生き帰って語るには、地獄に堕ちて、二人の獄卒に鉄縄で七重に縛られ、閻魔大王の前へ連れていかれた。そのとき、これまで修行した真言を思い出して唱えたが、獄卒の責めはますます激しくなるばかりだった。かろうじて法華経の題目を念じたところ、首の縄がゆるみ、今度は法華経譬喩品第三の、今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子・而今此処・多諸患難・唯我一人・能為救護の文を声高く唱えたところ、鉄縄が切れ、この世に帰されたという」と説かれている。善無畏が何故に、この文を唱えて苦をまぬかれたかといえば、この文を唱えることは、法華経・釈迦仏に帰依することを表しているからである。この文は、教主釈尊が自ら娑婆世界の一切衆生にとって主・師・親三徳を具備した仏であることを宣言したものとして著名である。
実慧
(0786~0847)。平安時代初期の真言僧。弘法十大弟子の一人。俗姓は佐伯氏、讃岐国多度郡に生まれる。東寺の初代長者。晩年は河内の檜尾に住し、檜尾僧都と称される。承和14年(0847)没、行年62歳。
真雅
(0801~0879)。平安時代前期の真言僧。弘法十大弟子の一人。俗姓は佐伯氏、讃岐国多度郡に生まれる。弘法の弟。清和天皇の寵を受ける。承和十四年東大寺の別当、貞観二年東寺の長者となる。元慶3年(0879)没、行年79歳。
円澄
(0771~0836)。平安時代前期の天台宗の僧。武蔵国埼玉郡の人で俗姓は壬生氏。はじめ鑑真の高弟である道忠について出家し、法鏡行者と称した。道忠の死後、伝教大師に師事し、名を円澄と改めた。大同元年(0806)伝教大師による最初の円頓戒授与で、その受戒者の上首となり、翌大同二年、法華長講にて伝教に次いで第二巻を講義した。弘仁三年から八年にかけて、伝教から円教三身・止観三徳の義などを承け、大師の死後は勅命により、延暦寺第二代座主となった。しかし報恩抄に「円澄は天台第二の座主・伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり」とあるように、円澄からは、なかば真言がはいってしまったのである。承和4年(0836)没、行年66歳。諡号は寂光大師。
光定
(0779~0858)。平安時代前期の天台宗の僧。伝教大師の弟子。伊予国風早郡の人で俗性を贄氏という。父母に死別してのち、僧勤覚のすすめで大同の初め上洛した。大同3年(0808)比叡山にのぼり伝教大師に師事し、義真にしたがって止観の講義を受けた。弘仁3年(0812)東大寺の戒壇で具足戒を受け、広く諸宗を学び、伝教大師、嵯峨天皇から寵愛を受けた。晩年になって勅により延暦寺の別当職に定められ、世に別当大師と称した。伝教大師の意を受け、大乗戒壇設立に尽力した。著書に「一心戒文」などがある。天安2年(0858)没、行年80歳。
法華経を第四時・会二破二と定れども
嘉祥が「法華玄論」の中で、法華経が般若経よりも劣っているとして、五時の第四時に入れ、しかも法華経は二乗を会して二乗を破する教法であり、菩薩に対して会もなく破もないとした。
法苑林・七巻・十二巻に一乗方便・三乗真実等の妄言多し
法苑林は、中国,唐の慈恩大師窺基の著「大乗法苑義林章」七巻のこと。各巻に上下があり全十四巻からなる。その七巻と十二巻に一乗方便・三乗真実――一乗すなわち法華経は方便の説であり、三乗は真実の法である――という邪義・邪説が多い。虚心に経文を読めば、一乗の法華経こそ最高であって、三乗法の爾前経がそのための方便であることは明白であるにもかかわらず、慈恩はまったくそれを逆転させてしまったのである。
玄賛の第四には故亦両存等と我が宗を不定になせり
玄賛は、慈恩の弟子栖復の著「法華経玄賛要集」のこと。その第四巻に「故亦両存」――「故に亦両存す」と読む。すなわち一乗の法と三乗の法とが両法存在する――と説いてあり、我が宗(法相宗)の主張である五性各別をあいまいなものにしてしまった、との意。
講義
種熟脱を論じない仏法は灰断に同じである。成仏とか功徳といっても、いつ、いかなる仏法を種として修業したかがわからないで、成仏や功徳の姿ばかりを論ずることはなんの役にも立たない。胡瓜の種から生じた木に、茄子のなるわけがない。そこで仏教ではいろいろの修行と功徳を説いているが、いずれの経教が成仏の根本となり種となるかが問題である。しかしてその根本は法華経であり、天親菩薩は法華経を「種子無上」と立て、天台は一念三千と説き、日蓮大聖人は諸仏能生の根源である文底下種の三大秘法を建立あそばされて、一切衆生の即身成仏の基本となされたのである。
しからば、われわれの信心修行にあった種熟脱はどうなるか。籤二にいわく「聞法を種となし発心、当心を芽となし、在賢は熟のごとく入聖は脱のごとし」等云云。
これについて日寛上人は、つぎのごとく釈せられる。すなわち聞法を種となすは聞法下種・発心を芽となすは発心下種で聞法、発心ともにこれ名字即の位である。在賢は勧行相似で入聖は分身究竟であると。要するに種熟脱とは化導の始終である。法華経迹門では大通仏に下種中間に熟してしかも未来の華光如来等と授記されている。本門は五百塵点劫下種・中間四味三教迹門までを熟となし、寿量品に得脱するを脱となす。このように法華経では種熟脱化導の始終を論じているが、爾前経にはこれがないことをご判定あそばされているのである。
しかしまた真実の無上の種子は、法華経寿量品の文底に秘し沈められている。
開目抄にいわく
「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189:02)
観心本尊抄にいわく
「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249:17)
秋元御書にいわく
「種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072:05)
以上のごとく法華経の一念三千は成仏の種である。華厳、真言は成仏の理をわが法門にとり入れて、成仏の種でもないものを、成仏の種とごま化しをなしてきているゆえに、かれらの宗派において成仏はありえない。成仏なしえないということは、すなわち人生に幸福をもたらさないということである。しかして末法今時の成仏の種は、さきほども引いた寿量品の底に秘し沈められたとおおせられたその秘法の妙法、すなわち文底下種の本尊である。
第四十二章 菩薩等守護なき疑いを結す
本文
されば諸経の諸仏菩薩・人天等は彼彼の経経にして仏にならせ給うやうなれども実には法華経にして正覚なり給へり、釈迦諸仏の衆生無辺の総願は皆此の経にをいて満足す今者已満足の文これなり、予事の由を・をし計るに華厳・観経・大日経等をよみ修行する人をば・その経経の仏・菩薩・天等・守護し給らん疑あるべからず、但し大日経・観経等をよむ行者等・法華経の行者に敵対をなさば彼の行者をすてて法華経の行者を守護すべし、例せば孝子・慈父の王敵となれば父をすてて王にまいる孝の至りなり、仏法も又かくのごとし、法華経の諸仏菩薩・十羅刹・日蓮を守護し給う上・浄土宗の六方の諸仏・二十五の菩薩・真言宗の千二百等・七宗の諸尊・守護の善神・日蓮を守護し給うべし、例せば七宗の守護神・伝教大師をまほり給いしが如しと・をもう、日蓮案じて云く法華経の二処・三会の座にましましし、日月等の諸天は法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸うがごとく月の水に遷るがごとく須臾に来つて行者に代り仏前の御誓をはたさせ給べしとこそをぼへ候にいままで日蓮をとぶらひ給はぬは日蓮・法華経の行者にあらざるか、されば重ねて経文を勘えて我が身にあてて、身の失をしるべし。
現代語訳
されば諸経の諸仏・菩薩・人天等は、それぞれ爾前の経で成仏したようであっても、じつには法華経にいたってはじめて正覚を成じたのである。釈尊等の諸仏が菩薩行の時に立てた「無辺の衆生を度せん」とする誓願は、みなこの法華経において満足した。すなわち方便品の「いまはすでに満足した」と説かれたのがこれである。
日蓮は以上の道理にもとづいて考えてみるのに、華厳・観経・大日経等の爾前経を読み修行する人をば、その経々の仏も菩薩も天等も守護するであろうことは疑いのないことである。ただし大日経や観経等を読む行者などが、すなわち真言や念仏の行者が法華経の行者に敵対をなすならば、かの行者を捨てて法華経の行者を守護すべきである。たとえば孝行の子供であっても、父が王敵となるならば、父を捨てて王のもとに参ずるのが孝行の至極である。仏法もまたこのとおりである。法華経の諸仏・菩薩・十羅刹が日蓮を守護するのはとうぜんのことであり、なおその上に浄土宗の六方から集まってきた諸仏・二十五の菩薩・真言宗の千二百等・七宗の諸尊・守護の善神がすべて日蓮を守護してくれるであろう。たとえばかつて七宗の守護神が伝教大師を守護したのと同じであると思う。
日蓮はこのいきさつを考えて思うのに、法華経の二処三会の法座につらなっていた大日天・大月天等の諸天は法華経の行者が出来したならば、磁石が鉄を吸うごとく、月の影がそのまま水にうつるがごとく、ただちに来たってかたく法華経の行者を守護し、行者に代わって難を受け、もって仏前のお誓いを果たすべきであると思うのである。しかるにいままで日蓮をとぶらうことのない理由は、日蓮が法華経の行者でないのか。されば重ねて経文を勘えてわが身にあてて身のとがを知り、諸天善神が日蓮を守護するかしないかを明らかにするであろう。
語釈
二処・三会
法華経が説かれた二つの場所と三つの説法の場面(前霊鷲山会・虚空会・後霊鷲山会)。法華経の説法の場は、最初は霊鷲山ではじまり、見宝塔品第十一の後半から仏と全聴衆が虚空へと移り、薬王菩薩本事品第二十三から霊鷲山に戻る。
法華経の行者
法華経をその教説の通りに実践する人。日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。
仏前の御誓
法華経には諸天善神がかならず法華経の行者を守護すると説かれている。すなわち安楽行品第十四には「諸天は昼夜に、常に法の為めの故に、而も之れを衛護し、能く聴者をして皆な歓喜することを得しめん」とあり、また同じ安楽行品の中に「天の諸の童子は 以て給使を為さん 刀杖も加えず 毒も害すること能わじ」とある。また嘱累品第二十二の総付嘱の段においては、諸天が法華経の付嘱を受け、また陀羅尼品第二十六においては、鬼子母神、十羅刹女その他諸天善神が、法華経の行者を守護する旨、仏前で誓いを立てている。このように、われわれもかならず諸天の加護を受けているのである。
日月等の諸天は……いままで日蓮をとぶらひ給はぬ
眼前の迫害の嵐のうちにあって、なぜ諸天は法華経の行者を守護するとの仏前の御誓にもかかわらず、その功力がすぐ現われないかについて、日蓮大聖人は富木殿御返事に「今に天の加護を蒙らざるは一には諸天善神此の悪国を去る故か、二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか、三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか」(0962:05)とおおせられている。この三つの理由のうち、第一については立正安国論、第二については諫暁八幡抄、第三については本抄などにそれぞれくわしく論じられている。
講義
仏教上のあらゆる諸仏・諸菩薩はことごとく法華経を種として得道したのであるから、法華経の行者をとうぜんに守護すべきである。爾前経でも成仏したものがあるように説かれているが、それは真実の得道ではない。
法華初心成仏抄にいわく
「無量義経には『是の故に衆生の得道差別せり』と云い又『終に無上菩提を成ずることを得じ』と云へり、文の心は爾前の経経には得道の差別を説くと云へども終に無上菩提の法華経の得道はなしとそ仏は説き給いて候へ」(0548:06)
すなわち、十界の皆成仏を説き明かしたのはまったく法華経にかぎる。ゆえにあらゆる仏菩薩は法華経に敵対するものを守護するわけがない。父母の敵に味方するものがないのと同じである。しかるに邪宗のものがかえって安穏で、大聖人が重なる大難を受けるのはどうしたことか。この疑いに対して、重ねて経文を引き日蓮こそ法華経の行者であり、本仏であると断定しようとなさるのである。
またこの章に「日蓮法華経の行者にあらざるか」というおことばがある。この法華経の行者とは末法の仏ということを意味しているのである。現今の社会において日蓮大聖人を仏と見るか、菩薩と見るかによって各宗の正邪が判断されるのである。前節において述べたごとく、インドの釈尊を人本尊と見るか、日蓮大聖人を人本尊と見るかによって邪正があるがごとく、この法華経の行者を仏に見るか、菩薩に見るかによって同じことがいえるのである。開目抄は人本尊の開顕の御抄であることはいうまでもない。この法華経の行者を、単に法華経を修行した人などと邪宗の徒輩がよむゆえに大聖人の人本尊としての宣言をすなおに受け取れなくなってくる。百万遍開目抄をよむといえどもますます迷路に入って大聖人のご真意はとうていつかむことはできない。これらの徒輩は仏法に総の義、別の義あるを知らないものである。また大聖人の「翳眼のもの・眇目のもの・一眼のもの・邪目のものはみたがへつべし」(0194:開目抄:14)とのおことばはこれらの徒輩におおせられたものと拝することができる。
第四十三章 宝塔品三箇の諌勅を引く
本文
疑て云く当世の念仏宗・禅宗等をば何なる智眼をもつて法華経の敵人・一切衆生の悪知識とはしるべきや、答えて云く私の言を出すべからず経釈の明鏡を出して謗法の醜面をうかべ其の失をみせしめん生盲は力をよばず、法華経の第四宝塔品に云く「爾の時に多宝仏・宝塔の中に於て半座を分ち釈迦牟尼仏に与う、爾の時に大衆二如来の七宝の塔の中の師子の座の上に在して結跏趺坐し給うを見たてまつる、大音声を以て普く四衆に告げ給わく、誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん、今正しく是れ時なり、如来久しからずして当に涅槃に入るべし、仏此の妙法華経を以て付属して在ること有らしめんと欲す」等云云、第一の勅宣なり。
又云く「爾の時に世尊重ねて此の義を宣べんと欲して偈を説いて言く、聖主世尊・久しく滅度し給うと雖も宝塔の中に在して尚法の為に来り給えり、諸人云何ぞ勤めて法に為わざらん、又我が分身の無量の諸仏・恒沙等の如く来れる法を聴かんと欲す各妙なる土及び弟子衆・天人・竜神・諸の供養の事を捨てて法をして久しく住せしめんが故に此に来至し給えり、譬えば大風の小樹の枝を吹くが如し、是の方便を以て法をして久しく住せしむ、諸の大衆に告ぐ我が滅度の後誰か能く此の経を護持し読誦せん今仏前に於て自ら誓言を説け」、第二の鳳詔なり。
「多宝如来および我が身集むる所の化仏当に此の意を知るべし、諸の善男子・各諦かに思惟せよ此れは為れ難き事なり、宜しく大願を発こすべし、諸余の経典数・恒沙の如し此等を説くと雖も未だ為れ難しとするに足らず、若し須弥を接つて他方無数の仏土に擲げ置かんも亦未だ為れ難しとせず、若し仏滅後・悪世の中に於て能く此の経を説かん是則ち為れ難し、仮使劫焼に乾れたる草を担い負うて中に入つて焼けざらんも亦未だ為れ難しとせず、我が滅度の後に若し此の経を持ちて一人の為にも説かん是則ち為れ難し、諸の善男子・我が滅後に於て誰か能く此の経を護持し読誦せん、今仏前に於て自ら誓言を説け」等云云、第三の諫勅なり、第四・第五の二箇の諫暁・提婆品にあり下にかくべし。
現代語訳
日蓮大聖人のご宣言に対して、疑っていうには、当世の念仏宗・禅宗等をばいかなる理由により、いかなる智眼をもって法華経の敵人であり、一切衆生の悪知識であると断定するのであるか、と。
答えていわく、私の意見はさしひかえ、経文解釈の明鏡を引き、もって謗法者どもの醜面を浮かべて、その罪状をみせしめよう。ただし、邪智謗法の生きめくらはその力がおよばず、かえって軽賤し怨嫉を懐くのみである。
法華経の第四宝塔品にいわく「その時に多宝仏は宝塔の中において半座をわかちて釈迦牟尼仏に与えた。会座の大衆は釈迦・多宝の二如来が、七宝塔の中の師子座の上に正座を組んで坐っているのを見ていた。その時に釈迦仏は大音声をもってあまねく四衆につげていわく、誰かよくこの娑婆国土において広く妙法華経を説くものがあるか。今はまさしくその誓いを立つべき時であるぞ。如来はひさしからずしてまさに涅槃に入るであろう。仏はこの妙法華経を付嘱して仏滅後においてもながく正法の流布することを欲するのであるから、すみやかに誓いを立つべきである」と。これが法華経における第一の勅宣である。
また同じく宝塔品にいわく「その時に、世尊は重ねてこの義を述べんと欲して偈を説いていわく、聖主世尊(多宝仏)は久しき昔に滅度されているとはいえ、いま釈迦仏が法華経を説くにあたり、宝塔の中に坐して、なお法のために来臨されている。大衆の諸君はどうしてみずから進んで末法の弘通を誓い、どうして不惜身命の誓いを立てないでいられようか。また釈迦仏分身の無量の諸仏が恒沙等のごとく無数に来集しているのも、すべてこの妙法を聴聞し、かつは未来の弘通をすすめんがために来たったのである。これらの諸仏はおのおの自身の妙なる国土および弟子衆・天人・竜神等のもろもろの供養のことを捨てて法をしてひさしく住せしめんがために、この娑婆世界に来至したのである。たとえば大風の小枝を吹きなびかすごとく、この方便をもって法をして未来永遠に流布せしめようとしているのである。もろもろの大衆につぐ、仏の滅後において誰かよくこの経を護持し読誦するものがあるか。いまこの仏前においてみずから誓いのことばを述べよ」と、これが第二の鳳詔である。
またいわく「多宝如来および釈迦仏分身の化仏たちはもとより仏滅後の弘通を勧める意を知っているのである。もろもろの善男子よ、おのおの諦らかに思惟せよ、これはこれひじょうに難事である。よろしく大願を発せ。法華経以外の諸経典の数は恒沙のごとく多数であるが、これらを説くのはいまだむずかしいことではない。もし須弥山を持ち上げて、他方無数の遠い仏土に投げおくことは、いまだむずかしいことではない。もし仏の滅後、末法悪世の中によくこの経を説くことは、すなわちひじょうな難事である。たとえ、この世界が焼き尽くされる劫焼の中を枯れ草を背負って中へ入って、しかも焼けないこともまたこれはむずかしいことではない。仏滅後にもしこの経を持ちて一人のためにも説かんことは、すなわちひじょうな難事である。もろもろの善男子よ、わが滅後において、だれかよくこの経を護持し読誦するか。いま仏前においてみずからすすんで誓言を説け」とおおせられているのが、すなわち第三の諌勅である。第四、第五の二箇の諌暁は提婆品にあり、しだいを追って述べるであろう。
語釈
生盲
「しょうもう」とも読む。①生まれつき目の見えない人。②物事の筋道や本質をわきまえない人。ここでは②の意で、目はみえても、邪智謗法の故にまっすぐにものをみることができない者をいわれている。
結跏趺坐
跏(足の裏)と趺(足の甲)を結ぶ坐法の意。足の甲で左右それぞれ反対側の腿をおさえる。先に右足の甲を左の腿に置き、次に左足を右の腿に置いて、左足が上で右足が下になる形を降魔坐という。修行者が魔を降伏する坐相である。その逆に、先に左足の甲を右の腿に置き、次に右足を左の腿に置いて、右足が上で左足が下になる形を吉祥坐という。悟りを開いた者の坐相である。禅宗では降魔坐、密教では吉祥坐を用いる。片足だけを腿の上に置くのを半跏趺坐という。
諸の善男子・各諦かに思惟せよ此れは為れ難き事なり
六難九易、すなわち滅後の流通のむずかしさをたとえをもって示したもの。法華経見宝塔品第十一に説かれている。六難とは、一に広説此経難、二に書持此経難、三に暫読此経難、四に少説此経難、五に聴受此経難、六に受持此経難。九易とは一に余経説法易、二に須弥擲置易、三に世界足擲易、四に有頂説法易、五に把空遊行易、六に足地昇天易、七に大火不焼易、八に広説得通易、九に大衆羅漢易である。
劫焼
四劫(成・住・壊・空)の中の壊劫に発生する大火災をさす。大の三災の一つである火災のこと。
講義
本章以後は五箇の諌暁を引き、一代仏教の勝劣浅深を判定するにあたり、まず宝塔品の三箇の諌勅を引かれる段である。多宝塔の出現は証前起後の二意あり、正意は起後にあって、本章に述べられたように滅後の弘法を勧進するにあり、すなわち地涌の菩薩を呼び出して付嘱せんとし、法華経の滅後の弘通が釈迦多宝十方の諸仏の真意であることを示さんために来集したのである。
その三仏来集の前において本文のごとく滅後の弘法を仏は大衆に命ぜられたのである。この鳳詔を信ずることができたならば、仏の真意が那辺にあったかはただちに領解できるであろう。ただ第三の詔は六難九易といって滅後の弘通がひじょうに難事であることを示しているのである。六つの難事とは、一つには悪世の中で一般にこれを説くことがむずかしいとし、二には書写の行は難事であり、三には読誦の難事であり、四には一人のために説くことも難事であり、五には義を問うことが難事であり、六には受持また難事であるというのである。ことに末法の法華経は受持即観心であって、難事中の難事とするのである。
第四十四章 諸経の浅深勝劣を判ず
本文
此の経文の心は眼前なり青天に大日輪の懸がごとし白面に黶のあるににたり、而れども生盲の者と邪眼の者と一眼のものと各謂自師の者・辺執家の者はみがたし万難をすてて道心あらん者にしるしとどめてみせん、西王母がそののもも・輪王出世の優曇華よりもあいがたく沛公が項羽と八年・漢土をあらそいし頼朝と宗盛が七年・秋津嶋にたたかひし修羅と帝釈と金翅鳥と竜王と阿耨池に諍えるも此にはすぐべからずとしるべし、日本国に此の法顕るること二度なり伝教大師と日蓮となりとしれ、無眼のものは疑うべし力及ぶべからず此の経文は日本・漢土・月氏・竜宮・天上・十方世界の一切経の勝劣を釈迦・多宝・十方の仏・来集して定め給うなるべし。
問うて云く華厳経・方等経・般若経・深密経・楞伽経・大日経・涅槃経等は九易の内か六難の内か、答えて云く華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等の三蔵・大師・読んで云く「華厳経と法華経と六難の内・名は二経なれども所説・乃至理これ同じ四門観別・見真諦同のごとし」、法相の玄奘三蔵・慈恩大師等・読んで云く「深密経と法華経とは同く唯識の法門にして第三時の教・六難の内なり」三論の吉蔵等読んで云く「般若経と法華経とは名異体同・二経一法なり」善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等・読んで云く「大日経と法華経とは理同じ、をなじく六難の内の経なり」、日本の弘法・読んで云く「大日経は六難・九易の内にあらず大日経は釈迦所説の一切経の外・法身・大日如来の所説なり」、又或る人云く「華厳経は報身如来の所説・六難・九易の内にはあらず」、此の四宗の元祖等かやうに読みければ其の流れをくむ数千の学徒等も又此の見をいでず、
現代語訳
この経文の心は眼前に明らかである。青空に太陽の輝いているごとく白顔にほくろのあるように明々白々である。しかれども、生盲のものと、邪眼のものと一眼のものと、自分の邪師の教えのみ主張するものと、かたよった教えに執着するようなものは、この明らかな事実すら見違えるであろう。万難を排して真の仏道を求めるものに、しるしとどめて見せようと思う。かの中国における伝説の神女たる西王母の園の桃にあうのや、転輪聖王の出世の出現によって、三千年に一度咲くといわれる優曇華にあうよりもあいがたいことである。また沛公と項羽が八年にわたって中国で戦ったよりも、頼朝と宗盛が七年にわたって日本の国を争ったよりも、修羅と帝釈の戦い、金翅鳥と竜王が阿耨池に戦ったよりも、日蓮と諸宗とは、さらにはげしい重大な闘争であることを知るべきである。
法華経の会座において未来の正法弘通を釈迦・多宝・分身の三仏が厳粛に説かれているのに対し、日本国に法華経の真実なる義が説きあらわされたことはわずか二度であり、それは伝教大師と日蓮であると知れ。智慧の眼がない盲どもはこれを疑うであろう。とうていその力のおよぶところではない。この経文は日本・漢土・月氏・竜宮・天上・十方世界の一切経を釈迦・多宝・十方の仏が来集して、勝劣浅深を決定されたものであると知るべきである。
問うていわく華厳経・方等経・般若経・深密経・楞伽経・大日経・涅槃経等は九易のうちに入るのか、あるいは六難のうちに入るのか。答えていわく華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等の三蔵大師が読んでいわく「華厳経と法華経とは六難のうちで名は二経別々であるが、所説の法門ないし、その所詮の理は同じである。たとえば観門に有門・空門等の四門を設けても、その真諦を見る、すなわち悟りは同一であるようなものである」と。法相宗の玄奘三蔵や慈恩大師等が読んでいわく「深密経と法華経とは同じ万法唯識の法門で、第三時の教であり六難のうちである」と。三論宗の吉蔵等が読んでいわく「般若経と法華経とは名は異なれども、当体はひとつで二経が一箇の法門である」と。善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等が読んでいわく「大日経と法華経とは理が同じで、同じく六難のうちの経文である」と。日本の弘法は読んでいわく「大日経は六難九易のうちに入らない。すなわち大日経は釈迦の説法した一切経の外にあり、法身仏たる大日如来の所説である」と。またある人のいうには「華厳経は報身如来の所説であり、六難九易のうちに入らない」と。この四宗の元祖等がこのように読んでいるからその流れをくむ数千の学徒たちもみなこの見解の範囲を出ない。
語釈
各謂自師の者
俱舍論疏にある「諸外道各謂自師是一切智」の文より出たことば。諸々の外道は、自分の師が一切智を得て、その真意を伝えるのであると、思いこんでいるということ。
西王母がそののもも
中国における伝説の神女であり、女子で仙人となったものは、みなこの西王母に従ったという。崑崙の圃、閬風の苑にいるといわれ、この園にある桃の木は三千年に一度実るという。会い難いもののたとえとして引かれたことば。
輪王出世の優曇華
優曇華は、梵名ウドゥンバラ(Udumbara)の音写。憂曇婆羅・鳥曇跋羅などとも書き、瑞応・祥瑞と訳す。仏典では、三千年に一度だけ開花すると説かれ、仏が出現し、また転輪聖王が出現する時に花を咲かせるともいわれる。法華文句巻四上には「優曇華とは此には霊瑞と言う、三千年に一たび現ず、現ずる時即ち金輪王出ず」とあり、会い難いこと、きわめてまれなことの譬えに用いられる。
沛公が項羽と八年・漢土をあらそいし
沛公は、中国・前漢王朝を開いた高祖・劉邦(BC0247またはBC0256~BC0195前)のこと。沛郡の生まれであったため、こう呼ばれた。秦の始皇帝死去の翌年(BC0209)、楚の懐王を擁し兵を挙げた。項羽は楚の武将の子孫で、会稽で兵を挙げ、秦の都咸陽を攻略して西楚の覇王と称した。秦の滅亡後、劉邦は、懐王を殺した項羽と天下をかけて八年間にわたって争いを展開し、垓下の戦いに勝ってBC0202年に皇位につき、都を長安に定めて漢朝を創業した。
頼朝と宗盛が七年・秋津嶋にたたかひし
頼朝は源頼朝(1147~1199)のことで、鎌倉幕府初代将軍。宗盛は平宗盛(1147~1185)のことで、平家最後の主。秋津嶋は日本国の異称。源平両氏は七年もの長きにわたっておたがいに争いあったことをいう。
修羅と帝釈と……諍える
観仏三昧海経によれば、香山の乾闥婆の娘と阿修羅との間に生まれた娘の悦意を、帝釈が求めて妻とした。ある時、帝釈が多くの綏女と歓喜園で遊戯しているのをみて嫉妬した悦意は、父の阿修羅にこのことを知らせた。阿修羅は激怒し、四兵を出し、帝釈の住む喜見城、須弥山を動かし、また、四大海の水を波動させて帝釈を攻めた。帝釈は、善法堂で大名香をたき、般若波羅蜜を持して仏道を護持する大誓願をすると、虚空から大刀輪が下りてきて、阿修羅の耳・鼻・手・足を切り落とした。阿修羅は恐れおののいたが遁げるところがなく、小身となって蓮の絲の孔の中にかくれた、とある。
金翅鳥と竜王と阿耨池に諍える
金翅鳥は古代インド伝説上の鳥で、天竜八部衆の一つ。梵名ガルダ(garuḍa)の訳名。迦楼羅と音写する。翅や頭が金色なのでこのように呼ばれ、妙翅鳥とも訳す。翼をひろげると三百三十六万里あるとされ、須弥山の下に棲み、竜を食すといわれる。阿耨池は阿耨達池といい、無熱池、無熱悩池、清涼池ともいう。倶舎論巻十一には、大雪山の北、香酔山の南にあり、金・銀・瑠璃・頗胝(水晶)の四宝を岸とし、周囲八百里の大池で、清冷の水を四方に流し閻浮洲をうるおすという。長阿含経巻第十八によると、八大竜王の一つ阿那婆達多竜王(阿耨達竜王)は無熱池に棲む竜であり、竜には熱風・熱沙に身を焼かれる苦、突風で塔や衣類を奪われる憂い、金翅鳥に狙われる苦の、三種の苦悩があるが、この竜王は無熱池に棲むために苦悩がないといわれている。法華文句巻第二下に「この池は三患なし。若し鳥の心を起こして往かんと欲せば、即便ち命終わる。ゆえに無熱池と名づくなり」とある。
四門観別・見真諦同
四門とは、有門・空門・亦有亦空門・非有非空門。修行の方法は四つに分かれているが、真諦を見る、すなわち悟りを得るという点についてはいずれも同じである、という意。
第三時の教
法相宗では、釈尊一代の経々を三時に分ける(三時教判)。すなわち、有教、空教、中道教の三つである。有教は差別観を中心に立てた教え、空教は空観を中心に立てた教え、中道教は唯識中道を立てた教えである。
講義
宝塔品で釈迦多宝分身の諸仏の三仏が滅後の弘教を勧め、しかも末法の弘通の困難を六難九易と説き示しているのは、一代の諸経の浅深勝劣を判ずるに、法華経がもっとも深く、かつもっともすぐれていることを明々白々と示し明かしたのである。しかるに、日本国中の諸宗の学者はことごとくこれに迷い、仏に対する反逆者となっている。
そこで大聖人はその迷いをさまし、その反逆を止めようとして大勇猛心をもってこれが破折にかかられたのである。そしてかかる破折の言には、あいがたきにあうのであるから、志あらんものはこれを聞けとおおせられ、またその破折のむずかしさは並み大抵でないとつけ加えられているのである。じつに偉大なる確信ではないか。その確信は「日本国に此の法顕るること二度なり伝教大師と日蓮となりとしれ、無眼のものは疑うべし力及ぶべからず此の経文は日本・漢土・月氏・竜宮・天上・十方世界の一切経の勝劣を釈迦・多宝・十方の仏・来集して定め給うなるべし」と、すなわち末法において日蓮が弘通するところの法華経は、日本、朝鮮、中国、インドの中において、もっともすぐれ、もっとも功徳あるものと断言せられたのである。