開目抄
序講
第一 本抄の後述作の由来
一、対告衆と御真筆
本抄は、日蓮大聖人が佐渡流罪中、文永9年(1272)2月、聖寿51歳の時の御述作で、四条中務三郎左衛門尉頼基に与えられた。
すなわち、種種御振舞御書に「去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり、此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ、只今世乱れてそれともなく・ゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし、例せば立正安国論に委しきが如し、かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ」(0919:02)とある。
開目抄は信読の書である。日亨上人は、
「佐渡流罪中、筆舌に尽くせぬ大法難の最中、深縁の門下に、筆紙ご窮乏のなかから、遺言的にしたためられた重書であるから、信読、身読にあらざれば、奥旨に達することはできぬ」とのべている。
四条中務三郎左衛門尉頼基は、当時の慣例で、唐名によって金吾と通称、すなわち、「四条金吾」と呼ばれていた。北条の氏族江間家の代々の忠臣で武道とともに医道にも通達していた。日蓮大聖人の折伏逆化を受けたのは、建長年間で、池上兄弟とともに入信したものと思われる。文永8年(1271)9月12日、竜の口の法難に際しては、四条金吾が大聖人の馬の口に取りすがり殉死の覚悟でお供したことはあまりにも有名であり、種種御振舞御書等にその消息がいまに伝えられている。下の一文にも明らかである。
四条金吾殿御消息にいわく「かかる日蓮にともなひて法華経の行者として腹を切らんとの給う事かの弘演が腹をさいて主の懿公がきもを入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり、日蓮・霊山にまいりて・まづ四条金吾こそ法華経の御故に日蓮とをなじく腹切らんと申し候なりと申し上げ候べきぞ」(1113:13)と。御本仏よりこれほどの信頼のおことばを給わった四条金吾の真情、はかりがたきものがあろう。
当時は、鎌倉に四条金吾、下総に富木入道、上野に南条時光と、これら三人の人々は俗弟子門下の中心者であり、大聖人門下の外護の任に当たっていたのである。
四条・富木・南条殿等は、それぞれ日蓮大聖人の仏法を令法久住ならしめる上に、大きな役割を果たしていることがうかがえる。四条金吾は強信をもって信心の鏡であり、富木入道殿は、観心本尊抄等の重要なるご法門を大聖人より給わり、数々の賜書を後世に伝承している。そして南条時光は日蓮大聖人滅後、いっさいの付嘱を受けた日興上人を上野の地に迎えられている。
さて、開目抄が四条金吾に与えられた理由については、以上の当時の状況からもうかがえると思う。なお少しく詳論するならば、はじめにも本抄が信読の重書であることを述べたように、竜の口の大法難で至信の姿を示した四条金吾こそ、開目抄をたまわる資格を有していたと拝される。そして、また日蓮大聖人のご真意を理解できたのである。
日蓮大聖人は建長5年(1253)4月28日立宗宣言以来、数々の法難を受けられていた。義浄房御書に「此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり」(0892:11)とおおせられているように、文字どおり死身弘法の尊姿であった。しかして、大聖人は竜の口、佐渡流罪をもって発迹顕本され、御本仏のご境涯を開顕されたのである。
本抄は、日蓮大聖人、また門下に法難の嵐が荒れくるう最中、大聖人によって不自由な佐渡で認められ、三類の強敵蜂起の拠点地である鎌倉に住む四条金吾に与えられた。ゆえに至信、身読の士であらずして開目抄の意義、ご精神を拝しえないのである。
なお、本抄の御正筆は、明治8年(1875)に身延の大火で焼失し、寸紙も残っていない。御本仏が、筆舌に尽くせぬ生活の中から、当時の門下に対しては当然、末法万年にわたる仏弟子に遺されたと拝すべきご法門書を、火災などで焼失してしまうとは、なんたる信心のなさか。未来永劫にわたって、大聖人門下の笑いものである。顕仏未来記にいわく「伝持の人無れば 猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」(0508:06)とはこのことか。
富士一跡門徒存知の事にいわく
「佐土国の御作・四条金吾頼基に賜う、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず」(1604:13)と。
たしかなところでは、日興上人の写本が、重須本門寺にある。同写本には、日興上人の記名はないが、同本の末尾に「正和6年(1317)6月26日御影堂に於て」とある。日興上人ご遷化の16年前の写本である。また徳川初期の日乾の対校本が、京都本満寺に現存している。
二、御述作の由来
三沢抄にいわく
「又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ、此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれらしりなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり。而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頚をはねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて・さどの国より弟子どもに内内申す法門あり、此れは仏より後迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給いし、口より外には出し給はず、其の故は仏制して云く「我が滅後・末法に入らずば此の大法いうべからず」と・ありしゆへなり、日蓮は其の御使にはあらざれども其の時剋にあたる上・存外に此の法門をさとりぬれば・聖人の出でさせ給うまでまづ序分にあらあら申すなり、而るに此の法門出現せば正法・像法に論師・人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光・巧匠の後に拙を知るなるべし、此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候」(1489:07)
ここで仰せの「内内申す法門」とは、開目抄にいわく
「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189:02)
すなわち、日蓮大聖人がひろめられる法門は正像末弘の神秘の大法、事の一念三千である。この大法をひろめる大聖人は即、本因妙の教主であり、末法主師親三徳具備の御本仏である。御義口伝には「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760:第廿五建立御本尊等の事:02)と申されているように、末法における人の本尊を開顕あそばされたのが本抄であり、法本尊開顕の観心本尊抄とともに、とくに重書とされるゆえんである。
それでは、三沢抄におおせの、佐渡以前の法門は仏の爾前経と思いなさいとのおことばは、どのように拝すべきか。これは、すなわち、大聖人が竜の口の頸の座において、凡身、上行菩薩の再誕としての迹の姿を発って、久遠元初の自受用身としての本地を顕わされたことを知らなければならない。
百六箇抄にいわく
「久遠名字より已来た本因本果の主・本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮」(0854:03)
開目抄にいわく
「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ、此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし」(0223:16)
上の御文に、発迹顕本は明々赫々である。ゆえに、かかる大事をお示しくださった本抄を拝読するにあたっては、無二の信心をもって拝することが肝要である。また竜の口の頸の座から佐渡ご流罪における苦難、そのなかでの御本仏としての偉大な御振舞については「種種御振舞御書」にみずから認められている通りであるが、本抄の拝読にあたってこの間の経緯を拝する必要があろう。
三、背景
文応元年(1260)7月、日蓮大聖人は立正安国論をもって、時の執権・北条時頼を諌め、邪法を禁じて正法を立て、国を安んぜよ、もしこれを聞き入れなければ、自界叛逆・他国侵逼の両難が起こると警告あそばされた。しかるに幕府はこれを聞かないばかりか、同8月27日には松葉ヶ谷の草庵を焼き討ちにし、翌弘長元年(1261)5月12日には、伊豆の伊東へ流罪したのであった。
弘長2年(1262)日蓮大聖人は赦されて鎌倉に帰られたが、翌々文永元年(1264)11月、安房へ行かれて小松原の法難にあわれるなど、大聖人に対する迫害は、年を経るごとに激しくなっていったのである。
はたして文応元年(1260)より満7年、文永5年(1268)正月、蒙古より牒状が到来し、立正安国論の予言的中は疑いのない事実となってあらわれたのである。幕府は諸社寺に蒙古降伏を祈らせるなど、さらに謗法を重ねたのである。この国家存亡の危急に対して、大聖人は十一通の御書をしたためて、幕府には迷妄をさますよう、また時の邪宗に対しては公場対決を迫られたのであった。10月11日のことである。
しかるに、幕府はこの至誠の国諌を聞き入れないのみか、幕府要人の上郎、尼御前たちに取り入った念仏・真言・律等の諸宗の邪僧のことばに迷い、ますます激しい弾圧と迫害を日蓮大聖人およびその御一門に加えていったのである。
文永8年(1271)9月10日、幕府の軍事・警察権をにぎっていた平左衛門尉頼綱は、日ごろ大聖人をもっとも憎んでいたが、執権職代理として大聖人を幕府の奉行所に呼び出し、前執権であった北条時頼と同重時を無間地獄におちたといいふらしているとの嫌疑で、取り調べを行った。日蓮大聖人は平左衛門に向かって、厳然と諌められ、迫りくる国難にあたって覚醒を求められたが、平左衛門はもの狂いのように聞こうとすらしなかったのである。
翌々日の9月12日、再度の反省を求めておしたためあそばされた御書状が「一昨日御書」である。
「抑貴辺は当時天下の棟梁なり何ぞ国中の良材を損せんや、早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし世を安じ国を安ずるを忠と為し孝と為す、是れ偏に身の為に之を述べず君の為仏の為神の為一切衆生の為に言上せしむる所なり」(0183:14)との熱誠あふれる諫言も、ゆがみきった平左衛門には、怒りを爆発させる口火でしかなかった。
平左衛門みずから大将となり、大聖人お一人を捕らえるのに、数百人の武士を引きつれて松葉ヶ谷の草庵に押し寄せたありさまは、まさに狂った姿としかいいようがなかった。平左衛門の郎徒の少輔房というものは走りよって、法華経第五の巻で大聖人の顔を打ちすえ、そのほかの家来どもは、その他の法華経をまきちらし、足でふんづけ身にまとった。大聖人は「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」(0912:05)と大声で呼ばわれ、かえって捕らえにいった兵士どもが、顔色を失ったのであった。
12日の夜半、多くの武士たちが厳重に警戒するなかを大聖人は若宮小路を通り鎌倉を出て、由比の浜から腰越の竜の口へと向かわれた。この間、八幡宮の前では馬をおりられ、大音声をもって法華経の行者を守護せぬかと、八幡を叱咤されている。また、由比の浜から竜の口の刑場まで、大聖人の馬の口にとりすがって、お供をしたのは、本抄の対告衆となった四条金吾であった。
頸の座にのぞまれたときのようすは、次の種種御振舞御書の御文を拝しよう。「此にてぞ有らんずらんと・をもうところに案にたがはず兵士どもうちまはり・さわぎしかば、左衛門尉申すやう只今なりとなく、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるも、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし」(0913:種種御振舞御書:17)と。
まことに、御本仏なればこその不思議であり、諸天の加護に頸切り役人どもの恐れおののく姿が目に映るようではないか。
翌13日、幕府の役人たちは大聖人をひとまず、相模の依智にある本間六郎左衛門の家にお入れ申し上げた。大聖人のお姿を拝して、長年の念仏信仰を捨てる武士があいついだ。さすがの平左衛門尉もなすすべを知らず、やがて鎌倉に帰っていった。
13日夜半、本間邸には数十人の武士が警護していたが、そのなかで、大聖人は庭に出て、おりから夜空に照り輝く月に向かって、法華経の守護を誓いながら、何のしるしもないのはどうしたことか、と責められたところ、空から明星のような大星が降りて庭の梅の木にかかった、という不思議を現ぜられている。
竜の口の斬首については、平左衛門の独断で行ったもので、この間、執権北条時宗は、大聖人の無罪を認め、熱海で静養中の武蔵守宣時に使いを出し、刑の中止を指示している。しかし、大聖人の依智滞在20日あまりの間に、鎌倉で相次いで火事があり、それを念仏者が、大聖人の弟子たちのしわざであると讒言し、その陰険な策謀によってふたたび弾圧の手がのび、弟子・信者は、ある者は流罪、あるものは入牢等々の迫害にあったのであった。
大聖人に対しても佐渡流罪が決まり、10月10日に依智をたって、同28日佐渡着、11月1日、塚原の三昧堂に入られる。そのありさまについて振舞抄には次のように述べられている。
「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず心細かるべきすまゐなり」(0916:種種御振舞御書:04)
時あたかも冬である。火の気などもとよりあろうはずはなく、ただ一人、お供をした日興上人をつれての厳寒の佐渡のご生活は、想像申し上げるにあまりある。しかも、佐渡は念仏者の国土で、大聖人を念仏の敵、仏法の異端者と思いこんで命をつけねらう者も少なくなかった。もと北面の武士で念仏の強信者であった阿仏房が、大聖人を殺そうと企て「念仏無間のわけをいえ」とつめより、かえって逆に論破され念仏を捨てたのもこのころである。
翌1月16日には、佐渡はもとより、越後・越中・出羽・奥州・信濃の国々から念仏・真言の僧などが集まり、近在の人たちも含めて数百人が大聖人をとりかこんで、有名な塚原問答が行われた。
もとより、邪宗の坊主が大聖人の正義にかなうはずもなく「止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめつめ・一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ、利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し」(0918:種種御振舞御書:08)と、つぎつぎと破折されたので、その場で邪信を捨てるものもすくなくなかった。
これに対して、念仏者たちは、なんとかして大聖人をなきものにしようと、鎌倉に使いを出して、武蔵前司にざん訴し、日蓮大聖人の信者になった者は国を追い出し牢に入れよとの下知を出させるという陰険な手段にさえ出たのである。
この開目抄は、じつにこうした、想像を絶する不自由と、しかも大聖人の命をつけねらう邪宗の信者たちの真っただなかにおいて、お弟子の日興上人、信者となった阿仏房等のかろうじて手に入れてご供養申しあげた紙や筆によってしたためられた、まことにもったいなき御書であることを知るべきである。
しかも、そうした苦境にあってすら「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(0917:種種御振舞御書:07)と申されているのである。
竜の口の光りものといい、依智での不思議といい、また佐渡の極寒の中で、ひたすら民衆救済のために重要の法門をしるされたことといい、御本仏大聖人の大慈大悲に、だれが感泣しないであろうか。そして、末法真実の主師親たることを宣言あそばされた本抄を拝読するにあたっては、ただ熱烈なる信心、求めてやまぬ求道心をたぎらせて深くその奥義を拝すべきことを訴えてやまない。
なお、大聖人が佐渡流罪中、末法人本尊の開顕たる本抄についで、観心本尊抄をあらわされて法本尊を開顕され、その他、諸法実相抄・如説修行抄・顕仏未来記・当体義抄等々、重要御抄の数々をおしたためになったこと、また文永11年(1274)2月赦免となり、あわてふためく邪宗の僧らをあとに順風に帆をうけて鎌倉にお帰りになったことの詳細は略す。
第二 本抄の大意
本抄は、末法下種の人本尊について開顕された御抄である。すなわち、末法ご出現の日蓮大聖人こそが、主師親の三徳を具備された仏たることを立証せられたのである。
日寛上人が、開目抄の分段に、その大意を述べられているので、分段によって本抄の大要についてのべることとする。まず、「開目抄愚記」の文を、そのまま引用する。
一、 当抄題号の事
今開目抄を題することは盲目を開く義なり、所謂日本国の一切衆生、執権等の膜に覆わる為に真実の三徳を見ること能わず故に盲目の如し、然るに当抄に一切衆生をして盲目を開かしむるの相を明かす。故に開目抄と名づくるなり、今具に之を釈せば言う所の開とは即ち二意を含む、一には所除く、二には所見なり、所除は即ち執権等なり、所見は即ち三徳なり、譬えば世の盲目の膜を除き物を見るを目を開くと名づくる如し。若し膜を除かずば是れ目を開くに非ず、若し物を見ずんば亦目を開くに非ず、今亦是くの如く二意を含むなり、妙楽記の三中に云く、発とは開なり所除の辺に約して名づけて発迹と為す。所見の辺に約して名づけて発本と為すと云云、開くの字の両意此の文分明なり。
次に盲目とは四人を出でず、一には外典の人、二には爾前の人、三には迹門の人、四には脱益の人なり、一に外典の盲目とは但世間有為の三徳を執して出世無為の三徳を見ず、故に盲目と名づくるなり、二に爾前の盲目とは但爾前権教の三徳に執して法華真実の三徳を見ず故に盲目と名づくるなり、三に迹門の盲目とは但迹門熟益の三徳に執して本門久遠の三徳を見ず故に盲目と名づくるなり、四に脱益の盲目とは但文上脱益の三徳に執して文底下種の三徳を見ざる故に仍て盲目と名づくるなり、略して題旨を結せば今此抄の意、一には世間有為の三徳の執を除きて、出世無為の三徳を見る故に開目抄と名づくるなり、二には爾前権教の三徳の執を除きて法華真実の三徳を見る故に開目抄と名づくるなり、三には迹門脱益の三徳の執を除きて、本門久遠の三徳を見る故に開目抄と名づ来るなり、四には文上脱益の三徳の執を除きて、文底下種の三徳を見る故に開目抄と名づくるなり、今題号の意正しく第四に在り、然りと雖も此の義幽微にして彰われ難し、故に浅き従り深きに至り次第して之を判ずるなり、譬えば高きに登るに必ず卑き自りし遠くに往くに必ず近き自りするが如し、故に諄諄として丁寧なり、学者深く思いて之を忽にする忽れ。
1.当抄大意の事
凡そ当抄の大意は末法下種の人本尊を顕わすなり、謂く蓮祖出世の本懐は但三箇の秘法に在り、然りと雖も佐渡已前に於ては末だ其の義を顕わさず、佐渡已後此の義を顕わすと雖も仍当抄等に於ては末だ其の名目を出さず、然りと雖も其の意恒に三箇の秘法に在り、中に於て当抄は先ず末法下種の人の本尊を顕わすなり、故に当抄の始に三徳の尊敬等を標し次に儒外に続いて内典を釈する中に、先ず一代の浅深を判じて熟脱の三徳を顕わし、次に蓮祖是れ法華経の行者なるを明かし、巻の終わりに至り正しく下種の三徳を顕わし日蓮は日本国諸人の主師父母なりというなり、又佐渡抄に日本国の魂なり日本国の魂なりとは即ち蓮祖は日本国の主師親なるが故なり、報恩抄に云く一には本門の教主釈尊を本尊と為すべし、二には本門の戒壇三には本門の題目なり、日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳あり等云云。之を思い合わすべし。
日寛上人の御教示は以上のとおりである。
本抄上下、二巻の文を大きく標・釈・結の三つにわけることができる。
第一に、末法下種の人本尊をあらわすゆえに、はじめに、主師親の三徳を尊敬すべきを表示し、第二に、儒教、外道、仏法に説き明かされた三徳をあげて釈し、ことに仏教における主師親の三徳については、まず一代聖教の勝劣浅深を判じて、熟脱の三徳をあらわし、つぎに日蓮大聖人こそ、末法にご出現になられた真実の法華経の行者なることを明かし、正しく下種の三徳をあらわしている。そして第三の結に、「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」と、日蓮大聖人ご自身が、主師親三徳を具備せられた末法の救世主なることを明かされたのである。
いま、標・釈・結の三段について、少しく詳論しよう。
第一に標、本抄に「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり」(0186:01)とある。この文は、最初に三徳を表示した文である。主師親は人をあらわし、儒外内は法をあらわすが、本抄においては法を傍とし、人の三徳を正意とするのである。すなわち、儒外内の三徳を尊敬すべしこの文と拝すべくである。とくにこの標文と、結びの「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」とおおせの要文とともに、日蓮大聖人の元意の辺を拝さなければならない。
この文について日享上人は「この標結の照応の文は、あえて疎忽にすべきではなく、全心身を打ち込めて一心に信読せざるときは知らず識らず百千の迷盲の思想背徳の行為が発生するものである」と。不相伝家においては、この標結二文の元意、すなわち日蓮大聖人のご内証に迷い、大聖人を正しく末法下種の三徳とは見ず。上行菩薩あるいは、釈尊の弟子となして、一切の人々を惑わすのである。
第二に釈、初めに、儒家の三徳をあげて、本抄に「儒家には三皇・五帝・三王・此等を天尊と号す諸臣の頭目・万民の橋梁なり」と、すなわち儒教といえども主師親の三徳があり、三皇五帝三王を主師親の三徳を備える天尊とする。ゆえに諸臣の頭目は親であり、師であり、万人の橋梁は主である。この天尊、主師親の三徳を備うるゆえに、忠を教え、孝を教え、主徳をもって万民を愛するのである。ここに師弟の道を立て、師の恩を教える。
つぎに外道の三徳をあげ、第一に能説の人をあげて、その所尊の相を示し、第二に所説の法をあげて、その所学の相を示している。
第三に、仏家の意をもって、儒外ともにその邪義を破し、会入のうえで、その位置を説いている。
内典の三徳について、本抄に「三には大覚世尊は此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師、大福田等なり」(0188:06)とある。これより従浅至深して、熟脱の三徳を説き、末法下種の三徳を明かすのである。
まず一代の浅深を判じて、熟脱の三徳の大恩をあらわすのである。能説の教主である大覚世尊をあげ、その三徳を嘆釈し、つぎに所説の教法をあげ、その浅深を判釈する。
日蓮大聖人は、一代50年の諸経を判ずるに、五段の教相、すなわち五重の相対を説かれた。ゆえに本抄は、五重の相対のうえから見なければ、大聖人のご真意を拝することができないのである。
なかんずく、第五の種脱相対の教相は、文底真実を判じたもので、本抄に「但し此の経に二箇の大事あり倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等は名をもしらず華厳宗と真言宗との二宗は偸に盗んで自宗の骨目とせり、一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189:01)と。これすなわち、文底深秘の真文である。日寛上人は、この文によって三重秘伝の深義を著わし、その三重秘伝抄に「久遠下種名字の妙法は一代教の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底に秘沈するなり、ゆえに一念三千文底秘沈と云うなり」と述べられている。
この一念三千は、天台の事理の一念三千にあらず、文底秘沈の、末法下種の事行の一念三千である。
さらに日寛上人は、「竜樹天親…」以下の文を結して、正しく末法下種一念三千の、正像末弘、末法流布を示された文としている。
さて、つぎに、日蓮大聖人が末法の法華経の行者であることを明かし、末法下種三徳の深恩をあらわす。
初めに、日蓮大聖人が末法の法華経の行者であるその理由をあげている。大聖人が、正しく法華経に予言された末法唯一人の法華経の行者であり、上行菩薩の再誕であるむねを述べて、末法下種の三徳の深恩をあらわしたのである。
「此に日蓮案じて云く世すでに末代に入つて二百余年・辺土に生をうけ其の上下賎・其の上貧道の身なり」(0200:02)とおおせの文は、末法下種の法華経の行者は、三類の強敵が競い起こることにより、正しく経文の予言に、合致するもので、また、邪智謗法の極悪人が充満する末法においては、下種逆縁の功徳によってのみ、一切衆生が救われるがゆえに、大聖人は凡夫の姿で、下賤の衆生の中に出現されたのである。しかも下賤の身と生まれながら、日本第一の尊徳を備えられ、尊貴中の極尊である。これについては、日寛上人が六意を明かしている。
つぎに、広く疑いをあげて、正しく法華経の行者なるを釈す段において、本抄では「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし、定んで天の御計いにもあづかるべしと存ずれども一分のしるしもなし、いよいよ重科に沈む、還つて此の事を計りみれば我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天・善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし」(0202:08)とあるのをうけて、法華経の行者なることを明かされる。
このように、疑いをあげていることについて日蓮大聖人は、本抄に「但し世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん、諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし」(0203:11)とおおせられている。
この疑いは、本抄の肝心で、日蓮大聖人が末法の法華経の行者であるかないかとの疑いである。これは、末法下種の三徳をあらわすために設けられたものであり、末法の御本仏人本尊をあらわすためである。ゆえに日蓮大聖人一期の大事とおおせである。
この疑いをあげてのち、法華経勧持品の経文を引いて、三類の強敵をあらわし、いま三類の強敵、眼前にあるをもって、末法の法華経の行者は、大聖人以外にないことを断定された。
この段において、本抄に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ」(0223:16)云云とおおせの文は、日蓮大聖人が竜の口において発迹顕本をなされたことを示された文である。すなわち、日蓮大聖人の凡身の頸は、はねられたが、御本仏としてのご生命は佐渡におもむき、日本国のいっさいの人々を救わんとの意である。
以上のように、日蓮大聖人は末法の法華経の行者なることを決定されたのであるが、なにゆえに法華経の行者が、諸天善神の加護がなく、難にあうかを示されている。すなわち、
第一に法華経の行者が、過去世に法華経誹謗の罪があるか、ないか。
第二に謗ずる者が、地獄へ堕つべきときには現罰はない。
第三に諸天が国土を捨て去ったゆえに現罰がない、と。
本抄の文意によれば、日本国は、悪国謗法のゆえに、諸天善神は、国を捨て去り、機はまた堕獄必定の逆縁の衆生であり、日蓮大聖人は、過去世に謗法があるゆえ、謗ずる者に現罰なく、大聖人はじめ一門に大難があるとされている。
日蓮大聖人が過去世に謗法があるとなされたのは、示同凡夫の辺によるものであり、また、衆生が謗法の者のみで、この時に出現する仏に約するがゆえである。
法華経の行者をあらわす結文に「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(0232:01)とおおせである。これこそ末法下種の主師親三徳具備の仏の御決意である。ここに、柱とは主の徳、眼目とは師の徳、大船とは親の徳をあらわすことは、いうまでもない。
また、釈の終わりに、末法適時の弘経を明かして、本抄に「末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし」(0235:12)とおおせである。日寛上人は、この文を五義に約して、日本国は邪智謗法の国なるがゆえに、末法は折伏なりと断定されている。
第三に結。日蓮大聖人が、三徳具備の末法の御本仏なることをおおせられている。その要文は前に挙げた通りである。
第三 本抄の元意
本抄は、人本尊開顕の御抄であることは、すでに由来および大意でふれたところである。日蓮大聖人こそ末法の御本仏として、末法万年の衆生を救済するために日本国に出現せられたことは了々として明らかである。だが、他宗派では、いたずらに釈迦を本尊としたり、また日蓮大聖人を日蓮大菩薩と呼称したりして謗法に謗法を重ねている。あまつさえ、稲荷や竜神を本尊とするにいたっては、仏法にあらずして外道なりと断ぜざるをえない。
もし、末法の主師親を知らず、本尊に迷うならば、永久に無間の焔にむせばなければならない。ここに、大聖人こそ、三徳具備の御本仏であり、かつ、われら衆生の根本となして尊敬すべき人本尊であられることを論じ、本抄の元意としたい。
一、日蓮大聖人は末法の主師親である
まず、本抄の初めには、「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」(0186:01)と三徳が標示され、つぎに儒外の三徳を示し、つづいて仏法の一代勝劣を判じ熟脱の三徳を顕わし、つぎに日蓮大聖人は、末法の法華経の行者であることを明かし、最後に「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237:05)と、御自身こそ三徳具備のご本仏であることを示されたのである。これは、すでに大意のところで述べたとおりである。
さらに、日蓮大聖人が主師親の三徳である類分をあげよう。
一谷入道御書「日蓮は日本国の人人の父母ぞかし・主君ぞかし・明師ぞかし・是を背ん事よ、念仏を申さん人人は無間地獄に堕ちん事決定なるべし」(1330:09)
佐渡御書「日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべし纔に六十日乃至百五十日に此事起るか是は華報なるべし実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん、世間の愚者の思に云く日蓮智者ならば何ぞ王難に値哉なんと申す日蓮兼ての存知なり父母を打子あり阿闍世王なり仏阿羅漢を殺し血を出す者あり提婆達多是なり六臣これをほめ瞿伽利等これを悦ぶ、日蓮当世には此御一門の父母なり」(0957:18)
棟梁とはこれ主の徳である。日月・亀鏡・眼目とは師の徳であり、父母とは親の徳である。
報恩抄「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329:02)
慈悲曠大とは、親の徳であり、盲目を開くとは師の徳であり、無間地獄の道をふさぐは主の徳である。
このように、末法の主師親を明了に示されているのに、他門流ではどうして、これを捨て去るのか、これ、盲目のゆえんである。
二、日蓮大聖人は末法の法華経の行者である
つぎに、日蓮大聖人が末法の法華経の行者であると宣言されている御文をあげよう。
撰時抄「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(0284:08)
法華証明証「法華経の行者 日蓮」(1586:01)
顕仏未来記「我が言は大慢に似たれども仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり、然りと雖も日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出して法華経の行者と為さん汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす豈大悪人に非ずや」(0507:16)
これらの御文は枚挙にいとまがない。しかして末法の法華経の行者とは、末法の御本仏の意であり、日蓮大聖人こそ、末法の一切衆生のために出現した御本仏であることを呼称あそばされたものである。
御義口伝「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(0752:第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事:04)「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760:第廿五建立御本尊等の事:02)と。
すなわち末法の法華経の行者である日蓮大聖人こそ、無作三身であり、南無妙法蓮華経如来であり、人本尊であることは厳然たる事実である。
三、日蓮大聖人は凡夫即極の本仏
さらに、日蓮大聖人こそ、御本仏なる御文をあげよう。
法華取要抄「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(1358:11)
この文中、凡夫とは、総じては一切衆生、別しては、凡夫即極・無作三身如来の日蓮大聖人であり、仏とは、色相荘厳の仏であり、三十二相をそなえた、インドの応誕の釈尊である。ゆえに「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」とおおせられたのである。すなわち、釈尊は、日蓮大聖人の御本仏であるのに対し、垂迹であり、用の仏にすぎないのである。
御義口伝「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」(0776:第十三常不値仏不聞法不見僧の事:03)
ここに、大聖人こそ、末法の御本仏であることは、了々として明らかである。
四、日蓮大聖人と呼ぶ所以
さらに、日蓮大聖人が、御自身を聖人と呼ばれている御文をあげる。
撰時抄「南無日蓮聖人ととなえんとすと も南無計りにてやあらんずらんふびんふびん」(0287:06)
同抄「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり」(0287:08)
聖人知三世事「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(0974:12)
また、撰時抄には「日本第一の大人なり」(0289:07)と仰せられている。しかして、開目抄に「此等の人人に勝れて第一なる故に世尊をば大人とは・申すぞかし」(0191:06)「仏世尊は実語の人なり故に聖人・大人と号す」(0191:05)とおおせられ、聖人といい、大人といい、仏の別名であることが示されている。また釈尊を経文に「慧日大聖尊」と。されば、日蓮大聖人が、御自身を大人であり、聖人であると呼称されたことは、まさに、御本仏であることを明示されているものである。創価学会では「日蓮大聖人」と申し上げるのは、日蓮大聖人を御本仏と拝し、広宣流布の戦いを継承しているゆえんである。
五、大聖人と釈尊は天地の開き
また、日蓮大聖人が、釈尊より勝れたる御本仏であることを示された御文をあげることにする。
諌暁八幡抄「天竺国をば月氏国と申すは 仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、 末法には一乗の強敵充満すべし 不軽菩薩の利益此れなり」(0588:18)
これ日蓮大聖人の仏法を太陽にたとえ、釈迦仏法を月にたとえているのである。また釈尊は一部の限られた人のみしか救えず、大聖人は一切衆生をことごとく救っていくことを呼称されているのである。この中に勝劣は厳然としているではないか。
日寛上人は、この文を受けて次のように仰せである。
「この文正しく種脱勝劣を明すなり、文に二段有り初めは勝劣を明し次に種脱を明す。初めに勝劣を明すに亦三意有り、同じく日月を以て即種脱に喩う、一には国名に寄す、謂く月氏は是れ迹門の名なり故に脱迹の仏応に出現すべきなり、日本は即ち本門の名なり下種の本仏豈出現せざらんや、国名寧ろ勝劣に非ずや、二には順逆に寄す、謂く月は西従り東に向う是れ左道にして逆なり、日は東従り西に入る是れ右饒にして順なり、順逆豈勝劣に非ずや、三に長短に寄す。月は光明らかならず在世は但八年なり日は光明らかにして末法万年の闇を照らす。長短寧ろ勝劣に非ずや。次に種脱を明す、法華誹謗の者を治せざるは即ち在世脱益の迹仏なり、末法は即ち不軽の利益に同じ豈・下種本仏に非ずや。
十章抄には、迹門を月に譬え、本門を日にたとえていえる。まさに、インド応誕の釈尊は御本仏日蓮大聖人に相対すれば、太陽の光に照らされて、さわやかな光をはなつ月であり、迹仏なのである。
また下山御消息にいわく「教主釈尊より大事なる行者」(0363:01)と。さらに法蓮抄その他の諸御書で、釈尊を誹謗するよりも、末法の法華経の行者を誹謗する罪が百千万億倍重いことを示され、また逆に供養する功徳も、釈尊を三業相応して一劫の間供養するよりも、日蓮大聖人を、継母が継子を戯論に一言ほむる功徳のほうが勝れていると述べられている。
さらに、日蓮大聖人と釈尊とでは、天地の開きがあるではないか、種種御振舞御書にいわく「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(0919:16)と、いかに「日蓮」を冠にもち「南無妙法蓮華経」と唱える宗派であっても、日蓮大聖人を菩薩よばわりするのは大謗法であり、亡国の行為なのである。その罪は、提婆達多にも、無垢論師にも百千万億倍すぎたる大重罪である。恐るべきであり、不幸の元凶これにすぎるものはないと断ずるものである。
六、釈尊を本尊としない理由
つぎに、釈尊の仏像を本尊としない理由について述べよう。その理由は日寛上人の末法相応抄にことごとく明かされている。
1、道理
第一に釈尊は脱益の教主であり、末法は下種の時である。すなわち色心荘厳の仏は在世熟脱の教主で末法下種の本仏ではない。
第二には三徳の縁が浅いゆえに用いない。正像の衆生は本已有善なるがゆえに、色相の仏に縁が厚く、末法の衆生は本末有善なるがゆえに色相の仏に縁が薄い。
第三に色相の仏は人法勝劣があるゆえに用いない。すなわち本尊とはすぐれれたるを用うべきであり、色相の仏は劣り、法が勝れるゆえに、法を本尊とすべきである。
2、文証
法華経法師品には「経巻所住の処に塔を立つべし、舎利を安くべからず」とある。
文句の八には「此の経は法身の舎利であるから、生身の舎利をおくべからず」とある。また法華三昧には「法華経一部を安置し、形像舎利を安んずべからず」とある。
日蓮大聖人は本尊問答抄に「法華経の題目を以て本尊とすべし」(0365:01)とおおせられている。
日興上人は門徒存知に「本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云」(1605:16)
以上はいずれも取意であり、そのほか類分は無数なれば、略す。
3、遮難
御書に釈迦像の造立を讃嘆され、あるいは日蓮大聖人が釈尊の一体仏を御所持されていたことを理由として難ずる者がある。しかるに日蓮大聖人のご正意は、まったく釈尊の仏像ではない、しかも、これを許された理由は、
第一に佐渡以前等の御書は一宗弘通の初めであり、ご正意ではなくても用捨よろしきに従われた。
第二に当時は日本国じゅう一同に阿弥陀仏を本尊としていた。ゆえに門下が阿弥陀を捨てて釈尊を立てたのを讃嘆された。
第三に日蓮大聖人の観心の前には、釈尊の一体仏も、まったく一念三千自受用身の本仏と映ぜられた。
七、本因妙の教主釈尊は日蓮大聖人
また、報恩抄には「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(0328:15)の文によって、釈尊を本尊とすべきではないと論難する輩がいる。
これは、釈尊という意味を知らざる妄論である。釈尊にはおよそ六種類がある。すなわち、
一に 蔵経の釈尊
二に 通教の釈尊
三に 別教の釈尊
四に 法華経迹門の釈尊
五に 法華経本門の釈尊
六に 本門文底の釈尊
である。ここで「教主釈尊」とおおせられるのは、じつにこの文底の釈尊であり、即日蓮大聖人のことを示されているのである。
釈尊というのは、かならずしもインド応誕の釈尊とは限らない。如来等と同じく仏という意味で使われる場合が多い。教行証御書にいわく「爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず何に況や其の以下の等覚の菩薩をや、まして権宗の者どもをや、法華経と申す大梵王の位にて民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意を得て宗論すべし」(1282:03)
この文に明らかなように、釈尊とは、決して固定した一人の人をさすのではなく仏の別名である。
船守弥三郎許御書にいわく「久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」(1446:04)と、五百塵点の当初とは久遠元初のことである。またここに「我等衆生」と仰せられているのは、総じては一切衆生別しては無作三身如来の日蓮大聖人である。ここに久遠元初の教主釈尊とは、末法に凡夫僧として出現された日蓮大聖人であることが歴然としている。このことは、さらに次の御文により、いっそうはっきりとしてくる。
百六箇抄にいわく「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり、久遠は本・今日は迹なり、三世常住の日蓮は名字の利生なり」(0863:05)と。
また、久遠元初の釈尊と日蓮大聖人は行位がまったく同じことを同抄に「本因妙を本とし今日寿量の脱益を迹とするなり、久遠の釈尊の修行と今日蓮の修行とは芥子計も違わざる勝劣なり云云」(0864:02)とおおせになっている。さらに日蓮大聖人こそ久遠元初の自受用身であり、本因妙の教主であることを、同抄に「自受用身は本・上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」(0863:04)と仰せられているのである。
もしも、報恩抄の「教主釈尊」をインド応誕の釈尊とするならば、次下に示された、脇士となる釈尊と矛盾するではないか。また、観心本尊抄の「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254:08)の文また同抄の「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏」(0247:16)の文、さらに日女御前御返事の「されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ」(1243:09)の文に厳然と大御本尊の相貌が説かれ、釈尊は脇士につらなっているのである。また事実大聖人のあらわされた大御本尊は中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」としたためられており、釈迦・多宝等は脇士となっているのである。また先に引用した本尊問答抄の「釈尊を本尊とすべからず」等の文を思い合わせ、報恩抄の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」の「教主釈尊」とは、インドの釈尊ではなく「南無妙法蓮華経を御所持になる仏」の意であり、末法の人本尊たる日蓮大聖人の御ことなのである。なお日寛上人は、末法相応抄に、この文を標と釈の二つにわけて説明されている。それによると「本門の教主釈尊」は標の文であって人本尊に約し、「所謂宝搭」の文で法本尊に約し、この文は明らかに法をもって人を釈するゆえに人法体一をあらわしているのであると。さらにこの文は「本門の教主釈尊を本尊と為すべし所謂教主釈尊の当体全く是れ十界互具百界千如・一念三千の大曼荼羅なるが故なり」という意味であると示されている。
同様の文は三大秘法抄に「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」(1022:08)とある。この教主釈尊も日蓮大聖人であることは、以上の論点および先に引用の「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり」(0752:第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事:06)である。
以上、日蓮大聖人こそ、末法の御本仏であり、人本尊であることを略述してきたが、本抄を拝するにあたり、大聖人の御本仏の精神を読みとることができなければ、何十回・何千回開目抄を拝そうともこれを読んだことにはならないと強調するものである。
過去・幾多の人が拝したことだろう、だが、開目抄を真に読んだ人は爪上の土であり、なかんずく、大御本尊を絶対なりと信じ、仏道修行に邁進せずして本抄を読解することは不可能であると断言するものである。
第一章 三徳の標示
本文
夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり。
現代語訳
いったい、一切衆生の尊敬すべき者が三つある。それは主人と師匠と両親である。・また習学すべき物が三つある。それは儒教と外道と内道たる仏教である。
語釈
一切衆生
すべての生あるものをいう。なかんずく人間をいうが、人種・男女・老幼を問わず、全人類を含む。
主師親
一切衆生は、みな親によって生を受け育てられる。師匠によって智をみがき、主人によって養われ、人生の意義をあらしめることができる。民主主義の現代には、主とは社会を意味する。
儒内外
「儒」は儒教。老子・荘子等の道教とともに中国哲学の主流をなす。「外」は外道。インド古代の婆羅門哲学。釈尊出世当時には95派があったといわれ、今日の数学・自然科学等に多大な影響を与えた。「内」は仏教。このなかで儒教においては倫理・道徳が集大衆され、外道婆羅門においては、のちのヨーロッパ文化をも含むアーリア文化が集成されている。
講義
開目抄の大意は、一切衆生が主師親の三徳を尊敬すべきであるとなし、しかも、末法下種の三徳たる、日蓮大聖人の深恩をあらわされている。本章の御文は、最初に三徳を標示した御文である。
主師親は人を表わし、儒外内は法を表わしているが、今は法を傍とし人の三徳を正意となす。すなわち儒外内における三徳を尊敬すべしの御文である。のち、さらに儒教・外道の三徳を破して、内道の三徳たる法華経の釈尊をもっとも尊敬すべきである旨を述べられて、熟脱の三徳をあらわしてのち、結論としては、末法・法華経の行者たる日蓮大聖人がすなわち下種の三徳であり、一切衆生の主師親であると述べられているのである。
主師親の三徳はすなわち仏であられるので、大聖人こそ末法の仏であるとおおせられたのが、本抄の眼目である。しかるに、日蓮宗各派は、日蓮大聖人を上行菩薩とのみ拝して、その内証たる久遠元初の自受用身として拝しないから、釈迦仏法にどうしても縁を結んで一切衆生を惑わすのである。本抄を拝読するにあたって、大聖人こそ御本仏なりと説かれる書なることを心に入れて拝読するならば、瞭々として明らかなことである。
いま、これを論ずるにあたり、まず、主師親の三徳を具備しているのは仏に限ることを述べてみる。
むろん、世間においてもその一分の徳を備えた人もいる。また、当抄にお示しのごとく、儒教においても、インドのバラモンにおいても、それぞれ主として師としてまた親として仰いでいる理想の人をあげている。
中国の儒教においては、三皇、五帝、三王を天尊と号し、諸臣の頭目、万民の橋梁として敬ったが、その説くところは結局、永遠の生命に立脚しない低き哲学であった。ただ人間としての最低道徳または処世の法を説いたにすぎなかった。ゆえに本文には「此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし……而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず」(186:12)と破折されているのである。まったく、主師親を崇むべきことを強調し、仏法流布の初門、露払いとしての役目を果たしたのである。
インドのバラモン教は、摩醯首羅と毘紐を一切衆生の慈父・悲母・天尊・主君と崇めた。だが、摩醯首羅は破壊の父神、毘紐は保護の母神というのみで、実体はあいまいであり、教義もない。いわゆる三仙といわれた迦毘羅・優楼僧佉・勒娑婆がバラモン教の聖典であるヴェーダを完成し、この三仙に師徳を附することができるが、人生の幸福と不幸の根本問題を解決することができなかった。
したがって、儒教、バラモンの三徳は、仏法で説く三徳に相対すれば、まったくとるに足りないものであり、一人として永遠の幸福へ導くことのできない浅薄なものである。本文にも「外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし」(0188:06)とおおせられている。
このように、真実の三徳は、外典外道には求められず、三徳具備するはただ仏にのみに限るのである。いま、三徳を具備された方は仏に限る明文をあげよう。
法華経譬喩品「今此の三界は皆な是れ我が有なり〔主〕、其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり〔親〕、而るに今此の処は諸の患難多し、唯だ我れ一人のみ能く救護を為す〔師〕」と。
南条兵衛七郎御書「釈迦如来は我等衆生には親なり師なり主なり……ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる」(1494:04)と。
祈禱抄「仏は人天の主・一切衆生の父母なり・而も開導の師なり、父母なれども賎き父母は主君の義をかねず、主君なれども父母ならざればおそろしき辺もあり、父母・主君なれども師匠なる事はなし・諸仏は又世尊にてましませば主君にては・ましませども・娑婆世界に出でさせ給はざれば師匠にあらず・又『其中衆生悉是吾子』とも名乗らせ給はず・釈迦仏独・主師親の三義をかね給へり」(1350:08)
すなわち主師親の三徳とは仏の異名である。だが、仏といっても、小乗の仏あり、権大乗の仏あり、法華経の迹門、法華経本門の仏があり、また、文底下種の本仏がある。
小乗教では、仏の境地を、灰身滅智の阿羅漢を悟りの究極として教えるのであるから、一応は三徳具備といっても、本質はむしろ主師親三徳ともにまったくない。権大乗では小乗で教えた二乗の修業を徹底的に弾呵し、菩薩の修業を教える。しかし、その修業はとうていできない歴劫修行であり、できない教えを説く師匠では意味がない。
また、権大乗の教理は成道後最初の華厳経を出ず、しかも華厳経は蓮華蔵世界の法慧等の四菩薩の説法であって釈尊の説法ではない。あくまで方便、権教であるがゆえに権大乗の釈尊は主師親三徳ともにないのである。
釈尊みずから、自分が三徳具備の仏であることを明かされたのが、先の譬喩品の文に明らかなように法華経である。
だが、法華経に迹本二門があり、このうち法華経迹門の教えは、まだ釈尊はインドに生まれて三十歳にして始めて正覚を成じた仏であって、その三徳も今世限りのきわめて浅いものである。五百塵点劫の久遠より常住の三徳を明かされたのは、本門寿量品である。すなわち本門の仏の主徳は「我此土安穏」(我が此の土は安穏にして)の文にあり、師徳は「常説法教化」(常に法を説いて教化して)、親の徳は「我亦為世父」(我れも亦た為れ世の父)の文にはっきりと宣言されたのである。この本迹の勝劣は、まことに一目瞭然である。教行証御書に「爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず」(1282:03)とあるがごとくである。
しかしながら末法今時においては、ただ文底下種の本仏日蓮大聖人のみが一切衆生を救済する三徳具備の仏である。本門の釈尊といえども、本未有善の衆生には三徳の縁がなく、衆生を救う力もないのである。曾谷入道殿許御書にいわく「正像二千余年には猶下種の者有り例せば在世四十余年の如し……今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」(1027:12)と。
されば、当抄の終わりに「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」(0237:06)とおおせられたのは、まさしく、日蓮大聖人こそ、末法の御本仏であるとの宣言なることを知るべきである。
しかしながら、日蓮宗各派では、法華経文上の釈尊を仏とし、日蓮大聖人を菩薩あるいは釈尊の弟子となしているが、これ人法異なれる説であり、大聖人の真の仏法とはかけ離れているのである。大聖人の仏法は、けっして釈迦の仏法ではないのである。そのゆえは、次の本因妙抄の文において、さらに明らかである。
「一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(0877:02)。
次に、主師親の三徳が現代生活においていかなる意味をもっているかを考えてみたい。主徳とはいうまでもなく眷属を守っていく力または働きであり、師徳とは、眷属を指導していく力、働きであり、親徳とは、眷属を慈愛する働きをいうのである。
現代人は、主師親というと、とかく復古調的な、封建的なものとみなそうとする。これは、近代以後、ヨーロッパにおける個人主義、自我中心主義に対する誤れる理解から生じたものである。実に主師親の三徳確立こそ、民主主義の基盤であり、本源であるにもかかわらず、この本源を見失って、いたずらに自己の尊厳を失い、社会の混乱と人間性の停滞を招いていることは、まことに悲しむべき現象である。
自我の独立に走るあまり、親に反抗して無視することが、正しいように思い、師匠の存在を否定して独歩を尊しとし、主君の意義をたんに封建思想の悪弊として排斥するにいたったのである。しかし、真実の自己確立も、恒久的社会の向上発展も、主師親の三徳の正しき意義が徹底されねば到底実現出来得ぬことを痛感するものである。
確かに、封建時代においては、主、師、親の意義が偏狭に評価されていた。そのあまり自我が軽視され、抑圧されて、幾多の弊害を及ぼしていった。「主君のためには命をも……」という忠君思想、「師匠より三尺さがって影も踏まず」という師弟論、「親の言葉は絶対に聞かねばならぬ」という孝行思想、これらはいずれも枝葉にとらわれて、根幹たる自己を無視した本末顚倒の考え方であった。そして、「親に孝ならんとすれば忠ならず、君に忠ならんとすれば孝ならず」と悩んだ平重盛や、父の言を聞けばゾウリをはけといい、母の言を聞けばゲタをはけという孝子物語のような、こっけいでさえある悲劇が生じたのである。
われわれが、今、主師親の三徳を論ずるのは、それらの如き不道理極まるものでは決してない。あくまでも自己の確立を中心としての人生活動である。即ち、その最高の自己完成ともいうべき一生成仏を根本となしての、最も正しい未来、永遠に変わらざる、人生の本質論を主張しているのである。
主の徳
まず主の徳についていえば、さきにも述べたように眷属を守る力、働きを主徳と名づけるのであって、けっして固定したものではない。したがって時代の変遷につれて、主人の形態も変わってくるのである。封建主義の社会では、その主君に生殺与奪権が一任されていた。日本では天皇をもって主人となした時代もあった。しかし現在の民主主義の世では、社会それ自体が主人なのである。社会といっても種々の社会がある。一家においては一家の柱となるべき人が主人であり、会社においてもその中核の存在は主人である。だが、現在、もっとも強く主人としての働きを有する代表的なものは、国家社会となる。
元来、社会というものは、個人の自由を制約するのが本位ではない。そもそも人間が集団生活を営み、社会をつくったのは、生きていくための必然的要求であった。したがって、個人の幸福を全体との調和において、守り、増進させるものでなければならないのである。それであってこそ、主の徳としての価値を有するといえる。しかしながら、必ずしも、社会、あるいは国家は、そこに生きる人々の幸福を守るとは限らず、ある場合には、個人の幸福を犠牲にして成り立っていることすらある。これ、主徳を失なった姿であり、ここに生きる人々くらい不幸なことはない。結局、妙法を根底としない社会では、真に主徳を発揮できえないことを断言するものである。
また、一面からいえば、いかなる人といえども社会を離れては生存してはいけない。われわれは社会からどれほどの恩恵をこうむっていることであろうか。したがって、個人が、逆に社会に対して美と利の価値を提供するのが当然である。この行為を善という。しかして、御本尊を不幸な人々に教え、生きる希望と喜びを与える折伏こそ、最高善なることを知るべきである。
また、社会は、いかに個人の幸福を守るといっても、それは、幸福の一部分を守るのであって、主徳の一分を持っているにすぎない。全民衆の幸福を根底より守り切っていくのは、ただ日蓮大聖人のみであり、これ主徳の究極といわねばならない。
師の徳
次に師徳について述べれば、師徳とは眷属を指導しうる力、働きについていったものであることは、すでに述べた通りである。われわれが〝師〟ということばからすぐに連想されるものは、小・中・高等学校の教師であり、大学の教授である。たしかに、これらの人々はある意味において、師の徳の一分を備えているといえよう。しかし、現代の教育者の多くが、あたかも知的労働者のごとくなりさがり、たんに知識の受け売りをしているにすぎないのは、まことに残念といわねばならない。昨今〝人つくり〟などということが、いわれるようになっているが、たんに表面的な呼びかけ、または政府にとって都合のよい人物をつくるためのものであり、真に人生観、社会観を確立せしめ、人格を完成していこうとするものでないことは、明瞭である。
真の人の師たるものは、子弟に、知識を与えるのは当然のこと、さらに智慧を顕現させるのでなければならない。知識は、智慧を開く門である。知識を広く、かつ深く身につけることは、人生にうるおいと豊かさをもたらす。健康に対する知識、法律に対する知識、また政治に対する知識等、それがどれほど生活の向上にとって必要か、また無知のために、どんなに民衆が苦しめられたか等々、知識の重要なることは、論ずるまでもない。
だが、知識は、智慧それ自体ではない。知識人必ずしも人生の智慧者でないことからも、この事実は明確である。知識を生かし、幸福を招くのも、それを悪用し、不幸をもたらすのも、人間の生命より顕現する智慧の働きによるのである。
御書にいわく「玄義の五に云く恵能く惑を破し理を顕す・理は惑を破すこと能わず、理若し惑を破せば一切衆生・悉く理性を具す何が故ぞ破せざる、若し此の恵を得れば則ち能く惑を破す故に智を用って乗体と為す文」(0689:18)
所詮、いかなる苦難をも打ち破り、堂々たる人生行路を闊歩しゆく本源は智慧である。現代の教育が、欠陥を露呈しているのは、実にこの点に留意することなく、知識のための知識に終始しているからである。進学試験、就職試験のための詰め込み主義、肩書を取得するための教育等々、まさに、師徳なき、あわれな教育といわざるを得ない。
しかして、真に、人々に本源的な智慧を与え切れるものは正法にしかないのである。いっさいの知識は、正法の智慧によって、人生に、社会に最高に生かされていくのである。われわれは、仏法哲学の真髄であり、かつ最高峰たる三大秘法の御本尊を信じ、以信代慧の原理により、人生に正しき眼が開かれ、時代の潮流をも見抜き、さらには一国の行く手、世界の平和をも築いていけるのである。これ大聖人が、そして御本尊が師徳の究極であるゆえんなのである。
親の徳
次に、親徳についていえば、親徳とは、眷属を慈愛する働きをさすことも前述のとおりである。
親を尊ばなければならないことは当然である。御書にもよく「受けがたき人身をうけ値いがたき仏法にあひて」(0464:13)と説かれているが、まことに、この宝器ともいうべき生命を誕生させ、あらゆる困難を乗り越えて慈愛のなかに育てられた恩というものは、はかりしれないものがある。
法律でさえ、親を殺すことは尊属殺人罪といってとくにきびしい罰則が設けられている。仏法でも五逆罪の一つとして、これを犯せば無間地獄に落ちるとされている。
親に孝養せねばならないことは、外典・内典ともに説いている。しかし、儒教ではなぜ親に孝養するのかの究極も説かれず、その孝養の方法も、表面的、形式的な人生の行き方しか示していない。
仏法においては、親に物を与えたり、親の意に従うのは、下品、中品の低き孝養なりとし、真実の孝養の道は最高の仏法によって自身も人間革命し、また親にも最高の幸福を与えていくことであると説いているのである。しかも、永遠の生命感から、生きている親のみならず、死んだ親にまで、追善供養の原理によって、供養しうることを明かしている。
御書にいわく「法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり」(1528:09)と。
われわれが、御本尊を持つこと自体が、すでに最高の親孝行をしているのだとおおせられているのである。儒教や、それをもとにした道徳教育が、形式的に孝養をおしつけるのに対し、なんと偉大なことであろうか。
また、父母の愛というものは、絶対的なものではなく、愛憎のごとき相対的なものである。ある場合には、かえってその愛が子供の発展を妨げる場合もある。
それに対し、仏の慈悲は絶対であり、なかんずく御本仏の慈悲は、絶大である。本抄にいわく「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202:08)と。されば、日蓮大聖人こそ、一切衆生の親なることは明白である。
仏法は、このように、人間として当然すぎるくらい当然の道理を説いているのである。真の人間性確立のためにも、また、社会の繁栄のためにも、偉大なる大聖人の色心不二の大仏法に目覚める必要を力説するものである。
第二章 儒家の三徳
本文
儒家には三皇・五帝・三王・此等を天尊と号す諸臣の頭目・万民の橋梁なり、三皇已前は父をしらず人皆禽獣に同ず五帝已後は父母を弁て孝をいたす、所謂重華はかたくなはしき父をうやまひ沛公は帝となつて大公を拝す、武王は西伯を木像に造り丁蘭は母の形をきざめり、此等は孝の手本なり、比干は殷の世の・ほろぶべきを見て・しゐて帝をいさめ頭をはねらる、公胤といゐし者は懿公の肝をとつて我が腹をさき肝を入て死しぬ此等は忠の手本なり、尹寿は堯王の師・務成は舜王の師・大公望は文王の師・老子は孔子の師なり此等を四聖とがうす、天尊・頭をかたぶけ万民・掌をあわす、此等の聖人に三墳・五典・三史等の三千余巻の書あり、其の所詮は三玄をいでず三玄とは一には有の玄・周公等此れを立つ、二には無の玄・老子等・三には亦有亦無等・荘子が玄これなり、玄とは黒なり父母未生已前をたづぬれば或は元気よりして生じ或は貴賤・苦楽・是非・得失等は皆自然等云云。
かくのごとく巧に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄とは黒なり幽なりかるがゆへに玄という但現在計りしれるににたり、現在にをひて仁義を制して身をまほり国を安んず此に相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう、
現代語訳
儒家においては三皇・五帝・三王を天尊と号して、諸臣の頭目と仰ぎ、万民の橋梁と崇敬している。三皇以前は父を知らず、自分を生んだ母をさえも崇敬することを知らないで、人々はみな禽や獣と同じであった。しかし三皇・五帝の時代から礼儀・人道が確立され、父母をわきまえて孝行を尽くした。その例として、重華は頑愚な父を敬い、沛公は漢の高祖となって一国の帝王となったが、厚く父の大公を拝した。また周の武王は、父の西伯を木像に刻んで、父の遺志を継いで紂王の討伐に出陣し、丁蘭は幼くして母を失ったが、母の像をきざんで、生ける母のごとく仕えた。これらは孝行の手本である。比干は殷の世のほろぶべきを見て、紂王の横暴を諌めたが、かえって殺害された。公胤は主君たる懿公が殺されて死体を恥ずかしめられているのを見て、自分の腹をさいて肝を隠し入れて死んだ。これらは忠の手本である。尹寿は堯王の師であり、務成は舜王の師であり、太公望は文王の師であり、老子は孔子の師であって、これらの四人の師を四聖と号し、天尊も頭を垂れて敬い万民は掌を合わせて崇拝した。
これらの聖人に、三墳・五典・三史等の三千余巻の書物があれども、その根本は三玄を出でないのである。三玄とは、一には天地を有に約して立てた玄で、周公等がこれを立てた。二には天地自然を無に約した老子の玄。三には天地自然をまたは有または無と立てた荘子の玄がこれである。玄とは一往深奥の理を説かれたものであるが、人間のこの世へ生まれる以前はどうかといえば、あるいは元気より生じたといい、あるいは、この世の中の貴賎とか、苦楽とか是非・得失等の現象はみな自然である等と言っている。
このように巧妙に、その哲理を立てているとはいえ、まだ過去世、未来世については一分も知らず、玄とは闇黒で、さっぱり何もわからないということである。したがって、ただ現世のことのみは知っているようであるが、それも仏法のごとき実相はもちろん知るよしもない。現世において仁義等の道徳を定めて、これを実践して一家を安んじ国を守る、これに相違すれば一家一族も滅ぼしてしまうと教えている。
語釈
三皇
中国古代の伝説上の君主。伏羲・神農・黄帝とする説、また伏義・神農までは共通していても、三人目を女媧、燧人、あるいは祝融とする諸説がある。また天皇・地皇・人皇とする説がある。
五帝
五帝は五行から導かれたとも考えられる。具体的に誰をさすかは異説が多い。「史記」の五帝本紀によれば黄帝・顓頊・帝嚳・唐堯(堯王)・虞舜(舜王)を挙げる。日蓮大聖人は和漢王代記で五帝を少昊・顓頊・帝嚳・堯王・舜王とされている。
三王
舜から受けついで、夏王朝を開いた禹王、殷王朝を開いた湯王、周の文王をいう。
重華
五帝のひとり舜王(虞舜)のこと。舜は孝に徹した人で、頑愚な父が後妻のことばに迷い、たびたび舜を殺害しようとした。あるときは屋根にのぼらせて火を放ち、あるときは井戸に生き埋めにしようとしたが果たさなかった。ついに父は盲目になったが、舜は最後まで孝養をつづけたという。堯典、報恩伝等にある。孝行の教訓書である「二十四孝」の一つに挙げられている。
沛公
前漢王朝を開いた高祖・劉邦(BC274年~BC195)。沛郡の生まれであったため、こう呼ばれた。秦の始皇帝死去の翌年(BC209)、楚の懐王を擁し兵を挙げ、項羽等と連合して秦を倒した。その後、懐王を殺した項羽を破り、天下を統一した。BC202年、皇位につき、都を長安に定めて漢朝を創業した。5日に一度、父の大公を拝したという。
武王
中国周王朝の祖。名は発。父・西伯の志をついで殷の紂王を討つにあたり、父の姿を木像に刻んで征途にのぼった。かくして紂王を討って天下を統一し周王朝を創立した。自ら武王と名乗り、父に文王と謚号した。鎬京に都をおき、弟の周公旦を補佐とし、太公望を師として善政をしいた。
西伯
周の文王のこと。中国周王朝の基礎をつくった君主。理想の名君とされている。姓は姫、名は昌。太公望をはじめ多くの名臣を集め、周囲の諸族を征服して都を鄷(鄷邑)と定めた。生前は殷王朝に反旗をひるがえさなかったが、勢力は強大で、中国西部の支配をまかされて西伯と呼ばれた。
丁蘭
中国・後漢代の孝子。幼くして母を失ったが、15歳のとき母の姿を木像に刻み、さながら生ける母のようにこれに仕えた。蘭の妻も隣人も、その木像を軽蔑したが、蘭は身をもって像を守り、節を曲げなかったと伝える。孝子伝等にある。
比干
史記の殷本紀第三によると、殷の紂王が妲己を溺愛し、政事を顧みようとしないので、比干は「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と強諫した。妲己は王に向かい「上聖は心に九孔あり、孔に九毛あり、中聖は七孔七毛、下聖は五孔五毛ある。比干は中聖なり、帝、かれが心をさきてみたまえ」と進言した。紂王は「吾れ聞く、聖人の心には七穴あり」と言い、それを確認するためとして比干の胸を裂いて殺したとされる。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれて滅びた。比干は箕子、微子とともに殷の三仁といわれる。
公胤
公演、弘演とも書く。中国の春秋時代、BC660年頃、衛の懿公に仕えた忠臣。命を奉じて使いに出ていた公胤は、衛国が狄人に攻められ、主君の懿公が殺されたことを知り、号泣して悲しんだ。腹わたが散乱していたので、みずからの腹をさいて公の肝を入れ、主君の恥を隠した。中国では君子が肝を人目にさらすことを最大の恥としたのである。
尹寿・務成
堯・舜とも理想的な君主であったが、尹寿・務成をそれぞれ師として、善く天下を統治した。理想的な君主であっても、それを一歩上の立場から見て、助言・指導する国父あるいは国師というべき人の存在があってこそ、もっとも完璧といえる。
堯王
中国古代の伝説上の帝王。姓は伊祁、名は放勲。堯は諡号。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいい、唐堯ともいう。徳をもって天下を治め、中国の皇帝の模範とされた。史記では五帝の一人に数えられている。堯王には丹朱という子がいたが、不孝の者であったので王位を継がせず、孝養の心の深い舜に位を譲ったという。
舜王
中国古代の伝説上の帝王。姓は虞、名は重華。舜は諡号。虞舜とも呼ぶ。30歳で堯王の信任を受けて後に摂政となった。王の死後、人心が舜に傾いたので位に就き、八元八愷という16人の人材を起用しよく善政を行なったという。史記では五帝の一人に数えられている。舜王には商均という子がいたが、洪水を治め功労があった配下の禹に位を譲り没した。禹王は夏王朝の祖とされる。
大公望
太公望のこと。生没年不明。中国・周代の賢者。姓は姜、氏は呂、名は尚。殷の代には皤渓(中国陝西省宝鶏県を流れる河)に隠れすんで釣りなどをしていたが、周の西伯(後の文王)に請われてその師となる。文王の祖父・太公が待ち望んでいた人という意味で、後に太公望と称された。文王の死後、西伯の子・発(後の武王)を助け、殷の紂王を滅ぼして斉国の主となった。
孔子
(BC551年頃~BC479)。中国春秋時代の思想家。儒教の祖とされる。氏は孔、名は丘、字は仲尼。魯国の昌平郷陬邑(山東省曲阜)の人。魯国に仕えたが用いられず、諸国を遍歴した。堯・舜、文王・周公旦等を尊敬し、仁を理想の道徳とし、忠孝の道を教えた。晩年は魯国に帰り、著述と弟子の育成に務め、六経を編纂したといわれる。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。
老子
生没年不明。中国周代の思想家。道徳経を著す。史記(列伝)によると、楚の苦県(河南省鹿邑県)の人。姓は李、名は耳、字は耼、または伯陽。周の守藏の吏(蔵書室の役人)であった。周末の混乱を避け隠棲しようとして、関所を通る時、関の令(関所の長官)尹喜が道を求めたので、「老子道徳経」五千余言を著して去った。老子の思想の中心は道の観念であり、道には、一・玄・虚無の義があり、それが万物を生みだす根元の一者として、あらゆる現象界を律しており、人が道の原理に法って事を行えば現実的成功を収めることができるとする。
三墳・五典
孔子が編した五経の一つ、尚書(書経)の序に、三皇の書を三墳といい、五帝の書を五典といい、墳とは大道を意味し、典とは常道を意味するとされる。しかし、いずれも現存しているわけではなく、内容も不明である。
三史
司馬遷の「史記」、班固と妹の班昭による「漢書」、范曄の「後漢書」をいうが、異説もある。
周公
周公旦とも呼ばれる。周の文王の子。武王の弟。姓は姫、名は旦。生没年は不明である。文王の死後、武王とともに殷の紂王を討ち、武王を助けた。武王の死後は幼帝の成王を助け、東方の殷の反乱を自ら遠征して鎮めた。この東方遠征は広範囲に及び、これを機に黄河下流の平原を統治圏内におさめ、洛邑(後の洛陽)の都を建設し、周王朝の基礎を固めた。周公はその統治期間に周一族や功臣を各地方に派遣して封建制を施行し、また殷の一族を各地に分散させる等多くの改革を行なった。また、殷代の神政制度に加えて、社会の道徳を慣習化した「礼」を社会秩序の基礎とした。ここから中国の儒教思想がめばえた。周公の人格と治世は孔子等の儒者からあつく尊敬されたといわれる。
荘子
(BC370年頃~BC300年頃)。荘周の尊称。中国・戦国時代の思想家。史記の老荘申韓列伝によると、宋国の蒙(河南省商邱県)の人で、名は周、字を子休といった。初め漆畑の役人をしていたが、学問に博く、貧しい生活のなかで自らの思想を形成していった。著書は「荘子」三十三編(内編七,外編十五,雑編十一)が伝わっている。しかし、その多くは荘子一人のものではなく、戦国時代から前漢時代にかけての多くの思想家によって書かれたとの説が有力である。内篇のうちの逍遙遊篇、斉物論篇の二篇が荘子本来のものであるとされている。逍遙遊篇は道を体得した人が、万物、すなわち、自然と一体となり、生死を超越して、絶対無限な、自由独立な逍遙遊という境涯を説いたものである。斉物論篇は万物を一貫する道を体得することによって、彼此、是非、善悪、美醜などの対立差別の相を超越して、万物をありのままに、平等にみることを説いている。儒家の思想に反駁し、独自の形而上学的世界を開いたその思想は老子と合わせて老荘思想と称され、後世まで大きな影響を与えた。唐の玄宗により南華真人と追号された。
講義
儒教といえども主師親の三徳あり、また、その三徳は仏教に比較して、いかなる位置にあるかをお説きなされた章である。
まず第一に、能説の人を挙げて、その所尊の姿を示されている。すなわち三皇・五帝・三王は主師親の三徳を具える天尊である。ゆえに本抄にいわく、諸臣の頭目すなわち親であり師であり、万民の橋梁すなわち主人であると。この天尊、主師親の三徳を具うるがゆえに忠を教え、孝を教え、主徳をもって万民を愛し、しこうして師弟の道を立てて師の恩を教ゆ。
孝の手本としては、重華・沛公・武王・丁蘭あり。忠の手本としては、比干・公胤あり。師弟の道を明らかにしたる手本としては、尹寿・務成・太公望・老子がある。
つぎに、これらの聖人の所説の法を挙げて、これら聖人の姿を示されるのには、三墳・五典・三史の三千余巻が、これ所説の法であり、この法の原理は有の玄・無の玄・亦有亦無の玄等に過ぎない。
されば、われわれの生命を観ずるのに、父母未生以前の事はわからないから元気から生じたといっているが、その元気というものは観念的なものであって、天地の精気というように説明していても、ただそうかなあと思わせるに過ぎない。じつに頼りないものではあるが、生命観の確立しない儒教では、こう取り扱う以外には方法はなかったであろう。また生活問題たる貴賤・苦楽・是非・得失というものは、自然のものであり、いいかえれば運命でどうする事もできないものであるとしているが、三世にわたる因果の法則を知らない者には、こう考える以外には方法はなかったのであろう。
現代のような時代にも、こんな考え方をする者があるが、これは、真の仏教哲学が興隆されていないからであって、じつに悲しむべきことである。彼らの学説は、いかに巧に作られているとはいえ、生命の真実を説き切っていない点においては、今の西洋哲学に類似しているものがある。
生命は永遠であり、過去・現在・未来は、知ると知らぬとにかかわらず、厳然たる事実である。しかるに彼らは、過去、未来を知らないがゆえに、玄といい、黒すなわち、わからぬといい、幽かなりという以外には道がないのである。されば、彼らの三千余巻の書といえども、現在をどうするかという事以外に取り扱い切れなかったのである。
第三章 仏教の初門となすを明かす
本文
此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし、但現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば傍輩も・うやまい名も国にきこえ賢王もこれを召して或は臣となし或は師とたのみ或は位をゆづり天も来て守りつかう、所謂周の武王には五老きたりつかえ後漢の光武には二十八宿来つて二十八将となりし此なり、而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず、孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ、妙楽大師云く「仏教の流化実に玆に頼る礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」等云云、天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云、止観に云く「我れ三聖を遣わして彼の真丹を化す」等云云、弘決に云く「清浄法行経に云く月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す天竺より此の震旦を指して彼と為す」等云云。
現代語訳
これらの儒教で賢聖と仰がれる人々は、聖人と呼ばれていても、生命の実体を知らないのである。ゆえに、過去世を知らないことは、凡夫が背を見ないと同じであり、生命に来世があることを知らないのは、盲人が前を見ないようである。ただ現世において、家を治め、孝行をいたし、堅く仁義等の五常を行ずるならば、傍輩もその人を敬い、名声が国内にひろまり、賢王もこれを召し出して、あるいは臣となし、あるいは師とたのみ、あるいは王位をゆずり、諸天善神もきたって守り仕えたのである。いわゆる周の武王には五人の老臣が来て仕え、後漢の光武帝には二十八宿が来て二十八将となったのがこの例である。
そのように、儒教の徳は高くても、生命の三世にわたることを知らないから、尊敬する父母・主君・師匠が死んだならば、その来世の幸福を授けることができないから、結局は不知恩の者であり、真の賢人・聖人ではないのである。孔子が「この中国には賢人聖人がおらない。西の方に仏図という者があり、これは真の聖人である」といって、外典の教えはすなわち仏教へ入るための段階であるとなしたのは、この意味である。すなわち儒教においては礼楽等を教えて、後に仏教が伝来した時に、戒定慧を知りやすからしめんがため、王と臣の区別を立て、尊卑を定めて、もって主の徳をあらわし、父母を尊ぶべきことを教えて、もって親の徳をあらわし、師匠と弟子を明らかにして、もって師に帰依すべきことを知らしめたのである。
妙楽大師のいわく「仏教の流布はじつに儒教の力をそのまま生かしたのである。儒教の礼楽が先に流布されて真の道たる仏法が後に弘通されたのである」と。天台大師のいわく「金光明経に、一切世間のあらゆる善論はみな仏経によっているのである。もし深く世法を識るならば、すなわちこれは仏法であると説いている」と。天台の止観にいわく「我れは三人の聖人を遣わして中国の衆生を教化した」と。妙楽の弘決にいわく「清浄法行経にいわく、月光菩薩は中国に生まれて顔回と称し、光浄菩薩は同じく孔子と称し、迦葉菩薩は同じく老子と称した。これらはすべて釈尊の使いとして、仏教の先駆として儒教を説いたものである」と。
語釈
五常
儒教で説く人の常に守るべき五つの道をいう。五倫、五行ともいう。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の道があると説く。また白虎通義は五常として「仁・義・礼・智・信」を明かし、孟子は「父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」をあげている。
周の武王には五老きたりつかえ
周の武王が父・文王の宿望を達せんとして軍をおこしたとき、五帝星の化現として五老臣がきたりつかえたという。呂氏春秋二十五に、周公旦・召公奭・呂尚・畢公高・蘇忿生とある。
後漢の光武には二十八宿来って
光武とは後漢の始祖、劉秀(BC0057~BC0006)のこと。字は文叔、諡号は光武皇帝。22年に湖北で挙兵、翌年王莽との戦いを昆陽に破り、25年に即位して漢を再興した。洛陽に都し、もっぱら内治を図り、文教を盛んにした。36年、中国全土を統一。二十八宿(天の二十八星座)が応現し二十八将となり、守り仕えたといわれた。後漢書、十八史略にある。
孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐ……
仏図とは仏陀で釈尊のこと。列子仲尼編に、つぎのような問答がある。商の太宰、孔子を見ていわく「丘は聖なる者か」と。孔子いわく「聖はすなわち丘、何ぞ敢えて当たらん。しかればすなわち丘は博く学び多く識れる者のみ」。商の太宰いわく「三王は聖なる者か」と。孔子いわく「三王は善く智勇に任じたる者なり。聖なるは、すなわち丘知らざるなり」と。いわく「五帝は聖なる者か」と。孔子いわく「五帝は善く仁義に任じたる者なり。聖なるはすなわち丘知らざるなり」と。いわく「三皇は聖なる者か」と。孔子いわく「三皇は善く任ずること時に因りたる者なり。聖なるはすなわち丘知らざるなり」と。商の太宰大いに駭きていわく「しからば、すなわち、いずれをか聖となすや」と。孔子、客を動かし、間あっていわく「西方の人に聖なる者あり。治めずして乱れず、言はずしておのずから信ぜられ、化せずしておのずから行なわれ、蕩蕩乎として民能く名づくる無し。丘それを聖たるらしと疑うも、真に聖たるか、真に聖たらざるかを知らず」と。商の太宰嘿然として心に計りていわく「孔丘、我れを欺けるかな」と。
妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(現在の江蘇省宜興市)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興浄楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」十巻、「法華文句記」十巻、「止観輔行伝弘決」十巻、また「五百問論」三巻等多数ある。直弟子に、唐に留学した伝教大師最澄が師事した道・行満がいる。
天台
(0538~0597)。中国・南北朝から隋代にかけての人。天台宗開祖(慧文、慧思に次ぐ第三祖でもあり、竜樹を開祖とするときは第四祖)。天台山に住んだので天台大師といい、また智者大師と尊称する。姓は陳氏。諱は智顗。字は徳安。荊州華容県(湖南省)の人。父の陳起祖は梁の高官であったが、梁末の戦乱で流浪の身となった。その後、両親を失い、18歳の時、湘州果願寺の法緒について出家し、慧曠律師から方等・律蔵を学び、大賢山に入って法華三部経を修学した。陳の天嘉元年(0560)光州の大蘇山に南岳大師慧思を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」(隋天台智者大師別伝)と、その邂逅を喜んだ。南岳は天台に普賢道場を示し、四安楽行(身・口・意・誓願)を説いた。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。南岳から付属を受け「最後断種の人となるなかれ」との忠告を得て大蘇山を下り、32歳(あるいは31)の時、陳都金陵の瓦官寺に住んで法華経を講説した。宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。太建7年(0575)天台山(浙江省)に入り、翌年仏隴峰に修禅寺を創建し、華頂峰で頭陀を行じた。至徳3年(0585)陳主の再三の要請で金陵の光宅寺に入り仁王経等を講じ、禎明元年(0587)法華文句を講説した。開皇11年(0591)隋の晋王であった楊広(のちの煬帝)に菩薩戒を授け、智者大師の号を受けた。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じたが、間もなく晋王広の請いで揚州に下り、ついで天台山に再入し六十歳で没した。彼の講説は弟子の章安灌頂によって筆記され、法華三大部などにまとめられた。日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。
止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が隋の開皇14年(0594)4月26日から一夏九旬にわたって荊州玉泉寺で講述したものを、弟子の章安大師灌頂が筆録した書である。本書で天台大師は、仏教の実践修行を〝止観〟として詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、梵語で偉大なという意の〝摩訶〟がつけられている。〝止〟とは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを〝観〟という。内容として、法華経の一心三観・一念三千の法門を開き顕し、それを己心に証得する修行の方軌を示しており、天台大師の出世の本懐とされる。構成は、章安大師の序分と天台大師の正説分からなっている。正説分として①大意、②釈名、③体相、④摂法、⑤偏円、⑥方便、⑦正修、⑧果報、⑨起教、⑩旨帰、の十章が立てられており、これを「十広」ともいう。しかしながら、⑦正修章において十境を立てるなか、十境中の第八増上慢境以下は欠文のまま終わっている。本抄の引用の文は、つぎの「弘決に云く」と同じく清浄法行経の文である。
弘決
止観輔行伝弘決のこと。十巻。中国・唐代の妙楽大師湛然の著。天台大師の摩訶止観の注釈書。内容は題号の釈出をはじめ、無情仏性に関する十難や華厳宗の法華漸頓・華厳頓頓説を打ち破るなど、摩訶止観の妙旨を明らかにするとともに、天台宗内外の異義に破折を加えている。
清浄法行経に云く……
清浄法行経に「天竺の東北、真丹の人民には、未信の罪多し。吾れ今先ず弟子三聖を遣す。悉くこれ菩薩なり。かしこに往きて示現せしむ。摩訶迦葉かしこにては老子と称し、光浄童子かしこにては仲尼と名づけ、月明儒童かしこにては顔淵と号し、孔・顔師諮ししに五経・詩伝・礼典・威儀・法則を講論し、漸を以て誘化し、然る後、仏教まさに彼所に往くべし」とある。中国撰述の経典とされる。
月光菩薩
月浄あるいは月光遍照ともいう。薬師如来の脇士として右側に位し、日光菩薩と対をなしている。灌頂経には「過去無量劫の昔の電光如来の時代に、娑婆世界は五濁に満ち、民は苦しみにあえいでいた。このとき、ひとりの梵志医王があり、日照、月照は彼のふたりの子であった。このふたりは、衆生の苦を見て発心し、民衆救済を願って仏を供養した。この功徳により、父の医王は薬師如来に、日照は日光菩薩に、月照は月光菩薩になった」と説いてある。
顔回
顔淵ともいう。中国・春秋時代の魯(山東省曲阜)の人。名は回、字は子淵。孔子の弟子。論語などから孔子が一番信頼していたことがうかがえる。孔子より三十も若かったが、三十二歳で若死にして「ああ,天われを喪ぼせり」と孔子を痛嘆させた。学徳ともに高く、貧しい生活に耐えて道を楽しみ、師の教えを忠実に守った。のちに漢の高祖(劉邦)が復聖公に封じ、廟堂を建てた。唐代には亜聖の号を贈られた。
講義
この二、三章は儒家を釈されているが、第一に三皇・五帝・三王と、儒家で尊敬する人の本尊を挙げ、第二に「此等の聖人に三墳・五典・三史等の三千余巻の書あり」とて所説の法を示し、第三に「かくのごとく巧に立つといえども」以下は仏教の立ち場から、これを批判されている。批判の中においても、またその法を破し人を破して後、孔子が此の土に賢聖なしといえるを挙げて以降は、儒教を会入して仏教の初門となすべきことを示されている。
儒教のごときは、まったく現世の道徳修養の道を教えているに過ぎない小法で、野蛮人や幼稚の子供には、孝行せよ、人に迷惑をかけるな等の教えが必要であっても、現代のごとき邪悪の世界には、まったく通用しない小法である。ウソを言うべきでないくらいの道徳なら、だれでも知っているが、しかしウソをつかない人間がどこにいるか。まったくウソだらけの世の中である。ゆえに道徳も真実の仏法が核心となり、その根源に立たない限りまったく無用の長物である。
そもそも宗教の目的は、永遠の生命の中に安住せしめるにある。すなわち永遠の生命を感得する事がもっとも大事なことで、永遠の生命を認めるならば、過去・現在・未来の三世の生命観を確立せざるを得ない。されば、過去の生命を因として現在の生命が果となる。現在の生命がまた因となり未来の生命が果となる。この三世流転の生命が因果の法則に支配されることはいうまでもない。この因果の法則を立て得ない儒教では、真実の人生観の確立はあり得ないから、仏教に対して儒教を外道というのである。されば、本抄において、「此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし」とおおせられているのである。
儒教においては、現在をいかにしたならば幸福になるかということを教えるのであるが、結局は過去・未来を知らないから、大聖人のおおせのごとく「父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず」と申されているのである。不知恩とは、主師親の三徳に現在・未来を通じて報恩しないことをいうのであって、恩を報ぜぬということは人間の特権を放棄し、禽獣に同ずることである。
つぎに、「月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す」という思想は、現在の科学一点張りの社会には不思議に感ずるであろうが、完全に、真実に発展された東洋の生命哲学よりすれば、まことなりとうなずくことができる。三世の生命観に通達するならば、弘決において、このようにいい切った事は確かなことと認めるであろう。
第四章 外道の三徳
本文
二には月氏の外道・三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天・此の二天をば一切衆生の慈父・悲母・又天尊・主君と号す、迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆・此の三人をば三仙となづく、此等は仏前八百年・已前已後の仙人なり、此の三仙の所説を四韋陀と号す六万蔵あり、乃至・仏・出世に当つて六師外道・此の外経を習伝して五天竺の王の師となる支流・九十五六等にもなれり、一一に流流多くして我慢の幢・高きこと非想天にもすぎ執心の心の堅きこと金石にも超えたり、其の見の深きこと巧みなるさま儒家には・にるべくもなし、或は過去・二生・三生・乃至七生・八万劫を照見し又兼て未来・八万劫をしる、其の所説の法門の極理・或は因中有果・或は因中無果・或は因中亦有果・亦無果等云云、此れ外道の極理なり所謂善き外道は五戒・十善戒等を持つて有漏の禅定を修し上・色・無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫のごとく・せめのぼれども非想天より返つて三悪道に堕つ一人として天に留るものなし而れども天を極むる者は永くかへらずと・をもえり、各各・自師の義をうけて堅く執するゆへに或は冬寒に一日に三度・恒河に浴し或は髪をぬき或は巌に身をなげ或は身を火にあぶり或は五処をやく或は裸形或は馬を多く殺せば福をう或は草木をやき或は一切の木を礼す、此等の邪義其の数をしらず師を恭敬する事・諸天の帝釈をうやまい諸臣の皇帝を拝するがごとし、しかれども外道の法・九十五種・善悪につけて一人も生死をはなれず善師につかへては二生・三生等に悪道に堕ち悪師につかへては順次生に悪道に堕つ、外道の所詮は内道に入る即最要なり或外道云く「千年已後・仏出世す」等云云、或外道云く「百年已後・仏出世す」等云云、大涅槃経に云く「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」等云云、法華経に云く「衆に三毒有りと示し又邪見の相を現ず我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」等云云。
現代語訳
つぎにインドの外道について述べる。外道においては、摩醯首羅天と毘紐天とを二天といい、一切衆生の親であり天尊であり主君であると号している。迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆を三仙という。これらは釈迦の時代を中心として、八百年已前已後の仙人である。この三仙の説くところは、四韋陀と号して、讃誦・祭祀・歌詠・穣災の義を明かし、その所説は六万蔵もあるといわれた。釈尊が出世するに当たり、六師外道は、この外道の経を習い伝えて、五天竺の王の師となり、支流は九十五六派にも分かれていた。一々の流派にまた我流が多く我慢の幢が高いことは非想天よりも高く、我執の心が強いことは金石よりも堅かった。その見の深く巧みなる様は儒教の遠く及ばないところである。あるいは過去世の二生・三生乃至七生・八万劫の過去までも照見することができ、また未来八万劫を知ることができた者さえあり、その所説の法門の極理は、あるいは「因の中に果有り」、あるいは「因の中に果無し」、あるいは「因の中に亦は果有り亦は果無し」等云云ということである。これが外道の極理である。
いわゆる善き外道は五戒・十善戒等の戒律を持ち、有漏の禅定を修め、しだいに修業を積んで色界の天・無色界の天をきわめ、上界を涅槃と立てて、尺取り虫のごとく一歩一歩修業してのぼれども、非想天より、かえって三悪道に堕ちてしまい、一人として天界に留まる者がなかった。けれども、外道を信ずる者は、その根本が邪見であるために、天界から三悪道へ堕ちたとは知らずに、天をきわめた者は長くかえらないのだと思っていた。おのおの自派の師匠の義を受けて、これに堅く執着するゆえに、あるいは寒い冬に一日に三度、恒河に浴し、あるいは髪の毛を抜き、あるいは巌に身を投げ、あるいは身を火にあぶり、あるいは手足と頭との五処を焼く、あるいは裸体になり、あるいは馬を多く殺せば幸福になれる、あるいは草木を焼き、あるいはいっさいの木を礼拝した。これらの邪義は数え切れないのである。その師を恭敬する様は諸天が帝釈を敬い、諸臣の皇帝を拝するごとくであった。
しかれども、外道の九十五種の修業では、善につけ悪につけ、一人も煩悩・生死の根本を悟ることができないで、善師に仕えては、その時には事がなくても、二生・三生等に悪道に堕ち、悪師に仕えては次の世で悪道に堕ちた。結局のところ、外道の所詮は、仏教へ入るための径路である。ある外道は「千年已後に仏が出世する」と予言した。ある外道は「百年已後に仏が出現する」と予言した。これは外道が種々の教を説くも、すべてこれ仏法へ流入せしむる方便であるがゆえである。大涅槃経にいわく「一切世間の外道の経書は皆これ仏説であって、外道の説ではない」と。法華経にいわく「声聞の弟子たちはただたんに声聞の姿を示すのみでなく、また三毒の凡夫と生まれ邪見の相を現じたのである。わが弟子はこのように方便して衆生を度したのである」と。
語釈
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前三世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前二世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
摩醯首羅天
ヒンドゥー教の神で、シヴァ(Śiva)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされる。シヴァの別名がマヘーシュヴァラ(Maheśvara)。摩醯首羅は音写で、大自在天と訳す。止観輔行伝弘決巻十によると、摩醯首羅天は色界四禅天の最上処、アカニスタ(Akanistha)、音写して阿迦尼吒天、訳して色究竟天におり、三目八臂(目が三つで臂が八本)で天冠をいただき、白牛に乗り、三叉戟を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。
毘紐天
ヒンドゥー教の神で、ヴィシュヌ(Viṣṇu)の音写。韋紐天とも書く。世界の維持を司る神とされる。仏教では色界四禅天のうち第三禅天の中の第三天(色界十八天のうち第九天)に住むとされる。その形像は大智度論巻二に「韋紐天の如きは〈秦には遍悶と言う〉、四臂にして貝を捉り、輪を持し、金翅鳥に騎る」とある。その働きは同論巻十に「世間に大富貴・名聞の人有るは、皆是れ我が身の威徳力の分なり。我は能く世間を成就し、亦能く世間を破壊す。世間の成ると壊るとは、皆是れ我が作なり」とある。止観輔行伝弘決巻第十によると、毘紐天については、大梵天王の父で、同時に一切衆生の親であるとされていた。異名はナーラーヤナ(Nārāyaṇa)。那羅延天と音写し、金剛力士ともいう。金剛力士について、大日経疏には、毘紐天の別名で、仏の分身であり、迦楼羅鳥に乗って空をいくとある。慧琳音義には、大力で、この神を供養する者は多くの力を得るとあり、大毘婆沙論にも同様の大力が示されている。
迦毘羅
「かぴら」ともいう。梵名カピラ(Kapila)の音写。インド六派哲学の一つ、数論学派(サーンキヤ学派)〔Sāṃkhya〕の開祖。黄夫・黄頭・黄髪・金頭などと訳す。髪や顔面が赤黄色なので迦毘羅と名づくという。因中有果論を説いた。
漚楼僧佉
優楼僧佉とも書く。梵名ウルーカ(Ulūka)の音写。拘留、倶留、休留などと書く。インド六派哲学の一つ、勝論学派(バイシェーシカ学派)〔Vaiśeṣika〕の開祖。因中無果論を説いた。
勒娑婆
梵名リシャバ(Rsabha)の音写。苦行と訳す。尼乾子外道(のちのジャイナ教)の開祖といわれる。現世に苦行を行うことによって、未来に楽果を受けることができると説いて苦得外道の祖となった。別名を裸形外道ともいい、裸で灰や棘のなかに寝るなど、さまざまな苦行を行なった。釈尊の出家前の子で、仏の弟子となりながら外道に近づいて退転し、現身に地獄の大苦を受けた善星比丘も、この勒娑婆の一派とされる。因中亦有果亦無果論を説いた。
四韋陀
四つのヴェーダ(Veda)。韋陀はヴェーダの音写。ヴェーダとは「知る」の名詞で知識を意味し、とくに聖なる知識を指すようになり、古代インドのバラモン教の四聖典を総称した。リグ・ヴェーダ(讃誦)、ヤジュル・ヴェーダ(祭祀)、サーマ・ヴェーダ(歌詠)、アタルヴァ・ヴェーダ(穣災)をいう。各ヴェーダの主要部分は、サンヒター(本集)と呼ばれ,狭義のヴェーダはこの部分をさす。付随文献のブラーフマナ(祭儀書)、アーラニヤカ(森林書)、ウパニシャッド(奥義書)を含めて広義のヴェーダと呼ぶ。成立年代は紀元前千五百年頃、また前千二百年頃、あるいは前一千年頃からと諸説あるが、以来、紀元前五百年頃にかけて編纂されたとするのは一致している。最古のリグ・ヴェーダから最新のアタルヴァ・ヴェーダまで、成立には約一千年から数世紀の開きがある。
六師外道
釈尊在世時にガンジス川中流域のインド中心部で勢力のあった、六人の仏教以外の思想の指導者のこと。六師は既成のバラモンの権威を否定して自由な思想を展開し、新興の王侯貴族・商人たちの支持と援助を受けた。それぞれが独自の主張をもち、当時の社会で新しい思想の代表とみなされていた。
支流・九十五六
釈尊在世時における九十五派あるいは九十六派の外道のこと。その派名、所説等についての詳細は不明。釈尊在世には四韋陀(しいだ)の権威を否定し祭式主義を打破したのが六師外道である。この六派におのおの十五人の弟子がいたといわれ、九十六人に分かれて互いに争ったというのと、一人だけ因果の道理に似たことを教えていたので九十五人となったとするのと両説ある。
非想天
非想非非想天のこと。三界(欲界・色界・無色界)のうち無色界の第四で、最上の天であるから有頂天ともいう。粗想の煩悩はないから非想といい、細想の煩悩はないわけではないから非非想という。外道ではこの天を究極の境界としている。大毘婆沙論巻八十四に「何が故に非想非非想処と名づくるや。答う、此の地中に、明了の想の相も無く、亦無想の相も無し」とある。
八万劫を照見し
非想非非想天の衆生の寿命は、八万歳という。ここでは八万劫といわれている。外道も、生命の過去八万劫、未来八万劫を知ることができた。そのように外道の見は儒家にくらべると、はるかに深いが、所詮は断常の二見を出でない。断常の二見とは、死んでしまえば無に帰するというのが断見、生命の常住は説くが、鳥は鳥、人は人で変わらぬというのが常見である。すなわち三世にわたる正しき生命の因果論は外道にはない。このような外道の見解には六十二種もあり、六十二断常の見という。
因中有果
因中有果論。「因の中に果有り」とする。古代インドの三仙のうち数論学派(サーンキヤ学派)の迦毘羅による教え。この迦毘羅を祖とする数論外道では、万有の生成を自性の開発にあるとして、自性の中におのずから万有の果性を内具すると説く。
例えば、砂を搾っても油は出てこないが、麻の実を圧縮すれば油が出てくるように、もし因の中に初めから果の性がないならば、ついに果を生ずることはありえないという。一分の理はあるが、縁を説かない部分的な思想で、運命決定論に陥っている。
因中無果
因中無果論。「因の中に果無し」とする。古代インドの三仙のうち勝論学派(ヴァイシェーシカ学派)の漚楼僧佉による教え。その流れを引く勝論外道では因に和合因、不和合因、助因の三つがあるとし、いくつかの原因が合わさってはじめて一つの結果が生ずると説く。例えば、陶器という結果は、かならず土という原因がなければ生じないが、土はかならず陶器になるとはかぎらない。これは土が陶器の和合因にすぎないからであって、他に助因がなければ陶器にはならない。また、その助因が変われば陶器以外のものにもなる。したがって、陶器は陶器、土は土である。このように因と果はおのおの別であって、因の中に果なしとする。縁を説いたことに多少の成果はみられるが、人生の幸不幸はしぜんに起こるものであるからあきらめる以外ないとする、偏狭な思想で、一種の偶然論である。
因中亦有果亦無果
因中亦有果亦無果論。「因の中に、または果有り、または果無し」とする。古代インドの三仙のうちジャイナ教の祖とされた勒裟婆による教え。すなわち、世間に起こるさまざまの現象は、ある時には原因の中に結果の性があって展開し、ある時には原因の中に結果の性がない場合もあるという。いちおう中道論のように聞こえるが、因中有果と因中無果のたんなる折衷にすぎない。
有漏の禅定
無漏禅に対することば。三界を九地に分け、六行観(外道の修行法)によって上地を喜び下地を嫌って、しだいに上地に進む坐禅観法。この禅によって欲界を離れ、初禅天にはいり、さらに二禅天、三禅天、四禅天の色界をきわめ、ついに色界を離れて無色界にはいり、空処、識処、無所有処より非想非非想処(天界最上部の有頂天)にのぼる。もしこの天に達すれば、ふたたび生をうけず、長く涅槃の楽を得るという。しかし下地を離れたといっても真の断惑ではない。まして三界第九地の惑は、さらにこれに対比すべき上地がないので伏断ともにない。したがって、三界六道の生死から離れることができず、たとえ非想天にのぼっても、ひとりとして留まっているものはいない。所詮、三界を離れるためには無漏道を修する以外になく、外道の有漏禅は仏法にはいる序分の一つにすぎないのである。
「衆に三毒有りと示し又邪見の相を現ず」云云
法華経五百弟子受記品第八に「衆に三毒有りと示し又た邪見の相を現ず我が弟子は是の如く方便もて衆生を度す」とある。
講義
本章は月氏の外道について述べられている。第一に、二天・三仙等の能説の人を挙げ、第二にこの三仙の所説を四韋陀と号すとして、所説の法門を述べ、外道がおのおのの師を修学する相を示され、第三に本文中の「所謂善き外道は」以下に、外道の邪義を破するとともに、「外道の所詮は内道に入る即最要なり」とて、会入の上で外道の位置を示されている。
釈尊の時代には、九十五派の哲学が互いに論争していたのであるから、現代日本の哲学界よりさらに壮観なものがあったであろう。しかし現代の日本においても、一方においては自然科学が大進歩をきたしているのに対し、哲学や宗教界はまったく釈尊の時代より、進歩もなければ発展もないのに驚かざるを得ない。断常の二見といい、因中有果等の対論といい、五戒・十善戒を持てと言い、あるいは寒中に水を浴びたり身を火にあぶったり、裸体になったり一切の木を拝んだりするような、原始時代の宗教が、そのまま現代に実行されていることはまったく驚かざるを得ないではないか。
よく宗教を論ずるにあたって、科学と反対のように考える者があるが、これは大なる誤りである。科学は物質を対象として深く研究をすすめ、または心の作用を対象として研究をすすめたりするのであるが、真の宗教すなわち最高の東洋哲学は、生命の本質を究めるものであって、決して科学と相反する立ち場のものでなく、並立して互いに人生を利益するものである。ただし宗教はたんなる哲学ではなくて、究明せられたるところの最高理論を実践活動に移すことによって、生活上の幸福を得るものである。あたかも科学において究明せられた方程式が、実際生活に利用せられて役立つと同様である。
婆羅門においても、低い程度のものであるが、生命の本質、生命の本体は何ぞやという点を思考して、その得た結論を実践活動に移したのである。すなわち摩醯首羅天・毘紐天を父母・天尊・主君として、主師親の三徳を挙げ、迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三人が流派の祖となって、いかにすれば幸福を得られるかを研究して、これをまとめたものが四韋陀である。六万蔵というから相当の諸説があったものであろう。しこうして、彼らの生命観は、過去・現在・未来を知り、儒教のように現世だけに法を立てたのとは異なって、そうとう深いところまで研究の歩をすすめて来ているのである。過去・現在・未来を考えれば、現在の不幸を未来にまで持ち越さずに、未来においては、絶対の幸福を得たいという考えが起こってくる。
されば、彼らの幸福に対する考え方は、儒教の現世的、近視眼的なものではなくて、より遠視眼的なものになってくる。よって生命の本質は何であるかということを考えざるを得ない。そこで、一生・二生・三生乃至七生・八万劫をしる、となればこの過去・現在・未来を通じた、一貫した生命の本質は何であるかと考えるのが当然である。されば因中有果といって、人生の苦しみや幸福は、因果が一体なものであるとなす説や、あるいは因と果とは別個なものであって、人生の幸福・不幸は自然のものであるから、あきらめる以外にないとする説や、因中に、時には果があり時には果なしとする因中亦有果・亦無果というような説も生じたのである。ゆえに彼らはこれを極説となして互いに論争し、また、この法をば実践行動に移して、一日三度恒河に入ったり、あるいは髪を抜いたり、巌に身を投げたり、あるいは身を火にあぶって五体を焼き、あるいは裸形になり、あるいは馬を殺せば幸福になるといったり、あるいは草木を焼いたり、一切の木を拝んだりしたのである。これとて、最高の仏教哲学から見れば、ほんとうの子供だましであって、なんら得るところのないのはもちろんである。
また彼らが、天上界に生まれるということを最高の幸福と考えたことは、ちょうど今日のキリスト教のようなものであって、阿弥陀経の西方浄土に生まれるというのによく似た低級なものである。キリスト教の昇天説を思えばキリスト教そのものが、何か婆羅門につながりがあるように考えられてならない。しかるに、この婆羅門といえども、儒教が仏法の漢土に渡る序分であったように、インドに仏教の始まる序分である。その観点より、日本における日蓮宗内の邪義の弘まっていることは、正法流布の前兆であり、キリスト教の世界的流布は正しき、真の仏法の世界的流布の前兆であると見るべきである。
第五章 内外相対して判ず
本文
三には大覚世尊は此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり、外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし我が大師は変易・猶を・わたり給へり況や分段の生死をや元品の無明の根本猶を・かたぶけ給へり況や見思枝葉の麤惑をや、此の仏陀は三十成道より八十御入滅にいたるまで五十年が間・一代の聖教を説き給へり、一字一句・皆真言なり一文一偈・妄語にあらず外典・外道の中の聖賢の言すらいうこと・あやまりなし事と心と相符へり況や仏陀は無量曠劫よりの不妄語の人・されば一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし、初成道の始より泥洹の夕にいたるまで説くところの所説・皆真実なり。
現代語訳
第三に大覚世尊・釈迦仏は、一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等で、幸福になれる道を示してくれた根本の師匠である。儒教の師たる四人の聖人や、外道の三仙は、その名は聖人であるとはいえ、実には見思惑・塵沙惑・無明惑の一つさえも未だ絶ちきれない、迷いの凡夫であり、その名は賢人であるとはいえ実には因果の道理を弁えないことは赤児のごとき状態である。このような嘘の聖賢を師と仰いでも、これを船として生死の大海を渡れるであろうか、これを橋として六道の迷いから抜け出られるであろうか、できないのである。しかし、釈迦仏は歴劫修業の菩薩行をすでに満じて、変易をさえわたられた方である。いわんや六道凡夫の分段の生死に迷っているはずがない。元品の無明の根本をさえ断ち切られた方である。いわんや見惑・思惑の枝葉の迷いを断たれたことはいうまでもない。
この釈迦仏は、三十歳で成道してより八十歳入滅にいたるまで、五十年の間、一代の聖教をお説きになった。一字一句はみな真実であり、一文一偈といえども妄語はないのである。外典・外道の中の聖人・賢人の言ですら、いうことに誤りがなく、事と心が相かなっている。いわんや仏さまは無量劫の昔より不妄語の人である、されば一代五十余年の説教は、どんな低い教でも、外典・外道に対するならば、大乗であり、大人の実語なのである。初成道の始めより涅槃・寂滅の御説法にいたるまで説くところの法はみな真実である。
語釈
大覚世尊
釈尊の別称。大覚は仏の覚りのこと。世尊は仏の十号の一つで、世の衆生に尊敬される者を意味する。
大福田
福田とは、福徳を生ずる田のこと。如来や比丘をいう。田畑が作物を実らせるように、仏や僧を恭敬し布施することによって福徳を生ずるゆえにいう。大智度論巻九には「仏は三界に於いて第一の福田なり」とある。ここは大福田とあり、仏の尊称。
四聖
「尹寿は堯王の師・務成は舜王の師・大公望は文王の師・老子は孔子の師なり此等を四聖とがうす」(0186:)と。詳しくは第二章を参照。
三仙
「迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆・此の三人をば三仙となづく」(0187:開目抄:06))と。詳しくは第四章を参照。
三惑未断の凡夫
三惑を断ち切っていない凡夫のこと。煩悩の数は八万四千あるが、性質の上から大別すると、①界内見思の惑(見思惑)、②界外化導障塵沙の惑(塵沙惑)、③中道障無明の惑(無明惑)の三惑になる。①第一の見思惑は、三界六道の苦果を招く惑で、さらに分けて見惑と思惑となる。見惑は事物の道理に迷う惑で、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。思惑は俱生惑といって、生まれると同時につきまとう煩悩で、感覚・感情の迷い。欲界に貪・瞋・癡・慢、色界に貪・癡・慢、無色界に貪・癡・慢と八十一種ある。この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至るとされる。②第二の塵沙惑とは、二乗・菩薩が修行の過程で、小果・空理に著し、化導の障りとなる等の惑。その数が無量無数となるところから塵沙と呼び、大乗の大菩薩のみがよくこれを断破するという。③第三の無明惑とは、中道法性を障えるいっさいの生死・煩悩の根本であり、別教では十二品、円教では四十二品をたてる。円教の四十二品のうち最後の無明惑を元品の無明といい、これを断じ尽くせば成仏の境地を得るとされるが、外典・外道の四聖・三仙は、この三惑を断ずることができないので凡夫に過ぎぬとのお言葉である。
六道の巷
六道輪廻のこと。仏法を知らない衆生が六道を輪廻して出ることがなく、迷いと苦悩の生死を繰り返すこと。輪廻からの脱却を解脱といい、古代インドの人々にとって最終的に達成すべき理想とされた。しかし、古代インドの伝統思想であるバラモン教の教えや同時代の新興思想である六師外道などの教えは、生死の因果について知悉しておらず、それどころか無知であるため、誤った行いとなり、したがって解脱は得られないとされる。正しい仏法によらなければ、この迷いを脱することはできないのである。
変易
変易の生死のこと。見思惑(煩悩の迷い)を断じ、寿命、形相に分々段々の差異がある凡身(分段の身)を変え易め、悟りの智慧を開き改めて三界六道の流転を脱した声聞・縁覚・菩薩の生を変易の生といい、変易の国土(方便土・実報土)において自由にその身を変化・改易できる身(変易の身)の生である。しかして、真に究竟して変易をわたるのは、ただ仏のみである。
分段の生死
三界六道の生死すなわち迷いの生死をいう。一生の間の善業・不善業・煩悩・業という因縁によって六道の間にそれぞれの果報の身を現じ、長短天寿を免れることができない。このとおり分限段落の差があるので分段という。変易の生死に対する語で、合わせて二種の生死とする。深位の菩薩はこの二種の生死を離れて、浄妙の証果に住する。しかし、真に究竟して変易をわたるのは、ただ仏のみである。
麤惑
あらい、粗末な惑。
一字一句・皆真言なり
真言の語に多義がある。①仏の真実のことば。実語とも。②密教において仏・菩薩などの智慧や力を象徴する呪文。③真言宗のこと。ここでは①の意。内外相対(内道と外道を比較)すれば、内道である仏教が、外道、すなわちバラモン教や六師外道などのインドの諸思想・宗教、儒教・道教などの中国の諸思想に対すれば、その所説はことごとく真実であること。内道と外道の違いは、生死を超えて過去・現在・未来の三世にわたる生命の幸・不幸の因果を自身の内に見いだしているかいないかである。
講義
五重相対について
開目抄の意は、五重の相対において拝しなければ、そのご真意に到達することができない。本尊抄においては整束して五重三段を明かされているが、今、開目抄の順序をもって標示し、本尊抄五重三段に対すれば次表のとおりになる。
第一 内外相対(此の仏陀等の下の文) 第五章
すなわち一代一経三段の意
第二 権実相対(但し仏教等の下の文) 第六章
すなわち法華一経三段の意
第三 種脱相対(但し此の経等の下の文) 第七章
すなわち文底下種三段の意
第四 権迹相対(此に予愚見の下の文) 第十一章
すなわち迹門熟益三段の意
第五 本迹相対(二には教主釈尊の下の文)第十八章
すなわち本門脱益三段の意
要するに、この五章において、内外相対して教を判ずるに、釈尊一代の教は、生命の因果の理法を説いて誤りなく、外道の論議は、生命の因果の法理を知る事ができないから、天地雲泥の相違ありとされているのである。生命に三世にわたる因果を認めないならば、各人各様のまちまちなる宿命を、どう説明することができようか。人々がこのことを認めると否とにかかわらず、これは宇宙における厳然たる事実である。
三惑未断の凡夫云云
「外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし」。この御金言を拝するとき、われらは現代世界の政治、経済、思想、教育、芸術各界の指導者に思いをいたすものである。
一国の首相とし大統領として、はたまた思想的に指導者、偉人として尊崇せられる人は多い。しかしながら、所詮はその各分野での狭い指導者に過ぎず、民衆を幸福にし、人類を救済していくことはできない。
ある人は、学問の探究においては天才的であるが、その研究した成果が恐るべき大量虐殺と文明の破壊に悪用されることもあろう。また、ある政治家は自国の繁栄のために功績をあげ、尊敬されても、他国民にとっては大悪人とされることもあろう。また、ある人は偉大な芸術作品を創っても、貧困のなかに苦しみの一生を終える人もある。これすべて、自己の生命の因果を知らざること嬰児のごとく、また見思・塵沙・無明の三惑を断じえぬ凡夫にほかならないゆえである。
いかに頭脳明晰、学識豊かな人といえども、来世はおろか一寸先も闇である。また、過去・現在・未来にわたる己れの生命の実体を知ることはできない。われらは、東洋仏法の極理・事の一念三千の御本尊の明鏡によってこの三世の生命観を確立し、永遠にくずれぬ絶対幸福の建設に邁進できることは、感激、身に余るのみである。
しこうして、この正しい生命観、幸福感を堅持した地涌の菩薩こそ、真実の世界の指導者として、使命を自覚すべきことを訴えるものである。これ本門の指導者である。末法の救世主・日蓮大聖人の末弟として、人類永遠の救済に、この身を捧げきっていこうではないか。
さらに、三惑の根本であり、いっさいの迷い、煩悩の本源たる元品の無明は、いかにすれば断つことができるか。日蓮大聖人の教えを拝するとき、御義口伝にいわく「一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり解とは智慧の異名なり信は価の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧とは南無妙法蓮華経なり、信は智慧の因にして名字即なり信の外に解無く解の外に信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり」(0725:第一信解品の事:03)と。
またいわく「此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し云云」(0751:15)と。
ゆえに、信心こそ元品の無明を断ち切り、八万四千のいっさいの煩悩を即菩提に転じ、人生を遊戯する絶対幸福生活の根源であることを知らなくてはならない。
一字一句・皆真言なり云云
ここに大聖人は釈尊一代の聖教は、みな真実なりと申され、一方で釈尊は無量義経に「四十余年・未顕真実」と説いている。一見すると、これは矛盾するように見えるかもしれない。
しかるに、これは、どちらも正しいのである。では、どうして、両方ともに正しいかといえば、所対によって判じなければならない。ゆえに「されば一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし、……説くところの所説・皆真実なり」と申されているのである。すなわち、三惑未断の凡夫たる外典外道の聖人の所説にくらべれば、仏の説かれた所説は、はるかに高遠にして真実である。
しかし、その仏の五十余年の説法の中ではじめの四十余年は、最後の法華経を説くための序分であり、方便であって、人生の根本の悩みを解明しきってはいない。要当説真実(ようとうせつしんじつ)と宣言せられて説き出された法華経こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生を得脱せしめる力があるのである。
そして、末法今時に出現あそばされた御本仏日蓮大聖人の三大秘法の大白法にくらべれば、この釈尊の法華経といえども、序分であり、方便に過ぎないのである。
第六章 権実相対して判ず
本文
但し仏教に入て五十余年の経経・八万法蔵を勘たるに小乗あり大乗あり権経あり実経あり顕教・密教・輭語・麤語・実語・妄語・正見・邪見等の種種の差別あり、但し法華経計り教主釈尊の正言なり三世・十方の諸仏の真言なり、大覚世尊は四十余年の年限を指して其の内の恒河の諸経を未顕真実・八年の法華は要当説真実と定め給しかば多宝仏・大地より出現して皆是真実と証明す、分身の諸仏・来集して長舌を梵天に付く此の言赫赫たり明明たり晴天の日よりも・あきらかに夜中の満月のごとし仰いで信ぜよ伏して懐うべし。
現代語訳
釈尊一代の説教はすべて前章のごとく真実であるが、ただし仏教に入って五十余年の経々、すなわち八万法蔵といわれる多数の経を一々見れば、その中に小乗もあり大乗もあり、権経もあり実経もある。また顕教・密教、輭語・麤語、実語・妄語、正見・邪見等、種々の差別がある。ただし法華経ばかりが教主釈尊の正言であり、三世十方の諸仏の真言である。釈尊は法華経已前の四十余年をさしてその間に説いた多数の諸経を「未だ真実を顕さず」と決定し、つぎに説く法華経は「要ず当に真実を説くべし」と決定されているに対し、多宝仏は大地より出現して「釈迦牟尼仏の説法はみなこれ真実である」と証明し、また分身の諸仏は釈尊の法華経の座に来集して、長舌を梵天につけて法華経の真実なることを証明している。このことは赫赫明明として、晴天の日よりも明らかに、夜中の満月のごとく明らかである。仰いで信ずべく、伏して懐うべきである。
語釈
八万法蔵
煩悩の数を八万四千の塵労といい、これを対治する数として八万四千の法蔵という。略して八万法蔵という。
輭語・麤語
輭語とは、やわらかい語。意をつくしている語。麤は〝粗〟で、あらい語、意をつくしていない語。
三世・十方の諸仏
三世とは過去・現在・未来。十方とは東西南北の四方と、東北・東南・西北・西南の四維と、上下の二方。千日尼御前御返事にいわく「法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏・未来・星宿劫の千仏・乃至華厳経・法華経・涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏・尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり」(1315:千日尼御前御返事:02)。十住毘婆沙論等によって述べられたものであり、これですべてというわけでない。
長舌を梵天に付く
インドでは舌を出すのを、言うことが真実である証拠とした。観心本尊抄に「経に云く『爾の時に世尊乃至一切の衆の前に大神力を現じ給う広長舌を出して上梵世に至らしめ乃至十方世界衆の宝樹の下師子の座の上の諸仏も亦復是くの如く広長舌を出し給う』等云云」(0251:07)と。
講義
内外相対において、まず外道を破折し、ついで権実相対を示して、法華経第一なるゆえんを説き示されている。禅宗・浄土宗・真言宗・華厳宗等のごとき四十余年の権教を依拠とする宗派は、すでに天台大師に完全に破折され、日本においては、また伝教大師に破折されて、日本国じゅう一人残らず伝教大師の法華経に帰依したのである。しかるに、世の衰微に乗じて、ふたたび仏教界が混乱し、邪教が横行していたので、大聖人は権実相対を立てて破折されたが、大聖人の出世の御本懐は、三大秘法のご建立にあって、けっして釈尊の法華経をひろめることではないのである。
このことは実に重大な事柄であって、世の人は日蓮大聖人が法華経を用いるがゆえに、釈迦仏法の一部分であるがごとく考えている。これは仏教観の上にもっとも大きな誤りであって、人みな、これがために幸福になれないのである。開目抄は、この誤りを説かれた大教訓であって、釈尊は正法・像法の仏、大聖人様は末法の仏であらせられる。釈尊は法華経二十八品を出世の本懐として衆生を救い、日蓮大聖人は七文字の三大秘法の南無妙法蓮華経をもって出世の本懐とし、末法の苦悩の衆生を救わんとせられているのである。ゆえに二仏の資格、二仏の立ち場は根本的に相異しておって、大聖人の時代たる末法には、釈尊の仏法の利益は全然ない。それなのに念仏、禅宗等の者が、去年の暦たる釈迦仏法に執着して、人を迷わすことは、宗教界の逆賊ともいうべきであろう。
第七章 文底の真実を判ず
本文
但し此の経に二箇の大事あり倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等は名をもしらず華厳宗と真言宗との二宗は偸に盗んで自宗の骨目とせり、一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。
一念三千は十界互具よりことはじまれり、法相と三論とは八界を立てて十界をしらず況や互具をしるべしや、倶舎・成実・律宗等は阿含経によれり六界を明めて四界をしらず、十方唯有一仏と云つて一方有仏だにもあかさず、一切有情・悉有仏性とこそ・とかざらめ一人の仏性猶ゆるさず、而るを律宗・成実宗等の十方有仏・有仏性なんど申すは仏滅後の人師等の大乗の義を自宗に盗み入れたるなるべし、
現代語訳
ただし、この法華経に二箇の大事がある。それは迹門・理の一念三千と本門・事の一念三千である。一念三千については、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等は、名さえも知らない。華厳宗と真言宗とは、自宗にはもともとないので、ひそかに盗んで、自宗の教義の骨目としている。
この法華経の大事たる一念三千の法門は、ただ法華経の本門・寿量品の文の底にのみしずめられている。竜樹菩薩・天親菩薩は知っていたが、それを拾い出していない。ただわが天台智者大師のみが、これを内心に悟っていた。
一念三千は十界互具からはじまる。しかるに、法相宗と三論宗とは、八界を立てて十界を知らない。いわんや十界互具を知るよしもないではないか。倶舎・成実・律宗などは阿含経を依経としている。この阿含経は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六界までは明らかにしているが、声聞・縁覚・菩薩・仏の四界を知らない。そして「十方にただ一仏のみあり」といって、釈尊以外には一方有仏さえも明かさない。「一切有情、ことごとく仏性あり」とは説かず、ひとりの仏性さえもゆるさない。しかるに、後世の律宗や成実宗などが、「十方に仏あり、仏性あり」などというのは、仏滅後の人師などが、大乗経の義を自宗に盗み入れたものであろう。
語釈
倶舎宗
世親の倶舎論(阿毘達磨倶舎論)を所依とする宗派。中国で古く毘曇宗と呼ばれた。教義は我空法有を説き、一切諸法を五位(色法、心法、心所法、心不相応行法、無為法)に分類して、その本性を追求し、四諦の理を観じて阿羅漢果を得ることを目的とする。中国では南北朝時代、真諦が「倶舎論釈論」二十二巻を著してから倶舎宗と呼ばれるようになった。日本には斉明天皇4年(0658)、智通、智達が入唐して倶舎論等を伝え、奈良時代に玄昉等が将来し、興福寺等で盛んに修学された。南都六宗の一つに数えられたが、諸宗の間で兼学されたもので、一定の相承系譜はない。
成実宗
四世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。教義は自我も法も空であるとの人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七(二十七賢聖)に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では最も進んだ教義とされる。五世紀初頭、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什門下によって盛んに研究された。しかし、天台大師や吉蔵によって小乗と断定されてから衰退した。日本には三論宗とともに伝来した。南都六宗の一つ。
律宗
戒律を受持する修行によって涅槃の境地を得ようとする宗派。中国では、四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣が開いた南山宗がある。日本では南山宗を学んだ鑑真が天平勝宝6年(0754)に来朝し、奈良の東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場として以来、律宗が成立した。さらに下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本の僧尼は、この三か所のいずれかで受戒することになった。律宗は平安時代には次第に衰微し、鎌倉時代に一時復興したが、その後、再び衰微した。
法相宗
解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基(慈恩)によって大成された。教義は、五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、諸法はすべて衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の邪説を立てている。日本伝来については四伝あり、孝徳天皇白雉4年(0653)道昭が入唐し、玄奘より教えを受けて、斉明天皇6年(0660)帰朝して元興寺で弘通したのを初伝とする。南都六宗の一つ。
三論宗
竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗(=俱舎宗)を破し、さらに成実の偏空(=成実宗)をも破している。究極の教旨として八不(不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去)をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。日本には推古天皇33年(0625)1月1日、吉蔵の弟子の高句麗僧・慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもった以外は、法相宗に吸収された。
華厳宗
華厳経を所依とする宗派。中国・唐代の杜順によって開かれ、法蔵によって大成された。教義は、一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立て、華厳経を最第一としている。日本には天平8年(0736)、唐の道璿が華厳宗の章疏を伝え、天平12年(0740)新羅の審祥が講経し、その教えを受けた良弁が東大寺で宗旨を弘めた。南都六宗の一つ。
真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
竜樹
付法蔵の第十四。仏滅後七百年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」一巻、「十住毘婆沙論」十七巻、「中観論」四巻等がある。
天親
生没年不明。四、五世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
十界互具
法華経に示された万人成仏の原理。地獄界から仏界までの十界の各界の衆生の生命には、次に現れる十界が因としてそなわっていること。この十界互具によって九界と仏界の断絶がなくなり、あらゆる衆生が直ちに仏界を開くことが可能であることが示された。この十界互具を根幹として、天台大師智顗は一念三千の法門を確立した。
講義
「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」の文のうち「しづめたり」の一句は、「ひししづめたり」と読むのが、三重の秘法の義の上から正しく且つ深秘の法門を意味しているのである。したがって、この「しづめたり」の文は、「ひししづめたり」と拝さなくてはならぬ。
一念三千文底秘沈について
本文について、日寛上人は「三重秘伝抄」を述作され、文に三段に分かち義に十門を開いて、富士門流の奥義を詳述されている。すなわち
文の三段とは
標 一念三千の法門は
釈 但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、
結 竜樹・天親・知ってしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台のみこれをいだけり。
義に十門を開くとは
第一に 一念三千の法門は聞き難きを示し、
第二に 文相の大旨を示し、
第三に 一念三千の数量を示し、
第四に 一念に三千を具する相貌(そうみょう)を示し、
第五に 権実相対して一念三千を明すを示し、
第六に 本迹相対して一念三千を明すを示し、
第七に 種脱相対して一念三千を明すを示し、
第八に 事理の一念三千を示し、
第九に 正像未弘の所以を示し、
第十に 末法流布の大白法なることを示す。
つらつら御文を愚案するに、法華経方便品には十如実相に約して一念三千を説き、寿量品においては三妙合論して一念三千を明かしているに対し、なぜ文底秘沈と称せられるか、また沈められている実体は何物ぞ。これこそ大聖人弘教の御本意・富士門流深秘の法門にして、もし、これを明らかに証得するならば、一代の聖教は鏡に懸けて曇りなく、三時弘教の次第は朗々として、しかも立宗七百年の末代に生まれ合わせて、この正法を信ずるわれわれの任務もまたおのずから明らかになるべきである。
しかして、この御文について、日寛上人は三重秘伝の旨を示され、「但」の字は一字であるが、三重に冠して、もって文底下種の真実を判じられたのである。いわく「久遠下種の名字の妙法は一代経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底に秘沈する故に一念三千文底秘沈と云うなり」と。
すなわち「一念三千の法門は但法華経」として、爾前権教を簡ぶは権実相対・第一法門である。つぎに「但本門の寿量品」とは、迹門を簡ぶ本迹相対・第二法門である。つぎに「但文の底にしづめたり」とは、文上の脱益を簡ぶ種脱相対・第三法門である。この三重の明鏡に照らすとき、天台所立の第一法門たる根性の融不融および第二法門・化導の始終不始終は、ともに第一法門・権実相対に属し、天台の第三法門・師弟の遠近不遠近の相は、すなわち当家の第二法門・本迹相対に属するのである。ゆえに「但我が天台智者のみこれをいだけり」として、天台は一念三千を説くといえども、これを内に懐くのみにて、いまだ実義の顕揚がなかったことを示されている。
観心本尊抄にいわく
「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽せり、但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず所詮円機有つて円時無き故なり」(0253:11)
報恩抄にいわく
「問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留(とど)め置き給う」(0328:13)
御書に明らかにお示しのごとく、一念三千の法門は、まったく宗祖大聖人の御所有であり、釈尊はインドにおいて、迹門には理の上において説き、本門には仏身に約して説いたが、ならびにこれは脱であり迹であって、水に写れる月影に等しい。天台は迹面本裏の一念三千を立てて、理具は論じ尽くしたが、いまだ事行の一念三千に言及しておらないのである。
ここにおいて末法に入り、法華経の予言のごとく、名字凡夫のお姿をもってご出現になった御本仏日蓮大聖人は、ついに仏法の極理たる、事行の一念三千をお立てになり、三大秘法として、末代幼稚のわれわれ衆生にお与えあそばされたのである。すなわち寿量品文底下種の事行の一念三千とは、本門の御本尊であり、この御本尊を信じまいらせて、南無妙法蓮華経と題目を唱うることが、すなわち釈尊一代においても言及せずして文底に沈めた、事行の一念三千にほかならないのである。
三大秘法抄にいわく
「問う所説の要言の法とは何物ぞや、答て云く夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(1021:03)
すなわち、この三大秘法は、実に釈尊が久遠に成道の当初、修業したところの三大秘法である。ゆえにいずれの文底に秘沈せられたるかというに、
日寛上人、文段にいわく
「御相伝に云く本因妙の文なり○当に知るべし後後の位に登る所以は並に前前の所修に由る、故に知んぬ我本行菩薩道の文底に久遠名字の妙法を秘沈し給うなり」と。
御本尊の偉大な功徳
この三大秘法の本尊には、法力・仏力あって、われら凡愚には解し得ぬ偉大な功能があらせられる。医者がとうてい癒し得ない業病もなおったり、また一生貧乏であらねばならぬ宿命の人が、その宿命を打破して、金持ちになったりするというような現象がある。かく論ずれば、これは迷信であるというような考え方をするものが現代人に多かろう。これは、仏教の哲理を知らぬ者の言葉であって、今これについて一言述べておく。
世に、宗教と科学とはいかなる関係にあるかということをはっきりしていない者が多い。まず、科学の世界をながめるならば、いずれも宇宙の現象を対象とはしているが、分科的に大略これを見るならば、物質方面の研究すなわち物理・化学・数学・医学等があり、心の方面としては、倫理学・哲学等であり、社会的の方面としては、経済学・法学・社会学等である。しかして、この分科間においてなんらの相克をもたない。たとえば、数学と法律とは、なにも争うことはないのである。また同一分科内において、たがいに相反することなく、たがいに助け合う立ち場にあるではないか。たとえば、法学と経済学とは相反するものではなく、ただその分野が違うだけであって、たがいに尊重し、その定理を用いているのである。
かくのごとく、科学と仏教とは対立するものではない。いかんとなれば、真実の仏教は、同じく宇宙を対象として研究の歩をすすめたものであって、その究極は生命を対象としたものである。ゆえに仏教は、生きているという事実、肉体と心とが差別観の上に立つという事実を公理として、最高の定理まで展開されている。しかして、この仏教の研究およびその発展は、日蓮大聖人によって最高の極限にまで達したのである。このことは、知ると知らざるとに関せず、絶対の事実であって、生活の上に、この窮極の定理を用いたものには、疑う余地のないところである。
章安大師が天台大師の理の一念三千の学理を称揚して「天竺の大論尚其の類に非ず真旦の人師何ぞ労わしく語るに及ばん此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ」といわれているが、天台の学理が、天台の時代としては仏教上の相当のところまで来ておって、これ以上のものがなかったから、章安はかくのごとく大確信をもってほめたたえたのであった。これと同様に、本仏・日蓮大聖人は、仏の境地に立って、仏教の最高極理・苦悩の衆生救済の窮極の大哲理を説かれたのであらせられる。章安にかりて、これをいえば、
「西洋哲学の大論尚其の類に非ず、東洋の仏教徒何ぞ労わしく語るに及ばん、此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ」と、世界の最高峰の大哲理を讃嘆する以外にない。
さて、科学において原子論の研究がだんだんと高度になり、原子分裂の定理が発表せられるや、これを生活に取り入れて、まず原子爆弾が作られたと同様に、仏教においても、その研究対象が、宇宙の実体は何か、生命の実相はいかん、不幸の生活をいかに幸福にしうるか等である以上には、これに対する窮極の大定理が、日蓮大聖人の御胸に湧然と湧き出でた以上には、仏の慈悲として、苦悩の衆生の生活に、これを実践形態のものとして与えられぬわけはない。これがすなわちもったいなくも、事の一念三千、三大秘法の御本尊である。ゆえに偉大な功能が存せられるのであって、けっして迷信でなく、科学的・論理的な立ち場より建立せられたものである。
文底秘沈について
さて、一念三千とは法体を示し、御本尊を示されているのであるが、この御本尊は寿量品の文底に秘し沈められているとおおせられている。しからば、いずれの文底に沈められているか。これについて、古来幾多の異説があるゆえ、つぎに日寛上人の文段を示して、正邪の分別を拝することにする。
一、 文底秘沈文。
問うこれいずれの文となすや、答う他家の古抄に多くの義勢あり、一には謂く如来如実知見等の文なり、この文、能知見を説くといえども而も文底に所知見の三千にあるゆえなり云云、二には謂く是好良薬の文なり是れ則ち良薬の体・是れ妙法の一念三千なるが故なり、三には謂く如来秘密神通之力の文なり是れ則ち文面は本地相即の三身を説くといえども文底に即ち法躰の一念三千を含むゆえなり、四には謂く但寿量品の題号の妙法なり是れ則ち本尊抄に一念三千の珠を裹むと云うなり、五には謂く通じて寿量一品の文を指す是れ則ち発迹顕本の上に一念三千を顕すゆえなり、六には謂く然我実成仏已来の文なり、是れ則ち秘密抄に此の文を引きて正しく一念三千を証す、御義口伝に事の一念三千に約して此の文を釈する故なり、云云。
今謂く諸説皆是れ人情なり、何ぞ聖旨に関せん、問う正義如何、答う此れは是れ当流一大事の秘要なり然りといえども今一言を以て之を示さん、謂く御相伝に云く「本因妙の文なり云云」若し文上を論ぜば只住上に在り、ゆえに寿命未尽と云うなり、若し住上に非ざれば曷んぞ常寿を得んや、ゆえに此の文を釈して「初住に登る時已に常寿を得たり云云」当に知るべし後後の位に登る所以は並びに前前の所修に由る。ゆえに知んぬ「我本行菩薩道」の文底に久遠名字の妙法を秘沈し給うなり、連祖の本因妙抄云云、興師の文底大事抄云云、秘すべし秘す可し云云。
以上のごとく、日寛上人の御文に明白な御教示があるにもかかわらず、日蓮宗の他門流においては、容易にその真実を把握することができず、非に非を重ね邪に邪を増している。すなわち迹門始成を簡びて本門寿量をあらわすことまでは説いている者が多いけれども、「文底秘沈」については、まったく見当がつかないでいる。文上を固守するゆえに、本仏を釈尊と立てて、天台の域を脱することができないのである。
文底の実義、すなわち種脱相対の上において、日蓮大聖人を下種の本仏と拝すべきは前述のとおりであり、これこそ宗祖大聖人の深秘の御本尊であらせられ、しかも正しくこれを御相伝になって、末法の一切衆生を教導せられるは、まったく創価学会に限っているのである。
第八章 外道・外典が仏教の義を盗むを明かす
本文
例せば外典・外道等は仏前の外道は執見あさし仏後の外道は仏教をききみて自宗の非をしり巧の心・出現して仏教を盗み取り自宗に入れて邪見もつとも・ふかし、附仏教・学仏法成等これなり、外典も又又かくのごとし漢土に仏法いまだ・わたらざりし時の儒家・道家は・いういうとして嬰児のごとく・はかなかりしが後漢・已後に釈教わたりて対論の後・釈教やうやく流布する程に釈教の僧侶・破戒のゆへに或は還俗して家にかへり或は俗に心をあはせ儒道の内に釈教を盗み入れたり、止観の第五に云く「今世多く悪魔の比丘有つて戒を退き家に還り駈策を懼畏して更に道士に越済す、復た名利を邀て荘老を誇談し仏法の義を以て偸んで邪典に安き高を押して下に就け尊を摧いて卑に入れ概して平等ならしむ」云云、弘に云く「比丘の身と作つて仏法を破滅す若しは戒を退き家に還るは衛の元嵩等が如し、即ち在家の身を以て仏法を破壊す、此の人正教を偸竊して邪典に助添す、押高等とは道士の心を以て二教の概と為し邪正をして等しからしむ義是の理無し、曾つて仏法に入つて正を偸んで邪を助け八万・十二の高きを押して五千・二篇の下きに就け用つて彼の典の邪鄙の教を釈するを摧尊入卑と名く」等云云、此の釈を見るべし次上の心なり。
現代語訳
(華厳・真言の大乗宗も、律宗・成実宗等の小乗宗も、法華経の一念三千を盗み入れて自宗の義となした。そのありさまは、)たとえば、仏教の流通する以前の外道は、その執着する邪見も浅かったのであるが、仏教流布の後の外道は、仏教を聞き、見て、自宗の非を知り、巧の心が出来して、仏教を盗みとり自宗に入れて、邪見がもっとも深くなった。附仏教・学仏法成等といわれる外道はこれである。外典もまたこの通りであって、漢土に仏法が伝来する以前の儒家・道家はゆうゆうとして赤児のごとくはかない者であったが、後漢の世に仏法が伝来してより、外道と仏教が対論し、仏教がようやく流布するにつれて、仏教の僧侶がみずから破戒のゆえに、あるいはいったん出家した者が還俗して家にかえり、あるいは俗人に心を合わせて儒教道教の内に仏教の義を盗み入れたのである。
止観の第五にいわく、「今の世には多く悪魔の比丘があって、戒を退き家にかえり、あるいは処罰を畏れて、一度道教から仏教に入りながらまた元の道士へ逆戻りし、また名誉や利益を求めて、荘老の道を誇張して談じ、仏法の義を盗んで外道の邪典につけ、高い仏法の義を低い外道につけ、尊い仏法を摧いて卑しき外道の教に入れ、概して外道・内道を平等ならしめている」云云、弘にいわく「比丘の身となって仏法を破滅する者がある。もしくは、戒を退き家に還るというのは、衛の元嵩等のごとき者である。すなわちいったん出家したが、還俗し在家の身をもって仏法を破壊した。正しい仏教の教えを盗んで、外道の邪典に助け添えたのである。高きを押す等とは道教をひろめるいわゆる道士の心をもって道教を仏教の概要であるとなし邪正をして等しからしめたのは、まったくそのいわれのないことである。かつて仏法に入って正しい教を盗み外道の邪を助け、仏教の高きを押して道教の低きにつけ、もって、彼の道教の邪卑の教えを釈することを、尊きを摧いて卑しきに入れると名づくのである」等云云。この妙楽の釈を見よ。次上の心である。
語釈
附仏教・学仏法成
本来、低級なる外道でありながら、仏法の教えを盗んで、あたかももともと自宗の義であるかのように立てている者。一代聖教大意には「外道に三人あり。一には仏法外の外道、九十五種の外道。二に附仏法成の外道、小乗。三には学仏法の外道、妙法を知らざる大乗の外道なり」(403:05)とある。
駈策を懼畏して
駈策とは処罰、責罰のこと。駈とは、駈出で、ところを追い出すこと。策は策杖などで呵責すること。一般には、比丘、比丘尼等に対し、律文に違背する非法悪行を許さないことをいう。懼畏とは、おそれること。
道士に越済す
道士とは道教をひろめる者。越済とは、自分の利益や名誉のために出家して僧になったり、また、退転して仏法を破り、道士となったりすることをいう。「摩訶僧祇律」(東晋の仏駄跋陀羅・法顕の共訳、全四十巻)第二十三巻に「食前には、仏道修行者の標識をつけ、仏道修行者の服装をして物を乞い、食後には、外道の標識をつけ、外道の衣服をまとって乞食に歩く。このような人を、越人と名づけるのである」と説かれている。
荘老を誇談し
荘老とは荘子、老子で、いずれも道教の祖。誇談とは誇張して談ずることで、大言壮語の意。さも道家の悟りを得たかのように、大げさにいいふらすことである。
衛の元嵩
中国北周代の僧、衛元嵩のこと。生没年は不明であるが、天台大師(0538~0597)と同時代に生まれた。幼くして出家し、亡名法師の弟子となる。しかし、名聞名利の心が強く、ついに還俗した。政治的な手腕にすぐれ、北周の武帝に上奏して、廃仏毀釈を進言した。武帝は、これを信じて仏教を弾圧した。元嵩はこの謗法により、舌が爛れ無間地獄に堕ちたといわれる。松野殿御消息に「嵩法師は舌ただれ」(1380:04)、また顕謗法抄に「嵩霊法師等は正法を謗じて現身に大阿鼻地獄に堕ち舌口中に爛れたり」(0455:11)とある。
八万十二
八万法蔵ならびに十二部経の略。すなわち釈尊一代の仏教。
五千二篇
老子経のこと。
摧尊入卑
尊(仏教)を摧き、卑(外典)に入れること。
講義
今、日本の現状がまた、このとおりである。外道は仏教を取り入れて、天理教等が布施行を説いて仏教のまねごとをし、念仏、真言等の諸宗も、大乗経の宗派でありながら、すでに末法にはいり、経法の無力であるがゆえに大衆から忘れ去られようとするのを防ぐために道徳などを説いている。これらは皆「概して平等ならしむ」のご教示どおりである。まして外道とも内道とも見分けのつかぬ、霊友会・立正佼成会等のごときは、姓名判断と先祖の戒名を拝むことを教えの根本として、しかも日蓮宗と名のるのはまったく外道と平等の邪宗教であり、仏にそむき法を破するもっとも悪逆の存在である。
さらにまた身延山や池上本門寺のごとく、日蓮宗の本山であると称しながら、境内に稲荷を祀り蛇を祀る等も、この類であろう。中国においては、外道が仏教を摧尊入卑して破仏法の因となったが、現代の日本においては、むしろ既成宗教が、外道の説を摧いて取り入れ、仏法破壊の先駆となっているの観がある。
第九章 漢土に仏教伝来
本文
仏教又かくのごとし、後漢の永平に漢土に仏法わたりて邪典やぶれて内典立つ、内典に南三・北七の異執をこりて蘭菊なりしかども陳隋の智者大師にうちやぶられて仏法二び群類をすくう、其の後・法相宗・真言宗・天竺よりわたり華厳宗又出来せり、此等の宗宗の中に法相宗は一向・天台宗に敵を成す宗・法門水火なり、しかれども玄奘三蔵・慈恩大師・委細に天台の御釈を見ける程に自宗の邪見ひるがへるかのゆへに自宗をば・すてねども其の心天台に帰伏すと見へたり、華厳宗と真言宗とは本は権経・権宗なり善無畏三蔵・金剛智三蔵・天台の一念三千の義を盗みとつて自宗の肝心とし其の上に印と真言とを加て超過の心ををこす、其の子細をしらぬ学者等は天竺より大日経に一念三千の法門ありけりと・うちをもう、華厳宗は澄観が時・華厳経の心如工画師の文に天台の一念三千の法門を偸み入れたり、人これをしらず。
現代語訳
外道が仏教の義を盗み入れたるがごとく、仏教内の各宗派も、これと同様の状態になった。後漢の第二代・明帝の永平十年に漢土へ仏法が渡り、対論のすえ外典が破れて内典が立ち、仏法が流布した。その後、各宗派がつぎつぎと立てられ、揚子江の南に三派・北に七派と乱立して、各宗派ともに自宗に執着し、諍論がまちまちで仏教内が乱れたが、陳・隋の時代に天台智者が出現して、異執をことごとく打ち破り、法華真実と立てたので、仏法はふたたび一切衆生を救うことができた。天台以後に、法相宗と真言宗があらたにインドより伝えられ、また華厳宗が立てられた。これらの宗の中に、法相宗は、草木成仏とか自受用の有為・無為等、教義の全般にわたって天台宗に反対する法門を立て、水火のごとく、相容れることのできない宗派である。しかれども玄奘三蔵も慈恩大師も、委細に天台の御釈を見てからは、自宗の邪見であることに気がついたものか、自宗をば捨てないけれどもその心は天台に帰伏したものと見える。
華厳宗と真言宗とは、その依経が権経であり、権宗である、しかるに真言の善無畏三蔵・金剛智三蔵は、天台の一念三千の義を盗み取って自宗の肝心とし、その上に印と真言とを加えて、法華経より大日経は勝れていると立てた。そのいわれを知らない真言の学者等は、インドより、大日経に一念三千の法門があったのだと思っている。また華厳宗は澄観の時に華厳経の「心は工なる画師のごとし」の文に、天台の一念三千の法門を盗み入れた。人々はこれを知らないで、澄観のいうことを正しいと信じている。
語釈
後漢の永平に漢土に仏法わたりて
仏祖統紀巻三十五の明帝七年、帝は丈六の金人がうなじに日光を帯び、庭を飛行するのを夢に見た。群臣に尋ねた時、太史・傅毅が進み出て、周の昭王の時代に西方に聖人が出現し、その名を仏というと聞いていると進言した。そこで帝は、使者を遣わし西域に仏道を求めさせた。一行は大月氏国で摩騰迦と竺法蘭に会い、仏像ならびに梵語の経典六十万言を得て、それを白馬に乗せ、摩騰迦と竺法蘭とともに、永平10年(0067)に洛陽に帰った。帝は大いに喜び、摩騰迦をまず鴻臚寺に迎え、次いで同11年(0068)勅令して、洛陽の西に白馬寺を建てて仏教を流布させたと伝えられる。この二人は導士らと法論してこれを破り、中国での仏法流布の端を開いた。この間のいきさつについて、四条金吾殿御返事には次のように述べられている。「漢土には後漢の第二の明帝、永平七年に金神の夢を見て、博士蔡愔・王遵等の十八人を月氏につかはして、仏法を尋ねさせ給いしかば、中天竺の聖人摩騰迦・竺法蘭と申せし二人の聖人を、同永平十年丁卯の歳迎へ取りて崇重ありしかば、漢土にて本より皇の御いのりせし儒家・道家の人人数千人、此の事をそねみてうったへしかば、同永平十四年正月十五日に召合せられしかば、漢土の道士悦びをなして唐土の神百霊を本尊としてありき。二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙み給う。道士は本より王の前にして習いたりし仙経、三墳・五典・二聖・三王の書を薪につみこめてやきしかば、古はやけざりしが、はいとなりぬ。先には水にうかびし水に沈みぬ。鬼神を呼しも来らず。あまりのはづかしさに褚善信・費叔才なんど申せし道士等はおもい死にししぬ。二人の聖人の説法ありしかば、舎利は天に登りて光を放ちて日輪みゆる事なし。画像の釈迦仏は眉間より光を放ち給う。呂慧通等の六百余人の道士は帰伏して出家す。三十日が間に十寺立ちぬ」(1167:14)。
玄奘三蔵
(0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家。律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」六百巻をはじめ七十五部千三百三十五巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて16年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
慈恩大師
(0632~0682)。中国唐代の僧で、法相宗第二祖(事実上の開祖)。諱は窺基。長安に生まれる。姓は尉遅氏、字は洪道。17歳のとき玄奘三蔵がインドから帰ると、その弟子として出家。大慈恩寺に入りもっぱら玄奘に師事し、梵語を習い、ついで大小の経の翻訳に従事した。著書に「成唯識論述記」「成唯識論掌中枢要」等多数がある。
善無畏三蔵
(0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。梵名シュバカラシンハ(Śubhakarasiṃha)、音写して輸波迦羅。善無畏はその意訳。中国・唐代の真言宗の開祖。東インドの烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」「蘇婆呼童子経」「蘇悉地羯羅経」などを翻訳、また「大日経疏」二十巻を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てた。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。
金剛智三蔵
(0671~0741)。中国・唐代の真言密教の僧。梵名バジラボディ(Vajrabodhi)、音写して跋日羅菩提。金剛智はその意訳。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。21歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入り、玄宗皇帝に迎えられ慈恩寺に住した。弟子に不空等がいる。
澄観
(0738~0839)。中国・唐代の僧。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経はじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を習うなど、多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺(清涼寺)で請われて華厳経を講じ、多くの書を著し、華厳宗の興隆に努めた。著作に「華厳経疏」六十巻、「華厳経随疏演義鈔」九十巻等多数ある。華厳経随疏演義鈔巻一には、「法華は余経を摂して華厳に帰す。是れ則ち法華亦華厳を指して根本と為す」と説いて、法華経をはじめとする一切経の帰すべき根本の教えが華厳経であるとしている。同巻十九では、華厳経の「心如工画師」の文を、天台大師の一念三千の法門が説かれてはじめて可能な性悪性善の法門を用いて解釈している。
心如工画師
華厳経に「心は工なる画師の種々の五陰を造るが如く、一切世界の中に法として造らざること無し」とある。これは、われわれの一心が、あらゆる諸法を形づくるのを、あたかも、巧みなる画師が種々の画をかいて、あらゆる場合を表現するようなものであるという意味の文である。華厳宗の澄観は、天台の一念三千を盗み取って、この文を一念三千の依処であると主張した。
講義
善無畏三蔵・金剛智三蔵・天台の一念三千の法門を盗みとって
真言宗では、大日経のなかに一念三千を明かしていると主張して、つぎのような文をあげる。すなわち、唐代・善無畏三蔵の旨をうけて一行禅師が大日経を釈した「義釈」に「世尊已に広く心の実相を説く彼れに諸法実相と言うは即ち是れ此の経の心の実相なり」云云と。
しかしながら、大日経には、記小久成すなわち二乗作仏と久遠実成が明かされていない。したがって、一念三千が明かされている道理がないのである。したがって、大日経の心の実相とは、しょせん小乗偏真の実相に過ぎない。どうして法華経の諸法実相と同じように見ることができようか。天地雲泥の相違があるのである。
ゆえに、妙楽大師は「弘決」の一の下五に「娑婆の中に処処に皆実相と云う、是くの如き等の名・大乗と同じ、是を以て応に須らく義を以て判属すべし」と述べている。
また伝教大師は「守護国界章」の中の中十三に「実相の名有りと雖も偏真の実相なり、是の故に名同義異なり」と善無畏三蔵の邪義を打ち破られているのである。
その後、わが国において、弘法大師が、大日経に二乗作仏・久遠実成を明かしているとて、つぎのように主張した。すなわち、弘法大師「雑問答」十七にいわく
「問う此の金剛等の中の那羅延力・大那羅延力・執金剛とは若し意有りや、答う意無きに非ず上の那羅延力は大勢力を以て衆生を救う、次の大那羅延力は是れ不共の義なり、謂く一闡提人は必死の病・二乗の定性は已死の人なり余教の救う所に非ず、唯・此の秘密神通の力のみ能く救療す、不共力を顕わさんが為に大を以て之を別つ」云云。
これに対して、日寛上人は「弘法は強いて列衆の中の大那羅延をもって二乗作仏をあらわしている。まことにこれは筋の通らない引証である。大日経には始めから終わりにいたるまで二乗の作仏義はない。もしあるというならば、正しくその劫・国・名号を示すべきであるが、大日経には説かれていない。いわんや、二乗作仏は法華経のなかに、明々白々に説かれているにもかかわらず『余教の救う所に非ず』などというのは、大謗法ではないか」と責めている。
また、善無畏三蔵は「義釈」のなかで「我一切本初等とは将に秘蔵を説かんとするに先ず自ら徳を歎ず、本初とは即ち是れ寿量の義なり」とこじつけている。
しかし、これも、我一切本初とは法身本有の理にすぎず、法華経の三身常住の久遠実成とは較ぶべくもない。証真
妙楽大師は「弘決」の文の末方に「偏ねく法華已前の諸経を尋ぬるに実に二乗作仏の文および如来久遠の寿を明したるもの無し」と断言している。妙楽大師は唐の末、天宝年中の人であるから、真言の教えはすべてこれを照覧している。したがって、真実の教えのなかには記小久成がまったくないから、一念三千は説かれていない。
中国においては、華厳宗・真言宗等が、天台の一念三千の法門を盗み入れて自宗を飾りたてた。日本においては、大聖人のご入滅後、日蓮宗の各派が盛んに富士門流の義を盗み入れたのである。
日蓮宗何々派と言えば荘厳に聞こえるであろうが、その実体は、決定的な教義や儀式のない、まったく「ゆうゆうとして嬰児の如き」状態で、本尊論さえも決定していないのである。それが本尊の統一・三大秘法の戒壇建立・日興上人の厳義へ復帰等のことが一部に叫ばれはじめてきたのである。
しかしながら、宗祖開教の根本義たる「日蓮本仏」については、残念ながら未だ容認できる段階ではないのである。
しかし、必ずや、将来において創価学会の正義に目覚めることは間違いないと確信するものである。
第十章 本朝に仏法伝来
本文
日本・我朝には華厳等の六宗・天台・真言・已前にわたりけり、華厳・三論・法相・諍論水火なりけり、伝教大師・此の国にいでて六宗の邪見をやぶるのみならず真言宗が天台の法華経の理を盗み取て自宗の極とする事あらはれ・をはんぬ、伝教大師・宗宗の人師の異執をすてて専ら経文を前として責めさせ給しかば六宗の高徳・八人・十二人・十四人・三百余人・並に弘法大師等せめをとされて日本国・一人もなく天台宗に帰伏し南都・東寺・日本一州の山寺・皆叡山の末寺となりぬ、又漢土の諸宗の元祖の天台に帰伏して謗法の失を・まぬかれたる事もあらはれぬ、又其の後やうやく世をとろへ人の智あさく・なるほどに天台の深義は習うしないぬ、他宗の執心は強盛になるほどにやうやく六宗・七宗に天台宗をとされて・よわりゆくかの・ゆへに結句は六宗・七宗等にもをよばず、いうにかいなき禅宗・浄土宗にをとされて始めは檀那やうやくかの邪宗にうつる、結句は天台宗の碩徳と仰がる人人みな・をちゆきて彼の邪宗をたすく、さるほどに六宗・八宗の田畠・所領みなたをされ正法失せはてぬ天照太神・正八幡・山王等・諸の守護の諸大善神も法味を・なめざるか国中を去り給うかの故に悪鬼・便を得て国すでに破れなんとす。
現代語訳
日本には華厳宗等の奈良の六宗が、天台宗、真言宗の渡る以前に伝来した。華厳・三論・法相の各宗は、互いに自義を立てて諍論し、その法門は水火のごとくあいいれなかった。ついで、伝教大師が日本に出でて六宗の邪見を破るのみならず、中国においては、真言宗が天台の法華経の義を盗み取って自宗の極としたことも明らかにされた。伝教大師は、各宗派の人師の邪見に執着するのを捨てて、専ら経文を前として邪義を責められたので、六宗の高徳等が八人・十二人・十四人・三百余人と、みな伝教大師に破折され、中国から真言宗を伝えてきた弘法大師も破折されて、日本国じゅう一人も残らず天台宗に帰伏し、奈良においても、東寺も日本一国の山寺は、みな比叡山天台宗の末寺となった。また中国においては諸宗派の元祖が、はじめは自宗を立てながら、のち天台に帰伏して、謗法の失を免れることができたとの現証も明らかにされた。
ついで、その後次第に世がおとろえ、人の智慧も浅くなり、末法に近づくにつれて、天台の深義は習い失われてきた。他宗の執着心は強盛になるほどに、だんだんと六宗、七宗に天台宗は逆に破られて、弱りゆくかのゆえに、結局は六宗、七宗の邪宗にも及ばなくなってしまった。それのみならず、とるにたらない、禅宗や浄土宗等の新興宗教に攻め落とされて、はじめは檀家が次第に彼の邪宗に移ってゆき、結局は天台宗の高僧と仰がれる人々さえみな落ちゆきて、彼の邪宗を助けている。その間に、兵乱の禍をも受けて六宗、八宗の田畠や領地さえ失ってしまい、日本国には正法が失せ果てた。天照太神・正八幡・山王等のもろもろの守護の善神も法味をなめることなく、国中を去り給うかのゆえに、悪鬼は便りを得て、国はすでに三災七難が連続して、亡国となろうとしている。
語釈
伝教大師
(0767~0822)。平安時代初期の僧。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教は諡号。根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬[万]貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)滋賀郡に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻、「山家学生式」等がある。
六宗の高徳・八人・十二人・十四人・三百余人
延暦21年(0802)正月19日、高雄寺に桓武天皇列席のもと、南都六宗の碩徳と伝教大師との討論が行なわれ、伝教大師の圧倒的勝利に終わった。六宗の碩徳とは善議(三論)、勝猷(華厳)、奉基(法相)、寵忍(未詳)、賢玉(法相)、安福(未詳)、勤操(三論)、修円(法相)、慈誥、玄耀、歳光(いずれも未詳)、道証(法相)、光証(未詳)、観敏(三論)等の十余人。なお、この法論に敗れた六宗・七大寺は、いずれも帰伏状をさし出している。その数は二百人にのぼった。撰時抄、報恩抄に詳しい。
弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期の僧。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法は諡号。姓は佐伯、幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」三巻等がある。
講義
伝教大師の聖代に栄えた比叡山が、世の衰えとともに、次第に崩壊してきたありさまが説かれ、ついで「国すでに破れなんとす」の御予言は「国はすでに破れたり」の現証としてあらわれたのである。まことに恐るべき事実ではないか。
ここにおいて創価学会は起ち上がったのである。「正法興廃」の前兆はすでにあらわれた。今こそ、この大正法を広宣流布して、仏恩に報い、一切衆生を三悪道の巷より救済せんと誓願して起ち上がっているのである。
されば、一日もはやく、われら真実の仏教徒は、邪宗を責め落として正法を国内にひろめ、末法真実の仏法を東洋へ、世界へと広宣流布しなくてはならない。これは夢や理想ではなくて、仏の金言であり、予言であるから、仏の真実の弟子の出現によって必ず実行される事実である。
顕仏未来記にいわく、
「四味・三教等の邪執を捨て実大乗の法華経に帰せば諸天善神並びに地涌千界等の菩薩・法華の行者を守護せん此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ」(0507:05)
この御文は、広宣流布に対する大聖人の大確信であらせられることが、はっきり表われている。
またいわく
「四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや、疑つて云く何を以て汝之を知る、答えて云く月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508:02)
また、以上の御文は、大聖の仏法が朝鮮および中国、インドへ渡る予言であって、われらはこの仏語を助けて、まず全東洋へ、三大秘法の仏法を流布しなくてはならぬ。さなくんば、仏を妄語の人となす罪、甚大なるものがあるであろう。
第十一章 権実相対して判ず
本文
此に予愚見をもつて前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに其の相違多しといえども先ず世間の学者もゆるし我が身にも・さもやと・うちをぼうる事は二乗作仏・久遠実成なるべし、
現代語訳
ここに、日蓮が愚見をもって法華経以前の四十余年の経々と、後八年の法華経との相違を考えみるのに、その相違が多いとはいえ、まず世間の学者もそうだといい、自分でもそうだと思うことは、二乗作仏と久遠実成である。
語釈
二乗作仏
法華経迹門において二乗(声聞・縁覚)の成仏が釈尊から保証されたこと。法華経以外の大乗経では、二乗は自身が覚りを得ることに専念することから利他行に欠けるとして、成仏の因である仏種が断じられて成仏することはないとされていた。このことを日蓮大聖人は「開目抄」で、華厳経・維摩経などの爾前経を引かれ、詳しく論じられている。それに対し法華経迹門では、二乗にも本来、仏知見(仏の智慧)がそなわっていて、本来、成仏を目指す菩薩であり、未来に菩薩道を成就して成仏することが、具体的な時代や国土や如来としての名などを挙げて保証された。さらに法華経迹門では、この二乗作仏、また提婆達多品第十二で説かれる女人成仏・悪人成仏によって、あらゆる衆生の成仏が保証され、十界互具・一念三千の法門が理の上で完成した。
久遠実成
インドに生まれ今世で成仏したと説いてきた釈尊が、実は五百塵点劫という非常に遠い過去(久遠)に成仏していたということ。法華経如来寿量品第十六で説かれる。同品には「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」、「我れは仏を得て自り来経たる所の諸の劫数は無量百千万億載阿僧祇なり」とある。さらに釈尊は、自らが久遠の昔から娑婆世界で多くの衆生を説法教化し、下種結縁してきたことを明かした。五百塵点劫の久遠における説法による下種結縁を久遠下種という。
講義
前章までに、正法が失せ果て、仏教界がまったく混濁した経過をお述べになり、本抄以後は、まず法華経を立てるべきゆえんを示されるについて、第一に二乗作仏を、ついで第十八章以後に久遠実成をお説きになるのである。二乗作仏と久遠実成の内容は、本文に詳しいので、ここには省くが、要するに法華経の迹門において、二乗が成仏すると説き、本門において、釈迦仏は久遠の昔に成道したと説くことは、四十余年の長時にわたって説いてきたこととまったく相反するので、信じがたく解しがたき事実を挙げられている。もし四十余年が事実ならば法華経は嘘言となるが、法華経は真実であり、四十余年には未だ真実をあらわさなかったのである。それは、法華経の現文を拝しても、道理の上からも、現証の上からも、法華経こそ釈尊出世の本懐であり最高唯一の教えであるが、しかし、その事は難信難解で、容易に凡智をもって推しはかれないのである。
ゆえに法華経には「已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」と説かれてあり、天台大師は「二門ことごとく昔と反すれば信じ難く解し難し、鉾に当たるの難事なり」、伝教大師は「この法華経は最もこれ難信難解なり随自意のゆえに」と説き、日蓮大聖人は本尊抄に「一仏二言水火なり誰人か之を信ぜん」と申し述べられている。
しからば、難信難解というのは迹門のことか、本門のことか、仏教全体が難信難解ではないかという疑問が起こる。これに対して「重々の難信難解あり」として、つぎのごとくご教示になっている。すなわち、外道に対すれば仏教は難信難解で外道は易信易解、小乗と大乗を対すれば大乗は難信難解で小乗は易信易解、権教と実教を対すれば実教の法華経は難信難解で権教は易信易解、迹門と本門と対すれば本門は難信難解で迹門は易信易解、さらに文上と文底と対すれば文底下種独一本門こそ難信難解で文上の脱益本門は易信易解であると。
第十二章 一仏二言・難信の相
本文
法華経の現文を拝見するに舎利弗は華光如来・迦葉は光明如来・須菩提は名相如来・迦旃延は閻浮那提金光如来・目連は多摩羅跋栴檀香仏・富楼那は法明如来・阿難は山海慧自在通王仏・羅睺羅は蹈七宝華如来・五百七百は普明如来・学無学二千人は宝相如来・摩訶波闍波提比丘尼・耶輸多羅比丘尼等は一切衆生喜見如来・具足千万光相如来等なり、此等の人人は法華経を拝見したてまつるには尊きやうなれども爾前の経経を披見の時はけをさむる事どもをほし、其の故は仏世尊は実語の人なり故に聖人・大人と号す、外典・外道の中の賢人・聖人・天仙なんど申すは実語につけたる名なるべし此等の人人に勝れて第一なる故に世尊をば大人とは・申すぞかし、此の大人「唯以一大事因縁故・出現於世」となのらせ給いて「未だ真実を顕さず・世尊は法久しうして後・要ず当に真実を説くべし・正直に方便を捨て」等云云、多宝仏・証明を加え分身・舌を出す等は舎利弗が未来の華光如来・迦葉が光明如来等の説をば誰の人か疑網をなすべき。
而れども爾前の諸経も又仏陀の実語なり・大方広仏華厳経に云く「如来の智慧・大薬王樹は唯二処に於て生長して利益を為作すこと能わず、所謂二乗の無為広大の深坑に堕つると及び善根を壊る非器の衆生は大邪見・貪愛の水に溺るるとなり」等云云、此の経文の心は雪山に大樹あり無尽根となづく此を大薬王樹と号す、閻浮提の諸木の中の大王なり此の木の高さは十六万八千由旬なり、一閻浮提の一切の草木は此の木の根ざし枝葉・華菓の次第に随つて華菓なるなるべし、此の木をば仏の仏性に譬へたり一切衆生をば一切の草木にたとう、但し此の大樹は火坑と水輪の中に生長せず、二乗の心中をば火坑にたとえ一闡提人の心中をば水輪にたとえたり、此の二類は永く仏になるべからずと申す経文なり、大集経に云く「二種の人有り必ず死して活きず畢竟して恩を知り恩を報ずること能わず、一には声聞二には縁覚なり、譬えば人有りて深坑に堕墜し是の人自ら利し他を利すること能わざるが如く声聞・縁覚も亦復是くの如し、解脱の坑に堕して自ら利し及以び他を利すること能わず」等云云、外典・三千余巻の所詮に二つあり所謂孝と忠となり忠も又孝の家よりいでたり、孝と申すは高なり天高けれども孝よりも高からず又孝とは厚なり地あつけれども孝よりは厚からず、聖賢の二類は孝の家よりいでたり何に況や仏法を学せん人・知恩報恩なかるべしや、仏弟子は必ず四恩をしつて知恩報恩をいたすべし、其の上舎利弗・迦葉等の二乗は二百五十戒三千の威儀・持整して味・浄・無漏の三静慮・阿含経をきわめ三界の見思を尽せり知恩報恩の人の手本なるべし、然るを不知恩の人なりと世尊定め給ぬ、其の故は父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり、二乗は自身は解脱と・をもえども利他の行かけぬ設い分分の利他ありといえども父母等を永不成仏の道に入るれば・かへりて不知恩の者となる。
現代語訳
法華経の現文を拝見すれば、舎利弗等の二乗がことごとく成仏するとの授記を賜っている。すなわち、舎利弗は華光如来・迦葉は光明如来・須菩提は名相如来・迦旃延は閻浮那提金光如来・目連は多摩羅跋栴檀香仏・富楼那は法明如来・阿難は山海慧自在通王仏・羅睺羅は蹈七宝華如来・五百七百の阿羅漢は同じく普明如来・学無学の二千人は宝相如来・摩訶波闍波提比丘尼と耶輸多羅比丘尼等は、それぞれ一切衆生喜見如来・具足千万光相如来等と授記されている。
これらの人々は、法華経を拝見したてまつると尊い人であるようなれども、爾前の経々をひらき見れば、じつにがっかりさせられるところが多い。そのゆえは、仏世尊は実語の人であるから、聖人・大人と号すのである。外典・外道の中の賢人・聖人・天仙などと称せられる人々は、その所説が偽妄でないから、このように称せられているのであろう。これらの人々の中においても、もっとも勝れて第一なるゆえに世尊をば大人と申し上げるのである。この大人たる仏さまが「唯一大事の因縁をもってのゆえに、この世に出現したのである」と法華経方便品に名のられて、「四十余年には未だ真実をあらわさず」として「世尊は法久しくて後に要ず当に真実を説くべし」と言い、「正直に方便を捨てて但無上道を説く」と、法華経に宣言されている。これに対し、多宝仏は「釈迦牟尼仏の所説はみな真実である」と証明し、また分身の諸仏が、舌を出して真実であると証明しているのであるから、舎利弗が未来の華光如来となり、迦葉が光明如来となる説法を、だれが疑うであろうか。明らかな事実であるはずである。
しかれども、爾前の諸経もまた仏の実語である。大方広仏華厳経にいわく「如来の知慧を大薬王樹にたとえてこの大薬王樹は唯二箇処において生長して利益を施すことができない。いわゆる二乗の無為広大の深い坑に堕つるのと、仏道修行の善根を壊り正法を受け持つことのできない謗法一闡堤の衆生の大邪見・貪愛の水に溺れる処である」と。この経文の心は、雪山と申す山に大樹があり、無尽根となづけ大薬王樹と号す。世界中のもろもろの木の中の大王である。この木の高さは十六万八千由旬である。世界じゅうの草木は、この木の根ざしで、枝葉華菓の次第にしたがって華菓がなるのである。この木をば仏の仏性にたとえられ、いっさいの衆生をばいっさいの草木にたとえる。ただしこの大樹は、火の坑と水輪の中には生長しない。二乗の心中をば火の坑にたとえ、一闡提人の心中をば水輪にたとえたのである。この二乗と一闡提は永久に成仏することができないと申す経文である。
大集経にいわく「二種の人があり必ず死して活きることがない。その結果、恩を知り恩を報ずることができないのである。それは、一には声聞であり二には縁覚である。たとえば人があって深い坑に落ち込むと、この人は自分を利益し、また他人の利益をはかることができないがごとく、声聞・縁覚もまた、このとおりである。二乗界の悟りの坑に堕ちてみずからを利し、また他人を利することができない」と。外典三千余巻の教の中に、根本道徳となるべきものが二つあり、いわゆる孝行と忠義である。忠もまた孝の家より出でたのである。孝と申すは高であり、天は高いけれども孝より高くない、また孝とは厚であり、地は厚いけれども孝より厚くない。聖人・賢人といわれる二類の人はみな孝の家より出でている。まして仏法を学する人が恩を知り恩を報ずることがないであろうか。必ずあるはずである。仏弟子は、必ず四恩を知って知恩報恩の誠をいたすべきである。その上舎利弗・迦葉等の二乗の弟子は、仏の教えられるごとく二百五十戒・三千の威儀を持ち整えて、味禅・浄禅・無漏善の三禅を修め、阿含経をきわめ三界の見惑・思惑を断尽したのであるから、知恩報恩の人の手本であるべきである。しかるに、二乗は不知恩の者であると世尊は定められた。その理由は、父母の家を出て出家の身となる者は必ず父母を救わんがためである。しかし二乗は、自分自身は悟ったと思うけれども、利他の行が欠けている。設い分々の利他の行があるとはいいながら、父母等を永く成仏することのできない道へ入れてしまえば、かえって不知恩の者となるのである。
語釈
舎利弗
梵名シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、八歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
迦葉
梵名マハーカーシャパ(Mahākāśyapa)の音写。摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。釈尊の十大弟子の一人。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目に悟りを得たという。衣食住等の欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称される。釈尊滅後、付法蔵の第一として、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後二十年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお、法華経信解品第四には、須菩提・迦旃延・迦葉・目連の四大声聞が、三車火宅の譬をとおして開三顕一の仏意を領解し、更に舎利弗に対する未来成仏の記別が与えられたことをまのあたりにし、歓喜踊躍したことが説かれ、さらに法華経授記品第六において、迦葉は未来に光明如来になるとの記別を受け、他の三人も各々記別を受けた。
須菩提
梵名スブーティ(Subhūti)の音写。法華経信解品第四に慧命須菩提とある。祇園精舎を供養したスダッタ(Sudatta 須達多)長者の弟の子といわれる。思索にすぐれ、よく諸法の真理を悟った。解空第一と称される。釈尊の十大弟子の一人。法華経授記品第六で、名相如来の記別を受けた。
迦旃延
梵名マハーカーティヤーヤナ(Mahākātyāyana)の音写、摩訶迦旃延の略。釈尊の十大弟子の一人。仏の略説した教えを詳しく分析して説明し、弘教につとめた。論議第一と称される。法華経授記品第六で、閻浮那提金光如来の記別を受けた。
目連
梵名マハーマウドガルヤーヤナ(Mahā-maudgalyāyana)の音写、摩訶目犍連のこと。大目犍連、目犍連とも書き、目連は略称。釈尊十大弟子の一人。摩竭陀国・王舎城の近くのバラモン種の出で、幼少より舎利弗と共に六師外道である刪闍耶に師事したが、釈尊の教えを求めて二百五十人の弟子とともに仏弟子となる。神通第一と称され、盂蘭盆経上によると、母が餓鬼道におちていたことを神通力で知るが、自分の力では救えず、釈尊に教えを乞い、供養の功徳を回向して救うことができたという。迦葉、阿難とともに法華経の譬喩品の譬えを聞いて得道し、授記品第六で、多摩羅跋栴檀香如来の記別を受けた。
富楼那
梵名プールナ・マイトラーヤニープトラ(Pūrṇa Maitrāyanīputra)の音写、富楼那弥多羅尼子の略。釈尊の十大弟子の一人。釈迦の実父・浄飯王の国師バラモンの子で、釈尊と同年月に生まれたという。聡明で弁論に長じ、説法第一と称される。後世、弁舌の勝れていることを称して富楼那の弁という。法華経化城喩品第七に説かれた化城宝処の喩をとおして開三顕一の仏意を領解し、法華経五百弟子受記品第八において領解し、法明如来の記別を受けた。
阿難
梵名アーナンダ(Ānanda)の音写、阿難陀の略。釈尊の十大弟子の一人。常随給仕し、釈尊諸説の経に通達していた。多聞第一と称される。提婆達多の弟で、釈尊の従弟。仏滅後、摩訶迦葉のあとをうけて付法蔵の第二として諸国を遊行し、衆生を利益した。法華経授学無学人記品第九で山海慧自在通王如来の記別を受けた。
羅睺羅
梵名ラーフラ(Rāhula)の音写。羅云とも書かれる。釈尊の十大弟子の一人。釈尊の出家前、耶輸多羅女との間に生まれた子。釈尊の出家を恐れて、魔が六年間も生まれさせなかったといわれている。二十歳で仏弟子となり、舎利弗について修行し、禁戒を破らず、読誦しておこたらなかった。密行第一と称される。法華経で蹈七宝華如来の記別を受けた。
摩訶波闍波提比丘尼
梵名マハープラジャーパティー(Mahāprajāpatī)の音写。摩訶鉢刺闍鉢底とも書く。また〝釈迦族の女性〟の代表としてゴータミーと呼ばれ、憍曇弥と音写する。釈尊の姨母。釈尊の生母・摩耶夫人が釈尊出生後七日で死去したため、夫人にかわって淨飯王の妃となり、釈尊を養育した。淨飯王の死後、出家を志し、三度釈尊に請願して許され、釈尊教団最初の比丘尼となった。法華経勧持品第十三で一切衆生憙見如来の記別を受けた。
耶輸多羅比丘尼
梵名ヤショーダラー(Yaśodharā)の音写。耶輸大臣の女である。悉達太子(のちの釈尊)の正妃で、羅睺羅の母。釈尊が成道して十二年目に、迦毘羅衛国に帰ったとき、釈尊より化導され、比丘尼となった。法華経勧持品第十三で具足千万光相如来の記別を受けた。
二乗の無為広大の深坑に堕つ
小乗教において、二乗は「この三界に生まれるのは色心の二法があるからである。したがって苦しみの生死から脱するためには、苦の因たる色心を滅す以外にない」として、無漏の禅定を修し見思の煩悩を断じ苦果を招く集因を除こうとする。このようにして、煩悩を断じ尽くした境涯を涅槃といい、さらに、まだ煩悩の存する依身の色体と心智の心識を灰滅することを無余涅槃という。これは煩悩とともに菩提の因も滅ぼしてしまうので、深い坑におちて何もできない状態に譬えたのである。
一闡提人
一闡提の人。梵語イッチャンティカ(icchantika)の音写で、一闡底迦とも書く。本来は欲求しつつある人の意で、真理を信じようとしない快楽主義者や現世主義者をさした。仏法では、覚りを求める心がなく、成仏する機縁をもたない衆生をいう。仏の正法を信じないでかえって反発・誹謗し、その重罪を悔い改めない不信・謗法の者のことで、無間地獄に堕ちるとされる。
仏弟子は必ず四恩をしつて知恩報恩をいたすべし
四恩は四種の恩。心地観経では、父母の恩、一切衆生の恩、国王の恩、三宝(仏法僧)の恩を挙げ、日蓮大聖人はこれを「四恩抄」などで引かれている。なお「報恩抄」では一切衆生の恩に代わり、師匠の恩が挙げられている。
二百五十戒
男性出家者(比丘)が守るべき二百五十カ条の律(教団の規則)。四分律行事鈔巻中一等に説かれる。四波羅夷(破戒のなかで最も重い罪で、教団を追放される重罪。殺生・偸盗・邪婬・妄語をいう)・十三僧残(波羅夷罪に次ぐ十三の重罪)・二不定(破戒が他人に明らかでない二つの罪)・三十捨堕(三悪道に堕ちる因をつくる三十の罪)・九十単提(単に衆人に対して懺悔すべき九十の罪)・四提舎尼(破戒を悟った時に比丘に向かって懺悔すべき四つの軽罪)・百衆学(きわめて犯しやすい百の軽罪)・七滅諍(口論・論争を滅するための七つの法)からなる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。しかし、叡山大師伝(伝教大師最澄の伝記)弘仁九年(八一八年)暮春(三月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
三千の威儀
律に規定された細かい作法のこと。「三千」は単に数が多いことを示し、中国の古典『礼記』の「礼儀三百、威儀三千」にもとづく表現。
味・浄・無漏の三静慮
静慮とは禅定のこと。俗縁をはなれて繋縛を断ち、慮を静め、心を明らかにして真正の理に達するの意。天台大師は法華玄義の巻四上に、一に世間禅、二に出世間禅、三に出世間上上禅の三種の禅定として示している。一に世間禅とは有漏智、すなわち、いまだ煩悩を断じていない世俗智を発すための禅定をいい、根本味禅(味等至)と根本浄禅(浄等至)の二種に分け、二に出世間禅(無漏禅)とは無漏智、すなわち、煩悩を離れた清浄な智を発すための禅定をいい、三に出世間上上禅とはさらに菩提を得るための禅定をいう
講義
法華経の二乗作仏について
一代聖教の中において、法華経のみが一念三千を秘蔵するゆえんを明かすために、この章では二乗作仏が法華経に限ることを示される。すなわち、爾前の諸経においては、声聞・縁覚の成仏をゆるさず、また、それに似た言説があったとしても、劫・国・名号が明かされていないから、架空の論議にひとしい。しかるに、法華経にはいってはじめて、まず方便品の開三顕一、開示悟入の四仏知見、仏の一大事の因縁を聞いて、まず上根の舎利弗が作仏する。いわゆる法説周である。
つづいて中根の迦葉、須菩提、迦栴延等は長者窮子等の喩説を聞いて開悟し、授記品で記別を受ける。これが譬説周である。さらに下根の富楼那、阿難、羅睺羅等は「我れ及び汝等が宿世の因縁、吾れは今当に説くべし汝等よ善く聴け」と、化城喩品で三千塵点劫の結縁を説くことによって悟るのである。富楼那および千二百の人は五百弟子品で、阿難らおよび学無学の二千人は人記品で、それぞれ受記する。この下根の声聞を因縁周といい、三周の声聞の得道が終わるのである。
それでは、どうして二乗作仏がなければ一念三千が成り立たないか。いうまでもなく、地獄から菩薩にいたる九界のうち、七界までは、仏性を具しても、声聞・縁覚に具さないとなれば、十界互具にならない。また、この七界および仏界に、声聞縁覚を具していたならば、そのために成仏得道はできないことになってしまうのである。二乗の得道を許さない爾前経においては、十界互具がない。ゆえに百界・千如・三千世間になる道理がない。また、五陰・衆生・国土の三世間は法華経本門に入らなければ、あらわれないから、迹門においてすら、百界・千如までであって、一念三千にならない。このゆえに、迹門は、一応、本門の立ち場から振り返って、一念三千の名目を附するが、理の一念三千にすぎないのである。
ところで、この二乗を生活にあてはめるならば、声聞とは学問をこころざし、研究に専念する学者階層が、これに該当する。縁覚とは、それぞれの専門において、いわゆる真理に接した、大学者、または大芸術家等をさすと考えてよいであろう。これらの人々は、爾前の諸経においては、徹底的に嫌われ、弾呵されたのである。
すなわち大集経では「解脱の抗に堕して自ら利し及以び他を利すこと能わず」と、自分では悟りを得たかのように錯覚し、独り高しとしているが、結局は、自分自身をさえも救うことはできないというのである。まことに、現代の学者といわれる人々の姿を見るに、この経文は鏡にかけたようではないか。
いま世間の一部の学者、評論家が、華厳経や阿弥陀経、大日経、般若経を依経とする邪宗に迷い、正法たる法華経を護持せるわが創価学会を批判し、悪口をいうのは、まことに哀れというほかはない。彼らが尊しとしている爾前の諸経は、彼らのような人間を厳しく責め、地獄に堕ちると決定しているのである。そして彼らが誹謗している法華経こそ、彼ら二乗の成仏を許した唯一の経文なのである。まことに、法華経を誹謗する二乗階級は、最大の不知恩の徒というべきであろう。
第十三章 維摩経等に二乗不成仏と定むを明かす
本文
維摩経に云く「維摩詰又文殊師利に問う何等をか如来の種と為す、答えて曰く一切塵労の疇は如来の種と為る、五無間を以て具すと雖も猶能く此の大道意を発す」等云云 又云く「譬えば族姓の子・高原陸土には青蓮芙蓉衡華を生ぜず卑湿汚田乃ち此の華を生ずるが如し」等云云、又云く「已に阿羅漢を得て応真と為る者は終に復道意を起して仏法を具すること能わざるなり、根敗の士・其の五楽に於て復利すること能わざるが如し」等云云、文の心は貪・瞋・癡等の三毒は仏の種となるべし殺父等の五逆罪は仏種となるべし高原の陸土には青蓮華生ずべし、二乗は仏になるべからず、いう心は二乗の諸善と凡夫の悪と相対するに凡夫の悪は仏になるとも二乗の善は仏にならじとなり、諸の小乗経には悪をいましめ善をほむ、此の経には二乗の善をそしり凡夫の悪をほめたり、かへつて仏経とも・をぼへず外道の法門のやうなれども詮ずるところは二乗の永不成仏をつよく定めさせ給うにや、方等陀羅尼経に云く「文殊・舎利弗に語らく猶枯樹の如く更に華を生ずるや不や亦山水の如く本処に還るや不や折石還つて合うや不や焦種芽を生ずるや不や、舎利弗の言く不なり、文殊の言く若し得べからずんば云何ぞ我に菩提の記を得るを問うて心に歓喜を生ずるや」等云云、文の心は枯れたる木・華さかず山水・山にかへらず破れたる石あはず・いれる種をいず、二乗また・かくのごとし仏種をいれり等となん。
現代語訳
維摩経にいわく「維摩詰が文殊師利菩薩に問うて、何を如来の種となすか、と。文殊が答えていわく、いっさいの貪瞋癡等の三毒の衆生は如来の種となる。五逆罪を犯した無間地獄の者も、なおよく大道心を発して種となるのである」と。またいわく「善男子よ、たとえば高原陸土には青蓮華が生ぜず、ひくい湿った汚田にすなわちこの華を生ずるごときものである」と。またいわく「すでに阿羅漢果を得て応真となる者はついに、ふたたび道心を起こして仏法を具することができない。灰身滅智して根敗した者はその五欲の楽しみもできないのと同様である」と。
文の心は、貪瞋癡等の三毒は仏の種となるべし、父を殺す等の五逆罪も仏種となるべし、高原の陸土には青蓮華が生ずべし、二乗は絶対に仏に成らないと。いうところの意味は、二乗のもろもろの善と凡夫の悪とを相対するに、凡夫の悪は仏になるとも二乗の善は仏にならないというのである。もろもろの小乗経には悪を禁しめて善をほめた。しかるに、この経には、二乗の善をそしり凡夫の悪をほめている。このようでは、かえって仏の所説とも思われず、外道の法門のようであるけれども、結局は二乗が長く仏にならないと強く決定されているのであろう。
方等陀羅尼経にいわく「文殊師利菩薩が舎利弗に語るには、枯れ木にもう一度花が咲くかどうか、また山から流れ出る水がふたたび、もとの山へかえるかどうか、破れた石がもとのごとく一つになるかどうか、焦れる種が芽を出すかどうか。舎利弗が答えて、みなそのようにはならないと。文殊のいわく、もしそのようにならないなら、どうして君は我に仏になれるかどうかと質問して、心の中で喜んでいるのか」と。文の心は、枯れたる木は花が咲かない、山の水はふたたび山へは帰らない、破れた石は合わない、焦れる種は芽が出ない、二乗はまたこのとおりに仏種を焦り焼き尽くしているというのである。
語釈
維摩経
釈尊方等時の経で、在家の大信者である維摩詰が、偏狭な二乗の弟子を啓発し、般若の空理によって、不可思議な解脱の境涯を示し、一切万法に帰することを説いている。後漢の厳仏調以来、七回漢訳されたと伝わるが、現存するのは次の三訳だけである。①呉の支謙訳「維摩詰経」二巻、②姚秦の鳩摩羅什訳「維摩詰所説経」三巻、③唐の玄奘訳「説無垢称経」六巻。古来、多数の注釈書が著されており、わが国では聖徳太子が法華経・勝鬘経とともに維摩経の義疏(注釈書)を著したと伝えられる(「三経義疏」)。
維摩詰
梵語ヴィマラキールティ(Vimalakīrti)の音写。浄名・無垢称などと訳す。中インドの毘舎離城の大富豪で、在家の身でありながら、よく法門に通じ、舎利弗等でさえもかなわなかったという。
文殊師利
梵語マンジュシュリー(Mañjuśrī)の音写。直訳すると、「うるわしい輝きをもつ者」。仏の智慧を象徴する菩薩で、仏像などでは獅子に乗った姿で釈尊の向かって左に配される。法華経では、弥勒菩薩・薬王菩薩とともに、菩薩の代表として登場する。
一切塵労の疇
塵労とは貪・瞋・癡の三毒をいう。塵は六塵で、色・声・香・味・触・法の六境が心性を汚すことをいう。労は労倦(疲れ倦む)のこと。塵によって労を成すゆえに塵労という。疇は、類い、集団を意味する。
族姓の子
呼びかけ。善男子等というのと同じ。
応真
「阿羅漢」と同義。見思惑を断じ尽くして小乗の悟りをきわめた位で、人天の供養を受くべき人をいう。
根敗の士
根とは眼・耳・鼻・舌・身の五根をいい、これらの五官の作用を破壊した者は、五欲の楽しみを味わうことができない。それと同じく、二乗は見惑の煩悩を断尽してしまうから、成仏を求める道心を起こして仏法を具することができない。
講義
凡夫の悪は仏になるとも二乗の善は仏にならじ
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を輪廻する凡夫は仏になるとも、声聞・縁覚の二乗は仏になることはできないとの権大乗教の教えである。いうまでもなく、これは方便教であって、最後の法華経で二乗も成仏を許されるのであるが、ここに仏法の深さ、偉大さがあることを知らなければならない。
二乗とは、わが身を修め、君子然として、ひとり高しとしている利己主義の人といえよう。このような衆生は末法においては、天台大師が「市に虎がうろついているようなものである」と喝破したように、表面だけ立派そうな偽善者である。末法の衆生は貪・瞋・癡の三毒が強く、悩み多き人生であるのが当然である。五濁爛漫の末法に、悩みのない、立派な人格者など、いる道理がないのである。
したがって、こうした二乗の教えをまねたキリスト教、天理教、立正佼成会その他、あらゆる邪宗教が、慈善行為をすすめているのは、しょせんは二重人格の偽善者をつくることにしかならないと断言できる。
法華経、日蓮大聖人の正しき仏法の教えは、煩悩即菩提、生死即涅槃である。悩み、現世の幸福を願って御本尊を拝んでいけば願いはすべて叶うのみならず、最高の幸福境涯を確立することができるのである。煩悩の薪が多いほど、菩提の火は大きく燃えるとの教えである。
これを、社会的にみるならば、どうであろうか。もしも、欲のない、悩みを押しこめた人々が社会に充満するならば、その社会は無気力となり、向上、発展のない、停滞せる社会となってしまうのである。悩みのあるところにこそ向上がある。欲望のあるところにこそ発展と前進がある。要は、その欲望を正しく有益に活かしきる正しき理念、哲学こそ求めなければならない。それこそ、日蓮大聖哲の生命哲学なりと主張するものである。
第十四章 般若経等の二乗訶責を示す
本文
大品般若経に云く「諸の天子今未だ三菩提心を発さずんば応に発すべし、若し声聞の正位に入れば是の人能く三菩提心を発さざるなり、何を以ての故に生死の為に障隔を作す故」等云云、文の心は二乗は菩提心を・をこさざれば我随喜せじ諸天は菩提心を・をこせば我随喜せん、首楞厳経に云く「五逆罪の人・是の首楞厳三昧を聞いて阿耨菩提心を発せば還つて仏と作るを得、世尊・漏尽の阿羅漢は猶破器の如く永く是の三昧を受くるに堪忍せず」等云云、浄名経に云く「其れ汝に施す者は福田と名けず、汝を供養する者は三悪道に堕す」等云云、文の心は迦葉・舎利弗等の聖僧を供養せん人天等は必ず三悪道に堕つべしとなり、此等の聖僧は仏陀を除きたてまつりては人天の眼目・一切衆生の導師とこそ・をもひしに幾許の人天大会の中にして・かう度度・仰せられしは本意なかりし事なり只詮ずるところは我が御弟子を責めころさんとにや、此の外牛驢の二乳・瓦器・金器・螢火・日光等の無量の譬をとつて二乗を呵嘖せさせ給き、一言二言ならず一日二日ならず一月二月ならず一年二年ならず一経二経ならず、四十余年が間・無量・無辺の経経に無量の大会の諸人に対して一言もゆるし給う事もなく・そしり給いしかば世尊の不妄語なりと我もしる人もしる天もしる地もしる、一人二人ならず百千万人・三界の諸天・竜神・阿修羅・五天・四洲・六欲・色・無色・十方世界より雲集せる人天・二乗・大菩薩等皆これをしる又皆これをきく、各各国国へ還りて娑婆世界の釈尊の説法を彼れ彼れの国国にして一一にかたるに十方無辺の世界の一切衆生・一人もなく迦葉・舎利弗等は永不成仏の者・供養しては・あしかりぬべしと・しりぬ。
現代語訳
大品般若経にいわく「もろもろの天子よ、今未だ三菩提心(悟りを求める心)を発さないならば発しなさい。もし声聞の正位に入れば、その人は能く三菩提心を発さないのである。なぜかというに、見惑・思惑を断尽して界内に生ずることができなくなるゆえに、さらに上法を求めることがない」と。文の心は二乗は菩提心を起こさないから仏は随喜しない。諸天は菩提心を起こすから仏は随喜するであろうと。
首楞厳経にいわく「五逆罪の人がこの首楞厳三昧を聞いて菩提心を発せば、還って仏となることができる。世尊よ、漏尽の阿羅漢はなお破れた器のごとくこの三昧を受けるに堪えないのである」と。浄名経にいわく「それ汝(声聞)に布施するものは福田とはいえない。汝を供養する者は三悪道に堕ちる」と。文の心は、迦葉・舎利弗等の聖僧を供養する人天は、必ず三悪道に堕ちるというのである。
これらの聖僧たちは、仏を除き奉っては、人天の眼目であり一切衆生の導師であるとこそ思っていたのに、多くの人天大会の中で、このようにたびたびおおせられることは、まことに本意のないことである。ただ結局は、仏が、自分の弟子を責め殺さんとされるのであろうか。このほか牛乳と驢乳の譬え、瓦器と金器の譬え、螢火と日光の譬え等の無量の譬えを取って二乗を呵嘖せられた。一言二言でない、一日二日でない、一月二月でない、一年二年でない、一経二経でない、四十余年の間、無量無辺の経々に、無量の大会の諸人に対して、一言も許し給うことなく二乗をそしり給うたので、世尊はけっしてウソはいわないと、われも知る・人も知る・天地もこれを知っている。一人二人に限らず、百千万人・三界の諸天・竜神・阿修羅・五天・四洲・六欲・色界・無色界等、あらゆる十方世界より雲のごとく集まってきた人天・二乗・大菩薩等が、みなこれを知る。また、みなこれを聞いた。おのおの国々へ還って娑婆世界の釈尊の説法をそれぞれの国で一一に語ったであろうから、十方無辺の世界の一切衆生は、一人も残らず、迦葉・舎利弗等の声聞の弟子は、永く成仏しない者で、供養しては悪いと知ったのである。
語釈
大品般若経
般若経の漢訳の一つで、中国・後秦代の鳩摩羅什訳。二十七巻。天台教学における五時のうち般若時の代表的な経典。
三菩提心
阿耨多羅三藐三菩提の略。無上正覚を意味し、仏の覚知を求める心をいう。
生死の為に障隔を作す
正位に入った三蔵教の二乗は見思の煩悩を断ずるので、ふたたび三界の内に生まれてくることができなくなる。障隔とは、さえぎりへだつること。したがって、悟りを求める心(三菩提心)も発せなくなるのである。
首楞厳経
二義ある。①首楞厳三昧経の略。中国・後秦の鳩摩羅什訳。二巻。もっぱら首楞厳三昧の力用を説き、この三昧で得られた神力を示し功徳を明かしている。②大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経の略。大仏頂経とも略す。唐の般刺蜜帝訳とされる。十巻。摩登伽女の呪力に害されている阿難を仏が神通力で救うことから始まり、禅定の力と白傘蓋陀羅尼の功徳力を説いている。また二乗成仏の義を示している。禅宗で重んじられた経。
阿耨菩提心
「三菩提心」と同意。阿耨多羅は無上、三菩提は真道を意味する。
福田
福徳を生ずる田のこと。衆生を、功徳を生ずる田に譬えた。田畑が作物を実らせるように、仏や僧を恭敬し布施することによって福徳を生ずるゆえにいう。
牛驢の二乳
牛の乳と驢馬の乳は、色は同じであるが、牛乳は精すれば生酥となり醍醐味となるが、驢乳はまずくて飲みにくい。内道と外道、大乗と小乗に譬えたことば。大智度論巻第十八には「譬えは牛乳と驢乳との如し、其の色は同じと雖も、牛乳を攢むれば則ち酥と成り、驢乳を攢むれば則ち尿と成る」とある。また伝教大師の顕戒論巻中も「牛驢の乳、其の色別ち難く、両迦の果、其の形何ぞ別たん」と述べる。
色
三界の一つ、色界のこと。色とは物質の義。欲界より高い処にある浄妙の世界で、欲望は無く、物質だけが存在する天上界。欲界の六欲天の上に、色界の十八天がある。その最上部を色究竟天という。
無色
三界の一つ、無色界のこと。欲望も物質も超越した精神の世界で、五蘊のうち色のない、受、想、行、識、の四蘊より成る。色界十八天の上に、無色界の四処があり、その最上部を有頂天という。
講義
前章につづいて、本章でも、爾前諸経の二乗の不成仏が示されている。とくに、ここは迦葉・舎利弗等の二乗の聖僧を供養せん人天の衆々は、かならず三悪道に堕つべしと定められている。当時、これらの聖僧は、托鉢をもち、町や村をまわって、食の供養をうけて命をつないでいたのであるから、釈尊のこの一言は「我が御弟子を責めころさんとにや」のおことばのとおりであったわけである。
しかしながら、これは、小乗の小法に執着するお弟子たちの迷いを、根本的に断ち切る厳愛と拝することができる。食の道を断たれ、執着の根を切られて、はじめて、声聞の弟子たちの迷妄が覚め、かくして法華経の説法、覚道があるのである。
また、供養する者が三悪道に堕つべしとの方程式は、仏弟子たる小乗の聖僧においてすら、かくのごとくであるから、いわんや仏敵においてこれを供養する人は、無間地獄に堕ちると知らなければならない。
曾谷殿御返事にいわく「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く『諸の悪人と倶に地獄に堕ちん』云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」(01056:06)と。
こんにち、念仏、禅、真言等の既成仏教諸派、神道、また立正佼成会、天理教、生長の家等に対して、その魔の実体に対する無認識から、これに供養し、養って悪業の因を積み重ねている民衆のいることは哀れという以外にない。
謗法に供養せる個人、団体は、現実に、不幸に苦しみ、社会的、国家的混乱を招き、来世には堕地獄の炎にむせぶのである。謗法の供養の恐ろしさに、一日もはやく目ざめよと叫ぶものである。
立正安国論にいわく
「夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せば何な難か並び起り何なる災か競い来らん。」(0030:16)とある。逆に善に施せば社会は安穏となるのである。
第十六章 滅後の難信の相を明かす
本文
但在世は四十余年をすてて法華経につき候ものもや・ありけん、仏滅後に此の経文を開見して信受せんこと・かたかるべし、先ず一つには爾前の経経は多言なり法華経は一言なり爾前の経経は多経なり此の経は一経なり彼彼の経経は多年なり此の経は八年なり、仏は大妄語の人・永く信ずべからず不信の上に信を立てば爾前の経経は信ずる事もありなん法華経は永く信ずべからず、当世も法華経をば皆信じたるやうなれども法華経にては・なきなり、其の故は法華経と大日経と法華経と華厳経と法華経と阿弥陀経と一なるやうを・とく人をば悦んで帰依し別別なるなんど申す人をば用いずたとい用ゆれども本意なき事とをもへり。
現代語訳
以上のごとく、爾前四十余年の経教と後八年の法華経とは相違していて、釈尊の所説は信じがたいのであるが、釈尊在世においては、四十余年の経を捨てて法華経につく者もあったであろう。しかし、釈尊滅後に法華経を聞き見て信受することはむずかしいことである。まず一つには、爾前の経々は多言であり、法華経はただ一言である。爾前は多くの経があり、この法華経はただ一経である、彼々の爾前経は四十余年の多年にわたっており、この法華経は八年である。
仏は爾前経と相反する法華経を説かれたのであるから、大妄語の人として永く信ずることができない。もしこのように信じられないのを、強いて信ずることになるならば、多言であり多経であり四十余年である爾前の経々をば信ずることになるであろうが、法華経は永く信じられないのである。今の世の中でも、法華経をみな信じているようであるけれども、じつには法華経を信じてはおらない。そのゆえは、法華経と大日経と、法華経と華厳経と、法華経と阿弥陀経とを同一であると説くような人をば悦んで帰依し、別々であると申す人をば用いず、たとい用いても本意なきことと思っている。
語釈
不信の上に信を立てば
爾前経と法華経の所説があまりにも食いちがっているので釈尊のすべての教えが信じがたい。しかし、その信じられないのを、しいて信ずることにするならば、爾前経のほうが多言・多経・多年であるから信ずることになろうという意味。
別別なるなんど申す人
爾前経は方便権経であるから成仏の法ではなく、法華経のみが真実の教えであり成仏得道の法であると主張する人。すなわち、日蓮大聖人である。
講義
「法華経にてはなきなり」とは、法華経を信ずるにてはなきなりの意である。しからば、いかように信ずるを法華経を信ずるというか。
撰時抄にいわく、
「経文のごとく已今当にすぐれて法華経より外は仏になる道なしと強盛に信じて云云」(0290:07)
また報恩抄にいわく、
「法華経をよむ人の此の経をば信ずるよう・なれども 諸経にても得道なるとおもうは此の経をよまぬ人なり」(0314:11)
すなわち、諸経でも得道すると思うのが、諸経と法華経とは一であるという意であり、このような徒輩は、法華経を信ずるようにて、じつは信じていないのであるとおおせられたのである。
当世においても、日蓮大聖人を信ずるようなれども、みな大聖人を信じていないのである。自分は題目を唱えている。自分は日蓮宗だといって、大聖人を信じているようではあるが、日蓮大聖人を信ずるというならば、大聖人のご命令どおりでなくてはならぬ。すなわち、弘宣付嘱たる身延相承書・伝持付嘱たる池上相承書にあるがごとく、日興上人の流れに身をまかせなければならない。このことこそ、まさに日蓮門下が知るべき重大事である。
法華経と大日経と法華経と華厳経と法華経と阿弥陀経と一なるやうを・とく人
真言宗においては、大日経の「我一切本初」の文を一念三千の依文なりと主張し、一念三千の法理においては法華経と大日経は同じである、ただし、大日経には印と真言があるから、この〝事〟においてすぐれているといった。
また華厳宗では、華厳経の「心如工画師」の文に一念三千が示されているとして、やはり、華厳経は法華経とひとしいといった。浄土宗においては、法華経もすばらしいが、教えが高級で末法の衆生の機に合わない、ゆえに念仏を信ずべきであるなどといっている。
これらは、この御文のとおりの邪見の徒輩であり、仏法に無知な衆生の心をたぶらかして急速にひろまったのであった。これらが「四十余年未顕真実、世尊法久後、要当説真実」の仏の金言にそむく、邪義であることは、つぶさに論じられたとおりである。仏の金言をないがしろにし、真実をおおいかくさんとする、これら諸宗の人師たちは、まことにこれ仏敵である。かかる仏敵にたぶらかされて、かれらの一門となる者は、無間地獄の責めをまぬかれることはできないと断言してやまない。
日蓮大聖人に邪義を責められて七百年、二十世紀の今日、これらの既成仏教は、すでに宗教としての力を失い、形骸をのこすばかりとなっているが、しかも、わが国各層に深く浸透して、政治、経済、教育、芸術、文学、等々の腐敗堕落の原因となっている。このような腐りきった病毒を取り除いて、真実の浄らかな人間性の発露たる、生き生きした文化を実現することこそ、わが創価学会の宗教革命の目的なのである。
また、こんにち多くの新興宗教が、たとえば生長の家の〝万教帰一〟のごとく、すべて宗教は同じことを目標とし、説いているのであるから、同じである、等の誤った教義を説いている。これも、民衆の宗教に対する無知、無認識につけこんだ〝宗教企業〟の宣伝文句にほかならない。
「どんな宗教でも同じだ」ということばが、いかに偽りであるかは、少し各宗の教義を勉強してみればわかることである。創価学会の座談会、講義等は、この宗教の違いを、経文等に照らし、信仰した体験の上から照らし、また哲学的な論証により、話し合っている偉大なる研究機関なのである。ゆえに、宗教のことについては、創価学会に聞けと、大確信をもって断言するものである。
第十七章 明証を引いて難信の信を勧む
本文
日蓮云く日本に仏法わたりて・すでに七百余年・但伝教大師・一人計り法華経をよめりと申すをば諸人これを用いず、但し法華経に云く「若し須弥を接つて他方の無数の仏土に擲置かんも亦未だ為難しとせず、乃至若し仏滅後に悪世中に於て能く此の経を説かん是れ則ち為難し」等云云、日蓮が強義・経文に普合せり法華経の流通たる涅槃経に末代濁世に謗法の者は十方の地のごとし正法の者は爪上の土のごとしと・とかれて候は・いかんがし候べき、日本の諸人は爪上の土か日蓮は十方の土かよくよく思惟あるべし、賢王の世には道理かつべし愚主の世に非道・先をすべし、聖人の世に法華経の実義顕るべし等と心うべし、此の法門は迹門と爾前と相対して爾前の強きやうに・をぼゆもし爾前つよるならば舎利弗等の諸の二乗は永不成仏の者なるべし・いかんが・なげかせ給うらん。
現代語訳
日蓮いわく、日本国に仏法がわたって、すでに七百余年になるが、ただ伝教大師一人のみが法華経を読まれたと日蓮が申すのを、国中の諸人はこれを用いない。ただし法華経には「もし須弥山のごとく世界最高・最大の山を取り上げて、無数の仏土に投げ置くことは、いまだそれほど困難のことではない。もし仏の滅後に悪世の中でこの法華経を説くことは、はなはだ困難のことである」と。日蓮がただ一人正しく、他はすべて謬っていると説く強義がこの経文にまったく一致している。法華経の流通分たる涅槃経に「末代濁世には、謗法の者は十方世界の土のごとく多く、正法の者は爪の上の砂のごとく僅少である」と説かれていることは、どういうことか。まったく今の日本国の姿である。日本の諸人は爪上の土か、日蓮は十方の土か。そうではない。爪上の土たる正法が日蓮で、十方の土たる謗法が諸人であることをよくよく考えてみなさい。賢王の世には道理が勝ち、道理が世間に用いられるが、愚主の世には道理にあらざる非道が先に立つ。今の日本は愚王で、正法の日蓮を用いないが、聖人の世に法華経の実義があらわるべしと心得なさい。
以上の法門は、迹門と爾前と相対して、爾前の強く迹門の劣るように思える。もし爾前が強いならば、舎利弗等の二乗は永く不成仏の者となるのであろう。さぞかし嘆くことであろう。
語釈
日本に仏法わたりて・すでに七百余年
日本に仏法が渡ってきたのは欽明天皇の代とされている。日本書紀には欽明天皇13年(0552)とあるが、上宮聖徳法王帝説および元興寺伽藍縁起に共通する「戊午年」の0538年とする説が有力であり、さらに種々の説がある。日蓮大聖人が御書で用いられているのは、日本書紀の説である。それによれば、欽明天皇の13年(0552)冬10月、百済の聖明王(更名聖王)が西部の姫氏、達率怒唎斯致契等を遣わし、釈迦仏の金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を獻上せしめた、とある。また、別に表を奉って、流通、礼拝の功徳を讃して云く「是の法は諸法の中に於いて最も殊に勝れて為す解難し入り難し。周公・孔子も尚知ること能わず。此の法能く無量無辺・福徳果報を生て、乃至無上菩提を成ずるを辨る、譬えば人、随意宝を懐き、須らく用うべき所に逐いて、盡く情の依なるが如し。此の妙法の宝も亦復然なり。祈願うことを情に依い乏しき所無し。且つ夫れ遠く天竺自り爰三の韓に洎る。教の依に奉持、尊敬せざること無し。是れ由り百済王、臣明謹、陪臣怒唎斯致契を遣わし帝国に伝え奉ず。畿内に流通すること、仏所記我法東に流ということを果すなり」と。
須弥
古代インドの世界観で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
法華経の流通たる涅槃経
序分・正宗分・流通分のなかの第三、流通分と同じで、仏教典は、すべてこの三段に分けて説かれている。序分とは、これから説こうとする教を明らかにするための導入部分。会座の聴衆の名を挙げ、経典独自の由来、因縁が説かれている。正宗分はその中心たる教の本体を開説する部分である。流通分は、正宗分の中心の教にもとづいて、その弘通を明かす部分。経典を受持する功徳を説き、教えを弟子に付嘱し流布を勧めている。ここでは、釈尊一代の経典を序・正・流通の三段に分けて、涅槃経を法華経の流通分としている。
講義
この引用のお言葉どおり「若し須弥を接って他方の無数の仏土に擲置かんも亦未だ為難しとせず、乃至若し仏滅後に悪世中に於て能く此の経を説かん是れ則ち為難し」、日蓮の強義はこの経文に当たっているとおおせられているが、大聖人のおおせにまかせて真の仏法を弘通せんとすれば、当世においてもじつに大困難である。
吾人が、この三大秘法の真の仏法を呼号して、苦悩の衆生を伝えんとするが、快くこの言に心を傾ける者は少ない。むしろ反対する者が非常に多いのである。もし読者の一人として、この真実の仏法を知ることができ、歓喜に燃えて他人に説くならば、いかに反対が多いことかを知ることができるであろう。その時こそ、自分の信受した仏法がいかに正しいものであり、大聖人がわれわれ苦悩の衆生のために、七百年以前、いかにご苦労あそばされたかが、よくよくわかるであろう。しこうして末法の御本仏・大聖人の御慈悲をしみじみと感じて涙なきを得ないであろうと信ずる。
また、この引用の経文中の「能く此の経を説かん」とは、撰時抄にいわく、
「よくとくと申すはいかなるぞと申すに於諸経中最在其上と申して大日経・華厳経・涅槃経・般若経等に法華経はすぐれて候なりと申す者をこそ経文には法華経の行者とはとかれて候へ、もし経文のごとくならば日本国に仏法わたて七百余年、伝教大師と日蓮とが外は一人も法華経の行者はなきぞかし」(0266:07)と。
すなわち、この経文は、そのまま大聖人の御身に当てられたのである。
涅槃経に「末代濁世に謗法の者は十方の地のごとし正法の者は爪上の土のごとし」とあるが、よく学会初期の折伏の行に当たって、三大秘法の真の仏法を奉ずる信者が少ないといわれた。また今日、五百数十万所帯になったとはいえ、まだまだ謗法の者が多い。少ないから正しくないと断ずることの非は、この経文によって明らかにされるであろう。むしろ正しきがゆえに少ないのであるということが言い得るのである。顧りみれば、仏法渡って七百年、日蓮大聖人の出現によって宗教界の大革命が行なわれたのである。今また大聖人立宗七百年に当たり、だれびとか大聖人の使命を受けて宗教の大革命を行なうべきであると、吾人は信ずる者である。
賢王の世には道理かつべし愚主の世に非道・先をすべし
この御文によって現代を考えてみたとき、憂うべき事件があまりにも多い。わが国は、一応、法治国家として、不正や悪事は厳しく取り締まられているが、法の裏をかいた巧妙な不正は、政界に、財界に、はては教育、学問の世界にいたるまで、常識とさえなっている。そして、その世界の実力者とは、こうした裏道に通じている人の代名詞となっているといっても過言ではあるまい。
「無理が通れば道理引っこむ」「正直者がバカを見る」といった世の中にあっては、真の第一人者は日陰者とされてしまい、文化、社会の正しい繁栄、発展はありえない。その原因は、愚主の世なるゆえなりと喝破せられた御文である。
それでは、賢王とは何か、愚主とは何か。民主主義の現代においては、民衆である。民衆が無知・無気力であれば、民主主義も衆愚主義となり、非道・不正が幅をきかせるようになってしまう。民衆が賢く、自己の生活向上と社会の繁栄を賢明に考えている世には、道理が勝つのである。
その民衆をひとりひとり賢明にする法こそ、大仏法によって生命哲理、生活原理を根本より理解し、会得することである。どのように学問が発達し、人知が発展しようと、この根本を忘れたならば、すべて生活に生かされない、砂上の楼閣にひとしいといわなければならない。
聖人の世に法華経の実義顕るべし
この法華経は、三大秘法の南無妙法蓮華経である。日蓮大聖人の御出現によって、三大秘法が建立され、法華経の実義があらわれたのである。大聖人滅後七百年、御本仏・日蓮大聖人が御書の各所に書き遺された化儀の広宣流布の達成は、われら創価学会の手によってなされるのである。
第十八章 本迹相対して判ず
本文
二には教主釈尊は住劫・第九の減・人寿百歳の時・師子頰王には孫・浄飯王には嫡子・童子悉達太子・一切義成就菩薩これなり、御年十九の御出家・三十成道の世尊・始め寂滅道場にして実報華王の儀式を示現して十玄・六相・法界円融・頓極微妙の大法を説き給い十方の諸仏も顕現し一切の菩薩も雲集せり、土といひ機といひ諸仏といひ始めといひ何事につけてか大法を秘し給うべき、されば経文には顕現自在力・演説円満経等云云、一部六十巻は一字一点もなく円満経なり、譬へば如意宝珠は一珠も無量珠も共に同じ一珠も万宝を尽して雨し万珠も万宝を尽すがごとし、華厳経は一字も万字も但同事なるべし、心仏及衆生の文は華厳宗の肝心なるのみならず法相・三論・真言・天台の肝要とこそ申し候へ、此等程いみじき御経に何事をか隠すべきなれども二乗闡提・不成仏と・とかれしは珠のきずと・みゆる上三処まで始成正覚と・なのらせ給いて久遠実成の寿量品を説きかくさせ給いき、珠の破たると月に雲のかかれると日の蝕したるがごとし不思議なりしことなり、阿含・方等・般若・大日経等は仏説なれば・いみじき事なれども華厳経にたいすれば・いうにかいなし、彼の経に秘せんこと此等の経経にとかるべからず、されば雑阿含経に云く「初め成道」等云云、大集経に云く「如来成道始め十六年」等云云、浄名経に云く「始め仏樹に坐して力めて魔を降す」等云云、大日経に云く「我昔道場に坐して」等云云、仁王般若経に云く「二十九年」等云云。
現代語訳
二には、教主釈尊は、住劫第九の減で人間の平均寿命が百歳の時、師子頬王の孫、浄飯王の嫡子として生まれ、童子の時の名を悉達太子といい、すなわち一切義成就菩薩と申し上げたのである。御年十九歳で出家し、三十歳で仏道を成就したこの仏は、始め寂滅道場において、菩薩の住処たる実報土と蓮華蔵世界の仏の、りっぱな相をもって、未曾有の儀式を示して華厳経を説き、十玄・六相等の法門を根本として、法界円融の上に頓極微妙の大法をお説きになり、十方の諸仏もこの座に現われ、いっさいの菩薩も雲のごとく来集した。このように華厳経を説いた時は、そのりっぱな国土といい、対告者は大菩薩であるからそのすぐれた機根といい、また顕現した諸仏といい、また説法の最初であるという辺からも、どうして大法を秘し隠す必要があろうか。されば経文には「自在の力を顕現して、円満の経を演説する」と言われている。すなわち、華厳の一部六十巻は、一字一点も漏れず円満経である。たとえば、如意宝珠は、一つの珠も、無量に多くの珠もともに同じである。一珠でも万宝をことごとく出し、万珠も万宝を出すようなものである。華厳経は一字も万字もただ同じ一つの真理を説き明かしているのである、「心と仏と衆生の三は差別がなく一体である」という華厳経の文は、華厳宗の肝心であるのみならず、法相・三論・真言・天台の各宗の肝要であるといわれている。
これほどいみじく優れた御経には、何一つ隠すべきではないはずなのに、二乗と一闡提は成仏しないと説かれているのは、珠の疵であるとみられる上、三か所にまでこの世で成仏したと説き、久遠の成仏、すなわち生命の永遠を説き隠している。珠が破れたごとく、月が雲に隠れたごとく、日が蝕したごとく、じつに不思議なことである。阿含・方等・般若・大日経等は仏説であるから、一応はいみじき経文であるけれども、かの華厳経に相対すれば、いう甲斐もなき劣れる経である。華厳経に秘し隠したことをこれらの経々に説かれるはずがない。ゆえに雑阿含経には「初め成道」と。大集経には「如来成道始め十六年」と。浄名経に「始め仏は樹に面して坐り修行に力めて魔を降した」と。大日経に「自分は昔道場に坐して」と。仁王般若経に「二十九年」等と説かれて、いずれも釈尊がインドに生まれてから、出家して修業し、成仏したと説いており、法華経寿量品の久遠の実成・永遠の生命観に対すれば、いずれも劣れる経で、問題にならないのである。
語釈
住劫・第九の減
住劫の第九小劫における減劫の時期。仏教では、一つの世界が成立・継続・破壊を経て次の世界が成立するまでの間を四期に分けて、成・住・壊・空の四劫とし、この住劫のなかで人寿が減じていく時期と増していく時期とが繰り返されると説かれる。一説によると初め人寿は無量歳であったが百年に一歳ずつ減じて十歳にいたり(第一減劫)〔第一小劫〕、次に人寿十歳から百年に一歳ずつ増して八万歳にいたるとまた十歳になるまで減じていく(第二の増減劫)〔第二小劫〕、これを十八回繰り返したのち、最後の第二十小劫は人寿が増して無量歳にいたる(第二十の増劫)。住劫・第九の減とは、この二十の増減のうち、九番目の減劫をいう。
師子頬王
中インド迦毘羅衛国の王。浄飯王の父、釈尊の祖父。大智度論巻三には「昔、日種の王あり。師子頬と名づく。其の王に四子あり。第一を浄飯と名づけ、二を白飯と名づけ、三を斛飯と名づけ、四を甘露飯と名づく」とある。
浄飯王
梵名シュッドーダナ(Śuddhodana)の訳。中インド迦毘羅衛国の王。師子頬王の長子。釈尊の父。釈尊の出家に反対したが、釈尊が成道後、迦毘羅衛城に帰還した時、仏法に帰依した。
悉達太子
釈尊の出家前の名。悉達は梵名シッダールタ(Siddhārtha)の音写で、悉多、悉達多とも。釈迦族の王子だったので、「太子」と称する。
一切義成就菩薩
釈尊の出家前の名称。梵名シッダールタ(Siddhārtha)、音写して悉達多、訳して一切功德成就。あるいは梵名サルバールタシッダ(Sarvārthasiddha)、音写して薩婆曷剌他悉陀、略称が薩婆悉多、訳して一切義成就である。仏祖統紀第二に「王、婆羅門を召していわく、当に太子なり何等の名と作すべし、答えていわく太子生時、一切の宝蔵みな悉く発出す、所有の諸端吉祥にあらざることなし、当に薩婆悉多と名づくべし、此れ一切義成という」とある。
寂滅道場
釈尊は十九歳で出家し、最初は多くのバラモンについて学んだが、しょせん解脱の法でないことを知り、みずから修学すべきであると考え、もっぱら苦行に励んだ。苦行は六年間にわたったが、しかし、これも真の解脱の法でないことを知り、苦行を捨てて尼連禅河にはいり、沐浴して、一人の牧女・難陀婆羅の捧げる乳をのんで心身が爽やかになることができた。こうして最後に伽耶(がや)城の菩提樹下の金剛宝座に吉祥の奉る淨輭草をしいて安坐した。ここで沈思黙想四十九日、魔を降して十二月八日の早暁、朗然と悟りを開いた。ただちにその座で三七日(二十一日間)、十方から集まった諸大菩薩に説いたのが華厳経であるであるとされる。したがって、覚道の地であるがゆえに寂滅道場といい、同時にそれは華厳経の説処でもある。
実報
実報とは実報土のこと。報土とは衆生が自らの行為によって次の世に受ける国土をいう。実報土は、六道の凡聖同居土、二乗の方便土、仏界の寂光土に対し、菩薩が立てた誓願によって成就される浄土で、詳しくは、別教の十地以上、円教の十住以上の、中道を証し、無明を断破した大菩薩の住所である。
華王の儀式
華王とは蓮華蔵世界の王、すなわち盧遮那報身仏のことで、華王の儀式とは、華厳経を説かれた儀式をいう。華厳経は高位の菩薩・利根の機に対して説かれたものであるから、菩薩所居の実報土を説きあらわしたのである。
講義
第一には権実相対の辺から二乗作仏を説き、第二には本迹相対を示す。
華厳経はといい、釈尊が成道して最初に説いた経で、法華経を除いては最高最勝の法門を説かれている。ゆえにこれを聞いた大衆は、まったくその意味がわからないでいるうちに、ついで漸教の阿含経を説き、しだいに初歩から教えて段階を追っていったのである。「心仏及衆生」の文については、古来の諸師が種々の意見を述べているが、寛記の大要をつぎにかかげてこれを明らかにする。
「華厳宗の意は我一念を挙げて心仏衆生を収めて渾然斉致す等云云、法相宗の意は諸大乗の極理みなこれ唯識の妙理なり謂く華厳の心仏及衆生・法華の一大事因縁等みなこれ唯識の法門なり等云云、三論宗の意は華厳の三無差別・法華の諸法実相みなこれ非権非実の妙理なりゆえにかの宗いわく諸大乗経見道無異なり、真言宗の意は華厳の三無差別即大日経の甚深無相法と同じ云云、天台宗には南岳すでにこの文を引いて心仏衆生の三法妙を釈す、天台はこの義を依用す、況や円頓止観の己界および仏界・衆生界また然り等またこの文による、況やまた心造無差の文を引いて正しく千如妙境を証す豈肝要にあらずや」
要するに、悟った心、迷った心、悟れる衆生、迷える衆生というも、みな差別がない。ゆえに衆生が一仏を信じて教えのままに行ずれば、その仏と同じ境涯を得られるのである。またその仏も、衆生と同じき心を有すればこそ、その衆生をして我と等しき境涯を得さしむるのである。
しこうして、この段の意は、法華経を除いて最極無上の華厳経にすら永遠の生命を説かず、この娑婆世界を浄土と断ぜず、一念三千の法門は影だになし、ましてや阿含・方等・般若にあるべきはずがないと断ぜられているのである。
第十九章 本門に久遠実成を説くを示す
本文
此等は言うにたらず只耳目を・をどろかす事は無量義経に華厳経の唯心法界・方等・般若経の海印三昧・混同無二等の大法をかきあげて或は未顕真実・或は歴劫修行等・下す程の御経に我先きに道場菩提樹の下に端坐すること六年阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たりと初成道の華厳経の始成の文に同ぜられし不思議と打ち思うところに此は法華経の序分なれば正宗の事をいはずもあるべし、法華経の正宗・略開三・広開三の御時・唯仏与仏・乃能究尽・諸法実相等・世尊法久後等・正直捨方便等・多宝仏・迹門八品を指して皆是真実と証明せられしに何事をか隠すべきなれども久遠寿量をば秘せさせ給いて我始め道場に坐し樹を観じて亦経行す等云云、最第一の大不思議なり、されば弥勒菩薩・涌出品に四十余年の未見今見の大菩薩を仏・爾して乃ち之を教化して初めて道心を発さしむ等と・とかせ給いしを疑つて云く「如来太子為りし時・釈の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たまえり、是より已来始めて四十余年を過ぎたり世尊・云何ぞ此の少時に於て大いに仏事を作したまえる」等云云、教主釈尊此等の疑を晴さんがために寿量品を・とかんとして爾前迹門のききを挙げて云く「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏・釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり」等と云云、正しく此の疑を答えて云く「然るに善男子・我実に成仏してより已来無量無辺・百千万億・那由佗劫なり」等云云。
華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、
現代語訳
以上に挙げた阿含・方等・般若・華厳等は、いうに足らぬ経であるが、さて驚くべき事は、法華経の序分無量義経において、しかも始成をいっている。すなわち華厳経の唯心法界とか、方等の海印三昧とか、般若の混同無二等の勝れた大法をかき上げて、これらはすべて、あるいは「未だ真実をあらわさぬ法門である」とか、とか、あるいは「歴劫修行で永久に成仏できない法門である」等と論破しているほどの無量義経において「我先に道場菩提樹の下に端坐すること六年にして阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得た」と説いて、最初に説いた華厳経の、この世で成仏したという文と同じことを言っている。これは不思議だと思うのも、むりはないが、無量義経は法華経の序分であるから、正宗分の法門にはふれていないのであろう。ついで法華経の正宗分たる方便品にいたり、略して三乗(声聞・縁覚・菩薩)を開いて一仏乗を顕し、また広く三乗を開して一仏乗を顕す時において、「唯仏と仏とのみ乃し能く究尽したまえる諸法の実相」と説き、また「世尊の法は久しくして後(要ず当に真実を説くべし)」と、また「正直に方便を捨てて但無上道を説く」等と説いてゆき、多宝仏が見宝塔品に出現して、迹門に説ききたった正宗分の八品をさして、「みなこれ真実である」と証明されているゆえに何一つかくすべきはずはないけれども、久遠寿量を秘し給いて「われ始め道場に坐し、樹を観じてまた経行した」と説いている。これこそ、もっとも第一の大不思議である。
このように釈尊が久遠の生命を秘しかくしていたために、涌出品において涌出した地涌の大菩薩をさして、仏がこれを教化して、初めて大道心を起こさしめた初発心の弟子である、と説かれたのを、弥勒菩薩はおおいに疑って、つぎのごとく質問したのである。「如来は太子たりし時に、釈氏の宮を出でて伽耶城の近くで道場に坐し、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たまえり。それより以来始めて四十余年を経たのに過ぎないが、仏はどうしてこのわずかの間に、おおいに仏事をなし給うたのか」と。教主釈尊はこれらの疑いを晴らさんがために、寿量品を説かんとして、爾前迹門で説いてきたことをあげていわく「一切世間の天人および阿修羅はみな今の釈迦牟尼仏が釈氏の宮を出で伽耶城の近くで道場に坐し、阿耨多羅三藐三菩提を得給えりと謂っている」と。しかして、まさしくこの疑いに対して答えていわく「しかるに善男子よ、われ、じつに成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由佗劫である」と。すなわち華厳を始めとして般若・大日経等は二乗作仏をかくすのみならず、久遠実成をも説きかくしたのである。
語釈
唯心法界
旧訳華厳経第二十六に、「三界は唯一心なり、心の外に別の法無し」とあり、華厳宗で根本の法門とされている。
海印三昧
海印三昧とは、華厳経・大集経・大般若経等に説かれる三昧。三昧とは、心を一処に定めて動かさず、正しく所観の法をうけて、心の乱れをととのえ、曲がっているのをなおすことである。すなわち海印三昧とは、海原の波が静まり水が澄むと、海面に一切の事物の像が映るように、仏の智海が一切の法をはっきりと映し出して覚知できることをいう。菩薩がこの海印三昧を得れば、一切衆生の心行を己心にはっきり映し出して知ることができると説く。大集経第十五虚空蔵菩薩品に「善男子、喩えば閻浮提の一切衆生の身及び余外の色の如し。是の如き等の色、海中に皆な印像あり。是を以ての故に大海印と名づく。菩薩もまた是の如し。大海印三昧を得おわれば、能く分別し一切衆生の心行を見、一切の法門に於て皆な慧明を得。是を菩薩の海印三昧を得て一切衆生の心行の趣く所を見るとなす」とある。
混同無二
般若経に説かれる法門で、「一切諸法混同無二」の略称。あらゆる事象は縁起によって存在しているのであって、事象そのものには不変的・固定的な実体はなく、互いに関係して分かちがたいこと。すなわち九法界の修する法と、仏界の法とは、その性においては、この差別はなく、みな同一法性であるとの意。
略開三
開三顕一を法華経方便品第二の前半で略説したこと。広開三顕一に対する語。開三顕一とは、法華経迹門で釈尊が、法華経以前の諸経で説かれた声聞・縁覚・菩薩を目指す三乗の修行は方便の教えであり、仏の真意は万人を成仏に導く一仏乗の法華経であると明かしたこと。
広開三
広く三乗を開いて一仏乗を明かしたこと。法華経方便品第二の長行から法華経授学無学人記品第九までの間で、仏が今まで説いてきた三乗の法は一仏乗を説くための方便であったことを、法理・譬喩・因縁を通して広く説き明かしたことをいう。「三」とは声聞・縁覚・菩薩のために説かれた教法で爾前の諸経をさし、「一」とは一切衆生を成仏させる教法で法華経をさす。略開三顕一に対する語。
唯仏与仏・及能究尽
ただ仏と仏とのみが、真実を究め尽くしているとの意。法華経方便品第二に「唯仏与仏、乃能究尽諸法実相(唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり)」とある。
弥勒菩薩
慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
涌出品
法華経従地涌出品第十五のこと。釈尊滅後の末法に法華経の弘通を担う地涌の菩薩が出現することを説いて釈尊が久遠実成という本地を明かす序となっており(略開近顕遠)、如来寿量品第十六の直前にあって重要な役割を果たす品である。法師品第十から釈尊が滅後の法華経弘通を勧めたことを受けて、迹化・他方の菩薩は、その誓願を立てた。しかし釈尊は菩薩たちに対し、「止みね。善男子よ。汝等が此の経を護持せんことを須いじ」とこれを制止した。その時、上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩を上首とする地涌の菩薩が大地から涌出する。その様を目の当たりにした弥勒菩薩は、いまだかつてこのような菩薩を見たことがないとして、地涌の菩薩の正体について釈尊に尋ねた。これに対し釈尊は「爾して乃ち之れを教化して 初めて道心を発さしむ……我れは久遠従り来是れ等の衆を教化せり」と答えたのである。これを聞いて、会座の聴衆は大きな疑問を起こし、弥勒菩薩が代表して釈尊に尋ねる。すなわち、始成正覚の立場を確認した上で、成道から四十余年しかならない釈尊が、どうしてこれだけ多くの菩薩を教化することができたのか。しかもこの菩薩の一人一人が実に立派であり、釈尊がこれをわが弟子だと言うのは、譬えていえば、二十五歳の青年が百歳の老人を指してわが弟子であると言うほどの矛盾がある。どうか未来のために疑いを除いていただきたい、と。これを「動執生疑」という。この疑いにまさしく答えたのが、続く如来寿量品である。
伽耶城
中インド摩掲陀国の都城で、現在はインド北東部ビハール州のガヤ市にあたる。その南方11㌔に、釈尊成道の地、ブダガヤ(仏陀伽耶)がある。
久遠実成
インドに生まれ今世で成仏したと説いてきた釈尊が、実は五百塵点劫という非常に遠い過去(久遠)に成仏していたということ。法華経如来寿量品第十六で説かれる。同品には「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」、「我れは仏を得て自り来経たる所の諸の劫数は 無量百千万 億載阿僧祇なり」とある。さらに釈尊は、自らが久遠の昔から娑婆世界で多くの衆生を説法教化し、下種結縁してきたことを明かした。五百塵点劫の久遠における説法による下種結縁を久遠下種という。
講義
このように、法華経の本門寿量品にいたるまでは生命の永遠を説かず、十界の常住があらわれなかったのである。阿含・方等はいうに及ばず、般若経にも華厳経にも、一様にこの世で成仏したと説いてきた釈迦仏は、無量義経にても、また方便品においてすらインドへ生まれて成道したと、同じことを説き、最後に寿量品にいたってついに出世の本懐たる十界本有常住を説き、永遠の生命を説き明かしたのである。なぜ迹門にすら、これを秘していたかについては、
本尊抄にいわく、
「迹門十四品には未だ之を説かず、法華経の内に於ても時機未熟の故なるか」(0247:13)
しかして一切世間天人等はみな謂えりとて、爾前迹門の所聞を挙げて、この世に生まれてから成仏したというは、まったくの虚妄であると断破した。なぜ天人阿修羅といって、二乗や菩薩を挙げないのかについては、十法界事に、爾前迹門の断無明の菩薩を、本門にいたっては天人・修羅に摂し給うと判じられている。
つぎに「我実成仏已来無量無辺」等の文について、日健抄には、これが本迹一致の証拠なりとしている。いわく「我実は本門・成仏は迹門、また我実成仏は本門・已来無量無辺等は迹門なり」と言っている。これはまったく謬(あやま)りもはなはだしく、まさに仏法中の毒虫である。天台大師は玄文第七に、本地の三身に配していわく「我は法身・成仏は報身・已来は応身なり」としている。日健は成仏の二字はすでに本地の報身であるのに、なぜ迹門となすか。まして、この文こそ近を破して実を顕すの文であり、迹を破して正しく本を顕すの文ではないか。しかるにこれを本迹一致となすの迷妄は、あわれむべきである。
治病大小権実違目にいわく、
「法華経に又二経あり、所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり」(0996:07)
本迹の相違は水火天地とおおせられているのを見分けられず、本迹一致と立てるのは、じつに師敵対の大謗法である。
第二十章 爾前迹門の二失を顕わす
本文
此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし、かうて・かへりみれば華厳経の台上十方・阿含経の小釈迦・方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は・此の寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給うを・諸宗の学者等・近くは自宗に迷い遠くは法華経の寿量品をしらず水中の月に実の月の想いをなし或は入つて取らんと・をもひ或は繩を・つけて・つなぎとどめんとす、天台云く「天月を識らず但池月を観ず」等云云。
現代語訳
これらの爾前の経々には二つの失がある。一には十界の中に差別を設けて、二乗は作仏せず等と説くゆえに、いまだ権を開せずといって、迹門の一念三千を隠している。法華経迹門にいたれば、法界はすべて一味平等となり、二乗も作仏するゆえに権を開して実を顕わすとなすのである。二にはインドに生まれて成仏したというゆえに、なおいまだ迹を発せずとて、本門の久遠・常住の生命観をかくしている。この二つの大法は、一代仏教の綱骨であり一切経の心髄である。迹門方便品は一念三千を諸法実相に約して説き、また二乗作仏を説いて、爾前経の二種の失のうち一つを脱れた。しかりとはいいながら、いまだ迹門では、仏の本地をあらわしていないゆえに、本有常住の生命の実体を説き明かしていない。すなわち発迹顕本していないから、生命の実体が不明で、真実の一念三千もあらわれず、二乗も作仏すべしと説かれたものの、本有常住の十界互具の生命が説かれていないから、仏の生命も九界の生命もその実体が不明で、したがって二乗作仏も不定である。たとえていえば、一念三千を説いたけれどもそれは理の上で説いたに過ぎないから、水面に浮かぶ月影のようなもので、形はそのとおりであるが、実体そのものではないのである。また二乗が作仏するといっても、仏界・九界ともにその本体を説かれてないので、根なし草が波の上に浮んでいるごとく、現在において成仏するというだけで、その原因も過去世の下種もわからないから、「定まらず」とおおせられるのである。
さて、法華経の本門にいたりて、釈尊は五百塵点劫のその昔に成仏したと説いたので、それまでに多数の経々で説いて来た応身・報身等、すべての仏身はみな打ち破られたのである。なぜなら、それらの仏身は、いかに荘厳な姿に説かれていても、みなインドで修業し、この世で成仏したと説いているからである。このように、寿量品以前の経で説いてきた仏――因果に約すれば九界が因で仏界が果である――を打ち破ったのであるから、それらの経に説いている成仏のための修業すなわち因も打ち破られてしまった。爾前・迹門の十界の因果をこのように打ち破って、本門の十界の因果を説きあらわした。これすなわち無始無終の、永遠に存在する十界を説きあらわすところの、本因本果の法門である。地獄や菩薩等の九界も、無始常住の仏界に具わっており、仏界も別世界の存在ではなくて、無始常住の九界に具わって、これこそ真の十界互具・百界千如・一念三千である。
かくて爾前経で説かれた仏はどうか、とかえりみるならば、華厳経で説く蓮華蔵世界の中台とか十方台葉の化仏、阿含経で説く丈六の小釈迦、あるいは方等・般若や金光明経や、阿弥陀経や大日経等に説かれている権仏等は、この寿量品の本仏が迹を垂れて示現しているのであって、天の月がしばらく大小の器の水に影を浮べているようなものである。しかるに、諸宗の学者等は、近くは自宗の開祖や先輩たちの邪言に迷い、遠くは法華経寿量品を知らないのである。そして、水にうつる月影が本物の月かと思い、あるいは、水の中へ入って月を取ろうとし、あるいは縄をつけてつなぎとめようとしている。天台は、このように本仏に迷って迹仏に執着する者をさして「天月を知らないで、ただ池の月を観ている」と言っている。
語釈
行布
差別の意。本来、行布とは菩薩の位を五十二位に分けて、次第に行列布置して差別を設ける意味。転じて、ここでは、爾前経において、二乗が作仏できないとして、二乗の衆生を差別していることをさす。日寛上人は、三重秘伝抄に「行布とは即ち是れ差別の異名なり。所謂昔の経経には十界の差別を存するが故に仍未だ九界の権を開せず。故に十界互具の義無し、故に迹門の一念三千を隠せりと云うなり」と釈されている。
発迹顕本
「迹を発いて本を顕す」と読み下す。迹(衆生を教え導くために現した仮の姿)を開いて、本地(本来の境地)を顕すこと。①法華経如来寿量品第十六において、釈尊が始成正覚という迹を開いて久遠実成という本地を顕したことを、天台大師智顗が説明した言葉。②さらに、日蓮大聖人の発迹顕本とは、御自身が竜の口の法難を機に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という迹を開き、生命にそなわる本源的な慈悲と智慧にあふれる仏(久遠元初の自受用報身如来)という本地を凡夫の身のままで、顕されたことをいう。
華厳経の台上十方
華厳経の仏をさして述べられたことば。すなわち華厳経では、盧舎那報身仏が蓮華蔵世界の中台(ちゅうだい)に坐し、蓮華の千葉上に千釈迦、その葉中に百億の小釈迦がありとする。
講義
「一念三千もあらはれず」等の文について
寛記には、迹門に一念三千を説くといえども二失があり、いわく本無今有と有名無実であると。まず本無今有については、いまだ発迹していない、すなわち迹を垂れているので今有である。いまだ顕本していない、すなわち本地下種等が不明であるがゆえ本無である。仏界がすでに本無今有のゆえに九界もまたそうである。これについては、
十法界事に
「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや」(0421:13)
この御文を合わせ拝すべきである。また迹門の一念三千はなぜ有名無実であるかといえば、迹門の中に一念三千の名を挙げているが、一念三千の義がない。ゆえに、
十章抄に
「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る・爾前は迹門の依義判文・迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし」(1274:05)
以上によって、迹門には久遠実成をいまだ説かず、したがって真実の一念三千も顕われていないことを知るべきである。つぎに
「二乗作仏も定まらず」の文について
同じく寛記に、日寛上人はつぎのごとくおおせられている。迹門の二乗作仏は本無今有であり、また有名無実であるがゆえに「定まらず」とあそばされている。迹門の二乗作仏はなぜ本無今有であるかというに、種子を覚知するを作仏と名づけるのであるが、迹門においては根源の種子を覚知していないがゆえに、すなわち、
本尊抄に
「久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至って等妙に登らしむ」(0249:15)
とおおせられたがごとく、迹門には久遠の下種を明かされてない。ゆえに本無である。しかるに、一方では二乗作仏すべしと説き示しているがゆえに今有である。寿量品の「本心を失う」とは籤六に「本所受を忘る故に失心と曰う」とあるごとく、迹門にはいまだ本心に還帰しておらないのである。
つぎに二乗作仏はなぜ有名無実であるかというに、三惑を断ずるを成仏となす。しかるに、迹門の二乗はいまだ見思を断じてないから、まして無明を断じていない。すなわち本源の種子に迷っているゆえに見思惑であり、かつ無明惑に陥っている証拠である。
つぎの御文について「水中の月を見るがごとし」とは、真実の一念三千があらわれざるにたとえ、「根なし草の波の上に浮かべるににたり」とは二乗作仏の定まらざるにたとえられている。これについて、日寛上人はつぎの歌を引用している。すなわち天台は玄七にいわく、「天月を識らず、ただ池月を観ず」と。天月は本門で、池月を迹門にたとう。天月を識らずとは本無であり、ただ池月を観ずるとは今有である。慧信僧都の歌に「手に結ぶ水に宿れる月影の、有るか無きかの世にも住むかな」と。つぎに根無し草とは浮草のことである。小野小町の歌にいわく「侘びぬれば身を萍の根を絶えて、誘う水有らんば往なんぞと思う」と。すなわち二乗作仏がこのうきぐさのごとく浮浪して定まらないとのたとえ、また小野小町は「蒔かなくに何を種とて萍の、波の畝畝生い芿るらん」と。上の句が本無であり、下の句は今有であると。このように日寛上人は古歌を引用されているが、小野小町といえば、平安朝の貴族社会を代表する妖麗淫蕩の美女で、しかも小町の心がわびしいから誘う水が有れば、どこへなりと往こうと思うとのごとき恋歌を引用して、迹門の二失をあらわされていることは、じつにおもしろいことではないか。
ここにおいても、また古来幾多の謬解がある。日講(不受不施派であり教義は本迹一致)はその著・啓蒙に未だ発迹顕本せずの「未」の字は本迹一致の証拠である、すでに顕本しおわれば迹即本となるがゆえに、といっている。しからば「未顕真実」の「未」の字は権実一致の証拠であるのか。すでに真実があらわれおわれば権即実なるゆえに、という非難に対し、日講はかさねていわく「そのような権実の例難は僻案のいたりである。もし必ず一例ならば、宗祖はどうして予が読む所の迹門と名づけて弥陀経を読まないのか」と。すなわち本迹は一致であるが、権実は相違があると、強弁しているのである。このような日講の例難ははなはだ非である。権実・本迹はともに法体に約していうのであり、時代は異なっても、その法体はつねに定まって勝劣がある。読誦は修業に約すのであって、時にしたがい機にしたがって万差である。日講はこれをすら混同してしまったのである。
また日講は、二乗作仏についても本迹一致を立てている。啓蒙にいわく「二乗作仏の下に多宝仏・分身仏がこれを真実であると証明しているから、いまだ発迹顕本しなくても、真の一念三千があらわれ二乗作仏も定まっているのである。しかるに今、開目抄で真の一念三千があらわれず二乗作仏も定まらずとおおせられるのは、久成をもって始成を奪うのであり、その元意は天台過時の迹を破られたのである」と。このような論議はまったく宗祖大聖人の教えに背く大罪である。なぜならば、迹門において多宝・分身が真実なりと証明したことは、権実相対の上に迹門真実と立てられたのである。ゆえに「此の法門は迹門と爾前と相対して云云」(0195:18)とのごとくおおせられたのである。「まこと(実)の一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず」とは本迹相対して迹門を破られた御文である。このように、同じ法門でも、所対にしたがって不同があるのである。ゆえに内外相対して論ぜられる時には「此の仏陀は三十成道より八十御入滅にいたるまで五十年が間・一代の聖教を説き給へり、一字一句・皆真言なり一文一偈・妄語にあらず……一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし」(0188:10)等とおおせられるのである。爾前に対すれば、迹門は真実とおおせられるは当然のことである。
また啓蒙の中に本迹相対を会して「本化の菩薩の知見に約すれば元来が一致の妙法である。しかるに諸文の中には、本迹の起尽を明かすは機情移転に約する一往の義である。再応は本迹一致である」と、これもまた大きな誤謬である。日寛上人はつぎの四義によってこれを破折されている。すなわち第一には、釈迦仏在世の弟子は遠近に迷っていたが、本化の菩薩は本迹ともに明らかに知っておられた。これは妙楽の釈に明らかである。第二に、大聖人は一代諸経の浅深勝劣はもっぱら法華経の明文によって判じられているのに、日講はなぜ本迹相対を機情昇進に約すというのか。第三に、宗祖大聖人はつぎのごとくおおせられている。「日本国じゅうの諸人は、諸乗も一仏乗と開会すれば、いずれの法もみな法華経にて浅深勝劣はないといっている。日蓮がいわく仏法を修行せん人は仰いで仏の金言を守るべきである。無量義経には四十余年未顕真実」と、権実相対すら、かくのごとくおおせられている。まして本迹相対においても、大聖人の御正意は明らかである。寿量品には「如来誠諦之語」「楽於小法」「我実成仏」等々とあって、すべて爾前・迹門を打ち破られた御文である。なぜ日講は機情移転というのか。第四に、たとえ開会した迹門といえども、なお体内の本門にはおよばない。ゆえに十章抄にいわく「設い開会をさとれる念仏なりとも猶体内の権なり体内の実に及ばず」(1275:13)と。また十法界事にいわく「本門顕れ已りぬれば迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に天月水月本有の法と成りて本迹倶に三世常住と顕るるなり」(0423:11)と。すなわち三世常住の水月は三世常住の天月におよばずとの御意である。顕本已後本迹一致なりというのか。
「本門にいたりて始成正覚をやぶれば」等の文について
寿量品において「然善男子・我実成仏」等の文が始成正覚を破る文である。十界の因果とは、十界各具の因果ではなくて、九界を因とし仏界を果とする因果である。蔵教・通教の中にも、依法はただ六界を明せども正報には十界を明かしているが、別円をも含めた四教の因果をことごとく破っているのである。
「九界も無始の仏界」等の文について
寿量品に、本果の常住を説いて「我実成仏已来無量無辺」等といい、本因常住を説いて「我本行菩薩道所成寿命今猶未尽」等と、本有常住の十界互具を説いている。これが真の事の一念三千である。しかし、文底下種・直達正観の事行の一念三千に対する時は、文上の法華経は迹本二門ともに理の一念三千となるのである。本文の元意はじつにここにあり、詳しくは三重秘伝・種脱相対の項で論ずるごとくである。
第二十一章 難信の相を示す
本文
日蓮案じて云く二乗作仏すら猶爾前づよにをぼゆ、久遠実成は又にるべくも・なき爾前づりなり、其の故は爾前・法華相対するに猶爾前こわき上・爾前のみならず迹門十四品も一向に爾前に同ず、本門十四品も涌出・寿量の二品を除いては皆始成を存せり、雙林最後の大般涅槃経・四十巻・其の外の法華・前後の諸大経に一字一句もなく法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず、いかんが広博の爾前・本迹・涅槃等の諸大乗経をばすてて但涌出・寿量の二品には付くべき。
現代語訳
爾前四十余年の経教は法華経迹門に劣り、法華経においては迹門が本門に劣る。しかし、日蓮がここで考えるのに、世間一般の人々にとっては、迹門に説かれた二乗作仏でさえ、爾前経の方が強くて迹門は信じがたい。すなわち二乗作仏の根拠は薄弱のように見える。しかし本門寿量品の久遠実成は、また比較にならないほど爾前で説くインドで成仏したという始成思想が強くて寿量品を信じがたいのである。その理由は、爾前と法華を相対するに、なお爾前の方が説時も長く、経も多くて、法華経が薄弱のようである上に、始成正覚を説く点においては、迹門十四品も爾前経と同一である。本門十四品の中でさえ涌出品、寿量品の二品を除いては、みな始成正覚の思想が存している。最後に、釈尊が入滅する直前に説いた大般涅槃経四十巻をはじめ、そのほかの法華前後に説いたもろもろの大乗経に一字一句もなく法身の無始無終は説いている。しかし応身および報身の本地をあらわして三身常住とは説いていない。どうして多数の爾前経、法華の本門・迹門、涅槃経等の諸大乗経をば捨てて、わずかの涌出・寿量の二品を信ずることができようか。
語釈
爾前づよ・爾前づり
「づよ」は「強」で、「づり」も「づより」の略。
雙林最後
釈尊は八十歳の二月十五日、一日一夜にわたって法を説き入滅した。これが涅槃経で、対告衆は鍛冶工・純陀、説処は拘尸那掲羅(クシナガラ)城外、跋提河のほとりの沙羅双樹の林であった。この説処をとって、涅槃の時を雙林最後という。
大般涅槃経
涅槃経は、釈尊の入涅槃の様子とその時に説かれた教えを記した経。大・小乗で数種ある。大乗では、中国・北涼代の曇無讖訳の「大般涅槃経」四十巻(北本)、それを修訂した中国・劉宋代の慧観・慧厳・謝霊運訳の「大般涅槃経」三十六巻(南本)、異訳に中国・東晋代の法顕訳「大般泥洹経」六巻がある。小乗では、法顕訳「大般涅槃経」三巻等がある。大乗の涅槃経では仏身の常住、涅槃の四徳である常楽我浄を説き、一切衆生悉有仏性を明かして、善根を断じた一闡提も成仏すると説いている。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益に漏れた者を拾い集めて救う教え、捃拾教と呼び、法華経の内容を補足するものと位置づける。また小乗の涅槃経では、釈尊の入涅槃から舎利の分配までの事跡を記している。
法身・報身・応身
三身といい、仏としての本質的な三種の特性。①法身(仏が覚った真実・真理)②報身(最高の覚りの智慧をはじめ、仏と成った報いとして得た種々の優れた特性)③応身(人々を苦悩から救うためにそれぞれに応じて現実に現した姿、慈悲の側面)の三つをいう。
講義
この章は、本迹相対中の第三・難信の相を示すのである。本項においては、法報応三身の顕本は寿量品にかぎり、もろもろの大乗経はもとより、法華経迹門にすら始成正覚を説いている。ゆえに法華経の本門はますます難信であると。
「法身の無始無終は説けども報身・応身の顕本は説かれず」とは、法身の無始無終は一往仮説的なものである。まだ生命の実相を説き切ったものとはいい切れない。宇宙は常住である事は、だれでも一応思う事であるが、その宇宙に仏が現象として常住するという事は観念的なものである。どれもこれも、涌出・寿量を除いた以外の経文は、涌出・寿量の二品の法報応三身常住を説く前提であって、まだ真実を説くものではない。この三身常住を哲学的に説くならば、つぎのごとくではあるが、これは、なかなか信じ得られないところのものである。信じられないからウソだともいえないし、知らないから、ないともいえないであろう。真実の仏教が説くところの三身常住は、生命の実相であって、これこそ真のわれらの生命の状態である。吾人が今ここに、この境涯を説くといえども、読者がこれを諒承するためには、日蓮大聖人の所立の三大秘法の仏法に帰依しなくては、絶対に、証得することができえないであろうということを附言して置く。
結論的にいうならば、吾人が今持つところの肉体そのものが、子供の時より老人にいたるまで、ある傾向にしたがって変化するごとく、われらの今日の肉体と精神とが、永遠に変化して実在する事が、法報応三身の常住で、無始無終の生命観である。
まずわれらの肉体の変化について観察してみよう。われわれは一瞬一瞬に、肉体的にも精神的にも変化しつつ、運命のコースをたどっている。精神的な問題と運命の問題は別にして、肉体の問題のみを論ずるならば、一瞬一瞬に細胞の増衰が行なわれて、そして七年間するならば生理学上、目の玉の芯から骨の髄の細胞まで一新するのである。
この肉体の変化は、精神とか運命とかを根本として変化したものではなくして、われらの生命自体の働きによって変化してきたものである。その生命というものに、一貫した傾向を見ることができる。もし生命すなわち変化させる根本の原動力に定まった一つの傾向および本質がないとするならば、七年間の変化のうちに、長い指が短くなったり、目が小さくなったり、形が変わって鼻の低いのが高くなったりするはずなのに、だいたい赤ん坊の時を基準とした細胞の増衰にすぎない。しかも、三十の時に何かの事件を起こしたとして、それに対する責任は法律に関するとせぬとにかかわらず、四十になっても五十になっても、負わされていることは事実である。たんに肉体論からいうならば、三十七になれば,ぜんぜん別な肉体になっている。七年前の責任を追う必要がなくなるではないか。忘れたという事よりは没交渉(ぼつこうしょう)になってよいはずである。いかんとなれば脳の細胞も一変しているからである。しかるに、その責任はぜんぜん別個になった肉体がこれを負い、またその責任を感ずるのである。これは、生命の連続は肉体と精神活動とを同じく、その連続に関連を持たしているからである。生命とは心肉不二にして、肉体にもあらず心にもあらず、しこうして肉体と精神に絶えず反応を与えるものである。目に見ることもなくして存在し、しこうして、目に見える肉体と精神と運命とに強くはっきりとにじみ出るものである。
われわれの生命は永遠であるとすれば、この世の中で死んで、またつぎの世で生命の活動がなければならぬ。他の宗教では、つぎの世の生命活動を、西方の浄土世界とか天上界とかいうような、架空の世界観をつくって、そこで生きているという。これは法身論の生命観であって、事実の生命観ではない。つぎの世に生まれてくる世界は、われらが今日生活していると同様の娑婆世界である。しからば、世間にいう生まれ変わってくるという、あのことかと思うであろう。事実はごく似たものであるが、生まれ変わるとなれば、ぜんぜん別個の人間とも考えられる。しかしぜんぜん別個ではあり得ないのである。では同じ人かというに、同じ人でもないのである。あたかも七歳のAなる人と四十歳のAなる人とは物質構成、精神活動、運命等はぜんぜん別個でありながら、七歳のAと四十歳のAとが、同一なりと断ずるがごときものなのである。今世のAと来世のAとは、生命の連続においては同一生命の連続であって、肉体にもせよ精神にもせよ運命にもせよ、今世のそのものではないことはもちろんである。それは七歳のAの場合と四十歳のAの場合と同様である。
七歳のAが四十歳にいたるまで、生命の連続であると同様に、肉体も精神も運命も、変化の連続をなしたごとく、今世の生命が来世の生命にいたるとしても、今世の肉体・精神・運命が来世へと変化の連続をなすことは、当然なことである。
ここに大きな疑問が一つ生じる。死んで火で焼いて粉にして、なくなった肉体が、死後までその肉体の連続であるということは、あり得ないではないかということである。
そこで、肉体にもせよ精神にもせよ、目に見ることのできない、しかも厳然たる存在の生命の反映であると、さきに述べたことを記憶より呼び覚してもらいたい。さて、その前に、いかような状態において生命が来世に連続するかという問題を述べてみよう。われらが死ねば、肉体の処分にかかわらず、われらの生命が大宇宙の生命へとけ込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である。この大宇宙の生命体へとけ込んだわれわれの生命は、どこにもありようがない。大宇宙の生命それ自体である。これを「空」というのである。「空」とは、存在するといえばその存在を確かめることができない、存在せぬとすれば存在として現われてくるという実体をさしているのである。「有る」「無い」という、二つの概念以外の概念である。たとえてみれば「あなたは怒るという性分を持っていますか」と問われた時に「持っております」と答えたとする。それなら「その性分を現わして見せてください」といわれても、現わしようがないから「無い」と同様である。「ありません」と答えたとしても、縁にふれて怒るという性分が現われてくる。かかる状態の存在を「空」というのである。われわれの死後の生命も、この「空」という状態の存在である。されば縁にふれて五十年、百年または一年後に、ふたたびこの娑婆世界に前の生命の連続として出現してくるのである。さて、その生まれ出た肉体は、過去の生存、過去の死の状態を通して連続してきた生命を基として、宇宙の物質をもって構成されてくる。時間的の差異はあったとしても、生命が連続である以上、肉体も精神も運命も、過去世の生存の連続であると断ずることができるのである。あたかも碁を打つ人が、一日打って半局面しか打ち切れない。そして、あしたにしようということになって、碁石をバラバラにしてしまって、もとのように箱に収めてしまう。つぎの日、二人がまた碁盤を囲んで昨日打ち終わったところまで、昨日と同様に白黒の碁石を配置する。そして昨日のつづきを打ってゆくようなものである。
生命が過去の傾向を帯びて世に出現したとすれば、その傾向に対応して、宇宙より物質を聚めて肉体を形成するに過去世の連続とみなす以外にないのである。
かくのごとく現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙の生命へとけ込み、「空」の状態において業を感じつつ変化して、なんらかの機縁によって生命体として発現する。かくのごとく、死しては生まれ生まれては死し、永遠に連続するのが生命の本質である。