寿量品得意抄
第一章 爾前・迹門の二失を挙げる
教主釈尊、寿量品を説き給うに、爾前・迹門のききをあげて云わく「一切世間の天・人および阿修羅は、皆、今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり」云々。
この文の意は、初め華厳経より終わり法華経安楽行品に至るまで、一切の仏の御弟子、大菩薩等の知るところの思いの心中をあげたり。
爾前の経に二つの失あり。一には、「行布を存するが故に、なおいまだ権を開せず」と申して、迹門方便品の十如是の一念三千・開権顕実・二乗作仏の法門を説かざる過なり。二には、「始成を言うが故に、なおいまだ迹を発かず」と申して、久遠実成の寿量品を説かざる過なり。この二つの大法は、一代聖教の綱骨、一切経の心髄なり。
現代語訳
教主釈尊が寿量品を説かれた時、爾前および迹門で衆生が聞いてきたことを挙げていうには「一切世間の天人および阿修羅は、皆、今の釈迦牟尼仏は釈氏の王宮を出て伽耶城を去ること遠くない道場に坐って、阿耨多羅三藐三菩提を得たと思っている」と。この文の趣意は、初めの華厳経から終わりは法華経安楽行品に至るまで、一切の仏の御弟子や大菩薩等が知るところの思い・心中を挙げたのである。
爾前の経には二つの失がある。一つには「行列配布を設けるゆえに、なおいまだに権を開いていない」というもので、迹門方便品の十如是の一念三千・開権顕実・二乗作仏の法門を説かない失である。二には「始成正覚をいうゆえに、なおいまだに迹を発わない」というもので、久遠実成の寿量品を説かない失である。この二乗作仏と久遠実成という二つの大法は、一代聖教の網骨であり、一切経の心髄である。
語釈
寿量品
如来寿量品第16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211:17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752:04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753:07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。
爾前
爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
迹門
本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
阿修羅
阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも書く。非天、非端正、非善戯、非類、無酒、不飲酒、障蔽、質諒、劣天、非類と訳す。六道のひとつで修羅はこの略称。帝釈に敵対する鬼神で大別して三つの意味がある。①無端の義・醜い容貌をしていること。②非天の義・天にあらざること、悪がその戯楽だからである。③無酒の義・悪業の報いにより、酒が得られないのである。戦闘を好む鬼神であり、十界に約し、生命論のうえからいえば、怒りの生命をいう。常に内には慢心が強く、心が曲がっているため、すなおに物事を考えることができず、正しいことをいわれてもすぐにカッとなる。しかも外には礼儀をわきまえているような生命の姿である。「諂曲なるは修羅」とあるように諂いっ曲がれる心を修羅とし、闘争を好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口をいいあうことである。
今の釈迦牟尼仏
たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、インド応誕の釈尊。
釈氏の宮
釈の宮ともいう。迦毘羅衛国の王城、釈迦族の居城、釈尊の生地。ヒマラヤ山麓・ネパール国・タライ地方にあったとされる。
伽耶城
中インド・摩竭提国のこと。インド北東部ビハール州ガヤにあたる。この近くで釈尊が悟りを開いたという仏陀伽耶がある。
道場
①仏の常道の場所。②仏道を成するための修行や行教法。③仏道を修行する場所。④仏を供養するところ。⑤寺院のこと。
阿耨多羅三藐三菩提
梵語anuttarasamyak sambodhiの音訳。無上無編知・無上正覚等と訳す。無上きわまりない仏の覚知、仏智が一切の迷いを明らかにして、深く諸法の義を極め、円満自在であること。すなわち、仏の智慧は無上清浄で、正等に偏頗なく一切にゆきわたるという意。分けると阿耨多羅(anuttara)は無上または無答、三藐(samyak)は正等または正徧、三菩提(sambodhi)は正覚、正知と訳す。
華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
安楽行品
法華経安楽行品第14のこと。迹門14品の最後である。身・口・意・誓願の四安楽行が説かれ、悪口・迫害されず、安穏に妙法を修行するには、いかにしたらよいかを示し、正像摂受の行を明かしている。
行布
差別の意。本来、行布とは菩薩の五十二位を分けて、次第に行列布置して差別を設ける意味。転じて爾前経において、二乗が作仏できないとして、二乗の衆生を差別していることをいう。
方便品
妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を住如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。
十如是
法華経方便品第2で説かれた、如是で始まる10の語。すなわち如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等。仏が覚った諸法実相を把握する項目として示されたもの。天台大師智顗が一念三千の法門を立てる際、これに依拠した。方便品には諸法実相について、「唯仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」(法華経108㌻)と示されている。ここで諸法実相を把握する項目として「如是」で始まる10項目が挙げられており、それ故、十如是・十如実相という。①相とは、表面に現れて絶え間なく一貫している性質・性分。②性とは、内にあって一貫している性質・性分。③体とは、相と性をそなえた主体。これら相・性・体の三如是は、事物の本体部分である。これに対し、以下の七如是は、本体にそなわる機能面を表している。④力とは、本体に内在している力、潜在的能力。⑤作とは、内在している力が外界に現れ、他にもはたらきかける作用。次の因・縁・果・報は、生命が変化していく因果の法則を示している。⑥因とは、本体に内在する直接的原因。⑦縁とは、外から因にはたらきかけ、結果へと導く補助的原因。⑧果とは、因に縁が結合(和合)して内面に生じた目に見えない結果。⑨報とは、その果が時や縁に応じて外に現れ出た報いをいう。⑩本末究竟等とは、最初の相(本)から最後の報(末)までの九つの如是が一貫性を保っていることをいう。十如是のそれぞれの在り方は、十界それぞれの生命境涯に一貫しており、十界それぞれで異なる。しかし、衆生が十如是を平等にそなえているという側面、生命境涯の因果の法則は、十界に共通である。これは、十界のいずれもが、内にそれぞれの因をそなえており、それが縁に応じて果を生じ、報として現れることを示している。したがって、十界のどの衆生も、仏界の縁を得れば、仏界を現して成仏できる。
一念三千
天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(0189:04)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
開権顕実
「権を開いて実を顕す」と読む。権は方便、実は真実の意。法華経以前の諸経の教え(三乗)はすべて方便にすぎず、法華経こそ真実の教えであることを表したもの。教理に関していい、実践上は開三顕一 という。「権」は権教である40余年の爾前経、「実」は法華経をさす。
二乗作仏
「二乗」とは声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
一代聖教
釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
一切経
釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
講義
本抄は内容的に、開目抄に述べられているところと、きわめて似ており、あるいは、開目抄を中心に、寿量品に関する御文をつなぎ合わせて、後世つくられた書ではないかとする説もある。したがって、御述作の日付についても、仮に大聖人が自ら述作された書であるとしても、文永8年(1271)4月14でなく、もっと後であろうという説が有力である。
そうした成立上の疑点はあるにせよ、法華経本迹二門を爾前と相対し、迹門と本門を比較して寿量品の大切なるゆえんを明らかにされ、さらに「寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ、十方三世の諸仏の母」と、寿量文底独一本門の立場を鮮明にされており、非常に重要な御書であることは確かである。
むしろ、開目抄とまったく一致していることは本抄の内容が日蓮大聖人の教えであることに間違いないことを裏づけているわけであって、爾前、迹、本、文底の各法門が、このように簡明に学ぶことができるのは、それ自体、なによりも重要なことといわなければならないであろう。
まず、この第一章では、寿量品が、爾前経から法華経迹門までを一貫している始成正覚をはじめて打ち破り、久遠実成を明かしたことを述べられている。
そもそも、爾前経には二つの失がある。一つは「行布を存する」ことであり、これは爾前諸教が方便権教と呼ばれるゆえんである。もう一つは、釈尊がインドに応現してはじめて仏になったという始成正覚を説くことで、これは垂迹の法門といわれる理由になっている。
そのうち、“行布”を打ちやぶったのが、法華経迹門方便品の「諸法実相・十如是」であり、第二の“始成”を打ち破ったのが、法華経本門寿量品の久遠実成の説法である。この方便品の十如是と寿量品の久遠実成の二つこそ、「一代聖教の綱骨、一切経の心髄」であると強調されている。
ここで明らかにしておかなければならない点は、爾前経で「行布を存する」と「始成を言う」との二つが、なぜ“失”なのか、逆にいえば、十如是・一念三千等、また久遠実成が法華経で説かれたことに、どのような意義があるのか、ということであろう。
まず、爾前経を行布を存することと、法華経でそれを打ち破って諸法実相・十如是等を説いたこととの関係および、その意義を考えていよう。
「行布」とは、本来、菩薩の修行を五十二位等に分けて、行列布置して差別を設ける意である。つまり、五十二の位を一つ一つ登って次第に成仏の境地に近づくのである。この修行はなみなみならぬ長時を要し、いわゆる歴劫修行となる。したがって、九界と仏界との間には容易に埋められない隔たりがあるわけである。
しかも、このように仏の境地に近づく唯一の道が長遠の菩薩道であるのみならず、菩薩道に至るための、他の八界の距離も、平等ではない。地獄・餓鬼・畜生の三悪道は、菩薩道に到達するには、はるかに遠く、いったん人・天に至ってのち、ようやく菩薩道に進むのである。
とりわけ声聞・縁覚の二乗の道に入った者は、あたかも迷路に入り、泥沼に沈み、二度と出られなくなった者のように、菩薩道の正道には絶対に入れないとされた。
したがって、行布を存する爾前経の教えがなぜ“失”であるかは明らかである。それは「永不成仏」といわれるように二乗を永久に成仏できないものとし、他の界についても、容易に成仏できないとする教えであるからである。これは、一切衆生を成仏させることを本願とする仏にしてみれば、まことに不本意の教法といわなければならない。
ゆえに釈尊は、四十余年未顕真実といって、行布を存する爾前諸経を、方便権教と破り、法華経こそ真実を説こうと宣言し、まず迹門方便品で、諸法実相・十如是を説いたのである。
この諸法実相・十如是の意味は、大聖人が「諸法実相抄」に明らかにされているように十界の依正の当体がことごとく一法も残さず妙法蓮華経のすがたであるということである。すなわち仏・菩薩も二乗も六道の各界も、みな平等に実相があらわれた姿であり、行布・差別はまったくないということである。
ただ異なるのは、わが身が実相即ち妙法の当体であることを、みずから覚りきわめているのが仏であり、わが身が妙法の当体であることを知らず、煩悩に迷っているのが凡夫であるということである。どの界が成仏に近く、どの界が遠いという差別は、まったくないのである。
したがって、二乗も、永久に成仏できないなどということはなく、むしろ、この説法によってもっともはやく目覚め、成仏の記別を授けられるのである。また、成仏しがたいとされていた悪人も提婆達多を代表とし、女人の竜女等を代表として、法華経の教えの信受によって、同じく成仏の授記を受ける。
しかし、この迹門の教えでは、仏としての釈尊の生命はこのインドで成道することによってはじめて実現したにすぎない。理としては一念三千を説いても、事の上では、もともとあるのではなく、たまさか、ここにあらわれているだけである。
このように、たまたま、この世にしばらくあらわれているにすぎないのを、たとえて水面に映る月の影になぞらえ、影すなわち迹の法門と呼ぶのである。いつの時代の、いずれの世界の衆生にとっても、変わらず、成仏のための根源の法であるためには、事実のうえで、久遠の昔から永劫の未来にわたって常住しているのでなければならない。この事実の上での常住が明らかにされ、影でなく本体が確立されたのが、本門寿量品の説法なのである。
第二章 寿量顕本の意義を述べる
迹門には二乗作仏を説いて四十余年の二つの失・一つを脱したり、然りと雖も未だ寿量品を説かざれば実の一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水にやどる月の如く根無し草の浪の上に浮べるに異ならず、又云く「然るに善男子我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗劫」等云云、此の文の心は華厳経の始成正覚と申して始て仏になると説き給ふ阿含経の初成道・浄名経の始坐仏樹・大集経の始十六年・大日経の我昔坐道場・仁王経の二十九年、無量義経の我先道場・法華経方便品の我始坐道場等を一言に大虚妄なりと打破る文なり、本門寿量品に至つて始成正覚やぶるれば四教の果やぶれ四教の果やぶれぬれば四教の因やぶれぬ、因とは修行弟子の位なり、爾前迹門の因果を打破つて本門の十界因果をときあらはす是れ則ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界にそなへて実の十界互具・百界千如・一念三千なるべし、
現代語訳
迹門には二乗作仏を説いて、四十余年の二つの失のうち一つを脱れた。ところがまだ、寿量品を説かないので真実の一念三千もあらわれず、したがって二乗作仏も決定しない。あたかも水にやどる月のように、また根無し草が浪の上に浮かんでいるのに異ならない。
またいうには「しかるに善男子よ、私が実に成仏してからすでに無量無辺百千万億那由佗劫である」と、この文の意味は、華厳経の「始成正覚」といって、始て仏になったと説いている文、阿含経の「初成道」の文、浄名経の「始坐仏樹」の文、大集経の「如来成得仏道、始十六年」の文、大日経の「我昔坐道場」の文、仁王経の「二十九年」の文、無量義経の「我先道場」の文。法華経方便品の「我始坐道場」の文等を、一言のもとに大虚妄なりと打破した文である。
本門寿量品に至って、始成正覚が破られたので、四教の果は破られ、四教の果が破られたので四教の因も破られたのである。因とは修行中の弟子の位のことである。爾前迹門の因果を打ち破って本門の十界の因果を説き顕す。これがすなわち本因本果の法門である。つまり、九界も無始の仏界に本来具わり、仏界もまた無始の九界に具わってこそ、真実の十界互具・百界千如・一念三千なのである。
語釈
始成正覚
釈尊が19歳で出家、30歳で成道したことをいう。
初成道
インド生誕の釈尊が、菩提樹下で初めて悟りを成じたこと。
我始坐道場等
法華経方便品第2に「我始め道場に坐し、樹を観じ亦経行して、三七日の中に於いて、是の如き事を思惟す」とある。
四教の果
四教とは蔵・通・別・円教、果とは寿量品以前の四教の仏。
四教の因
四教とは蔵・通・別・円教、因とは成仏の因たる修行で六度万行の歴劫修行である。本門にいたって始成正覚を打ち破ったので、爾前迹門の仏果が破れたので、迹門爾前の修行もまた、むなしいことになってしまったのである。そして、真実の十界互具・百界千如・一念三千の仏法が説き示されるのである。これが本因本果の法門である。
爾前迹門の因果
法華経迹門および爾前経で説かれる因行と証果。
本門の十界因果
法華経本門で説かれる九界の因と仏界の果。
本因本果の法門
成道の根本原因と、それによって証得した仏果を明かしている法門のこと。
九界
十界の仏界を除く、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩をいう。仏界が悟りの境地であるのに対して、迷いの境界をさしている。
無始の仏界
久遠の昔から衆生の一念に本来具わって常住している仏界のこと。
無始の九界
久遠の昔から衆生の一念に本来具わって常住している九界のこと。
十界互具
地獄から仏界にいたる十界のおのおのに十界を具していること。方便品では、凡下の衆生に仏知見がそなわっていると説き、寿量品では三妙合論して仏界常住を説く。この十界互具・百界は、それぞれに十如是を具し、さらに三世間を具して、一念三千となる。ゆえに開目抄には「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(0189:04)と仰せである。ただし、末法における真実の十界互具については、われわれが唱える題目・御本尊を仏界として、唱え奉るわれら衆生は九界であり、この境智冥合をもって十界互具というのである。
百界千如
法華経迹門を与えていえば、理の一念三千であるが、奪っていえば百界千如に過ぎない。
講義
爾前経および法華経迹門まで一貫してとらえてきた「始成正覚」を寿量品で打ち破り、久遠実成を明かしたことが、どのような意義を持つかを述べられている。
爾前迹門の因果を打破つて本門の十界因果をときあらはす是れ則ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界にそなへて実の十界互具・百界千如・一念三千なるべし
爾前迹門の始成正覚の教えにおいては、釈尊自身、過去の長時にわたる菩薩道の修行を経て今世に生まれ、しかも、なみなみならない難行苦行を修して成道したのである。その過去の最たるものとしては、迹門化城喩品の三千塵点劫にまで及ぶ。この世にあらわれている仏としての生命は、そうした過去の長い因位の修行の結果としもたらされたものであるということである。
しかるに、本門寿量品では、五百塵点劫という久遠の昔に、菩薩道を行じて仏になり、以来、この娑婆世界で説法教化しているのだという。その教化のために「或示己身・或示他身」とあるように、仏身を現ずることであれば、九界の身を示すこともある。しかし、仏としての生命は常住であるというのである。
この説法によって、爾前迹門の「四教」で示してきた仏界は、常住の本仏が衆生化導のために方便として仮に示したものとなる。これが「四教の果やぶれ」である。四教の示す仏界が破られると、そうした仏界に至るための因位の修行も、当然、方便となり、これもまた破られたことになる。「四教の果やぶぬれぬれば四教の因やぶれぬ」というのがそれである。
そのように、爾前迹門の因果を打ち破って本門寿量品に明かされた因果は、もともとの仏の生命に具わっている九界の因、本来常住の九界に具わっている仏界の果である。つまり、爾前迹門では、長い修行ののちに仏になるのであるから、九界と仏界とが異時であるのに対し、本門寿量品によってはじめて、九界の因と仏界の果とが俱時となる。ゆえに十界互具も事実の裏付けを得たものとなり、真実の一念三千法門が完成するのである。
すでに述べたように、迹門では、十界の衆生の生命が本来、妙法の当体であることを明かした。この、わが身が妙法の当体であることを覚知するのが成仏であるが、これを覚知するには、九界の智では、不可能である。ゆえに、信をもって慧に代え、信によって道に入ることができるとしたのである。
だが、こうした信は仏在世の人々にとっては、仏に接することによって起こすことが可能であるが、滅後、仏に接しえない人々にとっては、具体的に起こすことは至難である。したがって、事実のうえで悟りをあらわしている仏に代わる、悟りの生命の当体が必要となる。すなわち、法体の確立が問題となるのである。
この法体も、ただ今生にたまたま具現されたものであっては「水にやどる月」「根無し草の浪の上に浮べる」ようなもので、未来永劫に衆生が拠りどころとすることはできない。本門寿量品で、釈尊が久遠実成に明かされたことの意義は、この滅後の衆生のための法体を確立しようとした本門において、この法体の常住を明確にしたことにあったといってよい。
では、本門は、どのような形で、この法体をあらわしているか、それが虚空会の儀式である。すなわち、宝塔が虚空に浮かび、釈迦・多宝の二仏がその中に並坐し、地涌の菩薩はじめ十界の衆生が列なり行なわれた荘厳な儀式の姿が、法体の相貌をあらわしているのである。
もとより、この法華経の説法の文上にあらわれたもののみでは、まだ、その正体が明らかではない。本門寿量品で明かした釈尊の久遠成道において、その成道のために本因の修行を根本としたのが南無妙法蓮華経である。だがそれは、文の上には示されていない。この文の底に秘沈されている妙法が取り出されて明らかにされてはじめて、法体は完成される。この完成は、釈尊の滅後、久遠元初の自受用報身の再誕として出現された日蓮大聖人によってなされたのである。
第三章 本門寿量の肝心を示す
かうして・かへてみるときは華厳経の台上盧舎那・阿含経の丈六の小釈迦・方等・般若・金光明経・阿弥陀経・大日経等の権仏等は此の寿量品の仏の天月のしばらくかげを大小の・うつはものに浮べ給うを、諸宗の智者学匠等は近くは自宗にまどひ遠くは法華経の寿量品を知らず水中の月に実月のおもひをなして或は入つて取らんとおもひ・或は繩をつけて・つなぎとどめんとす、此れを天台大師釈して云く「天月を識らずして但池月を観ず」と、心は爾前・迹門に執着する者はそらの月をしらずして但池の月を・のぞみ見るが如くなりと釈せられたり、又僧祇律の文に五百の猨・山より出でて水にやどれる月をみて入つてとらんとしけるが・実には無き水月なれば月とられずして水に落ち入つて猨は死にけり、猨とは今の提婆達多・六群比丘等なりとあかし給へり。
一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし、根無き草はひさしからず・みなもとなき河は遠からず親無き子は人に・いやしまる、所詮寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ十方三世の諸仏の母にて御坐し候へ、恐恐謹言。
四月十七日 日 蓮 花 押
現代語訳
こうしてかえりみるとき、華厳経の蓮華台上の盧舎那仏、阿含経の丈六の小釈迦、方等・般若・金光明経・阿弥陀経・大日経等の権仏等は、この寿量品の本仏の天月が、しばらくその影を大小の器物に浮かべたようなものである。だがそのことを諸宗の智者学匠等は、近くは自宗の依経の本来の意味にまどい、遠くは法華経の寿量品を知らない。それゆえに、水中の月を真実の月と思い込んで、ある者は水に入って取ろうと思い、ある者は縄をつけてつなぎとめようとするのである。
こうした諸宗の智者学匠の誤りを、天台大師は解釈して「天の月を識らずにただ池に映る月を観ている」と述べている。文の意は、爾前迹門に執着する者は、天の月を識らずにただ池に映る月を望み見るようなものである、と釈されたのである。また僧祇律の文に、五百の猿が山から出てきて水に映っている月を見て、入って取ろうとしたが、実際にはない水の月なので、月を取れずに水に落ち入って。猿は死んでしまった。この猿とは今の提婆達多と六群比丘等である、と明かしている。
一切経の中にはこの寿量品がなかったならば、天に日月がなく、国に大王がなく、山海に宝玉がなく、人に魂がないようなものである。それゆえ寿量品なくしては一切経は無益な経となるであろう。根のない草は久しく生えていない。源のない河は遠くまで流れない。親のない子は人に賤しめられる。所詮、寿量品の肝心・南無妙法蓮華経こそが十方三世の諸仏の母であらせられる。恐恐謹言。
四月十七日 日蓮 花 押
語釈
華厳経の台上盧舎那
華厳経の教主である盧舎那仏のこと。台上は盧舎那仏が中央の蓮華台の上に坐していることをいう。
阿含経の丈六の小釈迦
阿含経に説かれる釈尊のこと。34の智慧心をもって見思の二惑を断じて成仏の姿を示した仏。凡夫・二乗・初地以前の菩薩に対して応現する一丈六尺の仏身であり、老比丘の相をしている。八相成道の仏身で、三身のうちでは応身であり、四土のうちの凡聖同居土に住している。華厳・方等・般若時の勝応身、他受用報身等の釈尊にくらべて劣小であるゆえに小釈迦という。
権仏
権は方便の意で、釈尊が衆生教化・誘引のために説いた方便経説中の諸仏のこと。大日如来、阿弥陀仏、薬師如来等。
智者
物事の道理をわきまえた智慧ある者。諸宗の祖師をいう場合もある。
学匠
大寺にあって学問を修めた僧。仏道を修めて師匠の資格ある僧。②学問に通じた人、学者。
天台大師
(0538~0597)。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。
【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。
提婆達多
提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
六群比丘
釈迦の弟子の中で、悪事や非法行為を働き、釈迦や弟子などを困らせたとされる六6人をいう。釈迦の僧団において多くの戒律が制定されたのは彼らのためといわれる。なお『摩訶僧祇律』7では、彼らを提婆達多派の徒とする。
一切経
釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
十方三世の諸仏
ふつうは三世十方の諸仏という。「三世」とは過去・現在・未来、「十方」とは東・西・南・北・東南・西南・西北・東北・上・下をいう。千日尼御前御返事には「法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏・未来・星宿劫の千仏・乃至華厳経・法華経・涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏・尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり」(1315:02)とある。
恐恐謹言
恐れかしこみ申し上げるの意で、手紙の最後に書くていねいなあいさつ語。
講義
爾前迹門の諸経に執着する諸宗の智者学匠を痛烈に破折されている。
すなわち、池や器の水表に映った月影を本物の月と思ってる愚か者とおなじであると、われわれは、日蓮大聖人の御教示によって、こうした本と迹の違いを明確に知り、このように明らかな道理をわきまえられない諸宗の人々の愚かさを、むしろ不思議と思うのであるが、もし大聖人に教えられなかったら、おそらくこれを知ることはできなかったであろう。真実は、知ってしまえば、当然のように映るのであるが、はじめてこれを覚った人の苦心と偉大さは、並み大抵でなかったのである。むしろ、これほどまでに多くの人々が、長い間にわたって、そうした誤りにとらわれ、そこから抜け出せないでいることのなかに、人間の本性の一端を認めることが大事である。なぜなら、それが人間の本性につながっているならば、ひとたび正しい教えに目覚めても、将来、ふたたび誤りに陥らないとは限らないし、その時、みずからの戒めのために、この考察はかならず大きい意義をもつであろうからである。
爾前迹門の仏に対する考え方を大別すると、小乗経の小釈迦のように、一往、釈迦を根本としながらも、劣った仏とするのが一つの型である。もう一つは、現実にこの世に現れた仏つまり釈迦は仮の存在であって、真実の仏は、穢れたこの世界から遠く離れた浄土にいるとする、権大乗経の考え方である。法華経迹門は、教法の内容については権大乗教のそれを打ち破ったが、仏の立場に関しては、まだ権大乗の考え方の枠を出ていないとみてよい。このゆえに、迹門を根本とした天台仏法では、薬師、阿弥陀等、他土の仏を本尊として用いたのである。
さて、このような爾前迹門の仏に執着してきたことが、人間の本性と結びついているというゆえんは、次のことである。人間は、ひとたびそれを得れば、なにも努力しなくとも安楽な生涯が保証されるような、いわゆるユートピアを求める気質をもっている。宗教の多くは、この世界が限りない苦難を伴う、穢れた世界であることを認め、しかもユートピアを得たいという願望から出発している。必然的に、そのような理想郷は、この世界とは別のところに求めざるをえない。キリスト教やイスラム教の天国がまさにそれであり、仏教の権大乗の諸経のなかで説かれた十方の他土、そしてそこにいる仏というのも、これと同じ考え方の反映であった。
仏教において、他土の仏を立派であるとすることは、同時に、この世に現実に出現している釈迦を、仏といってももっとも卑小な仏とすることでもある。小乗教の丈六の釈迦はその端的なあらわれである。迹門まで一貫している始成正覚も、同じである。なぜなら、始成正覚ということは、あらゆる仏の中でも、もっとも新来の仏ということになるからである。
法華経にいたって、すでに迹門の哲理は、理想の境地を、現実のこの世界から離れたところに求めるべきではないことを明らかに示しているのである。だが、この世界こそもっとも尊ぶべき所であるとはしていない。
本門寿量品ではじめて、他のいかなる仏よりも早く、久遠五百塵点の昔に成道した釈尊が、それ以来、ずっと常住して説法教化してきた所が、この娑婆世界であると明かされたのである。すなわち、この世界こそもっとも尊ぶべき所であり、これ以上の浄土は他にありえないことになったのである。
だからといって、この世が汚穢の世界でなくなったわけではない。真実の仏法に目覚めた人々の、不断の努力によって、生命の次元から変革・蘇生されるところに、穢土が即、浄土となるのである。つまり、娑婆即寂光となるのであって、これ以外に理想郷を得る道はありえない、これが寿量品の説かれたとによって、明らかになった結論である。
この寿量品の教える原理は、爾前権教のような、他を頼る安易さや、ひとたび得れば、あとは努力しなくとも保証されるという空想性を、激しく排斥したものでもある。人間の本性としては、これは、なじみがたい教えである。しかし、真実は、これ以外にない。この真実を激しく見つめ、寿量品の秘めている妙法を受持して立ったときに、汚穢に満ちた現実の人生と社会を変革する勇気と智慧と希望に輝く、自立の人間像が現出するのである。
まさしく「一切経の中にこの寿量品ましまさずば、天に日月無く、国に大王なく、山海に玉なく、人にたましゐ無からんがごとし」である。「此の寿量品」がなければ、人間完成を理想とし、目標として説かれた仏教をはじめ、一切の哲学は「いたずらごと」となってしまうのである。
この一切の教法、哲学、学問の根本となって、人間を真に完成された人間としていく仏法の極理の正体こそ、「寿量品の肝心南無妙法蓮華経」である。この一文に、釈尊の法華経がその文上にあらわしえなかった仏法の究極の法体を明らかにした日蓮大聖人の仏法の位置が簡潔に述べられているのである。