常楽我浄御書

 出でさせ給いて諸大乗経をかんがえ出だし、十方の浄土を立て、一切の諸法は常楽我浄と云々。
 その時、五天竺の十六の大国、五百の中国、十千の小国、無量の粟散国の諸の小乗経の無量無辺の寺々の衆僧、一同に蜂のごとく蜂起し、蟻のごとく聚集し、雷のごとくなりわたり、一時に聚集して、頭をあわせてなげいて云わく「仏在世にこそ、五天の外道、我らが本師・教主釈尊とはあらそいしか。仏は一人なり、外道は多勢なりしかども、外道はありのごとし、仏は竜のごとく、師子王のごとくましませしかばこそ、せめかたせ給いしか。これは、それにはにるべくもなし。馬鳴は一人なれども、我らは多人なれども、代すえになれば悪はつよく善はゆわし。仏の在世の外道と仏法とは水火なりしかば。

現代語訳

出現されて、諸大乗経を勘え出し、十方浄土を立て、一切の諸法は常楽我浄であると宣言された。

その時、全インドの十六の大国・五百の中国・一万の小国・かぞえきれないほどの粟散国にある諸の小乗経の無量無辺の寺々の衆僧が蜂のように蜂起し、蟻のように群がり集まり、雷のように鳴りわたって、ある時、一所に集って頭を合わせて嘆いて言った。「仏の在世であったから、全インドの外道が、我らの本師である教主釈尊と争ったが仏は一人であり、外道は多勢であったけれども、外道は蟻のようなものであり、仏は竜のようで、また師子王のようであられたので、責め勝たれたのである。我々は仏には似るべくもないので、馬鳴は一人で我等は多勢であるが、代が末になっているので、悪は強く善は弱いのである。仏の在世の外道と仏法とは水火の違いがあった。

 

語句の解説

大乗経

仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。

 

十方の浄土

十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。浄土とは穢土に対する語で五濁に染まっていない清浄な国土をいい、声聞・縁覚・菩薩。仏の四聖の住処とされる。

 

常楽我浄

四徳。また四徳波羅蜜という。仏の境地や大乗の涅槃にそなわる四つの徳をいう。常徳は仏の境地、涅槃が永遠に不変不改であること。楽徳は無上の安楽であること。我徳は自我の生命が自由自在で他からなんの束縛を受けないこと。浄徳は煩悩のけがれをうけないこと。

 

五天竺

インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。

 

十六の大国

大国とは土地が広く人口の多い国。南インドにはたくさんの国があり、大きさによって大中小とわけた。仁王経受持品には十六の大国の名前を列記している。すなわち、「吾今三宝を汝等一切諸王に付嘱す。?薩羅国、舎衛国、摩竭提国、波羅奈国、迦夷羅衛国、鳩尸那国、鳩?弥国、鳩留国、?賓国、弥提国、伽羅乾国、乾陀羅国、沙陀国、僧伽陀国、揵崛闍国、波提国、なお十六大国については、経によってさまざまな説がある。

 

五百の中国・十千の小国・無量の粟散国

大国とは土地が広く人口の多い国。南インドにはたくさんの国があり、大きさによって大中小とわけた。一説には人口10,000人以上の国を大国、4,00010,000人の国を中国、7003,000人の国を小国、以下国とは呼ばず、200人以下は粟散国としている。

 

小乗経

仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。

 

外道

仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。

 

梵語ナーガ漢訳して竜という。神力ある蛇形の鬼神でその王を竜王という。畜生類の代表で八部衆のひとつ。水中または地中に住して時に空中を飛行し、天に昇って雲・雨・雷電を自在に支配するとされる。中国の神話においては四神の一つとして東方に配されており、体は大蛇に似ていて、背に鱗、四足に各五本の指、頭に日本の角、長い耳と長い髭をもつとされる。

 

師子王

ライオンのこと。百獣の王であるとされ師子王という。仏は人中の王であることから師子にたとえる。

 

馬鳴

馬鳴菩薩のこと。二世紀ころ、中インドに出現したといわれる大乗の諭師。付法蔵の代十二祖・アシュヴァゴーシャのこと。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば「舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰伏した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」五巻、「?稚梵讃」一巻などがあり、「大乗起信論」一巻なども馬鳴の作といわれている。

 

講義

本抄は、前後が欠けているために、御述作の年月日、場所、宛名ともに全く不明である。建治年間に御述作との説もある。

しかし、信徒に与えられた御消息の一つであったと推測される。御真筆は京都・妙顕寺にある。

本文の内容は、馬鳴菩薩が大乗仏教を興隆したときに、小乗教を奉ずる僧達が激しく対立した様子を述べられている。

馬鳴菩薩が説いた大乗教の内容は「十方の浄土を立て一切の諸法は常楽我浄」というものであった。これに対し、小乗の僧達は、仏は十方世界のなかで釈迦一仏しかなく、一切法は無常・苦・無我・不浄である、と主張したのであった。

 

諸大乗経をかんがへ出し十方の浄土を立て一切の諸法は常楽我浄と

 

馬鳴菩薩が唱えた大乗仏教の教えの一端が説かれている。

この教えが、なぜ、既成の小乗仏経徒を嘆かせ狼狽させ、はては、馬鳴を外道・悪人とまで非難させたかということであるが、それは、大乗諸経典の教えが彼ら小乗経徒の信奉していた阿含経とは、表面的にとらえると正反対で、外道に近接した教えであると錯覚されたことになる。

日蓮大聖人は一代聖教大意において、小乗阿含経の教えに関して「此の教の意は六道より外を明さざれば三界より外に浄土と申す生処ありと言わず又三世に仏は次第・次第に出世すとは云へども横に十方に並べて仏有りとも云わず」(0390:03)とも「外道は常心楽受我法浄身仏は苦.不浄.無常巻無我と説く」(0392:01)とも述べられている。最初の御文で「此の教」とは阿含経である。

すなわち、阿含経の教えは、この三界の世界以外に浄土があるとは説かず、また、仏に関しても、過去の六仏、現在の釈迦仏、未来の弥勒仏、というように、時間的には三世に次第して出世すると説くけれども、空観的に、十方のあらゆる場所に、同時に、多数の仏がいるとは述べなかった。また、外道が、現実の世界は常・楽・我・浄であると主張したのに対し、阿含経での釈尊は、逆に苦・不浄・無常・無我と破折したのである。

このような阿含経の教えを護持していた小乗教徒が、十方に浄土があると立て、一切諸法は常楽我浄であるとする馬鳴菩薩が出現したとき、かえって釈尊と外道との論争が再び蘇ったのも無理はなかったであろう。これは多分に、小乗教徒側の誤解に端を発しているのである。

まず、十方に浄土が存在するとの考え方について。

先の一代聖教大意からも明らかなように、阿含小乗経の教えは、過去・現在・未来の三世に次第して、それぞれに出現する仏は決まっているとする。過去の仏については、毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏・拘留孫仏・拘那含仏・迦葉仏の六仏があり、現在仏の釈迦仏を加えて過去七仏ともいう。

未来の仏については弥勒仏が決定している。

釈迦仏は、滅後においても567000万歳を経て出現する弥勒仏までの間、衆生救済の働きをするとされているので、現在仏でもある。

このように、過去・現在・未来と順次に仏が三界六道の娑婆世界に出現して衆生を救うことになっているので、娑婆世界以外の十方世界に浄土があると説く必要はなかったといえる。また、このように、仏は三世に決まっているから阿含小乗教を信奉する弟子達は“仏に成る”とは考えずに、ただ仏の教えを聞いて、解脱して阿羅漢に成ることのみを目指して修行したのである。それゆえ、彼らは声聞と呼ばれる。そして後に、縁覚を加えて二乗と呼ばれることになる。

これに対し、大乗経典では、それまでの阿含経の教えで、自分の解脱のみを考えて衆生の救済を行わなくてよいという考え方に陥った弟子達を破折して、これを「小乗」あるいは「二乗」と位置づけたのである。

諸大乗教にあっては、仏の真意はだれびとをも仏にするところにあったことを述べ、その理論的裏づけとして、だれびとも菩薩であるとともに、だれびとも仏性があると説いたものである。そして、仏になるためには、自らが仏性を有する存在であることを禅定により深く信じていくと同時に、菩薩として衆生救済の行に励まなければならないとする。

このように、だれびとも菩薩であり、仏になることができることから、必然的に、いつ、いかなる場所にも、菩薩や仏が存在していることになるのである。逆にいえば、いつ、どこにでも、仏・菩薩が存在すると説いてこそ、だれびとも菩薩であり、仏に成り得るとの教えが説得力をもつことになる。そして、その十方の仏・菩薩の住処が浄土であり、仏国土である。例えば、東方歓喜国の阿?仏、西方極楽世界の阿弥陀仏、東方浄瑠璃世界の薬師如来などはその代表的な例であろう。いずれも浄土であり、それぞれ、菩薩道を行じ衆生を救済しきって仏と成り、それぞれの場所に浄土・仏国土を建設しているとされる。

これが、馬鳴の唱えた、十方の浄土があるとの諸大乗教の教説である。

しかし、この十方浄土説は、あくまで、だれびとも仏性をもち、だれびとも菩薩であり、すべての人が仏に成り得るということを強調するためのものであった。しかも、仏に成るには、菩薩としてあらゆる悩める衆生を救済して自らが苦悩満つる世間、国土を清浄にしていく、という積極的でたくましい建設精神が必須の条件であった。

西方に浄土を建設した、と説かれる阿弥陀仏などは、以上のような菩薩精神の典型的な規範として述べられたものであって、実際に西方に阿弥陀仏が存在するわけではない。

しかし、後世になると、この教えをも、自らが菩薩として主体的な浄土を建設するという積極的な精神を忘却して、ただ虚構の阿弥陀仏や薬師如来などにすがり、自らが救済されることのみを願う他力信仰に陥っていく。本来、たくましい建設精神に満つ主体的な菩薩道を説く教えが、逆に主体的で、他力的、かつ自らの救済を願う自利的、エゴイスティックな受け取り方をされていくのである。ここに諸大乗教典が「権大乗」と位置ずけられた理由の一端がある。

もちろん、もっと大きな理由として、釈尊の出世の本懐とされる法華経に説かれる二乗作仏と久遠実成の教説が欠如していること、また、歴劫修行のみを説いて即身成仏を明かされなかったことなどが挙げられるのはいうまでもない。

次に、一切の諸法は常楽我浄であるとの教説について。

前に顚倒述べしたように、この経説が小乗経徒達をして、馬鳴を外道と錯覚させたものである。なぜなら、釈尊が論争し、破折した外道が、常楽我浄の教説を立てていたからである。

では、外道の常楽我浄と馬鳴菩薩の説いた大乗仏教とそれとの間に、どのような相違があるのだろうか。

これについては、釈尊の入滅直後に説かれたとされる大涅槃経において明確に明かされているので紹介しておこう。

そこでは「二種の四倒見」として、この問題に触れている。

まず第一の四倒見が外道の常・楽・我・浄である。“倒見”とは、人生と世界の真実相に対して、逆立ちした見解のことである。

すなわち、現実の世界が変化しつづける無常なるもので、常住なる実体をもたず。苦に満ち、不浄であるにもかかわらず、外道は、この世の中に、常住して不変の実体を追い求め、楽なるものや浄なるものを追及してやまない、これが顚倒の見解である。釈尊はこの四倒見を破折するために、小乗阿含経で、現実の世界と一切諸法は「無常・無我・苦・不浄」であると説いたのである。

しかし、仏滅後、小乗経徒達は、釈尊の説いた、この「無常・無我・苦・不浄」の教えに固執し過ぎたために、今度は厭世的で虚無的な見解に陥り、はては灰身滅智することを究極の目標とするまでになってしまったのである。すなわち、釈尊の真意から大きく逸脱してしまったといえる。これが第二の四倒見といわれる。

そこで、これらを破折するために、大乗経典では「常・楽・我・浄」と説いたのである。

さて、外道の常・楽・我・浄との違いであるが、涅槃経に「世間にも常・楽・我・浄あり、出世間にもまた常・楽・我・浄がある。しかし、世間の法は字あって義なく、出世間には字あり義がある」とある。

すなわち、ここでは、外道の常・楽・我・浄は世間すなわち現実世界をそのまま常楽我浄としたものであり、それに対し、大乗経典の「常・楽・我・浄」は出世間の立場であり、現象次元の奥底にある生命の悟りの境地についていったものである。ここに、双方の間の相違がはっきり示されている。

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