除病御書

 その上、日蓮の身ならびに弟子等、過去の謗法の重罪いまだ尽きざるの上、現在は多年の間謗法の者となり、また謗法の国に生まる。当時、信心深からざらんか、あにこれを脱れんや。ただし、貴辺この病を受くるの理、ある人これを告ぐ。予、日夜朝暮に法華経に申し上げ、朝暮に青天に訴う。除病の由、今日これを聞く。喜悦何事かこれに過ぎん。事々見参を期せん。恐々謹言。

 

現代語訳

そのうえ、日蓮の身、並びに弟子は過去世の謗法の重罪が未だ尽きていないうえに、現世では、多年の間謗法の者となり、また謗法の国に生まれた。当時信心が深かったのであろう。どうしてその罪を脱れることができようか。ただし貴辺がこの病に罹ったことをある人から聞いたので、病気平癒を日夜朝暮に法華経を申し上げ、朝暮に青天に訴えてきたが、病気が治ったことをきょう聞いた。これ以上うれしいことはない。詳しいことはお会いしたときに申し上げよう。恐恐。

 

語句の解説

謗法

誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。

 

晴天

①晴れた空のこと。②妙法受持のものを守護する諸天善神、特に日月天の働きが満ち溢れているさま。

 

講義

本抄の御真筆は存していないが、写本は漢文体の御消息で、御書全集の文は、漢文体からの書きおろし文である。内容は前半が決失しており、御述作年代も与えられた人も不明であるが、建治元年(1275)に太田入道に与えられたものと推定されている。太田入道が病に倒れたことを聞かれ、日蓮大聖人が法華経に除病のため謗法の罪抄消滅を祈ったところ、治癒したとの報を受け、大変に喜ばれている。

大聖人は、我が身も弟子も、過去世の法華経誹謗の深重の罪業が、生命に染みついていること、それゆえにこそ現在世において、謗法の国に生まれ、多年の間、邪法を行ずる謗法の者であったことを述べられている。そうした身なればこそ、今生に信心強盛に励まなければならないのである。

大聖人は、幼少にして安房の清澄寺に登り、念仏僧の道善房を師に出家・修学し、念仏の邪法に縁された。この謗法を厳しく省みられて、佐渡御書に「日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし、何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや」(0959:06)と仰せられ、今生のわずか数年間の謗法の罪ですら消し難く、過去世にあって生命に深く染めてきた罪業においては、なおさらのこと消し難いといわれ、宿業の深重であることを示されている。

このように、御自身について「謗法深重の身」と示されたのは示同凡夫の御立場からの仰せであることはいうまでもない。

次に「但し貴辺此の病を受くるの理」以下は、門下の病苦をお聞きになって真剣に祈られたところ、病気が治り、健康になったことを聞かれ、心から喜ばれている。

妙法を信受する者は、常に御本仏の大慈悲に身守られていることを確信し、どこまでも勇気ある仏道修行をしていくことが大切である。

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