地引御書
弘安4年(ʼ81)11月25日 60歳 波木井実長
坊は十間四面に、またびさしさしてつくりあげ、二十四日に、大師講ならびに延年、心のごとくつかまつりて、二十四日の戌亥時、御所にすえして、三十余人をもって一日経かきまいらせ、ならびに申酉刻に御供養、すこしも事ゆえなし。坊は地ひき山づくりし候いしに、山に二十四日、一日もかた時も雨ふることなし。十一月ついたちの日、しょうぼうつくり、馬やつくる。八日は大坊のはしらだて、九日・十日ふき候い了わんぬ。しかるに、七日は大雨、八日・九日・十日はくもりて、しかもあたたかなること、春の終わりのごとし。十一日より十四日までは大雨ふり、大雪下って、今に里にきえず。山は、一丈二丈雪こおりてかたきことかねのごとし。二十三日・四日は、またそらはれてさむからず。人のまいること、洛中・かまくらのまちの申酉時のごとし。さだめて子細あるべきか。
次郎殿等の御きゅうだち、おやのおおせと申し、我が心にいれておわしますことなれば、われと地をひき、はしらをたて、とうひょうえ・むまの入道・三郎兵衛尉等、已下の人々、一人もそらくのぎなし。坊は、かまくらにては一千貫にても大事とこそ申し候え。
ただし、一日経は供養しさして候。その故は、御所念の叶わせ給いて候ならば、供養しはて候わん。なにと申して候とも、御きねんかなわずば、言のみ有って実なく、花さいてこのみなからんか。いまも御らんぜよ。このこと叶わずば、今度、法華経にては仏になるまじきかと存じ候わん。叶って候わば、二人よりあいまいらせて、供養しはてまいらせ候わん。「神ならわすはねぎから」と申す。このこと叶わずば、法華経信じてなにかせん。事々またまた申すべく候。恐々謹言。
十一月二十五日 日蓮 花押
南部六郎殿
現代語訳
坊は十間四面の広さで、孫庇をさしだして造りあげ、二十四日は天台大師の命日にあたり、大師講と延年の舞を心ゆくまで行なった。さらに、同二十四日の午後九時ころに、御本尊の御前に集まって、三十余人の人々によって法華経の一日写経を修した。また、それより以前、午後五時ころには坊落成の供養をわずかの事故もなく終えた。
坊は、石や木をとり除いて、山を平らにつくることから始まったが、その地ならしの間、山は二十四日間、一日も、片時も、雨が降ることなく好天気であった。十一月一日には、まず小坊を造り、馬屋をつくった。八日には、大坊の柱を立て、九日・十日の両日には屋根を葺き終えた。ところが、その間、七日は大雨、八日・九日・十日は曇って、しかもその暖かなことは、春の終わりのようであった。十一日から十四日までは大雨が降り、大雪となって、そのとき降った雪は未だに里でも消えていない。山では一丈も二丈も積もり、その雪が凍って堅いことは金(かね)のようである。二十三日、二十四日は、また空は晴れて寒くなく、そのためか、参詣者がおおぜいで、そのにぎわいはまるで京都の市内や鎌倉の町の午後五時ころのようである。これらのことは、さぞやいわれのあることであろうか。
次郎殿等をはじめとする若殿たちは、親のあなたから申しつけられたこととはいえ、心から願っておられたことなので、自分から地ならしをし、柱を立てるなど励まれた。藤兵衛右馬の入道や、三郎兵衛尉等以下の人々も一人もおろそかにする人はいなかった。できあがった坊は、鎌倉では一千貫の大金を出してもできないであろうと人々はいっていた。
ただし一日経は途中で供養を中止させた。その故は、あなたが大坊建立にあたって立てられた念願が叶ってから、供養をし終えたいと思ったからである。坊が建立されたといっても、あなたのご祈念が叶わなければ、言葉のみあって、実がなく、華が咲いて果実がならないようなものである。今も見てごらんなさい。あなたの願いが叶わなければ、このたび法華経を信じても成仏できないのではないかと思われることであろう。願いが叶ったならば二人共々、供養し終えよう。
「神ならはすはねぎから」ともいう。この願いが叶わないならば、法華経を信じても何の甲斐もないことである。種々の事について申し上げたが、また機会ある時に申し上げる。恐恐。
十一月二十五日 日 蓮 花 押
南部六郎殿
語句の解説
またひさし
孫庇のこと。母屋の庇の下に、さらに出し添えた小さな庇。
延年
「延年の舞」の略称。平安中期から鎌倉・室町時代にかけて、寺院で、法会のあとの客の接待の宴で盛んに行なわれた劇的構成の舞で、種々の演芸が含まれた。
大師請
天台大師の忌日である11月24日に、大師の報恩のため営まれた儀式。
一日経
書写行の一つ。おおぜい集まって一部の経を一日に写し終えることをいう。この始まりについては、南都東大寺の法蔵が、亡き母の追善供養のために、法華経を一日のうちに写したことに始まるという。二中歴(平安末期の三善為康の撰、「掌中歴」と「懐中歴」を類聚した書)にも一行十七字詰・二十七行を一枚として、三十人で一日に書き終わったという一日経の分配、支度等が記されている。
地ひき
家屋などの建築の際、地鎮祭のあと、吉日を選んで工匠の長が祭主となって行う儀式。建物の形に縄を張り竹を立て、中央に祭壇を設け祝詞を奏する。じびきまつり。
洛中
京都市中のこと。平安初期に嵯峨天皇が平安京を唐の都に擬して、左京を洛陽城、右京を長安城と名づけたことから、左京を洛または洛中と称した。なお左京とは、内裏から南を向いて左側の意で、朱雀大路を境とし東西に分けた東側を指す。一方の右京は湿地で人が住むのに適さず早くから衰微し、左京の洛陽が平安京の代名詞となった。
御きうだち
親王・摂家・貴族などの子息。
神ならはすはねぎから
「ねぎ」は「きね」と同意で、神主や宮司の下に位する中級の神官のこと。「神はきねが習わし」とも「神はねぎのはからい」等ともいう。神は仕える人次第で、どのようにでもなるとの意。
講義
本抄は弘安4年(1281)11月、南部六郎実長に与えられたものである。実長は波木井の郷に住んでいたので、波木井実長ともよばれている。波木井実長は飯野・御牧・波木井の三箇郷の地頭であったが、鎌倉の地に在住することが多かったようである。
文永11年(1274)、大聖人が身延へ入山なされた時は、三間四面ばかりの草庵であったが、その後地頭の波木井実長は弘安4年(1281)10月から11月にかけて一族の人々をつかわして、十間四面の大坊を建築し御供養したのである。このお手紙は大坊が完成し、無事に落慶式をあげることができた際、檀那である実長に賜わったものである。
当時、この大坊の建設は、相当の大事業であったと思われる。波木井一族をはじめ、身延周辺の人々が力を合わせて建立に当たった様子が伺われる。大坊は、立派な建物で鎌倉では一千貫文はかかるであろうといわれている。今日の我々には、当時の一千貫文の価値についてはよくわからないが、米の価格で150㌕で一貫文と、文永元年(1264)の丹波国大山荘領家年貢注文物価表にあり、また、貞永元年(1232)の摂津国の物価として、大元秘書裏書にも同じように見られることから、ほぼ推察できると思う。大夫志殿御返事には、小袖は七貫文、直垂と袴は十貫文とあることも参考になろう。波木井実長は地頭といっても、山間の貧地である波木井、御牧、飯野の三郷を領するに過ぎず、経済力もそう大きなものではなかったと思われる。したがって、かねてから念願していた大坊の建立が完成したことは、いかばかりの慶事であったか想像できよう。しかもそれは、大聖人御入滅の1年前の11月の末であったことも見のがすことができない。しかし、この御書の文面からは、このような大坊の落成の法要に、地頭である実長が参加していなかったようである。大聖人は、これをさびしく思われ、実長にたいして、貴方の願いが叶ったなら、2人寄り合って御供養を全うしようと激励なさったものと思われる。
ただし一日経は供養しさして候
無事大坊も完成し、またちょうど天台大師の命日にもあたるので、種々の慶祝の行事がもたれ、そして、その時に書写行の一つである一日経の供養をしようと、経文を書かせはじめたのである。しかしそれを始められたのは、午後九時頃である。したがって、途中ではあるが、一日経の書写をやめさせたとおっしゃっている。
ではなにゆえに、大聖人は、途中でやめさせるようなことをやらせたのかという疑問がおこる。
このことは、まず地頭の波木井実長の信心を考えてみなければならない。実長は、大聖人の法門の真意を知ることができず後に日興上人に叛いた時など、世間に迎合する傾向があり、何とか古いしきたりを重んじ、儀式めいたことを好んでいたと考えられる。
こうした地頭であるゆえに大聖人は、11月24日は大師講でもあるので、いったんは一日経の書写を行なわせたが、これはあくまで形式的なもので、決して、御本意ではなかったと考えられる。むしろ大聖人は「あなたの願いが叶ったならば、一日経の供養を全うしましょう」と事を未来に寄せて一日経の供養を途中で中止させたのである。
大聖人の御本意は、受持即観心であり、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることにつきる。観心本尊抄には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246:15)とあり、また報恩抄には「一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(0328:17)とある。書写等の五種の妙行もすべて受持の一行に含まれるのであるから、一日経等を必要としないことは明らかである。
また、第二祖日興上人も、「五人所破抄」において一日経を厳禁されている。五人所破抄には「如法・一日の両経は法華の真文為りと雖も正像転時の往古・平等摂受の修行なり、今末法の代を迎えて折伏の相を論ずれば一部読誦を専とせず但五字の題目を唱え三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責む可き者か、此れ則ち勧持・不軽の明文・上行弘通の現証なり、何ぞ必ずしも折伏の時摂受の行を修すべけんや」(1614:16)とある。
すなわち、如法経や一日経は、正法、像法時代における摂受の修行なのである。したがって、末法においては、書写や読誦等の修行はまったく意味のないことである。
ただ三大秘法の御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え、折伏行にはげむ実践こそ、末法における唯一の修行なのである。
御きねんかなはずば言のみ有りて実なく華さいてこのみなからんか
御本尊に願ったことが、もし叶わないならば、それは言葉だけで実証のないことになり、また花が咲いても実がならないようなものであると説かれ、さらに次に「いまも御らんぜよ此の事叶はずば今度法華経にては仏になるまじきかと存じ候はん」と波木井実長の胸中のわずかなおごり・不信をも見のがさず信心を確立すべきことを指導されたところと拝する。そして、大坊建立という祈念が叶ったことをもって、実長の祈念も未来の成仏も絶対に叶うことを疑ってはならないと説かれている。このことは、我々の信心においても大事なことと思う。
経王殿御返事には「あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」(1124:14)とあり、祈禱抄には「大地はささばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず(中略)とくとく利生をさづけ給へと強盛に申すならば、いかでか祈りのかなはざるべき」(1351:18)とある。
また呵責謗法滅罪抄には「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(1132:10)とある。
右の御文や、諸御書に明らかなように、御本尊にかけた願いは、必ず叶うという金言である。ただし「御信心をいだし」「強盛に祈り申す」「強盛に申すなり」等と、あるように、御本尊に対する強い祈りがもっとも大切なのである。
叶いて候はば二人よりあひまいらせて供養しはてまいらせ候はん
大坊が建立し、落成の法要が営まれたとき、檀那である波木井実長はその法要に参加しなかった。
御書の文面より推察するなら、地ならし等の建立のはじめから二か月以上に亘って、一度も身延を訪れた様子がないように見える。あるいは、病気等によるものか、また、勤務上の多忙のためであったのか。あるいは、実長の信心そのものに原因があったのか。しかし、一族の者に命じて、大坊の建立に力を入れていた実長が信心なき故に不在であったと考えることも不自然であろう。もし、病気であったとするなら、この御書の中に、それを見舞われるお言葉がありそうに思われる。とすると、何か重大な問題をかかえ、鎌倉でそれに忙殺されていたのではなかろうか。「御祈念叶はずば……」「此の事叶はずは……」と仰せられているのは、このような問題と関係があったのかも知れない。大聖人はそれをご心配なさっておられたのではないだろうか。そして、「かならずあなたの御祈念は叶うのだ。御本尊の功徳は絶対なのだ。御祈念が叶うならば、師檀共々に、より合って大坊建立の御供養を全うしよう」と激励なさったものではなかろうかと思われる。それにつけても、大檀那である実長の信心が大事であることを、「神ならはすはねぎから」という俗言を引いて指導なさったのであろう。