持妙尼御前御返事 第二章(尼の悲しみゑを慰める)

持妙尼御前御返事 第二章(尼の悲しみゑを慰める)

 建治2年(ʼ76)11月2日 55歳 窪尼

 

すでに故入道殿のかくるる日にて・おはしけるか、とかう・まぎれ候いけるほどに・うちわすれて候いけるなり、よもそれにはわすれ給はじ。

  蘇武と申せし男は漢王の御使に胡国と申す国に入りて十九年めもおとこをはなれ・おとこもわするる事なし、あまりのこひしさに・おとこの衣を秋ごとにきぬたのうへにて・うちけるが・おもひやとをりて・ゆきにけん・おとこのみみにきこへたり、ちんしといいしものは・めおとこ・はなれけるに・かがみをわりて・ひとつづつ・とりにけり、わするる時はとりとび去りけり、さうしといゐしものは・おとこをこひてはかにいたりて木となりぬ、相思樹と申すはこの木なり、大唐へわたるにしがの明神と申す神をはす・おとこのもろこしへ・ゆきしをこひて神となれり・しまのすがたおうなににたり、まつらさよひめといふ是なり、いにしへより・いまにいたるまでをやこのわかれ主従のわかれ・いづれかつらからざる、されども・おとこをんなのわかれほど・たとげなかりけるはなし、

 

現代語訳

もう故入道殿の御命日になりましたか。あれこれと事にまぎれ、忘れておりましたが、よもや尼御前には忘れることができないでしょう。

蘇武という男は漢王の御使いで胡国に入って19年、妻も夫と離れ、夫も妻を忘れることがなかった。あまり恋しいので、妻は夫の衣を秋が来るたびに碪の上でたたいていたが、思いが通じたのか夫の耳に聞こえたといいます。陳子という人は、夫婦が離別するとき鏡を割って一つずつ持っていたが、夫婦がお互いのことを忘れた時は、鏡が鳥となって飛び去りました。相思という人は夫を恋しく思い、墓に行って木となって生じました。相思樹というのがこの木です。

中国に渡る途中に志賀の明神という神社があります。中国に渡った夫を恋い慕って妻が神になったといわれ、島の姿は女人に似ています。松浦佐与姫というのがその女人です。昔から今に至るまで、親子の別れ、主従の別れとさまざまありますが、いずれも辛くない別れはありません。しかし、男と女の別れほど辛い別れはありません。

語句の解説

蘇武

(前0140頃~前0060)。中国・前漢の武将。字は子卿。漢書によると、武帝の命により、匈奴王・単于への使者として匈奴の地に赴いた。到着後、囚われの身となり、単于から幾度も臣従を迫られたが、応じなかったので、穴牢に幽閉され、食物も与えられず、数日の間、雪と衣類を食べて生き延びた。匈奴の人は、蘇武をただ人ではないと驚き、北海の辺地に流して羊を飼わせた。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立し、漢は蘇武らの返還を要求したが、匈奴は、彼は死去したと偽った。その時、蘇武の家来が内密に漢使と会って「帝が都の近くで雁を射落としたところ、雁の足に絹の帛書が結びつけてあり、蘇武らはしかじかの沢にいると書いてあった、と言いなさい」と教えた。使者は家来に言われた通り単于に問いただした。驚いた単于は、しかたなく蘇武を帰すことにした。匈奴に囚われて19年間、漢に戻る折には、髪は真っ白になっていたという。帰朝後も80余歳で没するまで皇帝の側近として仕え、名臣として尊敬された。

 

ちんし

中国の故事に出てくる人と思われるが未詳。陳の国のある人、ある男というほどの意か。中国、唐時代の「本事詩」の「破鏡重円」の章に、陳の東宮侍従・徐徳言と妻の話がある。徐徳言が妻との離別に際して鏡を破り、その半分を妻に渡した。のちに半鏡を捜し、事情があって他人の妻となっていた妻を呼び戻し、再び添いとげたという。また、「今昔物語」巻十の「不信蘓規・破鏡与妻遠行語第十九」に、国王の使いで遠国に赴くことになった夫が、夫婦別離に際して、互いの変わらぬ愛情を誓って鏡を破って半片を分け合った。後に、その妻が他人と通じてしまったときに妻の持っていた鏡が夫のもとに飛び来ったという話が記されている。

 

さうし

中国の故事に出てくる人物と思われるが未詳。あるいは宋の国のある人、男という意か。中国・六朝時代の「捜神記」の「相思樹」の章に、宋の康王の侍従であった韓憑と妻・何氏の話がある。康王が、韓憑の美人の妻を奪いとってしまい、韓憑は自殺してしまう。それを知った妻も夫と一緒に埋めてくれるように言い置いて身投げをする。しかし、王は二人を別々の墓に埋めるが、まもなく二つの塚から大きな梓の木が生え、根と枝が交錯しはじめたという。宋の人々は哀れに思って、その木に相思樹という名をつけた。

 

相思樹

マメ科の常緑高木。アカシアの一種で、中国南部、台湾、フィリピン、インドシナなどの熱帯に分布。高さ615㍍にもなる。相思樹のいわれについては諸説ある。

 

大唐

隋に続く中国統一の王朝。隋末の群雄の一人、李淵が建てた王朝。都は長安。次の太宗の時に中国の統一が完成されて唐朝の基礎が築かれた。ただし、天台大師は唐朝成立前に亡くなっている。

 

まつらさよひめ

肥前国(佐賀県)松浦に住んでいたといわれる伝説の女人。佐用姫とも書く。宣化天皇のころ、任那に行く愛人大伴狭手彦を松浦山に登って別れを惜しんだ様子が肥前国風土記に、また古今著聞集巻五にも記されている。褶を振って別れを惜しんだので、褶振の峯というようになったという。古来、男女の別れの悲しさのたとえとして万葉集などにうたわれた。「遠つ人松浦佐用姫夫恋に領巾振りしより負へる山の名」。

講義

ここでは、夫に死別した妙心尼の悲しみを思いやられて、夫婦離別の故事を挙げられ、慰められている。御本仏・日蓮大聖人の慈愛あふれる御心がひしひしと伝わってくる御文である。

夫婦離別の悲しさを表す先例故事として、蘇武の話、陳の太子の舎人・除徳言の話、相思樹の話、松浦佐与姫の話の四つが挙げられているが、いずれも往時は広く語り継がれていたエピソードなのであろう。そして、昔から今に至るまで親子の別れ、主従の別れなど別れに辛くないものはないが、夫婦の別れほど、たとえようもないまでに辛いものもないと述べられて、尼の悲しみを慰められている。

なお、相思樹の話を述べられているところから、本抄の別名を「相思樹御書」ともいう。

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