船守弥三郎許御書(伊豆配流事)

 わざと使いをもって、ちまき・さけ・ほしい・さんしょう・かみ、しなじな給び候い畢わんぬ。
 またつかい申され候は「御かくさせ給えと申し上げ候え」と。日蓮、心得申すべく候。

 

現代語訳

わざわざの使いをもって、ちまき、酒、干飯、山椒、紙などの品々をたしかに頂戴した。また使いの申されるのに、内密にされるようにと申し上げなさいとの事、日蓮たしかに心得申した。

 

語釈

 

ちまき

もち米やうるち米、米粉を練ったものなどを笹などで巻き、長い円錐形にして、藺草でしばり蒸したもの。かつては茅の葉で巻いたのが、名称の由来とされる。

 

ほしひ

蒸した米を乾かしたもの。いったん乾燥させてあるので、貯蔵ができた。水に浸して食する。携帯して、兵糧や旅行の時などに用いられた。乾飯ともいう。

 

さんせう

ミカン科の落葉低木。各地の山地に生え、人家にも植えられる。高さ3㍍になり、全体に独特の芳香がある。果実は球形で表面がざらつき、紅熟する。種子は黒色。香辛料として利用される。

 

 

講義

 

本書は、弘長元年(1261627日、日蓮大聖人40歳の時、すなわち伊豆御流罪中に船守弥三郎夫妻に宛てて書かれたものである。

船守弥三郎は、本書の文中にも述べられているが、伊豆伊東の川奈の漁師で、大聖人が弘長元年(1261512日に伊東に流罪された時、川奈の津に着かれてから地頭の伊東八郎左衛門尉の屋敷に移られるまでの30日余にわたり夫妻そろって外護申し上げている。

本書は、地頭伊東八郎左衛門尉の屋敷におられた大聖人に船守弥三郎が御供養の品々をお届けしたのに対し、その返礼として書かれたもので、内容は、過ぐる三十日余りの船守弥三郎夫妻の献身的な外護に対し謝意を述べられるとともに、一念三千の法門による法界成仏の深遠なる教えを説かれて、夫妻ともども必ず成仏すると、信心を励まされている。本書は別名を「伊豆配流事」と呼ばれている。

なお、文中の「さきにまいらせし文につぶさにかきて候し間・今はくはしからず」と述べられ、本書以前にも船守弥三郎宛の御手紙があったことを示唆されているが、現存せず、詳しい内容は不明である。

この段は、船守弥三郎が使者を遣わして、御供養の品々を日蓮大聖人にお届けしたことに対して感謝されているところであるが、文中「御かくさせ給へ」とあるように、御供養の品々を送ったことについては、世間に知られぬようにして下さい。と大聖人に言っている。このことからも、伊豆御流罪中の厳しい状態がうかがわれる。

 

 

 

第二章 弥三郎夫妻の外護を賛嘆する

日蓮去る五月十二日流罪の時その津につきて候しに・いまだ名をもききをよびまいらせず候ところに・船よりあがりくるしみ候いきところに・ねんごろにあたらせ給い候し事は・いかなる宿習なるらん、過去に法華経の行者にて・わたらせ給へるが今末法にふなもりの弥三郎と生れかわりて日蓮をあわれみ給うか、たとひ男は・さもあるべきに女房の身として食をあたへ洗足てうづ其の外さも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし、ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ日蓮を供養し給う事いかなる事のよしなるや、かかる地頭・万民・日蓮をにくみねだむ事・鎌倉よりもすぎたり、みるものは目をひき・きく人はあだむ、ことに五月のころなれば米もとぼしかるらんに日蓮を内内にて・はぐくみ給いしことは日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云うところに生れかわり給うか、法華経第四に云く「及清信士女供養於法師」と云云、法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとことなり或は女となり形をかへさまざまに供養してたすくべしと云う経文なり、弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑なし。さきにまいらせし文につぶさにかきて候いしあいだ、今はくわしからず。

 

現代語訳

  日蓮が去る五月十二日、流罪になって川奈の津に着いた時、まだ名も聞きおよばない所へ船から上がって苦しんでいたのをねんごろにお世話してくださったのは、いかなる宿習であろうか。過去に法華経の行者であられたのが、今末法に船守弥三郎と生まれきて日蓮をあわれまれるのであろうか。たとえ弥三郎はそうであったとしても、女房の身として日蓮に食を与え、洗足、手水、その他のことまで実にねんごろにあたられたこと、日蓮にはわからないが不思議としか言いようがない。

ことに三十日あまりのうちに内心に法華経を信じ、日蓮を供養なされたことはいかなる理由によるのであろうか。かかる地頭、万民が日蓮をにくみ、ねたむことは鎌倉よりも過ぎ、日蓮を見る者は目くばせをし、名を聞く人は怨んでいる。特に五月のころは米も乏しいであろうに、日蓮を内々に養ってくださったことは日蓮の父母が伊豆の伊東の川奈という所に生まれ変わられたのであろうか。法華経第四の巻に「及清信士女供養於法師」とある。法華経を行ずる者を諸天善神等があるいは男となり、あるいは女となって形を変え、様々に供養して助けるという経文である。弥三郎殿夫婦がこの経文の士・女と生まれて日蓮法師を供養しているのであることは疑いない。先に差し上げたお便りに詳しく書いてあるので、ここではいちいち述べない。

 

語釈

 去る五月十二日

日蓮大聖人が伊豆の伊東に流罪になられた弘長元年(1261512日のこと。

 

伊豆の伊東かわな

静岡県伊東市川奈のこと。

 

諸天善神

法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。

 

 

講義

  日蓮大聖人が弘長元年(1261512日、流罪されて川奈に着かれた時に、大聖人を助け、以後30日間にわたり外護申し上げた船守弥三郎夫妻に感謝され、大聖人の御父母が弥三郎夫妻と生まれ変わってこられたのであろうか、あるいは法華経法師品の文にある清信の士女であろうかと、賛嘆されているところである。

 

伊豆法難と船守弥三郎夫妻

 

日蓮大聖人は、文応元年(1260716日、第一回国主諌暁として立正安国論を最明寺入道時頼に提出された。しかし、この国主諌暁によって邪義を破折された禅、念仏、律宗等の高僧達は、大聖人を亡き者にしようとして陰湿な策謀を密かにめぐらし、文応元年(1260827日の夜半、暴徒をもって、松葉ヶ谷の草庵を襲わせた。幸いこの夜襲をのがれた大聖人は、一時鎌倉を離れ、下総の富木常忍の邸に身を寄せられ、下総方面に折伏を進められた。

翌弘長元年(1261)の春、大聖人は再び鎌倉の地に戻られるのであるが、これを知った、時の執権長時は権力を使って、大聖人を理不尽にも伊豆に流罪したのである。時に弘長元年(1261512日、大聖人40歳の時である。流罪の理由については、諸御書に述べられている。たとえば「日蓮が未だ生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ」(0355:07)、「念仏者等此の由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」(1413:01)などであるが、要するに念仏の強信者であり、幕府の黒幕的存在であった北条重時が大聖人を激しく憎んでおり、執権・長時はその子であり、松葉ヶ谷の夜襲で大聖人は殺されたと思っていたのが生きておられたので、伊豆流罪にしたのであった。

大聖人は、小舟で相模灘を護送され、伊豆の川奈の津に降ろされたのである。

この時の様子は「日蓮去る五月十二日流罪の時その津につきて候しに・いまだ名をもききをよびまいらせず候ところに・船よりあがりくるしみ候いき」云云とあるように、大聖人は、川奈の津で、所の名も知らず、疲労の極に達せられて一人で苦しんでおられた。

そこに通りかかったのが、漁師の船守弥三郎であった。弥三郎は、すでに幕府から触れの回っていた大聖人を我が身の危険を顧みず、妻と共に30日間もかくまい外護し続けたのである。

「かかる地頭・万民・日蓮をにくみねだむ事・鎌倉よりもすぎたり、みるものは目をひき・きく人はあだむ」というように住民が憎悪するなかを弥三郎夫妻は、大聖人を護り、遂には自ら法華経を信ずるようになったのである。

日蓮大聖人は本書で、この夫妻の清信の外護を称賛されて、さまざまな角度から述べられている。

まずは船守弥三郎に対して「いかなる宿習なるらん」と、前世からのなんらかの因を弥三郎自身が作っているにちがいないと述べられ、その内容として「過去に法華経の行者にて・わたらせ給へるが今末法にふなもりの弥三郎と生れかわりて日蓮をあわれみ給うか」と言われている。次に夫の弥三郎だけならともかく、弥三郎の妻も、献身的な世話をしてくれたことについて「女房の身として食をあたへ洗足てうづ其の外さも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし」と述べられ〝不思議〟としか言いようがないと絶賛されている。

そして、弥三郎夫妻そろって30日余り外護申しあげたことに対して「ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ日蓮を供養し給う事いかなる事のよしなるや」と述べられ、いかなる因縁によるのかと賛嘆の言葉もない様子を示され「ことに五月のころなれば米もとぼしかるらんに日蓮を内内にて・はぐくみ給いしことは日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云うところに生れかわり給うか」と、大聖人の父母が弥三郎夫妻と生まれかわったのかと言われている。これは大聖人との因縁という点での御言葉である。

更に、法華経法師品第十の「若し我が滅度の後に 能く此の経を説かば 我れは化の四衆 比丘比丘尼 及び清信士女を遣わして 法師を供養せしめ」との文を引用されて、「弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑なし」とされ、仏の遣いとしての清信士女であると断言されている。これは、法華経との因縁という面を言われたと考えられる。

更に、本書の最後には「しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか」と述べられ教主釈尊の生まれ変わりであろうかとまで絶賛されている。

このような船守弥三郎夫妻への賛嘆の言葉を拝するとき、伊豆御流罪における弥三郎夫妻の役割がいかに大きかったかを知ることができる。

 

 

第三章 地頭の病気回復の祈願と夫妻の功徳

ことに当地頭の病悩について祈せい申すべきよし仰せ候し間・案にあつかひて候、然れども一分信仰の心を日蓮に出し給へば法華経へそせうとこそをもひ候へ、此の時は十羅刹女もいかでか力をあわせ給はざるべきと思い候いて・法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏並に天照・八幡・大小の神祇等に申して候、定めて評議ありてぞ・しるしをばあらはし給はん、よも日蓮をば捨てさせ給はじ、いたきとかゆきとの如くあてがわせ給はんと・をもひ候いしについに病悩なをり・海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事・此れ病悩のゆへなり、さだめて十羅刹女のせめなり、此の功徳も夫婦二人の功徳となるべし、

 

現代語訳

特に、当地の地頭の病悩について祈誓をしたいと仰せられたとき、どうすべきかと案じた。しかし、一分でも日蓮を信仰する心を出されていたので法華経へ訴えようと思ったのである。この時は十羅刹女もどうして力を合わせられぬことがあろうかと思い、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏並びに天照太神、正八幡、大小の神祇等にも申した。

きっと評議があって病気快癒のしるしをあらわされるであろう、よもや日蓮を見捨てられることはないであろう、痛いところ、かゆいところに手が届くようにとりはからわれるであろうと思っていたところ、ついに病悩も治り、海中のいろくずの中より出現した仏像を日蓮に賜ったこと、これは病悩の故であり、さだめし十羅刹女がせめられたからにちがいない。この功徳も弥三郎夫妻の功徳となるであろう。

 

語釈

十羅刹女

十人の羅刹女のこと。羅刹女は梵語ラークシャシー(Rākasi)の音写。鬼子母神の十人の娘。法華経以前の諸経では悪鬼とされていたが、法華経陀羅尼品第二十六において法華経の行者の守護を誓う善鬼となっている。十人の名は、藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気である。

 

釈迦

釈迦仏、釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。

 

多宝

多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。

 

十方の諸仏

十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。

 

天照

天照太神のこと。日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。

 

八幡

天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。

 

いろくづ

うろこ、また、うろこをもった生き物のことで魚族のこと。「北風吹けば……畜生道をまぬかれて」は、最勝仏頂陀羅尼浄除業障呪経と無垢浄光大陀羅尼経の文の取意。卒塔婆供養の功徳を述べた文。

 

講義

本章には、地頭の伊東八郎左衛門尉が重病に陥り、日蓮大聖人に病気平癒の祈願を依頼してきたこと、大聖人が祈念されて見事にこれが平癒したこと、地頭が感謝のしるしに立像の釈迦仏を大聖人に捧げたことを述べられ、これも船守弥三郎夫妻の功徳に帰すと述べられている。

地頭の病悩回復のための祈願を依頼されたとき、大聖人はその依頼に応ずべきかどうかを思案されたのであった。

というのは、地頭の伊東八郎左衛門尉は念仏の信者であって、法華経の信者ではなかったからである。正しい仏法の祈願は、あくまでも願主の信心が大切となる。願主に正法への信がないのに師が祈っても、それは無益なのである。

そこで、「一分信仰の心を日蓮に出し給へば」とあるとおり、地頭が日蓮大聖人と法華経への信心を起こしてはじめて、病気平癒の祈願を行うことを決意されたのである。

この祈願の結果、無事、地頭の病は平癒したのである。そして、その病気平癒の功徳はそのまま船守弥三郎夫妻の功徳となるであろうと励まされている。

なぜなら、夫妻が大聖人を外護していなければ、大聖人の病気平癒の祈願も、その成功もなかったであろうからである。

 

海中いろくづの中より出現の仏体

 

大聖人の祈願により病苦から救われた地頭は大聖人に深く帰依したのはもとより、お礼のしるしに漁師が海中より引き揚げたという立像の釈迦仏を大聖人に捧げた。

この海中出現の釈迦仏を、大聖人は終生、身から離さず所持されたと伝えられている。末法においてはインドの釈尊の教えは無益であり、釈迦仏を本尊とすることはない。「法華経の題目を以て本尊とすべし」(0365:01)と大聖人自ら御教示されているところである。にもかかわらず、なぜ大聖人御自身、釈迦仏の像を所持されたのであろうか。

その意義については、日寛上人が、末法相応抄で、三つの意義を示されている。

すなわち、一つには、立宗弘通の初めであることから、まず、釈迦仏を借りて肝心の妙法を顕そうとされたということである。

二つには、当時の日本国は阿弥陀仏、大日如来など爾前経の諸仏が本尊として尊崇されていたので、まず釈尊に帰り、その本意を尋ねよ、との権実相対の立場を宣示するためであったということである。

三つには、上行菩薩の再誕として、仏の境界にあった大聖人の眼には立像の釈迦仏がそのまま久遠元初の本仏と映られたということである。

このような深い理由があって、大聖人は釈迦一体像を所持されたのであり、決して他門流の言うように、釈迦像を本尊として崇めてよいということではない。

いうまでもなく、末法万年にわたる一切衆生成仏得脱のための真実の本尊は、日蓮大聖人が御図顕された御本尊以外にはないことを深く銘記すべきである。

故に、大聖人は、遺言として、滅後はこの釈迦一体仏を墓所のかたわらへ立て置くように命ぜられ、事実そのとおりになされた。しかし、日朗がこれを持ち去り、のちに京へ運ばれる途中、海路、嵐にあって再び海中に沈んだとされている。

 

 

第四章 一念三千の成仏の義を示す

我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが・法華経の行者となりて無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身とならん事あにかの仏にかわるべきや、過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、法華経の一念三千の法門・常住此説法のふるまいなり、かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。

  寿量品に云く「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこれなり、迷悟の不同は沙羅の四見の如し、一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ。

  雪山童子のまへにきたりし鬼神は帝釈の変作なり、尸毘王の所へにげ入りし鳩は昆首羯摩天ぞかし、班足王の城へ入りし普明王は教主釈尊にてまします、肉眼はしらず仏眼は此れをみる、虚空と大海とには魚鳥の飛行するあとあり此等は経文にみえたり、木像即金色なり金色即木像なり、あぬるだが金はうさぎとなり死人となる、釈摩男がたなごころにはいさごも金となる、此等は思議すべからず、凡夫即仏なり・仏即凡夫なり・一念三千我実成仏これなり。

 

現代語訳

我等衆生は、無始よりこのかた生死海の中にあったが、法華経の行者となって無始の色心は本と是れ理性、妙境・妙智、金剛不滅の仏身となるであろうことは、どうしてかの釈迦仏に異なることがあろうか。過去久遠五百塵点のその初の唯我一人の教主釈尊とは我等衆生のことである。これが法華経の一念三千の法門であり、仏の常住此説法の振る舞いである。このような尊い法華経と釈尊であるけれども凡夫は知ることがない。

寿量品にいう「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこのことをいうのである。迷いと悟りによって不同があるのは、釈尊在世の人々が沙羅林を四通りに見てきたようなものである。一念三千の仏というのは法界のすべてが成仏するということなのでる。

雪山童子の前に来た鬼神は帝釈天の変化であり、尸毘王の所に逃げ込んだ鳩は昆首羯摩天であった。班足王の城に入った普明王は教主釈尊であった。肉眼はこのことを知らず仏眼のみこれをみる。虚空と大海には魚鳥の飛行する跡がある。これらは経文に説かれている。木像はすなわち金色であり、金色はすなわち木像である。阿㝹楼駄の金は兎となり、死人となる。釈摩男が手にとれば砂も金となる。これらは思議することができない。凡夫はすなわち仏であり、仏はすなわち凡夫である。一念三千、我実成仏とはこのことである。

 

語釈

生死海

生死の苦しみのこと。六道に輪廻して解脱することのない生死の苦しみが、海のように深く果てしないところから、生死海、生死の苦海という。

 

無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身

無始色心とは、久遠元初以来、永遠に続いている生命である。色心とは生命の義である。本是理性とはもともと妙法であるとの意である。明境妙智とは、大宇宙も不思議なる妙法の当体、自身もまた妙法の当体であり、境智不二であることをあらわす。久遠元初以来、無始無終に続きゆく、この生命こそ自体が、もともと妙法の当体であるということである。法華経を行ずることによって、妙境と妙智とを具えた金剛不滅の身を成就して、成仏の境界を得ることができるとの意。

 

五百塵点

五百塵点劫のこと。法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。

 

一念三千の法門

三大秘法のご本尊のことをいう。理に約せば一念に三千種の生命活動を具すとの哲理で、中国の天台大師が摩訶止観において、この法門を明かした。釈尊は法華経28品をもって、これを説いたのであって、このゆえに、天台大師は“小釈迦”ともいわれた。天台の一念三千の法門は“像法の法華経”という。しかしその天台大師のあらわしたものの実体は、末法御本仏・日蓮大聖人が南無妙法蓮華経として示されたのである。ゆえに天台大師の一念三千の法門を“理の一念三千の”といい、日蓮大聖人の三大秘法の御本尊を“事の一念三千”というのである。“事の一念三千”の御本尊こそ、釈尊ならびに天台大師が説かんとした極説中の極説の当体であり、仏法の究極なのである。

 

沙羅の四見

沙羅は沙羅林のことで、釈尊が涅槃に入った所をいう。同じ沙羅林でも、それを見る衆生の機根・境地によって四種に見えたこと。像法決疑経に「今日座中の無央数の衆、各見るところ不同なり(中略)或は此処沙羅林の地、悉く是れ土沙草木石壁なりと見、或は此処金銀七宝の清浄荘厳せると見、或は此処乃ち是れ三世諸仏所行の処なりと見、或は此処即ち是れ不可思議諸仏の境界にして、真実の法体なりと見る」とある。

 

雪山童子

釈尊が過去世で修行をしていた時の名。涅槃経巻十四等に説かれる。釈尊は過去の世に雪山で菩薩の修行をしていた。ここで木の実を食べ、思惟坐禅して無量歳を経た。ある時、帝釈天が羅刹に化身して現れ、童子に向かって過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけを述べた。これを聞いた童子は喜んで、残りの半偈を聞きたいと願い、この身を捨て、羅刹に食せしめることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞き終え、その偈を石、壁、樹、道に書写してから高い樹に登り、身を投げた。その時、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受け止め大地に置き、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏するであろうと説いて姿を消したという。

 

帝釈

梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indra)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。

 

尸毘王

梵語でシビ(Śibi)、シビカ(Śibika)といい、安穏、与と訳す。釈尊が過去世に菩薩として檀波羅蜜を修行していた時の名。菩薩本生鬘論巻一によると、帝釈天と昆首羯摩天は、鷹と鳩に化身して、尸毘王が真に菩薩として精進し、仏道を求めているかどうかを試そうとした。尸毘王は、鷹に追われて王のふところに逃れてきた鳩を救い、飢えた鷹に身の肉を与えたという。大智度論巻三十五には「帝釈は自ら化して鷹と為り、昆首羯摩は化して鴿と作る。鴿、王に投ずるに、王は自ら身肉を割き、乃至身を挙げて、称に上り、以て鴿の命に代り、地は為に震動せり」とある。

 

昆首羯摩天

梵語ヴィシュヴァカルマン(Viśvakarman)の音写。昆守羯摩・昆首婆羯摩とも書く。帝釈の臣で三十三天に住する天神。妙業・巧化師・種々工業と訳す。

 

班足王

梵語カルマーシャパーダ(Kalmāapāda)の意訳。鹿足ともいう。足に斑点があり、そこから斑足王と名づけられた。邪師の教えにより千人の王の首を得ようとして九百九十九王を捕えた。その千人目として捕えられたのが普明王であった。

 

普明王

須陀須摩王、須陀摩王ともいい、梵語シュルタソーマ(Śrutasoma)の音写。普明王は意訳。釈尊が過去世で国王として尸羅波羅蜜の修行をしていた時の名。須陀須摩王は、精進してつねに些細な約束事でも破らず、持戒波羅蜜を修したという。あるとき、斑足王に捕えられ、他の九百九十九人の諸王とともに首を斬られるところであったが、一人の婆羅門への供養をする約束を果たすために七日間の猶予を乞うた。そこで、斑足王は、帰国を許した。須陀須摩王は、彼の婆羅門に供養をし、王位を太子に譲って約束どおり王のもとにもどった。斑足王はその正直さにうたれて、須陀須摩王だけでなく他の九百九十九人の王をも許したという。賢愚経巻十一、大智度論巻四等にある。

 

あぬるだ

梵名アニルッダ(Aniruddha)の音写。阿那律尊者のこと。無貧・如意と訳す。釈尊十大弟子の一人。天眼第一と称せられた。釈尊の従弟。楞厳経巻五によれば、出家した当初、居眠りをしていたため仏から呵られ、自らを責めて七日間眠らずにいて両眼を失った。しかし、この縁によって天眼を得たという。法華文句巻一下には「阿㝹樓駄、また阿那律という、また阿泥盧豆という。皆、梵音の奢切のみ。此には無貧と翻じ、または如意、または無猟と名づくるなり。昔、饑世に於いて辟支仏に稗の飯を贈るに、九十一劫の果報を充足することを獲たり」とあり、「あぬるだが金はうさぎとなり死人となる」の故事を説いている。すなわち、弗沙仏の末法の世に饑饉があった。辟支仏が乞食を行じていたが何も得られなかった。それを一人の貧人が見て悲しみ悼み、稗の飯を供養した。そののち貧人が稗を採りに行った時に、兎がいて跳びはねて貧人の背中に抱きつくと死人に変じた。貧人が驚いて離そうとしたが離れなかった。日暮を待って衣で背中を覆い家に帰りつくと、死人は地に落ち金人となった。その指を抜くに随って生じ、取っても尽きることが無かった。悪人や悪王がこれを聞き奪おうとしたが、彼らは死体を見るのみであった。しかし貧人が見ると閻浮檀金からできた金宝であった。こうして九十一劫の間、この果報が充足したので、無貧と呼ばれた。

 

釈摩男

梵語マハーナーマ(Mahānāma)の訳。摩訶那摩とも書く。五比丘の一人。すぐれた神通力をもっていた。宋の従義の天台三大部補注巻十一には「善見律に云く、釈摩男は是れ仏の叔父の子なり。(中略)釈摩男、諸の瓦礫を執るに、皆ことごとく宝となる。これ過去心力の致すところに因る」とある。

 

講義

海中出現の釈尊像に事寄せて、無始以来、生死の大海の中にいた我等衆生も法華経を信ずることによって釈尊と同じ仏になることができるのであると述べられ、このように凡夫が即身成仏できるのが一念三千の法門であることを説かれている。

 

我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが・法華経の行者となりて無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身とならん事あにかの仏にかわるべきや

 

我々衆生の生命の奥底には金剛の如き輝ける仏性が無始以来具わっており、それが法華経への信心によってあらわれて即身成仏できることを述べられている。

衆生が仏性を具備していることを明確に説き明かしたのは、いうまでもなく、釈尊出世の本懐の経たる法華経である。

したがって、我々衆生が、法華経に出あわずに迷っているときは、自分の生命の奥底に仏性を具えていることを知らず、生死の苦海を流転してきたのである。

しかし、今生に法華経に出あい、これを信じ実践する行者となってはじめて、自分の生命の奥底に本来仏性を具えていることを覚り、教主釈尊と同じ仏身になることができるのである。

「無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身とならん事」の無始色心とは無始以来の凡夫の生命ということである。本是理性とはその凡夫の生命に本来具わっている仏性をいい、これは三身の中の法身にあたる。妙境・妙智とは、我が生命が妙法の当体であることを覚知することでこれは報身にあたる。その時、金剛不滅の仏身となるのであり、これは応身にあたる。すなわち三身如来とあらわれるとの仰せである。

 

過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり

 

法華経寿量品では、釈尊が過去五百塵点劫に成道したことが説き明かされているが、それは一人釈尊のことではない。その成道の根源である久遠元初の南無妙法蓮華経を受持した人はすべてこの時の釈尊と同じように成仏することができるとの仰せである。

久遠の昔に、釈尊が行じた成道の本因の法が南無妙法蓮華経である。その久遠元初の南無妙法蓮華経を行じているのであるから、釈尊と全く異なることなく、三身如来となることができるのである。「日蓮が修行は久遠を移せり」(0862:久遠成直体の本迹:03)との百六箇抄の甚深の仰せを拝すべきであろう。

 

法華経の一念三千の法門・常住此説法のふるまいなり

 

我等衆生の生命に仏性を具し、一切衆生の即身成仏を説いたのが「法華経の一念三千の法門」であり、仏は常にこの娑婆世界にあってこの一念三千の法を説いてくださっているのであるとの意である。

そして、このように尊い教えが法華経であり、仏は大慈悲をもって説いてくださっているのであるが、凡夫はそれを知らないでいるのである。それを寿量品には「我れは常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顚倒の衆生をして 近しと雖も見ざらしむ」と説かれている。仏は常に身近におられて正法を説かれているのであるが衆生にそれが見えないのは衆生自身の顚倒・迷妄によるということである。正法を信受してこの顚倒を正し迷妄を晴らしたときにはじめて仏が常住されていることを知り、我が身が本来仏であるとの法華経の真理を覚って即身成仏を遂げることができるのである。

 

悟の不同は沙羅の四見の如し、一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ

 

沙羅の四見とは、像法決疑経に説かれているもので、釈尊が涅槃に入った同じ沙羅林でも見る人の機根の相違により、四種の見方があったということである。これは、仏が常にこの娑婆世界におられ説法されていても、顚倒の衆生は、仏はこの世にはおられないと考えていることを譬えていわれた言葉である。「一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ」とは、迷いと悟りの間に、厳然たる差別を設け、迷いを打破して悟りに至ることが成仏であると説いたのが爾前経であるが、これに対して、九界すなわち法界のあらゆる衆生がそのままで成仏するということが法華経の教えであり、そのような成仏が一念三千の成仏である。

いうまでもなく、これはあくまで法華経を信じ行ずるという一点を前提にしていえるのであって、この一点をはずして安易に九界がそのまま仏なのではない。

ともあれ、雪山童子の前に姿をあらわした鬼神が帝釈天であったこと等のように、凡夫は本当の姿を見抜くことができないのである「木像即金色」云云といわれて「あぬるだが金はうさぎとなり死人となる」といわれているのは、大聖人に捧げられた立像の釈迦仏が、大聖人の境界においては先に日寛上人の御説明を挙げた中の第三にあったように、久遠元初の本仏と映られていたということである。それと同じように凡夫即仏であり、即身成仏していくのが「一念三千、我実成仏」ということなのである。

 

 

第五章 再度の賛嘆と激励

しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか、伊東とかわなのみちのほどはちかく候へども心はとをし・後のためにふみをまいらせ候ぞ、人にかたらずして心得させ給へ・すこしも人しるならば御ためあしかりぬべし、むねのうちにをきてかたり給う事なかれ・あなかしこ・あなかしこ、南無妙法蓮華経。

       弘長元年六月二十七日                  日蓮花押

     船守弥三郎殿許へ之を遣わす

 

現代語訳

そうであるなら弥三郎殿夫婦二人は教主大覚世尊が生まれ変わられて日蓮を助けられたのであろう。

伊東と川奈は道程は近いけれども心は遠い。後日のため文を差し上げておく。人に語らず心得ておかれたい。少しでも人が知ることになれば、弥三郎殿にとってためにならないであろう。胸のなかにしまっておいて他人に語ったりしてはならない。あなかしこ、あなかしこ。南無妙法蓮華経。

弘長元年六月二十七日        日 蓮  花 押

船守弥三郎殿許へ之を遣わす

 

語釈

教主大覚世尊

仏教の教主である仏のこと。大覚教主大覚世尊とは、仏の覚りのこと。世尊とは仏の十号のひとつで、あらゆる人々から尊敬される者の意。大覚世尊とはこれら二つの語をあわせたもの。釈迦牟尼仏の別称。

 

講義

本抄を結ぶにあたって、繰り返し船守弥三郎夫妻の献身的な外護に対して「教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか」と賛嘆されている。そして「伊東とかわなのみちのほどはちかく候へども心はとをし・後のためにふみをまいらせ候ぞ」と述べられ、大聖人がおられる伊東の地と船守弥三郎夫妻のいる川奈とは距離にしてそれほど遠くはないが、伊東、川奈の住民の大聖人に対する冷淡な眼や不穏な空気が、互いの行き来を妨げていて「心はとをし」といわれている。それ故に、後のために、この御書をしたためておくとの仰せである。

さらに、弥三郎夫妻の立場を配慮されて「人にかたらずして心得させ給へ・すこしも人しるならば御ためあしかりぬべし、むねのうちにをきてかたり給う事なかれ」との注意を与えておられる。大聖人が御流罪の身であることから当然といえば当然だが、周囲の眼がいかに厳しいものであったかがこの御文からも知ることができるし、その中で法華経の信仰を貫き、大聖人を外護申し上げた夫妻の不退の信心は、永遠の門下の鏡となっていくであろう。

タイトルとURLをコピーしました