一生成仏抄
第一章(一生成仏のための妙理を説く)
建長7年(ʼ55) 34歳 (富木常忍)
夫れ、無始の生死を留めて、この度決定して無上菩提を証せんと思わば、すべからく衆生本有の妙理を観ずべし。衆生本有の妙理とは、妙法蓮華経これなり。故に、妙法蓮華経と唱えたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり。
現代語訳
そもそも、無始以来の生死流転の苦しみをとどめ、このたびこそ必ず無上菩提を証得しようと思うならば、すべからく衆生本有の妙理を観ずるべきである。
この衆生本有の妙理とは妙法蓮華経のことである。ゆえに妙法蓮華経と唱えたてまつるならば、衆生本有の妙理を観ずることになるのである。
語釈
無始の生死
①無始以来、際限なく六道を輪廻し、生死の苦しみを繰り返すこと。②生死即涅槃と開く本有の生死のこと。
無上菩提
最高の悟りを得ること。成仏の境地。「無上」最上・最高。「菩提」は梵語ボーディ(bodhi)の音写、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種あるが、仏の菩提は最高であり、これに過ぎることがないことを無上菩提という。
衆生本有の妙理
一切衆生の生命に本然的に具備している理で、衆生の本性・法性のこと。
衆生
梵語サットヴァ(sattva)の音写。薩埵と訳す。この世に存在するもの、生けるもの。主として人間をさす場合が多いが、感覚をもつ生き物すべてをいう。
本有
久遠より常住していること。
妙法蓮華経
①経典の名前。②法華経に説かれる法理。③所詮の法体。南無妙法蓮華経のこと。三大秘法のこと。
講義
本抄は建長7年(1255)、日蓮大聖人が34歳の御時、鎌倉で著された書である。宛名が記されていないが、古来、富木常忍に与えられたものと伝えられている。御真筆は現存していない。
建長5年(1253)4月28日に安房(現在の千葉県南部)の清澄山で立教開宗された日蓮大聖人は鎌倉へ入られ、8月頃に名越(神奈川県鎌倉市大町)の松葉ケ谷に草庵を結ばれて、大法弘通を始められた。この最初の2、3年間の御化導で、後に門下の中心となる日昭、日朗、四条金吾、池上宗仲、工藤吉隆等が次々に入信しているが、そのなかで最初に檀那となったのが富木常忍で、建長6年(1254)ごろと考えられている。
富木常忍は下総国葛飾郡八幡荘若宮(千葉県市川市)に住み、下総国の守護である千葉氏に仕え、執事のような地位にあったとされる。学問の素養もあって、大聖人から観心本尊抄、法華取要抄、四信五品抄等の重書をはじめ、数多くの御抄を賜っており、門下の重鎮として活躍した。
また、文応元年(1260)8月27日の松葉ケ谷の法難の際には、自邸に大聖人をお迎えするなど、常に外護の任を務めた強信者である。
本抄は立宗の2年後の御著作でもあり、大聖人御一代の御化導中、最初期にあたる書といえる。
内容は、一生成仏の要諦は、衆生本有の妙理を観ずることにあり、それは妙法蓮華経を唱えることである。妙法蓮華経こそ、衆生の一心に法界の万法を具えていることを明かした経であり、したがって、妙法の五字を持ち唱えるならば我ら衆生の一念の心にも十界がことごとく具わる。一代八万の聖教や三世の諸仏菩薩も我が心にほかならないから、仏といい衆生といっても、また浄土といい穢土といっても迷悟の相違にすぎないのであって、迷いの生命である闇鏡を磨いて明鏡にしていくのが「只南無妙法蓮華経と唱えたてまつる」ことであると示されている。
一生成仏と即身成仏について
一生成仏とは、凡夫が一生のうちに成仏の境地に至ることをいい、即身成仏とは凡夫がその身のまま仏に成ることをいう。ともに法華経による成仏の姿で、日蓮大聖人の仏法においては結局は同じことを意味している。その修行の期間に約して言ったのが「一生成仏」であり、その姿に約して言ったのが「即身成仏」である。
一生成仏は、多くの権大乗経典で説く歴劫修行による成仏に対するものであり、即身成仏は、とくに浄土経典に説く来世に浄土に往生して成仏するとする往生成仏、あるいは女人が女身を改めて男子となって成仏したり悪人が善人になって成仏したりする改転の成仏などの用語に対するものである。
即身成仏、一生成仏ともに、凡夫が現在世の一生において仏に成る、という法華経の成仏観を表している法門であるから、日蓮大聖人は諸御抄に妙法修行の究極の目的としてこれらの言葉を用いられている。
だが、仏教の歴史においてこの二つの法門がどのようにして成立し、かつ使われてきたか、という点になると、若干の相違がある、といってよいであろう。「一生成仏」は必ず「即身成仏」であるが、「即身成仏」であるからといって、必ずしも「一生成仏」であるとは説かれない場合があるのである。
① 中国天台宗における即身成仏観
まず即身成仏であるが、この法門は、法華経の提婆達多品第十二の竜女の成仏に起源を有しているといってよい。もっとも、提婆達多品には竜女の成仏の姿は示されてはいても、「即身成仏」という言葉が述べられているわけではない。
提婆達多品の後半において、文殊師利菩薩が自分は海中の竜王の王宮で多くの衆生を法華経によって教化してきた、と述べたのに対して、智積菩薩はその法華経を修行することによって誰か速やかに仏に成るものがいるのか、と質問した。
これに対して文殊は娑竭羅・サーガラ(Sāgara)の音写。竜王の八歳の娘がそれである、と答えた。そこで智積は釈迦如来ですら無量劫もの間、難行苦行を修した後に最高の悟りを開くことが出来たというのに、竜女がいかにすぐれていたとしても須臾の間に速やかに正覚を定じるとは、だれも信じまい、といった。その智積の言葉が終わるか終わらないかに、竜女が法華経の会座に姿を現して釈尊を礼拝し、仏陀を賛嘆した。
その時、舎利弗が竜女に対して、女人にはもともと五つの障りがあるから、竜女が女の身で悟りを開くことは難しいと述べると、竜女は手に持っていた、三千大千世界にも匹敵する価値のある一つの宝珠を釈尊に奉り、釈尊はその宝珠を受け取った。竜女は智積菩薩や舎利弗に対して、自分が奉った宝珠が自分の手を離れるのと釈尊が受け取ったのと、時間の間隔があったか否かと問う。
智積らが世尊は速やかに受け取られたと答えると、竜女は、世尊が宝珠を受け取った速さよりも速やかに成仏するからそれを見よ、と言ったかと思うと、竜女は会座の大衆の前で、たちまちのうちに男子と変じて菩薩となり、菩薩の行を具えると同時に南方の無垢世界に行って宝蓮華の座に坐し、仏陀の姿を現して三十二相八十種好を具え、十方の一切衆生のために説法している姿が見られた。
以上の竜女の成仏に関して、天台大師智顗は法華文句巻八下において次のように釈している。
「第七に竜女、現に成じて明証するに復二あり。一には珠を献じて円解を得るを表す。円珠は其の円因を修得するを表す。仏に奉るは是れ因を将って果を剋するなり。仏の受けたもうこと疾きとは果を獲ること速やかなるなり。此れ即ち一念に道場に坐して成仏すること虚しからざるなり。二には正しく因円果満を示す。胎経に云く『魔梵釈女は皆身を捨てず身を受けずして、悉く現身に於いて成仏することを得』と。故に偈に言く『法性は大海の如く、是非有りと説かず。凡夫賢聖人、平等にして高下無し、唯心垢を滅するに在り、証を取ること掌を反すが如し』と」。
ここで天台大師は、宝珠が竜女の手にあるのは円教における因としての修行を表しているとし、その宝珠を竜女が仏に奉ったことは因をもって果を獲得することを意味し、竜女の手から仏の手に移るのが速やかであることは仏果を得ることの速やかさを表している、としている。そして、仏果を得ることの速やかさとは、その肉身のままで仏となることを意味する文証として「胎経」にある「現身に於いて成仏すること」を引用している。
〝現身〟とは、現在に生を受けている、この身体のことであるから、まさに、この現在の身体のままで成仏することであるのはいうまでもない。
次に、法華文句を釈した妙楽大師の法華文句記巻八の四には「正しく円果を示す中に、竜女作仏を云う。問う、分段を捨てずして即成仏と為すや。若し即身成仏にあらずば、此の竜女成仏及び胎経偈、云何が通ぜんや。答う、今、竜女の文、権に従って説く。円経の成仏速疾なるを証するを以って、若し実行疾せずば権行徒に引く。是れ則ち権実義等理徒に然らざる故に胎経偈実得に従うを説く。若し実得とは、六根浄に従って無生忍を得。物の好む所に応じて神変を起こし、現身成仏及び円経を証するを容る。既に無生を証す、豈本捨受無く、何が此れを捨て彼に往くを妨げるを知り能わざらんや」とある。
ここでは竜女成仏について「即身成仏」と呼んだり「現身成仏」と称したりしているが、法華経提婆達多品第十二にも天台大師智顗の法華文句にもあらわれなかった「即身成仏」という言葉を使っていることが注目される。
② 伝教大師の即身成仏観 ~ 一生成仏との関連
更に、日本天台宗の祖、伝教大師最澄は法華秀句巻下で、「即身成仏」という言葉を冠した即身成仏化導勝という章を、法華経の十の勝れている点のうちの第八として立てている。
このなかで伝教大師は「明らかに知んぬ、能化の竜女、偈に我闡大乗教度脱苦衆生と云うは、已顕真実の内証の大乗にして、是れ未顕真実の前三が中の権因の大乗にあらざることを。何を以っての故に。能化の竜女、歴劫の行無く、所化の衆生、歴劫の行無し。能化所化、俱に歴劫無し。妙法の経力を以って即身に成仏し、上品の利根は一生に成仏し、中品の利根は二生に成仏す。下品の利根は三生に成仏す。普賢菩薩を見て菩薩の正位に入り、旋陀羅尼を得る。是れ即ち分真の証なり」と説いている。
これは、提婆達多品で竜女が「我れは大乗の教を闡いて 苦の衆生を度脱せん」と誓った偈文を釈したものである。
まず、偈文のなかの大乗の教えというのは、未顕真実の権大乗の教えではなく、すでに真実を顕した仏陀自身の内なる悟りである実大乗の教えを意味していると述べている。
その理由は能化の竜女に歴劫の修行がないし、所化の衆生にも歴劫の修行はなく、能化所化ともに歴劫の修行がないにもかかわらず、妙法を説く経の力によって、その身体のままで成仏しているからであると説き、次に、その即身成仏のなかにも上中下の三種類の利根によって相違があり、上の部類の利根は一生の間に成仏し、中の部類の利根は二度の生涯のなかで成仏し、下の部類の利根は三度の生涯の間に成仏するとして、三生成仏までを即身成仏の範囲としている。また、即身成仏の内容として、普賢菩薩を見て菩薩の正しい位に入り「旋陀羅尼」、すなわち空理に達する智慧の力を得ることとし、その位は天台宗での修行の位である六即位のうち第五の分身即にあたるとしている。
更に、伝教大師はこの文の直後に法華経の結経・普賢経の「三昧に入らざれども、但だ誦持するが故に、心を専らにして修習し、心心相次いで、大乗を離れざること、一日より三七日に至れば、普賢を見ることを得。重き障有る者は、七七日の後、然る後に見ることを得。復た重きもの有る者は、一生に見ることを得。復た重きもの有る者は、二生に見ることを得。復た重きもの有る者は、三生に見ることを得」という文を引用している。
この経文では、たとえ三昧に入らなくても、大乗すなわち法華経を受持し読誦して専心に修行しつづけると、一日から二十一日に至る間に普賢菩薩を見ることができるのであり、重い障害のある者は四十九日の後に見ることができ、更に重い者は一生、あるいは二生、あるいは三生の間に見ることができる、と述べている。
更にまた、同じ普賢経の文を引いて次のように述べている。すなわち「釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけたてまつる。其の仏の住処を常寂光と名づく。常波羅蜜の摂成する処、我波羅蜜の安立する処、浄波羅蜜の有相を滅するの処、楽波羅蜜の身心の相に住せざるの処、有無の諸法の相を見ざる処なり、乃至此の懺悔を行ずる者は、身心清浄にして法の中に住せざること、猶流水の如し。念念の中に普賢菩薩及び十方の仏を見たてまつることを得ん。時に諸の世尊、大悲光明を以って行者の為に無相の法を説きたもう。行者、第一空義を説くことを聞き奉らん。聞き已りて心に驚怖せず。時に応じて即ち菩薩の正位に入ると。当に知るべし、普賢経は能結の法華経なり。即入の言は即身と異なることなし。他宗所依の経には都て即身入無し。一分即入と雖も八地已上を推して凡夫の身を許さず。天台法華宗には具に即入の義有り」とある。
これは、懺悔を行じて修行に励む者は念々のなかに普賢菩薩および十方の仏を見ることができ、諸仏世尊が第一義空を説法するのを聞いて、菩薩の正位に入る、との普賢経の文を釈したものであるが、とくに〝応時に即ち菩薩の正位に入らん〟の経文の〝即入〟とは〝即身〟と同じであるとしている。
また、普賢菩薩および十方の仏を見、第一義空の説法を聞いて菩薩の正位に入る、というのは、先の文に、普賢菩薩を見て菩薩の正しい位に入り空理に達する智慧の力を得る、とあったのと内容は一致している。
以上のように、伝教大師は、法華経を受持し読誦しつつ懺悔する修行者は〝即身に〟普賢菩薩ならびに十方の諸仏の姿を見ることができ、第一義空の説法を聞いて空理に達する智慧の力を獲得することができるとして、それが即身成仏であるとしている。
その境地に至るのに要する期間として、上の利根は一生、中の利根は二生、下の利根は三生としており、この三生成仏までを伝教大師は即身成仏として認めていたことが分かる。
更に、即身成仏の位を、円教の菩薩の六即位、五十二位の段階にあてはめると、先の文で見たように、六即位でいえば第五の分真即以上の位であり、これは五十二位では、十住位の初住位以上にあたることになる。
したがって、理即、名字即、観行即、相似即の位には即身成仏を認めなかったといってよい。
伝教大師の即身成仏観は大筋としては中国の天台大師のそれを引き継いでいる。
天台大師智顗は法華玄義において、迹門十妙のうちの位妙を明かすなかで、円教は煩悩即菩提、生死即涅槃の円融を説き、一行即一切行であり、初めの位と後の位を不二とする初後不二の法門を根本とする教えであるから、本来は断ずべき煩悩もなければ求むべき菩提もないとしている。
しかしそれはあくまで理の立場においていえるのであって、実践修行の立場からは、高低浅深の相違があるとして、五十二位を設定している。
しかも、天台大師の成仏論は大枠としては初住成仏にあった。これは分段生死の現在世の今生において仏道修行によって到達できる究極の果位を十住の初住位までとし、初住以上の証悟は変易生死の世界に属するから即身が得られる果位を超えるとしたためである。
③ 日蓮大聖人における即身成仏と一生成仏
以上、即身成仏、一生成仏をめぐって仏教史上の展開をみてきたが、最後に大聖人の仏法においてはどうであろうか。
結論からいえば、大聖人はまさしく名字即をもって即身成仏の位とされるのである。
三世諸仏総勘文教相廃立には「十法界の依報・正報は法身の仏・一体三身の徳なりと知つて一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し」(0566:14)と仰せられている。
また、十如是亊には「此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、かう解り明かに観ずれば此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり、譬えば春夏・田を作りうへつれば秋冬は蔵に収めて心のままに用うるが如し春より秋をまつ程は久しき様なれども一年の内に待ち得るが如く此の覚に入つて仏を顕はす程は久しき様なれども一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり。此の道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども同じく一生の内に顕はすなり、上根の人は聞く所にて覚を極めて顕はす、中根の人は若は一日・若は一月・若は一年に顕はすなり、下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば一生の内に限りたる事なれば臨終の時に至りて諸のみえつる夢も覚てうつつになりぬるが如く只今までみつる所の生死・妄想の邪思ひがめの理はあと形もなくなりて本覚のうつつの覚にかへりて法界をみれば皆寂光の極楽にて日来賎と思ひし我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり、秋のいねには早と中と晩との三のいね有れども一年が内に収むるが如く、此れも上中下の差別ある人なれども同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思い合せてあるべき事なり」(0410:13)と仰せである。
この御文では、我が身が三身即一の本覚の如来であると信じて観ずれば、上中下根の相違はあっても、一生のうちに本覚の如来を顕現して即身成仏できる、と仰せられている。
以上の二文からも明らかなように、天台大師が今生の生涯での成仏を十住の〝初住〟までに限定し、伝教大師も同じく〝初住位〟とし、かつ、成仏の達成を利根のなかの上中下の程度に応じて、一生成仏、二生成仏、三生成仏までとしたのに対し、日蓮大聖人は六即位の第二名字即位において上中下の機根の相違にかかわらず一生の間に即身成仏できる、とされたのである。
つまり、日蓮大聖人の仏法においてこそ、即身成仏と一生成仏とが両立し統一されたのである。
なおここまでは、我々が一生のうちに成仏ができることを、日蓮大聖人の仏法の義理において述べてきたものであり、真実の一生成仏は、あくまでも御本尊を受持する信行唱題の実践によって初めて可能となることを付記しておきたい。
④ 真言の即身成仏義に対する日蓮大聖人の破折
日本の仏教宗派のなかで、即身成仏を説くものに真言宗密教と日本天台宗密教とがあるが、ここでは、大聖人がどのように双方の密教の即身成仏を破折されたかを諸御抄によって拝しておこう。
弘安3年(1280)7月の妙一女御返事では、真言宗が自宗の即身成仏論の根拠としている、空海の顕密二教論や即身成仏義を取り上げて破折されている。
とくに空海が竜樹の著作とされる菩提心論の文「唯真言法の中にのみ……諸教の中に於いて闕いて書さず」を依りどころにしていることについて「菩提心論は一には経に非ず論を本とせば背上向下の科・依法不依人の仏説に相違す」(1256:18)と仰せられ、菩提心論はあくまで「経」ではなく「論」にすぎないのであり、このように、上なる「経」に背き、下なる「論」の低い教えを依拠としているのは「背上向下」罪にあたる、と破られ、また、涅槃経巻六の「法に依って人に依らざれ」との仏説に相違していると指摘されている。
更に、太田殿女房御返事などでは、菩提心論自体が竜樹の作ではなく訳者の不空自身の作であろうと論難されている。
次いで、空海が即身成仏の根拠として挙げた経典としては大日経と金剛頂経とがあるが、これについても「難じて云く此等の経文は大日経金剛頂経の文なり、然りと雖も経文は或は大日如来の成正覚の文・或は真言の行者の現身に五通を得るの文・或は十回向の菩薩の現身に歓喜地を証得する文にして猶生身得忍に非ず何に況や即身成仏をや」(1256:16)と破折されている。
まず「大日如来の成正覚の文」とは大日経巻二の「我本より不生なるを覚る」の文をさしているが、これはあくまで大日如来が正覚を成じたことを示したものである。
また、「真言の行者の現身に五通を得るの文」とは同経巻三の「此の身を捨てずして神境通を逮得し、大空位に遊歩して、しかも身秘密を成す」という経文をさしているが、これは真言の行者が修行によって現身に五通を獲得するというだけのことである、と破られている。
漏尽通を加えて阿羅漢が得る六通になるが、五通だけなら外道でも得られるものにすぎないからである。
次に「十回向の菩薩の現身に歓喜地を証得する」というのは、空海が即身成仏義に引用している金剛頂経の「若し衆生あって此の教に遇うて、昼夜四時に精進して修すれば、現世に歓喜地を証得し、後の十六生に正覚を定ず」という経文をさしているが、歓喜地とは、菩薩の五十二位のうち第四十一位の初地にあたり、生身得忍ですらない、と破折されている。
生身得忍とは、現実の身に、一切万法が本来無生で不生不滅との真理を認める「無生法忍」という位を得ることで、これは十地の第七、八、九地にあたるとされる。
したがって、空海が引用している金剛頂経の文は、とても即身成仏の根拠とならない、と破折されているのである。
次に、慈覚・智証に代表される台密については「慈覚・智証は善無畏・金剛智・不空三蔵の釈にたぼらかされて・をはするか、此の人人は賢人・聖人とは・をもへども遠きを貴んで近きをあなづる人なり、彼の三部経に印と真言とあるに・ばかされて大事の即身成仏の道をわすれたる人人なり、然るを当時・叡山の人人・法華経の即身成仏のやうを申すやうなれども慈覚大師・安然等の即身成仏の義なり、彼の人人の即身成仏は有名無実の即身成仏なり其の義専ら伝教大師の義に相違せり、教大師は分段の身を捨てても捨てずしても法華経の心にては即身成仏なり、覚大師の義は分段の身をすつれば即身成仏にあらずと・をもはれたるが・あへて即身成仏の義をしらざる人人なり」(1257:16)と破折されている。
ここで大聖人は、慈覚・智証・安然等の即身成仏の義は有名無実の即身成仏であり、伝教大師の即身成仏義に違背するものであると破られている。
その理由は、伝教大師は法華円教の立場から、本来的には分段の身は法身の当体であるから、たとえ修行論のうえからは分段の身を捨てて即身成仏するといっても、それは法身の体についての「不捨」を前提としたうえでの「捨」であって、結局、分段の身を捨てても捨てなくとも、法華円教においてはともに即身成仏であるとしたのに対して、彼らは分段の身を捨てると即身成仏ではないと考えたと仰せられている。
以上からも明らかなように、日蓮大聖人は、法華経に背いた東密と台密の即身成仏義はともに即身成仏の本義から逸脱したもので、有名無実に過ぎないと打ち破っておられるのである。
夫れ無始の生死を留めて……衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり
本抄冒頭の一節で、衆生が凡夫の身で一生の間に成仏するための法理と修行を簡潔に説かれている。
まず、三世の生命観のうえから、我々衆生は無始の昔から生じては死し、死しては生じて、三界六道の苦悩の世界を輪廻流転してきたことを仰せられている。
その苦の生死流転の流れを「此の度」こそとどめたいと思うならば、と仰せられている。「此の度」の言葉のなかに、仏法に出会えた今生のこの生涯こそ、生死流転の流れを留めて脱出できる千載一遇の機会である、との万感の思いが込められているようである。
そして、「此の度決定して無上菩提を証せんと思う」とは、仏法に出会えた今生において、必ず即身成仏・一生成仏を遂げようと思うならば「衆生本有の妙理」を観ずるべきである、と仰せられている。
ここに凡夫が一生成仏することができるための根拠が説かれているのである。
衆生本有の妙理とは、衆生に本来、もともと具わっている不可思議な理法との意である。この不可思議な理法を「観ずる」のであると、天台の法門における観念観法の言葉を用いて教えられている。しかし、衆生が止観、禅定によって、自らにもとから具わっている、目に見えない不可思議な理法を観察して覚知していく天台の法門の修行を教えられているのではない。
すなわち、衆生本有の妙理とは妙法蓮華経の五字なり、と示され、それゆえに、この妙法蓮華経の五字の題目を唱え奉るならば、衆生自身に本来具わっている不可思議な理法を〝観ずる〟こと=覚知すること、になると仰せられている。
もっとも、本抄の御述作が大聖人の立宗後間もないころであることから、御本尊受持については当然、仰せられていないが、今日の我々としてはあくまで御本尊受持を前提として説かれているものとして拝読していくべき御文である。
すなわち「観ずる」とは、三大秘法の御本尊を受持し題目を口唱する受持即観心のことと拝すべきである。
このように「観心」と表現されていても、末法の大法である三大秘法の御本尊御建立後の拝し方については日寛上人が、観心本尊抄の「観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり」(240:01)との一節について、観心本尊抄文段で「『我が己心を観ず』とは、即ち本尊を信ずる義なり。『十法界を見る』とは、即ち妙法を唱うる義なり」と述べられているところに明らかである。
第二章(妙法蓮華経の法体を明かす)
文理真正の経王なれば文字即実相なり実相即妙法なり唯所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く故に此の経を諸仏の智慧とは云うなり、一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心・法界に徧満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし、
現代語訳
法華経は文理真正の経王であるから、文字即実相であり、実相即妙法である。所詮、一心法界の法理を説き顕している教えを妙法と名づけるのである。ゆえにこの法華経を諸仏の智慧というのである。
一心法界の法理とは十界の衆生も、森羅三千の依報・正報も、色法・心法も、非情の草木、大空、国土のいずれも除かず、塵も残さずに一念の心に収めて、この一念の心が法界に広くいきわたることをさして万法というのである。この理を覚知することを一心法界ともいうのである。
語釈
文理真正の経王
法華経が、説かれた経文の理が真実で、諸経の王の位置にあること。出典は無量義経説法品。
文字即実相
法華経の文字がそのまま仏の悟りであり、実相であるということ。
実相
ありのままの姿
一心法界
一心と法界が相即不二であること。一念の生命に三千の諸法がそなわっているとする一念三千の法門をいう。「一心」は一念に同じ、「法界」は意識の対象となる一切の事物・事象のことで三千世間・三千諸法をいう。このうち「法」は一切諸法、森羅万象、「界」は差別、境界の意。「一念三千」とは、衆生の一念の心に、三千の諸法を具足する法門をいう。一念とは一瞬一瞬のわずかな心をさし、三千とは現象世界のすべてをいう。法華経迹門方便品に説かれる諸法実相・十如是を所依として、天台大師が摩訶止観に体系化した法門。同巻5上には「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す」とある。
十界
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界をいう。観心本尊抄には「或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり」(0241:07)「四聖も又爾る可きか試みに道理を添加して万か一之を宣べん、所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(0241:11)とある。
三千
三千大千世界のこと。
依正
依報と正報のこと。「報」は過去の行為の因果が色心の上にあらわれた必然の報い。この報いを受ける主体である有情の身心を正報といい、この身心が拠りどころとする環境・国土を依報という。依正の二法はともに過去の業によって報いたものであるから二果果報ともいい、相依相関性を有し、不二の関係にある。三世間でいえば五陰世間・衆生世間が正報、非情の国土世間が依報となる。
色心
色法と心法のこと。すべての存在を五種に分類した五位のふたつ。「色法」は一切の物質的存在のこと。一定の空間を占有し、自他互いに障害しあう性質と変化し壊れる性質を持つとされる。「心法」は心の働き・精神、及び一切法に内在する性質をいう。
非情草木
非情の草木のこと。「非情」は無心のもの。喜怒哀楽の情のないもの。感覚がないもの。
虚空刹土
大空と国土の意。「虚空」は梵語アーカーシャ(ākāśa)の漢訳。空間の意。空中のこと。「虚」も「空」もともに無の存在である。虚にして形質がなく、空であり、その存在が他のものに障害にならないゆえに虚空という。「刹土」は梵語クシェートラ(Kṣetra)の音写である「刹」に漢訳の「土」を加えた語。土地・国土の意。
一念の心
「一念」は心に深く思い込むこと、ふと思い出すことの意があるが、仏法では瞬間の生命をさす。
徧満
徧く満ち広がること。広く充満すること。徧はあまねく、満は満ちること。
万法
一切の諸法・森羅万象・万物・万象のこと。一切世間のあらゆる事物をいう。
覚知
覚り知ること。天台流でいえば観念的・理論的に仏法の道理を覚り知ることである。末法は受持即観心であり、信行具足してわが生命の上に仏界を顕現し、自らが妙法の当体であると実感することである。
講義
先に、衆生の一生成仏を可能にする法理が衆生本有の妙理=妙法蓮華経であると述べられ、ここでは、その妙法蓮華経が説きあらわしている内容を明瞭にされている。
まず、法華経という経は、一々の経文もその経文が表そうとしている内実の真理もともに真実で正しいという点において、諸経中の王であると述べられ、法華経の文字はそのまま仏の悟りである実相を表し、その仏の悟った実相=真理とは妙法にほかならないと仰せられている。
そして一心法界の法理を説きあらわしている教えを「妙法」というのであり、これこそあらゆる仏の悟りであることを、「諸仏の智慧」と言うのであると述べられている。
次いで、一心法界の法門の内容を詳しく説かれている。すなわち、一心法界とは一念の心に、十界三千の依正色心、有情はいうまでもなく非情草木や虚空、刹土などに至るまでの森羅万法が塵一つ残さず「法界」として収まり具わっているということであり、逆に、この一念の心が法界に遍満して万法を現ずるのである、と仰せられている。
そして、このように一身即法界、法界即一心の理を覚知することをも「一心法界」というのであると示されている。
文理真正の経王なれば文字即実相なり実相即妙法なり
「文理真正」という言葉は無量義経説法品第二の「善男子よ。是の如き甚深無上大乗無量義経は、文理真正に、尊にして過上無く、三世の諸仏の共に守護したまう所、衆魔群道の入ることを得ること有ることなく、一切の邪見生死の壊敗する所と為らず」という文をはじめとして、同経には数か所説かれている。
伝教大師は註無量義経巻二において、右に引用した経文を釈して次のように説いている。すなわち「甚深と言うは実相の甚深を謂う。無上と言うは実相の無上なり。大乗と言うは実相の大乗なり。無量義と言うは実相の無量義なり。経と言うは実相の義を説く能詮の教の名なり。文と言うは実相を説くの名句文なり。理と言うは文に詮する所の実相の理、実相を説くの文なり。故に名づけて真と為す。内証の妙理なるが故に名づけて正と為す」と。
このなかで「文理真正」の一つ一つの語について釈されている。まず「文」とは実相を説く名句文である、と説いている。〝名〟とは事物の名で単語をさし、〝句〟とは文章をさし、〝文〟とは名と句とがよりどころとする文字であり個々の音節をさしている。
つまり、文理真正の「文」とは実相の真理を説き表す単語や文章や文字・音節のすべて、言い換えれば、言語表現の一切をさしているのである。
次に、「理」とは「文」に表現された法理をさしている。すなわち、「文」がよく実相の真理を表すすべての言語表現で〝能詮〟とすれば、「理」は言語表現によって表される〝所詮〟の実相の理である。
そして、「文」が実相の真理を説き表しているゆえに「真」であるとし、「理」が仏陀の内証である不可思議な理法をさしているから「正」であるとしている。つまり「真」が「文」を形容し、「正」が「理」を形容しているのである。
以上の伝教大師の「文理真正」の語を、日蓮大聖人は釈尊出世の本懐、法華経の卓越性をたたえる語として用いられたのである。
このことは、無量義経が法華経の開経であり、序分に位置づけられることを考えれば、その本経であり正宗分にこそあてはめられるのは当然といえよう。
次に「文字即実相なり実相即妙法なり」という御文は、法華経が文理真正の経王であることを受けて「理」を真実にして正しく表現していることが「文理真正」ということであるから、そこから必然的に、法華経の文字はそのまま〝実相〟をあらわしているのであり、ここを大聖人は文字即実相、と仰せられたのである。
この御文の「文字」が妙法蓮華経の五字をさしておられることはいうまでもない。それゆえに、実相即妙法と仰せられているのである。
ところで、実相は、見ることのできないものであるが、それを自ら悟るとともに衆生に教え示すために仏は出世し説法されたのであるから、その仏の説法を記した経に、文字として表現されているという考え方が、この御文の根底を貫いているように考えられる。
この点について、大聖人は他の御書において「意は心法・声は色法」であり「色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり」(0469:04)と説かれている。
なお、大聖人が不立文字を掲げる禅宗を破折されるときも、この観点からなされていることに留意しておきたい。
すなわち「謂く教外と号し剰さえ教外を学び文筆を嗜みながら文字を立てず言と心と相応せず豈天魔の部類・外道の弟子に非ずや、仏は文字に依つて衆生を度し給うなり、問う其の証拠如何、答えて云く涅槃経の十五に云く『願わくは諸の衆生悉く皆出世の文字を受持せよ』文、像法決疑経に云く『文字に依るが故に衆生を度し菩提を得』云云、若し文字を離れば何を以てか仏事とせん」(0153:04)と仰せのように、仏は文字によって衆生を救っていくことができるのであり、文字を離れては衆生教化の仏事を行うことが不可能であると破折されている。
唯所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く
この御文は、妙法の法体の内容について、ただ所詮は一心法界の法門を説きあらわしているところをさして妙法蓮華経と名づける、と仰せられているのである。
「唯所詮」という言葉のなかに、妙法蓮華経の法体のはらむ意義は広大であるが、究極すれば一切法界の法理に帰着する、という意図が込められているようである。
一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木……此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし
一心法界の「一心」とは、この御文の後に出てくる「一念の心」であり、「法界」とは「十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土」をさしていることはいうまでもない。
この御文の前半である「一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて」では、法界の森羅万法が衆生の一念の心に集約され収まっていく方向を説かれており、後半の「此の一念の心・法界に徧満するを指して万法とは云うなり」では、法界の森羅万法といえども衆生の一念の心が遍満したものである、との方向が説かれている。
さて前半の御文では下は地獄界から上は仏界までの十界の衆生も森羅三千の万法も、更には有情の衆生の色心と依報正報も、また非情の草木から国土、虚空に至るまでのことごとくをさし、この法界のすべてが塵一つ残さず衆生の一念の心に収まっていることを「一心法界」というのである、と仰せられている。
後半では逆に、衆生の一念の心が遍満して法界の森羅万法を生み出していることを「一心法界」というのであると仰せられている。
こうして衆生の一念の心と法界の宇宙森羅万法とが互いに相即しあっていることを明かしたのが、一心法界の旨なのである。
それとともに、この法理を覚知すること自体をもまた「一心法界」というのである、と仰せられている。
無始の生死と一心法界との関係について
第一章と第二章の御文を通して、日蓮大聖人が説かれていることをまとめると次のようになる。
すなわち、衆生にあっても、その一念の心に十界の境界をはじめ三千の宇宙森羅万法を塵一つ残さずに収め、かつ、その一念の心が十界の境界、三千の宇宙森羅万法へと遍満している、という一心法界の姿が、その本来の姿なのである。
しかし、現実の衆生は、自らが本来は一心法界の真理を当体として存在しているということを知らないために生死流転の苦悩の流れに沈輪してきたのである。
したがって、法華経に巡りあえた今生のこの生涯において、生死流転の苦の流れを押し止めて、無上の悟りを開いて一生成仏するためには、自らが本来、一心法界の当体であるという妙理を覚知し、これに目覚めなければならない、という道理になる。つまり、本来の我が生命の本源に立ち帰ることである。
そのためには、衆生が本来一心法界の当体であることを明らかにした諸経の王である法華経を信じ、かつ、その肝要である妙法蓮華経の五字を唱えることが必要である、と勧められているのである。
第三章(妙法を唱える者の用心を説く)
但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず法麤なり、麤法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり、然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり、
現代語訳
ただし、妙法蓮華経と唱え、受持するとはいっても、もし己心の外に法があると思うならば、それは全く妙法ではなく麤法である。
麤法は法華経ではない。法華経でなければ方便の教であり、権門の教である。方便・権門の教であるならば、成仏の直道ではない。成仏の直道でなければ、多生曠劫の修行を経ても、成仏することができないゆえに、一生成仏することはできないのである。
ゆえに妙法と唱え、蓮華と読誦する時は、我が一念をさして妙法蓮華経と名づけるのであると深く信心を発すべきである。
釈尊一代の八万聖教、三世十方の諸仏・菩薩もすべて、我が心の外にあるとは、ゆめゆめ思ってはならない。
したがって、仏教を習学するといっても、心性を観じなければ、全く生死の苦しみを離れることはできないのである。
もし、心の外に道を求めて万行万善を修めようとするのは、たとえば貧しさに窮している人が日夜にわたって隣の人の財を数えたとしても、半銭の得分もないようなものである。
それゆえ、天台宗の妙楽大師の止観輔行伝弘決巻四のなかに「もし心を観じなければ重罪を滅することはできない」と述べられ、もし心性を観じなければ無量の苦行となると解釈されている。
ゆえにこのような人を「仏法を学しながらも外道となってしまう」と非難しているのである。このことを摩訶止観巻十上には「仏教を学びながらも、還って外道の見と同じになっている」と釈されている。
それゆえに仏の名劫を唱え、経巻を読誦し、華を散らし、香をひねることも、そのすべてが我が一念に納まっている功徳善根であると信心をとっていくべきである。
語釈
妙法
妙なる法。妙法は梵語・薩達磨(Saddharma)の音訳。「法」(dharma) に「正しい・真の・善」(sat) を被せたもので麤法に対する語。甚深微妙の法、または正しい法のことで、一往は法華経を指すが、再往は法華経の肝心・南無妙法蓮華経のこと。
麤法
円融円満でない不完全な法。あらい法。
今経
法華経のこと。
方便
悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。一に法用方便、二に能通方便、三に秘妙方便の三種に分かれる。①法用方便。衆生の機根に応じ、衆生の好むところに随って説法をし、真実の文に誘引しようとする教えの説き方。②能通方便。衆生が低い経によって、悟ったと思っていることを、だめだと弾呵し、真実の文に入らしめる方便。この二つは方便品に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と説かれる方便で、42年間の阿弥陀経、大日経、蘇悉地経等の権教で説かれている方便であるがゆえに「方便を捨てて」となる。秘妙方便。秘妙門ともいう。秘とは仏と仏のみが知っていること。妙とは衆生の思議しがたい境涯であり、長者窮子の譬えや衣裏珠の譬えによってわかるように、末法の衆生は種々の悩みや、凡夫そのままの愚かな境涯に住んでいるけれども、その身がそのまま、久遠元初以来、御本仏日蓮大聖人の眷属であり、仏なのだと悟る。これが秘妙方便である。悩んでいるときのわれわれも、仏であると自覚して、折伏に励む時も、その体は一つで、その人に変わりはない。これは仏のみの知れる不思議である。
権門
権教・権経で説く法門のこと。「権」は仮の意「門」は能入の意で、教道のこと。権に説かれた方便の教えをいう。
直道
一生成仏への正しい道。平和楽土建設への根本的解決の道。
多生曠劫の修行
幾多の劫を歴て、修行すること。歴劫修行と同じ。
多生曠劫
何回もこの世に生まれては死に、死んではまた生まれるというように、多くの生を受けて長い劫数を経ること。曠劫の「曠」は久しい、遠いの意。過去に長い時間をさす。「劫」は梵語カルパ (kalpa ) の音写「劫波」の略で、日時で測りがたい、極めて長い時限の意。
一生成仏
長期の歴劫修行によらず、凡夫の肉親のままで、この一生で仏の境界を得ること。衆生が凡夫の身のままで仏になる即身成仏と同義。爾前の諸経では、衆生は無量無数劫の修行を経歴し九界の姿を脱して仏になると説かれている。華厳・般若・方等などの諸経では、一往、即身成仏の義は説いているが実がなく、法華経にきて初めて、真実の即身成仏の法門が説かれた。法華経提婆品では八歳の竜女の成仏が明かされている。この竜女の成仏の文を妙楽大師が法華文句記で「即身成仏」としたのが最初で、以後法華経における肝要の法門として重要な地位を占めることばとなった。なお大聖人の御書で「一生成仏」の文が出てくるのは、「一生成仏抄」のみである。
一代八万の聖教
釈尊が一代50年間に説いた一切経のこと。
三世・十方の諸仏菩薩
「三世」とは過去・現在・未来、「十方」とは東・西・南・北・東南・西南・西北・東北・上・下をいう。千日尼御前御返事には「法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏・未来・星宿劫の千仏・乃至華厳経・法華経・涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏・尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり」(1315-02)とある。
心性
不変の心の本性、衆生の生命に本然的にそなわる心の本体。如来蔵心・自性清浄心をいう。
外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
雖学仏教・還同外見
「仏法を学すと雖も、還って外道に同ず」と読む。天台の摩訶止観巻十上に説く三種の外道のうち、学仏法成外道を明かした文と思われる。仏の教門もしくは教えの表面的な意義に執着して正理を得ることができずに煩悩を生じ、仏法の本意を逸脱して外道の識見に同ずる者をさす。
経巻
経文を書いた巻物。
功徳
功能福徳の意。功は福利を招く効能。この効能が善行に徳としてそなわっていることを功徳という。化城喩品には、大通智勝仏に対して梵天が宮殿に供養した功徳が説かれている。
善根
善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383:14)とある。
講義
前の御文までで、衆生が一生成仏するための根拠、法理が明かされたが、ここでは、一生成仏のための実践修行である妙法蓮華経の唱題行について、留意すべき根本姿勢を説かれるのである。
すなわち、まず、一心法界の意を表す妙法蓮華経を唱えるのであるから、自らの心の外に、法が存在すると妄想してはならないと指摘されている。
そうした妄想を根本としているのは、同じく妙法を唱えても、麤法を行じているのと同じになって多生曠劫を経ても成仏できず、いわんや一生成仏は不可能であると厳しく戒められている。
妙法の題目を唱える者は我が一念そのものをさして妙法蓮華経と名づけるのであると、深く信心を発起していくよう強く促されているのである。
次に、一代八万の聖教や三世十方の諸仏菩薩もことごとく我が心の外にあると、ゆめゆめ思ってはならない。一切の法も、一切の仏菩薩の功徳も、我が心にあるのであると信じて妙法を唱えていくべきであり、心性を観じないで心外に道を求めていては、たとえ万行万善を修行しても外道と同じになる、との妙楽大師の戒めを引かれている。そして、仏の名号を唱えるのも、経巻を読誦するのも、仏前に華を供え香りを供養することなどの行為も、いずれも自分の一念の心にもともと収まっている功徳であり善根であると信心をとって、一切の仏道修行に励んでいくべきであると仰せられている。
但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり
先に、衆生本有の妙理である妙法蓮華経の五字を唱えることが無上菩提を証する具体的実践であることが明らかにされた。
つまり、妙法蓮華経の題目を唱えることによって、一心法界の旨があらわれ、その身は一念三千の当体となっていくことが示されたのである。
ここでは、その一心法界の理を承けて、それゆえに、たとえ題目を唱えていても、妙法蓮華経の題目が指示する内容に背いて〝自分の心の外に、十界の衆生や森羅三千のもろもろの法が存在する〟と誤って妄想すると、それはすでに円融円満で完全な妙法を信じているのではなく、不完全で劣った粗末な麤法(そほう)を信じていることになる、と厳しく指摘されている。
「麤」とは「粗」に通ずる言葉で、「粗い」「雑な」「精密ではない」「欠けたところがある」といった意味をもつ。
この御文には、たとえ、形のうえではいかに妙法の題目を唱えていても、己心の外に法がある、と思っているのは、根本的に妙法の精神に背いていることになると厳しく指摘されているといえるであろう。
これを具体的にいえば、御本尊に唱題していても、自分の幸・不幸の原因を他人や環境に求めて、自らを省みようとしない姿勢は、「己心の外に法あり」と思っている姿勢だといえる。
不幸の原因は、せんじつめていけば、自らの過去世の業や誤った生き方、謗法行為にあるのであり、したがって、その不幸な境遇を打開するには、自身の生命を変革していく以外にない。
その自覚に立って信仰と生活に取り組んでいくのが、妙法が「己心の内」にあることを自覚している姿なのである。
妙法とは、すでに述べられたように、一切万法が我が一心に収まり、逆に我が一心が法界に遍満して万法となっているとの理を説き示した法である。
したがって、我が己心の外に自身の不幸の因があると思っているのは、この妙法を忘れている姿となるのである。
凡夫の一心を小さく狭いものとし、よそに素晴らしい仏・菩薩がおり、また、十方に浄福の楽土があると説いたのが爾前権教である。すなわち、その教えでは、一心は万法を包摂しないから、〝麤法〟となる。
口では妙法を唱えても、心では、不幸の因も、それを克服する力も自身の外にあると思い込んでいては、麤法に帰依しているのと同じになってしまう。
この御文は、そうした信仰の根本となっている内実が肝要であることを御教示されているのである。
方便権門の教ならば成仏の直道にあらず……一生成仏叶いがたし
方便権門の教えは、仏が衆生の好みや理解度に合わせて方便として説かれた随他意の教えでもあるから、凡夫にとっては分かりやすいし、親しみやすい。
自分の心と十界の諸法や法界の森羅万法とが別々であると考えるのは、凡夫のだれもがそのように感じ考えているから分かりやすく思議しやすいが、それゆえに〝妙〟ではないのである。
たしかに、思議しやすく分かりやすいが、一心法界という生命の真実の姿を説き切っていないゆえに麤法であり、成仏の直道とはならない、と仰せである。つまり、自分の一念の心と地獄界から仏界までの十界の諸法とが別々であると妄想しているかぎり、成仏の根本である、凡夫の己心が十界の諸法のなかの仏界を具えているという〝衆生本有の妙理〟からは隔たっていくばかりだからである。
このような麤法を「多生曠劫」にわたって修行しても、ちょうど、間違った方向に歩いていては、どれほど進んでも、正しい目的地には到達できないのと同じで、成仏できるわけがない。まして一生成仏ができるわけがない、との仰せである。
この御文は、方便・権門の大乗経に説かれた歴劫修行による成仏観や浄土経典にあるような、浄土に往生し、そこで修行して成仏するというような往生成仏などの考え方を破折されている。
都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず
釈尊が一代五十年に説いた八万聖教は「我身一人の日記文書なり」(0563:17)と大聖人の仰せのように、一心法界である生命の法理を説き明かしたものである。
また、その一代聖教に説かれる三世十方の諸仏菩薩も、所詮は、十界三千のなかの仏界、菩薩界を説いたものであるから、我が己心に収まるのである。
したがって、一代八万の聖教、三世十方の諸仏菩薩を我が己心の内にあるとするか、外にありと思うかは、そもそも仏教をどうとらえ信じているかということとつながっている。
すなわち、仏教は我が生命を説き明かされたものであるととらえれば、当然、これらは我が己心の内にありと信じているはずである。
我が己心の外にありと思っているのは、仏教をたんに作りごとか、おとぎ話と思っていることになるのである。
然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり
仏教を修学する意義は、自らの心の本性を観察し、自身の心の本性に森羅万法のすべてを具えているという妙理を覚知していくところにある。
したがって、形のうえでは仏教を修行しているといっても、自らの心の本性を観じようとしなければ、生死流転からの脱却を果たすことができなくなる、と仰せられている。
なお「心性を観」ずるということについては、妙楽大師湛然が止観大意において次のように説いている。すなわち「故に経に云く、『心、仏及び衆生、是の三差別無し』と。衆生は理に具し、諸仏は已に成ず。成と理と性、等しからざること莫し。謂く、一一の心中に一切心あり。一一の塵中に一切塵あり。一一の心中に一切塵あり。一一の塵中に一切心あり。一一の塵中に一切刹あり。一切刹塵も亦復然り。諸法、諸塵、諸刹身、其の体宛然として自性無く、性無くして本来物に随って変ず。所以に相入れども、事は恒に分かたる。故に我が身心、刹塵に遍す。諸仏、衆生も亦復然り。一一の身上の体、恒に同じけれども、何ぞ心、仏、衆生の異なることを妨げん。異の故に染浄の縁を分かつ。縁の体は本空、空にして空ならず。三諦、三観三にして三に非ず。三一、一三寄る所無し。諦、観名は別にして体復同じ。是の故に能所、二にして二に非ず。是くの如く観ずる時を心性を観ずと名づく。隨縁にして不変なるが故に性と為し、不変にして隨縁なるが故に心と為す。故に涅槃経に云く『能く心性を観ずるを上定と為す』と。上定は第一義と名づけ、第一義は名づけて仏性と為し、仏性は毘盧遮那と名づく」と。
ここでは、我々の心の本性に森羅万法を具していることの内容が説かれている。とくに、華厳経の「心仏及衆生是三無差別」の文を引用しつつ、衆生と仏とが本性において等しいとしている。また、一々の心に一切の心があり、一々の塵のなかに一切の塵があり、一々の塵のなかに一切の心があり、一々の心のなかに一切の塵があるとともに、我が身心が刹や塵へと遍じ、諸仏や衆生も同じであるとしている。
また、衆生、仏、心は本来、一体であるが、縁によって三つの異なりがあらわれるのであり、染と浄とに分かつことができるが、しかし、その異なりや染・浄の縁も本来は空であるから固定的に捉えてはならないし、更にその空なることにこだわってもならない、としている。
また、心性の〝性〟は隨縁にして不変なることをさし、〝心〟は不変にして隨縁なるところをさす、とも論じている。
以上からも、心性を観ずる、ということの内容が明らかとなるであろう。もっとも、これは天台の法門におけるものであることはいうまでもなく、日蓮大聖人の仏法においては、御本尊を信受し南無妙法蓮華経と唱題することが心性を観ずることになるのである。
さて、我々凡夫が無始以来、生死生死と流転し、苦の世界に沈輪しているのは、我々衆生にもともと具わっている妙理に無知で、これを忘却していることが根本原因であるから、したがって生死の苦を脱却して一生成仏を果たすには、その妙理を覚知する必要が説かれていた。
この法理からいえば、たとえ妙法の題目を唱えていても、その題目の意味する衆生本有の妙理に合致しようとする努力をしなければ、生死の苦を離脱することができないのは必然であろう。
ここからも、仏道修行において、自らの己心を見つめ、自己を変革向上させようと努力していくことが大切である所以が明らかとなる。
若し心外に道を求めて万行万善を修せんは……雖学仏教・還同外見と釈せり
仏道修行を励んでいるつもりであっても、仏法の根本である己心を見つめ心性を観察することから逸脱して、己心の外に仏道を求めることが無意味なものであり、あらゆる努力はかえって無量の苦行となり、外道と同じになってしまうことを厳しく指摘されている。
まず、自らの心性を観察せず、心の外に道を求めてどれほどの修行を重ね、善根を積もうとしても、ちょうど貧窮の人が日夜に隣の財を計算しても半銭の得るところもないようなものであるとのたとえを引かれて、その無意味さを指摘されている。
この「貧窮の人……」の譬喩は華厳経の菩薩明難品第六で説かれている。
文殊師利が法首菩薩に、どうして衆生は皆等しく正法を仏から聞きながらそれぞれ煩悩を断ずることが難しいのか、と問うたのに対し、法首菩薩はどれほど多くの仏法を聞いても仏説にしたがって仏説どおりに修行しなかったなら、なんら得るところがないことの理由を九つの譬喩を挙げて説くのである。その第四に「譬えば貧窮の人、日夜に他の宝を数うるに、自ら半銭の分無からんが如し。多聞も亦是くの如し」とある。
天台大師智顗はこの譬喩を法華玄義の巻一上で、七番共解の第六観心を釈するなかで用いている。また法華文句巻一上でも因縁、約教、本迹、観心の四釈を試みるうち、最後の観心釈で「若し迹を尋ぬれば迹広く、徒らに自ら疲労す。若し本を尋ぬれば本高く、高うして極むべからず。日夜に他の宝を数うるに自ら半銭の分無からん。但、己心の高広を観ずれば、無窮の聖応を扣く、機成じて感を致し己利を逮得す。故に観心の釈を用うるなり」と述べている。
つまり、自分の己心にもともと具わっている不可思議な真理を開いてこそ成仏するのであって、自分の心の本性に無知で、己心の外に成仏の道を求めて、どんなに修行し善根を積んでも、他人の宝を数えている貧窮の人と全く同じであるというのである。
次に「天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり」と仰せられている。
この文は〝天台の釈〟とあるが、妙楽大師湛然の止観輔行伝弘決巻四の二の文である。すなわち「見もし重き者は、還って観心において懺を修せよ、とは既に重を犯すと云う。独り観心のみならず。観心と言うは事懺を行ずるに必ず観心を藉る。若し観心無くんば重罪滅せず。観を以って主と為す」とあるなかの「若し観心無くんば重罪滅せず」にあたる。
この文の意味するところは、見の重い者、すなわち重い罪業を犯してきた者は、観心によって〝事懺〟、つまり、自分が犯したことであると深く懺悔するにあたって、必ず観心を行ずべきである。もし観心の修行がなかったならば、重罪を滅することができない。だから観心を主となすべきである、と言っているのである。
大聖人は本文でこの弘決の文を引用され、もし心の本性を観じないで己心の外に道を求めるなら、無量の苦行となり苦しみが増す、という戒めであると釈されている。
つまり、己心を観ずる修行でないと、重い罪業を滅することはできず、どれだけ仏道修行を積んでも、かえって量り知れない苦行となっていく、と仰せられているのである。
次に「かくの如き人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり」とは、己心を観ずることなく己心の外に成仏の道を求める人を、内道である仏法を修しているつもりで、外道に陥っているとはずかしめられている、ということである。
それを裏づけるために大聖人が引用されている「雖学仏教・還同外見」との文は、摩訶止観巻十上の「三に、仏法を学んで外道と成るとは」の段落から意を取って引用されたものと思われる。
すなわち「三に、仏法を学んで外道と成ずるとは、仏の教門を執して而して煩悩を生じ、理に入ることを得ざるなり。大論に云く『若し般若の方便を得ずして阿毘曇に入るは、即ち有の中に堕す。空に入るは、即ち無の中に堕す。昆勒に入るは、亦有亦無の中に堕す』と。中論に云く『非有非無を執するを愚癡論と名づく』と。倒に正法を執して還って邪人法と成るなり。若し摩訶衍の四門を学んで即ち般若の意を失するは、邪火の為に焼かれて還って邪人法となる……其の中理を見ざること外道と同じきを取る」等と述べている。
ここでは、仏法を学びながら外道に堕していくものとして、仏教の教門の表面的な字義にとらわれ、それに執着する結果、逆に煩悩を生じて、教門が表そうとした〝中の理〟に入り見ることができなくなり、外道と同じ見解になってしまうことを述べている。
つまり、般若の方便ということをわきまえずに阿毘曇の教えに執着してしまえば「有」という見解に堕し、空という教えに執着すると「無」の見解にとらわれ、更には「亦有亦無」の見や「非有非無」の見に堕して、いずれも外道と同じ見解となってしまう、との大智度論や中論を引いて、正法に値っても、それに執して、かえって邪法の人となってしまうと天台大師智顗は述べているのである。
日蓮大聖人は一代聖教大意で「外道に三人あり、一には仏法外の外道九十五種の外道・二に附仏法成の外道小乗・三には学仏法の外道妙法を知らざる大乗の外道なり」(0403:05)と御教示されているが、その第三の「学仏法の外道」が本文で仰せの例である。
つまり、仏法を修学しても、方便権教の考え方に執着して、妙法の真実義を知ることができなければ、結局は仏の教えから逸脱して、外道の識見に同ずることになってしまう、と厳しく指摘されているのである。
然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり
ここでは具体的に、仏の名号を唱える行為や経巻を読誦する行為、更には、仏前に香華を供える行為なども、その功徳善根はことごとく我が一念に納まっている、と信心を取るべきである、と仰せられている。
我々の日常的な修行に即して述べると、「仏の名を唱え」とは、末法の御本仏の宝号が南無妙法蓮華経であられるから題目を唱えることがそれにあたる。
「経巻をよみ」とは、法華経方便品第二、如来寿量品第十六の読誦である。「華をちらし」とは散華のことで、花をまいて仏に供養することをいうが、我々の修行においては、仏前に樒を具えることであり、「香をひねる」は拈香の意で抹香をつまんで焼香することであるが、線香をあげて香を焚くことも当然含まれる。
こうした供養の行為は外見的には一方的に衆生から仏に対して捧げられたもののように思われるが、その仏とは衆生の胸中の妙法そのものであるゆえに、御本尊への供養、ならびにこれに通ずるすべての行為は、一つ一つが我が心のなかでの功徳善根を積んでいることになっているのである。
このことを更に明確に示されているのが阿仏房御書において「阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房」(1304:09)と、阿仏房の一身がそのまま妙法(宝塔)であることを説かれたあとで「多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば・さにては候はず我が身を供養し給う」(1304:10)と仰せられている御文であろう。
第四章(迷悟不二に約し題目修行を勧む)
之に依つて浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明せり、又衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。
現代語訳
このことを、浄名経のなかで「諸仏の解脱を衆生の心行に求めるならば、衆生即菩提であり、生死即涅槃である」と説かれている。
また、浄名経の中に「衆生の心がけがれるならばその住む国土もけがれ、衆生の心が清ければ土も清い」と説かれるように、浄土といい穢土といっても、国土に二つあって隔たりがあるわけではない。ただ我らの心の善悪によって浄土とも穢土ともなるのである。
衆生といい仏というのもまた同じである。迷う時は衆生と名づけ、悟る時を仏と名づけたのである。たとえば曇った鏡も磨けば宝石のような明鏡と見えるようなものである。
我々の一念無明の迷いの心は磨かない鏡である。これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。それゆえ深く信心を発して日夜朝暮に、また懈らないで磨くべきである。
どのようにすれば磨けるのであろうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが磨くことになるのである。
語釈
浄名経
維摩経のこと。梵本は失われ,大乗集菩薩学論の中に引用文として断片を残すのみである。漢訳は鳩摩羅什が後秦の弘始8年(0406四)に訳した「維摩詰所説経」三巻など三種がある。維摩詰とは梵名ヴィマラキールティ(Vimarakīrti)の音写で、浄名(旧訳)、無垢称(新訳)と漢訳されている。維摩詰は毘舎離の富豪で、大乗仏教の奥義に通達していた居士。内容は病床にあった維摩詰と、見舞いに訪問した文殊師利菩薩をはじめとする仏弟子達との問答形式で、大乗の不可思議の妙理によって小乗教を破し、灰身滅智の空寂涅槃に執着する二乗を弾呵し、大乗に包摂することを趣旨としている。
解脱
梵語で(Vinukti)。煩悩の束縛から脱して、憂いのないやわらかな境涯に到達するという意味。
衆生即菩提
迷いの凡夫がそのままで成仏の悟りを得ること。「衆生」は九界・迷いの凡夫。「菩提」は仏界・悟りの境地。即身成仏と同義。煩悩即菩提・九界即仏界のこと。
生死即涅槃
生死とは迷い、涅槃とは悟り。この二つは一体のものであって不二であることをいう。止観には「無明塵労は即菩提・生死は即涅槃なり」とあり、煩悩即菩提の同意語。
浄土
浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384:02)と申されている。
穢土
けがれた国土のこと。浄土に対する語。煩悩と苦しみの充満する世界をいう。爾前迹門の諸経では、凡夫の住む娑婆世界を穢土とし、十方の国土に諸仏の浄土があり、そこに往生することを説いた。しかし法華経本門では、娑婆即寂光を明かし、この人間世界こそ仏の本国土であると説いた。
無明
迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。法性に対する言葉である。
法性真如
法性の法理、法性真如の一理、一妙真如の理ともいう。宇宙万有の実体で、真実にして平等無差別な絶対心理をいう、変化の仮相に対する語。南無妙法蓮華経のことをいう。
講義
一切法が己心にあることがこれまで示されてきたが、更に重ねて迷悟の二法も、一心に具わり、その一心の反映として穢土・浄土もあらわれることを示されて、己心を磨くことの重要性を教えられ、題目を唱えることが己心を磨く修行法であることを述べられている。
まず、維摩経から二つの文を引用され、衆生と仏といっても、別のものではなく、一心の生命のあらわれ方の違いであること、また、穢土と浄土というのも別々のものでなく、正報の生命の反映にほかならないことを述べられている。
つまり、心が迷っているか悟っているか、という二つの状態があって、それに応じて衆生・仏の相違があり、更に依正不二で、その生命の反映として穢土・浄土という相違と区分が生ずるのであって、実体としてそれらが存在するのではない。
したがって、その根本である一念の心を磨いて迷いの状態から悟りの状態へと転換していくことが肝要なのであって、そのためには南無妙法蓮華経と唱えることが肝要であると結論されている。
この段ではとくに当時の仏教宗派の多くが誤ってとらえていた固定観念を打ち破っておられることが分かる。
それは、仏と衆生、浄土と穢土というものが、互いに別々のものとして存在するという観念である。この誤った観念に乗じて、とくに阿弥陀仏による救いと浄土往生を説いた法然の浄土宗が隆昌したといってよい。
単なる仏の化導のうえでの方便にすぎなかった説法が、真実と妄想されてしまった典型的な事例であり、大聖人は、それを根底から打ち破っておられるのである。
浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば衆生即菩提なり……心清ければ土も清し
浄名経は維摩経のことで、正式には維摩詰所説経という。在家の仏教者・維摩詰を主役にした経であることから名づけられた。
維摩詰はサンスクリット語でヴィマラキールティ(Vimarakīrti)の音写で、意訳すれば浄名となるから浄名経ともいう。
初めの文は、同経巻中の問疾品第五の文から取意して引用されたものである。問疾品は、文殊師利菩薩が維摩詰の病気を見舞いに行き、維摩詰と語り合うところを描写した品である。
まず、御文の「諸仏の解脱を衆生の心行に求めば」というのは、問疾品においては「又問う『空は当に何に於いて求むべきや』、答えて曰く『当に六十二見中に於いて求むべし』、又問う『六十二見は当に何に於いて求むべきや』、答えて曰く『当に諸仏の解脱の中に於いて求むべし』、又問う『諸仏の解脱は当に何に於いて求むべきや』、答えて言く『当に一切衆生の心行の中に於いて求むべし』……」とある。
この問答は、仏教の基本的な思想である〝空〟をめぐって文殊菩薩と維摩詰とが問答しているところである。
文殊が〝空〟を何に求めるべきか、と問うたのに対して、維摩詰が六十二見の誤謬の見解のなかに求めるべきである、と答える。
更に文殊が、では六十二見の謬見を何に求めるべきであるかと問うのに対して、維摩詰はそれらの謬見は諸仏の解脱のなかに求めるべきである、と答える。
文殊が諸仏の解脱を何に求めるべきか、と更に問うたのに対し、一切衆生の心行のなかに求めるべきであると答えている。
この最後の問答が御文の「諸仏の解脱を衆生の心行に求めば」との引用文になっている。解脱というと、言葉そのものが示すように、通常はどこか凡夫の日常的な生活や世界を超越したところにあると考えられた。
それに対し、この経はむしろ衆生の〝心行〟すなわち、心が初めて働きだすところに求めるべきである、というのである。
すなわち、衆生の心の働きによって、諸仏の解脱を悟ることもできれば、逆に六十二見の謬見に陥って、衆生の状態にもなる、ということである。したがって、あくまで衆生の一念の心に一切の起点があるから「衆生即菩提」となるのである。
次に、御文に「生死即涅槃」と仰せられているのに相当する維摩経の文は同経仏道品第八での文殊師利と維摩詰との問答において、菩薩が仏道に通達するための修行を明かしていくところがそれにあたると思われる。
文殊が「菩薩は云何にして仏道に通達するや」と問うたのに対し「若し菩薩非道に行かば是れを仏道に通達すと為す」と維摩詰は答えている。
つまり、非道という、通常のとらえ方では仏道とは正反対で対立するものが、実は仏道に通達する道である、というのである。
そこで、文殊が、菩薩は非道をどのようにして行ずるのか、と問うたのに対して、維摩詰は次のように答えている。
「若し菩薩五無間に行けども、悩と恚無く、地獄に至るも諸の罪垢無く、畜生に至るも無明と憍慢等の過有ること無く、餓鬼に至るも功徳を具足し、色・無色界の道に行くも以って勝れたりと為さず。貪欲に行くことを示せども諸の染著を離れ、瞋恚に行くことを示せども諸の衆生に於いて恚礙有ること無く(中略)邪済に入ることを示せども、而も正済を以って諸の衆生を度す。遍く諸の道に入ることを現ずれども、而も其の因縁を断じ、涅槃を現ずれども、而も生死を断ぜざるなり。文殊師利、菩薩は能く是くの如く非道に行く、是れを仏道に通達すと為す」と。
すなわち、無間地獄に陥る五逆罪を行じても懊悩や瞋恚がなく、地獄に落ちても罪垢なく、貪欲を行うことを示しながらも種々の執着を離れ、などというように、一見すると〝非道〟を行ずる姿を見せていても、それが〝仏道〟を行じていることになっているのである、と。
また、邪な救済を行うことを示しつつ、それにより衆生を正しく済度していくことになるのであり、さまざまな道に入る姿を現じながら、それらの道に至る因縁を断ち切り、涅槃を現じつつ、しかも生死を断ち切っていないことが、非道を行じて仏道に通達することである、と述べている。
この「涅槃を現ずれども、而も生死を断ぜざるなり」という文をもって本文では「生死即涅槃」とされたと考えられる。
次に、本文の「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清し」との御文にあたる維摩経の文は、仏国品第一の「衆生を成就するに随いて則ち仏土浄く、仏土の浄きに随いて則ち説法浄く、説法の浄きに随いて則ち智慧浄く、智慧の浄きに随いて則ち其の心浄く、其の心の浄きに随いて則ち一切の功徳浄し。是の故に宝積、若し菩薩、浄土を得んと欲せば、当に其の心を浄くすべし、其の心の浄きに随いて、則ち仏土も浄かるべし(中略)仁者、心に高下有りて仏の慧に依らざるが故に、此の土を見て不浄たりと為すのみ。舎利弗、菩薩は一切衆生に於いて悉く皆、平等にして深心清浄なり。仏の智慧に依れば、則ち能く此の仏土の清浄なるを見るべし」とある文である。
すなわち、仏土が浄らかであれば、そこで説かれる説法も浄らかであり、説法が浄らかであれば智慧が浄らかであり、智慧が浄らかであると心が浄らかとなり、心が浄らかであれば仏土も浄らかである、と述べている。
したがって、逆に、心が浄ければ、仏土も浄いのであって、この国土を見て不浄としているのは、仏慧に依らない凡夫にほかならない。仏の仏慧を根拠にすると、仏土が清浄であるのを見るであろう、と述べている。
日蓮大聖人は、この維摩経の教えている内容を要約して、浄土といい穢土といい、仏といい衆生といっても、それは衆生の心が善すなわち悟りであるか、悪すなわち迷いであるかによってあらわれてくる現象の相違にすぎない、と仰せられているのである。
只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし
ここでは、すべての根本である我が己心を浄らかにするのはどうすればよいかを鏡をたとえに用いて御教示されている。
すなわち、迷いにとらわれた凡夫の心は「磨かざる鏡」であり、曇り汚れた鏡も、磨けば玉のように輝き、万象を明らかに映す明鏡となるように、凡夫の迷いの生命も、磨けば法性の悟りの生命となる、と仰せである。
ここで大事なことは、曇った鏡と、磨いて輝くようになった鏡とは、別のものではないということである。その体は同じであり、曇っているからといって捨てて、他のものと取り替えるのではないのである。
また曇っている時と、輝くようになった時と、鏡の体は同じであるが、曇り汚れて像を映すことができなければ鏡としての働きは全くない。美しく輝く鏡面であってこそ、像を映し鏡としての働きをあらわすのである。
同じく、凡夫の生命も仏の生命も、生命自体は同じであり、成仏を目指すのに、凡夫の生命を捨てて、仏の生命を得ようとすることは誤りである。
しかし、凡夫としての迷いの状態と、仏としての悟りの境地とのあいだには天地の相違がある。その悟りの境地に変えていく方途は、闇鏡を磨いて明鏡とするように、我が生命を磨くことである。その具体的実践法こそ、日夜朝暮に懈ることなく題目を唱えていくことであると仰せられている。
第五章(妙法蓮華経の意味を明かす)
抑妙とは何と云う心ぞや只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは心も及ばず語も及ばずと云う事なり、然れば・すなはち起るところの一念の心を尋ね見れば有りと云はんとすれば 色も質もなし又無しと云はんとすれば様様に心起る有と思ふべきに非ず無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無に徧して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり、此の妙なる心を名けて法とも云うなり、此の法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名く、一心を妙と知りぬれば亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり、然ればすなはち善悪に付いて起り起る処の念心の当体を指して是れ妙法の体と説き宣べたる経王なれば成仏の直道とは云うなり、
現代語訳
そもそも、妙とはどのような意味か。それはただ我が一念の心の不思議なるところを妙というのである。不思議とは心も及ばず語も及ばずということである。
したがって、起こるところの一念の心を尋ねてみれば、有るといおうとすると、色も質もなく、また無いといおうとすると、さまざまに心が起こってくる。
有ると考えるべきでないし無いと考えるべきでもない。有無の二つの言葉も及ばず、有無の二つの心も及ばない。
有無にあらずして、しかも有無に遍くいきわたって、中道一実の妙体であって不思議であるのを、妙と名づけるのである。
また、この妙なる心を名づけて法ともいうのである。この法門の不思議をあらわすのに、譬喩を具体的事法になぞらえて蓮華と名づけるのである。一心を妙と知るならば、また転じて余の心も妙法と知るところを妙経というのである。
したがって、善悪について瞬間瞬間に起こるところの念心の当体をさして、これが妙法の体であると説き宣べた経王であるから、成仏の直道というのである。
語釈
妙
梵語サット(sat)の漢訳。正などとも訳す。音写して薩と書く。天台大師は法華玄義に妙のさまざまな意味を挙げているが、そのなかの不思議の意を妙という。
中道一実
法華経に明かされた中道実相の妙法。界如三千が三千をさすのに対し、一念をさす。
事法
有形の物事のこと。理法に対する語。無形の諸法を理法。有形の諸法を事法という。
蓮華
①蓮の花のこと。②妙法蓮華経のこと。
講義
ここでは妙法蓮華経の五字の一字一字の意義を釈されてその深義を明らかにされている。
妙とは何と云う心ぞや只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり……中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり
初めに、妙法蓮華経の五字の「妙」についての仰せである。
まず、妙とは思議できないとの意であり、我々衆生の一念の心が不思議であることをいうのである、と仰せられている。
そして、不思議とは「心も及ばず語も及ばずと云う事」と仰せられて、心を働かせて思考しても理解を超えており、また言葉を駆使して表現しようにも不可能であるということである、と説かれている。
「心も及ばず」とは、凡夫にとって思考が及ばないということであり、「語も及ばず」とは、これを悟ったとして、それを説こうとしても、言葉では表現しきれないということである。
次に、一念の心がどのように不思議であるかについて仰せられている。すなわち、我々の一念の心は瞬間瞬間起滅しつつ変転しているが、その起こってくる一念の心をとらえて〝有る〟といおうとすると、〝有る〟ということがいえるためには欠かすことのできない色や質がない。
では一念の心は〝無い〟といおうとすると、さまざまに心が次から次に起こってきているという現実がある。
そのように、一念の心というのは〝有る〟と思うべきではないし〝無い〟と思うべきでもないから、〝有る〟〝無い〟の二つの言葉では把握できないし、〝有る〟〝無い〟という二つの判断も及ばないものである。
このように、一念の心は〝ある〟でもなく〝無い〟でもなく、その意味では有・無を超えている。だからといって、一念の心は有・無と無関係に存在しているのでもなく、あくまで「有無に徧して」、すなわち有でもあり無でもある、といえるような、より高次なる存在でもあるということである。このような一念の心を「中道一実の妙体」であると結論されている。
天台大師は中道の〝中〟について、双遮・双照をもって中道としている。すなわち、空・仮・中の三諦に即していえば、空と仮とを双て遮するとともに、空と仮とを双べて照らし用い、融通無碍なることが中道であるという。
この双遮・双照の原理をもって、本文を拝すると「有無に非ずして」が有と無とをならべて否定する双遮にあたり、「而も」というのは、その双遮と同時にということであり、「有無に徧して」が有と無とをならべて照らし用いる双照にあたっているから、ここでの〝中〟が一念の心にあたる。そして、中なる一念の心は「一実の妙体」、つまり、唯一無二の真実にして不可思議な当体である、ということである。
なお、法華玄義巻一上には七番共解の第六「観心」を釈するなかで次のように説かれている。すなわち「心は幻炎の如く、但名字のみあり。之を名づけて心と為す。適に其れ有と言うも色質を見ず。適に其れ無と言うも、復慮想を起こす。有無を以って思度すべからざるが故に、故に心を名づけて妙と為す。妙心軌とるべし、之を称して法と為す。心法は因に非ず果に非ず。能く理の如く観ずれば即ち因果を弁ず。是れを蓮華と名づく。一心、観を成ずるに由って、亦転じて余心を教ゆ。之を名づけて経と為す」と。
此の妙なる心を名けて法とも云うなり
次に、妙法蓮華経の五字のなかの「法」について釈された御文である。
先の玄義の文では「妙心軌とるべし、之を称して法と為す」とある。つまり、有無に非ずしてしかも有無に遍する、中道にして不可思議である一念の心といえども、のっとるべき道筋や道理がある。これが妙法蓮華経の法である、と説いている。法について玄義の序王には「言う所の法とは、十界十如権実の法なり」とあり、これを釈した妙楽大師の法華玄義釈籤巻一には「次に法を釈せば、略して界如を挙ぐるに具に三千を摂す」とある。また、玄義の譚玄本序には「言う所の妙とは、不可思議の法を褒美するなり。又妙とは、十法界十妙の法なり。此の法即ち妙、此の妙即ち法、二無く別無し」とも説いている。
以上の天台大師、伝教大師の釈から考えると、一念の心に具足されている十界十如、権実、依正色心森羅三千の万法をさして「法」とされたといえよう。つまり、心自体は不思議なる存在であるが、十界十如、三千の万法を具しており、また、十界三千の法として具体的にあらわれてくる。その十界三千の万法と、妙としかいいようがない心とは相即不二なのである。
此の法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名く
この御文は妙法蓮華経の五字のなかの「蓮華」を釈されているところである。
「此の法門の不思議」とは、これまで説かれてきた「妙なる心=法」の法門が言葉や思考を超えていることである。
しかし、この不可思議の妙法を仏は少しでも分かりやすくするために「事法にかたどりて」、すなわち「蓮華」という具体的な事物・現象を借りて示されたのであると仰せられている。
先の玄義巻一上では「心法は因に非ず果に非ず。能く理の如く観ずれば即ち因果を弁ず。是れを蓮華と名づく」とあり、また玄義の序王では「蓮華とは権実の法を譬うるなり。良に妙法は解し難く喩を仮るに彰し易き」と述べ、更には譚玄本序には「又妙とは、自行権実の法妙なり。故に蓮華を挙げて之を況するなり」とある。
これらの諸釈から明らかなように、蓮華は、妙なる一心が十界十如権実を具えているという道理から、とくに権実を取り出し、これを権=因、実=果、の因果が一念の心に既にして具足している不思議さにたとえたものといえる。蓮華の「蓮」は「実」で「果」にたとえ、「華」は「権」で「因」にたとえるのである。
なお、玄義巻一上の「心法は因に非ず果に非ず」というのは、心法には因としての権=九界も、果としての実=仏界も、ともに具えているから、心法それ自体は因とも果ともいえないからである。しかしながら「能く理の如く観ずれば即ち因果を弁ず」とあるのは、道理のうえからいえば、現実的には九界の因から仏界の果への転換が心法のうえで起こるわけであるから、因果を弁ずる、つまり因と果とを区別することができるとの意である。
一心を妙と知りぬれば亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり
妙法蓮華経の五字のなかの「経」を釈されているところである。
この御文の意味は、これまでの妙法華経の釈のとおり、一念の心が妙であり万法を具え因果の権実を具える法であることを知るならば、次に変転して起こる一念の心も妙法であると知ることができる、つまり、次々と起滅しては変転していく、一念の心の連続を、ことごとく妙法であると知っていくところを妙経という、との意と拝される。
元来「経」というのはサンスクリット語でスートラ(sūtra)の意訳である。経はたて糸の意で、よこ糸である緯に相対する。たて糸の意味が、転じて教えを貫く綱要の意味になり、そこから、聖者・賢人の著述に経の呼称が付された。
いうまでもなく、仏教の開祖・釈尊は聖者にあたるので、釈尊の教えに経の字をあて、また法理に契い、衆生の機に契うということから契経とも呼ばれたのである。更に、たて糸の意味から、時間的にたてに貫く常住不変の真理を象徴した。
以上の義から、時間的にたてに起滅しつつ変転していく、瞬間瞬間の心に、妙法蓮華の法理が貫いていることを表して「経」と名づけられたと仰せられているのである。
また「一心」を仏自身の心、「余心」を一切衆生の心と解釈することもできよう。すなわち「経」とは仏が一切衆生のために言語に託して説いたものであり、それは自身の悟りを一切衆生に教え、同じ悟りに導くためであるからである。
章安大師の玄義私序王には「声、仏事を為す、之を称して経と為す」とあり、これを釈した妙楽大師の玄義釈籤巻一上には「声仏事を為すとは且らく仏の在世に拠る。義、滅後に通ず、故に名づけて経と為す」とある。つまり、仏の音声が仏事、すなわち衆生を教化救済していく所作となったのが「経」であるが、しかし、仏の在世に留まらず、仏の音声が経典に書き留められて、滅後においても衆生教化の働きをする。これが「経」である、としている。
然ればすなはち善悪に付いて起り起る処の念心の当体……成仏の直道とは云うなり
妙法蓮華経の五字の意義を釈する御文の結論である。
以上のように、法華経は、善悪につけて念々に起きては滅し起きては滅する我々衆生の一心こそ妙法蓮華経の体にほかならない ことを説いているのであり、一切経の王である。ゆえに、法華経は、いかなる衆生も、我が己心が妙法蓮華経と悟ることによって直ちに成仏できる道を教えた〝成仏の直道〟なのである。
第六章(一生成仏の信心を促す)
此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば一生成仏更に疑あるべからず、故に経文には「我が滅度の後に於て・応に斯の経を受持すべし・是の人仏道に於て・決定して疑有る事無けん」とのべたり、努努不審をなすべからず穴賢穴賢、一生成仏の信心南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。
日 蓮 花 押
現代語訳
この理を深く信じて妙法蓮華経と唱えるならば一生成仏は絶対に間違いないのである。ゆえに法華経如来神力品第二十一には「わが滅度の後において、この妙法蓮華経を受持すべきである。この人は仏道において必ず成仏することは疑いないのである」と説かれている。
ゆめゆめ不審をもってはならない。あなかしこ、あなかしこ。一生成仏の信心とは南無妙法蓮華経である。南無妙法蓮華経である。
日 蓮 花 押
語釈
滅度
①入滅・寂滅と同意。仏が涅槃にはいること。釈尊の入滅。②生死の苦しみを滅し涅槃・仏界を証得すること。③一切の煩悩や苦しみを永遠に断じ尽くした境地。
受持
受は受領の義でうけおさめること、持は憶持の義で、心身ともに銘記して、よく持ち続けること。正法をよく信じ持って、いかなることがあっても、違背・退転しないことをいう。四条金吾殿御返事には「此の経をききうくる人は多し、 まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(1136:04)とある。
穴賢
「あな」は感動詞、「かしこ」は形容詞「かしこ(畏)し」の語幹。①尊いものに対し畏敬を表すときの「ああ、もったいないことよ」「ああ、恐れ多い」の意。②丁寧な呼びかけの語。「恐れ入りますが」の意。③否定の語を伴って相手の言動をたしなめるときに用いる。「決して」「くれぐれも」「ゆめゆめ」……してはならない、との意。④手紙の文末に用いて敬意を表す語。
講義
本抄に示されたように、妙法の深義を深く信じて受持していくならば、一生成仏は間違いないと述べて激励され、本抄を結ばれている。
まず「此の旨」すなわち、我々衆生の一念の心に十界三千の森羅万法を具しているということ自体が妙法蓮華経の五字の意義であるという仏法の趣旨をさしておられる。そして「此の旨」を深く信じて妙法蓮華経と唱えていくとき、一生成仏は断じて間違いないと仰せられている。
これを裏づける文証として法華経如来神力品第二十一にある「我が滅度の後に於いて 応に斯の経を受持すべし 是の人は仏道に於いて 決定して疑い有ること無けん」を引用されている。すなわち、釈尊滅後の末法においては「斯の経」すなわち、法華経を信じて唱題していけば、必ず仏道において成仏できる、との意味である。
ここでいう「受持」とは受持・読・誦・解説・書写の五種修行の第一の「受持」ではなく、日寛上人が観心本尊抄文段で示された、「総体の受持」のことで、読・誦等をも包含した受持行である。ゆえに「妙法蓮華経と唱へば」の裏づけとして、この文を引かれているのである。
最後に「努努不審をなすべからず」と仰せられ、絶待に疑ってはならない、と信ずることの重要性を強調されている。
そして、更に重ねて、一生成仏の信心は只南無妙法蓮華経以外にはないことを仰せられて本抄を終えられている。