本抄は、御真筆が大石寺に現存するが、前の部分が欠けた断簡のため、内容がわかりにくい。9月20とのみで年号はないが、建治元年(1275)とする説がある。
宛名の「石本日仲聖人」についても、石本は「岩本」のあて字と思われるので、駿河国岩本の実相寺の住僧の一人と推され、豊前房とする説もあるが明らかではない。
ただ「日仲聖人」と、日号を加えて聖人号で呼ばれているところから、何らかの功績があった門下に与えられたものと考えられる。
「同時に二仏に亘るか将た又一方は妄語なるか」の御文は、意味がとりにくいが、おそらく真言の邪義を破されたものと思われる。
同じく真言を二仏にわたると破折された御書に真言天台勝劣があり、そこで日蓮大聖人は「一代五時を離れて外に仏法有りと云う可からず若し有らば二仏並出の失あらん」(0138:05)と仰せになっている。真言三部経は釈尊一代五時の経々以外に大日如来が説いたものとする真言宗の立義を、それでは一世界に二仏が並び出ることとなり、仏法上でありえない謬義である、と破折されているのである。
更に真言見聞では「真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云、若し爾れば大日の出世成道・説法利生は釈尊より前か後か如何、対機説法の仏は八相作仏す父母は誰れぞ名字は如何に娑婆世界の仏と云はば世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判なり、涅槃経の三十五の巻を見る可きなり、若し他土の仏なりと云はば何ぞ我が主師親の釈尊を蔑にして他方・疎縁の仏を崇むるや不忠なり不孝なり逆路伽耶陀なり、若し一体と云はば何ぞ別仏と云うや若し別仏ならば何ぞ我が重恩の仏を捨つるや、唐尭は老い衰へたる母を敬ひ虞舜は頑なる父を崇む是一、六波羅蜜経に云く「所謂過去無量ゴウ伽沙の諸仏世尊の所説の正法・我今亦当に是の如き説を作すべし所謂八万四千の諸の妙法蘊なり○而も阿難陀等の諸大弟子をして一たび耳に聞いて皆悉く憶持せしむ」云云、此の中の陀羅尼蔵を弘法我が真言と云える若し爾れば此の陀羅尼蔵は釈迦の説に非ざるか此の説に違す是二、凡そ法華経は無量千万億の已説・今説・当説に最も第一なり、諸仏の所説・菩薩の所説・声聞の所説に此の経第一なり諸仏の中に大日漏る可きや、法華経は正直無上道の説・大日等の諸仏長舌を梵天に付けて真実と示し給う是三、威儀形色経に「身相黄金色にして常に満月輪に遊び定慧智拳の印法華経を証誠す」と、又五仏章の仏も法華経第一と見えたり是四、『要を以て之を云わば如来の一切所有の法乃至皆此の経に於て宣示顕説す』云云、此等の経文は釈迦所説の諸経の中に第一なるのみに非ず三世の諸仏の所説の中に第一なり此の外・一仏二仏の所説の経の中に法華経に勝れたる経有りと云はば用ゆ可からず法華経は三世不壊の経なる故なり是五、又大日経等の諸経の中に法華経に勝るる経文之無し是六、釈尊御入滅より已後天竺の論師二十四人の付法蔵・其の外大権の垂迹・震旦の人師・南三北七の十師・三論法相の先師の中に天台宗より外に十界互具・百界千如・一念三千と談ずる人之無し、若し一念三千を立てざれば性悪の義之無し性悪の義無くば仏菩薩の普現色身・真言両界の漫荼羅・五百七百の諸尊は本無今有の外道の法に同ぜんか、若し十界互具・百界千如を立てば本経何れの経にか十界皆成の旨之を説けるや、天台円宗見聞の後・邪智荘厳の為に盗み取れる法門なり、才芸を誦し浮言を吐くには依る可からず正しき経文・金言を尋ぬ可きなり是七。涅槃経の三十五に云く「我処処の経の中に於て説いて言く一人出世すれば多人利益す一国土の中に二の転輪王あり一世界の中に 二仏出世すといわば是の処有ること無し」文、大論の九に云く『十方恒河沙の三千大千世界を名づけて一仏世界と為す是の中に更に余仏無し実には一りの釈迦牟尼仏なり』文、記の一に云く「世には二仏無く国には二主無し一仏の境界には二の尊号無し」(0149:02)と、二仏が並出真言の邪義について破折されている。
そのように、真言の立義では二仏が並出することになるが、そのようなことはありえず、したがって「一方は妄語なるか」どちらかかが妄語だということになり、大日如来を釈尊より勝れた仏なりとし、本尊とすることは仏説に背く偽りの言なりと結論されたものと拝される。なお、この御文を念仏を破折されたものと拝することもできるが、その場合、二仏は釈迦如来と阿弥陀如来になる。
また「近来念仏者天下を誑惑するか」の御文については、開目抄に「諸宗は本尊にまどえり、倶舎・成実・律宗は三十四心・断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の太子が迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし、華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり、法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす天王の太子・我が父は侍と・をもうがごとし、華厳宗・真言宗は釈尊を下げて盧舎那の大日等を本尊と定む天子たる父を下げて種姓もなき者の法王のごとくなるに・つけり、浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を 有縁の仏とをもうて教主をすてたり、」(0215:01)と仰せになり、本尊問答抄では「浄土宗と申すも権大乗の一分なれども善導法然が・たばかりかしこくして諸経をば上げ観経をば下し正像の機をば上げ末法の機をば下して末法の機に相叶える念仏を取り出して機を以て経を打ち一代の聖教を失いて念仏の一門を立てたり譬えば心かしこくして身は卑しき者が身を上げて心はかなきものを敬いて賢人をうしなふがごとし」(0370:17)と仰せになっている。
末法の衆生の機に叶うのは称名念仏の一行であるとして釈尊・法華経を含む一切経を毀謗し、阿弥陀如来を本尊とする専修念仏を日本一国に流布させたのは、法念等の念仏者の我見・妄説によることを明らかにされたものであろう。
大聖人は、立正安国論でも「法然の選択に依つて則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び付属を抛つて東方の如来を閣き唯四巻三部の教典を専にして空しく一代五時の妙典を抛つ是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏の志を止め念仏の者に非ざれば早く施僧の懐いを忘る、故に仏閣零落して瓦松の煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、然りと雖も各護惜の心を捨て並びに建立の思を廃す、是を以て住持の聖僧行いて帰らず守護の善神去つて来ること無し、是れ偏に法然の選択に依るなり、悲いかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり」(0023:16)と仰せになっている。
当時の世人が法然の著した選択集に依って仏教を誤り、釈尊を忘れて弥陀の一仏を尊んだために三災七難が並び起こることが同抄で明かされ「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(0024:03)「早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」(0030:06)と結論され、謗法を捨てて正法に帰すべきことを強く訴えられている。
こうしたことから、釈尊を賤しめて大日如来を立てる真言宗と、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の邪義を、簡潔に破されたのが本抄の意と拝される。
「日仲聖人」が岩本実相寺の住僧とすれば、実相寺は天台寺院であり、天台真言だったために真言の破折を述べられたものと考えられる。
また当時は広く世に念仏信仰が流行していたために念仏の誑惑を指摘され「早早御存知有る可きか」と、そうした邪義を知るよう勧められたものであろう。
その後に「抑駿馬一疋追い遣わさる事存外の次第か」と、良馬が一頭贈られたことを喜ばれている。弘安4年(1281)3月にも南条時光から「御乳塩一疋・並びに口付一人」(1577:02、上野殿御返事)が御供養されており、それらの馬は大聖人の御乗馬として御供養されたものであろう。そして同じく弘安4年(1281)11月に身延の大坊が新築された際には「十一月ついたちの日せうばうつくり馬やつくる」(1375:03)と述べられているように、同時に馬小屋も建てられている。おそらく、そこには数頭の馬が収容され、飼われていたものと推測される。
大聖人は、弘安5年(1282)9月に常陸の湯へ静養に向かわれるため、9年間住みなれた身延の地を離れられるが、その際にも、地頭の波木井実長が用意した栗鹿毛の馬に乗られ、武州池上の池上宗仲邸まで旅をされている。そして波木井実長に対して「くりかげの御馬はあまりをもしろくをぼへ候程に・いつまでもうしなふまじく候、ひたちのゆへひかせ候」(1376:07)と、その馬に深い愛着を覚えられていたこともうかがわれる。
追伸の御文で「此の間の学問只此事なり」と仰せられているのは、前の「早早御存知有る可きか」との御文と対応しているとも拝され、今まで仏法を学んできたのは真言・念仏等の邪義を破し正義を顕すためである、との意であろうか。
「又真言師等、奏問を経るの由風聞せしむ」の御文は、当時、真言僧が法論対決を挑んでいるといううわさがあったことを示されている。