いも一駄・はじかみ五十ぱ、おくりたびて候。
このみのぶのやまと申し候は、にしはしらねのたけ、つねにゆきをみる。ひんがしにはてんしのたけ、つねにひをみる。きたはみのぶのたけ、みなみはたかとりのたけ、四山のあい、はこのそこのごとし。いぬいのすみよりかわながれて、たつみのすみにむかう。かかるいみじきところ、みねにはせびのこえ、たににはさるのさけび、木はあしのごとし、くさはあめににたり。しかれども、かかるいもはみえ候わず、はじかみはおいず。いしににて、少しまもりやわらかなり。くさににて、くさよりもあじあり。
法華経に申しあげ候いぬれば、御心ざしはさだめて釈迦仏しろしめしぬらん。恐々謹言。
八月十四日 日蓮 花押
御返事
現代語訳
芋一駄・生姜五十把、お送りいただいた。
この身延の山という所は、西には白根の嶽があって常に雪が積もっており、東には天子ヶ嶽に常に日を見る。また、北は身延の嶽、南には鷹取の嶽があり、四山に囲まれて箱の底のようである。北西の隅から川が流れ南東の隅に向かっている。このような大変な所で、嶺には蟬の声が聞こえ、谷には猿が鳴き、木は葦のように生え、草は雨のように繁っている。しかしこのような芋はなく、生姜も生えない。石に似ているが、石のように表面は堅くなく少しやわらかであり、草に似ているが、草よりも味がある。法華経に申し上げたので、御志はきっと釈迦仏も御承知であろう。恐恐謹言。
八月十四日 日 蓮 在 御 判
御 返 事
語句の解説
講義
本抄は御真筆が大石寺に存するが、与えられた人は不明である。御執筆の年も「八月十四日」とあるだけで不明であるが、弘安元年(1278)ともいわれる。
内容は、芋を1駄、生姜を50把御供養した人に、身延の御様子を記されて、この御供養の品のありがたさを述べられている。
文永11年(1274)5月に身延に入られた大聖人は、最初は仮の住まいと考えられていたようであるが、御体の調子や周囲の状況等もあられたのであろう、身延の地を弘安5年(1282)に至るまでお離れになることはなかった。
しかしこの身延の地は自然環境が大変厳しいところで、もちろん佐渡等の地に比べればまだよいかもしれないが、晩年を過ごされる地としては過酷であったことが、諸御書の仰せに拝される。本抄でも、地形的特徴を述べられている。
北西に南アルプスの白根三山、これは富士山に次ぐ3000㍍級の高峰であり、常に冠雪していると仰せである。南東は天子ヶ岳、「つねにひをみる」と仰せになっているのは、朝日が出る方向にあるということであろう。北は身延山、南は鷹取山でそれらの山々に囲まれた御草庵のある場所は箱の底のようであると仰せられている。
他の御抄でも身延の地のありさまに触れられている。
「妙法比丘尼御返事」には「北は身延山と申して天にはしだて・南は・たかとりと申して鶏足山の如し、西はなないたがれと申して鉄門に似たり・東は天子がたけと申して富士の御山にたいしたり、四山は屏風の如し」(1414:03)と仰せである。また「九郎太郎殿御返事」にも「西には七面のかれと申す・たけあり・東は天子のたけ・南は鷹取のたけ・北は身延のたけ・四山の中に深き谷あり・はこのそこのごとし」(1535:04)との御記述がある。
西に七面山(1982㍍)が挙げられているのが本抄と異なるが、いずれも大聖人のおられるところが箱の底のような谷間であるとの御表現は同じである。
このような土地で、当時は芋も生姜もとれず、大変貴重であったと思われる。御供養の芋は石に似ているが石よりもやわらかであり、生姜も草に似ているが草よりも味があると仰せである。心から御供養の品を喜んでおられる様子が拝される。
御供養を申し上げた人の志は、法華経に申し上げたから釈迦仏は必ず御存じであろうと仰せになっているが、法華経とは南無妙法蓮華経の大法、釈迦仏とは久遠元初の自受用報身の仏であり、これら人法が体一である御本仏が大聖人であられるから、大聖人こそが一切をごらんになっているということである。