一代五時図 第一章3

一代五時図 第一章3

御書全集には同じ題名の「一代五時図」が収録されて「広本」「略本」と分類するが、本抄はその「略本」である。ともに御真筆は中山法華経寺に現存する。御執筆年代は、広本が立正安国論上呈当時の文応元年(1260)であるのに対して、本抄は身延後入山後の建治2年(1276)、大聖人55歳の御時とされている。

次に扱う「一代五時鶏図」と共に、いずれも釈尊一代五時の説法の次第と中国・日本で成立した諸宗派との関連が一目瞭然に理解できるように書かれている。おそらくは弟子たちに仏教の全体像を把握させるための、いわば講義の覚書かメモの類といってよさそうである。

同じ趣旨の覚書でも、広本と略本とではその強調点に相違があり、前者が特に法然の浄土宗破折に力点を置かれているのに対し、本抄では法華経が釈尊説法の究極を明かすところに力点を置かれたようである。なお、一代五時鶏図の場合はその力点は人本尊すなわち根本として崇めるべき仏を明らかにされるところにある。題名の「一代五時図」の意味については「広本・第一章」で解説したので省略する。

本文に入って、まず冒頭に「大論に云く十九出家浄飯王の太子三十成道」と記されている。この御文のもつ意義については、同じく広本で解説したとおりである。すなわち、この図示で示されているのは釈尊が成道してから入滅に至るまでの間に説かれた教法の概略である。まず説法開始に至るまでの釈尊の経歴を概説されるためである。

ところで、御真筆を拝すると「大論云 十九出家 三十成道」と大きい字で三行に分けて書かれ、「竜樹菩薩造」は「大論云」の脇書、「浄飯王太子」は「十九出家」の下書、「三十成道」の脇書として「悉達太子」となっている。

「竜樹菩薩造」は「大論」すなわち「大智度論」が竜樹によって著されたものであることを示されるためであり「浄飯王太子」「悉達太子」は釈尊がインドのカピラ城の城主、浄飯王の太子で悉達太子といったことを示されるための付記であることはいうまでもない。特に「三十成道」の脇書の「悉達太子」とあるのは、悉達とは梵語シッダールタの音写で、その意味は目的を達成される、義を成ぜる、ということで、30成道によって釈尊が出家の目的を達したという意味が込められたと考えられる。

次に一代五時の説法を図示されるのであるが、まず、釈尊の最初の説法とされる華厳宗が示されている。「華厳経」と記された脇書は「権大乗」相対脇書として「三七日」とあり、線の下に「六十巻」「八十巻」とある。

「権大乗」の文字は、このあとの「方等部」「般若」にも一つ一つ付記されており「阿含経」の「小乗経」、「法華経」の「実大乗」に対比して、それぞれの位置づけを明確にされている。すなわち、声聞・縁覚の二乗のために説かれた阿含小乗経に比べると、菩薩道を明かした大乗教であるが、あくまで法華経の実大乗へ導くための方便として仮に説かれた教えが華厳・方等・般若の諸経であることを明示されているのである。「権大乗」の「権」とは「仮」の意である。

「三七日」は「3週間」のことで、華厳経が釈尊成道後間もなく、3週間で説かれたことを表している。広本では「三七日」と共に、法相宗で採用していた「二七日」も並記されていたが、略本では「三七日」説だけを記されている。

「六十巻」「八十巻」は華厳経の漢訳に東晋代の60巻本と唐代の80巻本とがあった故である。さらにもう一種、40巻本があるが、これは全部を訳したものではないので挙げられなかったと考えられる。

以上の「華厳経」についての注記の下に「華厳宗」と書かれ、さらにその下に「杜順法師」「智儼法師」「法蔵大師」「澄観法師」の名が記されている。いずれも中国の人で、杜順法師は中国華厳宗の祖、智儼は同第二祖、法蔵大師は同第三祖、澄観法師は同第四祖とされる。法蔵のみが大師となっているのは彼が華厳宗の大成者であるからである。なお、法相宗は、日本でも南都六宗の一つであった。

その次の「阿含経」は脇書に「小乗経」対書に「一二年」と記されている。「増一阿含経」「中阿含経」「長阿含経」「雑阿含経」の名を挙げられている。

釈尊の一代経典をまず大乗教と小乗教に分けたなかで、小乗教にあたるのが阿含部経典である。これは華厳経説法のあと12年にわたって説かれた経典群を指している。それが具体的には「増一阿含経」「中阿含経」「長阿含経」「雑阿含経」の四経で、これらを総称して上段に「阿含経」と書かれたのである。

釈尊は、最初に華厳経で、衆生の機根すなわち仏法を理解できる力がいかほどであるかを測った後に、衆生を導く第一段階として阿含部の教えから説き始めたとされる。ここでの目的は、概括的にいうと、ただ本能に任せて欲望の追求に生きる人生・社会の空しさに目覚めさせることにあったといえる。

そして、このような現実世界で幸福とされるものが空しいことに気でき、本能や欲望に束縛されない境界を目指すに至った弟子たちは、仏の教えを聞く人々という意味で「声聞」と呼ばれ、そのなかで一分の悟りを得た人々を「縁覚」と呼ぶようになる。これを合わせて「二乗」といい、彼らの目指した理想が、自己の身の欲望・煩悩からの解放であったことから、後に一切衆生の救済を目指す菩薩道が説かれる「方等・般若」の教えからひるがえって見た時、この段階の教えを「小乗」と称するのである。

以上の小乗阿含経の題名の下の方に、小乗教の修学から発展的に成立した「俱舎宗」「成実宗」「律宗」の名称と、それぞれの淵源になった人々の名が記されている。ただし、ここに記されている人々を各宗の開祖と考えるのは誤りである。

「俱舎宗」とは、インド・世親菩薩・玄奘三蔵訳の具舎論を所依とする宗派である。世親は大乗の論師として有名であるが、初めのころは小乗を研鑽し、そのなかで著したのが具舎論であった。後に無著によって大乗経に帰依したが、小乗時代のこの著作は後世、永く人々によって研学のよりどころとされたのである。

次に「成実宗」はインド・迦梨跋摩作の成実論を所依とする宗派であるから、「迦梨跋摩」の名が記され、「律宗」は四分律十巻に基づいて成立した宗派であり、特に、唐代の初期に道宣律師の開いた南山宗が代表的なものであるから、ここに「道宣律師」の名が記されている。

なお、「律宗」に関しては「小乗戒」として、僧のための「二百五十戒」、尼のため「五百戒」、それに「五戒」「八斉戒」が挙げられている。

「五戒」は在家の男女の守るべき戒なので、「男女」と記され、「八斉戒」とは在家の男女が一日一夜に限って受持する八の戒律のことで、在家のそれであるからこそここでも「男女」と記されている。また、小乗のこれら三宗はいずれも、日本では南都六宗に数えられている。

次いで「方等部」に移る。まず「方等」の意義であるが、方等の方は理が方正であること、等は平等の意味で、一般に大乗の異名である。また、方等は方広ともいい、方は同じく方正なることを、広は言詞が広博なることを指す。いずれにしても、大乗のことである。大乗経は菩薩の修行について説かれたものであるが、般若経典に比べると教理は浅く、小乗経典で現実世界を空しいとしたことを承けて、よその世界や他仏に救いを求めることを教えたものが多い。脇書の「権大乗」は、特にいう必要はないが、対書「三十年」については、説明を要する。さらに、その下に「深密経・五巻」「大集経・六十巻」「浄土三部経」「大日経七巻・金剛頂経三巻・蘇悉地経三巻」「楞伽経四巻・十巻」と、方等部に属する経典名を列挙されている。

さて「三十年」であるが、御真筆では、「方等」と次の「般若」とを結んだ線の中ほど、むしろ「楞伽経」に次いで書かれている。このことは方等部の説法期間が30年というのではなく、方等・般若部の説法期間を合わせて30年という意味である。

本抄では部間の年号は記されていないが「一代五時鶏図」では方等16年・般若14年、方等8年・般若22年説等があることが示されている。ただし、これら方等時に説かれた「権大乗」の経典名は、天大智顗ならびに天台宗が挙げる主要な経典の名とはかなりの相違を見せる。

すなわち、法華玄義巻十下では「方等の維摩・思益・殃掘摩羅を説いて」とあり、天台四教儀では「維摩・思益・楞伽・楞厳三昧・金光明・勝鬘等」とある。天台が挙げたこの方等部経典の特徴は、大乗菩薩の社会的役割、いかに世に貢献するかを説いているところにある。これは般若部経典が大乗菩薩の悟りの中身を掘り下げているのと異なっている点である。

しかし、本抄では天台智顗以降に成立した中国・日本の宗派のそれらが依処とした諸経典に焦点を合わせて挙げられている。これは、大聖人が弟子たちに教えようとされていたのが仏教の理論的解明より当時存在していた現実の宗派を認識させ、破折の理論を身につけさせることであったからであろう。

まず「深密経」の名が記されている。深密経は解深密経ともいい、菩提流支訳、玄奘訳共に全五巻からなる。その内容の主眼は己心の外にあると思われる諸現象といっても、ただ阿頼耶識によって認識の対象に似たすがたが心に映し出されたものにすぎないとする唯識の義を説くところにあり、法相宗の依経の一つである。

「深密経」の下には「瑜伽論百巻――弥勒菩薩造」「唯識論――世親菩薩造」とあって、深密経を基礎として、弥勒菩薩が著した瑜伽師地論百巻、世親菩薩が著した唯識二十巻・唯識三十頌などが「法相宗」の依処となっていることが示されている。

その「法相宗」は以上の経や論をインドから中国にもたらした玄奘三蔵を開祖として、慈恩大師が第二祖ながら事実上の開祖となっていることから「玄奘三蔵・慈恩大師」の二人の名が記されている。なお、玄奘・慈恩とも、天台智顗の後代の人である。

また、法相宗は道昭が中国から日本へ持ち帰ることで、日本の法相宗として成立し南都六宗の一つとなった。

次いで「大集経」については、ただ「六十巻」とのみ付記されている。中国・北涼代の曇無識訳で、仏が十方の仏・菩薩を集めて大乗を説いたものであるが、巻24には三災が示され、巻55には五箇の五百歳について明かし、末法の意義が説かれており、中国・日本の仏教に大きな影響を与えたが、特定の宗派とは結びついていない。

続いて「浄土三部経」と表示され、下に「雙巻経・観経・阿弥陀経」と三つの経典名が記されている。その下に「浄土宗」とその開祖である「曇鸞法師・道綽禅師・善導和尚・法然房」の四人の名が記されている。

御真筆では「雙巻経・観経・阿持陀経」のそれぞれの経巻が示されている。すなわち、「雙巻経・二巻」「巻経・一巻」「阿弥陀経・一巻」である。この三経を合わせて「浄土三部経」という。

「曇鸞法師・道綽禅師・善導和尚」の3人は中国で「浄土教」を成立・展開させた人たちである。「法然房」は選択集を著して日本に「浄土宗」を立てた人物である。

次に「大日経七巻・金剛頂経三巻・蘇悉地経三巻」のいわゆる真言三部経の名が記され、その下に、この三部経をもとに成立した「真言宗」と、この宗派の成立と展開にかかわった7人の名を列挙されている。

中国では善無畏・金剛智・不空の三三蔵と不空の弟子慧果そして日本ではこの慧果から受け継いだ弘法大師、さらに、中国の真言宗を天台仏法に取り入れた叡山天台宗の第三代座主の慈覚大師と第五代座主智証大師の名が記されている。弘法の真言宗を東密というのに対して慈覚・智証のそれを台密という。

続いて「楞伽経」は漢訳本に四種がある。主たるものとして中国・北涼代の曇無識訳の「四巻」本と同北魏代の菩提流支訳の入楞伽経に「十巻」本とがあるので「四巻」「十巻」と記されている。

そして、これらの「楞伽経」に基づいて成立した「禅宗」については、御真筆では左下に線を引いて記され「達磨大師・慧可・僧璨・道信・求忍・慧能」の六人の名が並べられている。

まず「達磨大師」はインドから中国に渡来し、禅宗を広めた開祖である。「慧可」は神光ともいい、達磨から付法されて中国禅宗の第二祖となった。「僧璨」は中国隋代の人で「慧可」から付法されて第三祖となり「道信」は唐代の第四祖、「求忍」は同じく唐代の人で、禅宗代五祖弘忍のことである。

最後の「慧能」は第五祖・弘忍から付法を受け第六祖となるとともに、新たに禅宗南派を築いたとされる。

以上が「方等部」で、日本の仏教諸宗が派生したので大きいスペースを費して書かれたが、次の般若部経典については特定の宗派は三論宗だけなので、こぢんまりとまとめられている。まず「般若」とのみ記され脇書に「権大乗」「四十巻」と並記されている。

「般若」とは梵語のプラジュニャーの音写で、意味は「智慧」を表す。その名のとおり、大乗菩薩の悟りの智慧を説いたものである。

般若部の経典としては「一代五時鶏図」には大品般若・光讃般若・金剛般若・天王問般若・摩訶般若が記されているが、「一代五時図」では広略両本ともに、経典名は示されていない。これらの経典は直接に宗派を生み出すもとにはならなかったからで、むしろ、これらの経典を釈し、大乗仏法の教理を論じた後代の論著が大乗仏教興隆に大きい影響を与えたので、そうした論著の名と著書名が記されている。

まず提婆菩薩の「百論」と竜樹菩薩の「中論」、同じく「十二門論」、同じく「大智度論」のいわゆる四論である。そして、この下の方に、これらの研鑽修学を目的として成立した「三論宗」の宗名と、その代表者として「興皇」「嘉祥大師」の名が示されている。「三論宗」とは前記四論のうち「百論」「中論」「十二門論」を研学することから、このように名乗っていたのである。「興皇」とは梁から陳にかけて活躍した法朗のことである。興皇寺に住んでいたことからこう呼ばれたのであるが、これは吉蔵が、その住した寺の名から嘉祥大師と呼ばれたのと同じである。

なお般若の脇に「四十巻」と記されているのは、数ある般若経典群の中から、中心的なものである鳩摩羅什訳・摩訶般若波羅蜜経二十七巻本・三十巻本・四十巻本のあるうちの「四十巻本」の本をさされたのか大品般若経三十巻に、同じ鳩摩羅什漢訳した「小品般若経」十巻を合わせて「四十巻」とされたのか、あるいはそれ以外の理由によるものか定かではない。

「嘉祥大師」は隋から唐代の人で、法朗の弟子で三論宗再興の祖とされる。なお日本にも吉蔵の弟子の高麗僧・慧灌によって伝えられ、南都六宗の一つとなっている。

以上のように、爾前四時の諸経と、そこから生じた諸宗について図示された後、無量義経の文を掲げられている。まず「無量義経」と記されすぐ下に「七十二歳」と記され、無量義経が釈尊の72歳の時の説法であることを示されている。そして最初に「四十余年には未だ真実を顕さず」の文が記されている。次に、御真筆では行を改めて「以方便力四十余年未顕真実」と書かれている。「以方便力」の有無のちがいだけで、あとは重複していることから、おそらく最初の一文は標題として示されたものであろう。

いずれにせよ、この一文は釈尊が道場菩提樹下で成道し、衆生のために説法を開始しようとした時、衆生の好みと傾向性にさまざまな違いのあることを知って、それぞれの欲と性とに応じて真実へ導く手段の教えを40余年の間説いてきた。したがって、40余年の間の教えはまだ真実を顕していない、という意味である。

次は同経十功徳品第三の文で「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過れども終に無上菩提を成ずることを得ず、所以は何ん菩提の大直道を知らざるが故に険逕を行くは留難多きが故に」という文である。

真実を聞くことのできない衆生は大きな利益を失い、どれほど長期間の修行を重ねてもついに無上の悟りを成就することはできないと述べ、その理由として、直ちに成仏に至る道を知らないために、留難の多い険しい道を行かなければならないからであると説いている。すなわち爾前権教の諸経の教えでは、険しい道を行くのに留難が多く、目的地に到達できないのと同じで、成仏することはできないということである。

次に同経十功徳品第三の「大直道を行くは留難無きが故に」という文を引用されている。

直前の経文とは対照的に、ここでは真実の教えを一度聞くと、留難のない大直道、すなわち、直ちに成仏に至る道を行くことができるという文で、次の第五時の法華経へと橋を渡す役割を持つ経文としてここに記されたと考えられる。

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