法衣書

 御衣布ならびに単衣布、給び候い了わんぬ。
 そもそも、食は命をつぎ、衣は身をかくす。食を有情に施すものは長寿の報をまねき、人の食を奪うものは短命の報をうく。衣を人にほどこさぬ者は、世々、生ずるところに裸形の報をかんず。六道の中に、人道已下は皆、形裸にして生まる。天は随生衣なり。その中の鹿等は、無衣にして生まるのみならず、人の衣をぬすみしゆえに身の皮を人にはがれて、盗みし衣をつぐのうほうをえたり。人の中にも、鮮白比丘には、生ぜし時、衣を被て生まれぬ。
 仏法の中にも裸形にして法を行ずる道なし。故に、釈尊は摩訶大母比丘尼の衣を得て正覚をなり給いき。諸の比丘には三衣をゆるされき。鈍根の比丘は、衣食ととのわざれば阿羅漢果を証せずとみえて候。
 殊に法華経には「柔和忍辱衣」と申して、衣をこそ本とみえて候え。また法華経の行者をば衣をもって覆わせ給うと申すも、ねんごろなるぎなり。

 

現代語訳

御衣の布と単衣の布をたしかにいただいた。

さて食物は命をつなぎ、衣は身を覆うものである。食物を有情に施す者は長寿の報いを受け、人の食物を奪う者は短命の報いを受ける。衣を人に施さない者は世々存生に裸形の報いを受けるのである。六道のなかで人間界以下の衆生は皆裸形で生まれ、天界の衆生は随生衣である。其の中の鹿等は無衣で生まれるばかりでなく、前世で人の衣を盗んだために、人に身の皮をはがれて、盗んだ衣を償うという報いを得るのである。人のなかでも鮮白比丘尼は生まれる時に衣を被て生まれた。

仏法のなかでも裸形で法を修行することはない。ゆえに釈尊は摩訶大母比丘尼の衣を得て正覚を成ぜられたのであり、諸々の比丘には三衣を着ることが許されたのである。鈍根の比丘は衣食がととのわなければ阿羅漢果を得ることができないといわれている。特に法華経には「柔和忍辱衣」といって、衣を根本としている。また仏が法華経の行者を衣をもって覆われるとあるが、懇ろな義である。

 

語句の解説

単衣

単物のこと。裏地のついていない一重の衣服をいう。夏季とその前後の季節に着るもの。本来は、公家の男女が着る装束の下着のことであったが、後に肌着の小袖の上に着るようになった。

 

随生衣

生まれながらに身についていて、成長するに随って自在にのびる衣服のこと。天界の衆生の衣服は随生衣といわれる。付法蔵因縁伝巻二には、付法蔵第三の商那和修は過去世に重病の辟支仏に衣服を供養した功徳によって衣を着たまま生まれたとある。

 

鮮白比丘に

釈尊の弟子、白淨比丘尼ともいう。撰集百縁経等によると、迦毘羅衛国の長者・瞿沙の娘。この女児は生まれた時、白淨の衣を着けており、成長するにしたがってその衣も大きくなり、出家すると、その衣も袈裟になったという。

 

摩訶大母比丘尼

釈尊の姨母・摩訶波闍波提比丘尼のこと。釈尊の生母・摩耶夫人が釈尊出生後七日で死去したため、夫人にかわって淨飯王の妃となり、釈尊を養育した。淨飯王の死後、出家を志し、三度釈尊に請願して許され、釈尊教団最初の比丘尼となった。法華経勧持品第十三で成仏の記別を与えられ、一切衆生憙見如来の号を受けた。大智度論巻二十二には「復た摩訶?曇弥有り、金色の上下の宝衣を以て仏に奉れり」とあり、また雑宝蔵経巻四等にも摩訶波闍波提比丘尼が衣を仏に捧げたことは説かれているが、釈尊が尼の奉った衣を着て成道したとの出典は不明。

 

三衣

僧侶が着用する三種の法衣のこと。三衣については諸説あるが四分律資持記等では①僧伽梨、②鬱多羅僧、③安陀会とある。

 

阿羅漢

梵語アルハト(Arhat)の主格アルハン(Arhan) の音写。応供等と訳す。小乗の声聞が修行によって到達できる最高の悟りの境地。またそれを得た聖者のこと。三界の見惑・思惑を断じ尽くしているゆえに殺賊、修学を成就して学ぶべきものが無いゆえに無学、世の尊敬・供養を受ける資格があるゆえに応供、この生が尽きると無余涅槃に入り、再び三界には生じないゆえに不生等とも訳される。

 

講義

本抄は他の御消息の断片に比べて、前後整い、一貫しているが、御述作の年月日や宛名が欠落しているので、その背景や由来については不明である。しかし、内容から、与えられた人は女性信者であったと推測されるとともに、その女性信徒が日蓮大聖人に衣の御供養をしたのに対して与えられた書であったと思われる。

なお、御述作の年代については、文永10年(1273)、弘安3年(1280)等の説がある。

この段では、最初に衣の御供養を受け取られた旨を述べられた後、衣を布施する功徳の大きさに説き及ばれるとともに、逆に衣の布施を怠った者の悪報をも説かれている。

「食は命をつぎ衣は身をかくす」

本抄を与えられた人が衣を大聖人に御供養したことに対して、まず、人間の生命にとって、食と衣の二つが不可欠なものであることを明かされているところである。

日蓮大聖人は在家信徒からの食や衣の御供養に対し、それがいかに尊いかを生命とのかかわりから強調されている。

例えば白米一俵御書では冒頭で次のように説かれている。

「人にも二つの財あり・一には衣・二には食なり、経に云く『有情は食に依つて住す』と云云文の心は生ある者は衣と食とによつて世にすむと申す心なり」(1596:02)と。

また食物三徳御書では、食に三つの徳があると、次のように説かれている。

「一には命をつぎ・二にはいろをまし・三には力をそう、人に物をほどこせば我が身のたすけとなる、譬へば人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」(1598:01)と。

更に衣食御書には「それじきはいろをまし・ちからをつけ・いのちをのぶ、ころもは・さむさをふせぎあつさをさえ・はぢをかくす、人にものをせする人は人のいろをまし・ちからをそえ・いのちをつぐなり」(1302:11)と仰せである。

このように、食と衣とは生命を維持する不可欠のものであるだけに、次の文に「食を有情に施すものは長寿の報をまねぎ人の食を奪うものは短命の報をうく、衣を人にほどこさぬ者は世世・存生に裸形の報をかんず」と仰せられているのである。

「法華経には柔和忍辱衣と申して衣をこそ本として候へ」

「柔和忍辱衣」とは〝柔和〟は素直で柔軟な心で正法を受持することをいい〝忍辱〟はいかなる侮辱、屈辱、迫害などにも堪え忍ぶことをいい、そのような心構えを〝衣〟にたとえたものである。

これは法華経の法師品第十に出てくる衣座室の三軌の一つであり、三軌とは、法華経を弘通するための軌範の一つである。

今、それを法華経法師品から引用してみよう。

「薬王よ。若し善男子・善女人有って、如来の滅後に四衆の為めに是の法華経を説かんと欲せば、云何んが応に説くべき。是の善男子・善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し応に四衆の為めに、広く斯の経を説くべし。如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心是れなり。如来の衣とは、柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは、一切法空是れなり」と。

仏滅後に法華経を弘通する行者の心構えを示したもので、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、弘教せよということである。

ちなみに、如来の室に入るとは、一切衆生に対して慈悲心をもって接することをいい、如来の座に坐るとは、一切法が空であると悟る境地に立つことをいう。そして、如来の衣を著るとは、前述したように、柔和忍辱の心をもつことである。つまり、ここでの衣は実際に身体の外側から身に付ける着物ではない。しかし、身体を外側から防護するという着物の働きにたとえて〝柔和忍辱の心〟が迫害や難、屈辱という外側からの攻撃から清浄にして純粋な心を防護するという意味で〝衣〟としているのである。

その清浄にして純粋な心とは、法華経を信じ、他の人々をも法華経によって救っていこうとする菩提心である。

私達にあっては、御本尊を信じ抜く心であり、一生成仏と広宣流布、更には自行と化他を推進していく心である。

その心をもって法華経弘通に励んでいく過程にあって、侮辱、迫害など他者からの攻撃を受けたときに、これを堪え忍ぶ力をもっていないと、肝心の信心まで失ってしまうことになる。その際に、柔和忍辱の心をもって、それらの攻撃に対して清浄な信心、純粋な命を防護することができたとき、それが〝衣〟となるのである。

ゆえに、末法に法華経を弘通する者は必ず、柔和忍辱の衣を着なければならないのである。

御衣並単衣御書に「法華経を説く人は柔和忍辱衣と申して必ず衣あるべし」(0971:04)とは、このことを仰せられている。

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