———————————–(第八段第四から続く)——————————————-
其の後日本国の諸碩徳等各智慧高く有るなれども彼の三大師にこえざれば今四百余年の間・日本一同に真言は法華経に勝れけりと定め畢んぬたまたま天台宗を習へる人人も真言は法華に及ばざるの由存ぜども天台の座主御室等の高貴におそれて申す事なしあるは又其の義をもわきまへぬかのゆへにからくして同の義をいへば一向真言師はさる事おもひもよらずとわらふなり。
——————————–(第九段第一に続く)———————————————–
現代語訳
その後、日本国に碩徳達が出て、それぞれ智慧も優れていたけれども、弘法・慈覚・智証の三大師を超えることはなかったので今に至る四百余年の間は、日本一同に真言は法華経に勝れていると決めこんでしまったのである。
たまたま天台宗を習った人々も真言は法華に及ばないことがわかっていても天台宗の座主や仁和寺の御室等の高貴な人々を恐れて何も言い出すことができなかった。あるいはまた、その勝劣を弁えないために、かろうじて真言と法華経は同等であると言って、真言宗の諸師はそのようなことは思いもよらないことであると一笑にふしたのである。
講義
弘法・慈覚・智証の権威が高かったため、この三大師の滅後も、三大師によって定められた法華経と真言の勝劣に関する誤謬は、大聖人が御出現されるまで、誰もただすことがなかったことを仰せられている。
今日、慈覚・智証の両大師によってもたらされた天台密教化は、開祖の伝教大師を淵源としているという見方が一般的である。つまり、天台密教は伝教大師に始まるとし、その法華経と真言密経を同等と見なす円密一致の思想を継承しつつ、いっそう深めたのが慈覚・智証の二人であると考えられている。
このような見方は誤りであり、大聖人は、つねに慈覚・智証を「本の伝教大師の大怨敵」と断じられているのである。
伝教大師が、法華経を正依として真言密経を傍依と位置づけたことは先に述べた通りであるが、大聖人が衆生心御書に「桓武の御代に最澄法師・後には伝教大師とがうす、入唐已前に六宗を習いきわむる上・十五年が間・天台・真言の二宗を山にこもり給いて御覧ありき、入唐已前に天台宗をもつて六宗をせめしかば七大寺皆せめられて最澄の弟子となりぬ、六宗の義やぶれぬ、後延暦廿三年に御入唐・同じき廿四年御帰朝・天台・真言の宗を日本国にひろめたり、但し勝劣の事は内心に此れを存じて人に向つてとかざるか」(1593:10)と仰せられているように、伝教大師は法華経と真言との勝劣について自身は弁まえていたものの、それを人に向かって明確には説かなかった。そのために、台密が生じたとする見方は確かにある。
そうした見方の根拠となっている諸点を挙げれば、およそ次の四点に集約できる。
第一に、伝教大師が入唐して台・密・禅・戒の四宗を相承したこと
第二に、伝教大師が叡山に法華止観業と真言遮那業との両業を設けた。
第三に、伝教大師が空海から真言密経を習得しようと務めたこと
第四に、伝教大師が空海のもとに行った弟子の泰範にあてた書状の中で「法華一乗・真言一乗、何の勝劣有らん」と述べていること
これに対して大聖人は、あくまで伝教大師の本意が円勝密劣にあったことを指摘されている。
先にその理由として、伝教大師が
①真言宗の名を削って天台法華宗と名乗った
②守護国界章で大日経を傍依と位置づけている
③依憑集で真言を破折している
ことの、三点を挙げておられる。
これらの諸点を踏まえつつ、更に伝教大師の正意を明らかにすることによって、慈覚以後の天台密教化がいかに開祖たる伝教大師に背くものであったかを示しておきたい。
はじめに四宗の相承についてであるが、この疑問に答えるには、まず伝教大師の入唐求法の目的がどこにあったかを明らかにしなければならない。
撰時抄には次のように仰せられている。
「伝教大師は日本国にして十五年が間・天台真言等を自見せさせ給う生知の妙悟にて師なくしてさとらせ給いしかども、世間の不審をはらさんがために漢土に亘りて天台真言の二宗を伝へ給いし」(0280:06)
つまり、伝教大師は、無師無知で法華経の妙理を悟り、法華経の最勝たることを知悉していたが、世間を納得させるために入唐したのである。このことは、伝教大師が入唐して直ちに天台山に向かった事実に現われている。
この大聖人の御指南を裏付けているのが伝教大師の次の言葉である。
すなわち入唐を請願した上表文に「最澄早く玄門に預り、幸いに昌運に遇い、聞を至道に希い、心に法筵に遊ばしむ。毎に恨むらくは、法華の深旨尚末だ詳釈あらざることを、幸いに天台の妙記を求め得て披閲すること数年、字謬り行脱して末だ細き趣きを顕さず。若し師伝を受けざれば、得たりと雖も信ぜられず」とある。
ここに伝教大師の入唐求法の目的が明らかであろう。すなわち、それはもっぱら天台教観の相承にあったのであり、真言密経等の他の三宗の受法は付随的なものであったといっても過言ではない。
このことは伝教大師講来目録を見てもわかることで、台州録・越州録合わせて総数234部460巻という膨大な数の中には、法華天台関係の経疏が圧倒的に多く、真言密教関係はわずか38部しかない。
では、何故に伝教大師は在唐中にも帰国後も真言密教の習得に努めたのであろうか、これは、言うまでもなく伝教大師が真言密経をどのように位置付けたかという問題が不可分にかかわっている。
日寛上人は、報恩抄文段で伝教大師の著書に二宗斉等、すなわち法華と真言の二宗が同等であると述べた文があることを認めながらも、それがいずれも約教一往の傍義であり、決して約部再往の正意ではないと指摘されている。
つまり、伝教大師における二宗斉の文は、教に約して密経を円教に摂したものであり、部に約して法華と同等としたものではない。
したがって、泰範への書状における法華一乗と真言一乗に優劣なしとの文、また止観業と遮那業との並立も、それぞれ約教判のうえから大日経の中の円教を取り上げたうえでの一往の傍義であり、法華経と真言との同格を意味しているのではないのである。
このように、約教判によって大日経の円教を取り出したとしても、それは与えて判じたものであり、五味に約して麁妙を判ずる約部判によれば大日経は方等部に属する爾前権経であり、法華経に及ぶわけがないのである。
伝教大師が真言密教を求めたのも、この約教判の立場においてであることは明白である。であればこそ、法華経を正依の経とし、大日経を傍依の経と位置づけているのである。
にもかかわらず、このような伝教大師の立場を慈覚・智証等の弟子たちは理解することができず、開祖の正意に背いてしまったために、叡山は密教化し、ひいては禅宗、そして浄土宗が成立するに至ったのである。
報恩抄では、理同事勝の義を唱えた慈覚・智証の謗法は弘法に超過し、三仏の怨敵であると述べられ、その理由について次のように仰せられている。
「弘法大師こそ第一の謗法の人とおもうに、これは・それには・にるべくもなき僻事なり、其の故は水火・天地なる事は僻事なれども人用ゆる事なければ其の僻事成ずる事なし、弘法大師の御義はあまり僻事なれば弟子等も用ゆる事なし事相計りは其の門家なれども其の教相の法門は弘法の義いゐにくきゆへに善無畏・金剛智・不空・慈覚・智証の義にてあるなり、慈覚・智証の義こそ真言と天台とは理同なりなんど申せば皆人さもやと・をもう、かう・をもうゆへに事勝の印と真言とにつひて天台宗の人人・画像・木像の開眼の仏事を・ねらはんがために日本・一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり」(0308:17)
法華経を華厳経より劣るとした弘法の教判は、その僻見ぶりが容易に見分けられるが、慈覚・智証の立てた理同事勝の義はまぎらわしいため智人も迷い、その誤りを見抜くことができず、その邪義に取り込まれてしまったのである。
慈覚・智証のほかに、例えば叡山には智証とほぼ同時代の9世紀末に第四代座主安慧の弟子である五大院安然が出たが、安然は慈覚の理同事勝・事理俱密の教判を受け継ぎつつ、天台大師の立てた化法の四教、いわゆる蔵・通・別・円の四教の中の円教は随自他意の円教であるとして、慈覚・智証における円密一致を更に進め、円劣密勝を説いた。
また、その九宗判においては、真言宗を第一と立てて、第二に禅宗を配して法華宗を第三の位置に落とし、自ら天台宗の呼称を改め真言宗と称したほどである。まさに大聖人が報恩抄で仰せられている「日本・一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり」という状態にまで堕し、真言密教による祈禱は時代の風潮とすらなったのである。
さて、安然以後の天台宗においては、叡山の教学は振るわず、僧風も乱れ、やがて退廃の極みに達したが、第18代座主・慈慧大師良源が叡山を再興し、中興の祖と呼ばれた。
しかし、伝教大師・慈覚・智証・安然に加えて三聖二師とうたわれた、この良源にしても理同事勝の慈覚の流れを汲んでいたのであって、密教化にいっそうはずみをつけた人物といわなければならない。一般的にも、叡山における密教の教相的な研究は安然によって大成され、以後はその踏襲に過ぎなかったと言われる。
そうして、良源の中興以後は、もっぱら真言密教における実践門たる事相の研究・伝授に力が注がれ、さまざまな分流を生むに至った。いわゆる台密13流と呼ばれるのがそれである。しかしながら、分派に分派を重ねた事相の発展・興隆は、東寺と競うようにして加持祈禱に没頭する風潮をもたらしただけである。
本抄では更に、こうした真言密教の興隆のなかにあって、たまたま天台宗を習って、真言密教は法華経に及ばず、法華経こそ最勝の経であるという伝教大師の本意に気付くものがあっても、天台座主や御室の権威を恐れて、そのことを口に出すことはなかったと述べられている。
このように、空海・円仁・円珍の没後にあっても、彼らの権威はますます喧伝されていったために、それを打ち破ろうとする人はなく、かろうじて法華経と真言とは同等であるといってみたところで、真言師に一笑にふされるたけだったと仰せられている。
つまり、大聖人がここで指摘されていることは、永きにわたって三大師の邪義の横行を許してしまった何よりの理由は、一つには三大師を超える智慧ある人が出なかったこと、ふたつには、たとえ智慧が勝れていても権威を恐れ、三大師を破折する勇気ある人がいなかったこと、の二点に尽きるということである。