———————————–(第八段第二から続く)——————————————-
第五十代桓武天皇の御宇に延暦二十三年七月・伝教大師勅宣を給いて漢土に渡り妙楽大師の御弟子・道邃・行満に値い奉りて法華宗の定慧を伝え道宣律師に菩薩戒を伝え順暁和尚と申せし人に真言の秘教を習い伝えて日本国に帰り給いて、真言・法華の勝劣は漢土の師のおしへに依りては定め難しと思食しければここにして大日経と法華経と彼の釈と此の釈とを引き並べて勝劣を判じ給いしに大日経は法華経に劣りたるのみならず大日経の疏は天台の心をとりて我が宗に入れたりけりと勘え給へり。
——————————–(第八段第四に続く)———————————————–
現代語訳
第五十代桓武天皇の代になって、延暦二十三年七月に伝教大師が勅宣を賜り、中国に渡り、妙楽大師の御弟子の道邃・行満に会い奉って法華宗の定と慧を学び、道宣律師から菩薩戒を授けられ、順暁和尚という人からは真言の秘教を習い伝えて日本国に帰ってこられた。
伝教大師は、真言・法華経の勝劣についてはこれら中国の諸師の教えによっては定め難いと思ったので、帰国して自ら大日経と法華経、そしてそれぞれの釈とを引き並べて勝劣を判じられたところ、大日経は法華経に劣っているのみならず、それを釈した大日経の疏は天台大師の意を取ってその法門を自分達の宗に取り入れたものであると見ぬかれた。
講義
天台法華宗が伝教大師最澄の入唐によってもたらされたと記されている。
最澄は延暦21年(0802)、桓武天皇より「天台法華宗還学生」に任じる旨の勅宣を賜った。
同23年(0804)7月6日、弟子の義真を訳語僧として伴い、遣唐使の第二船に乗って肥前国松浦郡田浦を出帆し、9月1日に明州に到着した。船中で病を得たため明州でしばらく静養した後、台州に向かった。
台州では、天台山修禅寺座主道邃が刺史陸淳に招かれて竜興寺で摩訶止観の講筵を開いていた。9月26日竜興寺に道邃を訪ねた最澄は、その講義を聞いたといわれる。
10月に入って天台山に登り、行満座主に会い、仏隴寺において天台の法門を伝授された。そして、行満とともに再び竜興寺に赴き、道邃より天台の付法と菩薩の三聚戒を受けた。
こうして、妙楽大師の高弟である道邃・行満の二人から、正統天台宗の付法と菩薩戒を授けられた最澄は、入唐の所期の目的を果たし、唐の貞元21年(0805)3月上旬、台州をあとにして明州に戻ったが、帰国まで余裕があったことから、明州から更に超州に向かい当地の竜興寺に滞在していた順暁から三部三昧耶灌頂を伝授されている。
なお、本抄には、道宣律師より菩薩戒を伝えられると述べているが、諸伝の記すところではいずれも道邃で一致している
伝教大師の顕戒論巻上には「和上慈悲にして、一心三観を一言に伝え、菩薩の円戒を至信に授く」とあり、また顕戒論縁起にも「伝菩薩戒師天台沙門道邃」と記されているところから、伝教大師が菩薩戒を授けられたのが道邃であったことは明らかである。
故に、報恩抄にも「去る延暦二十三年七月御入唐・西明寺の道邃和尚・仏滝寺の行満等に値い奉りて止観円頓の大戒を伝受し」(0304:07)と仰せられている。
中国・南山律師の開祖で道宣律師という僧がいるが、7世紀の人であり、伝教大師が戒を受けられる道理がない。「道宣律師」あるいは「道宣」の名は本抄以外にも十数遍の御書に見られるが、いずれも禅宗の道宣を指している。
道暹は中国・唐代の天台宗の僧で、妙楽大師の法華文句記を注釈した法華文句輔正記を著し、大聖人も諸御抄で引用されており「道暹律師」などと呼ばれている。
道暹は、生没年は不明であるが、仏祖統紀巻二十二によれば、大暦年間の人であるとあることから、伝教大師との接点はなかったと思われ、本抄の「道宣律師」は「道邃」の伝写の誤りであろう。
さて、最後に本抄では、伝教大師と大日経の勝劣をどのように考えていたかを述べられている。
大聖人は、伝教大師が大日経は法華経に劣っているばかりでなく、善無畏に示唆されて一行が著した大日経疏が天台の法門を盗み取ったものであることを見抜いていたことを仰せられている。
延暦25年(0806)1月、太政官符が発せられ、諸宗に続いて天台法華宗に二人の年分得度者を加えるよう上奏した伝教大師の請により、天台宗に対して年分度者二人が認められた。年分度者とは国家によって得度を許可された年間の定員を意味している。
ここに日本天台宗の開宗が公認されたことになるのであるが、この際、天台法華宗の学業として、一人は大毘廬遮那経、一人は摩訶止観を読むようにと定められたのである。すなわち、天台法華宗は、真言密経を加えて新しい宗派として公認されたことになる。
このために、伝教大師は、法華経を中心としつつ、大日経を取り入れ、円密一致を課題としたと言われているのであるが、はたしてそうであろうか。
この点について大聖人は報恩抄で次のように述べられている。
「大日経の義釈には理同事勝とかきたれども伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりと知しめして八宗とはせさせ給はず真言宗の名をけづりて法華宗の内に入れ七宗となし 大日経をば法華天台宗の傍依経となして華厳・大品・般若・涅槃等の例とせり」(0304:10)
ここで、大聖人は、伝教大師が善無畏三蔵の誑惑を見抜いて法華経と大日経の勝劣をはっきりと弁えていたとされ、その根拠として、伝教大師が各宗の年分度者を請願するにあたって既成の南都六宗に法華天台宗を加えて七宗とし、真言宗を立てなかったことを挙げられている。
これは、あくまで法華経を正とし大日経を傍として位置付けたものであり、それ故に伝教大師にあっては両者の勝劣は明らかであるとされているのである。この大聖人の御指摘は、伝教大師の守護国界章の文によって裏付けられよう。
すなわち、巻上之中には、次のように記されている。
「山家伝うる所の円教宗の依経は、正しくは法華経及び無量義経に依り、傍ら、第涅槃・華厳・維摩・方等般若・甚深の諸大乗に説くところの円教・文殊問般若・般舟・大方等・請観音・虚空蔵・観普賢・遮那、一切、円を説く等の諸経諸論等に依る」
ここに「遮那」とあるのが、大日経を指している。
また、善無畏・一行が大日経疏が天台大師の法門を盗用したものであることは、伝教大師の依憑集に示されているところである。
大聖人は、報恩抄で次のように述べられている。
「但依憑集と申す文に正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸みとりて大日経に入れて理同とせり、されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり」(0304:14)
また、撰時抄には「依憑集と申す一巻の秘書あり七宗の人人の天台に落ちたるやうをかかれて候文なり、かの文の序に真言宗の誑惑一筆みへて候」(0276:16)と述べられている。
この依憑集は、詳しくは大唐新羅諸宗義匠依憑集天台義集といい、大唐と新羅の諸宗が天台宗の義を依憑として、自宗の教義を打ち立てていることを具体的に指摘することによって、天台宗が他宗に勝れていることを明らかにしたものである。
天台大師はその序文において「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯じ、旧到の華厳家は則ち影響の軌模を隠す」と指摘している。
日寛上人は、依憑集のこの序分に二意があるとして、次のように述べられている。
「且く文相に准ずるに、但元祖の依憑を挙げて、以て末弟の偏執を破するなり。往いて義意に准ずるに、彼の元祖の依憑は即ち盗台に当るなり。その故は天台法華の義に依憑して、宗々の依経を誇耀する故なり」
つまり、文相面においては、伝教大師は諸宗の元祖が天台宗の法門に依馮していることを示すことによって、諸宗の元祖が天台宗の義を盗んで自宗の依経を巧みに解釈し、不当に高く位置づけていることを明らかにしているのである。
守護国界章巻中之中にも、諸宗の人師疏釈を挙げ、「是の如き等の宗、天台に依憑す。依憑集に説くが如し」と明確に指摘されている。
こうした意味から大聖人は本抄で「大日経の疏は天台の心をとりて我が宗に入れたりけりと勘え給へり」と仰せられているのである。