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疑つて云く天台大師の摩訶止観の第二の四種三昧の御本尊は阿弥陀仏なり、不空三蔵の法華経の観智の儀軌は釈迦多宝を以て法華経の本尊とせり、汝何ぞ此等の義に相違するや、
——————————–(第三段第二に続く)———————————————–
現代語訳
疑つて云う。天台大師の摩訶止観巻第二上に説かれている四種三昧の本尊は阿弥陀仏である。また不空三蔵の訳した観智義軌では釈迦・多宝をもって法華経の本尊としている。それなのに、あなたはどうしてこれらの義と相違する義を立てるのか。
講義
本段は、前段で挙げられた経釈に対して起こりうる疑問を想定して提起され、その回答を示されることにより法華経の行者の正意を明かされるところである。
まず二つの疑問が提示される。第一は天台大師は摩訶止観の四種三昧において阿弥陀如来を本尊としていることからくる疑問である。
阿弥陀如来を本尊と立てるのは、四種三昧のうち常行三昧である。摩訶止観には、四種三昧の行法について、身開遮・口説黙・意止観という身口意の三業から、それぞれを規定しているが、常行三昧の口説黙については次のように述べている。
「口の説黙とは、九十日、身常に行じて休息すること無く、九十日、口に常に阿弥陀仏の名を唱えて休息すること無く、九十日、心に常に阿弥陀仏を念じて休息すること無し。…但専ら弥陀を以て法門の主と為す」
このように、弥陀を本尊としてただ一途に阿弥陀如来の身相感得を念ずる修行を90日間にわたって行うのである。
次に第二の疑問として挙げられているのが、不空三蔵の訳した観智儀軌では、釈迦・多宝仏を本尊としていることである。
不空の訳した経典は大部に及んでいるが、そのなかには不空の著作と認むべきものも若干含まれるとされている。恐らくこの観智儀軌もその一つではないかと考えられる。なぜならば、これは法華経を密経の立場から解釈したものであり、それも法華経の真意からほど遠いからである。
元来、インドから中国に経論を訳して伝えた多くの人の中で、「不空三蔵は殊に誤多き上誑惑の心顕なり」(0268:14)と大聖人が指摘されているように、誑惑の心が強く、この観智儀軌も自分勝手な解釈を織り込みながら訳したものかも知れない。
大聖人は、先の撰時抄で「不空三蔵は誤る事かずをほし所謂法華経の観智の儀軌に寿量品を阿弥陀仏とかける眼の前の大僻見・陀羅尼品を神力品の次にをける属累品を経末に下せる此等はいうかひなし」(0268:09)と、観智儀軌にも、寿量品の本仏を阿弥陀仏とするなど、やはり荒唐無稽の誤りが見られることを指摘されたうえで、「他人の訳ならば用ゆる事もありなん此の人の訳せる経論は信ぜられず」(0268:12)とまで断じられている。
さて、その観智儀軌に、「其の塔中に於いて、釈迦牟尼如来、多宝如来の同座して坐するを画けり」とある。
このように、阿弥陀仏や釈迦・多宝を本尊としている義に反して、なぜ法華経の題目を本尊とすべきであるとの義を立てるのか、との疑問である。