法衣書 第二章(法華経の女人成仏の教えを説く)
弘安3年(ʼ80)* 富木家
日蓮は無戒の比丘・邪見の者なり故に天これをにくませ給いて食衣ともしき身にて候、しかりといえども法華経を口に誦し・とき・どき・これをとく、譬へば大虵の珠を含みいらんよりせんだんを生ずるがごとし、いらんをすてて・せんだん・まいらせ候・虵形をかくして珠を授けたてまつる、天台大師云く「他経は但男に記して女に記せず」等云云、法華経にあらざれば女人成仏は許されざるか、具足千万光相如来と申すは摩訶大比丘尼のことなり、此れ等もつてをしはかり候に女人の成仏は法華経により候べきか、要当説真実は教主釈尊の金言・皆是真実は多宝仏の証明・舌相至梵天は諸仏の誓状なり、日月は地に落つべしや須弥山はくづるべしや・大海の潮は増減せざるべしや大地は飜覆すべしや、此の御衣の功徳は法華経にとかれて候、但心をもつて・をもひやらせ給い候へ、言にはのべがたし。
現代語訳
日蓮は無戒の比丘であり、邪見の者である。ゆえに天がこれを憎んで衣食に乏しい身となったのである。そうではあるが、法華経を口に誦し、時々これを説いている。このことは例えば大蛇が珠を含み、伊蘭の林の中から栴檀が生ずるようなものである。伊蘭を捨てて栴檀を差し上げるのである。大蛇の形を隠して珠を授けるのである。天台大師は「法華経以外の経は但だ男子にのみ授記して女子には授記しない」と言われている。法華経でなければ、女人成仏は許されないのである。具足千万光相如来というのは、摩訶大比丘尼のことである。これらのことをもって考えてみれば、女人の成仏は法華経によるべきであろう。「要ず当に真実を説きたもうべし」とは教主釈尊の金言であり、「皆是れ真実なり」とは多宝仏の証明であり「舌相梵天に至り」とは諸仏の誓状である。日月が地に落ちることがあろうか。須弥山が崩れることがあろうか。大海の潮が増減しないことがあろうか。大地が覆ることがあろうか。この御衣を御供養された功徳は法華経に説かれている。ただ信心をもって推し測りなさい。言葉で述べることが難しいからである。
語句の解説
いらん
梵語エーランダ(Eranda)の音写。トゥゴマ属の植物。悪臭を放つ木。茎の高さは約2㍍、葉の直径はおよそ50㌢、色は緑色または赤色を帯び、楓のように七つに裂け、花は総状で雄蕊は上部、雌蕊は下部にある。種子には毒分があり、油をしぼって下剤として使われるという。
せんだん
インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のこと。センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬の広さにわたって伊蘭の悪臭が消えるとある。
天台大師
(0538~0597)。中国・南北朝から隋代にかけての人で中国天台宗の開祖。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。智者大師ともいう。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺の法緒について出家し、ついで慧曠律師に仕えて律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。
摩訶大比丘尼
釈尊の出家以前、太子の時の正妃である耶輸陀羅女のこと。羅睺羅の母。仏本行集経等によると、釈迦族の摩訶那摩大臣の娘で、才色ともに極めてすぐれていたという。釈尊が成道して12年目に迦毘羅衛国に帰った時、化導されて比丘尼となった。法華経勧持品第十三で具足千万光相如来の記別を受けた。
要当説真実は教主釈尊の金言
法華経方便品第二に「要ず当に真実を説きたまうべし」とある。仏がこの法華経に真実の教えを説くと宣言したこと。金言とは、仏の言葉のこと。不変の特質をもつ黄金をもって仏の常住不変の言説にたとえたもの。
皆是真実は多宝仏の証明
多宝仏とは東方宝浄世界に住む仏。いずこであっても、法華経が説かれる所へ出現して、それが真実であることを証明するという。法華経見宝塔品第十一には「爾の時、宝塔の中より大音声を出して、歎めて言わく……釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」(0373)とある。多宝如来が、東方宝浄世界から法華経の会座に出現して、釈尊の説く法華経が真実であると証明したことが示されている。
舌相至梵天は諸仏の誓状なり
法華経如来神力品第二十一に「諸仏救世者は大神通に住して、衆生を悦ばしめんが為めの故に、無量の神力を現じたまう。舌相は梵天に至り……」とある。釈尊および十方の諸仏が、天上界の最上の梵天まで舌を届かせて仏の説法の真実であることを証明したことが説かれている。
講義
この段では、御謙遜の立場で大聖人御自身が無戒の比丘、邪見の者であるため、衣、食ともに乏しい身であると述べられ、しかし女人成仏の唯一の経である法華経を弘めている大聖人に衣を供養した功徳は言葉で尽くせない、と本抄をいただいた方の信心の真心を称賛されている。
「日蓮は無戒の比丘・邪見の者なり故に……」
先に挙げられた鮮白比丘尼に対し、大聖人は「食衣ともしき身」であられることから、それは無戒・邪見であるため、天が憎んで、このような苦を味わわせているのであろう、との仰せである。しかし、次下の段で「しかりといえども法華経を口に誦し・とき・どき・これをとく」と、法華経を自行化他にわたって行じている法華経の行者であることを述べられている。
このことは佐渡御書に「日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し」(0957:016)と仰せのように、また「法妙なるが故に人貴し」(1578:012)の原理のように、仏法上、最高に尊い御立場であることを暗示されている。
しかも、法華経こそ唯一の女人成仏の経であるから、法華経の行者である日蓮大聖人に衣食を御供養する女人は、即身成仏の大功徳を得るのである。このことを「此の御衣の功徳は法華経にとかれて候、但心をもつて・をもひやらせ給い候へ、言にはのべがたし」と仰せられているのである。
ただ、この段のなかで「譬へば大虵の珠を含みいらんよりせんだんを生ずるがごとし、いらんをすてて・せんだん・まいらせ候・虵形をかくして珠を授けたてまつる」の御文について説明を加えると、大虵・伊蘭は「無戒の比丘・邪見の者」としての凡夫僧のお姿をたとえられたものであり、珠・栴檀は法華経にたとえられている。
大聖人は末法の一切衆生のために、凡夫僧としての御立場から、一切衆生皆成仏道の法華経の大功徳を授与されようとしていることを、このように仰せになっているのである。