日々の御書

宗教

松野殿御返事(十四誹謗の事)

第八章(在家の在り方と臨終の様相)

本文

然るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか、世の中ものうからん時も今生の苦さへかなしし、況や来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢・霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれと思し食し合せて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待つて御覧ぜよ、妙覚の山に走り登つて四方をきつと見るならば・あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし・金の繩を以つて八の道を界へり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり、信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず行くべからず、不審の事をば尚尚承はるべく候、穴賢穴賢。

       建治二年丙子十二月九日               日 蓮 花 押

     松野殿御返事

 

現代語訳

出家の身は前述のとおりすべきであるが、在家の身である、あなたは、但余念なく、南無妙法蓮華経と唱えて、僧をも供養することが肝心なのである。それも経文のとおりであるならば、力に応じて折伏もすべきである。世の中がつらく感じられる時も、今生の苦しみでさえこのように悲しい、いわんや来世の苦しみにおいてはそれ以上であると思って、南無妙法蓮華経と唱えなさい。また、うれしい時でも、今生の悦びは夢の中の夢のごときものであり、霊山浄土の悦びこそが、まことの悦びであると思い合わせて、また南無妙法蓮華経と唱えなさい。そして、退転することなく修行して、最後臨終の時を待ってごらんなさい。妙覚の山に走り登って、四方をきっとみるならば、なんとすばらしいことであろうか。法界は皆寂光土で、瑠璃をもって地面とし、金の繩をもって八つの道の境界をつくり、天より四種の花が降ってきて、空に音楽が聞こえてくる。諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、心から楽しんでおられる。われ等もその数の中に列なって、遊戯し楽しむべきことは、もう間近である。信心が弱くてはこのようなめでたい所へは決して行くことができないのである。もし不審のことがあるならば、また承りましょう。あなかしこ、あなかしこ。

建治二年丙子十二月九日   日 蓮  花 押

松野殿御返事

 

語釈

随力演説

各人の力に応じて、衆生を折伏教化するために仏法を説くこと。

 

霊山浄土

法華経の説法が行われた霊鷲山のこと。久遠の釈尊が常住して法華経を説き続ける永遠の浄土とされる。日蓮大聖人は、法華経の行者が今ここにいながら往還できる浄土であるとともに、亡くなった後に往く浄土でもあるとされている。

 

妙覚の山

妙覚は52位、42位の最高位であることから成仏の山にたとえられたもの。

 

法界寂光土

法界とは法界三千のことで、宇宙万有の全てである。寂光土は仏の住する清浄な国土。南無妙法蓮華経と唱える正信の者の住所をいう。

 

八の道

清らかで平らかな道で、涅槃にいたる道というのが、もとの意。八正道のこと。八正道のたて方は経によって異同があるが、中阿含経によると次のようになる。

① 正見  世間、出世間に対する正しい見解のこと。

② 正志  思想の正しいこと。正思惟ともいう。

③ 正語  言語の正しいこと。

④ 正業  行ないの正しいこと。

⑤ 正命  生活法の正しいこと。

⑥ 正方便 修行法の正しいこと。正精進ともいう。

⑦ 正念  観念の正しいこと。

⑧ 正定  いっさいの悪を捨てること。

 

四種の花

インドでもっとも尊重された花で、法華経が説かれる際、瑞兆として天から降るという四種の花のこと。四華ともいう。法華経序品第一には「是の時、天は曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華を雨らして、仏の上、及び諸の大衆に散じ、普き仏の世界は六種に震動す」とある。曼陀羅華は白蓮華のこと、摩訶曼陀羅華は大白蓮華のことをいう。曼殊沙華は天上華とも、赤華とも訳される。摩訶曼殊沙華は曼殊沙華の大なるものをいう。

 

常楽我浄

仏にそなわる徳目で、四徳波羅蜜ともいう。単に四徳とも。涅槃経などでは、苦・空・無常・無我は人々の迷いを破るための教えであり、仏の境地は常・楽・我・浄であると説く。①常とは仏の境地が永遠不変であること。②楽とは無上の安楽のこと。③我とは自立していて他から何の束縛も受けないこと。④浄とは煩悩のけがれのない清浄な境地をいう。

 

娯楽快楽

諸仏・菩薩が喜び楽しんでいるさま。いかなる難も打ち破り余念なく南無妙法蓮華経を唱えるとき、最高の楽しみ、成仏の境涯をさす。

 

講義

在家の身としての信仰のあり方を示されて本抄を締めくくられている。すなわち、唱題、供養、折伏に邁進すべきであり、それによって永遠の幸福が必ず得られることを強調されている。しかも、その最も根本は信心であり、「信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず」と、強盛なる信心を貫くことを、特にすすめておられるのである。

 

それも経文の如くならば随力演説も有るべきか

 

これは、布教を勧められた御文である。大聖人は、経文のとおりであれば、随力演説していきなさい、弘教をしていきなさい、といわれたところである。

ここでいう経文とは、法華経随喜功徳品第十八である。随力演説は、五十展転の功徳が説かれている中の言葉である。すなわち、それは次のとおりである。

「是の経を聞いて随喜し已って、法会従り出でて、余処に至り……若しは城邑・巷陌・聚落・田里にて、其の聞く所の如く、父母・宗親・善友・知識の為めに、力に随って演説せん。是の諸人等は、聞き已って随喜して、復た行きて転教せん(中略)是の如く展転して、第五十に至らん」。

この経文によれば、随力演説とは、法華経を聞いた歓喜で、自らの力に応じて、聞いた話を他の人に伝え弘めていくことである。

今日においては、われわれもまた、法華経の文底の法門を聞き得たわけである。したがって、崇高な哲理を聞き、歓喜した以上、これを伝えるべきである。昔は、仏の教えを聞いた衆生が、随力演説したのである。今は、われわれが日蓮大聖人の仏法を聞いて、歓喜し、布教に励むのである。

われわれは信を根本とし、各人の能力・個性に応じ、これを最大限に発揮して、法を弘むべきである。

日興上人が遺誡されている、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(1618-06)の「身命を捨て」の意をよく思索し、その意志を体していくべきである。

次に、随力演説の演説についてみるなら、それは、妙法を説き演べることである。決して、他の事柄をいうのではない。

演説には、さまざまな演説がある。人を煽動するための演説もあれば、自己の利益を守るための演説もある。宣伝アピールのための演説もあれば、人を窮地に追いやる演説もある。人を称賛する演説もある。そこで大事なことは、何を演説するか、ということである。

真実の演説は、人を根底より幸福へ導く内容のものであるといえよう。仏法は、幸福の根源を説き極めているのである。故に、真実の演説の内容は仏法の演説の中にある。それは、あたかも蔵の中に珠玉がちりばめられているようなものである。

 

今生の悦びは夢の中の夢・霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれ

 

今生の幸せというものは、夢の中の夢のように、はかないもので、真実の幸福世界、悦びというものは霊山浄土における悦びであるとの御文である。霊山浄土とは仏のいます清浄な国土のこと、すなわち常寂光土のことをいう。末法においては、三大秘法の大御本尊のましますところであり、また大御本尊を受持して南無妙法蓮華経と唱える者の住所をいうのであるが、本抄では、前後の関係から、今世に対する来世の意味に使われている。

また、今生の悦びとは世間一般の幸せであり、霊山浄土の悦びとは信心を根底とした絶対的な幸福とも考えられる。松野殿に与えられた御書には、大聖人は、来世というもの、成仏ということについて、その時の様子や状態をくわしく述べられている個所が多い。

こうしたお手紙からすると、松野入道は、死後の世界、臨終というものに強い関心を持っていて、日蓮大聖人におうかがいしたとも考えられる。

当時は、末法思想が浄土思想と結びついていた。手のほどこしようのない天災は民衆を苦悩のどん底におとしいれた。当時の状況について、文永5年(1268)に書かれた安国論御勘由来の次の一節からもうかがうことができる。

「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す、同二年戊午八月一日大風・同三年己未大飢饉・正元元年己未大疫病同二年庚申四季に亘って大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ」(0033:02)。

死ぬ人が大半以上に及んだとは、痛ましいかぎりである。そういう中で何らなす術を知らない民衆は、宗教にすがり、今生で幸せになれないものを来世に求めたのである。

あるいは西方の阿弥陀にすがり、あるいは東方の薬師如来を信じていったのである。松野入道も当時に生きたひとりの人間として、死ということ、また死後の世界にかなり深い関心をもっていたと考えられる。日蓮大聖人は、このような松野殿の心境にこたえて、題目を唱えて、生死を超越した永遠の幸福境涯を自得するように、激励なさったものと思われる。

このように今生よりも未来を重んじて述べられたのは、仏法は永遠にわたる幸福確立にその元意があるからである。

「今生の悦びは夢の中の夢」とは、一瞬一瞬のはかないすぐ消えてしまうような悦び、すなわち、周囲の変化によって、すぐ崩れてしまう喜び、幸せである。最後は、死によって、全てが崩壊する無常の世界である。

「霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれ」とは、三大秘法の御本尊を信じている者の永遠に崩れない悦びを指すのである。ここで、霊山浄土とは、念仏宗で説く極楽浄土のような彼岸思想ではない。本抄では、一応、例として理想教が描かれているが、本質は、御本尊を受持するとき、いかなる山谷広野であろうと、そこは、即寂光土となるのである。したがって、いかなる環境であっても、妙法を信受するとき、悪条件を克服することができるのである。無常観、厭世観を脱するとは、永遠の生命観に立ち、現実の世界から、逃避するのではなく、その中で、強く逞しい生命力をもって、その環境を逆に支配することにほかならない。それが霊山浄土に入ることであり、自身の宮殿を築くことである。これを成仏の境涯というのである。

正法を知らない人は、漠然とした人生観のもとに、いつ崩れるかも知れない幸せを求めているに過ぎない。そして、社会的な立場を得ると、胸をはって自分の幸せを吹ちょうし、いい気になっているが、その立場がぐらつきはじめると、恥も外聞も忘れて、嘆き悲しみ、自分より不幸なものはこの世にいないかのように嘆くのが常である。

われわれはそれが、三大秘法の御本尊を持つことによって、真実の幸せは他のなにものにも崩されないものであることを知った。そして、この人生がどんなに苦しくとも、それを乗り越えていく偉大な力を知ることができた。更には、自分のことのみにあくせくしていたのが、他人や、社会全体の幸、不幸を考え悩むようになったのである。これこそ偉大な人間革命ではないか。

所詮、来世といっても、今世の連続であり、来世という果は今世の因によってきまっていくのである。今世において、三大秘法の御本尊に巡り会い、朝夕の勤行に、日夜精進している人は、すでに来世の崩れぬ幸せを約束されているといっても過言ではあるまい。

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