当体義抄
文永10年(ʼ73) 52歳 最蓮房
第二章(十界の事相の所以を釈す)
本文
問う一切衆生の当体即妙法の全体ならば地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや、答う法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり、譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し、真如の妙理も亦復是くの如し一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり、譬えば人夢に種種の善悪の業を見・夢覚めて後に之を思えば我が一心に見る所の夢なるが如し、一心は法性真如の一理なり夢の善悪は迷悟の無明法性なり、是くの如く意得れば悪迷の無明を捨て善悟の法性を本と為す可きなり、大円覚修多羅了義経に云く「一切諸の衆生の無始の幻無明は皆諸の如来の円覚の心従り建立す」云云、天台大師の止観に云く「無明癡惑・本是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る」云云、妙楽大師の釈に云く「理性体無し全く無明に依る無明体無し全く法性に依る」云云、無明は所断の迷・法性は所証の理なり何ぞ体一なりと云うやと云える不審をば此等の文義を以て意得可きなり、大論九十五の夢の譬・天台一家の玉の譬誠に面白く思うなり、正く無明法性其の体一なりと云う証拠は法華経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云、大論に云く「明と無明と異無く別無し是くの如く知るをば是を中道と名く」云云、但真如の妙理に染浄の二法有りと云う事・証文之れ多しと雖も華厳経に云く「心仏及衆生是三無差別」の文と法華経の諸法実相の文とには過ぐ可からざるなり南岳大師の云く「心体に染浄の二法を具足して而も異相無く一味平等なり」云云、又明鏡の譬真実に一二なり委くは大乗止観の釈の如し又能き釈には籤の六に云く「三千理に在れば同じく無明と名け三千果成ずれば咸く常楽と称す三千改むること無ければ無明即明・三千並に常なれば倶体倶用なり」文、此の釈分明なり。
現代語訳
問う、一切衆生の当体が、そのまま妙法の全体であるならば、地獄界から菩薩界までの九界の業因業果も、すべて妙法の当体なのであろうか。
答う、諸法の本性の不思議な理として、生命の一念には「染浄の二法」がある。染法が働くならば迷いとなり、浄法が働けば悟りとなる。この悟りが、すなわち仏界であり、迷いは、衆生すなわち九界となるのである。この迷悟の二法は二ではあるけれども、しかもその根底においては共通した法性真如の一理なのである。譬えていうならば、水精の玉は太陽に向ければ(レンズの作用で)火を取り、月に向かってみれば(冷気のため凝結作用によって)水を取る。このように玉は一つであるが、縁によってその効能が異なるのと同じことである。
十界に具わった真如の妙理も、また、このようなものである。法性の理は、ただ一つの妙なる真如の理ではあるけれども、悪縁にあえば迷いとなり、善縁にあえば悟りとなる。その悟りはすなわち法性であり、迷いはすなわち無明である。譬えば、夢の中で、善悪の業についていろいろな夢を見る。しかし、その夢がさめてから、これを思い返してみれば、全部、自分自身の一心の作用であるようなものである。このように各人に本質的に実在している一心こそ法性真如の理であり、夢の善悪は迷いの無明と悟りの法性である。このようにわきまえたならば、悪であり迷いである無明を捨てて、善であり悟りである法性にもとづいて、生活をしていくべきことは当然である。
大円覚修多羅了義経には「一切諸々の衆生の無始以来の幻(迷い)・無明は、すべて諸々の衆生の本質である本覚の法身如来の円覚の心から作り出したものである」といっている。また、天台大師は摩訶止観の巻五に「無明の癡惑(ちわく)は、本来それ自身が法性と一体なのである。しかし、癡の本質上、その働きによる迷いのために法性が変じて、無明となるのである」と述べている。また、妙楽大師の法華玄義釈籖の巻一には「理性といっても別に存在するのではなく、すべて無明の働きによるのである。また無明といっても、無明に別の本体があって実在するのではなく、すべて法性の中に存在するものなのである」と説いている。無明は断じ尽くすべき迷いであり、法性は証得すべき仏法上の道理であって、まったく異なるものである。それなのに、どうして無明と法性とが体一なのであるかという疑問は、以上の数々の経釈の文義によって正しく理解すべきである。大智度論の巻九十五に説かれた夢の譬えや、天台大師の玉の譬えは、共に無明・法性一体であることをよく説明してあり、まことに興味深く思うものである。
正しく、無明と法性と、その本体が同一であるという証拠は、法華経の方便品第二の「是の法は法位に住して、世間の相は常住なり(是の法は即ち九界の衆生である。法位とは法性であり仏である。それによって十界の差別はありながら、そのまますべて衆生、仏ともに永遠に常住となるのである)」の文である。大智度論には「明(悟り)と無明とは、その本質においては何の異もなく区別もないのである。このように知ることを中道と名づけるのである」と。
ただ生命の真如の妙理に、染浄の二法が存在するという証文は多いけれども、華厳経の「心と仏と及び衆生とこの三つは、本質上まったく差別がない」という文と、法華経の「諸法実相」の文には、まさるものはない。南岳大師は「心の本体に染法と浄法の二法を具足して、しかも、別に異なった姿はなく、まったく一味平等である」と。また同じく南岳大師の明鏡の譬えは、まことに詳しくこれを説いている。さらに詳しくは大乗止観の釈のとおりである。
また、すぐれた釈文としては、妙楽大師の法華玄義釈籤の六に「一念三千の道理が、ただ衆生の理具としてとどまっているだけであれば、それを無明と名づけ、一念三千が仏果として成就したのであれば、すべてそれを常楽というのである。いずれにしても、一念三千という実相は不変なのであるから、無明即明であり、三千が衆生、仏ともに常住であるがゆえに俱体俱用である」といっている。この解釈によって明瞭であろう。
語釈
水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る
出典は摩訶止観巻第六下に「一の珠を月に向れば水を生じ、日に向れば火を生ず、向はざれば則ち水火無きが如き、一物にして未だ曾て二ならず、而も水火の殊なり有るのみ」とあるによる。水晶の玉は太陽に向けるとレンズの作用で火を得るが、月夜になると大気が冷え、凝結作用によって表面に水滴ができる。昔の人は、月夜にそうした現象が起きるところから、水晶の玉を月に向けると水を得ると考えたのではなかろうか。
大円覚修多羅了義経
正しくは大方広円覚修多羅了義経。円覚経と略す。一巻。文殊等の十二菩薩のために、仏が大円覚の妙理を説いたもの。中国・唐代の仏陀多羅の訳出とされるが、中国選述の偽経ともいわれる。華厳宗第五祖の宗密が所依とした。後世、同じく中国撰述経典である楞厳経と共に「教禅一致」を説く経典と見なされ、時代が下がるに従って禅宗で重視された。
円覚
円満の覚体の意。完全にして円満な悟り。
止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が隋の開皇14年(0594)4月26日から一夏九旬にわたって荊州玉泉寺で講述したものを、弟子の章安大師灌頂が筆録した書である。本書で天台大師は、仏教の実践修行を〝止観〟として詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、サンスクリットで偉大なという意の〝摩訶〟がつけられている。〝止〟とは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを〝観〟という。内容として、法華経の一心三観・一念三千の法門を開き顕し、それを己心に証得する修行の方軌を示しており、天台大師の出世の本懐とされる。構成は、章安大師の序分と天台大師の正説分からなっている。正説分として①大意、②釈名、③体相、④摂法、⑤偏円、⑥方便、⑦正修、⑧果報、⑨起教、⑩旨帰、の十章が立てられており、これを「十広」ともいう。しかしながら、⑦正修章において十境を立てるなか、十境中の第八増上慢境以下は欠文のまま終わっている。
大論
大智度論のこと。百巻。竜樹造と伝えられる。姚秦の鳩摩羅什訳。摩訶般若波羅蜜経釈論ともいう。内容は摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)を注釈したもので、序品を第一巻から第三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。大品般若経の注釈にとどまらず、法華経などの諸大乗教の思想を取り入れて般若空観を解釈し、大乗の菩薩思想や六波羅蜜などの実践法を解明しており、単に般若思想のみならず仏教思想全体を知るための重要な文献であるとともに、後の一切の大乗思想の母体となった。
大論九十五の夢の譬
大智度論巻九十五に「仏は、諸法は根本定実にして、毫末計りの如きも所有あることなしと説きたまえり。是の事を証明せんと欲するが故に、夢中に五欲を受くるの譬喩を説く」と。また、三世諸仏総勘文教相廃立に「夫れ以れば夢の時の心を迷いに譬え寤の時の心を悟りに譬う」とある。
玉の譬
無明も法性も、その体は一であることの譬え。摩訶止観巻第六下に「一の珠を月に向れば水を生じ、日に向れば火を生ず、向はざれば則ち水火無きが如き、一物にして未だ曾て二ならず、而も水火の殊なり有るのみ」とある。
是の法は法位に住して世間の相常住なり
法華経方便品第二に「是の法は法位に住して 世間の相は常住なり」とある文。権と実の理一をあらわす文である。日寛上人の文段に「是の法とは無明、法位とは法性、常住とは体一」とある。すなわち、この文は無明即法性であり、その当体は同一であるとの意である。また観心の立場から釈して、御義口伝に「此の文衆生の心は本来仏なりと説くを常住と云うなり万法元より覚の体なり」と。
華厳経
大方広仏華厳経の略。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界縁起(無尽縁起)、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界(ゆいしんほっかい)の理を説く。また入法界品には、五十三人の善知識を歴訪し、最後に悟りを開いた求道物語を展開し、仏道修行の段階(五十二位)とその功徳を示している。
明鏡の譬
南岳大師の大乗止観巻二にある。一切像と鏡体との関係が、二にして不二のものであることをとおして、衆生と仏の関係、九界と仏界の関係が不二であることを明かしている。観心本尊抄に「譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し」とある。
籤
法華玄義釈籤の略。十巻(または二十巻)。中国・唐代の妙楽大師湛然述。天台大師の法華玄義の註釈書。天台山で法華玄義を講義した時に学徒の籤問(疑問箇所に籤[付箋]をつけて意味を質すること)に答えたものを基本とし、後に修正を加えて整理したもの。引用文の出典を明示し、注釈は極めて詳細で、天台大師の教義を拡大補強している。また当時盛んであった華厳宗・法相宗などを破折して法華最第一の義を強調している。
倶体倶用
体とは本体、用とは働きを指す。倶体倶用とは、法華経本門寿量品文底の本仏が体と用とを共に具えていることをいう。倶体倶用は必ず無作三身でなければならない。爾前・迹門の仏は法身を体とし、報身、応身を用としているから、俱体俱用ではない。総勘文抄に「守護国界章に云く……『権教の三身は未だ無常を免れず・前三教の修行の仏、実教の三身は倶体倶用なり・後の円教の観心の仏』」とある。
講義
この章は、森羅万象ことごとく、妙法蓮華の当体である理由を明かされたところである。一切衆生の当体が妙法蓮華の全体というならば、地獄界ないし菩薩界等の業因業果も皆これ妙法蓮華の当体と考えてよいのかという問いに対して、そのとおりであると答え、その理由を染浄の二法の上から、体一相異、相異体一に約して述べられている。
悩み苦しむ九界の生命活動といっても、力強い仏界の生命活動といっても、その本質は法性真如の一理たる妙法に帰するのである。共に妙法の働きであって、九界の業因業果に苦しみ、不幸な人生を送る人も、その本質は妙法蓮華の当体である。
しかしこれは一往の義であり、地獄界、畜生界、修羅界等の生命に支配されている人は、染法の濁った罪業であるが故に、真実の妙法の当体とはいえないのである。再往は御本尊を受持し、妙法の生命を湧現し、浄法の清浄な生命を確立して初めて妙法蓮華の当体となるのである。
染浄の二法
生命の本質、われらの一念に染浄の二法がある。生命を大きく分けてみると、一つには、汚れた生命で、煩悩・業・苦に左右される迷いの生命である。これを染法という。また一つには、清浄な生命で、煩悩・業・苦に左右されない悟りの生命である。これを浄法という。十界の上からこれをみれば、染法とは九界であり、浄法とは仏界である。また染法は無明であり、浄法は法性である。
この染法が働くならば迷いとなり、不幸な人生となっていく。逆に浄法が働けば悟りとなり、幸福な人生になっていく。しかし、染法の生命といい、浄法の生命というも、別々の生命ではなく、同じ生命の変化にすぎないのであり、詮じつめれば法性真如の一理に帰するのである。法性真如の一理とは、自分自身の一念であり、生命の本質、妙法蓮華経のことである。
幸福も不幸も、自分の一念で決まってくるし、十界の生命活動といっても同じく自分の生命の中にある。さらに迷悟の二法、染浄の二法といっても、全部、自分自身の一念に具足している。
「己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(0383:06)との仰せもある。この場合の一念心は信心である。信力、行力の一念は何よりも強い。南無妙法蓮華経と唱える一念は、全宇宙に通じ、一切を動かしていくのである。
生命の本質を余すところなく説ききった哲学は仏法以外にはない。仏法こそ最高唯一の生命哲学である。およそ、人間生命について人は古来、おのおのの立場から、さまざまに考えてきた。しかし、それらは、単に表面のみを見た皮相的なものであり、かつ、部分観である。
ある者は性善説を唱える。孟子いわく「人性の善なるや、なお水の下に就くが如きなり」と。すなわち、人の性は水が高きより低きに流れるごとく、自然に善に向かうものだというのである。
これとはまったく反対に、人間は本来、悪の性分であるというのが性悪説である。荀子いわく「人の性は悪、その善なるものは偽なり」と。
過去の思想をみるに、一般に洋の東西を問わず、性善説より性悪説の方が優勢であったようである。アメリカのプラグマティズムの創始者・ジェームズいわく「生物学的に考察すると、人間は最も恐ろしい猛獣であり、しかも同じ種族を組織的に餌食にする唯一の猛獣である」と。
また、こうした、互いに相反する性善、性悪両説の中庸をとって、本来、両面があるとする考え方も古くからある。ただし、その根拠はあいまいであり、理論的に生命哲学の上から解明されたものではないのである。
生命の本質を十界論、一念三千論、さらには染浄の二法の上から、見事に解明したのは仏法以外にはないのである。
治病抄にいわく「善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失有るべし、法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:06)と。
総勘文抄にいわく「無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり」(0564:07)と。
無明といっても悟りといっても、共に一念心のなかにある。作用によって無明にもなるし、法性にもなっていく。大事なのは、表面的な現象ではなくして、生命の尊厳、不可思議、自分自身の一念をよく知ることである。
このように生命は本来一つであり、法性真如の一理たる妙法に帰着する。一切の現象は、共に妙法の振舞いであり、働きにすぎないのである。しかるに人間として生を受けながら、ある人は幸福な人生を送り、ある人は不幸な人生を送る。それは人間の生命が過去世の、善縁、悪縁の積み重ねにより生命の染浄が決まり、その結果、今世の果報が決まるからである。
染法の濁りきった生命こそ不幸の源泉であり、浄法の清浄な生命こそ幸福の原動力である。人間は誰しも不幸を願う人はいない、皆、幸福を願うのは当然である。
しからば人を不幸にする悪縁は何か、濁りきった生命は何によるのか。これこそ誤れる宗教によるのである。その悪縁によって、多くの人々は苦しみ悩む地獄界の生命活動、さらには餓鬼界、畜生界等々の醜い境涯に甘んじているのである。これらは、ことごとく染法に染まった罪業であり、真実の妙法蓮華の当体とはいえないのである。
このような不幸な境涯にならないためには、この悪縁を捨てて、善縁を求めなければならない。末法今日、民衆を不幸から救う善縁とは三大秘法の御本尊である。
御本尊に唱題することによって、一切の自分自身の生命の調和をとっていける、すなわち本源の妙法の生命を湧現することができるのである。また、これによって、濁った染法の生命を、清浄な浄法の生命に変えていくことができる。
それはあたかも、曇ったガラスを掃除するようなものである。掃除をして、きれいなガラスになったとしてもガラスはガラスであって同じ当体なのである。
われらが妙法を持つことは、地獄、餓鬼、畜生といった濁った生命に左右されずに、常に仏界を湧現し、九界を遊戯していくということである。九界を遊戯し、融通無碍の人生を送る生命、それこそ妙法蓮華の当体ではないか。
故に「法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり」と述べられているのである。
日寛上人は文段に、この文は体一相異、相異体一を明かしたものであると述べている。法性の妙理は一つであると雖も、染浄の二法が薫じて迷悟の二法に成るというのは、体一相異である。生命の本質は共に妙法であるが、その具体的な現われは染法として、また浄法として、さらには幸・不幸の人生として現われるからである。
この幸・不幸も所詮、自分自身の一念で決定するというのは、まさに相異一体といえるのである。
無明癡惑・本是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る
天台大師の摩訶止観巻五の文である。ここでは無明も法性も、その体は一つであり、法性真如の一理に帰すことの文証として出されたものである。
止観には、この文に続いて「起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅なり」とあるように、あらゆる現象も、所詮、妙法蓮華経の働きにすぎないことを表わしている。
法性とはわが一念のことで、理論的にいえば生命の本質をいうのである。無明癡惑とは九界の生命活動のことで、悩み苦しんでいる迷いの生命である。しこうして九界の生命活動もわが一念より出たものであり、妙法の働きにすぎないのである。また自分の一念に染浄の二法のうちの染法が作用した場合に、法性が変じて無明になってしまうのである。
この原理はまた、第六天の魔王が梵天・帝釈に変わっていくという法華経の哲理でもある。治病抄にいわく「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:07)と。
元品の無明は転じて第六天の魔王と働き、元品の法性は即梵天・帝釈となって働くのである。わが生命の中に第六天の魔王も、仏界も、梵天・帝釈も厳然と存在する。それは縁にふれて、あるときは第六天の魔王の働きとなり、あるときは梵天・帝釈の働きとなって出てくる。
幸福も不幸も、わが一念で決まるとの哲理は大聖人の仏法以外には絶対ない。まさに「無明癡惑・本是れ法性」の故に、南無妙法蓮華経の御本尊を信受し、題目を純粋に、真剣に、力強く唱えた生命は、わが身も福徳に満ち、民衆を幸福へ、社会を繁栄へと導くのである。
逆にまた「癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る」との原理からして、御本尊を知らない、あるいは疑ったり誹謗する生命は、必ず行き詰まり、わが身を不幸にするのみならず、民衆を不幸に陥れ、全世界の福徳を断ち切る魔王の働きをなすのである。
法華経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云
この文は、法華経方便品の「是法住法位 世間相常住」の文である。全文の意は、九界(無明)も仏界(法性)も、本来その本体は真如の法位におさまっており、妙法に照らして見れば、差別ある相そのままが常住不変であって、これらの現象のほかに実相はないということである。したがって、ここで引用した意味は、森羅万象ことごとく妙法の当体であるということをあらわさんがためである。
次に部分的に日寛上人の文段により解釈を加えれば、
① 「是の法」とは、無明(九界)のこと。
② 「法位」とは、法性(仏界)をいう。
③ 「住して」とは、安住しての意、法性真如の法位に落ち着いていて、その妙理の中から外に出ないこと。
④ 「世間の相」とは、差別の姿。われわれの目前に展開する十界の姿は、一往、差別の様相を呈する。
⑤「常住なり」とは、体一すなわち一如をあらわす。妙法の悟りを得てみれば生滅無常の差別の相も、本有常住、妙法の当体であること。
この全文について、日蓮大聖人は御義口伝に「此の文衆生の心は本来仏なりと説くを常住と云うなり万法元より覚の体なり(0787:01)」と釈されている。また、その前には「是法住法位」を真諦、迹門、「世間相常住」を俗諦、本門と配当した次の文を示されている。
真諦 俗諦
是ノ法住シテ法位ニ 世間ノ相常住ナリ
迹門 本門
これについては、「御義口伝講義」に明瞭に説かれているので、ここではそれを要約しておきたい。
まず「是の法法位に住して」が真諦、「世間の相常住なり」が俗諦とは、信心即生活ということである。「是の法」とは御本尊のことであり、「法位に住して」とは、御本尊根本ということである。「世間の相」とは差別相のことであり、一切の生活、社会等、すべて差別の姿をとっていることを意味する。「常住なり」とは、その差別の姿のままで御本尊の偉大なる光明に照らされて、自身、絶対に崩れない、永遠不滅の幸福な当体とあらわれることである。
次に、この経文を、迹門、本門に立て分ければ「是の法法位に住して」が迹門、「世間の相常住なり」が本門である。「是の法法位に住して」とは、宇宙森羅万象が妙法の当体であることを意味し、空間の実相を尽くしたものであるから迹門であり、「世間の相常住なり」とは、常住の当体を説き明かし、時間的に実相を尽くした立ち場であるから本門である。
ここに迹門とは、不変真如の理のことであり、本門とは随縁真如の智のことである。これを御本尊に約して論ずれば、「是の法法位に住して」とは、御本尊は大宇宙の根源の法理であり、根本法則であるということである。「世間の相常住」とは、御本尊は大宇宙の根源であると共に、事の一念三千の常住不滅の幸福なる当体であるということである。したがって、御本尊の相貌に約していえば「是の法法位に住して」とは、中央の南無妙法蓮華経であり、「世間の相常住なり」とは、左右の十界互具、百界千如、三千世間であり、これらが、中央の南無妙法蓮華経の光明に照らされて、皆ことごとく、久遠元初の自受用身如来の働き、力用、福徳になっている姿をいうのである。
また、御本尊とわれわれとの関係として不変真如、随縁真如を論ずれば、先の真諦と俗諦の説明と同じになる。すなわち、御本尊それ自体は「是の法法位に住した」お姿であり、不変真如の理である。それを、さらに御本尊を根底に信心を開き、人々の生活の上に、現実に智慧となり、大生命力となって湧現してくることを「世間の相常住」というのである。
このように、様々な内容を含む経文であり、何重にも拝していかねばならないが、この当体義抄においては、森羅万象ことごとく常住の妙法の当体であるとの意味で引用したものである。
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