日々の御書

宗教

報恩抄

 建治2年(ʼ76)7月21日 55歳 浄顕房・義浄房

第十章(天台滅後、三宗の迷乱)

 本文

其の後天台大師も御入滅なりぬ陳隋の世も代わりて唐の世となりぬ章安大師も御入滅なりぬ、天台の仏法よやく習い失せし程に唐の太宗の御宇に玄奘三蔵といゐし人・貞観三年に始めて月氏に入りて同十九年にかへりしが月氏の仏法尋ね尽くして法相宗と申す宗をわたす、此の宗は天台宗と水火なり而るに天台の御覧なかりし深密経・瑜伽論・唯識論等をわたして法華経は一切経には勝れたれども深密には劣るという、而るを天台は御覧なかりしかば天台の末学等は智慧の薄きかのゆへに・さもやとおもう、又太宗は賢王なり玄奘の御帰依あさからず、いうべき事ありしかども・いつもの事なれば時の威をおそれて申す人なし、法華経を打ちかへして三乗真実・一乗方便・五性各別と申せし事は心うかりし事なり、天竺よりは・わたれども月氏の外道が漢土にわたれるか法華経は方便・深密経は真実といゐしかば釈迦・多宝・十方の諸仏の誠言もかへりて虚くなり玄奘・慈恩こそ時の生身の仏にてはありしか。

  其後則天皇后の御宇に天台大師にせめられし華厳経に又重ねて新訳の華厳経わたりしかば、さきのいきどをりを・はたさんがために新訳の華厳をもつて天台にせめられし旧訳の華厳経を扶けて華厳宗と申す宗を法蔵法師と申す人立てぬ、此の宗は華厳経をば根本法輪・法華経をば枝末法輪と申すなり、南北は一華厳・二涅槃・三法華・天台大師は一法華・二涅槃・三華厳・今の華厳宗は一華厳・二法華・三涅槃等云云。

  其の後玄宗皇帝の御宇に 天竺より善無畏三蔵は大日経・蘇悉地経をわたす、金剛智三蔵は金剛頂経をわたす、又金剛智三蔵の弟子あり不空三蔵なり、此の三人は月氏の人・種姓も高貴なる上・人がらも漢土の僧ににず法門もなにとはしらず後漢より今にいたるまで・なかりし印と真言という事をあひそいて・ゆゆしかりしかば天子かうべをかたぶけ万民掌をあわす、此の人人の義にいわく華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は顕教の内・釈迦如来の説の分なり、今の大日経等は大日法王の勅言なり彼の経経は民の万言此経は天子の一言なり、華厳経・涅槃経等は大日経には梯を立ても及ばず但法華経計りこそ大日経には相似の経なれ、されども彼の経は釈迦如来の説・民の正言・此の経は天子の正言なり言は似れども人がら雲泥なり、譬へば濁水の月と清水の月のごとし月の影は同じけれども 水に清濁ありなんど申しければ、此の由尋ね顕す人もなし諸宗皆落ち伏して真言宗にかたぶきぬ、善無畏・金剛智・死去の後・不空三蔵又月氏にかへりて菩提心論と申す論をわたしいよいよ真言宗盛りなりけり、但し妙楽大師といふ人あり天台大師よりは二百余年の後なれども智慧かしこき人にて天台の所釈を見明めてありしかば天台の釈の心は後にわたれる深密経・法相宗又始めて漢土に立てたる華厳宗・大日経真言宗にも法華経は勝れさせ給いたりけるを、或は智のをよばざるか或は人に畏るるか或は時の王威をおづるかの故にいはざりけるかかくて・あるならば天台の正義すでに失なん、又陳隋已前の南北が邪義にも勝れたりとおぼして三十巻の末文を造り給う所謂弘決・釈籤・疏記これなり、此の三十巻の文は本書の重なれるをけづりよわきをたすくるのみならず天台大師の御時なかりしかば 御責にものがれてあるやうなる法相宗と華厳宗と真言宗とを一時にとりひしがれたる書なり。

 

 現代語訳

その後、天台大師も隋の開皇17年に60歳で入滅された。陳隋の時代も過ぎて、やがて唐の代となった。天台大師の第一の弟子、章安大師も入滅された。かくして天台大師の仏法は、ようやくすたれ、その教学もまさに滅びんとした。時に唐の太宗の御宇に、玄奘三蔵という人が出現し、貞観三年に中国を発してインドに入り、貞観十九年に中国に帰ってきた。玄奘はインドの仏教をたずね尽くして、その中に法相宗がもっとも優れるといってこれを中国に伝えた。

この法相宗は、天台宗とは、水火のごとく相反する教えであった。しかも玄奘は、天台大師がいまだご覧にならなかったところの深密経・瑜伽論・唯識論等を持ち帰ったと称し、しかも「法華経は一切経には勝れた経ではあるけれども、深密経には劣る」と主張した。天台の末学たちは智慧、学識も浅かったために、天台の真意を解すすべもなく、天台大師はご覧にならなかったのだからと思い、玄奘のいうことを、そうであろうとそのまま受け入れてしまった。

また、唐の太宗は賢王であると人々に思われ、玄奘への御帰依はまた一通りでなかったので、玄奘に対していいぶんをもった人々も、世の常として、時の皇帝の権力を恐れて、それをいい出す人がいなかった。真実の法華経を投げ捨てて、「三乗は真実、一乗方便、五性各別」と主張したことは、まことに残念なことであった。

彼の持ち帰った経文は、インドから伝えたものであるが、その邪義なることは、インドの外道が漢土にやってきたかのごとくであった。法華経は方便であり、深密経は真実であるといったので、釈迦・多宝・十方の諸仏の証言も、かえってムダになってしまい、逆に玄奘やその弟子の慈恩等が、生身の仏のごとく思われるという、とんでもないことがおこったのである。

玄奘が法相宗を伝えた後、しばらく経って、唐の則天武后の時代に、法蔵法師が出た。法蔵法師は、天台大師によってせめおとされた華厳経に、その後訳された新訳の華厳経を助けとして華厳宗を開いた。法蔵の気持ちは前に華厳が天台大師によって打ち破られた、その恨みを晴らすためであった。

この華厳宗の主張は、「華厳経は仏陀最初の説法であるから根本法輪であり、法華経は最後の説であるから枝末法輪である」というのである。また、前の南三北七の諸師は、一華厳、二涅槃、三法華であった。天台大師は一法華、二涅槃、三華厳であり、法蔵の立てた華厳宗のいいぶんは、一華厳、二法華、三涅槃であった。

その後、唐の玄宗皇帝の時に、インドから善無畏三蔵が中国にわたってきて、大日経、蘇悉地経を伝えた。さらに金剛智三蔵は、金剛頂経を伝えた。また金剛智三蔵の弟子に不空三蔵というのがあり、この不空三蔵もわたってきた。

これらの三人は、いずれもインドの人で、種姓も高貴であり、人柄も中国の僧よりも優れていた。その説く法門も、後漢の世に仏教初めて伝来してより、今日にいたるまで見聞しなかったところの印と真言という、まったく新しいものをあいそえて教えを説いた。それが、まことに堂々としてりっぱであったので、上は玄宗皇帝から下は万民にいたるまで、すべて深く頭を垂れ、また手を合掌して帰依したのである。

この人々の説によれば、「華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は、顕教内の勝劣であり、釈迦如来の説法の範囲である。いまこの大日経は、大日如来の説法であって、法華経の顕教と相対すれば、彼の諸経は民の万言、この大日経は天子の一言である。華厳経、涅槃経等は、大日経に梯を立ててもおよびもつかないが、ただ法華経のみは大日経に相似た経といえよう。しかし、彼の法華経は釈迦仏の説で、民の正直語にすぎぬが、この大日経は大日如来の説、天子の正言である。正言である点は似ているけれども、仏の資格は、釈尊と大日如来とでは天地雲泥である。たとえば釈尊は濁水に映る月影のごとく、大日如来は清水に宿る月影のごとく、月は同じであるが水に清濁あるようなものである」等と勝手な論を吐いたのである。しかも、この誤りをだれひとり尋ねあらわす人がなくて、諸宗は皆落ち伏して真言宗になりさがってしまったのである。

善無畏・金剛智の死去の後、不空三蔵はふたたびインドに立ち帰り、菩提心論と申す論を中国にもってきたので、いよいよ真言宗は盛んになるばかりであった。

ただし、天台の陣営にも、妙楽大師という人が出現していた。天台大師より後、二百余年に出現した人であるが、ひじょうに智慧の優れた人で、天台大師の解釈をくわしく究め尽くしていた。ゆえに天台の釈された真意は、その後にわたってきた深密経や法相宗、また初めて漢土に立てられた華厳宗、また新しく伝来した大日経を依経とするところの真言宗、これらのいずれにも、格段に勝れているのが法華経であるということを明白に知っていた。

しかるに、天台の末学たちは、その智解がそこまでいたらないのか、あるいは玄奘・法蔵・善無畏等を恐れるのか、あるいはそれらの邪義に帰依した、時の皇帝の威力を恐れたのか、なにもいい出せなかった。このままに打ち過ぎるならば、天台の正義も滅び去ってしまうであろう。また彼らの唱える邪義は、陳隋以前の南三北七の邪義にも越える大邪義である。

妙楽大師は、これは絶対に捨てておくわけにはいかぬと堅く決心して、天台大師の本疏について註釈書を三十巻つくられた。いわゆる摩訶止観輔行伝弘決(摩訶止観の註釈)、法華玄義釈籤(法華玄義の註釈)、法華文句疏記(法華文句の註釈)である。この三十巻の書は、本書の中で重複しているところは一方を削り、意味の明瞭でないものをはっきりさせただけではなくして、天台大師時代なかったために、天台の破折をのがれていた法相宗と華厳宗と真言宗とを、一時に論破せられた偉大な書なのである。

 

語釈

章安大師

05610632)。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」2巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観687日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威に法灯を伝えた。

 

唐の太宗

05980649)。李世民のこと。中国、唐の第二代皇帝(在位06260649)。太宗は廟号。隋末、天下おおいに乱れたとき、父の李淵とともに、太原に兵をあげ、天下を平定した。のち、李淵が帝位につくや秦王となり、皇太子を経て高祖より王位を受けた。房玄齢・杜如晦・魏徴らの名臣を用いて「貞観の治」を現出した。しかし、よき後継者に恵まれず、死後は則天武后の専制と革命(武周の建国)を許すことになった。

 

玄奘三蔵

06020664)。中国唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ751,335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて十七年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。

 

法相宗

南都六宗の一つ。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基(慈恩)によって大成された。教義は、五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の説を立てている。日本伝来については四伝あり、道昭が孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、玄奘より教えを受けて、斉明天皇6年(0660)帰朝して元興寺で弘通したのを初伝とする。

 

深密経・瑜伽論・唯識論

「深密経」は法相宗正依の経。5巻。2訳あるが玄奘訳が多く用いられる。唯識説の中心となる思想が説かれている。「瑜伽論」は瑜伽師地論の略。百巻。弥勒菩薩または無著の著とされる。玄奘訳。「唯識論」は①「唯識二十論」の略。一巻。世親の著。菩提流支などの三訳がある。②「成唯識論」の略。

 

三乗真実・一乗方便・五性各別

諸仏一仏乗を主張するのは仏の方便で、三条として、各種性に応じて修行するというのが真実である。すなわち五性はみな別なのである。このように法相宗は、人の差別の面からのみを根拠として法を説き、法華経のごとく一切衆生がみな成仏するという教えとは、まったく反対の教えである。

 

慈恩

06320682)。中国唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観6年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。

 

則天皇后

06230705)。則天武后、武則天ともいう。唐朝第二代太宗、第三代高宗の後宮に入り、永徽6年(0655)高宗の皇后となった。高宗が倒れてからはみずから政務を執り、高宗死後は実子の中宗、睿宗を相ついで帝位につけたが、天授元年(0690)廃帝してみずから帝位につき、国号を周と改めた。密告制度などの恐怖政治を行なったが、半面、門閥によらぬ政治の道を開き、また学芸に力を入れるなど文化を興隆させた。

 

華厳宗

南都六宗の一つ。華厳経を所経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736720日、唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅学生の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とした。

 

新訳の華厳経

義浄の訳。80巻からなる。

 

法蔵法師

06430712)。智儼の弟子で、華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。則天武后の勅で入内したとき、側にあった金獅子の像を喩として華厳経を説き、武后の創建した太原寺に住み、盛んに弘教した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。著書には「華厳経探玄記」20巻、「華厳五教章」3巻、「妄尽還源観」1巻、「華厳経伝記」5巻など多数がある。

 

華厳経をば根本法輪・法華経をば枝末法輪

華厳宗では、華厳を根本法輪とし、鹿苑以後法華経以前の法華経を枝末法輪としている。

 

玄宗皇帝

06850762)。中国唐朝第六代皇帝。在位は先天元年(0712)から天宝15年(0756)。姓名は李隆基。第五代睿宗の第三子。第四代中宗の皇后である韋后の禍を平定し、睿宗を立て、みずからは皇太子となった。即位後は外政を抑え、民政に努力したので「開元の治」と呼ばれる安定した世を現出させた。しかし後年、楊貴妃を寵愛し、政治を怠り、奸臣等を用いたため政情が混乱し、ついには安史の乱の勃発を招いた。晩年は譲位した粛宗との関係も思わしくなく不遇のうちに世を去った。

 

善無畏三蔵

06370735)。中国・唐代の僧。中国に密教を伝えた最初の人といわれる。宋高僧伝巻二によれば、もと中インドの人。王子として生まれた。王位についたがすぐ兄に位を譲って出家し、マガダ国の那爛陀寺に行き、達摩掬多に従い密教を学ぶ。開元4年(0716)に中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられ、「大日経」7巻などを翻訳し、「大日経疏」20巻を編纂した。とくに、大日経疏において、天台大師の一念三千の義を盗み入れ、大日経は法華経に対し理同事勝であるとの邪義を立てた。金剛智、不空と合わせて三三蔵と呼ばれた。

 

金剛智三蔵

06710741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。

 

不空三蔵

07050774)。不空金剛のこと。北インドの人。15歳の時唐の長安に入り、金剛智に従って出家した。開元29年、帰国の途につき、師子国に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、6年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。

 

真言宗

大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。

 

菩提心論

「金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論」の略。竜樹菩薩著、不空三蔵の訳と伝えられている。精神統一によって菩提心を起こすべきことを説き、即身成仏の唯一の方法と強調する。顕密二教の勝劣を説くため、真言宗では所依の論としている。大聖人は御書の中で不空の偽作とされている。

 

妙楽大師

07110782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(074838歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴(ぶつろう)道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。

 

弘決

天台大師の摩訶止観に妙楽大師が注訳を加えた「止観輔行伝弘決」のこと。明楽は諡を湛然といい、出身地をとって荊州大師とも呼ばれる。天台宗の第9祖で、天台大師より6世の法孫にあたる。

 

釈籤

法華玄義釈籤のこと。天台の法華玄義を妙楽が注釈した書。10巻からなる。

 

疏記

天台の三大部を妙楽が訳した書。各10巻、計30巻からなる。

 

講義

この章は天台大師の滅後、ふたたび仏法の迷乱したことを明かしている。

せっかく天台大師の国家諌暁によって、十宗の諍論が破折統一され、諸経中王の法華経が広宣流布したのに、わずか天台章安の二代のみで、後から渡来した法相宗、華厳宗、真言宗に入り乱されてしまった。正法が正しく後世に伝承されることは、はなはだ困難なことである。三千年前にインドに興った仏教が全東洋に流布して、三千年後の今日も東洋仏法の真髄たる大仏法が、なお民衆の苦悩を救いつつあることなどは、驚くべき事実である。

さらに七百年前の日蓮大聖人の御書が、数多く今日まで伝えられているなどは、じつに御仏意のしからしむるものと拝するほかない。顕仏未来記には「伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」(0508:06)と。また一代聖教大意には「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(0398:03)とおおせのごとく、伝持の人により後世に正しく伝えられたのである。

なお天台宗は、本文にお示しのごとく、天台大師の滅後二百余年、天台大師から六世の後に妙楽大師が出て、ふたたび天台の正義を宣揚なされたが、妙楽大師の後は、ふたたび衰減の一途をたどっていったのである。しかし、その伝灯は日本へ渡来し、伝教大師が唐に渡って、一心三観・一念三千の深旨を習得なされ伝付されたのは、妙楽の弟子たる行満座主および道邃和尚であったのである。

 

三乗真実・一乗方便・五性格別等

 

法相宗の教義である。法相宗の玄奘三蔵の開いたもので、玄奘は17年の大旅行の後、インドから持ち帰って唐の太宗皇帝に授け、帝をはじめ一国の帰依を受けたことは、本抄をはじめ、開目抄、撰時抄にも詳述されている。

さてこの宗でいうところの五性とは次のとおりである。

一、声聞乗性

二、辟支仏乗性

三、如来乗性

四、不定乗性

五、無性(謂く一闡提なり)

右の五性のうち、声聞性、辟支仏性、如来性の三種性のために、仏は声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗を説いたのである。不定種性の二乗のためには法華経(一乗)を説いて成仏せしめた。三乗性のない無性有情のためには人天乗を説いた。

このことを撰時抄には「此の宗(法相宗)の心は仏教は機に随うべし一乗の機のためには三乗方便・一乗真実なり所謂法華経等なり、三乗の機のためには三乗真実・一乗方便」(0262:07)と。さらに、開目抄には「此の宗(法相宗)の云く始め華厳経より終り法華・涅槃経にいたるまで無性有情と決定性の二乗は永く仏になるべからず……されば法華経・涅槃経の中にも爾前の経経に嫌いし無性有情・決定性を正くついさして成仏すとは・とかれず」(0198:14)と説かれている。無性有情とは五性の中の第五、無性の者であって、長く成仏しない。決定性の二乗とは、二乗と決定し、永遠に二乗でいるもので、同じく永不成仏であるという。

要するに法相宗では、一仏乗を説いた法華経が方便であるといい、声聞、縁覚、菩薩とそれぞれの機根に応じて説いた三乗の説法が真実であると、反対のことをいっているのである。

無量義経には「四十余年には未だ真実を顕わさず」と説き、法華経方便品には「世尊は法久しくして後要ず当に真実を説き給うべし」「仏方便力を以て、示すに三乗の教を以てす」また、いわく「如来は但一仏乗を以っての故に、衆生の為に法を説き給う。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」と。

しかして、法華経の真実であることは、多宝仏も、分身の諸仏も来集して証明している。しかるにこのような明白な経文に迷い、三乗真実などという、とんでもない迷論・愚説を立てたのである。あるいは無性有情と決定性の二乗は成仏しないなどという。爾前経においては方便教なるがゆえ、三乗を別々に説いているが、法華経では十界互具、一念三千を説き、一切の万法悉く妙法蓮華経の当体となるのである。彼らのいうごとく三乗とか、五性などの決定的差別のあるべきはずがないのである。

開目抄にいわく「一念三千は十界互具よりことはじまれり、法相と三論とは八界を立てて十界をしらず況や互具をしるべしや」(0198:04)と。

現代の仏教界をみると、700年前、日蓮大聖人によって、すでにその根を断ち切られたにもかかわらず、念仏や禅、真言等のたぐいが横行している。

しかも、仏法の真髄に関係なき愚論が、各宗で建てられた学校等を中心に、流布されていることは、まことに慨嘆にたえないものがある。ゆえに、いよいよ仏法が誤解され、いわゆる西洋哲学の下風に立っているような感を呈しているのは、はなはだ残念なことである。

いまや、まじめに仏教の真髄を究明しきっている人はいないといっても過言ではない。そして片々たる誤れる一宗一派に固執して生活のかてにしているにすぎないのである。

ゆえに、ここで、700年前の日蓮大聖人の御精神を体して、仏法哲学の統一をはかり、思想の統一をはかるべしと叫ぶものである。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊という、哲学思想の根源からの破折に対して、いまだになんの回答も反論もしないままに、西洋哲学等の思想を取り入れて邪義邪教を糊塗しようという姿は、正しく日蓮大聖人が開目抄に説かれた学仏法成、附仏法の姿でなくて、なんであろうか。

いわゆる仏教界の既成宗派といわれる彼らは、確固たる教義も信心もなく、葬式と法事と墓場の番人たる姿をいよいよ露呈してきた。化儀の広宣流布の時代にはいった以上、東洋仏法の真髄がさらに光輝を放って、爾前迹門の権理迹理を粉砕する時がきたといえよう。

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