瑞相御書
建治元年(ʼ75) 54歳 (四条金吾)
第五章(天変地夭の原因を説く)
本文
守護国界経と申す経あり法華経以後の経なり阿闍世王・仏にまいりて云く我国に大早魃・大風・大水・飢饉・疫病・年年に起る上他国より我が国をせむ、而るに仏の出現し給える国なり・いかんと問いまいらせ候しかば・仏答えて云く善き哉・善き哉・大王能く此の問をなせり、汝には多くの逆罪あり其の中に父を殺し提婆を師として我を害せしむ、この二罪大なる故かかる大難来ることかくのごとく無量なり、其の中に我が滅後に末法に入つて提婆がやうなる僧・国中に充満せば正法の僧一人あるべし、彼の悪僧等・正法の人を流罪・死罪に行いて王の后・乃至万民の女を犯して謗法者の種子の国に充満せば国中に種種の大難をこり後には他国にせめらるべしと・とかれて候、今の世の念仏者かくのごとく候上・真言師等が大慢・提婆達多に百千万億倍すぎて候、真言宗の不思議あらあら申すべし、胎蔵界の八葉の九尊を画にかきて其の上にのぼりて諸仏の御面をふみて灌頂と申す事を行うなり、父母の面をふみ天子の頂をふむがごとくなる者・国中に充満して上下の師となれり、いかでか国ほろびざるべき。
此の事余が一大事の法門なり又又申すべし、さきにすこしかきて候、いたう人におほせあるべからず、びんごとの心ざし一度・二度ならねばいかにとも。
現代語訳
守護国界経という経がある。これは法華経以後に説かれた経であるが、その中に「阿闍世王が釈尊の所へ参上していうには『わが国に大早魃・大風・大水・飢饉・疫病が毎年起る上に、他国よりわが国を攻めている。しかるに、わが国は仏の出現された国である。これはどういうことでしょうか』とたずねた。釈尊が答えていうには『すばらしいことだ。大王よ、よくそのことを質問した。あなたには多くの逆罪がある。その中で、父を殺し、提婆達多を師として私を迫害した。この二罪は重大であるために、このような大難がこのように無量に起こるのである』と答え、更に『わが滅後、末法に入って提婆達多のような僧が国中に充満するとき、正法を持つ僧が一人出現する。彼等悪僧たちが、この正法の僧を流罪・死罪に行なった上、王の后をはじめ、一般庶民の女性までも犯して謗法者の種子が国中に充満するであろう。そしてそのために国中に種々の大難が起こり、やがて他国からも攻められる』」と説かれている。
いま、日本の念仏者は、この経文に説かれているのと同じであり、その上、真言師たちの大慢心は提婆達多よりも百千万億倍もすぎている。その真言宗の奇怪な点についてあらあら述べると、胎蔵界の八葉九尊を絵に画いて、その上にのぼって諸仏の御面を踏んで灌頂という儀式を行なうのである。これは父母の面を踏み天子の頂を踏むような者が国中に充満して、しかも上下万民の師となっているということである。これでどうして国が亡びないことがあろうか。
このことは、私のもっとも大事な法門であるから、またの機会に申しましょう。このことは以前にも少し書きましたが、みだりに人に言ってはいけません。お便りのあるごとに、日蓮に寄せられるお志は、一度二度でなく、何とも感謝のことばもありません。 このことは、私のもっとも大事な法門であるから、またの機会に申しましょう。このことは以前にも少し書きましたが、みだりに人に言ってはいけません。お便りのあるごとに、日蓮に寄せられるお志は、一度二度でなく、何とも…。
語釈
守護国界経
守護国界主陀羅尼経、守護国界主経ともいい、密教部に属するとされる。唐の罽擯国出身の般若三蔵と牟尼室利三蔵訳の共訳があり、十卷十一品よりなっている。
阿闍世王
梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
逆罪
理に逆らう重罪。重禁を犯す罪。
提婆
提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
胎蔵界
真言密教の両部の一つで、金剛頂経に説く金剛界に対し、胎蔵界は大日経に説くもの。胎蔵とは母の胎内に児を蔵するとの意。仏の菩提心が一切を包み育成することを、母胎に譬えたとされる。真言宗では、金剛界、胎蔵界の両部を絵にして、曼陀羅と称している。
八葉の九尊
真言密教で描く胎蔵界曼荼羅は、中央の一院が八葉の蓮華になっていて、そこには大日如来が座し、それを囲む八葉の蓮華の上に宝幢仏、阿弥陀仏、沙羅樹王開敷仏、天鼓雷音仏の四仏、普賢、文殊、弥勒、観音の四菩薩が坐っている。
灌頂
水を頭上にそそいで一定の資格を具備することを証する儀式で、もとはインドで国王の即位する時、および立太子のときに四大海の水を頭上にそそいで祝ったという。真言宗では特にこの灌頂を重んじ、これにより、すみやかに大覚位を証することができると説いている。
講義
守護国界経の文をあげて、まず前半に、大聖人御在世の天変地夭、および他国侵逼の大難に苦しむ日本民衆の不幸の原因がどこにあるかを示されている。後半は、同じくその守護国界経の予言している末法の世相が、まさにその通りに符合していることを明示されている。
また、その一国謗法の中で、特に、真言宗をとりあげ、真言の邪義の一端を、わかりやすい例をあげて述べられている。
つまり、天変地夭や他国侵逼難の原因が逆罪にあるとの、阿闍世王の例を示しての指摘は、天変地夭が大法出現の瑞相であるというこれまでの論議から、もう一歩進めて、核心をズバリ突いておられるわけである。すなわち、慶ぶべきこととしての「天に吉瑞・地に帝釈の動」の天変地夭ではなく、「人の悪心盛んなる」ゆえに起こっている災厄であるから、これを解決するためには、根源にある病因を打ち破り、治癒しなければならない。
それは、同じく守護国界経に示されている「謗法の者が国中に充満し、唯一人の正法の僧を迫害している」ことが、一切の災厄の原因である。したがって、もし、この災いを転じようと思うならば、正法の僧への迫害をやめて、正法の僧に帰依する以外にない。すなわち、日蓮大聖人の教えに髄順することが、天変地夭をおさめ、他国侵逼難という日本民族の命運を決する危機を脱する唯一の方法である、との意である。
ここに、現実に民衆が、社会が直面している苦悩に対して、それを救うのは自分以外にないとの強い確信と、深遠の大慈悲があふれていることを知らなければならない。また、宗教は決して、現実から離れたところで、現実を無視してあるものではないということも、この御文に明らかである。
さらに「釈尊の出現した国が、なぜ幾多の災厄に見舞われるのか」という疑問に対する答えが示しているように、仏法は、これを信受する衆生の姿勢によって、その仏法の偉大な力を湧現して幸福な世界を築くこともできるし、逆に、仏法のない国よりも悲惨な不幸におちいってしまうこともありうるのである。このことは、仏法を受け止める衆生が大事であるという原理を示す文として、非情に重要であろう。
此の事余が一大事の法門なり
本抄に述べられている、大聖人を迫害しているために種々の大災害に苦しんでいるのだということは、大聖人こそ、末法御本仏であるという証拠にほかならない。したがって、これは、大聖人の一大事の法門であり、へたにいえば、増上慢ととられて、大弾圧を招きかねない。身延入山後の大聖人のお考えは、万年尽未来際のために、いかに令法久住するかにあったことが推察される。おそらく、無用の難は、招くべきではないとのお考えから「いたう人におほせあるべからず」と仰せられたのではないだろうか。
また、真言宗の問題については、一貫して慎重を期しておられたようである。これは、真言宗が、天台宗と一体化して、これを論ずる場合は、どうしても天台教義と絡まってくるため、微妙な問題が生じたからであると思われる。また、もう一面は、権力との関係から、真言宗が権力の中枢、特に朝廷と深く結びついていたことが考えられる。
こうした事情から、真言宗の問題については、一貫して慎重を期されたのであろう。このことは、また、折伏、広宣流布の戦いにあたって、単なる蛮勇であってはならない、勇敢であるとともに、そこには細心の注意と賢明な対処がなければならないとの教訓と拝すべきであろう。
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