春初御消息

 はわき殿かきて候こと、よろこびいりて候。
春の初めの御悦び、木に花のさくがごとく、山に草の生い出ずるがごとしと、我も人も悦び入って候。さては、御送り物の日記、八木一俵・白塩一俵・十字三十枚・いも一俵、給び候い畢わんぬ。
 深山の中に、白雪、三日の間に庭は一丈につもり、谷はみねとなり、みねは天にはしかけたり。鳥・鹿は庵室に入り、樵牧は山にさしいらず。衣はうすし、食はたえたり。夜はかんく鳥にことならず。昼は里へいでんとおもう心ひまなし。すでに読経のこえもたえ、観念の心もうすし。今生退転して未来三・五を経んことをなげき候いつるところに、この御とぶらいに命いきて、またもや見参に入り候わんずらんとうれしく候。
 過去の仏は、凡夫にておわしまし候いし時、五濁乱漫の世に、かかる飢えたる法華経の行者をやしないて仏にはならせ給うぞとみえて候えば、法華経まことならば、この功徳によりて過去の慈父は成仏疑いなし。
 故五郎殿も、今は霊山浄土にまいりあわせ給いて、故殿に御こうべをなでられさせ給うべしとおもいやり候えば、涙かきあえられず。恐々謹言。
  正月二十日    日蓮 花押
 上野殿御返事
  申すこと恐れ入って候。返す返す、はわき殿、一々によみきかせまいらせ候え。

 

現代語訳

伯耆殿が書かれた事、大変に喜ばしい事である。

新春の御悦びは、木に花が咲くように、山に草が萌え出るように、我も人も悦ばしい事である。さて、お送りいただいた物の日記、米一俵、白塩一俵、十字三十枚、芋一俵、たしかに頂戴した。

深山の中なので白雪が三日の間降り、庭には一丈も積もり、谷は峰となり、峰は天に梯子をかけたようである。鳥や鹿は庵室に来るが、樵牧は山に入らない。衣は薄いし、食物は絶えてしまった。夜は寒苦鳥のようであり、昼は里に出ようと思う心が絶えない。

すでに読経の声も絶え、観念の心も薄くなってしまった。今生は退転して、未来に三千塵点劫、五百塵点劫程の間、苦しまなければならないと嘆いていたところであったが、この御供養に命も生きかえり、またお目にかかれるであろうと思うと、まことに嬉しい。

過去に仏が凡夫であらせられた時、五濁乱漫の世に、このように飢えていた法華経の行者を供養して仏になられたとある。今貴殿が日蓮に供養したことは法華経が真実ならば、この功徳によって、過去の慈父は成仏すること疑いない。

故五郎殿も今は霊山浄土に参り合わせて、父君とお会いして父君に頭をなでられていることであろうと思いやると、涙をおさえることができない。恐恐謹言。

正月二十日              日 蓮  花 押

上野殿御返事

恐縮ではあるが、くれぐれも伯耆殿が一一に読み、聞かせて上げていただきたい。

 

語句の解説

ははき殿

12461333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(133327日、88歳で没した。

 

八木

「はちぼく」といって米の異称。「八」と「木」の二字を合わせると「米」の字になるところから、このようにいう。

 

十字

蒸餅のこと。「じゅうじ」ともいう。蒸した餅の上に、十文字の裂け目を入れて食べやすくしたもの。晋書の列伝第三巻の「蒸餅の上に十字を作坼せざれば食せず」に由来するといわれる。

 

樵牧

樵夫と牧夫のこと。

 

かんく鳥

インドの雪山に住むという想像上の鳥。雪山鳥ともいう。この鳥は巣を作らないため、夜は寒苦に責められ苦しむとされる。「新池御書」にいわく「雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて夜明なば栖つくらんと鳴くといへども日出でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて又栖をつくらずして一生虚く鳴くことをう」(1440:13)。

 

観念

仏・菩薩などを心に思い浮かべて念ずること。

 

今世

今世の人生のこと。先生、後生に対する語。

 

三五

三千塵点劫と五百塵点劫のこと。①三千塵点劫。法華経化城喩品第七に「人は力を以て 三千大千の土を磨って 此の諸の地種を尽くして 皆悉な以て墨と為し 千の国土を過ぎて 乃ち一の塵点を下さん 是の如く展転し点じて 此の諸の塵墨を尽くさんが如し 是の如き諸の国土の 点ぜると点ぜざると等を 復た尽く抹して塵と為し 一塵を一劫と為さん 此の諸の微塵の数に 其の劫は復た是れに過ぎたり」と説かれているのがそれである。この三千塵点劫というぼう大な時間を、釈尊在世からさかのぼった昔、大通智勝仏という仏があって、法華経を説いた。その仏の滅後、この仏の十六人の王子が父の説法を覆講し、多くの衆生を化導した。その十六番目の王子が、釈尊であると説く。②五百塵点劫。法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。

 

五濁

劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁のこと。劫濁とは飢饉・疫病・戦乱が起こって、時代そのものが乱れること。煩悩濁とは、貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能の乱れ。衆生濁とは、不良や犯罪者の激増など人間そのものが濁乱してくること。見濁とは、思想・見解の混乱。命濁とは、病気や早死にが多いことである。末法悪世にはこの五濁がことごとく盛んになると説かれている。五濁は妙法への不信から起こるのであって、信ずることによって破ることができる。御義口伝には「文句の四に云く劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す。御義口伝に云く日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり、我此土安穏なれば劫濁に非ず・実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず・煩悩即菩提生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず・五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く『相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり』経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす」とある。

 

霊山浄土

釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。

 

故殿

(~1265)。南条兵衛七郎入道行増のこと。日蓮大聖人御在世当時の信徒で、南条時光の父。幕府の御家人で氏は平氏。伊豆国田方郡南条(静岡県伊豆の国市の一部)を本領としたので南条殿といった。後に駿河国富士郡上方庄上野郷(静岡県富士宮市の一部)の地頭となったので上野殿とも呼ばれる。松野六郎左衛門入道の息女を妻とし54女の子がいた。もとは念仏の信徒であったが、弘長3年(1263)から文永元年(1264)頃に入信し、大聖人から南条兵衛七郎殿御書をいただいている。文永2年(12653月に死去した。

 

講義

本抄は、南条時光が新春の御祝いを申し上げるために身延へ、米・塩等を御供養したことに対する御返事である。

御執筆年月日については「正月二十日」とあるだけで、年号についての記述はないが、弘安5年(1282)身延でしたためられた御手紙であるとされている。御真筆は現存していない。

内容は、酷寒の身延山中で厳しい御生活をされる日蓮大聖人に、変わらぬ供養の誠を示す時光の信心を称賛され、また、その功徳によって亡き父、亡き弟の成仏は疑いないことを述べられている。

文頭に「ははき殿かきて候事・よろこびいりて候」とあり、追申にも「返返ははき殿一一によみきかせまいらせ候へ」とあるのは、日興上人が時光の所にいて、御供養に際しても日興上人がいろいろと大聖人に御報告のお手紙を書き、この大聖人からの返書も日興上人を通じてなされたものと拝せられる。

まず新年の悦びを表され、米・塩・むしもち・芋など御供養の品々を受け取った旨を述べられている。

続いて、この正月はとくに大雪に見舞われたようで、一丈すなわち三㍍に及ぶ積雪に閉じこめられた身延山中の様子と御生活の一端に触れられている。

大雪のため食を求めて鳥や鹿が山から下りてきたのであろう。御草庵にまで入って来たと仰せである。逆に、人間が山に入ることは絶え、大聖人の御草庵は陸の孤島のような有り様だったのであろう。

四条金吾許御文に「処は山の中・風はげしく庵室はかごの目の如し」(1195:01)と仰せのように、大聖人が住まわれている庵室は簡素そのものであり、しかも「衣はうすし・食はたえたり」で、衣類や食料も乏しく、まして厳冬の身延山の夜ともなれば「夜はかんく鳥にことならず」の御文が示すように、その寒さは言語に絶するものがあったと思われる。

ゆえに「昼は里へいでんとおもふ心ひまなし」と、あまりの厳しさに里へ逃れたいという気持ちに駆られると仰せである。

「すでに読経のこえも・たえ観念の心もうすし、今生退転して未来三五を経ん事をなげき候い……」とは、大雪のために人の往き来も絶え、食も心細くなっていたということであろう。

そこへ時光からの使者があり、米、塩、十字、芋等の御供養がもたらされて、命を永らえ、時光にも再び会える希望がわいてきたと仰せである。

ついで、この時光の御供養の功徳を述べられる。

「過去の仏は凡夫にて・おはしまし候いし時」云々との仰せが何を具体的にさしていわれたのかは不明であるが、さまざまな経典に説かれる布施、供養の功徳の話を、取意し大聖人の御身にあてはめて、示されたものであろう。

「此の功徳によりて過去の慈父は成仏疑なし」と仰せになり、大聖人への真心こめた御供養の功徳によって、時光の亡き父の成仏は間違いないと断言されている。

あわせて、弘安3年(12809月に夭折した弟・七郎五郎も必ずや成仏しているであろうと述べられている。

七郎五郎は兄の時光に似て、信仰心・孝心ともに篤く、性格も豪胆で、容貌もすぐれ、将来を嘱望されていたが、16歳の若さで急逝している。

七郎五郎の死を悼まれた御書が計十編にも及んでいることからも、大聖人の御心痛はいかばかりかであられたかがうかがえる。

時光とともに父の信心を立派に継いだ七郎五郎であるから、成仏を遂げて霊山浄土にあり、父からさぞかし賞でられているであろうと、時光や母尼御前の悲しみの心中を思いやられ、「涙かきあへられず」と、哀悼の心情を吐露されて本抄を結ばれている。

御本尊への信心、そして御供養の功徳が、亡き家族の霊に回向されゆくことは、「盂蘭盆御書」等に述べられているとおりである。

私達は大聖人の仏法による最高の追善供養、最高の孝養のあり方を、本抄をとおし、あらためて銘記していきたいものである。

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