破信堕悪御書

 かたきはおおく、かたきはつよく、かとうどはこわくして、しまけ候えば、悪心をおこして、かえって法華経の信心をもやぶり、悪道におち候なり。あしきところをば、ついしさりてあるべし。
 釈迦仏は、三十二相そなわって、身は金色、面は満月のごとし。しかれども、あるいは悪人はすみとみる。あるいは悪人ははいとみる。あるいは悪人はかたきとみる。

現代語訳

敵は大勢で強く、味方はきびしくてついていけないので、悪心を起こして、かえって悪道へ堕ちてしまう。人間は、悪い所は、つい、避けようとするものである。

釈迦仏は三十二相がそなわつていて、身は金色に輝き、顔は満月のようである。しかし、その釈尊を、ある悪人は灰と見る。あるいは悪人は敵とみるのである。

 

語句の解説

かたうど

味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。

 

悪道

三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。

 

三十二相

応化の仏が具えている三十二の特別の相をいう。八十種好とあわせて仏の相好という。仏はこの三十二相を現じて、衆生に渇仰の心を起こさせ、それによって人中の天尊、衆星の主であることを知らしめる。三十二相に八十種好が具り円満になる。大智度論巻四による三十二相は次の通りである。

1 足下安平立相(足の下が安定して立っていること。足裏の全体が地について安定している)

2 足下二輪相(足裏に自然にできた二輪の肉紋があり、それは千輻が放射状に組み合わさって車の輪の相を示していること)

3 長指相(指が繊細で長い)

4 足跟広平相(足の踝が広く平らかであること)

5 手足縵網相(手足の指の間に水かきがあり、指をはればあらわれ、張らなければあらわれないこと)

6 手足柔軟相(手足が柔らかいこと。皮膚は綿で編んだように微細である)

7 足趺高満相(足の甲が高いこと)

8 伊泥延膊相(膝・股が鹿の足のように繊細で引き締まっていること)

9 正立手摩膝相(立てば手で膝をさわることができること)

10 隠蔵相(陰部がよく整えられた馬のように隠れてみえないこと)

11 身広長等相(インド産の無花果の木のように、体のタテとヨコが等しいこと)

12 毛向上相(身体の諸の毛がすべて上に向いてなびくこと)

13 一一孔一毛生相(一つ一つの孔に一毛が生ずること。毛は青瑠璃色で乱れず右になびいて上に向かう)

14 金色相(皮膚が金色をしていること)

15 丈光相(四辺にそれぞれ一丈の光を放つこと)

16 細薄皮相(皮膚が薄く繊細であること。塵や土がその身につかないことは、蓮華の葉に塵水がつかないのと同じである)

17 七処隆満相(両手・両足・両肩・頭の頂の七処がすべて端正に隆起して、色が浄いこと)

18 両腋下隆満相(両脇の下が平たく隆満しており、それは高すぎることもなく、また下が深すぎることもない)

19 上身如獅子相(上半身が獅子のように堂々と威厳があること)

20 大直身相(一切の人の中で、身体が最も大きく、またととのっていること)

21 肩円好相(肩がふくよかに隆満していること)

22 四十歯相(歯が四十本あること)

23 歯斉相(諸の歯は等しく、粗末なものはなく、小さいもの・出すぎ・入りすぎや隙間のないこと)

24 牙白相(牙があって白く光ること)

25 獅子頬相(百獣のように獅子のように、頬が平らかで広いこと)

26 味中得上味相(食物を口に入れれば、味の中で最高の味を得ることができること)

27 大舌相(広長舌相ともいう。舌が大きく、口に出せば顔の一切を覆い、髪の生え際にいたること、しかも口の中では口中を満たすことはない)

28 梵声相(梵天王の五種の声のように、声が深く、遠くまで届き、人の心の中に入り、分かりやすく、誰からもきらわれないこと)

29 真青眼相(良い青蓮華のように、目が真の青色であること)

30 牛眼睫相(牛王のように、睫が長好で乱れないこと)

31 頂髻相(頭の頂上が隆起し、拳が頂上に乗っていること)

32 白毛相(眉間のちょうどいい位置に白毛が生じ、白く浄く右に旋って長さが五尺あり、そこから放つ光を亳光という)

 

講義

本抄の御真筆は京都・本圀寺にあるが、前後が欠落した断片で、御執筆年月日もだれに与えられたものかは不明である。弘安年間御述作との説もあるが、確定的ではない。

破信堕悪御書という題名も、後人の誰かが付けたものであろう。本抄の最初の部分に「法華経の信心をも・やぶり悪道にをち候なり」と仰せになっているところから付けられたものであろう。

まず最初の部分は、末法今時に日蓮大聖人の仏法を信ずる者には敵が多いことを述べられている。一国謗法の世である。敵の数は圧倒的に多い、それだけではない、その敵は権力をもっている、あるいは権力の側にとり入っている。「かたきは・つよく」である。

それに対して、みかたはどうか、日蓮大聖人の教えを信ずるものは、ほんの一握りの人達である。しかも、その信心は謗法を排し厳格なものであるから、心の弱い人は周囲に負けて「かへつて」退転してしまうことにもなりかねない。

そういうことにでもなれば、最初から信心していない人よりも、なお大きな罪を犯すことになり「悪道」なかんずく無間地獄に堕するのである。

大聖人は、人間というものは「あしきところをは・ついしさりてあるべし」と、つい避けたくなるものだと仰せになっている。「あしきところ」とは、社会全体が正法に反対しているから、信心を続けていくには勇気が必要であるうえ、指導も厳しいのでたえられなくなるということである。

続いての御文では、三十二相八十種好という立派な姿で釈迦仏ほどの仏でも、悪人はさまざまに見るものであることを述べられている。

釈迦仏は色相荘厳の姿をしており、普通の衆生なら、その前にかぎりない尊敬をいだき、信受の心を起こすのである。

しかし、そのような仏であっても、ひねくれた悪人の心は、そうは見えない。ある場合は「すみ」と見る。これは「炭」であるのか「墨」であるのか判然としないが、あとの「はい」はすなわち「灰」との関連からみると「炭」であろうか。いずれにせよ「金色」を「黒色」と見るというのである。「灰」とみるというのは、もはやなんの力もない残滓と見るということであろう。「かたき」と見るというのは、このうえない荘厳の姿で一切衆生皆成仏道の教えを説く仏教の教えを説く仏法の教えに対して憎しみを抱くということである。

ここで本抄は途切れている。しかし、当然、そのあとは、金色荘厳の釈迦仏でさえひねくれた目で見、迫害を加える者がいたのであるから、ましてや、三毒強盛の末法に凡夫僧の御姿をされている日蓮大聖人に対しては、比較にならないほどの迫害の度合いが増すのは道理であると述べられ、本抄をいただいた人に、決定の信心を促されている。

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