破良観等御書
背景と大意
本抄は、前後が欠けているため、執筆年次、いただいた人も不明であるが、内容に「故弥四郎殿」云云とあるところから、安房国清水山下の天津の光日房に与えられた御消息とされている。
また「二度まで流罪」とある御文や、弥四郎の死去に触れていることから推察して、身延入山後の御述作と思われ、一説には建治2年(1276)12月としている。御真筆は現存していない。
光日房については詳細は不明であるが、日蓮大聖人と同郷の人で、初めに子の弥四郎が大聖人門下となり、その弥四郎の勧めによって昔から尊敬していた大聖人を慕って法華経に帰依したようである。
大聖人が佐渡流罪の折には、ある人に託して衣をお送りしている。また、大聖人と旧知の間柄とか、民部日向の母、あるいは伯母、男金藤四郎実信の妻ではないか等、種々の説があるが、確かな文献はない。
本抄のほかに、種種御振舞御書、光日房御書、光日上人御返事、光日房御返事など四編を賜っている。
本抄の内容は、釈尊在世と当今の三逆罪を明かしその相違を示し、問答形式で真言宗の邪義について、法華経と真言三部経との勝劣、真言師の誑惑とその悪報を挙げられている。
そして立教開宗前後の御様子を回顧されながら、諸宗の日蓮大聖人並びに門下の迫害について述べられている。
題号は本抄の書き出しに即して破良観等御書と後代に付されたものである。
第一章(釈迦在世と現当の三逆罪を明かす)
建治2年(ʼ76) 55歳 弥四郎〈光日尼子息〉の縁者
良観・道隆・悲願聖人等が極楽寺・建長寺・寿福寺・普門寺等を立てて、叡山の円頓大戒を蔑如するがごとし。これは第一には破僧罪なり。
二には仏の御身より血を出だす。今の念仏者等が教主釈尊の御入滅の二月十五日をおさえとり、阿弥陀仏の日とさだめ、仏生日の八日をば薬師仏の日といい、一切の真言師が大日如来をたのみて、「教主釈尊は無明に迷える仏、我らが履とりにも及ばず」、結句は灌頂して釈迦仏の頭をふむ。禅宗の法師等は「教外に別伝す」とののしりて、一切経をばほんぐにはおとり、我らは仏に超過せりと云々。これは南印度の大慢ばら門がながれ、出仏身血の一分なり。
第三に蓮華比丘尼を打ちころす。これ仏の養母にして阿羅漢なり。これは、阿闍世王の提婆達多をすてて仏につき給いし時、いかりをなして大火胸をやきしかば、はらをすえかねて、この尼のゆきあい候いたりしを打ち殺せしなり。今の念仏者等が、念仏と禅と律と真言とをせめられて、のぶるかたはなし、結句は檀那等をあいかたらいて、日蓮が弟子を殺させ、予が頭等にきずをつけ、ざんそうをなして二度まで流罪、あわせて頸をきらせんとくわだて、弟子等数十人をろうに申し入るるのみならず、かまくら内に火をつけて、日蓮が弟子の所為なりとふれまわして、一人もなく失わんとせしがごとし。
現代語訳
良観・道隆・悲願聖人等がそれぞれ極楽寺・建長寺・寿福寺.普門寺等を立て、比叡山の円頓大戒を蔑如するようなものである。これは提婆達多の三逆罪でいうならば第一の破僧罪にあたるといえる。
三逆罪の第二は仏の御身より血を出すことである。これは今の念仏者等が教主釈尊の御入滅になられた二月十五日を勝手に阿弥陀仏の日と定め、仏の誕生された日の八日を薬師仏の日といっていることにあたる。また、一切の真言の法師等が大日如来を崇めて教主釈尊は無明に迷う仏であるとして、我等が履取りにも及ばないと言い、あげくは潅頂のときには敷曼荼羅の上で釈迦仏の頭を踏んでいるのがそれである。禅宗の法師等は教外別伝と主張し、一切経は使い古しの紙にも劣り、我等は仏に超過していると言っている。これは南インドの大慢婆羅門の末流であり、出仏身血の一分なのである。
三逆罪の第三は提婆達多が蓮花比丘尼を拳で殴殺したことである。蓮花比丘尼は釈尊の養母であり、また阿羅漢である。これは阿闍世王が提婆達多を捨てて釈尊に帰依したので、提婆達多は怒りの炎が胸を焼き焦がすほど腹にすえかね、ちょうどこの比丘尼に行き遭ったので、怒りにまかせて拳で打ち殺してしまったのである。今の念仏者等が念仏と禅と律と真言等の自分達の法義を日蓮から責められて返答しようもないので、結句は檀那等に言い含めて、日蓮が弟子を殺させ、日蓮の頭等に刀で疵をつけ、讒奏によって伊豆・佐渡と二度までも流罪にあわせ、頚まで斬ろうと策謀し、弟子等数十人を牢に入れただけではなく、鎌倉の町に火を付けて、それを日蓮の弟子の仕業だと触れ回って弟子を一人もなく始末してしまおうとしたようなものである。
語句の解説
講義
本抄は、前後が欠けているため、執筆年次、いただいた人も不明であるが、内容に「故弥四郎殿」云云とあるところから、安房国清水山下の天津の光日房に与えられた御消息とされている。
また「二度まで流罪」とある御文や、弥四郎の死去に触れていることから推察して、身延入山後の御述作と思われ、一説には建治2年(1276)12月としている。御真筆は現存していない。
光日房については詳細は不明であるが、日蓮大聖人と同郷の人で、初めに子の弥四郎が大聖人門下となり、その弥四郎の勧めによって昔から尊敬していた大聖人を慕って法華経に帰依したようである。
大聖人が佐渡流罪の折には、ある人に託して衣をお送りしている。また、大聖人と旧知の間柄とか、民部日向の母、あるいは伯母、男金藤四郎実信の妻ではないか等、種々の説があるが、確かな文献はない。
本抄のほかに、種種御振舞御書、光日房御書、光日上人御返事、光日房御返事など四編を賜っている。
本抄の内容は、釈尊在世と当今の三逆罪を明かしその相違を示し、問答形式で真言宗の邪義について、法華経と真言三部経との勝劣、真言師の誑惑とその悪報を挙げられている。
そして立教開宗前後の御様子を回顧されながら、諸宗の日蓮大聖人並びに門下の迫害について述べられている。
題号は本抄の書き出しに即して破良観等御書と後代に付されたものである。
初めに、釈尊在世に三逆罪を犯した提婆達多と比較して、いま法華経迹門の円頓戒壇を蔑如し、釈尊を下して日蓮大聖人及びその門下を迫害している念仏・禅・律・真言の諸宗が提婆の三逆罪に超過することを示されている。
釈尊在世に提婆達多が犯した三逆罪とは、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢である。
すなわち、破和合僧は、大衆に囲繞されたことが仏と等しいと提婆は考え、釈尊をねたむあまり、和合僧団を破って五百人の仏弟子をたぶらかした。
出仏身血は、釈尊を殺そうとして、耆闍崛山の上から大石を落したが、地神が受け止めたため、その砕石が飛び散り、釈尊に当たって小指から血をだしたこと。
殺阿羅漢は、阿闍世王が釈尊についてしまったので怒り心頭に発していた提婆は、更に蓮華比丘尼に非を責められて激怒し、比丘尼を拳で殴打し殺したことを指す。
この提婆達多の三逆罪と対比して、大聖人は当今の諸宗の僧がそれにも劣らない重罪を犯していることを指摘されている。
一に破和合僧
日蓮大聖人は極楽寺良観、建長寺道隆、普門寺悲願房等の鎌倉仏教の高僧達が伝教大師の法華円頓戒壇をないがしろにしていることを破僧罪にあたるとされている。
二には出水身血
今の念仏宗は教主釈尊の誕生の日の八日を奪って薬師仏の日とし、入滅の日である十五日を阿弥陀仏の日としている。これは主師親の三徳ある釈尊の恩を忘れて反逆している行為にほかならない。
一方、真言師達は大日如来を本尊として、釈尊を、無明の辺域であって明の分位ではないと主張し、釈尊は大日如来の履取りにもおよばない等とさげすみ、あげくは真言の灌頂の儀式で、釈尊等を描いた曼荼羅を足で踏ませるなどさえしているのである。
禅僧等は「教外別伝・不立文字」の己義を構え、仏の本意は言葉や文字によらず心を以って心に伝えられたと唱えて一切経を劣視「我等は仏に超過せり」と釈尊を冒涜している。
いずれも、仏説に背く邪見であり、教主釈尊を蔑視する増上慢も甚だしい邪義である。
これらを大聖人は一括して「南印度の大慢婆羅門の流れ」とされ「出仏身血の一分」として厳しく指弾されている。
ちなみに「大慢ばら門」とは、大唐西域記のよると、彼は博学で千余人の弟子を有していたが、大自在天・毘紐天・那羅延天・釈尊の四つの像をもって自分の高座の四足にして「我が徳は四聖よりもすぐれている」と称し、説法していた。
ところが賢愛論師との法論に敗れ、国王から死罪を命じられたが、論師の助言で救われたにもかかわらず、彼は恥じて吐血し、しかも見舞いにきた論師を逆恨みし、大乗を誹謗した。その言葉が終らないうちに地獄に堕ちたといわれる。
大聖人は、邪智高慢の良観等を大慢婆羅門の末流と断じられているのである。
三に殺阿羅漢
日蓮大聖人の痛烈な破折と指摘に、反論できなかった良観など諸宗の徒輩は、陰でひそかに結託して謀議をこらした。そして種々の讒言や奸策を用いて、無知な為政者や大衆をそそのかし、大聖人及び弟子門下を抹殺しようと計ったのである。
すなわち、「日蓮が弟子を殺させ」は小松原の法難で、門下の鏡忍房、工藤吉隆などが殺されたこと、「予が頭等にきず」は、同じく、大聖人御自身、額に傷を受けられ、左腕を骨折されたことを指す。文永元年(1264)11月11日、安房を訪問されていた大聖人は、壇越の工藤吉隆の招待を受け、華房の蓮華寺から工藤邸へ向かわれていた。その途中の東条郷の小松原で東条景信の襲撃を受け、鏡忍房はその場で討ち死に、駆けつけた工藤吉隆も重傷を負って死んだ。大聖人御自身、前頭部に刀傷を受けられ、左腕を骨折されている。
「二度まで流罪」とは、一度は伊豆への流罪。弘長元年(1261)5月12日、大聖人は念仏者によって幕府に訴えられ、伊豆国伊東へ流された。
二度目は佐渡への配流。文永8年(1271)9月12日竜の口の法難のあと、相模の依智を経由して佐渡へ流罪されたことである。
「あわせて頸をきらんと」は、竜の口法難のことである。大聖人は平左衛門尉頼綱に捕えられ、同日深夜、鎌倉のはずれ竜の口で斬首の刑にあおうとされた。しかし“光り物”が夜空に現れ、恐れおののいた平左衛門尉らは斬首をはたせなかった。
「弟子等数十人をろうに」は、日朗ら門下の土牢幽閉を指している。また「ろうにある弟子共をば頸はねらるべしと聞ふ」(0916:02、種種御振舞御書)とも仰せられているところから、斬首の危機が弟子達にも及んでいたことがうかがえる。
「かまくら内に火をつけて」とは、竜の口法難のあと、執権・北条時宗は大聖人を無罪放免にする意向であったが、巻き返しを図った念仏者等が、鎌倉市内で放火事件を起こし「日蓮が弟子の所為なり」と讒言したことをいわれている。
これらの種々の迫害・弾圧は「殺阿羅漢」の逆罪に相当する。
第二章(現当は法華経への三逆なるを示す)
而るに提婆達多が三逆罪は仏の御身より血をいだせども爾前の仏・久遠実成の釈迦にはあらず、殺羅漢も爾前の羅漢・法華経の行者にはあらず、破和合僧も爾前小乗の戒なり・法華円頓の大戒の僧にもあらず、大地われて無間地獄に入りしかども法華経の三逆ならざればいたうも深くあらざりけるかのゆへに・提婆は法華経にして天王如来とならさせ給う、今の真言師・念仏者・禅・律等の人人・並に此れを御帰依ある天子並びに将軍家・日本国の上下万人は法華経の強敵となる上・一乗の行者の大怨敵となりぬ、されば設い一切経を覚り十方の仏に帰依し一国の堂塔を建立し一切衆生に慈悲ををこすとも・衆流大海に入りかんみとなり衆鳥・須弥山に近ずきて同色となるがごとく、一切の大善変じて大悪となり七福かへりて七難をこり現在眼前には他国のせめきびしく・自身は兵にやぶられ妻子は敵にとられて後生には無間大城に堕つべし。
現代語訳
たしかに提婆達多が三逆罪は、仏といっても爾前経の仏であり、本門に説かれる久遠実成の釈尊ではない。殺阿羅漢といっても爾前経の阿羅漢であって、法華経の行者ではない。破和合僧といっても爾前経の小乗戒を持つ僧団であって、法華経による円頓止観の和合僧団ではない。提婆達多は大地がわれて無間地獄に入ったが、法華経の三逆罪ではないので、それほどには深くなかったのであろう。だから提婆達多は法華経によって天王如来となったのである。
今の真言師・念仏者・禅宗・律宗等の人々、及びこれらの僧に帰依している天子、ならびに将軍家、そして日本国の上下万人は法華経の強敵となったうえ、さらに法華一乗の行者の日蓮の大怨敵となったのである。それゆえ、一切経を覚り、十方の仏に帰依し、国中の寺院を建立し、一切衆生に慈悲を施したとしても、衆流が大海に入って鹹味となり、衆鳥が須弥山に近づいて金色となるように、一切の大善根が変じて七難が起こっているのである。
今、眼前には蒙古国からの責めが厳しく、自身は兵に破られて、妻子を敵に捕えられ、後生には無間大城に堕ちるのである。
語句の解説
久遠実成の釈尊
法華経如来寿量品で五百塵点劫成道の本地を顕した釈尊をいう。この釈尊は爾前経および法華経迹門までの始成正覚の仏を破している。
小乗の戒
小乗教で説かれる戒・戒律のこと。戒は防非止悪の義で、大乗戒と小乗戒に分けられる。小乗戒には五戒・八斉戒・具足戒などがある。五戒・八斉戒は在家男女が持ち、具足戒は出家者が持つもので、比丘は二百五十戒、比丘尼は五百戒とされる。天台法華宗年分得度者回小向大式には小乗戒について「小乗戒とは小乗律に依り、師、、現前の十師を請して、白四羯磨す。清浄戒律の大徳十人を請して三師七証と為す。若し一人を闕かば戒を得ず」と述べられている。
大地われて無間地獄
大智度論巻十四には「三逆罪を作り、悪邪の師富蘭那外道等と親厚を為し、諸の善根を断じて心に槐悔なし。復た悪毒を以って、指爪の中に著け、仏を礼するに因みて、以って仏を中傷せんと欲す。去らんと欲して末だ王舎城の中に至らざるに、地自然に破裂し、火車来り迎えて、生きながら地獄に入れり。提婆達多は身に三十相あって、而も其の心を忍伏すること能わず、供養の利の為の故に、而も大罪を作り、生きながら地獄に入る」とある。
無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avici)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
天王如来
法華経提婆品で、提婆達多が釈尊から未来成仏の記別を受けた時の名号。経文には「諸の四衆に告げたまわく、提婆達多、却って後、無量劫を過ぎて、当に成仏することを得べし。号を天王如来、応供、正遍知、明行足。善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏。世尊と曰わん。世界を天道と名づけん。時に天王仏、世に住すること二十中劫、広く衆生の為に、妙法を説かん。恒河沙の衆生、阿羅漢果を得、無量の衆生、縁覚の心を発し、恒河沙の衆生、無上道の心を発し、無生忍を得て、不退転に住せん。時に天王仏、般涅槃の後、正法世に住すること二十中劫、全身の舎利に、七宝の塔を起てて、高さ六十由旬、縦広四十由旬ならん。諸天人民、悉く雑華、抹香、焼香、塗香、衣服、、瓔珞、幢幡、宝蓋、妓楽、歌頌を以って、七宝の妙塔を礼拝し供養せん。無量の衆生、阿羅漢果を得、無数の衆生、辟支仏を悟り、不可思議の衆生、菩提心を発して不退転に至らん」とある。
帰依
帰依依憑して救護を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信服随従の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本とする。
天子
天命を受けて国に君たる人の称。古代中国では、天が民を治めるものとしたので、天に代わって国を統治する者の意。天皇のこと。
将軍
征夷大将軍のこと。本来は蝦夷征伐のため任命された臨時の官職。延暦13年(0794)に大友弟麻呂が補せられたのが最初で、以下坂上田村麻呂・文屋錦麻呂などがつづいた。建久3年(1192)源頼朝が補任された時には、本来の意味はなく、武士団を棟梁を示す要職・幕府の首長職に変ぼうしていった。御書に出てくる代表的な将軍としては5代将軍北条時頼と8代将軍北条時宗である。
一乗
一仏乗のこと。仏乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意味。一切衆生うをことごとく成仏させる教法を一乗という。法華経・三大秘法のこと。
十法の仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
堂塔
堂宇・塔廟・寺院のこと。
慈悲
一切衆生を慈しみ憐れむこと。大智度論巻27には、「大慈は一切衆生に楽を与え、大悲は一切衆生の苦を抜く。大慈は喜楽の因縁を以って衆生に与え、大悲は離苦の因縁を以って衆生に与う」とあり、慈を与楽、悲を抜苦の義としている。また涅槃経では一切衆生の無利益なるものを除くことを慈とし、無量の利益を与えることを悲としている。
衆流大海に入り
河水、雨水などが大海に入るとすべて同一の塩味となること。大海とは法華経のこと。薬王品得意抄には「諸経は大河・中河・小河等の如し法華経は大海の如し等と説くなり、河に勝れたる大海に十の徳有り、一に大海は漸次に深し河は爾からず、二に大海は死屍を留めず河は爾らず、三に大海は本の名字を失う河は爾らず、四に大海は一味なり河は爾らず、五に大海は宝等有り河は爾らず、六に大海は極めて深し河は爾らず、七に大海は広大無量なり河は爾らず、八に大海は大身の衆生等有り河は爾らず、九に大海は潮の増減有り河は爾らず、十に大海は大雨・大河を受けて盈溢無し河は爾らず」(1499:11)とある。
衆鳥・須弥山に近ずきて
本尊供養御書には「大海に入りぬる水は皆鹹し、須弥山に近づく鳥は金色となるなり、阿伽陀薬は毒を薬となす、法華経の不思議も又是くの如し凡夫を仏に成し給ふ、蕪は鶉となり・山の芋はうなぎとなる・世間の不思議以て是くの如し」(1536:03)
須弥山
古代インドの世界観で世界の中心にあるとされる山。スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼・蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水の海がある。この鹹水の中に閻浮提などの四大州が浮かんでいるとする。
七福かえりて七難をこり
仁王経の「七難即滅七福即生」ご語を裏返された語。仁王経の七難とは、①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。七福は①悪竜鬼を鎮める徳②人の所求を遂げる徳③輪王意珠の徳④竜甘雨を降らせる徳⑤光天地を照らす徳⑥能く一切諸仏法等を出生する徳⑦能く一切国王無上の法等を出生する徳
他国のせめ
他国侵逼難をいう。大聖人御在世当時の他国の責めとは、蒙古襲来を意味する。
後生
過去・現在・未来のなかの未来生。
無間大城
無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
講義
同じ三逆罪でも、その対象によって罪科に軽重があり、大聖人当時の人々が犯している三逆罪は提婆達多のそれに比べてはるかに重いことを述べられている。
すなわち、提婆達多が犯した三逆罪は、出仏身血といっても、その仏は爾前小権の釈尊であり、法華経の久遠実成の釈尊ではない。「久遠実成の釈尊」とは、再往、日蓮大聖人の御事である。
殺阿羅漢も爾前小権の阿羅漢であって、皆成仏道の法要を受持している法華経の行者ではない。
破和合僧も爾前小乗の戒を持った僧であり、法華円頓の大戒を持った和合僧団ではなかった。
提婆達多はこの悪業のため、生きながらにして地獄に堕ちたといわれる。法華経に対する三逆ではなかったので、その罪は深いようであってもまだ浅いといえる。それゆえに、法華経の会座では天王如来という未来成仏の記別を与えられたのである。
なお提婆が生身のまま地獄に堕ちたことについて、大聖人は刑部左衛門尉女房御返事で「不孝の者の住所は常に大地ゆり候なり」(1398:10)と、不孝の者は、その罪業の重みのために大地がこれを支え切れずに、常に揺れ動いていると述べられ、ついに大地が支えきれず、割れて地獄へ堕ちた典型的な例が提婆であるとされている。
しかし、兄弟抄に「所対によりて罪の軽重はありけるなり」(1080:14)と御教示されているように、同じ三逆罪であっても、相手・対象によって罪の軽重が異なる。
例えば同じ殺人でも、自分を殺そうとして襲ってきた悪人を殺した場合は正当防衛になるが、善人を殺せば全く逆となって罪は重い。
今の真言等の諸宗は僧並びにこれに帰依している日本の上下万民は、一代聖教の肝心であり骨髄である「法華経」と「一乗の行者」を対象に、三逆罪を犯しているのであるから、これは極重業といわなければならない。
ここで仰せの「法華経」とは、すなわち法華寿量文底秘沈の大法、三大秘法の南無妙法蓮華経であり、「一乗の行者」とは、その大法を本来所持される久遠元初自受用報身如来、すなわち御本仏日蓮大聖人であられる。これは人法体一の深義を表していると拝せよう。
それゆえに犯した三逆罪の罪科はこの上なく重く、これに相対すれば、提婆の三逆罪は比較にならないほど軽いといえる。大聖人も曾谷二郎入道度の御返事で「提婆が三逆罪は軽毛の如し」(1068:18)また「軽罪中の軽罪なり」(1086:15)と説かれている。
たとえ一切経に通達している智者、十方の仏に帰依する篤信の人であれ、極楽寺・建長寺のような立派な堂塔を寄進する人であれ、更に一切衆生に対して慈悲を施すなど“大善”の行為を尽くしても、法華経並びに法華経の行者の大怨敵となれば、ことごとく“大悪”と変じてしまい、“七福”も“七難”となってしまうのである。
所詮、大善に敵対すれば大悪となる。至高善に背けばすべて極大悪となる道理である。
更に大聖人は、立正安国論で予言した他国侵逼難が、蒙古襲来をもって的中したことを挙げられ、しかも正法に背く人々の苦報は現世にとどまるのみでなく、死後は無間地獄というはるかに大きい苦しみにあわなければならないことを示されている。
第三章(故弥四郎の成仏を確証)
此れをもんてをもうに故弥四郎殿は設い大罪なりとも提婆が逆にはすぐべからず、何に況や小罪なり法華経を信ぜし人なれば無一不成仏疑なきものなり。
現代語訳
このことから思うに、故弥四郎殿はたとえ大罪はあっても、提婆達多の三逆罪には勝ることはない。提婆達多に比べベるならば小罪であり、まして法華経を信ずる人であるから、無一不成仏は疑いないのである。
語句の解説
講義
光日尼の子息・弥四郎が若くして死去したことについて、前章との関連の上から提婆の逆罪にくらべればまだ小罪であると述べられ、しかも妙法を信仰したのであるから、弥四郎の成仏は間違いないと断定されている。
弥四郎は、建治2年(1276)3月御述作の光日房御書から拝察すると、日蓮大聖人が身延へ入山された直後、何かやむにやまれぬ事件に遭遇したらしく、人を殺め、また自らも横死したようである。
光日尼はこの事件を大層悲しみ「人をも・殺したりし者なればいかやうなる・ところにか生まれ候らん」(0930:03)と、弥四郎の後生を心配して尋ねている。
大聖人はそれに答えて「小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ」(0930:06)と説き、現証として、大罪を犯した極悪非道の阿逸多や阿闍世王が仏に懺悔して罪をけすことができた例を挙げられている。
しかも弥四郎は法華経を信じ、母にも法華経を勧めたひとであるから、いかなる罪も消えるわけがないと励まされている。
更に「又子悪人なれども親善人なれば子の罪ゆるさるる事あり」(0931:06)と母の強盛な信心によって救われることを教えられている。
我が子に先立たれた悲しみはいまだ消えやらぬ光日尼の心情を思いやれれる大聖人は、本抄においても、所対によって罪の軽重がある道理から弥四郎の罪は提婆の逆罪に比べれば小罪であるとし、しかも法華経を信じた人であるから成仏は疑いないと、重ねて激励されているのである。
本文の「無一不成仏」は法華経方便品の文で「一りとして成仏せずということ無けん」と読む。「皆成仏道」と同義である。
第四章(真言の邪義と堕獄の理由)
疑て云く今の真言師等を無間地獄と候は心へられぬ事なり、今の真言は源弘法大師・伝教大師・慈覚大師・智証大師此の四大師のながれなり、此の人人・地獄に堕ち給はずば今の真言師いかで堕ち候べき、答えて云く地獄は一百三十六あり一百三十五の地獄へは堕つる人雨のごとし其の因やすきゆへなり、一の無間大城へは堕つる人かたし・五逆罪を造る人まれなるゆへなり、又仏前には五逆なし但殺父殺母の二逆計りあり、又二逆の中にも仏前の殺父・殺母は決定として無間地獄へは堕ちがたし畜生の二逆のごとし、而るに今日本国の人人は又一百三十五の地獄へはゆきがたし、日本国の人人・形はことなれども同じく法華経誹謗の輩なり、日本国異なれども同じく法華誹謗の者となる事は源伝教より外の三大師の義より事をこれり。
現代語訳
疑って言う。現在の真言師等を無間地獄とは納得のいかないことである。今の真言宗はその源をたどれば弘法大師・伝教大師・慈覚大師・智証大師この四大師門流である。この人々が地獄に堕ちていないのなら今の真言師がどうして地獄に堕ちることがあろうか。
答えて言う。地獄には一百三十六の地獄がある。一百三十五の地獄に堕ちる人は雨が大地に落ちるように多い。それは堕獄の因を犯しやすいからである。残りの一つの無間地獄に堕ちる人は少ないのである。それは五逆罪を造る人はまれだからである。また釈尊以前には五逆罪はなく、ただ殺父・殺母の二逆あっただけである。しかも釈尊以前の殺父・殺母の二逆では無間地獄に堕ちるようなことはなかった。それは畜生の二逆のようなものだからである。
ところが今、日本国の人々は一百三十五の地獄へ行くこたはありえない。日本国の人々は形は異なってはいても、みな一様に法華経誹謗の輩である。日本の人々が各人異なっていても同じく法華誹謗の者となるということは、源をたどれば伝教大師を除いた他の弘法・慈覚・智証の三大師の邪義から起こったことである。
語句の解説
弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」三巻等がある。
伝教大師
(0767~0822)伝教のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
慈覚大師
(0794~0864)。日本天台宗の第三祖。諱は円仁。延暦13年(0794)に下野国に生まれ、幼いときから経史を学び、15歳のときに比叡山に登り伝教大師の弟子となる。承和5年(0838)、勅を奉じて入唐して顕密二道の勝劣と天台宗を修学する。承和14年(0847)帰朝。仁寿4年(0854) 円澄の跡を禀けて第三祖の座主となる。慈覚は、天台座主でありながら、真言宗の邪義を取り入れ台密と名のり、大日如来を本尊とした。日蓮大聖人は、撰時抄(0279)に「これよりも百千万億倍信じがたき最大の悪事はんべり」と、日本国滅亡の原因をつくったことを厳しく責められている。貞観6年(0864)没。著書に入唐巡礼記、金剛頂経疏等がある。
智証大師
延暦寺第5の座主、円珍。智証派の祖である。母が弘法の姪であるとも、彼自身が弘法の甥であるともいわれる。弘仁5年(0814)、讃岐国那珂郡に生まれ、14歳で叡山に登って、座主・義真の弟子となる。嘉祥元年(0848)、大極殿の吉祥会で法相宗の義虎知徳と法論し、これを破して名声をあげた。仁寿年中に入唐し、長安青龍寺の法全から密教を学んで天安2年(0858)に帰朝した。貞観元年(0859)、三井園城寺を再興して唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。八年に止観・真言両宗弘伝の公験を賜り、10年に延暦寺の座主となった。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平3年(0891)10月、78歳で没す。
地獄
十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
地獄は百三十六
八熱地獄にそれぞれ十六の別処があるところから合わせて百三十六となる。
五逆罪
理に逆らうことの甚だしい5つの重罪。無間地獄の苦果を感じる悪業のゆえに無間業という。五逆罪には、三乗通相の五逆、大乗別途の五逆、同類の五逆、提婆の五逆などあるが、代表的なものは三乗通相の五逆であり、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧をいう。
畜生
飼い畜われていきるものの意で、動物を総称する。三悪道・十界のひとつ。観心本尊抄には「癡は畜生」(0241:08)とあり、理性を失い、本能の命ずるままに行動する姿をさす。
誹謗
誹謗正法のこと。ただしい仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。また、正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせることも謗法となり、これらは無間地獄に堕ちる業因である。
講義
第二章に「今の真言師・念仏者・禅・律等の人人・並に此れを御帰依ある天子並びに将軍家・日本国の上下万人は法華経の強敵となる上・一乗の行者の大怨敵となりぬ、されば設い一切経を覚り十方の仏に帰依し一国の堂塔を建立し一切衆生に慈悲ををこすとも・衆流大海に入り鹹味となり衆鳥・弥山に近ずきて金色となるがごとく、一切の大善変じて大悪となり七福かへりて七難をこり現在眼前には他国のせめきびしく・自身は兵にやぶられ妻子は敵にとられて後生には無間大城に堕つべし」と言われたことに関し、諸宗のなかでも、別して真言宗の邪義と、それを信ずる僧俗の堕地獄の所以を明示されていくのである。
まず、真言堕地獄の主張は納得できない。今の真言宗は弘法等の四大師を源とし、その流れを汲んでいるのであり、学徳の誉れ高い四大師が堕獄するわけがないのであるから、今の僧俗がどうして地獄へ堕することがあろうか、と反論が挙げられている。
真言宗は、他の念仏や禅、律の諸宗とは比較にならない権威と伝統をもち、その開祖である弘法、また台密の祖である慈覚・智証は並ぶ者のない高僧と仰がれていた。その流れを汲む真言師らが極苦の無間地獄へ堕ちるとは、とうてい納得できないというのは、当然の疑問であったといえる。なお、伝教大師も並べられているのは、台密の人々は伝教大師も真言を認めていたと理解していたからである。
地獄の地とは最低、獄とは束縛された不自由な境涯を意味する。あわせて十界の最低部であり、極度の苦悩の境界をいう。地獄の分け方は経文によって異なるが、本章では俱舎論で説く百三十六地獄を用いられている。
また無間地獄に堕ちる業因は、五逆罪と、正法誹謗とされる。
一般に、正法誹謗を別にすれば、五逆罪を犯すのはよほどのことで、まれである。したがって、無間地獄に堕ちる者はまれであり、他の百三十五の地獄に堕ちる者のほうが圧倒的に多いことになる。特に仏教出現以前は仏身は存在せず、阿羅漢も和合僧もないから、五逆罪といっても殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の罪は起こりようがない。ただ殺父・殺母の二つがあるだけであった。しかも仏教以前は人間が畜類とそれほど変わりがなかったこともあって、そのこと自体、無間地獄の業因とはなりえなかったのである。
しかし当今の日本国の人々は、一同に無間地獄へ堕ちることが必定であるといわれている。
なぜなら、各人がそれぞれ違っていても、一様に、正法たる法華経を誹謗しているからであり、法華経譬喩品に「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、其の人命終して、阿鼻獄に入らん」と説かれているように無間地獄に堕ちる因だからである。
このように日本中の人が法華経誹謗の者と化したのは、先の四人の中では伝教大師を除いた、弘法・慈覚・智証の三大師の邪義がその元凶であると指摘されている。その流類である僧俗であれば、決定して無間地獄を免れえないのは当然なのである。
第五章(弘法等三大師の邪義)
問うて云く三大師の義如何、答えて云く弘法等の三大師は其の義ことなれども同じく法華経誹謗は一同なり、所謂善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の法華経誹謗の邪義なり。
現代語訳
問うて言う。弘法・慈覚・智証の三大師の義はどうか。
答えて言う。弘法等の三大師は、そのたてている義は異なっていても、法華経を誹謗していることは同じであり、それらの源は善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の法華経誹謗の邪義なのである。
語句の解説
講義
次に弘法ら三大師の立義について「其の義ことなれども同じく法華経誹謗は一同なり」とし、いずれも中国真言の祖・善無畏ら三三蔵の邪義に基ずくものであると断じられている。
すなわち弘法は十住心論のなかで、凡夫が善悪を知らず、本能に従って生きる異生羝羊住心を第一に挙げ、以下次第に高い住心を説くなかで、法華経の一仏乗による住論は第八の一道無為住論であるとし、そのうえに究極の無自性を説く華厳経の極無自性従心があるとして第九に置き、究極・秘密の真理を説く大日教の秘密荘厳従心が第十で、最も勝れていると主張したのである。
加えて「法華経は戯論の法」「五味に譬えれば法華は第四の熟蘇味」等といい、更に顕密二教の勝劣を主張したのである。
つまり大日教は大日如来の秘密の教えであり、最高の教えであるが、法華経などは顕教の低い教えであるとして、密教の大日経は勝れ、顕教の法華経は劣るとしたのである。
一方、慈覚は、比叡山延暦寺の第三代座主でありながら「真言の三部経と法華とは所詮の理は同じく一念三千の法門なり、しかれども密印と真言等の事法は法華経かけてをはせず法華経は理秘密・真言の三部経は事理倶密なれば天地雲泥なり」(0281:03)という理同事勝の邪義を構えたのである。
智証も、やはり延暦寺第五代座主になりながら、慈覚の主張を承けて円劣密勝を立て、法華経の顕教に対し、密教が勝れると公言してはばからなかったのである。
以上のことから明らかなように、真言宗の邪義には二つの形態があることが分かる。いわゆる東密と台密である。
東密とは、京都の東寺を中心にした、弘法の真言密教のことである。先にも触れたように、法華経を釈迦応身仏の説いた顕教の中に入れ、大日法身の説いた密教に比べてはるかに劣ると、あからさまに下している。
これに対して密教は、日本天台宗の立てた密教である。最初、伝教大師は法華経を根本に、絶対妙の立場から密教を取り入れたが、第三代座主の慈覚・第五代座主智証は、法華経と大日経は円理において一致するが、事相においては大日経のほうが勝れていると主張したのである。
大聖人は、このように多少の違いはあっても、法華経を大日経より劣るとしている点では同じで、その法華経誹謗の根源は、中国へ真言宗を伝え、弘めた善無畏・金剛智・不空の三三蔵の邪義であると指摘されている。
ここで中国の真言宗について略述しておきたい。
善無畏は東インド烏仗那国・仏手王の子で出家修行の後、唐の長安にやってきて、玄宗皇帝に国師として迎えられたのが開元4年(0716)とされ、天台大師滅後119年にあたる。中国に初めて密教を伝え、大日経7巻など種々の密教教典を訳出した。同時代の金剛智・不空とともに三三蔵と呼ばれる。
善無畏が大日経を訳出したところ、中国の仏教界では中国の天台宗の一念三千の法門がすでに確立されていた。
そのため善無畏は、元天台宗の学僧だった一行をそそのかし、巧みに利用して、大日経の注釈、いわゆる大日経疏を書かせたのである。
そのとき、善無畏が一行に吹き込んだ内容について大聖人は撰時抄に次のように記されている。
「漢土にては 法華経・大日経とて二本なれども天竺にては一経のごとし、釈迦仏は舎利弗・弥勒に向つて大日経を法華経となづけて印と真言とをすてて但理計りをとけるを羅什三蔵此れをわたす天台大師此れをみる、大日如来は法華経を大日経となづけて金剛薩埵に向つてとかせ給う此れを大日経となづく我まのあたり天竺にしてこれを見る、されば汝がかくべきやうは 大日経と法華経とをば水と乳とのやうに一味となすべし」(0276:02)と。
そして、このようにともに一念三千を説いているから、法華経と大日経は、“理”のうえでは同じだが、印と真言を説く大日経は“事”のうえで勝れている。これはあたかも将軍が鎧・兜を着け、弓矢を横たえ、太刀を着しているようなものである。それに対して、法華経は赤裸の将軍のようなものである、といって一行を欺いたのである。
もとより、これは全くの作り事であったから、大日経疏ができた当初は、さすがに天台・真言の勝劣について盛んに論争が行われたが、時が経につれて、天台宗に天台大師ほどの知者が現れなかったこともあって、善無畏ら真言の勢力が強くなり、年々拡大していったのである。
日本の弘法ら三大師はそれぞれ渡唐して、この善無畏らの邪義を学び、これを日本に弘めたのである。
第六章(善無畏の堕獄の相を示す)
問うて云く三大師の地獄へ堕つる証拠如何、答えて云く善無畏三蔵は漢土日本国の真言宗の元祖なり彼の人すでに頓死して閻魔のせめにあへり、其のせめに値う事は他の失ならず法華経は大日経に劣ると立てしゆへなり、而るを此の失を知らずして其の義をひろめたる慈覚・智証・地獄を脱るべしや、但し善無畏三蔵の閻魔のせめにあづかりし故をだにも・たづねあきらめば此の事自然に顕れぬべし・善無畏三蔵の鉄の繩七すぢつきたる事は大日経の疏に我とかかれて候上・日本醍醐の閻魔堂・相州鎌倉の閻魔堂にあらわせり、此れをもつて慈覚・智証等の失をば知るべし。
現代語訳
問うて言う。弘法等の三大師が地獄に堕ちているという証拠はあるのか。
答えて言う。善無畏三蔵は中国・日本国の真言宗の元祖であるが、彼は頓死した時に地獄で閻魔王の責めにあったのである。善無畏が責められたのは、他の罪ではなく、法華経は大日経に劣るとの義を立てたからである。
そうであるのに、この失を知らないでその義を弘めた慈覚・智証も、地獄を免れるわけがない。善無畏三蔵が閻魔王の責めにあった理由を少しでも明らかにしていくなら、三大師が地獄に堕ちたことは自然に明らかになる。善無畏三蔵が閻魔王の責めにあって鉄縄七筋で縛られたことは大日経の疏に自分で書いているうえ、日本の山城醍醐の閻魔堂、相州鎌倉の閻魔堂に懸かっている画に明らかである。このことによって、その流れをくむ慈覚・智証等の失をしるべきである。
語句の解説
講義
日本真言宗の元祖である弘法ら三大師が無間地獄に堕ちているというが、その証拠を示せとの問いに答え、弘法らの元祖というべき中国真言宗の善無畏三蔵が、地獄で閻魔大王の責めを受けたことを挙げられている。
このことは善無畏自から記していることであり、その理由を尋ね明らかにしていくならば、弘法ら三大師が地獄に堕ちたことはおのずから分かるであろうと説かれている。
本文で「彼はすでに頓死して閻魔のせめにあへり」と仰せられているのは、善無畏はあるとき、一時に頓死して、再び生き帰って語るには、地獄に堕ちて、二人の獄卒に鉄縄で七重に縛られ、閻魔大王の前に連れていかれた。そのとき、これまで修行した真言を思い出して唱えたが、獄卒の責めはますます激しくなるばかりだった。かろうじて、法華経の題目を念じたところ、首の縄がゆるみ、今度は法華経譬喩品第三の「今此三界」の文を声高く唱えたところ、鉄縄が切れ、この世に帰されたというのである。
このことを大聖人は善無畏三蔵抄で「而るに此の三蔵一時に頓死ありき 数多の獄卒来つて鉄繩七すぢ懸けたてまつり 閻魔王宮に至る此の事第一の不審なり」(0886:18)と述べられている。
この話は、真言の教えによっては救われず、法華経こそ地獄の苦から救う法でることを示しているとともに、彼ほど仏教を修行した高僧がなぜ地獄に堕ちなければならなかったのを明かしている。
この善無畏が閻魔王の責めにあった理由は「他の失ならず法華経は大日経に劣ると立てくゆへ」だった。釈尊が説いた一代の諸教典中、最第一の法華経より大日経のほうが勝れているとし、法華経を下した謗法のためだったのである。
しかし、その後も密教を弘めた善無畏の臨終の様子は、彼の弟子の記録によると、身がふやけ、小さく縮まって、色が黒くなり、骨が現れたとある。
この善無畏の“失”を知らずして天台宗に取り入れ、理同事勝の邪義を弘めた慈覚・智証も、同様に堕地獄を免れることは不可能である。
ましてや弘法の場合は、大日経を法華経に比べて三重に劣ると誹謗したのであるから、その罪の大きさはひときわであることを知らねばならない。
善無畏が閻魔の責めにあったことは、本文で「大日経の疏に我とかかれて候」と述べられているように、ほかならぬ善無畏自らが大日経疏巻五のなかで告白していることなのだから、真言宗の側としても否定のしようがない。
このことは鎌倉時代、世間にかなり広く知られた話だったらしい。本抄の「日本醍醐の閻魔堂・相州鎌倉の閻魔堂にあらわせり」の御文、及び下山御消息の「閻魔堂の画を見よ」(0361:10)との仰せから推察すると、当時、京都の醍醐寺と鎌倉の閻魔堂には、これを題材とした絵が掲げられていたのではないかと思われる。
こうした事実からも善無畏の流れをくむ弘法・慈覚・智証等の堕地獄は全く疑いをはさむ余地はないと言われているのである。
特に三大師のなかでも「慈覚・智証等の失をば知るべし」と訶責されているのは、比叡山延暦寺の座主でありながら、真言の邪義にかぶれて、伝教以来の天台法華宗の清流を真言の濁流に変えてしまった張本人だからであろう。教義的には弘法のほうが誹謗の度が重いが、立場からいうと慈覚・智証のほうが責任重大である。
大聖人は、彼らを善無畏・弘法・聖覚房に比べて「これよりも百千万億倍・信じがたき最大の悪事はんべり」(0279:12)と仰せられ、「されば東寺第一のかたうど慈覚大師にはすぐべからず」(0279:18)として「師子の身の中の虫の師子を食う」(0280:04)ものであると断じられている。
第九章(真言堕地獄の現証を示す)
事の心を案ずるに彼の大慢ばら門がごとく無垢論師にことならず、此等は現身に阿鼻の大火を招くべき人人なれども強敵のなければ・さてすぐるか、而りといへども其のしるし眼前にみへたり、慈覚と智証との門家等・闘諍ひまなく・弘法と聖覚が末孫が本寺と伝法院・叡山と薗城との相論は修羅と修羅と猿と犬とのごとし、此等は慈覚の夢想に日をいるとみ・弘法の現身妄語のすへか、仏末代を記して云く謗法の者は大地微塵よりも多く正法の者は爪上の土よりすくなかるべし、仏語まことなるかなや今日本国かの記にあたれり。
現代語訳
このことを考えてみると、真言師の姿は、外道の三神と釈迦像とを高座の足に作って我が徳は四聖よりも勝れていると言った大慢婆羅門や、世親菩薩を誹謗した無垢論師と同じである。真言師等は生きながら阿鼻地獄の大火に焼かれるべき人々であるが、強敵がいないのでその謗法の罪があらわれずに無事にいるであろうか。しかし、彼らが阿鼻地獄に堕ちる証拠は眼前にある。
慈覚と智証との門家等・闘諍がたえず、弘法が開いた高野山金剛峯寺と聖覚房の開いた根来伝法院、比叡山と薗城寺との争いは、ちょうど修羅と修羅、猿と犬の闘争のようなものである。これらのことは慈覚が夢に日輪を射たことや、弘法が在世中に妄語を続けたからであろうか。
仏はこうした末代悪世を予言して「謗法の者は大地微塵より多く、正法を信ずる者は爪上の土よりも少ないだろう」と説いている。仏語まことなるかな、今、日本国はまさしくこの仏記に合致している。
語句の解説
講義
弘法の流れを引く東密にせよ、慈覚・智証のながれを汲む台密にせよ、法華経誹謗の真言密教の僧らが無間地獄に堕ちる瑞相として、修羅闘諍に明け暮れている現状を指摘されている。
日蓮大聖人は真言の大謗法を見極められたうえで、真言師は古代インドにおける大慢婆羅門や、小乗をもって大乗をそしり、天親菩薩を排そうとして狂乱し、舌が八つに裂けたとされる無垢論師と同一であるとされている。
彼らが生身に堕獄したように、真言師らも「現身に阿鼻の大火を招くべき人人」だが、これまでその非法を糾弾する人がいなかったから、謗法の罪科が明らかにされないままでいたといわれる。
しかし「其のしるし眼前にみへたり」と、真言末流の間断なき対立・相克・闘諍の様相を示し、歴然たる現証とされているのである。
慈覚と智証門家の闘諍
その一つは慈覚門家と智証門家との争乱である。
園城寺は今の滋賀県大津市三井町にあり、地名から三井寺ともいわれている。智証がこの寺の出身だったため、比叡山と長年にわたって勢力争いが続き、兵戦や焼き打ちをたびたび繰り返した。
発端は第64代円融天皇文元4年(0981)に、比叡山第19代の尋禅座主が引退し、第20代座主に智証系の余慶が任命されたことに、慈覚門下が怒って讒訴したことによる。
以来、まさに「闘諍ひまなく」、おもに比叡山側から三井寺焼き打ちなどが続いた。そのため「園城寺をやき叡山をやく」(0311:01)始末を招き、慈覚と智証の本尊も焼失してしまったのである。
本寺と伝法院の抗争
もう一つは弘法と聖覚房の末孫にある本寺・金剛峯寺と根来の伝宝院との不和・対立である。
本寺の高野山金剛峯寺は、弘法が弘仁10年(0819)に金堂を建てたのが始まりで、真言密教の根本道場となってきた。
伝法院とは聖覚坊覚鑁が建立した寺院、現在の和歌山県岩出市根来にあり、地名から根来寺ともいう。天承元年(1131)に聖覚房が鳥羽上皇の勅許を得て高野山に開基した伝法院が始まりである。
聖覚房はここで伝法会を修していたが、長承3年(1134)に金剛峯寺を兼任したため、金剛峯寺衆徒の反対にあい、保延6年(1140)焼き打ちにあい、現在の根来に逃れた。
両者の抗争はその後も続き、根来の衆は鎌倉中期に独立して新義真言宗を立てた、ここにいわゆる真言宗古義派と新義派の分裂が生じ、現在では古義が七派、新義は二派に分かれている。
このように台密のほうは山門と寺門、東密のほうは本寺と伝法院というように内部抗争を繰り返し、まさに「修羅と修羅と猿と犬」のごときありさまであった。これを、大聖人は報恩抄で「現身に無間地獄をかんぜり」(0311:02)といわれている。そして「此等は慈覚の夢想に日をいるとみ・弘法の現身妄語のすへか」と、元祖の非法ゆえの当然の結末であろうとされている。
慈覚の夢想に日をいる
「慈覚の夢想に日をいる」といわれている意味は、慈覚は漢土から帰国して、真言三部経のなかの金剛頂経の疏七巻と蘇悉地経七巻の計十四巻を著したが、中身は理同事勝の邪義で、漢土における善無畏らの邪説を下敷きにしたものにすぎなかった。
この十四巻が慈覚自身にも、はたして仏意にかなうものなのか否かに自身がなかったらしく、比叡山東塔の総持院の本尊・大日如来の前に安置し「此の疏仏意に叶へりやいなやと」(0353:11、下山御消息)と祈ったのである。
するとある夜、太陽を矢で射落とした夢を見て「深く仏意に通達せりと悟り後世に伝うべし」(0281:09、撰時抄)と決意したという説を指しているといわれている。
日輪を射落とすというのは、ふつうは凶夢とされるが、慈覚は自分の智慧が大日如来の心に通じたものと解釈して吉夢とし、この夢をもって真言が法華経より勝れているという確信を得たというのである。
慈覚が夢を判断の根拠にしたことについて、日蓮大聖人は諸御抄で、日輪を射たのは諸仏に弓を引いたもので、亡国の先兆となる凶夢にほかならないとされ依法不依人の金言を引かれ「夢を本にはすべからず ただついさして法華経と大日経との勝劣を分明に説きたらん経論の文こそたいせちに候はめ」(0282:01、撰時抄)と仰せになっている。
そして「日輪を射るとゆめにみたるは吉夢なりというべきか」(0282:08、撰時抄)と難じられ、いにしえの数々の事例を挙げて「此の夢をもつて法華経に真言すぐれたりと申す人は今生には国をほろぼし家を失ひ後生にはあび地獄に入るべしとはしりて」(0282:15、撰時抄)と破折されている。
弘法の現身妄語
「弘法の現身妄語」は多くあり、第八章でも述べたが、それ以外では、弘仁9年(0818)の春、国中に疫病が流行したとき、弘法が般若心経で祈ったところ、疫病がやんだとともに、夜中に太陽が赫々と輝いたなどといっている。
弘任9年(0818)に疫病が流行したという歴史の記録はなく、まして夜中に太陽が出たという記録などどこにもない。もしこれが事実なら、万人が見たはずであり、歴史の記録に載せられないわけがないのである。
また弘法が中国から帰って真言宗を開こうとしたとき、朝廷に各宗の僧を集め、智拳の印を結んで南方へ向かったところ、面門が俄かに開いて金色の毘廬遮那になったという。
面門とは口のことであり、口を開けたら法身如来になったなどということは全く意味がなく、大聖人は、おそらく眉間白毫がにわかに開いて成仏の姿を現したと書くつもりで、誤って“面門”と書いたのであろう。「ぼう書をつくるゆへに・かかるあやまりあるか」(0320:11、報恩抄)と虚事たる所以を指摘されている。
結論として「いわうや弘法は日本の人かかる誑乱其の数多し此等をもつて仏意に叶う人の証拠とはしりがたし」(0321:05、報恩抄)とされ、そうした妄語・妄説は仏意にかなう証拠とはとうていできないと断じられている。
涅槃経には、魔が仏の形を現し、世間の人を信用させておいて、しかも仏法を破ると説かれているが、まさしく弘法・慈覚らはこれにあたるといえよう。
結局、慈覚・智証以後、叡山における法華経の正義は完全に失われ、真言密教の邪義に汚染されて「此の四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州・皆謗法の者となりぬ」(0309:06)という事態となったのである。
このことを本文で「仏末代を記して云く謗法の者は大地微塵よりも多く」と仰せられている。法華経流通分である涅槃経で、釈尊は滅後末法濁世の姿を「是等の涅槃経典を信ずる者は爪上の土の如く(中略)是の経を信ぜざるは十方界所有の地土の如し」と予言しているが、仏語に虚妄はなく「かの記」すなわちこの涅槃経の未来記どおり、一国謗法と化した日本の現状は、まさしくそれに符合するといわれている。
第十章(宗祖自らの修学時代を回顧)
予はかつしろしめされて候がごとく幼少の時より学文に心をかけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし、其の後先ず浄土宗・禅宗をきく・其の後叡山・薗城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども・我が身の不審はれがたき上・本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからず・いづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし・論師・訳者・人師等にはよるべからず専ら経文を詮とせん、又法門によりては設い王のせめなりとも・はばかるべからず・何に況や其の已下の人をや、父母・師兄等の教訓なりとも用ゆべからず、人の信不信はしらず・ありのままに申すべしと誓状を立てしゆへに・三論宗の嘉祥・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩等をば天台・妙楽・伝教等は無間地獄とせめたれども・真言宗の善無畏三蔵・弘法大師・慈覚・智証等の僻見は・いまだ・せむる人なし、善無畏・不空等の真言宗をすてて天台による事は妙楽大師の記の十の後序並に伝教大師の依憑集にのせられたれども・いまだ・くはしからざればにや慈覚・智証の謬悞は出来せるかと強盛にせむるなり。
現代語訳
日蓮はこのことを、よくご存知のとおり、幼少のころから学問に心がけて、そのうえ十二歳の時から大虚空蔵菩薩の御宝前で「日本第一の智者とならし給え」と願をかけてきたのである。その願いはさまざまな理由があるが、今は詳しく書くことができない。その後まず浄土宗・禅宗の法門を聴聞し、さらに比叡山延暦寺・薗城寺・高野山で研鑚し、京の都や田舎などを巡って修行して自宗・他宗の法門を修学したが、我が身の不審は晴れなかった。
もともとの願いに「諸宗のいずれの宗にたいしても偏った心や執着はもつまい。いづれの宗であっても仏説に証拠があって、道理が分明であるものを用いよう。論師・訳者・人師によってはならない。ひたすら仏の経文を第一としよう。また法門の上では、たとえ国王の責めを受けてもはばかることはない。まして、それより以下の人々をや、父母・師兄等の教訓であっても用いることはない。人の信ずるか信じないとかにかかわらず、ただ経文のままに言い通していこう」と誓状を立てたのである。
そして三論宗の嘉祥・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩等については天台大師・妙楽大師・伝教大師等が無間地獄と責めたけれども、真言宗の善無畏三蔵・弘法大師・慈覚・智証等の僻見については、いまだに責める人がいない。善無畏・不空等が真言宗を捨てて、天台大師の法門によったことは、妙楽大師の法華文句記の巻十の後序ならびに伝教大師の依憑集に載せられているが、いまだ詳しくはないので伝教大師の末流から慈覚・智証の誤りがでてきたのであろうかと、日蓮は強盛に責めているのである。
語句の解説
幼少の時より学問に心をかけし
日蓮大聖人は、天福元年(1233)御聖誕の地・小湊に近い清澄寺に登って修学された。本尊問答抄には「生年十二同じき郷の内・清澄寺と申す山にまかり登り住しき」(0370:08)とある。
虚空蔵菩薩
智慧と福徳を蔵することが大空にも似て広大無辺であるがゆえに、そしてそれを衆生の願いにしたがって施すのに尽きることがない菩薩であるがゆえに虚空蔵菩薩という。その形像は、蓮華座に坐して五智宝冠をいただき、右手に智慧の利剣、左手に福徳の蓮華と如意宝珠を持っている等さまざまである。密教では胎蔵界漫荼羅虚空院の中尊とされている。大聖人が修学、出家された清澄寺の本尊が虚空蔵菩薩であった。
叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
園城
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
三論宗
竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
嘉祥
(0549~0623)中国・隋代から唐代の人で、三論宗再興の祖。祖父または父がバルキア人であったことから胡吉蔵と呼ばれ、嘉祥寺に住したので嘉祥大師と称された。姓は安氏。金陵の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論を学ぶ。その後、嘉祥寺に住して三論宗を立て般若最第一の義を立てた。著書に「三論玄義」1巻、「中観論疏」10巻、「大乗玄論」5巻、「法華玄論」10巻、「法華遊意」1巻などがある。後年には、天台大師に帰依したといわれている。
華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道?が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
澄観
(0738~0839)中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
法相宗
解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
慈恩
(0632~0682)中国・唐代の法相宗の事実上の開祖。窺基のこと。姓は尉遅、慈恩寺に住んでいたので慈恩大師といわれ、大乗基とも呼ばれる。玄奘の弟子となり訳経に従事した。「成唯識論」を訳出し、また瑜伽論を学んだ。著書に「法華経玄賛」10巻、「大乗法苑義林章」7巻などがある。
妙楽
(0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
記
妙楽大師が天台の法華文句をさらに解釈した「法華文句記」のこと。妙楽は中国の唐代の人で天台宗第九祖。天台より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。そのなかでも、天台大師の注釈は天台の幽旨を明解にしたもので、法華玄義を法華玄義釈籤、摩訶止観を摩訶止観輔行伝弘決としている。
記の十の後序
法華文句記巻十下の文。「敵、江准の四十余僧と往きて台山に礼す。因りて不空三蔵の門人含光の勅を奉じ、山に在りて修造するを見る。云わく、不空三蔵と親しく天竺に遊ぶ、彼に僧あり。問うて云く。大唐に天台の教迹あり、最も邪正を簡び偏円を暁むるに堪えたりと。能くこれを訳して此の土に将至すべけんや。あに中国に法を失いてこれを四維に求むるに非ずや。而も此の方識ることあるもの少し、魯人の如きのみ。故に徳に厚く道に向かうものこれを仰ぎ敬わざるはなし、願くは、学者、力に随って称賛せよ」とある。
依憑集
伝教大師が弘仁4年(0813)に著した書。本文は13章からなる。
内容は天台の義を規範とし、依憑としながら、真言・華厳・三論・法相宗などが仏法の正義からはずれていることを破している。
謬悞
あやまり、間違い、誤謬のこと。
講義
これまで展開されてきた真言宗の破折に関連して日蓮大聖人御自身の御半生を回顧されている。
日蓮大聖人が幼少の時に「大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ」と回顧された御文は、本抄の他に二編ある。
すなわち清澄寺大衆中に「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ」(0893:06)と述べられている。
善無畏三蔵抄には「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき」(0888:09)と仰せである。
虚空蔵菩薩とは、その智慧・功徳・慈悲が虚空のように無尽蔵にあり、すべての衆生が求めるところのものを自在に与える能力を所有するところからこの名があるといわれる。
大聖人が修学のため天福元年(1233)「十二のとし」より登られた千光山清澄寺には、この寺の創建者・不思議法師の刻印と伝えられる虚空蔵菩薩が安置されていた。
その菩薩に「日本第一の知者となし給へ」と祈願されたところ、明星のような智慧の法珠を授かるという不思議な体験をなされたのである。
「其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし」と仰せられているが、これについて日蓮大聖人伝には「この事実は一切衆生を救わんとされる蓮長の誓願と、本然にそなわるところの智慧が内薫してもたらされた法界の妙用」と拝される。
そして修学と思索に努めるなかで、いくつかの不審にぶつかる。それは諸御抄によれば、
①鎮護国家の大法とされた真言密教をもって祈禱しながら、なぜ承久の乱で朝廷側が臣下である鎌倉幕府に敗れ、三上皇が遠島流罪されたのか。祈りとは逆の現象が出ている。
②念仏宗等の行者らが、なぜ臨終に悪相を現ずるのか。
③真言等の諸宗はそれこそ「我が宗こそ仏意にかなえり」としているが、釈尊所説の本意にかなう宗旨は一つであり、最勝の経はただ一経のはずである。
等々の疑念であった。
しかし清澄寺は安房第一の名刹といっても「遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし」(0370:09)という状態で、所蔵の経釈も十分になく、指導を受けるべき学匠もいなかったようであり、師の道善房も「愚癡におはする上念仏者」(0888:18)で、それらの根本的不審を晴らす力は到底なかったのである。
その不審を晴らすべく、鎌倉をはじめ諸国遊学の旅に発たれたのである。延応元年(1239)の春、御年18歳であられた。
そのころの鎌倉は、すでに仏教隆昌の機運が盛んで、諸宗諸派が競い合い、大寺巨刹が相次いで建立されつつあった。
「其の後先ず浄土宗・禅宗をきく」と仰せのように、大聖人が初めに着目されたのは浄土宗と禅宗の法義であった。浄土宗は庶民の間に、禅宗は武士階級に最も盛んに信仰されていたからである。
鎌倉での4年の遊学を終えた後、更に諸宗諸教の勝劣浅深を確かめ、仏法の奥義を見極めるために、仁治3年(1242)21歳の御時、日本仏教の中心ともいうべき比叡山延暦寺へ向かわれたのである。
それはたんに台家を修学するだけではなく、法華一乗の奥旨と経証を確認し、あわせて当時の叡山の実態をありのままに知見するためであった。
更に叡山を、いわば拠点として諸宗の肝要を修学すべく、近国の諸宗の諸寺を歴訪されている。本文に「其の後叡山・薗城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども」といわれているとおりである。
こうして真剣な修学研鑽に精励されたのも、諸宗の法義では「我が身の不審はれがたき上」といわれているように、おおむね予測なされていたこととはいえ、大きな失望を覚えられたことがうかがえる。
修学にあたっては本来の誓願として、次のごとく決意されたことがうかがえる。
①いずれの宗に対しても、偏った執心をもたない。
②いずれの宗であれ、経証が明らかで道理が判然としているものを用いる。
③論師・訳者・人師等の言説によらず、もっぱら釈尊の説いた経文を根本とする。いわゆる依法不依人の金言を依処とされた。
④法門の正邪・勝劣に関しては、たとえ国王の責めを受けても屈しない。迎合しない「其の已下の人」においてはなおさらである。
⑤同様に大恩ある父母・師兄等から翻意を促す教訓があっても用いない。
⑥人々が信ずると否とにかかわらず、ただ真実をありのままに説く。
この御誓言には、仏法者の基本姿勢である「仏説・経典を根本の依処とする」との厳然たる態度が拝される。
既成・新興を問わず諸宗諸派が乱立する現代社会にあっても、正法正義を選択するうえで、これにまさる明快な基準・原理はない。また毅然として揺るぎない正法受持の姿勢を教示されているともいえる。
日蓮大聖人がこの20年間にわたる修学研鑽によって自得されたことは、一つには「後五百歳白法隠没」の的中と「法華最為第一」の確信であった。
つまり叡山は真言の邪義に誑惑されて、開祖伝教大師の本意たる法華一乗の正義を滅失し、真言は歴代天皇の庇護のもと、加持祈祷のみに執して、主師親の三徳具備の釈尊を否定する悪法を世間に定着させつつある。
その他の諸宗はことごとく時機を忘失し、いずれも釈尊の本義に違背している。これらの邪法邪義の横行が一切の災禍の根源であり、安国への道は釈尊出世の本懐たる唯一無上の法華経の広宣流布以外にないということであった。
二つは、大聖人御自身こそ、法華経に予言された本化上行菩薩の再誕であり、法華経の肝要である南無妙法蓮華経を弘通する使命をもつ者であるとの自覚に、深く立たれたと拝される。
諸宗への破折は、過去の像法時代において、正師である天台・妙楽・伝教大師等が、三論宗の嘉祥・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩・南都六宗の碩学等に対して、諸宗は無間地獄の業因として厳しく責め、なかには法華の正義に帰伏した者もいたが、善無畏らの僻見についてはこれまで「いまだ・せむる人なし」だったのである。
ただ、妙楽大師の「記の十の後序」と、伝教大師の「依憑集」のなかに、真言宗を捨てて天台法華宗によるべきことが記述されているが、真言が一宗として成立していなかった時代背景もあり、わずかに勝劣に触れる程度だったのである。
そうした事情から「いまだ・くはしからざればにや」といわれ、そのために「慈覚・智証の謬悞は出来せるか」と、大聖人はその実態を見極められたのである。
妙楽・伝教大師の真言破折
妙楽大師の法華文句記巻十の末の内容というのは、中国真言の三三蔵の一人である不空の弟子含光が、真言宗は天台宗には及ばないと悔いたという話を書き記していることをいわれる。
この含光の話は「宋高僧伝」に大要次のようにでている。
含光は不空三蔵の弟子となり、不空が西域に帰るとき従ったが、後に不空とともに再び中国へ帰った。たまたま妙楽大師と会った時に、西域での求法の状態を尋ねられ「彼の国の僧らは天台の教法を慕っており、『縁があって再びくることがあれば、天台の教法を翻訳して持ってきてもらいたい』と、大変丁重に頼まれた」と答えた。
この含光の内容を、伝教大師は依憑集という書で引用しているのである。
伝教大師は南都六宗を破して、法華経が諸教のうちで第一であることを明らかにしたが、それだけでは世界の人々の疑いを晴らすことができなかったので、延暦23年(0804)に中国に渡り、天台宗の奥義を受け、真言の教義を学んで帰朝し、天皇には法華経の極理を授け、六宗の僧には真言を習わせている。しかし、理同事勝というのは善無畏の誤りであることを以前から見抜いていたので、天台宗が勝れ、真言が劣るということを明らかにして依憑集を著したのである。
この依憑集は依憑天台集といって、天台の義を規範とし、依憑としながら、真言・三論・華厳・法相などの諸宗が仏法の正義からはずれていることを示したものであり、その序文においても「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し、旧到の華厳家は則ち影響の軌模を隠す」と破折している。
この「筆授の相承を泯し」とは、元天台僧であった一行の著した大日経疏は、天台法華宗の立場で大日経を解釈して、大日経と法華経の理は同じものであり、日本の真言宗が大日経第一・華厳経第二・法華経第三と立てることは、この筆授の相承を無視し、背いていることになるとの意味である。もとより大日経疏も誤りだが、弘法はそれに輪をかけて誤りを広げたわけである。
伝教大師はそれのみならず、真言宗の“宗”の一字を削って一宗として認めることはせず、真言を天台の一分科としたのである。
このことについては聖密房御書に「伝教より慈覚たまはらせ給いし誓戒の文には天台法華宗の止観・真言と正くのせられて真言宗の名をけづられたり」(0899:10)と仰せである。
伝教大師が真言宗をはっきり破折しなかったのは報恩抄によると、一つには当時・出世の大事たる大乗別受戒の大戒壇を我が国に建立するため、これをめぐって、諸宗との諍論が激しい時代であったこともあり、真言との争いにかかっていては、大事な目的である円頓戒壇の建立に支障をきたす恐れがあるとかんがえられたのであろうか。天台・真言の二宗の勝劣については、弟子達にもはっきり教えなかったようである。二つには末法の時代に譲られたものと思われる。
第十一章(立教開宗後の諸宗破折を述べる)
かく申す程に年卅二・建長五年の春の比より念仏宗と禅宗と等をせめはじめて後に真言宗等をせむるほどに・念仏者等始にはあなづる、日蓮いかに・かしこくとも明円房・公胤僧上・顕真座主等には・すぐべからず、彼の人人だにもはじめは法然上人をなんぜしが後にみな堕ちて或は上人の弟子となり或は門家となる、日蓮は・かれがごとし我つめん我つめんとはやりし程に、いにしへの人人は但法然をなんじて善導・道綽等をせめず、又経の権実を・いわざりしかばこそ念仏者はをごりけれ、今日蓮は善導・法然等をば無間地獄につきをとして専ら浄土の三部経を法華経に・をしあはせて・せむるゆへに、螢火に日月・江河に大海のやうなる上・念仏は仏のしばらくの戯論の法・実にこれをもつて生死を・はなれんとをもわば大石を船に造り大海をわたり・大山をになて嶮難を越ゆるがごとしと難ぜしかば・面をむかうる念仏者なし。
現代語訳
このようにして日蓮は三十二歳の時、建長五年の春のころから、念仏宗と禅宗を責め始めて、後に真言宗等を攻めたてたのである。念仏者等ははじめは侮って「日蓮がいかに賢くとも、明円房・公胤僧上・顕真座主等には及ぶはずがない。彼の人々さえも初めは法然上人を非難したが、後にはみな法然上人の弟子となり、あるいは門家となったのである。日蓮もそうなるであろう」といって、我も我もと日蓮を難じ詰めようとしたのである。しかし、昔の人々はただ法然を非難して、その源である善導・道綽等を責めず、また経の権実を言わなかったので、かえって念仏者が驕り高ぶったのである。そこで、日蓮は善導・法然等をば無間地獄に突き落とし、浄土三部経を法華経に引き合わせて責めたので、あたかも螢火に日月、江河に大海をつき合せたようなものであった。そのうえ、念仏は仏の方便の教えである。この教えで生死を離れようとするのは、大石で造った船で大海を渡り、大山を背負って嶮しい坂を越えるようなものである、と論難したところ、日蓮に面を向けてくる念仏者は一人もなかったのである。
語句の解説
講義
日蓮大聖人は叡山等で修学を通じて万全の準備をされたうえで御年32歳の建長5年(1253)4月28日、安房国清澄寺で立教開宗された。以来、最初は新興の念仏宗・禅宗を責め、後に真言宗等を破されたのである。大聖人の御化導の順序は、守護国家論、立正安国論など、宗旨建立間もない御書にみられるように、主として念仏宗から始まって禅宗と続き、真言宗に対する全面的な破折は佐渡以降である。
念仏者らは立教当初の日蓮大聖人を侮っていた。それというのも、過去に念仏の教義に伏したといわれる明円房・公胤僧正・顕真座主といった高僧と比べれば、大聖人がいかに才智あるといっても、まだ劣るだろうと過少評価していたからである。
これらの高僧も、最初は浄土宗の開祖・法然に敵対し、念仏を非難したが、後には専修念仏の義に信順するようになったのだから、大聖人も「かれがごとし」と軽視したのも無理なからぬことだったのであろう。
しかし、過去に高僧といわれる人々が念仏を責め切れなかったのは、彼らがただ法然だけを責めて、その本源である中国の善導等の邪見を破らなかったからであり、また浄土三部経と法華経との権実を判じなかったかたである。
日本の念仏宗は、中国の曇鸞・道綽・善導の誤りを受け継いだ源空法然によって弘まった。
念仏の要義である聖道門・浄土門の名目を立てたのは道綽であり、竜樹菩薩の立てた雑行道・易行道を聖道門・浄土門に配したのは曇鸞である。正雑二行を立て、雑行の者は千中無一であり、正行の者は十即十生と唱えたのが善導である。
建久9年(1198)3月、法然がこれらの人師の邪義をすべて取り入れて選択集を完成して発表し、これが専修念仏が国中に弘まっている根源となったのである。
法然の念仏が仏法破壊の邪義であることは、当時の人々も気づいた。ゆえに天台宗の僧等のなかには、これを制止しようと運動した人もいたほどである。また歴代の天皇による念仏停止の宣旨や将軍家の御教書に出されたりした。だが、当時の末法思想と世の混乱からくる無常観・厭世観に乗じ、また先述の明円房等の現出もあってますます弘まり、ついには天皇まで念仏を信じるようになってしまったのである。
この念仏に対して、日蓮大聖人は経文を鏡として、天台大師・伝教大師の用いた教判である権実相対によって、善導等の人師と法然とを一括し、彼らの依経である浄土三部経を方便権教であり、無得道の教えであると師子吼されたのである。
その結果「面をむかうる念仏者なし」と仰せのように、大聖人と対論できる念仏者は皆無となった。
このことは念仏者にかぎらず、あらゆる邪悪な宗教についてもいえることだが、あくまで経文を根本として、元祖である人師論師の誤りを打ちやぶらなければ、その邪法を断つことはできないという原理を教えられたものと拝される。
第十二章(諸宗による迫害の実情)
後には天台宗の人人を・かたらひて・どしうちにせんと・せしかども・それもかなはず、天台宗の人人も・せめられしかば在家出家の心ある人人・少少念仏と禅宗とをすつ、念仏者・禅宗・律僧等我が智力叶わざるゆへに諸宗に入りあるきて種種の讒奏をなす、在家の人人は不審あるゆへに各各の持僧等或は真言師或は念仏者或はふるき天台宗或は禅宗或は律僧等をわきにはさみて或は日蓮が住処に向い或はかしこへよぶ、而れども一言二言にはすぎず・迦旃延が外道をせめしがごとく徳慧菩薩が摩沓婆をつめしがごとく・せめしゆへに其の力及ばず、人は智かしこき者すくなきかのゆへに結句は念仏者等をば・つめさせてかなはぬところには・大名して・ものをぼへぬ侍どもたのしくて先後も弁えぬ在家の徳人等挙て日蓮をあだするほどに・或は私に狼藉をいたして日蓮が・かたの者を打ち或は所ををひ或は地をたて・或はかんだうをなす事かずをしらず、
現代語訳
その後、天台宗の人々を味方にして日蓮と同士打ちをさせようとした者もいたけれども、それもできなかった。天台宗の人々も日蓮に責められたから、在家・出家である人々が少しは念仏宗と禅宗を捨てたのである。
このようにして、念仏者・禅宗・律僧等は自らの智慧では日蓮にかなわないので、諸宗の人々を誘ってさまざまな讒奏をしたのである。
在家の人々は、この不審を晴らそうと、それぞれの帰依する真言師や、あるいは念仏者、あるいは古い天台宗、あるいは禅宗、あるいは律宗の僧をつれて日蓮が住処にきて法論したり、あるいは自分のところへ日蓮を呼んだりした。しかし、彼らは、一言か二言で言葉が詰まってしまうのである。あたかも迦旃延が外道を訶責したように、徳慧菩薩が摩沓婆外道を問い詰めたように破折したので、彼らの力が及ぶことはなかった。
人々のなかに智慧の賢い人が少ないせいか、結局は念仏者等に論議させて日蓮にかなわないときは、名ばかりで道理をも知らない侍等、面白半分で前後を考えない有力者等を誘って、日蓮に怨をしたのである。そうして、あるいはひそかに日蓮の味方を打ったり、あるいは居所を追ったり、あるいは領地を奪ったり、あるいは勘当をしたりすること等が数を知れないのである。
語句の解説
講義
法論では日蓮大聖人にかなはないと知った念仏者らが、在家の有力者をそそのかして大聖人一門に迫害を加えてきたことを述べられている。
まず、日蓮大聖人に摧破された念仏者がその後に画策したことは、天台宗の学者をたぼらかして味方にし、法華経を依経とする大聖人と“同士打ち”させることだったが、この企画も失敗に終わっただけでなく、大聖人から逆に破折された僧侶のなかでも心ある人々は、少々だったが念仏や禅宗を捨てて正法に帰依したのである。
おそらくこの「心ある人人」とは、立宗直後入信した、僧では天台僧だった日昭、俗では富木常忍、四条金吾頼基も含まれていると思われる。
そこで念仏・禅・律等の僧は、自分たちの智力では到底対抗できないので、諸宗の間を渡り歩き、いわば連合して讒奏を試みたのである。
在家の人々は自らの不審を晴らそうとして、それぞれが諸宗の僧などを伴い味方にして、大挙して大聖人の草庵に押し寄せ、あるいは呼び寄せるなどして、問答対論し、大聖人を摧破しようとしたが、かえって「一言二言」で、大聖人によって打ち破られてしまったのであった。
そのありさまは、あたかも釈尊十大弟子の一人で、議論第一といわれた迦旃延が外道を責めたように、また5世紀ごろ、南インドの学僧で、唯識十大論師の一人といわれた徳慧菩薩が摩沓婆を論破したように、実に明快痛烈なものだったから、彼らのもくろみも挫折し失敗に終わったのである。
そこで結局は暴力を頼ることになり、厚顔無恥で貞操のない者達を誘って、なりふりかまわず、寄ってたかって大聖人に迫害を加えたのである。
しかも「私に狼藉をいたして」といわれるように、ひそかに乱暴して大聖人門下を打ったり、あるいは住居を追ったり、あるいは所領を奪ったり、あるいは勘当したりするなど「かずをしらず」というほどの狼藉が相次いだのである。
第十三章(松葉ヶ谷法難・伊豆流罪を述ぶ)
上に奏すれども人の主となる人は・さすが戒力といゐ福田と申し子細あるべきかとをもひて左右なく失にも・なされざりしかば・きりものども・よりあひてまちうど等をかたらひて数万人の者をもつて夜中にをしよせ失わんとせしほどに・十羅刹の御計らいにてやありけん日蓮其の難を脱れしかば・両国の吏・心をあわせたる事なれば殺されぬを・とがにして伊豆の国へながされぬ、最明寺殿計りこそ子細あるかとをもわれていそぎゆるされぬ。
現代語訳
また日蓮を幕府に訴えたけれども、さすがに人々の主君となって政治を執る人は、威徳といい、福徳といい、何か子細あるにちがいないと思われて、軽率に処刑されることがなかったのである。そこで権力を誇る人々が寄り集まり、町人等を集めて、数万人の人々が夜中に草庵に押しかけ、日蓮を殺そうとしたのである。しかし十羅刹の御計らいであろか、日蓮はその難をのがれたのである。そこで、相模と伊豆の両国の役人等が示し合わせ、日蓮が殺されなかったことをとがにして伊豆国に流罪したのである。しかし最明寺殿だけは、この流罪は何か子細あると思われて、二年後には赦されたのである。
語句の解説
講義
念仏者が幕府に働きかけて大聖人を弾圧しようとしたが、用いられなかったので暴徒をかたらって松葉ヶ谷の御草案を襲ったこと、その後、ようやく大聖人を流罪したが、時頼がこれを赦免にした経緯について述べられている。
「上に奏すれども」とは、大聖人が立証安国論を上呈されたことに対し、念仏者らが大聖人を処刑するよう幕府に意見を具申したことであろう。
「人の主となる人」とは北条時頼のことである。時頼は康元元年(1256)11月に第5代執権の地位を退いて最明寺に出家し、最明寺入道と呼ばれていた。
第6代執権には北条長時がついたが、実質的な権力は、依然として得宗である時頼が握っていたのである。
時頼はさすがに他者とは異なり讒奏があっても、胸中では「子細あるべきかとをもひて」軽率に刑罰には踏み切らなかったのである。
そこで「きりものども・よりあひてまちうど等をかたらひて」と仰せのように、権力者や町人等が寄り集まり、大聖人を亡き者にしようと、松葉ヶ谷の草庵を襲撃したのである。文応元年(1260)8月27日夜の松葉ヶ谷の法難がそれである。
その「きりものども」とは、執権北条長時の父・極楽寺入道重時であり、大仏朝直などの権力者だった。特にその中心人物でる重時は、信仰上、大聖人に怨恨を抱いていたのみでなく、安房国東条郷の地頭・東条景信に通じており、景信からも大聖人の悪口を耳にしていたと考えられる。
夜のしじまを破って松葉ヶ谷の草庵に殺到した念仏者たちは、その数「数万人」と表現されるほどの大勢であった。
しかし「日蓮が未だ生きたる不思議なり」(0355:07)と仰せのように、大聖人を殺害することはできなかった。大聖人はおそらく名越の山道を通って難をさけられたのであろう。
このように大勢の暴徒によって、殺害を目的として襲われた場合、生きて脱出することは至難だったであろう。
それゆえに本文で「十羅刹の御計らいにてやありけん日蓮其の難を脱れし」と仰せになっているのである。
下総の富木常忍は、草庵襲撃の知らせを聞き、急いで使いの者を派遣し、海路、大聖人を葛飾郡八幡庄の自邸にお迎えしたといわれる。
松葉ヶ谷の草庵襲撃によって、日蓮大聖人は亡くなられたものと鎌倉の人は思っていた。ところがその大聖人が再び鎌倉へ戻られて弘経を開始されたのである。
執権長時は、今度は自らが命じて大聖人を捕えて、理不尽にも伊豆流罪を決定したのである。「長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」と、大聖人は仰せになっている。
長時は、大聖人を伊豆流罪にする法的根拠を、おそらく「貞永式目」の第12条「悪口の咎の事」に求めたと思われる。しかしその条文は所領の訴訟に関するものであり、告訴者と被告訴者との間の悪口に対して定めたものであった。
「理不尽の政道出来す」(0351:18)「御式目をも破らるるか」(0355:08)といわれているとおり、全くおのれの都合のいいように法を解釈したものだった。
いずれにせよ、伊豆流罪は憎悪から発した処置だったことは確かである。
流罪の日は、弘長元年(1261)5月12日、大聖人40歳であられた
伊豆流罪は1年9ヵ月後の弘長3年(1263)2月22日、北条時頼の処置によって赦免状が発せられた。
もともと伊豆流罪は北条重時・長時父子と念仏者らの策謀による全くの冤罪であったが、その張本人である極楽寺重時は、大聖人を流罪に処した翌月、にわかに病に倒れ、夜ごと発作が高じて発狂状態となり、弘長元年(1261)11月、64歳で死んでいる。この重時の狂死した事実を幕府は深刻に受け止めざるをえなかったであろう。また時頼自らが赦免の処置をとったことを「最明寺殿計りこそ子細あるかとをもわれていそぎゆるされぬ」と仰せになっている。
第十四章(忍難弘通の御覚悟を述ぶ)
さりし程に最明寺入道殿隠れさせ給いしかば・いかにも此の事あしくなりなんず、いそぎかくるべき世なりとは・をもひしかども・これにつけても法華経のかたうど・つよくせば一定事いで来るならば身命を・すつるにてこそ・あらめと思い切りしかば讒奏の人人いよいよ・かずをしらず、上下万人・皆父母のかたきとわりをみるがごとし、不軽菩薩の威音王仏のすへにすこしもたがう事なし。
現代語訳
そのうちに最明寺入道殿が死去されたので、日蓮に不利になるであろうから、早く山林に退こうとも考えたが、むしろ、ますます強く法華経の味方ををするならば、必ず大きな難が起こるであろうから、そのときに身命を捨てることにしようと心に決めたのである。すると、讒奏する人はますます増え、上下万人のあらゆる人々が日蓮を父母の敵か、あるいはとわりのように憎むようになった。そのありさまは不軽菩薩が出現した威音王仏の末世と少しも違うことはなかった。
語句の解説
講義
大聖人にやや理解を示したかに思われた北条時頼も、弘長3年(1263)11月、37歳で世を去った。
「いかにも此の事あしくなりなんず」といわれているのは、時頼なきあと政道の悪化にともなう険悪な情勢を憂慮されたということであろう。
翌文永元年(1264)8月には、長時も35歳の若さで死去し、次の執権には当時60歳で長老格であった北条政村がついている。
長時と政村は、時頼の子・時宗が成長するまでの、いわば、中継ぎの役割といった立場で執権についたようで、文永5年(1268)時宗が18歳になると、政村は執権職を時宗に譲っている。
時頼死後の情勢悪化を見抜かれた大聖人は「いそぎかくるべき世なりとは・をもひしかども」と、ふつうの人間なら頓世を考えたであろうけれども、と仰せられ、ますます強盛に法華経の「かたうど」をして弘めていこう、それによって「一定事いで来るならば」と、大難は必定であるから、そのために身命を捨てることこそ本望であると覚悟されたことを述べられている。
それは法華経勧持品に「諸の無智の人の、悪口罵詈し、及び刀杖を加うる者有らん」「国王大臣・婆羅門居士及び余の比丘衆に向つて、誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん」「数数擯出せられ塔寺を遠離せん」等と、末法の法華経の行者への三類の強敵による値難が説かれているからである。
日蓮大聖人にとって、難に遭うことはとりもなおさず法華経を身読することであり、御自身が末法の法華経の行者であるとの証明にほかならない。
それゆえに、勧持品の「我身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ」、寿量品の「自ら身命を惜しまず」の経文にまかせて、法華経の忍難弘通の戦いを断固進められる御覚悟を「身命を・すつるにてこそ・あらめと思い切」ったと仰せられている。
はたせるかな「讒奏の人人いよいよ・かずをしらず、上下万人・皆父母のかたきとわりをみるがごとし、不軽菩薩の威音王仏のすへにすこしもたがう事なし」と述べられている。
不軽菩薩の威音王仏のすへ
不軽菩薩とは法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている菩薩で、正しくは常不軽菩薩という。
同品によると、威音王仏の滅後、像法時代の末に出現し悪口罵詈、杖木瓦石の迫害にあいながらも、一切衆生に仏性が具わっているとして「二十四文字の法華経」すなわち「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず、所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と説いて、一切衆生を礼拝した。常にあらゆる人々を軽んじなかったので常不軽と呼ばれた。釈尊の過去世の姿の一つとされる。
また不軽を軽賤し、迫害を加えた者はその罪によって一度は地獄に堕ち、大苦悩を受けたが、再び不軽の教化にあい、救われた、釈尊はこの不軽菩薩の修行を通し、滅後弘教の方軌と逆縁の功徳を示したのである。
「不軽菩薩の威音王仏のすへにすこしもたがうことなし」との仰せは、不軽菩薩を迫害した、威音王仏の像末の人々のありさまと少しも変わりがないという意味である。日蓮大聖人は御自身の実践が正しいことの証拠として、この不軽の姿との合致をしばしば強調される。顕仏未来記にも「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(0507:06)と仰せであり、そこには、大聖人こそ末法の法華経の行者であり、大白法を建立して弘通される御本仏であるとの大確信が込められているのである。