刑部左衛門尉女房御返事 第二章(親の深愛を述べて孝養を教える)

 今日蓮案じて云く此の経文は殊にさもやとをぼへ候、父母の御恩は今初めて事あらたに申すべきには候はねども・母の御恩の事殊に心肝に染みて貴くをぼへ候、飛鳥の子をやしなひ地を走る獣の子にせめられ候事・目もあてられず魂もきえぬべくをぼへ候、其につきても母の御恩忘れがたし、胎内に九月の間の苦み腹は鼓をはれるが如く頚は針をさげたるが如し、気は出づるより外に入る事なく色は枯れたる草の如し、臥ば腹もさけぬべし坐すれば五体やすからず、かくの如くして産も既に近づきて腰はやぶれて・きれぬべく眼はぬけて天に昇るかとをぼゆ、かかる敵をうみ落しなば大地にも・ふみつけ腹をもさきて捨つべきぞかし、さはなくして我が苦を忍びて急ぎいだきあげて血をねぶり不浄をすすぎて胸にかきつけ懐きかかへて三箇年が間慇懃に養ふ、母の乳をのむ事・一百八十斛三升五合なり、此乳のあたひは一合なりとも三千大千世界にかへぬべし、されば乳一升のあたひを撿へて候へば米に当れば一万一千八百五十斛五升・稲には二万一千七百束に余り・布には三千三百七十段なり、何に況や一百八十斛三升五合のあたひをや、他人の物は銭の一文・米一合なりとも盗みぬればろうのすもりとなり候ぞかし、而るを親は十人の子をば養へども子は一人の母を養ふことなし、あたたかなる夫をば懐きて臥せどもこごへたる母の足をあたたむる女房はなし、給孤独園の金鳥は子の為に火に入り・憍尸迦夫人は夫の為に父を殺す、仏の云く父母は常に子を念へども子は父母を念はず等云云、影現王の云く父は子を念ふといえども子は父を念はず等是れなり、設ひ又今生には父母に孝養をいたす様なれども後生のゆくへまで問う人はなし母の生てをはせしには心には思はねども一月に一度・一年に一度は問いしかども・死し給いてより後は初七日より二七日乃至第三年までは人目の事なれば形の如く問い訪ひ候へども・十三年・四千余日が間の程は・かきたえ問う人はなし、生てをはせし時は一日片時のわかれをば千万日とこそ思はれしかども十三年四千余日の程はつやつやをとづれなし如何にきかまほしくましますらん夫外典の孝経には唯今生の孝のみををしへて後生のゆくへをしらず身の病をいやして心の歎きをやめざるが如し内典五千余巻には人天二乗の道に入れていまだ仏道へ引導する事なし。

 

現代語訳

今日蓮が思案してみるに、この経文は、ことに、その通りであろうと思われる。父母の恩がいかに大きいかは今さら事新しくいうまでもないが、母の恩については、殊に心肝にそめて貴く感じている。飛ぶ鳥が子を養い、地を走る獣でさえも子を育てるのに苦心しているのは、直視するにたえず、あまりの痛ましさに気も遠くなりそうである。これらをみるにつけても、母の恩は忘れがたい。子が胎内にいる九か月の間の苦しみは、腹は鼓をはったようであり、頸は針をさげたようである。呼吸ははく一方で吸いこめず、顔色は悪く、枯れ草のようになる。臥せれば腹が裂けそうに思われ、坐れば身体中が苦しい。このようにして、お産が近づけば、余りの痛さに腰は破れて切れてしまいそうであり、眼はぬけて天に昇るかと思われる。このように苦しい目にあわせる敵を産み落としたならば大地にふみつけ、腹をさいて捨ててもかまわないであろうに、そうはせずに、自分の苦しみを忍んで、急いで抱きあげて、血をぬぐいとり、不浄のものを洗いおとし、胸にかきあげ懐きかかえて三か年の間、心をこめて養うのである。その間に、子が母の乳をのむその量は百八十斛三升五合である。この乳の値はたとえ一合といえども三千大千世界に値するほど貴重なものである。そこで乳一升の値をかんがえてみるならば、米に当てはめれば一万一千八百五十斛五升、稲ならば二万一千七百束よりも多く、布ならば三千三百七十段となる。まして百八十斛三升五合の値はあまりに膨大である。

他人の物は、たとえ銭一文、米一合であっても盗むならば牢に入れられるのである。ところが親は十人の子を養っても、子は一人の母親を養うことはない。また、嫁してあたたかな夫を懐いて寝るとも、凍えた母親の足をあたためる女房はいない。

昔、給孤独園の金鳥は子をたすけようとして火の中に入り、憍尸迦夫人は、夫のために父を殺してしまった。仏は「父母は常に子供のことを念っているが、子供は父母のことを念わない」といわれている。また、影現王が「父は子を念っているが子は父のことを念わない」等と説いているのもこのことである。

たとえまた、今生では父母に孝養を尽くしているようではあっても、後生の行方まで問う人はいない。母が生きている時には心にはそれほど思いやることがなくとも、一月に一度、一年に一度は母のもとを訪れるであろうが、亡くなってからは、初七日から二七日、乃至は三年目までは人目もあることなので形式だけでもとぶらうであろうが、十三年・四千余日にもなると、絶えてとむらう人はない。母にとって、生きている時は、一日片時の別れでも千万日の長い別れのように思われたのが、死んでのちは、一日ならず十三年四千余日の間、いっこうに訪れる人もない。亡き母はどれほど「生きている者はどうしているだろう」と聞きたく思っていらっしゃるであろう。

外典の孝経にはただ今生の孝養のみを教えて、後生の行方を説いていない。それは、身の病を癒しても、心の苦悩を癒さないようなものである。仏典の五千余巻には、人・天や、声聞・縁覚の二乗の道には入れても、いまだ仏道へ導き入れないのであるから、真の孝養が説かれているとはいえない。

語句の解説

給孤独園の金鳥

「給孤独園」とは祇樹給孤独園精舎の略で、祇園精舎のこと。須達長者が釈尊のために舎衛城の南に建てた説法道場、「金鳥」は雉のことと思われる。金色の羽毛があるので金鳥という。雉は火のために巣を焼かれるとき、いったんは驚いて飛び出すが、子を思ってまたも火中に入り、子とともに焼死するといわれる。これは、大唐西域記第六巻、大智度論第十六巻等に、釈尊が生前に雉王となって、インド拘尸那城の近くの大森林に野火が起こったときに、その羽根を清流に浸して、その火を消し、自分の生命を賭して、火林のなかの眷属を救ったという話があり、この物語が転用されたものであろう。

 

憍尸迦夫人

帝釈天を憍尸迦といい、憍尸迦女とは帝釈天の妃・舎脂夫人のことで、阿修羅王の娘である。観仏三昧海経巻第一に、帝釈が婇女と共に歓喜園の池に入って遊戯しているのを見て、舎脂夫人が嫉妬心を起こし、父の阿修羅に訴えた。このため阿修羅は怒り、帝釈と大戦闘を引き起こしたが、かえって阿修羅は耳鼻手足を失い、驚怖して蓮の孔の中に身を小さくして隠れたとある。

 

影現王

摩伽陀国王、王舎城主、頻婆舎羅王のこと。影勝・顔色端正などと訳す。深く釈尊に帰依し、日々五百輌の供養を数年の間贈る等、仏と仏弟子を供養した。提婆達多はこれをねたみ、阿闍世太子をそそのかし父王である頻婆舎羅王を幽閉した。仏教を信ずる心の深い王はいささかも恐懼せず、かえって阿闍世の大不孝を悲しみ、これを教誨したが、怒った阿闍世は王の食を断ったため死んだ。

 

孝経

中国の儒教倫理の根本である孝について説いた書物。孔子とその門弟曽子とが交わした対話の様式をとり、孝の意義、人倫の方途について述べている。十三経の一つとして論語とともに初学者必修の書として尊重されている。

講義

本章は父母の恩の中にも、とりわけ母親の恩の深いことを懐胎・出産・幼児の保育と具体的に述べられている。その母の苦労に対して子は孝養の心さらになく、かえって父母を殺害する者もいる、また父母の死後を葬う者も、年がたつにつれて少なくなり、母の死後13年にもなれば、その法要をする者が殆どない。刑部左衛門尉女房が母の13回忌の供養をされたことを賞でられ、それにつけても外道や爾前経に於いては真の孝養にならない事を教示されている。

 

外典の孝経には唯今生の孝のみををしへて後生のゆくへをしらず

 

外典である孝経は父母に対する今生における孝養を説いているのみで、父母の後生への孝養は説いていない。すなわち、三世にわたる生命の本質が説かれていないことを指摘されている。

孝経は中国の封建社会における家族関係を確立することを目的として説かれたものである。子の親に対する物質的孝養とともに、とくに精神的孝養を重んじ、孝道によって家をととのえることが、治国の根本であると説くのである。

子の親に対する物質的孝養とは、親に対して、衣食住の施しをすることで、仏教で説く三種の孝養の最も低い下品の孝養にあたる。また精神的孝養とは、親の意にさからわない、親のいうなりに随っていくことをいい、仏教で説く中品の孝養である。

たしかに、物質的にも精神的にも親に孝をつくすことは大事なことであり、子として当然のことかも知れない。しかし、どんなに親に物を施しても意にさからわずつくしても、それは今世かぎりのことである。しかも、今世においてさえも真の親の救いにはならない。根源的に親の持つ苦悩は救いようがないからである。三世の生命、すなわち永遠の生命を説くことのない外道においては、生命の根源にふれた孝行を説くことができなかったのである。それゆえ、「今生の孝のみををしへて後生のゆくへをしらず」というのが孝経の実体である。大聖人は千日尼御前御返事においても「悲母の大恩ことに・ほうじがたし、此れを報ぜんと・をもうに外典の三墳・五典・孝経等によて報ぜんと・をもへば現在を・やしないて後世をたすけがたし」(1311:15)と説いている。

現在をやしなうことはできても、後生、来世までは救うことができないとおおせなのである。開目抄にも「儒家の孝養は今生にかぎる未来の父母を扶けざれば外家の聖賢は有名無実なり」(0223:10)とあり、その聖賢は何故有名無実であるかといえば、同抄に、過去・未来に亘る永遠の生命観の欠如を「此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし」(0186:12)と説かれているのによってわかる。来世までをも救うことのできる孝養こそ真の孝養であり、それは、外道である孝経によっては望むことのできないものである。仏教で説く上品の孝養は功徳を回向することで、親を正法に帰依させることである。これこそ永遠の財産だからである。亡くなった親に対しても題目を回向することは、同じ原理である。

 

内典五千余巻には人天二乗の道に入れていまだ仏道へ引導する事なし

 

仏教は外道に対すれば孝養を説いたことになるが、これは内外相対した一応の立場であり、さらに爾前の四十余年の経教には真の成仏の道は明かされていないので、これまた、権実相対して真の孝養の教えでないことを述べられた文である。

このことは上野殿御返事(1563)にも「内典五千余巻又他事なし・ただ孝養の功徳をとけるなり、しかれども如来四十余年の説教は孝養ににたれども・その説いまだあらはれず・孝が中の不孝なるべし」(1563:09)とある。

ここで両文にある内典五千余巻についてみると、上野殿御返事の文では釈尊一代五十年の経教の全てをさしており、そのなかで、爾前経が不孝の経ということであるが、本抄の内典五千余巻というのは、法華経を除いた爾前経のみをさしている。しかし文全体の意味は全く同じである。

さらに「人天二乗の道に入れて」とあって菩薩道の名はあげられていない。それは真の菩薩道は仏法に通ずるものであるから、「仏道に引導する」ということの中に含まれるのである。しかし、爾前の菩薩道にとどまっている限り、それは人天二乗の域を出るものではない。爾前にも成仏ということは説かれているのに「いまだ仏道へ引導する事なし」とあるのは、爾前の成仏は真実の成仏でないからである。

十法界事に「爾前の諸経に二事を説かず謂く実の円仏無く又久遠実成を説かず故に等覚の菩薩に至るまで近成)を執する思い有り此の一辺に於て天人と同じく……」(0417:12)とある。爾前の諸菩薩は十界互具の円仏を知らず、久遠実成の本仏を知らずに、釈尊の始成正覚の姿をもって仏としているので、天人と同じように迷っているのである。ゆえに爾前の菩薩は、菩薩といっても「人天二乗の道」に含まれてしまうのである。

次に爾前の成仏は真の成仏でないことは先に挙げた御文でもわかるが、同文の下には「爾前の諸経には……菩薩の成仏を明す故に実報・寂光を仮立す然れども菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏すべからざるなり」(0421:08)とあるとおり、爾前経の成仏は真実でないことがわかる。十界互具の原理からいって菩薩にも二乗を具すのであるが、爾前経では二乗は永不成仏と嫌われて成仏を許されないのであるから、菩薩の成仏もあり得ないことになるのである。

このように爾前経には成仏の教えがなく、したがって真の孝養も説かれていないのである。

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