要文
日蓮は日本第一の法華経の行者、蒙古国退治の大将たり。「一切衆生の中において、またこれ第一なり」とは、これなり。
西戎・大蒙古国の簡牒のことについて、鎌倉殿その外へ書状を進ぜしめ候。日蓮去ぬる文応元年の比勘え申せし立正安国論のごとく、毫末ばかりもこれに相違せず候。このこと、いかん。
長老忍性、速やかに嘲弄の心を翻し、早く日蓮房に帰せしめ給え。もししからずんば、「人間を軽賤する者」「白衣のために法を説く」の失脱れ難きか。「法に依って人に依らざれ」とは、如来の金言なり。
良観聖人の住処を法華経に説いて云わく「あるいは阿練若に、納衣にして空閑に在る有り」。阿練若は無事と翻ず。いかでか、日蓮を讒奏するの条、住処と相違せる。しかしながら三学に似たる矯賊の聖人なり。僭聖増上慢にして、今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定なり。いささかも先非を悔いなば、日蓮に帰すべし。
この趣、鎌倉殿をはじめ奉り、建長寺等その外へ披露せしめ候。詮ずるところ、本意を遂げんと欲せば、対決にしかず。
即ち三蔵浅近の法をもって諸経中王の法華に向かうは、江河と大海と、華山と妙高との勝劣のごとくならん。蒙古国調伏の秘法、定めて御存知有るべく候か。
日蓮は日本第一の法華経の行者、蒙古国退治の大将たり。「一切衆生の中において、またこれ第一なり」とは、これなり。
文言多端なれども、理を尽くす能わず。しかしながら省略せしめ候。恐々謹言。
文永五年戊辰十月十一日 日蓮 花押
謹上 極楽寺長老良観聖人御所
背景と大意
この書簡は極楽寺の良寛に宛てた11通の諌めの手紙のうちの1通です。 忍性としても知られる良寛は、戒律の厳格な遵守と真言宗の難解な教えの遵守を主張した高名な僧侶、叡尊の弟子でした。 1261年、良寛はその後鎌倉に定住し、支配者・北条家とのつながりを育みました。 1267年、鎌倉幕府の高官・北条重時が建立した極楽寺の住職に就任しました。 良寛は、大聖人とその門徒に対する迫害において、裏の役割を果たしました。
現代語訳
西方の野蛮人である偉大なモンゴル帝国から届いた公式書簡に関して、私は謹んで摂政、鎌倉殿、およびその他の関係者に書簡を提出しました。 すべては、文応元年(1260年)頃に書いた私の論文『天下泰平の正教確立について』(立正安国論)で予言した通りに、少しの相違もなく起こりました。
これについてどう思いますか? 忍性・長老よ、野次を飛ばすような態度はやめて、急いで日蓮聖人を信じるべきです! そうしないと、「全人類を軽蔑し、見下している」と同時に、「白衣を着た俗人に正法を説いている」という罪を犯すことになります。
「人に頼らず、法に頼りなさい」は、釈迦牟尼仏が私たちに与えてくださった黄金の言葉です。 しかし、良寛・聖人は、法華経の言葉「あるいはつぎはぎのぼろ布を着て隠遁生活を送る森の僧侶がいるだろう」という法華経の言葉で描写されている人たちの一人であるように思われます。「 森」とは「平和で静かな場所」という意味です。 では、なぜあなたは自分の住居を日蓮に対する誹謗中傷の発信場所にするのでしょうか。 あなたは、戒律、瞑想、智恵の三種の学問を騙る、裏切り者の「賢者」にすぎません。 偽物の賢者、傲慢な人、あなたは今生で必ず国家反逆者としてマークされ、来世では地獄に落ちるでしょう。 しかし、過去の悪行に少しでも悔いがあれば、日蓮を信じに来てください。私は摂政、鎌倉殿、建長寺やその他の寺院の住職に手紙を書き、この問題についての私の見解を伝えました。 実際のところ、私の当初の意図が実現されるためには、私たち全員が公開討論会に集まることより良い解決策はないと思います。
大蔵経の教えの浅薄な教えは、相対的価値や優位性という点で言えば、諸経の王である法華経に比べれば、大海に対する小川、須弥山に対する華山のようなものです。
モンゴル民族を征服する秘法を知っていますか? 私、日蓮は、日本全国における法華経の第一の行者であり、蒙古軍を破ることができる偉大な将軍です。なぜなら、法華経にあるように、「この経を受け入れて支持する者は一切衆生の中で最大一です」だからです。
まだまだ言いたいことはたくさんありますが、ここですべてを説明することは不可能ですので、これ以上の議論は省略します。
深い敬意を表しつつ、
日蓮