富木入道殿御返事(願望仏国の事)

富木入道殿御返事(願望仏国の事)

文永八年十一月    五十歳御作   於佐渡塚原

 

第一章 佐渡の近況を伝える

  此比は十一月の下旬なれば相州鎌倉に候し時の思には四節の転変は万国皆同じかるべしと存候し処に此北国佐渡の国に下著候て後二月は寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒を現身に感ず、人の心は禽獣に同じく主師親を知らず何に況や仏法の邪正・師の善悪は思もよらざるをや、此等は且く之を置く。

 

現代語訳

 このごろは十一月の下旬であるから、相模国の鎌倉に居た時には、季節の移り変わりはどこの国でもすべて同じであると思っていたが、この北国・佐渡の国に来てから二か月の間、寒風がしきりに吹き、霜や雪が降らない時はあっても太陽の光を見る日はない。八寒地獄の苦しみを現身に感じている。そのうえ、佐渡の人々の心は禽獣のようで主君や師匠、親をも弁えない。ましてや仏法の邪正、それを弘める師匠の善悪などは思いもよらないことである。これらのことはしばらくおくことにしよう。

 

語釈

 相州鎌倉

相模国(神奈川県)を相州という。州は国と同意で、国名を略称するときに州を用いる。鎌倉は源頼朝が幕府を開いた地で、北条家が引き継いだ地名。

 

四節

春夏秋冬の四季に対して、春から夏へ変わる時、夏から秋に変わる時等を四節という。

 

佐渡の国

新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(127110月~文永11年(12743月までである。

 

八寒

八寒地獄のこと。八種の極寒の地獄のこと。涅槃経巻十一には阿波波地獄・阿吒吒地獄・阿羅羅地獄・阿婆婆地獄・優鉢羅地獄・波頭摩地獄・拘物頭地獄・芬陀利地獄の八種が説かれている。この中の前の四地獄はあまりの寒さのため阿波波・阿吒吒・阿羅羅・阿婆婆と悲鳴を発することによる。後の四地獄は極寒のために身体が裂けて優鉢羅・波頭摩・拘物頭・芬陀利のようになるということから名づけられた。

 

禽獣

鳥と獣のこと。道理や恩義をわきまえない人にたとえる。

 

主師親

一切衆生は、みな親によって生を受け育てられる。師匠によって智をみがき、主人によって養われ、人生の意義をあらしめることができる。民主主義の現代には、主とは社会を意味する。

 

講義

 本抄は、日蓮大聖人が佐渡に着かれたあと、最初に出されたお手紙である。大聖人は文永8年(12711010日に依智をたち、21日に寺泊へ着かれたあと28日に佐渡に上陸、111日に塚原の三昧堂へ落ち着かれている。その後、身辺の整理をされ、安否を案じているであろう鎌倉の弟子檀那のことを思われ、また塚原三昧堂が狭いので同行した人の中から若干の人数を帰されるにともなって、1123日、本抄を認められたものと推察される。御真筆は存していない。

佐渡へ渡られる直前の「寺泊御書」にせよ、本抄にせよ、ともに富木常忍に消息を寄せられていることから、大聖人がいかに信頼を厚くしておられたかが拝せられる。佐渡で重要な法門書を著されるにあたって必要となる資料収集を富木常忍に託していることにも、いかに頼りとされていたかが推し量られる。

本抄は短いお手紙ではあるが、佐渡の厳しい状況がさりげなく示され、淡々たる表現のゆえに、かえって艱難のさまが思いやられる。そのなかで、死を覚悟されながら、法華経身読の喜び、天台・伝教を超える、末法御本仏としての御境界を顕されていることが拝せられる。

 

此北国佐渡の国に下著候て後二月は寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし

 

大聖人は1028日に佐渡に入られているから、この時は足かけ二か月になる。とくにこの季節は、西高東低の冬型気圧配置によって、日本海側は曇り、降雪の多い時である。安房、鎌倉と太平洋側に住まわれていた大聖人にとって、晴れた日の多い冬のイメージを一変させる天候の日々は、やはり少なからぬ驚きであられたろう。「日の光をば見ることなし」の御記述にも、それが察せられる。

佐渡の冬は厳しい。全島が雪に覆われる自然現象もさることながら、塚原の三昧堂は屋根は破れ壁は崩れた荒れはてた廃屋であり「八寒を現身に感ず」のさりげない表現のなかに、風雪にさらされながら、読経・唱題、御書の執筆にあたられる過酷な環境の模様が拝せられる。

地獄といえば、焦熱に焼かれる八大熱地獄を思い浮かべるが、寒苦に責められる八寒地獄も、極苦であることは疑いない。釈尊の九横の大難のなかにも寒風索衣が挙げられている。しかしこれは冬至のころ、八夜のあいだ寒風が吹きすさんだため三衣を索めて寒さを防がなければならなかったというもので、インドでのことであり、はるかに酷寒である佐渡における大聖人の越冬とは比べものにならないことはいうまでもない。

 

人の心は禽獣に同じく主師親を知らず何に況や仏法の邪正・師の善悪は思もよらざるをや

 

佐渡の人々の当時の民度の低さをいわれている。「禽獣におなじく」とは、十界論でいえば畜生道である。「癡は畜生」とあるごとく、倫理・道徳をわきまえず、本能的に行動する状態であり、主人・師匠・親を尊ぶという、人間としての規範をすらわきまえない生命である。

まして、その仏法のなかでの正邪の別、仏法を説く師にも、正しい教えを説く善師と、外見はよくても内心は邪であり、人々に悪法を説いて不幸をもたらす悪師を見分けることなどは、思いもよらない状態なのである。

もとより、これは佐渡ばかりのことではない。鎌倉でも同じであった。それゆえにこそ、大聖人はこのような大難にあわれたのである。

むしろ、大聖人が佐渡に流罪人として来られたがゆえに、佐渡の人々が流罪人だから悪いにきまっているとか、鎌倉の人達が悪いといっているから悪僧にちがいないとかの次元で、大聖人を敵視していたことを、このように言われたとも考えられる。またべつの味方をすれば、佐渡の人々は当時文化的に進んでいた鎌倉の人々に較べて純朴であったから、感情を露骨に表現したということであったかもしれない。しかし、一応、「此等は且く之を置く」といわれている。

 

 

 

第二章 末法適時の果報を喜ぶ

  去十月十日に付られ候し入道・寺泊より還し候し時法門を書き遣わし候き推量候らむ、已に眼前なり仏滅後二千二百余年に月氏・漢土・日本・一閻浮提の内に天親・竜樹内鑑泠然外適時宜云云、天台・伝教は粗釈し給へども之を弘め残せる一大事の秘法を此国に初めて之を弘む日蓮豈其の人に非ずや。
  前相已に顕れぬ去正嘉の大地震前代未聞の大瑞なり神世十二・人王九十代と仏滅後二千二百余年未曾有の大瑞なり神力品に云く「仏滅度の後に於て能く是の経を持つが故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず」等云云、「如来一切所有之法」云云、但此の大法弘まり給ならば爾前迹門の経教は一分も益なかるべし、伝教大師云く「日出て星隠る」云云、遵式の記に云く「末法の初西を照す」等云云、法已に顕れぬ、前相先代に超過せり日蓮粗之を勘うるに是時の然らしむる故なり経に云く「四導師有り一を上行と名く」云云又云く「悪世末法時能持是経者」又云く「若接須弥擲置他方」云云。

 

現代語訳

さる十月十日に日蓮に付けられた入道を寺泊から還した時に書き送った法門で推量されたであろうが、大法興隆はすでに眼前の事実なのである。仏滅後二千二百余年の間に、インド、中国、日本、そして一閻浮提の内で「天親、竜樹は内鑑冷然にして、外には時の宜しきに適う」とあり、天台大師、伝教大師は少しはこの大法を釈されたが、弘められなかった。こうした人々が弘通されずに残された一大事の秘法を、この日本国に初めて弘通するのである。日蓮こそ、その弘通の人ではないだろうか。

前相はすでに顕れている。正嘉元年(1257)の大地震は前代未聞の大瑞であった。それは神の世十二代、人王九十代、仏滅後二千二百余年の間にかつてなかった大瑞である。

法華経神力品第二十一には「仏の滅後に、能くこの妙法を持つが故に、諸仏は皆歓喜して無量の神力を現ずる」と説かれ、また「如来の一切の所有するところの妙法を上行菩薩に付嘱する」と説かれている。この大法が弘まったならば、爾前経や迹門の経教は一分も利益がなくなるのである。伝教大師は「日が出て星は隠れる」といい、遵式の南獄禅師止観序には「末法の初め西を照らす」と述べられている。

大白法はすでに顕れたのである。その仏法出現の瑞相は先代を超越している。日蓮このことを勘えるのに、大法が弘まる時がきたためである。従地涌出品第十五には「地涌の菩薩には四導師がいる。その第一を上行という」と、また分別功徳品第十七では「悪世末法の時、能くこの経を持つ者」とあり、見宝搭品第十一には「若し須弥山を接って他の世界に擲げ置くことより、この法華経を持つことは難しい」と説かれている。

 

語釈

入道

仏門・仏道に入ること。本来は出家と同義。日本では平安時代から在家のままで剃髪した人を入道といい、僧となって寺院に住む人と区別するようになった。

 

寺泊

新潟県長岡市寺泊に。佐渡航路の師始発点。北陸道の終点にあたる港町・宿場。

 

仏滅後二千二百余年

釈尊の入滅は(一説によれば)西暦前0949である。

 

月氏

中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。

 

漢土

漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。

 

一閻浮提

閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。

 

天親・竜樹内鑑冷然外適時宜

「天親、竜樹、内鑑冷然にして、外は時の宜しきに適う」と読む。摩訶止観巻五上の文。天親、竜樹が内心の悟りは鏡のように冷ややかに澄んでいて絶対平等の境地に止住するが、外面は時に適った相対差別の法を説いたこと。天親、竜樹は内心では法華経の一念三千の法理を知っていたが、外に向けては説かず、その時代にあわせて権大乗教を弘通したということ。

 

天親

天親菩薩ともいう。生没年不明。45世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。

 

竜樹

梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。

 

天台

05380597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。

 

伝教

07670822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

 

一大事の秘法

一大事とは、これ一つしかない究極の大事との意で、諸仏がそのために世に出現したところの秘密の大法を一大事の秘法という。ここでは文底独一本門の三大秘法をさしている。

 

正嘉の大地震

正嘉元年(1257823日戌亥の刻鎌倉地方に、かつてない大地震が襲った。吾妻鏡第四十七に同日の模様を次のように記している。「二十三日、乙巳、晴。戌尅大地震。音有り。神社仏閣一宇として全き無し。山岳頽崩す。人屋顛倒す。築地みな悉く破損す。所々に地裂け水涌出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず、色青し」云々とある。

 

大瑞

兆し・前兆。善悪ともに通じる。

 

神力品

妙法蓮華経如来神力品第21のこと。妙法の大法を付嘱するために、10種の神力を現じ、四句の要法をもって地涌の菩薩に付嘱する。別付嘱と結要付嘱ともいうことが説かれている。

 

如来一切所有之法

神力品に「要を以て之を言わば、如来の一切の持つ所の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆此の経に於て宣示顕説す」とあり、如来一切所有の法を含む四句の要法の付嘱が地涌の菩薩に対して行われ、滅後の弘通が正式に託されたのである。

 

日出て星隠る

日蓮大聖人の三大秘法の大仏法が出現すれば、釈迦仏法・一切の小法は姿を消すということ。

 

遵式

09641032)。中国・宋代の天台宗の僧。寧海(浙江省台州府)の人。 姓は葉氏。字は知白。慈雲懺主、霊応尊者ともいう。はじめ禅を学んだが、20歳の時、禅林寺で具足戒を受け、宝雲について天台学を学び,28歳の時、法華・維摩・涅槃・金光明の四経を講説した。また天台学を宣揚して天台宗の章疏を大蔵経に入れさせた。著書には「大乗止観釈要」四巻、「往生淨土懺願儀」、「金園集」三巻、「天竺別集」三巻などがある。

 

遵式の記

南岳大師の「大乗止観法門」の序として遵式が書いた「南獄禅師止観序」をさす。

 

末法の初西を照す

末法のはじめに、仏法が日本に興り西の中国を照らすとの意。これは、日本の天台僧寂照が源信の使として入宋した時、南岳大師の「大乗止観」を持っていった。この書は、中国では久しく失われていたので、遵式が「始め西より伝わる、猶月の生ずるが如し。今復東より返る、猶日の昇るが如く」と述べた。この文を用いて仏法が中国に流伝していくとの意で引かれたのであろうか。

 

悪世末法時能持是経者

分別功徳品に「悪世末法の時、能く此の経を持たん者は、則ち為れ已に上の如く、諸の供養を具足するなり」とある。

 

若接須弥擲置他方

法華経見宝塔品第11の文。「若し須弥を接って、他方に擲げ置かん」と読む。六難九易のなかのひとつ。

 

講義

「去十月十日に付られ候し入道」とあるのは、この十月十日、大聖人が依智を発たれ、佐渡に向かわれたので、富木常忍がそのお世話にと、入道を大聖人のお供につけたのである。大聖人はその入道を、寺泊の地から帰された。富木常忍としては、佐渡までお供をさせる心であり、その入道もその由を大聖人に申し上げたが、大変だからと帰されたのである。この点については、「寺泊御書」に「此の入道佐渡の国へ御供為す可きの由之を申す然る可き用途と云いかたがた煩有るの故に之を還す」(0954:09)とあるとおりである。

帰っていく入道に託して書きつかわされたのが寺泊御書である。

寺泊御書では、大聖人こそ法華経の勧持・不軽の両品の教えを身で読みきった法華経の行者であることを述べられているが、本抄では、そのことをよく推量するようにと、富木常忍にいわれているのである。

 

天親・竜樹内鑑冷然外適時宜云云、天台・伝教は粗釈し給へども之を弘め残せる一大事の秘法を此国に初めて之を弘む日蓮豈其の人に非ずや

 

天台は、天親・竜樹について、内心では一念三千の妙法を悟っていたが、外は時にかなった法を説いたと述べている。これが内鑑冷然外適時宜である。天親や竜樹は直接、法華経や一念三千の妙法を弘めたわけではない。小乗を打ち破って権大乗を弘めることに主眼点があった。しかし、法華経の極理についてはよく知っていたのである。

竜樹は大智度論を説いたとされている。この大智度論は、大品般若経を釈したものである。竜樹は中論にもみられるように、般若皆空を説き、大乗思想の根本的な立場を明らかにした。その精華が大智度論である。この大智度論のなかで、般若経で説く般若波羅蜜はまだ最極の法ではなく、二乗作仏を説いている法華経が最もすぐれた経であると説いているのである。

また天親は、俱舎論を説いて小乗を宣揚したが、後に悔いて大乗を弘めた。そのなかに法華論がある。この法華論のなかでは、七譬、三平等、十無上等の法門を示し、法華経が他経に比べて無上の法門であることを明確に説いているのである。

このように、竜樹も天親もともに奥底においては「一大事の秘法」すなわち南無妙法蓮華経の大白法を知っていたが、時は小乗と大乗の交代期にあたり、小乗を打ち破って大乗のすぐれていることを示すことが時にかなっていたので説かなかったのである。

つぎに「天台・伝教は粗釈し給へども」とあるのは、天台大師・伝教大師が法華経を釈し一念三千の法門を明かしたことをいわれている。それに対し「之を弘め残せる」とあるのは下種の事の一念三千の大法を天台大師・伝教大師は、弘めないで残したことをいわれる。

これについては開目抄に「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189:02)とあるなかの「天台智者のみこれをいだけり」の御文について日寛上人が三重秘伝抄で「天台は第一第二を宣ぶること文義分明なり、而れども未だ第三を弘めず」と釈されている。ここで第一第二とは、迹門の百界千如と本門の一念三千であり、第三とは事の一念三千の南無妙法蓮華経である。この解釈を本抄の御文にあてはめて考えるならば、「粗釈し給へども」は法華経本門迹門であり、「之を弘め残せる」とは文底独一本門であることがわかる。

したがってここに述べられている「一大事の秘法」とは事の一念三千である文底独一本門の三大秘法ということになる。語釈にも示しておいたが、一大事とは、法華経方便品の「諸仏世尊は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまう」とある文からきており、諸仏が出世した究極の目的をいう。それこそ三世十方の諸仏の成道の根本たる三大秘法の南無妙法蓮華経であり、したがって「一大事の秘法」とは、法華経の文底に秘沈されている三大秘法のことをいわれているのである。それゆえに「弘め残せる」といわれたのである。

「種種御振舞御書」に「去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり」(0919:02)とある御文からもわかるように、大聖人は十一月、おそらく塚原に着かれるとすぐに開目抄の執筆にとりかかられている。本抄をあらわされたときは、すでに「開目抄」の執筆に入られていた。したがって、本抄の内容に「開目抄」と通じるものがあるのは当然であろう。

この一大事の秘法、すなわち三大秘法を「此国に初めて之を弘む日蓮豈其の人に非ずや」といわれているのは、まさしく末法の御本仏の御確信そのものである。「初めて之を弘む」との仰せをよくよく拝さなければならない。

 

前相已に顕れぬ去正嘉の大地震前代未聞の大瑞なり

 

正嘉の大地震を、正法の弘まる瑞相ととらえられての仰せである。正嘉の大地震は、「立正安国論奥書」に「去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘う」(0033:02)とあるように、立正安国論御執筆の機縁となった災害である。

「立正安国論」では、この現象は「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(0017:14)とあるように、一国が謗法に陥っているゆえの結果であるとされている。

それに対し、本抄ではその意味は変わっている。すなわち、釈尊滅後に未曾有の法が弘まる瑞相としての意味を強調されている。上行を上首とした地涌の菩薩が釈尊から滅後の弘法を付嘱されるにあたって、神力品では十神力が現じられた。それを超えるような瑞相がこの日本にあらわれている以上、この日本に未曾有の法が弘まることは疑いないとの御宣言なのである。

神力品の十神力のなかには「地皆六種震動」と、大地の震動が説法の瑞相として示されており、正嘉の大地震を、未曾有の大法興隆の瑞相ととらえられている。「立正安国論」では、あくまで当時の人々を正法に目ざめさせる目的で一国謗法の果としての面から強調されたのであるが、本抄のように大法興隆の瑞相とされているのは、末法万年に流布しゆく仏法を打ち立てられる御本仏としての御立場に立たれているからである。「如来一切所有之法」の文を引かれているのは、釈尊の所有している法の一切を結要した大法が大聖人御所持の妙法であることを宣明されているのである。

同趣旨の仰せは、佐渡期に著された「観心本尊抄」、「顕仏未来記」等にも仰せられる。大きな災厄をもたらす地震が、仏法の眼からみれば、謗法による罰であることは疑いない。しかし、それだけでは、こういう原因があるからこの結果が生じたという分析にとどまるのみである。それゆえにこそ、謗法を断ち切り、正法を興隆させ、大悪を大善へと転換していかなくてはならない、との救済者としての実践的御自覚に、末法御本仏としての深い御確信がうかがわれるのである。

 

此の大法弘まり給ならば爾前迹門の経教は一分も益なかるべし

 

末法においては、もはや日蓮大聖人の仏法のみが衆生を救う力をもち、爾前迹門は力を失うとの御文である。この爾前迹門とは釈尊の仏法の意である。すなわち釈尊の仏法は正像をもって終わりを告げ、末法は日蓮大聖人の仏法でなければならないということなのである。同様のことを記されたのに「顕仏未来記」があるが、そこでも、「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508:02)として、釈尊の仏法を月、大聖人の仏法を太陽にたとえて、その仏法は「必ず東土の日本より出づべきなり」と決せられているのである。伝教の「日出て星隠る」や遵式の「末法の初西を照す」はその意をもって引用されている。

なお法華経涌出品の文は、大聖人が外用の辺において上行菩薩であることを明確にされ、分別功徳品、宝搭品の文はともに、悪世において持ちがたいことを示したもので、大聖人が難にあわれていることは、その文に合していることをあらわすのである。

 

 

 

第三章 死身弘法の決意を述べる

  又貴辺に申付し一切経の要文智論の要文五帖一処に取り集め被る可く候、其外論釈の要文散在あるべからず候、又小僧達談義あるべしと仰らるべく候流罪の事痛く歎せ給ふべからず、勧持品に云く不軽品に云く、命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也云云。

       文永八年十一月二十三日              日蓮花押

     富木入道殿御返事

   小僧達少少還えし候此国の体為在所の有様御問い有る可く候筆端に載せ難く候。

 

現代語訳

また、あなたに頼んであった一切経の要文、大智度論の要文の五帖を一か処に取り集めておいてもらいたい。それ以外の論釈の要文も散失しないようにお願いしたい。

また小僧達の学問談義を怠らないように伝えてもらいたい。私の流罪のことはけっして歎いてはならない。勧持品や常不軽菩薩品にあるとおり、法華経の行者は大難にあうのである。命は限りあるものである。これを惜しんではならない。願うところは寂光土である。

文永八年十一月二十三日        日 蓮  花 押

富木入道殿御返事

小僧達を何人か還した。この佐渡の国のようす、居るところの塚原三昧堂のありさまをたずねられたい。筆には尽くすことはできない。

 

語釈

一切経

仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称。一代蔵経・大蔵経ともいう。古くは仏典を三蔵と概称したが、のちに三蔵の分類に入り切らない経典、論釈が出てきたため一切経・大蔵経と称するようになった。

 

智論

大智度論の略称。大論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。「摩訶般若波羅蜜経」(梵語マハー・プラジュニャーパーラミター・スートラ Mahā-prajñāpāramitā Sūtra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書にとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。

 

一般には折本のこと、また、折本を数える単位として用いる。

 

論釈

論と釈のこと。仏の説いた経や律について論じた書が論。解釈をした書が釈。

 

勧持品

妙法蓮華経の第13章。正法華経の勧説品に相当する。摩訶波闍波提・耶輸陀羅をはじめとする比丘尼への授記と声聞や菩薩たちによる滅後の弘経の誓いが説かれる。声聞の比丘・比丘尼は他の国土での弘経を誓ったが、菩薩たちはこの裟婆世界での弘経を誓う。菩薩たちの誓いの偈(韻文)は、20行からなるので、二十行の偈と呼ばれる。そこには、三類の強敵が出現しても難を忍んで法華経を弘通することが誓われている。勧持品と常不軽菩薩品第20に説かれる逆縁の人への法華経弘通は、滅後悪世における折伏による弘経の様相を示すものと位置づけられ、勧持不軽の行相という。日蓮大聖人は、滅後末法において法華経を弘通され、この勧持品の経文通りの難にただ一人遭っていることによって法華経を身読していると自覚され、御自身が真の法華経の行者であることの証明とされた。それは、滅後弘経を託された地涌の菩薩、とりわけその上首・上行菩薩であるとの御自覚となった。さらに、勧持品のように滅後悪世で三類の強敵に遭いながらも弘経していることは、不軽品に説かれる不軽菩薩が忍難弘経しついに成仏して釈尊となったように、成仏の因であることを確信される。法華経身読によって、末法の一切衆生を救う教主としての御確信に立たれたのである。このことから、大聖人は末法の御本仏であると拝される

 

不軽品

法華経常不軽菩薩品第二十のこと。法華経の中で流通分に位置し、法華経を信ずる者と毀る者との罪福を引いて証とし、流通を勧めた品である。この品に常不軽菩薩の因縁を説いているので不軽品と称する。威音王仏の滅後像法に常不軽菩薩が種々の迫害に耐え、「我れは深く汝等を敬い云云」の二十四文字の法華経を唱えて人々を礼拝した話を通して、滅後の弘教を勧めている。

 

仏国

仏の住む国土。寂光土。

 

体為

ありさま。様子。

 

在所

住んでいる所。

 

講義

ここで仰せのように、大聖人は資料などもよく富木常忍にあずけられていたようである。諸御抄を執筆されるのに必要な最小限の資料を佐渡へ持って行かれ、あとを富木常忍に託されたのであろう。それらを保管しておくよう依頼されていること、また門下に研鑽を続けるよう教えられているところに、御自身の危難のなか、令法久住に心を配られていることが拝される。

また、富木常忍はこの大聖人の仰せをよく守ったゆえに、今日、富木常忍の関係の御書は多く御真筆が残っているのであろう。

「勧持品に云く不軽品に云く」とは、勧持品の二十行の偈にある三類の強敵による大難、上慢の四衆によって蒙った不軽菩薩の杖木瓦石の難をいわれ、大聖人はそれを身読された真実の法華経の行者であることを述べられているのである。文を略されているのは、富木常忍がよく知っている内容であり、寺泊御書にもすでに「過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し」(0953:18)等と、明らかに述べられているゆえである。

「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」の仰せは烈々たるものである。まさに死を覚悟しつつ、仏国に至ることは疑いないとの御確信と喜びがあらわれている。限りある人身を受けながら、仏道を成ずるという永劫の幸福を確立しうる喜びこそ、最大のものであろう。

なお追伸で小僧達を何人か帰したとあるが、この小僧は、佐渡へ連れて行かれたのであるから子供というより、年若い僧のことであろう。

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