現代語訳
鵞目一貫をいただきまじた。
食物は体の色つやを増し、力をつけ、命を延ばします。衣は寒さを防ぎ、熱さをくいとめ、恥を隠します。人に物を施す人は、その与えた人の色つやを増し、力をそえ、命をつなぐことになるのです。
語句の解説
鵞目
鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、鵝眼、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代頃に輸入して通貨とした唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。
一貫
貫は銭を数える単位。一貫は、銭を一つなぎにしたものの意で、時代によって異なるが、普通、一文銭千枚のことをいった。
じき
じき「食」の音読み。食べ物・食物の事。
色
顔艶のこと。
せ
施 布施のこと。人に物を与えること。
講義
本抄の御真筆は京都・妙蓮寺にあるが、冒頭の部分のみで、あとは欠失しており、与えられた尼御前の名、御述作年月も不明である。しかし、近年、西山本門寺や京都本蓮寺等に散逸していた御真筆と併せて、弘安2年(1279)御述作の上野殿御家尼御前御返事の一部であると考えられるようになった。最初に少し長くなるが、本抄に続くと思われる部分を引用しておこう。。
衣食御書(上野殿尼御前御返事)
尼御前へ参る
鵞目一貫・給い畢んぬ、それじきはいろをまし・ちからをつけ・いのちをのぶ、ころもは.さむさをふせぎあつさをさえ・はぢをかくす、人にものをせする人は人のいろをまし・ちからをそえ・いのちをつぐなり。
人のために火をともせば人のあかるきのみならず、我身もあかし、されば人のいろをませば我いろまし、人のちからをませば我ちからまさり、人のいのちをのぶれば我いのちののぶなり。法華経は釈迦仏の御いろ、世尊の御ちから、如来の御いのちなり。やまいある人は、法華経をくやうすれば身のやまいうすれ、いろまさり、ちからつきてみればとのもさわらず。ゆめうつヽかわずしてこそをはすらめ、そひぬべき人のとぶらわざるも、うらめしきこそをはすらめ、女人の御身として、をやこのわかれにみをすて、かたちをかうる人すくなし、をとこのわかれは、ひゞ、よるよる・つきづき・としどしかさなれば、いよいよこいしくまさり、をさなき人もおはすなれば、たれをたのもてか人ならざらんと、かたがたさこそをはすらんれば、わがみもまいりて心をもなぐさめたてまつり、又弟子をも一人つかわして御はかの
これも途中までで、あとは不明である。しかし、続きの御文によって、最初の御文の意味がかなりはっきりしてくる。
はじめに尼御前が鵞目一貫を御供養したことに対し、それによって購う食物や衣服が人の命にとって貴重な働きをもっていることをとおして、尼御前の供養の尊さを賛嘆されている。
「それじきはいろをまし・ちからをつけ・いのちをのぶ」と仰せは、食物三徳御書のそれと同じである。「一には命をつぎ.二にはいろをまし・三には力をそう」(1598:01)と。「いろをまし」の「いろ」とは、顔や体全体の色艶をいうと思われる。食物は体の色艶を増す働きがあるということである。次の「ちからをつけ」は、エネルギー源となることである。体力をつけることを意味している。「いのちをのぶ」とは、したがって、生命を維持し、延ばすことである。食物がなければ、いかなる人であっても、生きていくことはできない。食物によって生命をたもち、色艶も増して生き生きと活動できるのである。
衣も同様に重要である。「ころもは.さむさをふせぎあつさをさえ・はぢをかくす」と、衣にも三つの働きがあると説かれている「さむさをふせ」ぐことである。第二に「あつさをさえ」ぎること、すなわち暑さを防ぐことである。衣服は寒さを防ぐ働きに注目されるが、暑さをも防ぐのである。日光の直射を避け、体内の水分の失われるのを防ぐ働きがあり、インドなどで衣を着たのはこの意味も強かったのである。第三は「はぢをかくす」ことである。これには説明の要はないであろう。
日蓮大聖人は、人間が生活するうえで最も基本的な衣食住のうち「住」については、身延では草庵に住まわれていたため、一往不自由なかったが、食と衣については不自由な生活を送られていた。法衣書には「日蓮は無戒の比丘・邪見の者なり故に天これをにくませ給いて食衣ともしき身にて候」(1296:09)と仰せである。したがって尼御前の鵞目一貫文の御供養は、大聖人及びその門下の貴重な食と衣を購うかてとなり、尼御前は大聖人に食と衣を布施し命をお守り申し上げていたことになるのである。
人に食物を布施する人は人の色艶を増し、力を添え、命を維持させる働きをすることになる。しかし、それは決して人のためだけではない。人のためにすることは、自分のためにもなっているのである。と本抄に続く部分で大聖人は仰せになっている。人のために明かりをともせば人が明るいだけでなく、自分の周りも明るくなる。したがって、人の色艶を増せば、自分の色艶も増すのである。人の力を増せば自分の力も勝ってくる、人の命を延ばせば、自分の命ものばすことになるのである、と。
しかも、尼御前が御供養申し上げた相手は、法華経の行者であり「法華経」そのものである。法華経は三世十方の諸仏が成道するにあたって修行した根底の法であって、法華経こそ釈迦仏をはじめ一切の仏にとって「食」なのである。その法華経に供養したのであるから、あらゆる仏に「食」を供養したことになり、その功徳はたとえようのないほど広大である。当時、上野尼は決して順風の状態ではなかったと察せられるが、大聖人のこの激励にどれほどか感動し信心の決意を固めたことであろう。