同一鹹味御書
弘長元年(ʼ61) 40歳
夫れ、味に六種あり。一には淡き、二には鹹き、三には辛き、四には酸き、五には甘き、六には苦きなり。百味の餚膳を調うといえども、一つの鹹の味なければ、大王の膳とならず。山海の珍物も、鹹なければ気味なし。
大海に八つの不思議あり。一には漸々に転た深し。二には深くして底を得難し。三には同じ一つの鹹の味なり。四には潮限りを過ぎず。五には種々の宝蔵有り。六には大身の衆生、中に在って居住す。七には死屍を宿めず。八には万流・大雨、これを収めて不増不減なり。
「漸々に転た深し」とは、法華経は、凡夫無解より聖人有解に至るまで、皆仏道を成ずるに譬うるなり。「深くして底を得難し」とは、法華経は唯仏与仏の境界にして、等覚已下は極むることなきが故なり。「同じ一つの鹹の味なり」とは、諸河に鹹なきは諸教に得道なきに譬う。諸河の水、大海に入って鹹となるは、諸教の機類、法華経に入って仏道を成ずるに譬う。「潮限りを過ぎず」とは、妙法を持つ人、むしろ身命を失するとも不退転を得るに譬う。「種々の宝蔵有り」とは、諸の仏菩薩の万行万善、諸波羅蜜の功徳、妙法に納まるに譬う。「大身の衆生の居住するところの処」とは、仏菩薩、大智慧あるが故に、大身の衆生と名づく。大身・大心・大荘厳・大調伏・大説法・大勢・大神通・大慈・大悲、おのずから法華経より生ずるが故なり。「死屍を宿めず」とは、永く謗法・一闡提を離るるが故なり。「不増不減」とは、法華の意は一切衆生の仏性は同一の性なるが故なり。
蔓草漬けたる桶瓶の中の鹹は、大海の鹹に随って満ち干ぬ。禁獄を被る法華の持者は桶瓶の中の鹹のごとく、火宅を出で給える釈迦如来は大海の鹹のごとし。法華の持者を禁むるは、釈迦如来を禁むるなり。梵釈・四天もいかんが驚き給わざらん。十羅刹女の「頭七分に破れん」の誓い、この時にあらずんば、いずれの時か果たし給うべき。頻婆娑羅王を禁獄せし阿闍世、早く現身に大悪瘡を感得しき。法華の持者を禁獄する人、何ぞ現身に悪瘡を感ぜざらんや。
日蓮 花押
現代語訳
味には六種がある。一には淡、二には鹹、三には辛、四には酸、五には甘、六には苦である。たとえ百味の料理を調えたとしても、一つの鹹の味がなければ、大王の膳とはならない。山海の珍物も、鹹がなければ何の風味もない。
大海には八の不思議がある。一にはだんだんと非常に深くなる。二には深くて底をきわめ難い。三にはどこの海水も一様に鹹い味である。四には潮の干満には一定の法則がある。五には種々の宝を蔵している。六には大きな生物が住んでいる。七には死骸を宿(とど)めない。八には諸河が流れ込み、大雨が降っても増減がないことである。
だんだんと非常に深くなるとは、法華経は無解の凡夫から有解の聖人に至るまで、皆仏道を成就することができることに譬えるのである。
深くして底をきわめ難いとは、法華経は唯(ただ)仏と仏とのみが悟っている境界であり、等覚以下の菩薩は究めることができないことに譬えるのである。
どこの海水も一様に鹹い味であるというのは、諸河に鹹の無いことは、諸教では成仏できないことに譬えている。
諸河の水が大海に入って鹹くなるのは、諸教のさまざまな機根の者が、法華経に入って仏道を成就することに譬えるのである。
潮の干満に一定の法則があるとは、妙法を持つ人はたとえ身命を失うことがあっても、必ず不退転の位を得ることができることに譬えるのである。
種々の宝を蔵しているとは、諸仏、菩薩のすべての修行・善行、諸波羅蜜を修する功徳は、妙法に納まっていることに譬えるのである。
大きな生物が住んでいるところであるとは、仏菩薩は大智慧があるから大身の衆生と名づけるのである。大身・大心・大荘厳・大調伏・大説法・大勢力・大神通・大慈・大悲は、もともと法華経から生じたものだからである。
死骸を宿めないとは、永遠に謗法・一闡提を離れることを譬えたものである。
増減がないとは、法華経の意は、一切衆生の仏性は同一であることを譬えたものである。
蔓草を漬けた桶や缾の中の鹹は、大海の潮の干満に随って干満がある。牢獄に禁められた法華教の行者は、桶や缾のなかの鹹のようであり、三界の火宅を出られた釈迦如来は、大海の鹹のようである。
法華の持者を禁めるのは、釈迦如来を禁めることである。梵天・帝釈天・四天王もどれほど驚かれていることであろう。十羅刹女の「頭を七つに破る」との誓いは、この時に果たさないならば、いつ果たすのであろうか。
頻婆娑羅王を禁獄した阿闍世王は、たちまちその身に大悪瘡が生じた。法華経の行者を禁獄する人は、どうしてその身に悪瘡が生じないことがあろうか。
日 蓮 花 押
語釈
百味の餚膳
百味とは、種々の美味・珍味のこと。餚膳とは、供え物を乗せた膳の意味。
大王の膳
大王の食膳のこと。美味・高価な食物を並べた食膳。
無解
法門に対する理解がないこと。無智。
有解
法門に対する理解があること。
唯仏与仏
方便品の文。「唯、仏と仏と、乃し能く究尽したまえり」とある。諸仏の智慧のみが能く諸法の実相を究め尽くしており、菩薩・二乗の及び得ないものであるということ。
等覚
菩薩が修行して到達する階位の52位の中、下位から51番目に位置する菩薩の極位をいう。その智徳が略万徳円満の仏である妙覚とほぼ等しく、一如になったという意味で等覚という三祇百劫の修行を満足し、まさに妙覚の果実を得ようとする位。一生補処、有上士、金剛心の位といわれる。
不退転
仏道修行の過程ですでに得た功徳を決して失うことのない位。菩薩の52位の中、十住の初めの位を初発心といい、この位の菩薩は、一分の中道の理を証得して正念に止住する故に初住已上を不退転の位とする。
諸波羅蜜
もろもろの波羅蜜のこと。波羅蜜は梵語でパーラ三―(Pāramī)「彼岸に至る」と訳す。生死を大海に、彼岸を成仏にたとえている。菩薩が生死の大海を渡り彼岸に至る道程をいい、これに六種類があるゆえに、布施・持戒・忍辱・精進・禅・智慧を六波羅蜜という。観心本尊抄には「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」(0246:11)とある。
大身の衆生所居の住処とは
涅槃経巻三十二に「六つには大身衆生所居の処なり。大身衆生とは、謂く仏菩薩なり。大智慧の故に、大衆生と名づく。大身の故に、大心の故に、大荘厳の故に、大調伏の故に、大方便の故に、大説法の故に、大勢力の故に、大徒衆の故に、大神通の故に、大慈悲の故に、常にして不変の故に、一切衆生罣礙無きが故に、一切諸の衆生を受容するが故に、是れを大身衆生所居の処と名づく」とある。
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
一闡提
梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
火宅
煩悩が盛んで苦しみが多い三界を、火災にあった家宅にたとえたもの。
梵釈
大梵天王と帝釈天王のこと。①梵天。三界のうち色界の忉利天にいて、娑婆世界を統領している色界諸天王の通称である。この天は色界の因欲を離れて寂静清静であるという。このうちの主を大梵天王といい、インド神話では、もともと梵王は万物の生因、すなわち創造主とするが、仏教では諸天善神の一つとしている。②帝釈。釈迦提桓因陀羅、略して釈提桓因ともいう。欲界第二の忉利天の主で、須弥山の頂の喜見城に住して、三十三天を統領している。③法華経では、梵天・帝釈は眷属の二万の天子とともに、法華経の会座に連なり、法華経の行者を守護すると誓っている。
四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
十羅刹女
鬼子母神の十人の娘。羅刹女は梵語ラークシャシー(Rākṣasi)の音写で、悪鬼と訳す。法華経陀羅尼品第二十六において法華経の行者を誓っている。十人の名は、藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気である。
頭破七分
陀羅尼品の偈文。鬼子母神・十羅刹女が法華経の行者を悩乱するものの頭を阿闍梨の枝のように破るとの誓いを立てた。頭破作七分・心破作七分ともいい、大御本尊および大御本尊を信ずる人を誹謗するものは、頭が壊れ、心が錯乱し、支離滅裂になるとの意である。
頻婆娑羅王
梵名ビンビサーラ(Bimbisāra)の音写。影勝・顔色端正などと訳す。釈尊在世における中インド・摩掲陀国の王。阿闍世王の父。釈尊に深く帰依し、仏法を保護した。提婆達多にそそのかされた阿闍世太子に幽閉されるが、かえって阿闍世の不孝を悲しみ諌めた。阿闍世は獄吏に命じて食を断ち、ついに王は命終した。この時、王は釈尊の光明に照らされ、阿那含果を得たといわれる。
阿闍世
梵名アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って釈尊を殺そうとするなどの悪逆を行った。のち、身体に悪瘡ができことによって仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど仏法のために尽くした。
講義
本抄の題名は、内容に「同じ一鹹の味なり」とあるところから後世つけられたものである。別名を与檀越某御書とも、六味書ともいわれる。
御述作の年次、並びに与えられた人については種々の説があり、御執筆の由来も不明である。ただ本抄の内容に「禁獄を被る法華の持者」「法華の持者を禁獄する人」等の御文があることから、日蓮大聖人並びに弟子檀那が留難を受けた時にお書きになった御書であろうと推察されている。
その観点から、古来、伊豆流難の弘長元年(1261)説、佐渡の御流罪の文永8年(1271)説、熱原法難の弘安2年(1279)説がある。
さて、本抄の内容は三段に分けられる。最初に、味には六種があるが、その中でも鹹が最も大切であることを述べ、鹹味(かんみ)が無ければ本当の味にならないとされている。
この譬えは、法華経を鹹味になぞらえられて、法華経が説かれなければ、諸経も生きた力になりえないことを教示されたものである。
そこで次に、涅槃経に説かれる大海の八不思議力を引用して法華経の勝れた特質を示されている。
最後の第三段では、蔓草を漬けた桶や缾の中の塩を、法華経の持者に譬え、大海の塩を釈尊に譬えて、桶や缾の中の塩も、もともとは大海の塩である。したがって、大海の潮が干満を示すように、桶や缾の中の塩水も、それにならうのであり、法華経の受持者を禁獄することは釈尊を獄に入れることに等しいと言われ、梵釈四天、十羅刹女等の諸天によって、頻婆娑羅王を禁獄した阿闍世王のように現身に悪瘡を生じることは間違いないと仰せられている。
今、末法の法華経である南無妙法蓮華経を受持する者を悪口したり、禁めたりすることは、仏を迫害するのと同じであり、諸天の処罰を受けることは必定である。
それに対して、法華経の受持者は、現世には苦しみを受けたとしても、即身成仏の大果報を受けることができるのである。
大海の不思議と法華経の特質
この比喩の意味については御文に十分明瞭であるが、若干の説明を加えてみよう。
第一に、海が次第に深くなっていることは、法華経が凡夫無智の人も、また舎利弗等のような聖人有解の人も、ことごとく成仏させることを譬えている。むろん、菩薩の成道はいうまでもない。爾前経では、聖人有解である二乗の不作仏を説くが、法華経に至って二乗の作仏が許された。
第二に、海底が深くて容易に達せられないことは、法華経は全く仏の境地を説くものであるから、法華経の極意を悟っているのは仏と仏のみであり、等覚の菩薩といえども知り難いことを譬えている。
つまり、菩薩以下の智慧によっては達しえないことを示されている。ただ「以信代慧」で、信心によって法華経の根本に帰入することができるのである。
第三に、海水が同一の塩辛い味であるというのは、法華経はあらゆる衆生を同一に成仏させることを譬えているのである。
海に入る河には塩辛い味は全くない。これは爾前経に得道の無いことを示している。
その河水が海に入って同じく塩辛くなるのは、爾前のどの衆生も、法華経に入って成仏できることを示すのである。
第四に、「潮限りを過ぎず」というのは、海水は月の引力によって一日二回、干満する。その引き潮と満ち潮が時間を違えない、必ず、時をあやまたず干満するということを意味している。
法華経を持ち、不退転の信心を貫く人は、たとえ生命を失うことがあっても、必ず仏になるのである。それは、海水が干れば必ず満ち、満ちれば干ることが決まっているようなものである。いつでも、誰人でも成仏できるのであって、そのことに例外はないのである。
第五に、大海には珊瑚や真珠等の種々の宝がある。このことは、諸仏菩薩のあらゆる修行、あらゆる功徳、六波羅蜜を修行した功徳が、ことごとく妙法蓮華経にそなわっていることを譬えている。
唱法華題目抄には「一仏・一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり、故に妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり」(0013:13)と仰せである。また、同抄に「一切の諸仏菩薩十界の因果・十方の草木・瓦礫等・妙法の二字にあらずと云う事なし」(0013:08)とも仰せられている。
このように、妙法の二字には、諸仏菩薩の功徳がおさまり、一切の草木さえも妙法にすべて含まれているのである。
第六に、海には、鯨やサメ等の大きな生物が棲息している。このように仏菩薩のような大身の衆生が、法華経のなかに居住し、法華経から生まれてくるのである。
法華経は、大身も、大きな心も、三十二相八十種好をそなえる大荘厳も、諸悪を屈服させる大調伏も、梵音声の大説法も、大勢力も、大神通力も、大慈悲も、ことごとく生みだす源である。
観普賢菩薩行法経には「仏の三種の身は、方等従り生ず。是れ大法印なり。涅槃海を印す。此の如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は、人天の福田、応供の中の最なり。其れ大乗方等経典を誦読すること有らば、当に知るべし、此の人は仏の功徳を具し、諸悪は永く滅して、仏慧従り生ず」と記されている。
第七に、海中では死骸は容易に発見されない。「死屍を宿めず」といわれる意味である。
この譬えは、法華経が長く謗法一闡提を離れる、すなわち謗法、一闡提をも救う力がある、ということをたとえている。
爾前経においては、悪人不成仏、二乗不作仏等と説く。だが、法華経に来て、それらも皆成道が可能となったのである。
第八に、海水は不増不滅である。多くの河水が、海に入ってくるが、そのために海水が増すこともなく、また旱魃があっても海水の量が減るということもない。
法華経の心は、一切衆生悉有仏性のうえに立っている。すなわち、すべての人にそなわっている仏性は万人同一であり、いかなる増減も、高下もない故に、万人が平等に成仏できるのである。
法華の持者を禁むるは釈迦如来を禁むるなり
法華経を持ち弘めておられる日蓮大聖人を迫害しているのは釈迦如来を迫害しているのと同じであるとの仰せである。
このことは、日蓮大聖人が、内証のお立場では仏であり、久遠元初の自受用報身如来であられるということにほかならない。
「火宅を出で給へる釈迦如来は大海の鹹の如し」とは、明確に成道の姿を示した色相荘厳の仏をさして言われている。
それに対し御自身を「桶缾の中の鹹の如く」と言われているのは、外面から見ると凡夫の姿であるが、その内証は仏と何ら変わりがないということである。
いま、人々が日蓮大聖人を迫害しているのは、釈迦如来を迫害しているのと同じであるから、梵釈四天も驚き、十羅刹女が仏に敵対している人に治罰を加えないわけはないと言われているのである。