上野殿母御前御返事(大聖人の御病の事) 第二章(子息に先立たれた母尼を慰む)

上野殿母御前御返事(大聖人の御病の事) 第二章(子息に先立たれた母尼を慰む)

 弘安4年(ʼ81)12月8日 60歳 上野尼

 進上 上野殿母尼御前    日蓮

まことや.まことや・去年の九月五日こ五郎殿のかくれにしは・いかになりけると・胸うちさわぎて.ゆびををりかずへ候へば・すでに二ケ年十六月四百余日にすぎ候が、それには母なれば御をとづれや候らむ、いかに・きかせ給はぬやらむ、ふりし雪も又ふれり・ちりし花も又さきて候いき、無常ばかり・またも・かへりきこへ候はざりけるか、あらうらめし・あらうらめし余所にても・よきくわんざかな・よきくわんざかな・玉のやうなる男かな男かないくせ・をやのうれしく・をぼすらむと見候いしに、満月に雲のかかれるが・はれずして山へ入り・さかんなる花のあやなく・かぜのちらせるがごとしと・あさましくこそをぼへ候へ。

  日蓮は所らうのゆへに人人の御文の御返事も申さず候いつるが・この事は・あまりになげかしく候へば・ふでをとりて候ぞ、これも・よも・ひさしくも・このよに候はじ、一定五郎殿にいきあいぬと・をぼへ候、母よりさきに・けさんし候わば母のなげき申しつたへ候はん、事事又又申すべし、恐恐謹言。

       十二月八日                                日蓮花押

     上野殿母御前御返事

 

 

現代語訳

顧みれば、去年の九月五日に故五郎殿が亡くなられてからは、その後どうなされたかと胸のうちが騒いで、指折り数えれば、既に二か年、十六か月、四百余日が過ぎてしまいましたが、尼御前は母ですから、何か便りがあったことでしょう。どうして聞かせてくれないのでしょうか。降った雪は消えても再び冬が来てまた降ってきました。散った花も春が来てまた咲きました。どうして逝った人ばかりは、またこの世に帰らないのでしょうか。なんとうらめしいことでしょうか。よそながら、良い若者である、良い若者である、玉のような男である、男である、どれほど親として嬉しいことであろうと見ていたのに、満月に雲がかかって、晴れずに山へ入り、今を盛りの花がにわかの風にあえなく散ってしまったように、亡くなられてしまうとは、いかにも情けないことと思っております。

日蓮は病気のために、人々からのお手紙にも返事を書かないでおりましたが、五郎殿のことはあまりにも嘆かわしいことでしたから、筆をとりました。日蓮もたぶん永くはこの世にはいないでありましょう。そうであれば必ず五郎殿に行きあうであろうと思っております。もし尼御前より先にお会いしたならば、尼御前の嘆きを申し伝えましょう。他のことはまたまた申し上げます。恐恐謹言。

十二月八日             日 蓮  花 押

上野殿母御前御返事

 

語句の解説

こ五郎殿

12651280)。南条兵衛七郎の五男で、南条時光の弟。七郎五郎とも呼ばれた。誕生以前に父の兵衛七郎は死去している。容貌も勝れ、立派な青年となったようであるが、弘安三年九月、十六歳の若さで急逝した。

 

くわんざ

① 元服して冠をつけた若者。転じて、若者、弱年者をいう。②六位で無官の人。③ 召使いの若者。ここでは①の意。

 

所らう

所労とは①病気、煩いのこと。②疲労のこと。ここでは①の病気のこと。

 

講義

母尼御前の子息である五郎が亡くなったのが弘安3年(128095日であり、亡くなってから本抄をしたためられている日まで「ゆびををりかずへ」るとすでに足掛け2年で16ヵ月、400余日を経過している。その間に故聖霊からなんらかの知らせが母尼にあったであろうか、あったとすれば母尼はどのような心地で故聖霊の便りを聞いたであろうかと、母尼の寂しい心中を察しておられる。日蓮大聖人の実にこまやかな御配慮がうかがえる御文である。

そして、故五郎が生きていたころ降った雪は消えても冬になって再び降ったし、花も春が来て再び咲いたのに、人は一度死ぬとなぜ再びこの世に帰ってこないのであろうかと、人の生命の無常なるさまを慨嘆されている。

さらに「これも・よも・ひさしくも・このよに候はじ」と仰せられ、大聖人御自身遠からず臨終に至ることをほのめかされ、もし尼御前よりも先に故五郎に会ったなら母尼の嘆きの様子を伝えておこうと述べられ、尼御前への慰めと励ましの言葉をもって本抄をしめくくられている。

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