上野殿母御前御返事(大聖人の御病の事) 第一章(御供養に対する謝辞)
弘安4年(ʼ81)12月8日 60歳 上野尼
進上 上野殿母尼御前 日蓮
乃米一だ、聖人一つつ二十ひさげか、かんこうひとこうぶくろ、おくり給び候い了わんぬ。
このところのよう、ぜんぜんに申しふり候いぬ。さては、去ぬる文永十一年六月十七日、この山に入り候いて、今年十二月八日にいたるまで、この山、出ずること一歩も候わず。ただし、八年が間、やせやまいと申し、としと申し、としどしに身ゆわく心おぼれ候いつるほどに、今年は春よりこのやまいおこりて、秋すぎ冬にいたるまで、日々におとろえ夜々にまさり候いつるが、この十余日はすでに食もほとうどとどまりて候上、ゆきはかさなり、かんはせめ候。身のひゆること石のごとし。胸のつめたきこと氷のごとし。
しかるに、このさけわたたかにさしわかして、かんこうをはたとくい切って、一度のみて候えば、火を胸にたくがごとし。ゆに入るににたり。あせにあかあらい、しずくに足をすすぐ。この御志はいかんがせんと、うれしくおもい候ところに、両眼よりひとつのなんだをうかべて候。
現代語訳
乃米一駄、清酒一筒・提子二十杯分くらいか、藿香一紙袋をお送りいただきました。
この身延の有り様は、前々から申し上げているとおりです。また、去る文永十一年六月十七日にこの山に入って、今年十二月八日に至るまで、この山を一歩も出たことはありません。ただし、この八年の間は、やせる病気といい、齢といい、年々に身体は弱くなり、心は弱まってきましたが、ことに今年は春よりこの病気が起こって、秋が過ぎ冬にいたるまで、日々に衰え、夜々に重くなりましたが、この十余日は食事も殆どできないところに、雪が重なり、寒気は攻めてきております。身体の冷えることは石のようであり、胸の冷たいことは氷のようです。しかし、この酒を温かに沸かして、藿香をはたと食い切って、一度飲むと、火を胸に焚いたようになりました。湯に入ったようです。汗で垢が洗われ、滴で足が濯がれました。このお志に、どう感謝したらよいかと、嬉しく思っているところに、両眼から一滴の涙が浮かんできました。
語句の解説
乃米
「のうまい」と読み、玄米のこと。もみがらを除いただけの、精白していない米をいう。
聖人
清酒のこと。これにたいし濁酒を賢人という。魏志に「酔客酒を謂いて、清めるを聖人と為し、濁れるを賢人と為す」とある。
ひさげ
注ぎ口と鉉がついた小鍋形の具。酒器・銚子の一種。や銀などでつくり、水や酒などを温めるのに用いる。
かつかう
藿香のこと。カワミドリの漢名。シソ科の多年草で、高さは40㌢から1㍍になる。草全体に香気があり、茎葉は乾燥させ、健胃剤、頭痛薬として煎じて用いられる。
講義
本抄は、上野殿の母尼御前が御供養を奉ったのに対し、その返礼を兼ねて遣わされた御消息文である。弘安4年(1281)12月8日、聖寿60歳の時、身延においてしたためられている。本抄の内容は、まず御供養への謝辞を述べられた後、御自身の春以来の病気について触れられる。ここから別名を「所労書」ともいう。
次いで子息・五郎に先立たれた母尼御前の心を慮られ、もし遠からずして臨終したならば、故五郎殿に見参して母の嘆きを伝えようと慰めておられる。
本抄の御真筆は大石寺に現存している。
まず冒頭には、上野殿母尼御前から奉られた御供養の品々を列挙され、御自身の健康状態を述べられて、尼御前からの御供養の品に対する感謝の意を表されている。
「このところの・やう・せんぜんに申しふり候いぬ」とは、大聖人のおられる身延の山の状態については、前々から何度も述べてきたので省略するとの意である。
次いで、文永11年(1274)6月17日に身延に入られてから、足掛け8年を経過、その間に年もとり、病気も多くなり、年々に身体が衰弱し、心も老いてきたと述べられている。
なかでも弘安4年(1281)の春に病気が起こり、秋を過ぎ冬になるにつれ一日一日と病が重くなり、身体も衰えていく一方という状態になられ、特にこの10日余りの間は食事もろくろくのどを通らず、しかも身延山は雪が積もって寒風が激しいため身体は石のように冷え、胸は氷のように冷たいと、その御生活の厳しさを述べられる。
そうした状態のところに上野殿母尼御前から供養された聖人を飲まれて胸が温かくなり、湯にでも入ったようになり、汗で身体の垢も洗い流され、汗の滴で足も清潔になると述べられ、母尼御前の御供養の志をことのほか喜ばれている。うれしさのあまり「両眼より・ひとつのなんだを・うかべて候」と仰せの言葉に、日蓮大聖人の当時の窮状の一端がしのばれる。
去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候いて……
「富木殿御書」には鎌倉を去って身延山に赴かれた道中の経過が次のように述べられている。
「十二日さかわ十三日たけのした十四日くるまがへし十五日ををみや十六日なんぶ、十七日このところ・いまださだまらずといえども、たいしはこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ」(0964:03)と。
ここに明らかなように、大聖人が鎌倉から身延へ向かわれた道は、文永11年(1274)年5月12日に東海道を小田原市の酒匂まで行かれ、そこから足柄街道に入って13日に静岡県駿東郡の小山町竹之下、そこから御殿場市駒門の西の車返に14日に入られ、東海道に戻られて富士宮市の大宮に15日、16日に山梨県南巨摩郡の南部町を経由し17日に身延に入られたようである。
ところで本抄との関連で重要なのは「十七日このところ・いまださだまらずといえども、たいしはこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ」と仰せのところであるが「十七日このところ」とは十七日に入られた身延山をさしておられる。当初、大聖人は身延の地を永住の地とは定めておられなかったようであるが、心にかなっているのでしばらく滞在するといわれている。
身延御入山の直後はこのような御心境であられたが、やがて各地の門下の人達が真心からの御供養をし、お守りしていくなかで、大聖人の晩年の安住の地となったのである。
なお本抄では身延御入山の日付が文永11年(1274)6月17日となっていて、富木殿御書の5月17日との間に1ヵ月の相違があるが、これは庵室修復書に「去文永十一年六月十七日に・この山のなかに・きをうちきりて・かりそめにあじちをつくりて候いしが」(1542:01)とあるように、大聖人が山中に庵室を作られた日付をもって入山とされているからである。
門下として大聖人のお身体を気遣う、感動的な内容である。だがそれにしても、「乃米」の語にあえて「しらよね」の読みがなを施し、玄米の意を白米の意に置き換えた、その根拠については何も記していない。