題目弥陀名号勝劣事
第一章(南無妙法蓮華経の功徳甚大を示す)
文永元年(ʼ64) 43歳
南無妙法蓮華経と申すことは唱えがたく、南無阿弥陀仏・南無薬師如来なんど申すことは唱えやすく、また文字の数のほども大旨は同じけれども、功徳の勝劣は遥かに替わりて候なり。
現代語訳
南無妙法蓮華経ということは唱えがたく、南無阿弥陀仏・南無薬師如来等ということは唱えやすい。また、文字の数のほども大体は同じであるが、功徳の勝劣は大変な違いがある。
語句の解説
南無妙法蓮華経
衆生に約せば、妙法蓮華経に帰命すること。仏界に約せば、一切万法の帰趣する究極・所詮の法体をさす。南無は梵語ナマス(namas)の音写で帰命と翻ずる。帰命の対象に人と法があり、人は釈尊、法は妙法蓮華経に帰命すること。但し法華経には仏・菩薩に帰命する文はあるが、南無妙法蓮華経の明文はない。しかし釈尊の仏法では法は勝れ人は劣るから、釈尊の本意は必ず南無妙法蓮華経にある。法華経法師品第十には「若しは経巻の住する所の処には、皆な応に七宝の塔を起て、極めて高広厳飾ならしむべし。復た舎利を安んずることを須いず」とある。釈尊の付嘱を受けて日蓮大聖人は上行菩薩の再誕として末法・日本国に出世し、名・体・宗・用・教の南無妙法蓮華経を弘通されたのである。ゆえにこの妙法は単に法華の経題を表すのみでなく、体・宗・用の本体と力用を有する教である。南無とは帰命の義であり、帰は迹門不変真如の理に帰すること、命とは本門随縁真如の智に命くことである。つまり帰命とは不変の理境とこれを照らし顕す隨縁の智慧とが一体となった、境智冥合の法体である南無妙法蓮華経である。究極不変の真理であると同時に、隨縁の智慧として具体的な歴史社会に顕現した法体、日蓮大聖人の図顕による三大秘法の本尊を意味する。すなわち日蓮大聖人即南無妙法蓮華経であり、人法体一の深旨を意味する。
南無阿弥陀仏
阿弥陀仏に南無(帰命)すること。観無量寿経にある。善導は観経疏巻一で「南無と言うは即ち是れ帰命なり、亦是れ発願廻向の義なり。阿弥陀仏と言うは即ち是れ其の行なり。斯の義を以っての故に必ず往生を得」と釈し、南無阿弥陀仏の六字を称え心に念ずれば極楽世界に往生できるとしている。
南無薬師如来
薬師如来に南無すること。薬師如来は梵名でバイシャジャグル(Bhaiṣajyaguru)という。薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄琉璃世界の教主。もと菩薩道を行じていた時に、十二誓願を起こし、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病気を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。
功徳
功能福徳の意。福利を招く功能が、善行に徳として備わっていること。
講義
本抄は御真筆が残っておらず、御述作の年代や宛名等は明らかでない。古くは月水御書と合わせて一つの御書で、大学三郎の女房に宛てられたものと考えられてきたが、後に、別の御書として扱われるようになった。
月水御書は大学三郎の女房からの法華経読誦に関する質問に答えられたものであり、本抄は法華経の題号と弥陀の名号の勝劣を論じたもので、御消息の形式となっておらず、また文体にも若干の相違がある。別の御書と考えるほうが妥当であろう。
御述作の年時は、文永元年(1264)4月のほか、文永9年(1272)、建治元年(1275)、弘安4年(1281)等の諸説がある。
文永元年(1264)4月とする考えは、月水御書の御執筆が文永元年(1264)4月17日であることに関係しており、別の御書と判明した以上は、これにとらわれるべきでないとするか、日時が接近していたから一書と考えられたとするか、断定するのは難しい。
ただ、大聖人が念仏を破折されたのは、おもに弘教の前期であったことも考え合わせ、今は文永元年(1264)説に従っておく。
内容は、「法華経の題目」と「弥陀の名号」とを相対すれば如意宝珠と瓦礫のような相違があり、その功徳もはるかに異なる勝劣があることを明らかにされている。
特に、中国浄土教の祖師の一人である善導と日本浄土宗の開祖である法然(源空)の邪義を中心に念仏を破折され、法華経の題目こそ一切諸仏の根本であり、法華経の題目を捨てることが謗法の根源である、と仰せられている。
総じて、二つの点について、念仏者たちの考えを取り上げられている。
浄土宗の主張の第一は「称名念仏こそ末法の機に適う易行道である。往生浄土のために法華経の題目・南無妙法蓮華経を唱える修行は解り難く入り難い〝難行道〟であり、末法の衆生は機根が劣悪なので難行道では極楽往生できない。それに対して、観無量寿経・無量寿経・阿弥陀経の浄土三部経に説く西方の極楽世界・阿弥陀仏の住む浄土に往生するために仏の名号・南無阿弥陀仏、南無薬師如来を唱える修行は解り易く入り易い〝易行道〟であり、最も末法の衆生の機根に適っている」とするものである。
第二は「法華経の題目と弥陀の名号は大体同じである。五字七字の南無妙法蓮華経と六字の南無阿弥陀仏・南無薬師如来とはおおむね同じであるから、修行し易い南無阿弥陀仏と称える〝称名念仏〟を末法の修行としたのである」とするものである。
日蓮大聖人は、この浄土宗の立義に対し、冒頭に、法華経の題目・南無妙法蓮華経と、仏の名号・南無阿弥陀仏とは、同じようであるが、その「功徳」の勝劣は天地の違いがあって、南無妙法蓮華経のほうがはるかに勝れている、と破折されているのである。
諸仏の名号を唱えるよりも、法華経を信受し南無妙法蓮華経と唱える功徳のほうがはるかに勝ることを、法華経の陀羅尼品第二十六には「八百万億那由他恒河沙等の諸仏を供養せんより能く是の経に於いて、乃至一四句偈を受持せん功徳甚だ多し」と説かれている。
また、同品には「法華の名を受持せん者を擁護せんすら、福は量る可からず」とも説かれている。これは、法華経の名のみを受持する者を守護する者ですら福徳は計り知れないのであるから、経を具足して受持する者を守護する福はいうまでもないと説いているものであるが、ここにも法華経の題号を受持する功徳の大きさが示されている。
どうして、法華経の題目の功徳が勝れ、諸仏の名号の功徳は劣るのか。その理由は、南無妙法蓮華経は諸仏出生の種、諸仏の主・師・親であり、一切の根源である。諸仏は法華経の題目を唱えて成仏したのであるからである。
経文には、次のように説かれている。普賢経に「此の大乗経典は、諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来の出生する種なり」、「方等経典は、為れ慈悲の主なり」と。また、涅槃経に「諸仏の師とする所は所謂法なり、是の故に如来恭敬供養す」等とある。
普賢経に「此の大乗経典」「方等経典」とあるのは、普賢経は法華経の結経であり、そこで述べている「大乗経典」等が法華経をさすのは明らかである。
また涅槃経の文は総じて法勝人劣を示したものであるが、法華経の意を引き継いだものであることは明白であろう。
第二章(外道・権教の名号と題目を対比)
天竺の習ひ仏出世の前には二天・三仙の名号を唱えて天を願ひけるに仏世に出させ給いては仏の御名を唱ふ、然るに仏の名号を二天・三仙の名号に対すれば天の名は瓦礫のごとし仏の名号は金銀・如意宝珠等のごとし、又諸仏の名号は題目の妙法蓮華経に対すれば瓦礫と如意宝珠の如くに侍るなり、
現代語訳
インドの習慣では、釈尊が出世する以前には、婆羅門の二天・三仙の名号を唱えて天上界に生まれることを願ったのであるが、釈尊が出現されてからは仏の御名を唱えるようになった。しかるに、仏の名号を二天・三仙の名号に比べれば、二天等の名は瓦礫のようなものであり、仏の名号は金銀・如意宝珠等のようなものである。また、諸仏の名号は題目の妙法蓮華経に比べると瓦礫と如意宝珠のごとくに異なるのである。
語句の解説
二天
もとはインドのバラモン教の神で、シヴァ(Śiva)とヴィシュヌ(Viṣṇu)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされ、ヴィシュヌは世界の維持を司る神とされていた。シヴァ神は、梵語マヘーシュバラ(Maheśvara)、音写して摩醯首羅天、訳して大自在天。ヴィシュヌ神は音写して毘紐天、遍聞と訳された。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂(目が三つで臂が八本)で天冠をいただき、白牛に乗り、白払を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。毘紐天については、大梵天王の父で、同時に一切衆生の親であるとされていた。
三仙
インドのバラモンの開祖といわれる迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三人をいう。迦毘羅は、インド六派哲学の一つ、数論学派(サーンキヤ学派・Sāṃkhya)の開祖。漚楼僧佉は、同じく六派哲学の一つ、勝論学派(バイシェーシカ学派・Vaiśeṣika)の開祖。勒娑婆は、尼乾子外道(のちにジャイナ教)の開祖といわれている。
如意宝珠
意のままに宝物や衣服・食物等を取り出すことのできるという宝珠。如意珠・如意宝ともいう。大智度論には仏舎利の変じたものとか竜王の脳中から出たものといい、雑宝蔵経には摩竭魚の脳中から出たものといい、また帝釈天の持ち物である金剛杵の砕け落ちたものなど諸説がある。摩訶止観巻五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状、芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(1087:12)、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈し「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」(0747:02)と仰せである。
講義
インドでは釈尊が出世し仏教が興隆する以前は、古来から崇拝されていたバラモン外道の二天・三仙の名号を唱えていたのであるが、釈尊が出世して以後は、尊い仏の名号を唱えるようになったという。なにゆえに、二天・三仙の名号を唱えていたのに、仏の名号を唱えるように変わったのか。
開目抄によれば、釈尊の出世以前、二天・三仙に対しては「一切衆生の慈父・悲母・又天尊・主君と号す」(0187:08)と尊び、その名号を唱えていた。それは二天・三仙と比較する尊崇の対象がなかったからである。ところが釈尊が出世し仏教が広まると、仏教を信ずる人々にとっては、外道の二天・三仙よりも釈尊のほうがはるかに尊い存在になった。仏教徒からすれば、釈尊こそ「一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等」(0188:06)なのである。バラモン外道と仏教の勝劣については、開目抄の続きの御文に、「外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし」(0188:06)等と述べられているように、仏教は生命の因果の法理を解明し、自己の内なる惑い・煩悩を打ち破ることを教えた。それに対し、外道は自らの生命の変革を教えていないところに根本的な違いがあるとされる。
大聖人は、本抄で譬えをもって功徳の勝劣を示されている。外道の二天・三仙の名号は価値のない瓦礫、対する仏の名号は高価な金銀か如意宝珠のようなものである、と仰せである。
そして次に、仏教内においても、功徳の勝劣のあることが示されている。譬えていえば、諸仏の名号は、法華経の題目・妙法蓮華経に対すれば瓦礫であり、妙法蓮華経は如意宝珠のようなものである、と仰せである。
バラモン教の天尊と仏陀とを相対すれば、外道の天尊は瓦礫、仏(諸仏)は如意宝珠に譬えられるが、仏教内においても、諸仏の名号と法華経の題目を相対すれば、諸仏は瓦礫、妙法蓮華経は如意宝珠に譬えられるのである。諸仏は、二天・三仙に対して勝っていても、諸仏が師とする法・法華経の題目に対しては劣るということである。
第三章(人師の僻見を挙げる)
然るを仏教の中の大小権実をも弁へざる人師なんどが仏教を知りがほにして仏の名号を外道等に対して如意宝珠に譬へたる経文を見・又法華経の題目を如意宝珠に譬へたる経文と喩の同きをもつて念仏と法華経とは同じ事と思へるなり、同じ事と思う故に又世間に貴と思う人の只弥陀の名号計を唱うるに随つて・皆人一期の間一日に六万遍・十万遍なんど申せども法華経の題目をば一期に一遍も唱へず、或は世間に智者と思はれたる人人・外には智者気にて内には仏教を弁へざるが故に念仏と法華経とは只一なり南無阿弥陀仏と唱うれば法華経を一部よむにて侍るなんど申しあへり是は一代の諸経の中に一句一字もなき事なり、設ひ大師先徳の釈の中より出たりとも且は観心の釈か且はあて事かなんど心得べし、
現代語訳
そうであるのに、仏教の中の大小、権実をもわきまえていない人師等は、仏教を知ったかぶりをして、仏の名号を外道の二天・三仙等に対して如意宝珠に譬えた経文を見、また、法華経の題目を諸仏の名号に対して如意宝珠に譬えた経文と、喩えが同じであるところから、念仏と法華経とは同じことと思っているのである。
また同じことと思うから、世間に貴いと思われている人がただ弥陀の名号ばかりを唱えるのにしたがって、あらゆる人が一生の間、一日に六万遍・十万遍も念仏を唱えているのであるが、法華経の題目は一生に一遍も唱えないのである。
あるいは世間で智者と思われている人々が、外面では智者ぶっていても、内心では仏教をわきまえないがゆえに、念仏と法華経とはただ一つである、南無阿弥陀仏と唱えれば法華経を一部読むことになる等と言い合っている。
だが、これは一代の諸経の中に一句一字もないことである。たとい大師先徳の解釈の中から出てきたとしても、観心の釈か、あるいは一時のあて事であろうと心得るべきである。
語句の解説
人師
仏、菩薩ではない仏法の教導者。凡夫であって人を教え導く師のこと。ゆえに、人師の言が仏説に違うときは、人師の言語を捨て、仏説を用いなければならない。持妙法華問答抄に「唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり」(0462:03)と仰せのとおりである。
法華経
梵名サッダルマプンダリーカ・スートラ(Saddharmapuṇḍarīka-sūtra)、音写して薩達摩芬陀梨伽蘇多覧、「白蓮華のごとき正しい教え」の意。経典として編纂されたのは紀元一世紀ごろとされ、すでにインドにおいて異本があったといわれる。そのためこれを中国で漢訳する段階では、訳者によって用いた原本が異なり、種々の漢訳本ができたと推察される。こうしてできた漢訳本は、①法華三昧経(六巻。魏の正無畏訳。二五六年訳出)。②薩曇分陀利経(六巻。西晋の竺法護訳。0265年)。③正法華経(十巻。西晋の竺法護訳。0286年)。④方等法華経(五巻。東晋の支道根訳。0335年)。⑤妙法蓮華経(八巻。姚秦の鳩摩羅什訳。0406年)。⑥添品妙法蓮華経(七巻。隋の闍那崛多・達磨笈多共訳。0601年)の六種である。このうち現存するのは③正法華経、⑤妙法蓮華経、⑥添品法華経の三種があるが(六訳三存)、⑤妙法蓮華経が古来から名訳とされて最も普及しており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。内容は、それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一し、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調する。
【〔過去仏の法華経】
法華経には、釈尊の説いた二十八品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したもので、それらはすべて法華経である。
【三種の法華経】
戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の二十八品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の摩訶止観、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
念仏と法華経とは只一なり……法華経を一部よむにて侍る
中古天台では、法華経によって開会(真実を開き顕して諸教を止揚し一つに合わせること。教法のすべてが一法に帰着するとする法開会と、万人の平等の成道を説いた人開会がある)された後は、どの教を行ずるのも法華経を行ずるのと同じであるとしていた。如説修行抄には「当世・日本国中の諸人・一同に如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし、念仏を申すも真言を持つも・禅を修行するも・総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり」(0502:011)と、開会の原理を曲解した謬見が広まっていた様が記されている。
あて事
①当て推量、憶測。②期待していること、目算。ここでは①の意。
講義
ところが、仏教の大小権実をわきまえない人師は、仏の名号が外道に対比して「如意宝珠」に譬えらえているのを見ると、同じく諸仏の名号に対して「如意宝珠」に譬えられている法華経の題目と、譬えが同じであるというだけで、念仏と題目を同じであると思い込んでしまい、念仏と題目とを同等だと言い触らしたのである。
そして、このように念仏と法華経とは同じことと思うから、世間の人々は社会的に尊敬されている「貴人」が、ただ「弥陀の名号」を称えるのに見習って、念仏は称えるけれども、法華経の題目は一生に一遍も唱えない。
社会において「智者」と思われている人々でも、外見は智者ぶっているが、内には仏教をわきまえていない。
だから、「念仏と法華経とは一体であり、南無阿弥陀仏と称えれば法華経一部を読んだことになる」などと言っていることを指摘され、このような説は、一代諸経のどこにも「一字一句」もない、と破折されている。
更に、このように念仏と法華経とを一体とする説が、たとえ「大師先徳」の解釈のなかにあったとしても、それは「観心の釈」か、「あて事」すなわち憶説の思い込みにすぎないと心得るべきである、と戒められている。
ここで「観心の釈」と仰せになっているのは、経文を表面の字義に則して解釈するのではなく、本意を悟った立場から解釈することをいう。
観心の釈とは、一切法は皆是れ妙法という悟りの境地からの解釈で、当時は天台僧らが何事につけ、観心から釈した。悟りの立場でいえばそのとおりであるが、修行の立場に乱用することは大なる誤りのもととなるのである。
大聖人のこの仰せは、根本的には、「世間に貴と思う人」「世間に智者と思はれたる人々」が唱えたり、言ったりしたからというだけで用いるのではなく「一代の諸経の中にあるか否か」で判断すべきであり、もしそれが諸経に「一句一字もなき事」であれば用いてはならないとの戒めと拝される。そして、たとえ大師先徳の解釈の中から出てきたとしても、観心の釈か、あるいは一時のあて事であるか心得るべきであると仰せである。
仏法の正邪は、貴人とか智者というような「人」に依って判断してはならない。あくまでも「法」に依るべきなのである。
諸御書には、次のように仰せである。
「仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か」(0009:06)
「普賢・文殊等の等覚の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎらざらんをば用ゆべからず……天台大師云く『修多羅と合う者は録して之を用いよ文無く義無きは信受すべからず』等云云、伝教大師云く『仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ』」(0219:07)。
唱法華題目抄に「末代に法華経を失うべき者は心には一代聖教を知りたりと思いて而も心には権実二経を弁へず身には三衣一鉢を帯し或は阿練若に身をかくし或は世間の人にいみじき智者と思はれて而も法華経をよくよく知る由を人に知られなんとして世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴ばれて法華経を失うべしと見えて候」(0006:01)と仰せである。
仏教のすべてを知り尽くしているように見せかけながら邪義を説く者により、しかも、そのような人物を人々が偶像化し、盲目的に邪説に従うことによって正法は失われていくのである。
第七章(仏の遺言に違背するを破す)
問うて云く善導和尚・法然上人には何事の失あれば用いざるや、答えて云く仏の御遺言には我が滅度の後には四依の論師たりといへども法華経にたがはば用うべからずと涅槃経に返す返す禁め置かせ給いて侍るに法華経には我が滅度の後末法に諸経失せて後殊に法華経流布すべき由・一所二所ならずあまたの所に説かれて侍り、随つて天台・妙楽・伝教・安然等の義に此事分明なり、然るに善導・法然・法華経の方便の一分たる四十余年の内の未顕真実の観経等に依つて仏も説かせ給はぬ我が依経の読誦大乗の内に法華経をまげ入れて還つて我が経の名号に対して読誦大乗の一句をすつる時法華経を抛てよ門を閉じよ千中無一なんど書いて侍る僻人をば眼あらん人是をば用うべしやいなや。
現代語訳
問うていう。善導和尚や、法然上人にはどんな誤りがあるから用いないのか。
答えていう。釈尊の御遺言には「我が滅度の後には四依の論師といえども法華経に違えば用いてはならない」と涅槃経に繰り返し戒められており、法華経には「我が滅度の後、末法に諸経が利益を失った後は、特に法華経が流布する」と、一か所、二か所だけでなく多くの所に説かれている。したがって天台大師・妙楽大師・伝教大師・安然等の義にも、このことが明らかである。
それなのに善導、法然は、法華経の方便の一分である四十余年のうちの未顕真実の観経等を依りどころとし、観経の中にある「大乗を読誦する」の一句に、そのときは仏もまだ説かれていなかった法華経を無理に入れて、かえって我が経の弥陀の名号を称えることに対して「大乗を読誦する」ことを雑行として捨て、法華経を抛てよ、門を閉じよ、千中無一である、などと書いている僻人の説を、眼ある人なら、これを用いるべきだろうか。
語句の解説
四依
四つの依りどころとするもの。四不依に対する語。①法の四依、②人の四依、③行の四依、④説の四依がある。ここでは②の意で、仏滅後、正法を護持して弘通し、衆生の依り所となる論師のこと。涅槃経巻六等に説かれる。㋑具煩悩性の人(三賢の位にある声聞)、㋺須陀洹(預流)・斯陀含(一来)の人(声聞四果の第一、第二を得た人)、㋩阿那含(不還)の人(声聞四果の第三を得た人)、㋥阿羅漢の人(声聞四果の第四を得た人で最高位。見思惑を断じ尽くした人)の四種をいう。
涅槃経
釈尊の入涅槃の様子とその時に説かれた教えを記した経。大・小乗で数種ある。大乗では、中国・北涼代の曇無讖訳「大般涅槃経」四十巻(北本)、それを修訂した中国・劉宋代の慧観・慧厳・謝霊運訳「大般涅槃経」三十六巻(南本)、異訳に中国・東晋代の法顕訳「大般泥洹経」六巻がある。小乗では、同じく法顕訳「大般涅槃経」三巻等がある。大乗の涅槃経では仏身の常住、涅槃の四徳である常楽我浄を説き、一切衆生悉有仏性を明かして、善根を断じた一闡提も成仏すると説いている。また小乗の涅槃経では、釈尊の入涅槃から舎利の分配までの事跡を記している。
天台
(0538~0597)。中国・南北朝から隋代にかけての人で中国天台宗の開祖。智者大師ともいう。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺の法緒について出家し、ついで慧曠律師に仕えて律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師(慧思)を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、大いに法華経の深義を照了し、「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。
伝教
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬[万]貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)滋賀郡に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻、「山家学生式」等がある。
安然
(0841~没年不詳)。比叡山の学匠。伝教大師の同族といわれる。安慧に師事し、また慈覚の弟子となった。後に遍照について顕密二教の法を受けた。晩年、比叡山に五大院を建て、著作に励んだ。元慶元年(0877)唐に渡ろうとしたが果たせなかった。著書は「教時問答」四巻、「悉曇蔵」八巻など多数ある。
観経
観無量寿経のこと。一巻。中国・劉宋代の畺良耶舎訳。内容は、悪子・阿闍世のいる濁悪世を嘆き、極楽浄土を願う韋提希夫人に対し、釈尊は神通力によって諸の浄土を示し、そこに生ずるための三種の浄業を説き、特に阿弥陀仏とその浄土の荘厳の相を十六観に分けて説いている。
千中無一
善導の「往生礼讃偈」に五種の正行以外の法華経・その他の経教の修行によって極楽往生できる者は千人の中に一人もいないとある。
講義
そこで、では、善導、法然にどのような誤りがあって彼らの釈義を用いないのか、と質問しているところである。
これに対して、まず「我が滅度の後に、法を世に伝える四依の論師の言うことであっても、法華経に相違しているならば、用いてはならない」との趣旨の涅槃経の文を引かれている。涅槃経は仏が涅槃の直前に説いた遺言ともいうべき経である。その涅槃経では法華経に反する主張は、四依の論師の説であったとしても用いてはならないと言われているのである。
では法華経の説いていることでも何が大事かといえば、末法において流布すべき法は法華経の妙法であるということである。
すなわち法華経の薬王菩薩本事品第二十三には「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得しむること無かれ」、普賢菩薩勧発品第二十八には「如来の滅後に於いて、閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん」とある。
大集経に「我が滅度に於いて五百年の中は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固、次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造塔寺堅固、次の五百年は我が法の中に於いて闘諍言訟して白法隠没せん」等とあり、釈尊の仏法(白法)が隠没することが説かれ、法華経安楽行品にも「後の末世の法滅せんと欲せん時」と、末法には「諸経」は「失せ」るとされている。この「諸経」に代わって「法華経」が流布するのである。
大聖人はこれらの経文を踏まえて、撰時抄に「第五の五百歳当世なる事は疑ひなし、但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内……広宣流布せさせ給うべきなり」(0258:14)と仰せられているのである。
このことは明白な仏説であり、したがって天台大師、妙楽大師、伝教大師、安然和尚等の釈義においても「分明」なのである。
その天台大師の法華文句の「後の五百歳遠く妙道に沾わん」の文、妙楽大師の法華文句記の「末法の初め冥利無きに非ず」の文、伝教大師の法華秀句の「代を語れば則ち像の終わり末の初め、地を尋ぬれば唐の東・羯の西、人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり、経に云く猶多怨嫉況滅度後と、此の言良に以あるが故に」の文、守護国界章の「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り。法華一乗の機、今正しく是れ其の時なり。何を以て知る事を得ん。安楽行品に云く『末世法滅の時なり』」の文等は、大聖人が顕仏未来記その他、多くの御書で引かれるところである。
にもかかわらず、善導、法然は、未顕真実の経である観無量寿経をもとに、〝雑行〟とし、「読誦大乗」の中に法華経を含めて排斥するという、仏説にも天台・伝教大師の釈にも背く邪義を立てたのである。
然るに善導・法然・法華経の方便の一分たる四十余年の内の未顕真実の観経等に依つて仏も説かせ給はぬ我が依経の読誦大乗の内に法華経をまげ入れて……
観無量寿経には浄土へ往生するための浄業を説くなかで「未来世の一切の凡夫、浄業を修せんと欲する者をして西方極楽国土に生ずることを得せしめん。彼の国に生ぜんと欲せん者は、当に三福を修すべし。一には父母に孝養し、師長に奉持し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二には三帰を受持し、衆戒を具足して、威儀を犯ぜず。三には菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。此くの如き三事を名づけて浄業と為す」とあり、「大乗を読誦」するなどの三福を修すべきことを説いている。しかるに、中国浄土教の善導は四帖疏(観無量寿経疏)で「日観より下十三観に至る已来を名づけて定善と為し、三福九品を名づけて散善と為す」と、この三福を散善に位置づけ、同じく観無量寿経に「仏、阿難に告げたまわく『汝好く是の語を持て。是の語を持つとは即ち是れ無量寿仏の名を持つなり』とある文から『仏告阿難汝好持是語』より已下は、正しく弥陀の名号を付属して遐代〔=遥かな時代〕に流通せしめたもうことを明かす」とし「上来、定散両門の益を説くと雖も仏の本願に望むれば、意衆生をして一向に専ら阿弥陀の名を称せしむるに在り」としたのである。しかも、この文を法然は選択集で「『正しく弥陀の名号を付嘱して遐代に流通せしめたもうことを明かす』と言うは、凡そこの経の中に既に広く定散の諸行を説くと雖も、即ち定散をもって阿難に付嘱して、後世に流通せしめず、唯念仏三昧の一行をもって、即ち阿難に付属して、遐代に流通せしむるなり……定散の諸行は本願にあらず(中略)当に知るべし、随他の前には暫く定散の門を開くと雖も、随自の後には、還って定散の門を閉ず。一たび開いて以後、永く閉じざるは、唯これ念仏の一門なり」と定散の門を排斥したのである。
これを要約していうと、観無量寿経の文は三福を奨励しているのみである。善導は奨励はしていないが、本意が念仏にあるとしたのみで、排斥はしていない。ところが、法然は三福を排斥しているのである。それだけではない、この三福のなかの「読誦大乗」について、法然は「貞元入蔵録の中に、始め大般若経六百巻より、法常住経に終わるまで、顕密の大乗経、総じて六百三十七部二千八百八十三巻なり、皆須らく読誦大乗の一句に摂すべし……大乗を読誦すとの言は、普く前後の大乗の諸経に通ず。前とは観経已前の諸大乗経これなり。後とは王宮已後の諸大乗経是れなり。唯大乗と云って権実を選ぶことなし。然れば則ち正しく華厳、方等、般若、法華、涅槃等の諸大乗教に当たれり」と観無量寿経より後に説かれる法華経をも「読誦大乗」の中に含まれるとして、人々に法華経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと説いたのである。
「観無量寿経で、ただ『大乗』と言っているだけだから、観無量寿経を説く前も後もすべて含むのであり、法華経等はこの『読誦大乗』の一句に入るのである」とは随分、乱暴な議論である。「読誦大乗」等の定散の門を排斥すること自体、観無量寿経の意から外れているのに、観無量寿経より後の大乗もすべて含めて排斥されるべきだとするのは全く我見以外のなにものでもない。法華経法師品の「已今当説」の文のように、はっきり表現されていない限り、観経の時点でまだ説いていない経は含まないのが当然であり、まして観経そのものが後に無量義経で釈尊によって「未顕真実」と打ち破られるのであるから、法然の義は邪義としか言いようがない。
「眼あらん人」すなわち、これらの経釈を読み、理解できる人であるなら、善導や法然のような邪悪な説を述べた人物を用いられる道理がないと答えられている。
第八章(通力を讃える誤りを破す)
疑つて云く善導和尚は三昧発得の人師・本地阿弥陀仏の化身・口より化仏を出せり、法然上人は本地大勢至菩薩の化身既に日本国に生れては念仏を弘めて頭より光を現ぜり争か此等を僻人と申さんや、又善導和尚・法然上人は汝が見る程の法華経並に一切経をば見給はざらんや定めて其の故是あらんか、答えて云く汝が難ずる処をば世間の人人・定めて道理と思はんか、是偏に法華経並に天台・妙楽等の実経・実義を述べ給へる文義を捨て善導・法然等の謗法の者にたぼらかされて年久くなりぬるが故に思はする処なり、先ず通力ある者を信ぜば外道天魔を信ずべきか或る外道は大海を吸干し或る外道は恒河を十二年まで耳に湛えたり第六天の魔王は三十二相を具足して仏身を現ず、阿難尊者・猶魔と仏とを弁へず善導・法然が通力いみじしというとも天魔外道には勝れず、其の上仏の最後の禁しめに通を本とすべからずと見えたり、
現代語訳
疑っていう。善導和尚は三昧に入って悟りを得た人師で、本地阿弥陀仏の化身であり、口より化仏を出したという。法然上人は本地大勢至菩薩の化身として日本国に生まれ、念仏を弘めて、頭から光を現じたという。どうしてこの人たちを僻人ということができようか。また善導和尚、法然上人は、貴殿が見る程度の法華経ならびに一切経をご覧にならないはずがない。きっとその理由があるのであろう。
答えていう。貴殿が批判するところを世間の人々はきっと道理と思うであろう。これはひとえに、法華経並びに天台大師・妙楽大師等の実経・実義を述べられた文義を捨て、善導、法然等の謗法の者にたぶらかされて年久しくなったためにそう思うのである。まず通力がある者を信ずるのならば外道や天魔を信ずるのか。ある外道は大海を吸い干し、ある外道は恒河を十二年間も耳に湛えたという。第六天の魔王は神通で三十二相を具足して仏身を現じたので、阿難尊者でさえなお魔と仏とを見分けられなかった。善導、法然の通力が勝れているといっても天魔や外道には勝てない。そのうえ仏の最後の禁しめに、通力を根本としてはならないとある。
語句の解説
大勢至菩薩
勢至菩薩のこと。梵名マハースターマプラープタ(Mahā₋sthāma₋prāpta)、大勢至と訳す。法華経では得大勢と訳される。観無量寿経に「知恵を持って遍く一切を照らし、三途を離れしめて、無上の力を得せしむ」とあり、知恵の菩薩とされる。阿弥陀三尊の右脇侍(向かって左)である。法然は幼名を勢至丸といい、浄土宗の信者は法然を勢至菩薩の化身と崇めた。
天魔
天子魔のこと。第六天(他化自在天)の魔王と魔民とによって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をもって仏道修行を妨げようとする働きのこと。四魔(煩悩魔・陰魔(おんま)・死魔・天子魔)の一つ。他化自在天子魔ともいい、最も恐ろしい魔とされる。
或る外道は大海を吸干し
涅槃経によると、耆菟仙人は一日の中に四海の水を飲み、大地を乾かしたとされる。
或る外道は恒河を十二年まで耳に湛えたり
涅槃経によると、阿伽陀仙人は、十二年間、恒河の水を耳の中に入れるという神通力をもっていたという。
第六天の魔王
他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
三十二相
仏や転輪聖王が身に備えている勝れた特質のなかで、特に著しい三十二の相。八十種好(細かく、見難い特質)と合わせて仏の相好という。三十二の名称・順位については諸経論に異説がある。
阿難尊者・猶魔と仏とを弁へず
涅槃経巻四十憍陳如品第十三の二に「爾の時に世尊、知り已りて即ち憍陳如に告げたまいて言わく、『阿難比丘は今、いずれの所に在りと為さんや』。憍陳如の言さく、『世尊、阿難比丘は、沙羅林の外、此の大会を去ること十二由旬に在り。六万四千億の魔の嬈乱するところなり。是の諸の魔衆、悉く自ら身を変じて如来の像と為る(中略)阿難比丘の魔羂に入る』とあり、阿難が仏と魔との区別をつけることができなかった様子が記されている。
講義
善導・法然は仏の心に背き、法華経にたがっているから用いないのであると言われたのに対し、問者は善導・法然の超人的な力を挙げ、法華経なども知ったうえで「千中無一」「捨閉閣抛」と言ったにちがいないと反論する。
この念仏者の善導・法然擁護の論点は二つである。第一は〝善導和尚は深き禅定に入り、悟りを得た三昧発得の人師であり、本地の阿弥陀如来が衆生を救うために再来した化身である。口からは仏を化現したという聖者である。また、法然上人は本地大勢至菩薩の化身であり、その再来として日本国に生まれて念仏を弘め、頭から光明を現じたという聖者である。どうして、これほどの素晴らしい人を僻見の人ということができようか〟というものである。要するに、特別な通力・威徳を持っている〝人〟である、といいたいわけである。
また第二は〝善導和尚、法然上人は、汝(大聖人)が読んだぐらいの法華経や一切経を見なかったはずがない。法華経等を捨てて念仏の行に帰したのは、きっと正当な理由があってのことであろう〟というものである。ここでは、そのようにすぐれた人だから全てを知ったうえで言われたのであり、一見、凡夫には矛盾するようでも、もっと深い道理にのっとっておられたのではないかという考え方が反映されている。
以上の二点に答えるまえに、大聖人は「念仏者の疑難を世間の人々もきっと道理であると思うであろう」と言われ、なぜそうなったかについて、「人々が法華経と天台大師・妙楽大師等の法華宗の実義を捨てて、善導・法然等の法華誹謗の者にたぶらかされて年久しくなったためである」と仰せられている。道理に合わない教えも長い間、くり返し聞かされていると、それが正しいように思われてくるのである。そうした人間の心理の弱さを指摘されているのである。
それとともに、かつては法華経・天台仏法により、まともな考え方ができた人々が、不合理な神秘主義に囚われ、堕落していく場合も少なくないのであり、このことも常に戒めていかなければならない点であろう。
彼らの言う、善導・法然が仏菩薩の化身であるというのは、尊敬するあまりの神格化であり、口から仏を化現したとか頭から光明を現じたというようなことは、いわゆる〝通力〟に属するものである。通力をもっている者が尊いとするならば、外道か天魔を信ずべきであろうと破折されている。なぜなら、たとえ善導、法然が通力をもっていたとしても、それらは天魔・外道について言われている通力には遠く及ばないのであり、通力をもって尊ぶとするならば、天魔・外道こそ尊ばなければならないからである。
その例として、外道の通力を二つと天魔の通力を挙げられている。まず「或る外道は大海を吸干し」は耆菟仙人である。耆兎仙人は伝記不明であるが、涅槃経によると「一日の中に四海の水を飲みほし、大地をして乾かしめた」とある。また「或る外道は恒河を十二年まで耳に湛えたり」は阿伽陀仙人外道である。
次に大聖人は、第六天の魔王の通力を挙げられている。第六天の魔王は通力で三十二相を具足して仏身を現じたといわれる。三十二相といえば、仏・転輪聖王のもつ相であり、その通力の大きさは外道とは比較にならない。まして、善導や法然の通力とは比べ物にならない。通力をもって信ずるというなら、第一に第六天の魔王を信ずるべきだということになる。そして第六天の魔王を信じれば、堕地獄なのである。その説いている教えの正邪の判断は、文証、理証、現証によるべきで、教えの内容とは関係のない通力を基準にすること自体が誤りなのである。
この問題については、大聖人は唱法華題目抄や星名五郎太郎殿御返事等にも述べられており、大聖人が不合理な神秘主義を厳しく排斥されたことがうかがわれる。
唱法華題目抄には「疑つて云く唐土の人師の中に慈恩大師は十一面観音の化身牙より光を放つ、善導和尚は弥陀の化身口より仏をいだすこの外の人師通を現じ徳をほどこし三昧を発得する人世に多しなんぞ権実二経を弁へて法華経を詮とせざるや、答えて云く阿竭多仙人外道は十二年の間耳の中に恒河の水をとどむ婆籔仙人は自在天となりて三目を現ず、唐土の道士の中にも張階は霧をいだし鸞巴は雲をはく第六天の魔王は仏滅後に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・阿羅漢・辟支仏の形を現じて四十余年の経を説くべしと見えたり通力をもて智者愚者をばしるべからざるか、唯仏の遺言の如く一向に権経を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は権経に宿習ありて実経に入らざらん者は或は魔にたぼらかされて通を現ずるか」(0016:07)と述べられ、通力によって自らを立派に見せようとするのは彼ら自身が魔にたぶらかされているのである、と仰せられている。
また星名五郎太郎殿御返事にでは「善導・法然等は種種の威を現じて愚癡の道俗をたぶらかし如来の正法を滅す」(1209:04)と言われた後、「阿竭多仙人」「耆菟仙人」「拘留外道(長生きの薬を飲み、釈尊出生前八百年の間に牛臥の形の石となり、それを見た門人たちが涅槃に入ったと称したという)」の例を挙げられ、また「瞿曇仙人」「弘法」が仏身を現じて衆生を惑わした例を挙げられて、通力などには何の価値もなく、正法に適っているか否かが大事であって、正法誹謗の者は一切衆生の悪知識であるから近づいてはならない、と厳しく戒められている。
「阿難尊者・猶魔と仏とを弁えず」とは涅槃経に、釈尊の十大弟子の一人・阿難尊者といえども如来の姿を現じた魔を見抜けなかったと説かれていることをいう。
第九章(先人の正した天台等の例挙げる)
次に善導・法然は一切経・並に法華経をばおのれよりも見たりなんどの疑ひ是れ又謗法の人のためにはさもと思ひぬべし、然りといへども如来の滅後には先の人は多分賢きに似て後の人は大旨ははかなきに似たれども又先の世の人の世に賢き名を取りてはかなきも是あり、外典にも三皇・五帝・老子・孔子の五経等を学びて賢き名を取れる人も後の人にくつがへされたる例是れ多きか、内典にも又かくの如し、仏法漢土に渡りて五百年の間は明匠国に充満せしかども光宅の法雲・道場の慧観等には過ぎざりき、此等の人人は名を天下に流し智水を国中にそそぎしかども・天台智者大師と申せし末の人・彼の義どもの僻事なる由を立て申せしかば初には用ひず後には信用を加えし時始めて五百余年の間の人師の義どもは僻事と見えしなり、日本国にも仏法渡りて二百余年の間は異義まちまちにして何れを正義とも知らざりし程に伝教大師と申す人に破られて前二百年の間の私義は破られしなり、其の時の人人も当時の人の申す様に争か前前の人は一切経並に法華経をば見ざるべき定めて様こそあるらめなんど申しあひたりしかども叶はず経文に違ひたりし義どもなれば終に破れて止みにき、
現代語訳
次に善導、法然は一切経並びに法華経を貴殿よりも見ているであろうとの疑問も、これまた謗法の人にすれば〝なるほど〟と思ってしまうだろう。
しかしながら仏の滅後には先の人がだいたい賢く、後の人は劣っているようであるけれども、先の世の人で世間から賢いとされて実は愚かな人もある。
外典にも、三皇・五帝・老子・孔子の五経等を学んで賢いと名を取った人も、後の人に覆された例は多いようである。
内典でも同様である。仏法が漢土に渡って五百年の間は、立派な学者が国に充満していたけれども、光宅寺の法雲、道場寺の慧観等を越えられなかった。これらの人々は名を天下に流布し、その智慧は国中にその恩恵をもたらしたけれども、天台智者大師という末の世の人が彼らの義の間違っているわけを言ったら、初めは用いなかったが、後になって信用するようになり、初めて五百余年の間の人師の法義は誤りであることが分かったのである。
日本国でも仏法が渡来して二百余年の間は異義がいろいろで、どれが正義なのかも知らないでいたところに伝教大師という人が出現して、それまでの二百年の間のさまざまな私義は打ち破られてしまった。その当時の人々も現在の人が言うように「以前の人々は一切経並びに法華経を見ないことがあろうか。だからきっと訳があるのだろう」などと言い合っていたが、道理にはかなわず、経文に相違している義があったので、ついには破れてしまったのである。
語句の解説
三皇
中国上古の伝説上の君主。具体的に誰をさすかは異説が多い。一説には伏羲(庖犧)・神農・燧人(それぞれ漁猟・農耕・火食の発明者)、または燧人の代わりに祝融(火を司る神官)・女媧(女神)・黄帝(諸王朝の祖)のいずれかを挙げる説、あるいは天皇・地皇・人皇とする説がある。これらは人類の文明起源を説いた伝説を擬人化したものと考えられる。日蓮大聖人は和漢王代記で三皇を伏羲・神農・黄帝とされている。
五帝
三皇に続く中国古代の五人の帝王。「史記」の五帝本紀によれば黄帝・顓頊・帝嚳・唐堯((堯王)・虞舜(舜王)を挙げるなど、諸説がある。日蓮大聖人は和漢王代記で五帝を少昊・顓頊・帝嚳・堯王・舜王とされている。
老子
生没年不明。中国周代の思想家。道徳経を著す。史記(列伝)によると、楚の苦県(河南省鹿邑県)の人。姓は李、名は耳,字は耼、または伯陽。周の守藏の吏(蔵書室の役人)であった。周末の混乱を避け隠棲しようとして、関所を通る時、関の令(関所の長官)尹喜が道を求めたので、「老子道徳経」五千余言を著して去った。老子の思想の中心は道の観念であり、道には、一・玄・虚無の義があり、それが万物を生みだす根元の一者として、あらゆる現象界を律しており、人は道の原理に法って事を行えば現実的成功を収めることができるとする。
孔子
(BC0551~BC0479)。中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。氏は孔、名は丘、字は仲尼。魯国の昌平郷陬邑(山東省曲阜付近)の人。貧しいなかで育ったが、礼を学び学問に熱心であった。魯国に仕え、理想政治の実現を目指して政治改革を行ったが失脚して、衛・陳等を遍歴した。紀元前四八四年に魯国に帰って著述に励み、顔回・子路・子貢・子游など多くの弟子の育成に務めた。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。
五経
需家の基本的な文献である易経・書経・詩経・礼記・春秋のこと。古来、知識人の間では教養上の必読書とされていたが、漢の武帝が儒学研究のために五経博士を置いてから更に重要性が増した。ただし、この時の五経には礼記・春秋は含まれず儀礼・春秋公羊伝が用いられていた。
光宅の法雲
(BC0467~0529)。中国・南北朝時代の僧。光宅寺法雲と呼ばれる。開善寺の智蔵、荘厳寺の僧旻とともに梁の三大法師と称され、成実、涅槃の学匠として名高い。江蘇省常州府宜興県の人。姓は周氏。七歳で出家し、三十歳で法華経・浄名経を講じた。天監7年(0508)勅により光宅寺の主となり、普通6年(0525)大僧正に登る。南三北七の南三の第三にあたる定林寺の僧柔・慧次および道場寺の慧観の立てた五時教の釈を用い、涅槃経は法華経に勝るとしている。
道場の慧観
生没年不明。中国・南北朝時代の僧。道場寺慧観と呼ばれる。清河(山東省東昌府清平県)の人。姓は崔氏。幼少にして出家し、廬山の慧遠に師事した。姚秦の弘始3年(0401四)長安に来た鳩摩羅什に師事して竺道生・僧肇らとともに高弟となる。「法華宗要序」を著す。羅什の没後、荊州の高悝寺や楊都(建康)の道場寺に住み法を弘めた。著書には「弁宗論」「論頓悟漸悟義」等がある。慧厳・謝霊運らとともに法顕訳の「大般泥洹経」(六巻本)と「大般涅槃経」四十巻(北本)とを対校して、新たに「大般涅槃経」三十六巻(南本)を作り、涅槃経研究の盛行の端緒となった。また、定林寺の僧柔や慧次とともに南三北七の南三の第三にあたる五時教(有相教〈阿含経〉、無相教〈般若経〉、抑揚教〈浄名経等〉、同帰教〈法華経〉、常住教〈涅槃経〉)を立て、涅槃経を最上の教えとした。
講義
次に第二の、善導・法然が「千中無一」「捨閉閣抛」と言ったのは一切経並びに法華経を見たうえでのことで、あなたよりも深く仏法を知っての結論だったはずだという疑難について、答えられている。これについてまず、謗法の人にとってみれば、この意見はいかにももっともであると思ってしまうであろう、と仰せられている。
如来滅後は、正法から像法、そして末法と推移することから前代の人が賢明で、後代の人はおおむね愚かであるように思われるが、その逆もあり、その時代には世間から賢人の名声を得ても、時が経つと名声は失われてしまう人もいると反論され、中国の儒教や道教においても、三皇・五帝・老子・孔子の五経等を学んで、賢人と謳われながら、後世の人にその名声を覆された例は多くあると仰せられている。
仏法の歴史でも同様であるとして、中国と日本における例を挙げられている。中国の例は、光宅寺の法雲、道場寺の慧観らの義が天台大師に打ち破られたことであり、日本の例は、仏法が日本に渡って二百年余りの間に立てられた諸説が伝教大師によって打ち破られたことである。
光宅寺の法雲は中国・南北朝時代の南家の一人で涅槃宗の祖師となった。南三北七の十師の筆頭と目された存在であった。一代仏教を五時に分けて三経を選び出し、華厳経第一、涅槃経第二、法華経第三の説を立てた。
道場寺の慧観もまた南北朝時代の人で、鳩摩羅什に師事した。南三北七の中の南地の第三師として、五時教判を立て、法雲にも影響を与えた。
これらの人々はその名声を天下に喧伝され、その智慧は国中に感化を及ぼしたが、天台智者大師が立てた五時八教説によってこれら南三北七は悉く打ち破られたのである。慧観は法華経を漢訳した羅什に師事したのであるから、法華経を知っていたことはもとよりであるが、その智解は天台には敵わなかったのである。
日本の場合には仏法が渡来して二百年ぐらいの間、南都奈良を中心とした小乗・権大乗教の俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗が種々、異なった法義を立てていたところに、伝教大師が出て、法華経を根本に南都六宗の義を打ち破った。
四信五品抄に「夫れ人王三十代欽明の御宇に始めて仏法渡りし以来桓武の御宇に至るまで二十代二百余年の間六宗有りと雖も仏法未だ定らず、爰に延暦年中に一りの聖人有つて此の国に出現せり所謂伝教大師是なり、此の人先きより弘通する六宗を糾明し七寺を弟子と為して終に叡山を建てて本寺と為し諸寺を取つて末寺と為す」(0342:16)と述べられているとおりである。
伝教大師当時の人々も、大聖人御在世の人が言うように「どうして、以前の人師は一切経ならびに法華経を見ていないであろうといえよう。きっと理由があるにちがいない」と言ったが、伝教大師の義にはかなわず、諸宗の立義は経文に相違する私義であったので、伝教大師に打ち破られた、と仰せられている。
第十章(念仏者の経文違背を責める)
当時も又かくの如し此の五十余年が間は善導の千中無一・法然が捨閉閣抛の四字等は権者の釈なれば・ゆへこそあらんと思いてひら信じに信じたりし程に日蓮が法華経の或は悪世末法時或は於後末世或は令法久住等の文を引きむかへて相違をせむる時我が師の私義破れて疑いあへるなり、詮ずるところ後五百歳の経文の誠なるべきかの故に念仏者の念仏をもて法華経を失ひつるが還つて法華経の弘まらせ給うべきかと覚ゆ、但し御用心の御為に申す世間の悪人は魚鳥鹿等を殺して世路を渡る、此等は罪なれども仏法を失ふ縁とはならず懺悔をなさざれば三悪道にいたる、又魚鳥鹿等を殺して売買をなして善根を修する事もあり、此等は世間には悪と思はれて遠く善となる事もあり、仏教をもつて仏教を失ふこそ失ふ人も失ふとも思はず只善を修すると打ち思うて又そばの人も善と打ち思うてある程に思はざる外に悪道に堕つる事の出来候なり、当世には念仏者なんどの日蓮に責め落されて我が身は謗法の者なりけりと思う者も是あり、
現代語訳
今もまた同じことである。この五十余年の間は善導の「千中無一」、法然が唱えた「捨閉閣抛」の四字等は、阿弥陀や勢至菩薩が仮に出現された、立派な権者の釈であるから、わけがあるのだろうと思ってひたすら信じていたところに、日蓮が法華経のあるいは「悪世末法の時」、あるいは「後の末世に於いて」、あるいは「法をして久住せしめ」等の文を引いて、相違を責める時、自分の師の私義が破れて疑うようになってきたのである。
所詮は「後の五百歳(広宣流布)」の経文が真実となるのが当然で、念仏者が念仏をもって法華経を滅ぼそうとしてきたのが、かえってそれによって法華経が弘まるのであろうと思われる。
ただしご用心のために申し上げる。いわゆる世間の悪人は魚、鳥、鹿等を殺して生活している。これらは罪ではあるが、仏法を滅ぼす縁とはならない。ただし懺悔をしなければ三悪道に堕ちる。また、魚、鳥、鹿等を殺して売買し、善根を修することもある。これらは世間では悪と思われても遠くは善となることもある。
仏教をもって仏教を滅ぼすことこそ、滅ぼしている人も自分が仏教を滅ぼしているとも思わず、善を行っているのだと思いこんでおり、また周囲の人もそう思っているのであるが、それとは裏腹に悪道に堕ちる結果になるのである。今の世には念仏者等が日蓮に責め落とされて我が身は謗法の者だったのだと気づいている者もある。
語句の解説
捨閉閣抛
法然の選択集に、雑を捨て、定散の門を閉じ、聖道門を閣き、諸雑行を抛ちとあり、これらの四文字をあわせて捨閉閣抛という。浄土宗の依経である観経等の浄土三部経以外の一切経を否定した言葉であり、自宗を浄土門・易行道・正行と立て、他宗を聖道門・難行道・雑行と称して、捨閉閣抛と説いた。
権者
権の姿のこと。実者に対する語。仏・菩薩が衆生救済のために娑婆世界にあらわれる化身をいう。権化・権現ともいう。
令法久住
「法をして久しく住せしめん」と読む。法華経見宝塔品第十一の文。未来永遠にわたって妙法が伝えられていくようにすること。
後五百歳
釈尊滅後の時代を五百年ごとに五期に区切って、仏法流布の時代的推移を説き明かした中の第五の五百年をいう。この時は、仏法者が互いに自説に執着して争い合い、釈尊の正しい仏法が隠没する時代とされている。しかし、法華経薬王菩薩本事品には、この時に法華経の大白法が広宣流布することが説かれている。
世路
「せろ」「せいろ」と読む。世の路、世の中。世渡りの道理をいう。
講義
大聖人御在世の当時も、天台大師や伝教大師の時と同じであることを述べられている。
「此の五十余年が間」とは、法然の専修念仏が日本中に広まるようになってからの歳月をいわれている。
撰時抄に次のように仰せである。
「顕真座主落ちさせ給いて法然が弟子となる、其の上設い法然が弟子とならぬ人々も弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし心よせにをもひければ日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり、此の五十年が間・一天四海・一人もなく法然が弟子となる法然が弟子となりぬれば日本国一人もなく謗法の者となりぬ」(0274:11)と。
顕真は叡山天台宗の第六十一代座主である。〝その座主ですら法然の弟子となった。そのうえ、弟子でもない人々までも念仏を口ずさむほどであった。こうしてすべての人々が法然の弟子となり、一国謗法となった〟ということである。
この念仏宗を信じた多くの人々は善導の「千中無一」、法然の「捨閉閣抛」の四字等については、阿弥陀如来・大勢至菩薩が衆生を救うために権の姿を現じられた聖者の所説なので、法華経を捨てよと言われることも深い理由があってのことであろうと思って、盲目的に信じてきたと言われている。
こうした時に、大聖人が現れて、法華経を根本として、誤った法義を呵責していかれたのである。大聖人が念仏を打ち破るうえで用いられた法華経の文として、ここでは「悪世末法時」「於後末世」「令法久住」を挙げられている。それぞれ前後を補うと次のような文である。
分別功徳品第十七の「悪世末法の時 能く是の経を持たば 則ち為れ已に上の如く 諸の供養を具足す」の文。
安楽行品第十四の「後の末世の法滅せんと欲せん時に於いて、法華経を受持すること有らん者は、在家・出家の人の中に於いて大慈の心を生じ」の文。
見宝塔品第十一の「法をして久しく住せしめんが 故に此に来至したまえり」の文。
これらの経文は、いずれも法華経こそ悪世末法の時に弘められるべき法であることを明らかにしたものである。大聖人は、これらの文によって、法華経等を捨てよと説く念仏宗の誤りを指摘されたのである。
その結果、念仏宗の人々の中にも、法然の教えに対し疑問を抱く人が出てきた、と仰せられ、所詮、法華経の薬王品第二十三に「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布」と説かれていることが真実になっていくのは必然であるから、念仏者が念仏をもって法華経を捨てさせようとしたことも、かえって法華経が弘まる機縁となるのである、と仰せられている。
これは、大聖人にとって、念仏宗の邪義があるゆえに、正法を明らかにしやすいということ、また念仏の流布したことが題目の流布の素地を調えたということで、大聖人は大悪大善御書にも「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし」(1300:01)と仰せである。
このように大聖人の眼からすれば念仏宗も法華経の正法が流布する瑞相であるが、念仏が謗法の大罪であることは変わりない。
ゆえに大聖人は次に「但し御用心の御為に申す」として、〝魚、鳥、鹿等を殺すことは罪であるが仏法を滅ぼす縁とはならず、時によっては魚、鳥、鹿等を殺して売買することを生業としていても、それによって保った命によって善根を積むこともある。したがって、社会的には悪と思われても、仏法上からは善の遠因となることがある〟と仰せられ、それに対して〝仏法をもって仏法を滅ぼすことは、失う人も善根を修しているのだと思い、また周囲の人も善であると思うゆえに懺悔もしないから、かえって悪道に堕ちることがある〟と警告されている。
世間の悪をもって仏法を破ることはできないし、またその悪は見破りやすい。しかし、仏法を行ずる者が仏法を破壊するのは自覚がないゆえに謗法の者も、また一切衆生も皆、悪道に堕ちるのであり、最も恐れなければならないのである。それを気づかせるために大聖人は折伏を行じられているのであり、今の念仏者たちは、大聖人の折伏にあい、邪法邪義を責め落とされて初めて〝我が身は謗法の者であったのだ〟と気づく人も出てきている、と仰せられている。
第十一章(聖道門の人の法華経誹謗を挙げる)
聖道の人人の御中にこそ実の謗法の人人は侍れ彼の人人の仰せらるる事は法華経を毀る念仏者も不思議なり念仏者を毀る日蓮も奇怪なり、念仏と法華とは一体の物なり、されば法華経を読むこそ念仏を申すよ念仏申すこそ法華経を読むにては侍れと思う事に候なりとかくの如く仰せらるる人人・聖道の中にあまたをはしますと聞ゆ、随つて檀那も此の義を存じて日蓮並に念仏者をおこがましげに思へるなり
現代語訳
聖道門の人々の中にこそ、まことの謗法の人々がいる。彼の人々の言っていることは「法華経を毀る念仏者も不思議であり、念仏者を毀る日蓮も奇怪である。念仏と法華経とは一体のものである。したがって法華経を読むことこそ念仏を称えることであり、念仏を称えることこそ法華経を読むことになると思う」と、このように言う人々が聖道門の中に数多くいると聞いている。したがって檀那たちもこの義を知って、日蓮並びに念仏者をばかげていると思っているのである。
語句の解説
聖道
自力によってこの現実世界で成仏することができると説く聖道門のこと。娑婆世界を穢れた世界として嫌い、他力によって極楽往生を願う浄土門に対する語。安楽集に説かれる二門(聖道門・浄土門)の一つ。道綽の安楽集巻上には「聖道の一種は今時に証し難し(中略)唯浄土の一門のみ有りて、通入すべき路なり」とある
講義
以上のように、念仏者が「仏教をもつて仏教を失ふ」謗法の者であることを示されたうえで、更に大聖人は、聖道門の人々の中に、かえって真の謗法の者がいると仰せられている。聖道門とは、念仏を浄土門とし、念仏以外の諸経・諸宗をさしていう、念仏宗の用語である。ここでは、天台宗・真言宗などの人々をさしている。彼らは、本来なら、念仏を破折すべき立場にありながら、念仏宗に妥協して念仏を取り入れている人々もおり、その理屈として念仏も法華経もともに仏の教えであって差別はないとしたのである。
それを裏づける理論として、法華経によって一切経が開会された後は、一切法は皆法華経であるとしたのである。こうした旧仏教の考え方が流布していたことは、如説修行抄にも「当世・日本国中の諸人・一同に如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし、念仏を申すも真言を持つも・禅を修行するも・総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり等云云」(0502:10)と挙げられている。
この立場から、彼らは〝法華経を毀る念仏者もおかしいが、念仏者を毀る日蓮も不可解である。念仏と法華とは一体なのだから、法華経を読むことは念仏を称えているのと同じであり、念仏を称えることは法華経を読んでいるのと同じである〟と言っている。天台宗・真言宗は当時の日本では最も権威があり、その高僧たちは日本仏教界の頂上に立つ人々であった。当然その「檀那」は、日本の指導的な立場の人々で、この考えに同調した。この、いわば〝無関心〟が念仏の謗法を野放しにする結果を招いていたのである。
第十二章(念仏と法華経の同一視を破す)
先日蓮が是れ程の事をしらぬと思へるははかなし。
仏法漢土に渡り初めし事は後漢の永平なり渡りとどまる事は唐の玄宗皇帝・開元十八年なり、渡れるところの経律論・五千四十八巻・訳者一百七十六人其の経経の中に南無阿弥陀仏は即南無妙法蓮華経なりと申す経は一巻一品もおはしまさざる事なり、其の上阿弥陀仏の名を仏説き出し給う事は始め華厳より終り般若経に至るまで四十二年が間に所所に説かれたり、但し阿含経をば除く一代聴聞の者・是を知れり、妙法蓮華経と申す事は仏の御年七十二・成道より已来四十二年と申せしに霊山にましまして無量義処三昧に入り給いし時・文殊・弥勒の問答に過去の日月燈明仏の例を引いて我燈明仏を見る乃至法華経を説かんと欲すと先例を引きたりし時こそ南閻浮提の衆生は法華経の御名をば聞き初めたりしか、三の巻の心ならば阿弥陀仏等の十六の仏は昔大通智勝仏の御時・十六の王子として法華経を習つて後に正覚をならせ給へりと見えたり、弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は妙法蓮華経の五字を習つてこそ仏にはならせ給ひて侍れ、全く南無阿弥陀仏と申して正覚をならせ給いたりとは見えず、妙法蓮華経は能開なり南無阿弥陀仏は所開なり、能開所開を弁へずして南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知りがほに申し侍るなり、
現代語訳
まず、日蓮がこの程度のことを知らないと思うのは愚かしいことである。
仏法が中国に渡り始めたのは、後漢の永平年間である。渡り終わったのは、唐の玄宗皇帝の時代、開元十八年である。渡されたところの経・律・論は五千四十八巻に及び、訳者は一百七十六人にもなるが、その経々の中に南無阿弥陀仏は即南無妙法蓮華経であると言っている経は一巻一品も存在しない。そのうえ、阿弥陀仏の名を仏が説き出されたのは始め華厳経から終わり般若経に至るまでの四十二年の間に、所々に説かれたのである。ただし阿含経は除く。釈尊一代の説法を聴聞した者はそれを知っている。妙法蓮華経というのは、仏が御年七十二、初成道より以来、四十二年という時に、霊鷲山にいらっしゃって無量義処三昧にお入りになった時、文殊師利菩薩が弥勒菩薩の問いに答えて「私が過去に日月燈明仏にお会いしたとき、今と同じ瑞相が起き、仏は法華経を説こうと言われた」と先例を引いて述べたが、この時初めて、この世界の衆生は法華経の御名前を聞いたのである。
法華経第三の巻の化城喩品の意によると、阿弥陀仏等の十六の仏は昔、大通智勝仏の御時に十六の王子として法華経を修行して正覚を得られたのである。阿弥陀仏等も凡夫であった時は妙法蓮華経の五字を修行してこそ仏になられたのである。全く南無阿弥陀仏と言って正覚を得られたわけではない。妙法蓮華経が根本(能開)の法であり、南無阿弥陀仏はその南無妙法蓮華経から開かれて出てきた所開の法である。この能開・所開の違いもわきまえないで、南無阿弥陀仏は南無妙法蓮華経であると物知り顔に言っているのである。
語句の解説
渡りとどまる事は唐の玄宗皇帝・開元十八年
開元18年(0730)は、後世の経録の範とされ、大蔵経に収められるべき仏教経典の基準とされた目録、『開元釈教録』二十巻(唐の智昇撰)が成立した年である。目録の千七十六部・五千四十八巻は後世に大蔵経の標準巻数となったゆえ、大聖人は開元録完成の年を以て、仏典の漢土への渡来の終わりとされたものと思われる。
渡れるところの経律論・五千四十八巻
後漢の孝明皇帝の時から唐の玄宗皇帝の時までに翻訳された経・律・論の数。守護国界章巻上に「後漢の孝明皇帝永平十年歳次丁卯)より、大唐神武皇帝開元十八年庚午の歳に至りて、凡そ六百六十四載……伝訳せる経律論等をみるに、一千七十六部、五千四十八巻、四百八十帙なり」とある。この記述は、開元釈教録巻一、同巻十九にもある。なお、帙は書物の損傷を防ぐために覆い包むものをいい、書物を数える単位として用いられた。
文殊・弥勒の問答
釈尊が無量義処三昧に入った時に地動瑞や光瑞等の六瑞が起こり、瑞相が生じた訳を弥勒が大衆を代表して文殊に聞き、文殊が答えたことをさす。文殊は弥勒の問いに対して、過去の諸仏も同じ瑞相が起きた時に妙法蓮華経を説いているので、今、釈尊も妙法蓮華経を説くであろうと言った。
日月燈明仏
略して燈明仏(灯明仏)ともいう。法華経序品第一の最初に、八万の大菩薩、万二千の声聞衆、その他のあらゆる衆生が、釈迦仏のもとへ集まったところ、天より曼陀羅華が降り、地は六種に震動し、仏は眉間の白亳より光を発ち、万八千の世界を照らした。大衆は不思議に思い、弥勒菩薩が代表して文殊師利菩薩にこの瑞相の訳を問いた。文殊が答えるには、「過去世に日月燈明仏がおられた。声聞に四諦の法を、縁覚に十二因縁を、菩薩に六波羅蜜の教えをそれぞれ説いて、菩提を成ぜしめた。さらにその次の仏、そして次の仏と、二万の仏が生じ、それがみな同一の仏号をもって出世した。その最後の日月燈明仏がまだ出家していないとき、八人の王子があり、みな父に従って出家した。そのとき、日月燈明仏は無量義経を説き、無量義処三昧に入った。その後、皆が今見ているところの瑞相を現じてのち、八百の弟子の上首である妙光菩薩によせて、法華経を説いた。その時の妙光菩薩とは、我、文殊である。日月灯明仏は法華経を説き終わって、涅槃にはいった。それがあたかも、いまの釈迦仏のようであった」と、無量義処三昧から法華経開説までの因縁を明かしたのである。
大通智勝仏の御時・十六の王子
法華経化城喩品第七に、大通智勝仏が三千塵点劫の昔に出現して法華経を説法したことが説かれる。劫を大相、国を好成といい、十六人の王子がいた。魔軍を破し終わった後、十小劫じっと坐ってついに悟りを得た。成道後、十六王子や諸の梵天王の請いによって四諦・十二因縁の法を説き、十六王子もまた出家した。更に二万劫を経て十六王子の請いによって法華経を説いた。その後八千劫の間、法華経を説いたが、十六王子と少数の声聞以外はだれも信解せず、ついに静室に入り八万四千劫の間、禅定に住した。その間、十六王子はそれぞれの場所で広く法華経を説き、おのおの六百万憶那由他恒河沙等の衆生を成仏させた。これを大通覆講といい、この時、法を聞いた衆生を大通結縁の衆という。大通智勝仏は八万四千劫の禅定の後、法座に登って十六王子の法を信受した者は成仏すると説いた。この十六王子の九番目の王子が阿弥陀仏、第十六番目が釈尊である。
講義
まず、大聖人が念仏と法華が一体であるか否かぐらいのことを知らないわけがなく、知らないと思っている念仏者の愚かさを指摘されたあと、二点にわたって破折されている。その第一は、南無阿弥陀仏が南無妙法蓮華経と同じであると説いている経は一つとしてないということである。第二は、南無妙法蓮華経が能開、南無阿弥陀仏は所開であり、阿弥陀仏も南無妙法蓮華経を習って仏に成ったという点である。
仏法が中国に伝来しはじめたのは、後漢の永平年間であり、渡り終わったのは唐の玄宗皇帝の開元18年(0730)で、その間、伝えられた旧訳の経・律・論は合わせて五千四十八巻、訳者は百七十六人であると仰せられている。その経々のなかに、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経が一体であると説いている経は、一巻一品も存在していないと断言されている。
そのうえ、阿弥陀仏の名は小乗の阿含経を除いて、爾前経のさまざまな個所に出ていると仰せられている。それだけ阿弥陀仏といっても、さまざまあるということで、このことはまた、結局、阿弥陀仏は枝葉にすぎないということである。これに対し、妙法蓮華経の名は爾前経にはなく、法華経に至って初めて出るのである。大聖人は法華経序品第一の文を引かれている。
大衆が法華経の説法に集まり、いよいよ説法が始まろうとする序品第一の冒頭に、次の一節がある。
「爾の時、世尊は四衆に囲遶せられ、供養・恭敬・尊重・讃歎せられて、諸の菩薩の為めに大乗経の無量義と名づけ、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるるを説きたまう。仏は此の経を説き已って、桔跏趺坐し、無量義処三味に入りて、身心動じたまわず」。
「此の経」とは無量義経であり、無量義経の説法のあと、仏は、無量義を生み出す根源の法について心を定め、思索に入ったのである。その時、放光瑞・地動瑞・雨華瑞等、いまだかつてない不可思議な種々の瑞相が現われる。弥勒菩薩が文殊師利菩薩に、その理由を聞いたところ、文殊は、過去に日月燈[灯]明仏の法華経の説法の会座に列席した時のことを語る。「我れは灯明仏を見たてまつりしに 本の光瑞は此の如し 是れを以て知んぬ今の仏も 法華経を説かんと欲するならん」――昔、燈明仏が法華経を説こうとされた時の光瑞等も、ちょうど今の瑞相と同じであった。これをもって考えるに、今の釈尊も法華経を説こうとされているのであろう――と答えた。この文殊の言葉によって、南閻浮提の衆生は法華経の御名を初めて聞いたのである、と仰せられている。
阿弥陀仏の名がさまざまな経に見られ、妙法蓮華経が法華経説法の時にしか顕れないということは、阿弥陀は枝葉であるのに対し、妙法蓮華経は根本であることをあらわしているのである。
三の巻の心ならば……弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は妙法蓮華経の五字を習つてこそ仏にはならせ給ひて侍れ
法華経巻第三・化城喩品第七には三千塵点劫の昔、大通智勝仏が法を説き、それを十六人の王子が聞いて、父の大通智勝仏に従って修行したことが説かれている。
「爾の時、彼の仏は沙弥の請を受けて、二万劫を過ぎ已って、乃ち四衆の中に於いて、是の大乗経の妙法蓮華と名づけ、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるるを説きたまう。是の経を説き已って、十六の沙弥は、阿耨多羅三藐三菩提の為めの故に、皆な共に受持し、諷誦通利しき。是の経を説きたまいし時、十六の菩薩沙弥は、皆悉な信受す」。
この大通智勝仏に教化を受けた十六人の王子が後に作仏する。その中に阿弥陀がいるのである。「西方に二仏あり。一に阿弥陀と名づけ、二に度一切世間苦悩と名づく」とある。ちなみに「東北方の仏を壊一切世間怖畏と名づく。第十六は我れ釈迦牟尼仏なり」とあって、釈尊は大通智勝仏の十六番目の王子であった。
このように、阿弥陀は本来、妙法蓮華経を受持し修行して仏に成ったのであり、そのゆえに「弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は妙法蓮華経の五字を習ってこそ仏にはならせ給ひて侍れ」と仰せられているのである。阿弥陀仏に限らず一切の諸仏は妙法蓮華経を受持し修行して仏になったのであり、何よりも、阿弥陀仏が南無阿弥陀仏と称えて仏になった道理がないのである。先の「開会」の原理でいえば、南無妙法蓮華経は能開、南無阿弥陀仏等は所開になるのである。能開とは、物事が生ずる根本であり、所開は生じた枝葉である。したがって、南無阿弥陀仏と称えれば、南無妙法蓮華経と唱えたこととが同じであるなどというのは、とんでもない誤りである。これが大聖人の破折の論点の第二である。
能開と所開について
ここで能開・所開について、もう少し見ておきたい。十章抄で次のように仰せである。
「法華経は能開・念仏は所開なり、法華経の行者は一期南無阿弥陀仏と申さずとも南無阿弥陀仏並びに十方の諸仏の功徳を備えたり、譬えば如意宝珠の如し金銀等の財を備えたり、念仏は一期申すとも法華経の功徳をぐすべからず、譬へば金銀等の如意宝珠をかねざるがごとし、譬へば三千大千世界に積みたる金銀等の財も一つの如意宝珠をばかうべからず」(1275:10)と。
如意宝珠と金銀とを対比していえば、如意宝珠は、金銀も含め、あらゆる財宝を生じる根本であり、金銀は、如意宝珠から生み出される無数の財宝の中の一つにすぎない。生じる元になるのが能開であり、生み出される方が所開である。
これを一本の木に譬えれば、根元、幹は一本で、そこから無数の枝葉が生じる。根元が能開で、枝葉は、そこから開かれた側であるから所開である。妙法蓮華経はあらゆる仏を生じる根本であり、諸仏は、妙法蓮華経によって仏となったのである。したがって、妙法蓮華経が能開、阿弥陀仏は所開なのである。
ゆえに、唱法華題目抄には「故に妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり諸仏・諸経の題目は法華経の所開なり妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱うべし」(0013:13)と仰せられているのであり、南無阿弥陀仏と称えたことは、南無妙法蓮華経と唱えるのと同じであるとは、とんでもない僻見であることが分かる。
第十三章(文証なきは謗法と示す)
日蓮幼少の時・習いそこなひの天台宗・真言宗に教へられて此の義を存じて数十年の間ありしなり、是れ存外の僻案なり但し人師の釈の中に一体と見えたる釈どもあまた侍る、彼は観心の釈か或は仏の所証の法門につけて述たるを今の人弁へずして全体一なりと思いて人を僻人に思うなり、御〓迹あるべきなり、念仏と法華経と一つならば仏の念仏説かせ給いし観経等こそ如来出世の本懐にては侍らめ、彼をば本懐ともをぼしめさずして法華経を出世の本懐と説かせ給うは念仏と一体ならざる事明白なり、其の上多くの真言宗・天台宗の人人に値い奉りて候し時・此の事を申しければされば僻案にて侍りけりと申す人是れ多し、敢て証文に経文を書いて進ぜず候はん限りは御用ひ有るべからず是こそ謗法となる根本にて侍れ、あなかしこ・あなかしこ。
日 蓮 花押
現代語訳
日蓮は幼少の時、習いそこないの天台宗・真言宗に教えられてこの間違った義を心得て数十年の間そのままでいたのである。しかし、これは全くの僻案である。ただし人師の釈の中には念仏と法華経を一体と見た釈等が数多くある。それらは観心のうえの解釈であろうか。あるいは仏の悟りの法門について述べたものを今の人はよく理解しないで全体が一つであると思って、人(日蓮)を僻人と思うのである。よくご推察すべきである。
念仏と法華経とが一つならば、仏が念仏を説かれた観経等こそ仏の出世の本懐であるはずである。観経等を本懐ともお思いにならないで法華経を出世の本懐とお説きになられたのは、念仏と一体でないことは明白である。
そのうえ多くの真言宗・天台宗の人々にあった時、このことを述べたら、念仏と法華経を一体だというのは僻案であったという人が多かった。必ず証文に経文が書いてなければ用いてはならない。これこそ謗法となる根本だからである。あなかしこ・あなかしこ。
日 蓮 花 押
語句の解説
彼は観心の釈か或は仏の所証の法門につけて述たるを今の人弁へず
「観心の釈」とは一切法は皆是れ妙法という悟りの境地から解釈すること。ここでは観心の立場に立って〝一体〟と言っているのか、という意。「仏の所証の法門」とは諸法即実相、一切法は即妙法というのが仏の悟り、すなわち仏の所証の法門である。このようにすでに悟りに到達した立場では一切は妙法であるが、この悟りをめざして修業する立場では、観心の立場と一致するものでないことを弁えなければならない。それを修行の立場にも当てはめて「いかなる法を修行するも皆同じ」と言うのが、当時の「習いそこなひの天台宗」等の人々であった。
迹
「きょうじゃく」「きょうざく」とも読む。①人の行い。行状。行跡。②疑わしく思うこと。不審なこと。③推し量ること。推察。ここでは③の意。
出世の本懐
仏が世に出現した本意・目的のこと。釈尊にとって法華経を説くことが出世の本懐であったことは、法華経方便品第二に「我が昔の願いし所の如きは 今者已に満足しぬ」と述べられていること等から明白である。
講義
南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏は一体であるという誤った考えを、大聖人御自身も幼児において「習いそこなひの天台宗・真言宗に教へられ」そう思いこんできたと仰せられたうえで「是れ存外の僻案なり」と断じられている。
しかも、この一体とする説は多くの人師たちの釈にも見られるといわれている。この〝人師〟とは天台大師等も含むと考えられる。ただし、天台大師らは、衆生の側からすれば最後の修行である観心の立場、あるいは一切法即妙法と証得した仏の悟りの法門について言ったのである。それを「習いそこなひの天台宗」等の人々は、修行の立場にも当てはめて「いかなる法を修行するも皆同じ」と言い出したのであった。
これがいかに間違った拡大解釈であるかを教えるために、大聖人は「もし念仏と法華経と一つであるなら、釈尊は念仏を明かした観無量寿経を『わが出世の本懐』と宣言されてもよかったはずである。それなのに、法華経に至ってはじめて『出世の本懐』と言われているのは、念仏と法華経が決して一体ではないからである」と、まことに分かりやすい道理を示されている。
これに更に加えて言えば、一代五十年の説法のうち、いよいよ最後の八年に法華経を説こうという段になって、無量義経で「四十余年未顕真実」と、それまでに説かれた観経も含む経々を差別し、排除する説法は、もし念仏と法華経とが一体であるなら、されなかったはずである。
いずれにせよ、この大聖人の指摘の正しさを、真言宗・天台宗の僧で冷静に判断できる人は認めていることを述べられ、最後に、仏法を論議するに当たっては、どこまでも経文を証拠とすべきで、それをないがしろにすることが謗法の根本になると戒められている。