現代語訳
法華経の題目の功徳を、爾前経の功徳と比べるならば、爾前権経の功徳は爪上の土のようであるのに対し、法華経の題目の功徳は十方の土のようである。爾前権経の功徳は一しずくの水とすると、法華経の題目の功徳は大海のようである。爾前権経の功徳は瓦や小石のようなものとすると、法華経の題目の功徳は金銀のようなものである。爾前権経の功徳は螢の光のようなものとすると、法華経の題目の功徳は日月のようであるという経文である。
語句の解説
瓦礫
瓦と礫のこと。黄金などのような高価なものに対して、価値のないものと対比するのに用いる。三大秘法を黄金とするなら、諸教は瓦礫となる。
蛍火
「ほたるび」とも読む。日月等にたいして、ごく微細なひかりのこと。
講義
本抄の御真筆は京都・本隆寺にあるが、前後の御文が欠損しているため、御執筆年月日および与えられた人ともに不明である。内容は爾前権経に対して法華経の題目の功徳がいかに広大で勝れているかを述べられている。
御文では「先の功徳」すなわち爾前権経の功徳と「法華経の題目」の功徳との相違が、爪上の土と十方の国土、一渧と大海、瓦礫と金銀、蛍火と日月のようであると述べられ「申す経文なり」と、何かの経文の取意とされている。おそらく、この前文にその引用が示されているのであろうが、欠損しているため、どの経文か分からない。
これに類似した経文としては、法華経薬王菩薩本事品第二十三の十喩がある。そこでは法華経が一切経に勝れているさまを並べられている。すなわち、
①衆川と大海
②衆山と須弥山
③衆星と日月
④闇と日月
⑤諸王と転輪聖王
⑥三十三天と帝釈
⑦一切衆生と大梵天王
⑧凡夫と四果・辟支仏
⑨二乗と菩薩
⑩諸法と仏
であるが、本抄の対比は、この薬王品の対比よりはるかに懸隔が甚だしい。
それは、おそらく薬王品では、一切経と法華経との勝劣を述べたのに対し、本抄で示されているのは、爾前一切経と法華経の題目、すなわち法華経文底独一本門の三大秘法の南無妙法蓮華経との勝劣であるからであろうと思われる。
「爪上の土と十方の国土」という本抄の譬喩は、薬王品の「衆山と須弥山」を踏まえられたものと考えられる。一切経と法華経とでは、衆山と須弥山という相違であるが、権教と法華経の題目となると、権経を“衆山”よりずっと小さな「爪上の土」に置き換えても、法華経の題目は“須弥山”よりはるかに大きい「十方の国土」にたとえなければならないほど広大なのである。
「一渧の水と大海」の譬喩は、薬王品の「衆川と大海」に対応する。水で最大のものは大海で、それ以上はないから「法華経の題目」の功徳を「大海」にたとえられ、その代わり、権経の功徳を一切の川よりはるかに微少な「一渧の水」になぞらえて、その差の大きさを教えられているのである。
以上の二喩は、功徳の広大さの違いをのべたものである。それに対し、次の「瓦礫と金銀」「螢火と日月」の二喩は、質の相違を示されたものと拝せよう。
「瓦礫と金銀」のたとえは、薬王品のたとえに直接あてはまらないが、あえていえば衆山が瓦礫からなっているのに対し、須弥山が金銀からなっているとされたことに関連づけられている。それが質、価値において、雲泥の相違であることは説明するまでもない。
「螢火と日月」のたとえは、薬王品の「衆星と日月」のたとえにつながっている。衆星と日月は、その光の大小、強弱という量的相違にとどまるが、「螢火」と「日月」となると、量の面だけでなく、その質においても全く異なるといわなければならない。
また、十方の土や大海が、あらゆる有情を生息させ、これを育くんでいけるのに対し、爪の上の土や一渧の水は、微生物は別にして、通常の生命を支えることはできない。金銀は、それ自体、美しく、人の心を喜ばせ、高い交換価値をもつのに対し、瓦礫は、人の心をよろこばせもせず、交換価値もない。日月はその光によって、正しい智慧を与え、特に太陽は巨大なエネルギーによって、生命の源泉となっている。それに対し、蛍火は、生命を育む力をもたない。
ここに、衆生を利益する力をもたない爾前権経と、一切衆生を利益し、成仏という無上の幸福をもたらす「法華経の題目」すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経との相違が、明確に御教示されているのである。