富城殿御返事(長寿祈願の事)
富城殿御返事(長寿祈願の事)
弘安2年(ʼ79)11月25日 58歳 富木常忍
不断法華経、来年三月の料の分、銭三貫文・米二斗、送り給び候い了わんぬ。
十一月二十五日 日蓮 花押
富城入道殿御返事
尼御前、御寿命長遠の由、天に申し候ぞ。その故を御物語り候え。
現代語訳
富木尼御前の御寿命が長遠であるようにと諸天に申している。そのことを尼御前にお話しください。
断えることなき法華経への御供養、来年3月の分として銭3貫文と米二斗をお送りいただき、たしかに受けとりました。
十一月二十五日 日蓮在御判
富城殿御返事
語句の解説
尼御前
①執権や高官の未亡人。②在家の身で仏門に入った女性。
銭三貫文
貫は銭を数える単位。一貫は、銭を一つなぎにしたものの意で、時代によって異なるが、普通、一文銭千枚のことをいったことから、3000文のこと。
米二斗
斗は穀物を計る単位で1.2㍑。重量にすると二斗は30㌕。
講義
本抄は富木常忍が銭3貫文、米2斗の御供養をしたのに対する返礼の御手紙である。御真筆は存している。執筆年月については「11月25日」とあるだけで年次の記載はないが富木殿女房尼御前御書と同日の書とされており、同抄に越後房、下野房を伊予房につけて富木常忍のもとへやったとあるところから、熱原法難直後の弘安2年(1279)とされており、そこで本抄も弘安2年(1279)11月25日の書と考えるのが妥当のように思われる。なお両抄とも弘安3年(1280)とする説もあるが、富木殿御返事が弘安3年(1280)11月29日の書とされており、日時が接近しすぎて不自然であろう。
「富城殿」と宛名されているが、本貫の地が因幡国の富城郷だったからである。他に音をとって「富木」「土木」とされているものが多いが、出身地名から考えれば「富城」が正式と考えられる。
本文に入って「尼御前」とあるのは、追伸である。富木常忍の夫人については、諸御抄からうかがわれるように、病弱だったようで、文永12年(1275)の書とされる可延定業書あたりの御消息から夫人の病気についての記述がみられ、弘安2・3年(1279・80)には再発もしくは病状の悪化があったようである。ことに弘安3年(1280)は、急迫した状態であったように拝せられる。
そこで富木常忍への返礼の書のなかにも、尼御前の息災延命を祈念しているむね書き添えられたのであろう。また、大聖人の御心を常忍に知らせることによって、夫婦団結して病魔を乗り越えるべきことを教えられているのであろうか。「其の故御物語り候へ」とは、富木常忍から尼御前に、大聖人の御心、仏法の偉大さを話すようにとのことで、尼御前への激励であるとともに、二人が信心をみがきあいながら進んでいくことを期待されているのであろう。
「不断」とあるのは富木常忍がつねに供養を怠らず、地道に信心を持続していることをいわれているのではなかろうか。「来年3月の料の分」として銭3貫文、米2斗を受け取ったといわれているのは、斎料であろう。来年の3月のを11月とはずいぶん早い感じもするが、在家のあいだで当番を決め、富木常忍の御供養が3月分にあたったのかもしれない。また、常忍の母の命日が2月末であるところから追善供養の意義がこめられていたとも考えられる。いずれにしても、富木常忍が欠かさず御供養し、大聖人の教団を支えていたようすが、この短いお手紙にも明確に拝せられる。