法華取要抄

要文

かくのごとく国土乱れて後に上行等の聖人出現し、本門の三つの法門これを建立し、一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑いなきものか。

法華取要抄

 文永11年(ʼ74)5月24日 53歳 富木常忍

    扶桑沙門日蓮これを述ぶ。
夫れ以んみれば、月支西天より漢土・日本に渡来するところの経論、五千・七千余巻なり。その中の諸経論の勝劣・浅深・難易・先後は、自見に任せてこれを弁ぜんとすれば、その分に及ばず。人に随い宗に依ってこれを知らんとすれば、その義紛紕す。
いわゆる、華厳宗云わく「一切経の中にこの経第一」。法相宗云わく「一切経の中に深密経第一」。三論宗云わく「一切経の中に般若経第一」。真言宗云わく「一切経の中に大日の三部経第一」。禅宗云わく、あるいは云わく「教内には楞伽経第一」、あるいは云わく「首楞厳経第一」、あるいは云わく「教外別伝の宗なり」。浄土宗云わく「一切経の中に浄土三部経、末法に入っては機教相応して第一」。俱舎宗・成実宗・律宗云わく「四阿含ならびに律論は仏説なり。華厳経・法華経等は仏説にあらず、外道の経なり」。あるいは云わく、あるいは云わく。
しかるに、彼々の宗々の元祖等、杜順・智儼・法蔵・澄観、玄奘・慈恩、嘉祥・道朗、善無畏・金剛智・不空、道宣・鑑真、曇鸞・道綽・善導、達磨・慧可等なり。これらの三蔵・大師等は皆、聖人なり賢人なり。智は日月に斉しく、徳は四海に弥れり。その上、各々、経・律・論に依り、たがいに証拠有り。したがって、王臣国を傾け、土民これを仰ぐ。末世の偏学たとい是非を加うとも、人信用するに至らず。
しかりといえども、宝山に来り登って瓦石を採取し、栴檀に歩み入って伊蘭を懐き収めば、悔恨有らん。故に、万人の謗りを捨てて、みだりに取捨を加う。我が門弟、委細にこれを尋討せよ。
夫れ、諸宗の人師等、あるいは旧訳の経論を見て新訳の聖典を見ず、あるいは新訳の経論を見て旧訳を捨て置き、あるいは自宗に執著し、曲げて己義に随い、愚見を注し止めて後代にこれを加添す。株杭に驚き騒いで兎獣を尋ね求め、智、円扇に発して、仰いで天月を見る。非を捨て理を取るは智人なり。
今、末の論師・本の人師の邪義を捨て置いて、専ら本経・本論を引き見るに、五十余年の諸経の中に、法華経第四の法師品の中の「已今当」の三字、最も第一なり。諸の論師・諸の人師、定めてこの経文を見けるか。しかりといえども、あるいは相似の経文に狂い、あるいは本師の邪会に執し、あるいは王臣等の帰依を恐るるか。
いわゆる、金光明経の「これ諸経の王なり」、密厳経の「一切経の中に勝れたり」、六波羅蜜経の「総持第一」、大日経の「いかんが菩提」、華厳経の「能くこの経を信ずるは最もこれ難し」、般若経の「法性に会入し、一事をも見ず」、大智度論の「般若波羅蜜は最も第一なり」、涅槃論の「今日、涅槃の理は」等なり。
これらの諸文は法華経の「已今当」の三字に相似せる文なり。しかりといえども、あるいは梵帝・四天等の諸経に対当すればこれ諸経の王なり。あるいは小乗経に相対すれば諸経の中の王なり。あるいは華厳・勝鬘等の経に相対すれば一切経の中に勝れたり。全く五十余年の大小・権実・顕密の諸経に相対してこれ諸経の王の大王なるにあらず。詮ずるところは、所対を見て経々の勝劣を弁うべきなり。強敵を臥せ伏して始めて大力を知見すとはこれなり。
その上、諸経の勝劣は、釈尊一仏の浅深なり、全く多宝・分身助言を加うるにあらず。私説をもって公事に混ずることなかれ。
諸経は、あるいは二乗・凡夫に対揚して小乗経を演説し、あるいは文殊・解脱月・金剛薩埵等に対向す。弘伝の菩薩は、全く地涌千界の上行等にはあらず。
今、法華経と諸経とを相対するに、一代に超過すること二十種これ有り。その中、最要二つ有り。いわゆる三・五の二法なり。
三とは三千塵点劫なり。諸経はあるいは釈尊の因位を明かすこと、あるいは三祇、あるいは動逾塵劫、あるいは無量劫なり。梵王云わく、この土には、二十九劫より已来、知行の主なり。第六天・帝釈・四天王等も、もってかくのごとし。釈尊と梵王等と、始めは知行の先後これを諍論す。しかりといえども、一指を挙げてこれを降伏してより已来、梵天頭を傾け魔王掌を合わせ、三界の衆生をして釈尊に帰伏せしむる、これなり。

—————————————-~(中略)~————————————————

日蓮は広・略を捨てて肝要を好む。いわゆる、上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり。「九方堙が馬を相するの法は玄黄を略して駿逸を取り、支道林が経を講ずるには細科を捨てて元意を取る」等云々。仏既に宝塔に入って二仏座を並べ、分身来集し、地涌を召し出だし、肝要を取って末代に当てて五字を授与せんこと、当世異義有るべからず。
疑って云わく、今世にこの法を流布せば、先相これ有りや。
答えて曰わく、法華経に「如是相乃至本末究竟等」云々。天台云わく「蜘蛛掛かって喜び事来り、鳱鵲鳴いて客人来る。小事すらなおもってかくのごとし。いかにいわんや大事をや」取意。
問うて曰わく、もししからば、その相これ有りや。
答えて曰わく、去ぬる正嘉年中の大地震、文永の大彗星、それより已後、今に種々の大いなる天変地夭、これらはこの先相なり。仁王経の七難・二十九難・無量の難、金光明経・大集経・守護経・薬師経等の諸経に挙ぐるところの諸難、皆これ有り。ただし、無きところは二・三・四・五の日出ずる大難なり。しかるを、今年、佐渡国の土民口に云わく「今年正月二十三日の申時、西の方に二つの日出現す」。あるいは云わく「三つの日出現す」等云々。「二月五日には東方に明星二つ並び出ず。その中間は三寸ばかり」等云々。この大難は日本国先代にもいまだこれ有らざるか。
最勝王経の王法正論品に云わく「変化の流星堕ち、二つの日俱時に出で、他方の怨賊来って、国人喪乱に遭わん」等云々。首楞厳経に云わく「あるいは二つの日を見、あるいは両つの月を見る」等。薬師経に云わく「日月薄蝕の難」等云々。金光明経に云わく「彗星しばしば出で、両つの日並び現じ、薄蝕恒無し」。大集経に云わく「仏法実に隠没すれば乃至日月も明を現ぜず」等。仁王経に云わく「日月度を失い、時節返逆し、あるいは赤日出で、黒日出で、二・三・四・五の日出で、あるいは日蝕して光無く、あるいは日輪一重、二・三・四・五重の輪現ず」等云々。この日月等の難は、七難・二十九難・無量の諸難の中に第一の大悪難なり。
問うて曰わく、これらの大中小の諸難は、何に因ってこれを起こすや。
答えて曰わく、最勝王経に云わく「非法を行ずる者を見て当に愛敬を生ずべし。善法を行ずる人において苦楚して治罰せん」等云々。法華経に云わく、涅槃経に云わく。金光明経に云わく「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、星宿および風雨、皆、時をもって行われず」等云々。大集経に云わく「仏法実に隠没すれば乃至かくのごとき不善業の悪王・悪比丘、我が正法を毀壊す」等。仁王経に云わく「聖人去らん時は、七難必ず起こらん」等。また云わく「法にあらず律にあらずして比丘を繫縛すること、獄囚の法のごとくす。その時に当たって、法滅せんこと久しからず」等。また云わく「諸の悪比丘は、多く名利を求め、国王・太子・王子の前において、自ら破仏法の因縁、破国の因縁を説かん。その王別えずしてこの語を信聴せん」等云々。これらの明鏡を齎って当時の日本国を引き向かうるに、天地を浮かぶること、あたかも符契のごとし。眼有らん我が門弟はこれを見よ。当に知るべし、この国に悪比丘等有って、天子・王子・将軍等に向かって讒訴を企て、聖人を失う世なり。
問うて曰わく、弗舎蜜多羅王・会昌天子・守屋等は月支・真旦・日本の仏法を滅失し、提婆菩薩・師子尊者等を殺害す。その時、何ぞこの大難を出ださざるや。
答えて曰わく、災難は人に随って大小有るべし。正像二千年の間の悪王・悪比丘等は、あるいは外道を用い、あるいは道士を語らい、あるいは邪神を信ず。仏法を滅失すること大なるに似たれども、その科なお浅きか。今、当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは、小をもって大を打ち、権をもって実を失う。人心を削って身を失わず、寺塔を焼き尽くさずして自然にこれを喪ぼす。その失、前代に超過せるなり。
我が門弟これを見て法華経を信用せよ。目を瞋らして鏡に向かえ。天瞋るは人に失有ればなり。二つの日並び出ずるは、一国に二りの国王並ぶ相なり。王と王との闘諍なり。星の日月を犯すは、臣の王を犯す相なり。日と日と競い出ずるは、四天下一同の諍論なり。明星並び出ずるは、太子と太子との諍論なり。
かくのごとく国土乱れて後に上行等の聖人出現し、本門の三つの法門これを建立し、一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑いなきものか。

 

背景と大意

日蓮大聖人は、文永3年(1274年)5月24日に『法華取要抄』を完成され、下総国に住む主弟子の富木常忍に宛てられました。 日興上人によって大聖人の十大著作(十大部)の一つに定められました。 その中で大聖人は、竜樹・天親・天台・伝教が明かされなかった秘法」を初めて明らかにされ、後にこれを三大秘法と定義されています。 これらは、彼が述べているように、「本質的な教えの帰依の対象、(本門の本尊)本質的な教えの聖域(本門の戒壇)、そして本質的な教えの題目の五文字(本門の題目)」です。 それらは彼の教えの根幹であり、末法に流布される法華経の真髄です。 ここで「本質的な教え」とは末法の教えであり、南無妙法蓮華経の教えを指します。
日蓮大聖人は、二年半の佐渡流刑を経て、弘安二年(一二七四)三月二十六日に赦免されて鎌倉に帰られ、同四月八日に 鎌倉政権の執権を代表した平左衛門尉頼綱と会見されました。 モンゴル帝国軍がいつ日本を攻撃するのかとの質問に大聖人は、年内に攻撃すると答え、統治者は法華経に反する仏教宗派への支援をやめるべきだと警告されました。 しかし政府は彼の忠告に耳を貸しませんでした。 これは国家統治者に対する彼の3度目の公式諌め(諌暁)とみなされています。
大聖人は五月十二日に鎌倉を発ち、十七日に甲斐の国の身延山の麓に到着されました。その わずか7日後の24日目に、彼はこの作品を完成させました。 その年の十月、大聖人が平左衛門に予言されたとおり、モンゴル帝国は日本に最初の攻撃を開始しました。
大聖人は題目の下に「日本の沙門・日蓮著」と署名されています。「 沙門」とは、仏陀の道を探求する者を指します。 大聖人は、ここで「真の仏法実践者」、つまり正しい仏法の教えを受け継ぎ、その真髄を世に、そして未来に伝える者という意味でこの「沙門」を用いておられます。
この作品は 3 つのセクションで構成されています。 大聖人は、第一部で釈尊が説かれた経典の優劣を、教えの立場と師の立場の二つの立場から考察されています。 釈迦という一人の仏陀も、説かれた経典によってさまざまな見方ができます。 法華経「寿量品」に登場する釈迦は、想像を絶する遠い昔に悟りを開かれた究極の仏陀です。 そして法華経はあらゆる経典の中で最も優れた経典です。
第二部では、法華経の理論的な教え(迹門)と本質的な教え(本門)は共に末法の人々、特に大聖人自身のために説かれたものであると大聖人は説かれています。 そして、法華経の中では、「寿量品」とその周囲の文からなるいわゆる「一品二半」が重要な教えの根幹を成しており、これも大聖人やその弟子たちに説かれたものです。 これらの言葉は、末法の世の衆生の苦しみを救うという大聖人の重要な役割を説明しています。
第三部では、末法に広められる偉大な正法を明らかにしています。 大聖人は「私、日蓮は、拡大する道(広)も、凝縮する道(略)も捨てて、妙法蓮華経の五字を上行菩薩に伝えた本質を捉えることを好んだ」と述べられています。 その本質が三大秘法の南無妙法蓮華経です。 そこで彼はこの書を『法華取要抄』と名付けました。 そして大聖人は、当時その法が普及する予兆があったことを語り、三大秘法の広範な普及(広宣流布)は不可避であると確信を持って述べられている。

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