報恩抄3

報恩抄

建治2年(ʼ76)7月21日 55歳 浄顕房・義浄房

 

第三十一章(道善房への報恩)

 本文

此の功徳は定めて上三宝・下梵天・帝釈・日月までも・しろしめしぬらん、父母も故道善房の聖霊も扶かり給うらん、但疑い念うことあり目連尊者は扶けんとおもいしかども母の青提女は餓鬼道に墜ちぬ、大覚世尊の御子なれども善星比丘は阿鼻地獄へ墜ちぬ、これは力のまますくはんと・をぼせども自業自得果のへんは・すくひがたし、故道善房はいたう弟子なれば日蓮をば・にくしとは・をぼせざりけるらめども・きわめて臆病なりし上・清澄を・はなれじと執せし人なり、地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろの弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし、但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ、後にすこし信ぜられてありしは・いさかひの後のちぎりきなり、ひるのともしびなにかせん其の上いかなる事あれども子弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし、力なき人にも・あらざりしがさどの国までゆきしに一度もとぶらはれざりし事は法華経を信じたるにはあらぬぞかし・それにつけても・あさましければ彼の人の御死去ときくには火にも入り水にも沈み・はしりたちても・ゆひて御はかをも・たたいて経をも一巻読誦せんとこそ・おもへども賢人のならひ心には遁世とは・おもはねども人は遁世とこそ・おもうらんに・ゆへもなくはしり出ずるならば末へも・とをらずと人おもひぬべし、さればいかにおもひたてまつれども・まいるべきにあらず、但し各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします、勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御弟子とならせ給いしがごとし、日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず。

 現代語訳

この日蓮大聖人の死身弘法の功徳は、かならずや、上は仏法僧の三宝、下は大梵天王、帝釈天王、日天月天等までも承認されることになろう。ゆえに、わが父母も、故道善房の聖霊も、かならずやこの大功徳によって成仏するであろう。

ただし、一つ疑い思うことがある。目連尊者は母をなんとか助けようと思ったけれども、母の青提女を餓鬼道から救うことはできなかった。釈尊の子供であるけれども、善星比丘地獄におちてしまった。これは、わが力によって救おうと思っても、相手があまりに極端な謗法では、自業自得となって救いがたいのである。

わが師匠・故道善房にとっては、日蓮大聖人はかわいい弟子であるから、日蓮大聖人をば憎いとは思われなかったろうけれども、きわめて臆病であった上に、邪宗清澄山の住職を離れまいと執着した人であった。その土地の地頭、東条景信を恐れていたし、また、釈尊時代の提婆達多、瞿伽利という悪僧にも異ならない円智、実成などが、それぞれ清澄の上と下にいておどかしていたのを、ひじょうに恐れていた。そのため故道善房は、もっともかわいいと思っていた正法を奉ずる年ごろの弟子たちまでも、捨てたような人であるから、後生はいかがかと疑うしだいである。

ただ一つの幸いとしては、謗法の強かった東条景信と円智、実成とが、先に死去したということは、外からの圧迫が除かれたので、一つの助かりとは思えるが、しかし、彼らは法華経十羅刹の責めをうけて、早く死去したのである。彼らの死去の後に、じゃまがいなくなったために、故道善房が後には少し法華経を信じたということもあったが、なんとなく「けんかのあとの棒ちぎれ」のような感じがする。時が過ぎたあとの、いわゆる昼の灯火というものは役に立たぬものである。

その上、いかなることがあっても、子、弟子などというものは、まことに心にかかり不便と思うものである。故道善房は、力のない人でもなかったのに、この日蓮が佐渡の国まで流罪されたのに、一度もおとずれてこなかったことは、法華経を信じたということにはならないのである。それにつけても、心から思っていたので、故道善房がなくなられたと聞いたときには、火の中をくぐり、水の中にも沈み、走って行って、故道善房のお墓をたたいて、法華経一巻を読誦してあげたいと思ったけれども、賢人のならいとして、わが心では遁世とは思わぬけれども、世の人々はみな遁世と思っているのであるから、理由もなく走り出すならば、最後まで志をまっとうできなかったと、人々は非難するであろう。

ゆえに、いかに故道善房のお墓に参上したいと思っても、ここで行くべきではない。ただし、あなた方、浄顕房、義浄房のお二人は、日蓮の幼少の時の師匠であった。あたかも勤操僧正と行表僧正は、初め伝教大師の師匠であったが、かえって後に、伝教大師の弟子となられたようなものである。日蓮が東条景信にあだまれて、清澄山を出ようとしたとき、あなた方お二人が、この日蓮をかくまって、ひそかに道案内をして無事に逃してくださったのは、まことに天下第一の法華経に対するご奉公というべきである。それによって、あなた方お二人の後生の成仏は疑う余地のないことであり、堅く確信してよいことである。

語釈

梵天

仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。

帝釈

梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。

目連尊者は扶けんとおもいしかども

目連は大目犍連の略称。釈迦十大弟子の一人で、神通第一。仏説盂蘭盆経によると、目連は天眼通を以て、母の青提女が慳貪の罪によって、五百生にもわたる餓鬼道に堕ちていたことを知った。そこで目連は餓鬼道に行き、母に飯をやったが、その食がまだ口に入らないうちに、炎と化した。神通を現じて水をかけようとしたら、水が変じて薪となり、さらに燃え上がった。自力では何としても救うことができず、釈尊の教えを仰いで十方の聖僧を供養し、その生飯を取って、やっと救うことができたという。しかし、目連の供養は小乗の教えによるもので、母を餓鬼道から救っただけであって、成仏させたのではなかった。盂蘭盆御書に「詮するところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし、自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや」(1429-05)と仰せの通り、目連が法華経に帰命し、多摩羅跋栴檀香仏となったとき、母・青提女も成仏することができたのである。

善星比丘

釈尊の出家以前の子といわれる。涅槃経巻三十三によると、出家して仏道修行に励み、第四禅定を得たが、これが真の涅槃かと思い、苦得外道に親近し悪見を起こした。そのうえ、釈尊に悪心を懐いたため、生きながら地獄に堕ちたという。

阿鼻地獄

阿鼻大城ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写で、意訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことをいう。大城とは、無間地獄が七重の鉄城、七層の鉄網で囲まれていて脱出できないことからいわれている。欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、八大地獄のうち他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるといわれる。

瞿伽利

瞿伽利は梵語。悪時者、守牛などと訳す。釈迦族の出身で、浄飯王の命令により出家して仏弟子となったが、のちに提婆達多を師として舎利弗・目連を誹謗し、生きながら地獄へ堕ちた。

地頭景信

東条景信。安房国(千葉県南部)東条の地頭で、文永元年(1264)11月11日、日蓮大聖人、小松原法難のときの首謀者。

円智・実成

ともに清澄山の住僧とおもわれる。

いさかひの後のちぎりき

乳切木とは、地面に立てたとき、胸に達するゆえにいう。棒ちぎり。物を担うほか、護身用にも用いたという。棒の先に、鎖をつけた分銅を装着したものが、武具として今に伝えられる。「諍いの後の乳切木」とは、何の役にも立たないこと。次下の「ひるのともしび」と同義。

勤操僧正

三論宗の僧。伝教大師が、桓武天皇の前で南都六宗七大寺の碩徳十数人を論破したが、そのなかの一人であった。

行表僧正

伝教大師を得度させた師匠。後に勤操らとともに伝教に帰伏した。

講義

日蓮大聖人が師の道善房の恩に報いようとの御心情をお述べの段である。

日蓮大聖人の御一代にわたる大慈大悲のおふるまいからするならば、師の道善房も救われるに違いない。ただし、目連尊者の母が餓鬼道に堕ち、釈尊の子の善星比丘は阿鼻地獄へ堕ちたので、このような自業自得果はどうすることもできないとのおおせである。じつに因果はきびしいのである。

道善房が日蓮大聖人の師匠となったことは、決して偶然ではない。そこには深い深い仏縁があるのである。しかるに、道善房はあまりにも臆病で、利己主義者で、事なかれ主義の小心者であったようである。ただひたすら権威を恐れ、地頭を恐れ、円智や実成を恐れて、清澄寺の住職たる自己の保身だけを考えていた。

自分の弟子たる日蓮大聖人が、地頭から追放されたり、佐渡へ流されたりしても、いっこうに助けようとも、慰めようともしなかった。しかも日蓮大聖人は、清澄寺大衆中によれば、東条左衛門景信の策動を封殺され、清澄寺のため、また領家のために戦われている。道善房はその御恩義も感じているはずである。

また、さすがの道善房も「後にすこし信ぜられてありし」(というていどに心は動いていた。にもかかわらず、本章では、自業自得果の辺は救いようがないとおおせられているのである。しかるに、報恩抄の最後には、「此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」と結ばれている。それは、いかに三大秘法の仏法が偉大であるか、しかも日蓮大聖人の大慈大悲によって、万年のほか未来永遠の衆生を救われるのであると断定あそばされた上で、最後の結論をお述べになっているのである。

清澄山時代の日蓮大聖人

ここで、日蓮大聖人が御幼少のころ、道善房を師匠として修学された清澄山時代のことを、若干のべてみよう。

日蓮大聖人は承久の乱後、まだいくばくもたたぬ承久4年(1222)2月16日、安房国東条の郷、小湊の漁家に御誕生になった。父は貫名重忠、母は清原氏で梅菊と申し上げた。御幼少のころから、ひじょうに英邁剛毅であられたことが、じゅうぶんうかがわれるが、残念ながら当時の資料は、ほとんど残っていない。しかし、日蓮大聖人の出家の動機については、御書を拝すると、次のようなことが考えられる。

まず、当時盛んに信ぜられた念仏を唱える人が、みな悪相を現じて苦悶にみちた死に方をしていたことである。幸福になるべき仏法を信じて、地獄におちていくさまを見て、ひじょうな疑惑をもたれたことである。また当時、日本に仏教が八宗、十宗とあるが、いずれが真に正しい仏教であり、幸福になるべき教えかという点にあった。さらに承久の乱において、なにゆえ朝廷方が敗れて、三上皇が島流しにあわれたかという疑問もあられた。

かくして日蓮大聖人は、一刻も早くこれらの疑念を一掃して一切衆生を救済したいという念願で、天福元年(1233)5月、12歳の御時に、出家を志され清澄山に上って習学、剃髪は16歳であった。当時の仏法の中心はなんといっても比叡山であり、また王法の都は鎌倉であった。小湊の地は比叡山からみて、はるかに遠国であり、名ある名僧智識も少ない辺国であったが、縁あって近くの清澄山に登られ道善房を師匠とされたのである。そして、これらの疑問を解決されるために、幼少の時より、虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈られたことは有名である。

清澄修学の道にはいられてより4年余、16歳の時に出家剃髪され、名を是生房蓮長と改め、なおきびしく仏法の究明に力をつくされた。清澄寺は天台真言の寺であり、師の道善房は念仏にも心を奪われていた。日蓮大聖人は、やがて師の道善房に遊学の志をつげ、まず鎌倉に向かわれ、浄土宗、禅宗等の教義を討究され、ついで、比叡山、園城寺、高野山、天王寺さらに京中、またはいなかの寺々をたずねて、研究されたのである。かくて、日蓮大聖人は、ついに、法華経こそ釈尊五十年の説法の肝要であり、出世の本懐であること、また法華経神力の付嘱によって、三大秘法の南無妙法蓮華経の大仏法を、末法に流布して一切衆生を救うべきことを悟られた。そしていよいよ建長五年四月二十八日、御年三十二歳の時、清澄寺の持仏堂の南面で、御立宗あさばされたのであった。

本尊問答抄にいわく「然るに日蓮は東海道・十五箇国の内、第十二に相当る安房の国長狭の郡・東条の郷・片海の海人が子なり、生年十二同じき郷の内・清澄寺と申す山にまかり登り住しき、遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし然而随分・諸国を修行して学問し候いしほどに、我が身は不肖なり人はおしへず十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏菩薩に祈請して一切の経論を勘て十宗に合せたるに」(0370:08)云云と。

善無畏三蔵抄にいわく「而るを日蓮は安房の国・東条の郷・清澄山の住人なり、幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき、其のしるしにや日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱・粗伺ひ侍りぬ」(0888:09)

破良観等御書にいわく「其の後先ず浄土宗・禅宗をきく・其の後叡山・薗城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども・我が身の不審はれがたき上……論師・訳者・人師等にはよるべからず専ら経文を詮とせん」(1292:18)と。

妙法比丘尼御返事にいわく「此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に・はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に」(1407:14)云云と。

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