報恩抄2

報恩抄

建治2年(ʼ76)7月21日 55歳 浄顕房・義浄房

 

  1. 第十三章(弘法の真言伝弘)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 真言は亡国の悪法
  2. 第十四章(慈覚の真言転落)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 現代の仏教観
  3. 第十五章(智証の真言転落)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 智証の矛盾
  4. 第十六章(慈覚智証を破責す)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 此れ等は皆自語相違ともいゐぬべし
      2. 伝教大師の依憑集と申す文
      3. 師資の道
  5. 第十七章(法華最勝の経釈)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 伝教大師の秀句と申す書
      2. 仏教研究の初歩
  6. 第十八章(法華経の三国三師)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 月氏には教主釈尊等
      2. 現身に大師となる等
      3. 聖人は一千年、賢人は五百年
      4. 仏法は演繹的哲学
  7. 第十九章(日本に謗者のみあるを明かす)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 園城寺と叡山の合戦ひまなし
      2. 弘法大師も又跡なし
  8. 第二十章(日蓮大聖人の国家諌暁)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 大荘厳仏の末・一切明王仏の末法等
      2. かかる謗法の国なれば天もすてぬ等
      3. 但日蓮計り留り居て告げ示せば等
  9. 第二十一章(災難の所以を明かす)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 災難の起こるわけ
  10. 第二十二章(国中の謗法を明かす)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 涅槃経には法華経を極と指して候事
  11. 第二十三章(嘉祥の懺悔謗罪)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 法華の心を死す
  12. 第二十四章(中国の真言三祖を破る)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 死後に地獄の相の顕われたるをしらず等
  13. 第二十六章(善導の悪夢の例を挙ぐ)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 念仏の邪教
  14. 第二十七章(弘法の霊験を破す)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 不可思議の徳ありしかども仏法の邪正は其にはよらず
  15. 第二十八章(弘法の誑惑を責む)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 一、心経の秘鍵(夜中の太陽の事件)
      2. 二、孔雀経の音義、面門俄かに開く
      3. 三、涅槃経、魔が仏の形となる
      4. 近代精神と宗教観
  16. 第二十九章(真言破折を結す)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  17. 第三十章(日蓮大聖人の知恩報恩)
    1.  本文
    2.  現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 此の事・日本国の中に但日蓮一人計りしれり

第十三章(弘法の真言伝弘)

 本文

又石淵の勤操僧正の御弟子に空海と云う人あり後には弘法大師とがうす、去ぬる延暦二十三年五月十二日に御入唐、漢土にわたりては金剛智・善無畏の両三蔵の第三の御弟子慧果和尚といゐし人に両界を伝受し大同二年十月二十二日に御帰朝平城天王の御宇なり、桓武天王は御ほうぎよ平城天王に見参し御用いありて御帰依・他にことなりしかども平城ほどもなく嵯峨に世をとられさせ給いしかば弘法ひき入れてありし程に伝教大師は嵯峨天王の弘仁十三年六月四日御入滅、同じき弘仁十四年より弘法大師・王の御師となり真言宗を立てて東寺を給真言和尚とがうし此より八宗始る、一代の勝劣を判じて云く第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云、法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども華厳経・大日経に望むれば戯論の法なり、教主釈尊は仏なれども大日如来に向うれば無明の辺域と申して皇帝と俘囚との如し、天台大師は盗人なり真言の醍醐を盗んで法華経を醍醐というなんどかかれしかば法華経はいみじとをもへども弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず、天竺の外道はさて置きぬ漢土の南北が法華経は涅槃経に対すれば邪見の経といゐしにもすぐれ華厳宗が法華経は華厳経に対すれば枝末教と申せしにもこへたり、例ば彼の月氏の大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくりて其の上にのぼつて邪法を弘めしがごとし、伝教大師・御存生ならば一言は出されべかりける事なり、又義真・円澄・慈覚・智証等もいかに御不審はなかりけるやらん天下第一の大凶なり、

 現代語訳

また、石淵の勤操僧正の弟子に空海という者があり、後に弘法大師と号した。この人は、さる延暦二十三年五月十二日に入唐し、中国の地において金剛智・善無畏両三蔵の第三代目の弟子である慧果和尚から、金剛界および胎蔵界の真言を伝受した。そして平城天皇の大同二年十月二十二日に帰朝した。

その時は、すでに桓武天皇は崩御されて、平城天皇の代であったが、平城天皇にたびたび面会して上奏した。平城天皇も深く信用して帰依した。しかし、まもなく平城天皇は退位され、嵯峨天皇が即位した。嵯峨天皇の弘仁十三年六月四日に、伝教大師は入滅された。同じく弘仁十四年から、いよいよ弘法大師は嵯峨天皇の師となり、真言宗を打ち立てて、東寺をたまわり真言和尚となり、世に認められて、日本における仏教の八宗として出発したのである。

弘法は、釈尊一代の教法を判じていわく、「第一真言大日経、第二華厳、第三は法華涅槃である」等と。しかも弘法は「法華経は、阿含経、方等経、般若経等に対すれば真実の経であるけれども、華厳経、大日経に望むれば戯論の法である。法華経を説かれた教主釈尊は、仏ではあるけれども、大日如来に比すれば、無明の辺域を脱しきれぬ仏である。あたかも皇帝と俘囚(捕虜)のごときである。天台大師は盗人である。真言の醍醐味を取って、法華経を醍醐という」等と書いたので、彼のいうことを聞いていると、みなは内心では法華経は勝れた教えだとは思うけれども、弘法大師にあえば、物の数でないことになってしまう。

インドの外道の邪義であることはさておいて、中国の南三北七の邪師が、法華経は涅槃経に比すれば邪見の法だといったよりも、はなはだしい謗法であり、華厳宗のものが、法華経は華厳に対すれば、枝末の教だと説いたよりも過ぎている。たとえば、彼の月氏の大慢婆羅門が、大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくって、その上にのぼって種々の邪法をひろめたのにひとしい。もし、かりに、伝教大師が御存生であったならば、かならずや破折のことばを出されたにちがいないのである。

御入滅なされた伝教大師はともかく、伝教大師に師事したところの、義真・円澄・慈覚・智証等は、弘法の所説に不審を懐かなかったのであろうか。これまことに奇怪であるが、このことこそ、まさに、天下第一の大凶、大不幸というべきである。

語釈

石淵の勤操僧正

(0758~0827)。大和国石淵寺の三論宗の僧。善議法師から三論宗を受ける。伝教大師からは密潅を受け、弘法大師には三論宗を伝えた。六宗七大寺14人の碩徳 に加わり、伝教大師と論議して敗れた。

空海

(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。空海は諱。諡号は弘法大師。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。

慧果和尚

(0746~0806)。中国唐代の僧。照応(陝西省臨潼の人で、俗姓を馬という。真言宗東寺派では、大日如来から法を受けついだ第七祖とする。不空の弟子。唐の代宗、徳宗、順宗の三朝に国師として尊敬された。永貞元年(0805)弘法に教えを伝えた。

両界

真言宗の依経である大日経胎蔵界と金剛頂経金剛界曼荼羅。

東寺

第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。

無明の辺域

真言の祖・弘法がその著「秘蔵宝鑰」のなかでいっている言葉。「法身真如一道無為の真理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟の理智法身なり、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……此の理を証する仏をまた、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくの如き一心は無明の辺域にして、明の分位にあらず」と。すなわち「顕教諸説の法身真如の理は、真言門に対すれば、なお、仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は明の分位たる果門に対すれば、無明の辺域にほかならない」という邪義を述べている。

大慢婆羅門

インドのバラモン僧。外典に通じ、民衆の尊敬を受けていたので、ついに慢心を起こし外道の三神および釈尊の像をとって高座の四足に作り、自分の徳は、これら四聖にすぐれていると称して説法した。時に賢愛論師は、法論をしてその邪見を破折した。国王は民衆を誑惑していた大慢を処刑しようとしたが、賢愛は制してその罪を減じ、これをなぐさめた。しかし大慢は、なお諭師を罵り、三宝を毀謗したので、大地がさけ、たちまちに地獄へ堕ちた。玄奘三蔵の大唐西域記にある。

大自在天

梵名マヘーシュヴァラ(Maheśvara)の音写。もとはインドのバラモン教の神で、シヴァ(Śiva)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされていた。仏教では、シヴァ神は摩醯首羅天と音写され、大自在天と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂で天冠をいただき、白牛に乗り、三叉戟を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。

那羅延天

梵語ナーラーヤナ(Nārāyaṇa)の音写。大力の神と訳し、堅固力士、金剛力士ともいう。大日経には、毘紐天の別名で、仏の分身であり、迦楼羅鳥に乗って空を行くとある。一切経音義巻六には、この神を供養するものは多くの力を得るとあり、大毘婆沙論にも同様の大力が示されている。

婆籔天

梵語ヴァスデーヴァ(Vasu-deva)、音写して婆藪天。「意譯世天」と訳す。此天為毘紐天の子。

講義

この章からは日本の真言の開祖たる弘法・慈覚の伝弘を明かしている。まず本章は弘法である。

真言は亡国の悪法

前章の講義にも真言の邪義謗法を指摘したが、じつに真言宗というのは国を滅ぼし家を滅ぼす悪法邪法である。

彼らの立てるところによれば、大日如来が色究竟天法界宮において大日経を説き、金剛頂経を説いた。金剛薩埵がそれらを結集して南天の鉄塔においた。

釈尊滅後の100年ころ、竜樹菩薩がその鉄塔の扉を開き、両経を金剛薩埵より授かり、これを竜智菩薩に伝えた。竜智はさらに大日経等を善無畏に、金剛頂経を金剛智に授けたという。さらに不空に伝えられ、不空は慧果に伝えた。善無畏・金剛智・不空・慧果はみな中国において弘通したが、いまだ真言宗という一宗派にはなっていなかった。

日本の弘法は慧果より、金剛・胎蔵両部を伝承し、帰朝の後、真言宗として日本に弘めた。弘法や正覚房や慈恩が、法身の大日を立てるとともに、口をきわめて法華経や釈尊を戯論だなどとののしったことは、前章の講義のとおりである。

しかして弘法の流れは、弘法の立てた東寺を中心にして弘めたので、東密という。これに対し、慈覚や智証は天台宗の座主でありながら、天台・法華を破し、真言を第一と立てて弘通したので、これを台密とう。

日蓮大聖人は真言を亡国の邪法なりと断定されたのは、おのれの主君である釈尊を捨て、法身の大日を立てるので、亡国とおおせられたのである。大日如来は法身仏であって、われわれの生活に直接の関係はない。慈悲と智慧をもって衆生を化導する一身即三身の仏こそ、主師親の三徳の仏である。正像には釈尊、末法には日蓮大聖人こそ主師親三徳の仏である。

誤れる宗教がなぜ国を滅ぼすか。現代人は宗教に無智であるから不思議に思うであろう。しかるに開目抄には「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」(0200:09)と仰せられている。いくら仏道修行に励んでも、いくら努力をつみ重ねても、国に亡国の邪法が流行していては、民衆の幸福はありえないのである。とくに一国の指導者・政治上の権力者が、心すべきことはこのことである。

現在の真言宗は、台密を別にすれば、いずれも弘法を開祖として、高野山を総本山とする古義真言宗と、智山、豊山の両山を総本山とする新義真言宗とに分けられる。すなわち古義は高野山金剛峯寺、仁和寺、大覚寺等の古義真言宗、真言宗東寺、真言宗醍醐寺等の七派であり、これに対して新義は真言宗豊山派と真言宗智山派である。

新義派は、法身の大日如来が自証極意という絶対の位で説法したのが大日経であるとする本地身説法を説き、古義派は衆生を加護するための加持身を現わして説法したのが大日経であるとする加持身説法を説く。しかし、いずれの派も、釈尊出世の本懐である法華経を第三の劣、戯論と下し、また釈迦仏を無明の辺域であり草履取りにも及ばないという邪義を立てている。

江戸時代の中期に、第五代将軍綱吉は始め英邁な将軍とされていたが、後に新義真言の隆光に帰依してから悪政をほしいままにし、隆光の勧めで、世に悪名高い「生類憐みの令」によって、人間を犬等の畜生以下に取り扱う等の暴挙に出たこともあった。現在も真言の悪義は亡国亡家の教えであり、真言の祈禱によって、国を滅ぼし社会を混乱させ家を滅ぼした例は無数にある。また成田不動などの不動信仰も、真言密教の邪悪な修法の流れであり、同じく大きな害毒を社会に流しているのである。弘法ひとりの我見によって、現在まで、日本国中に邪法がまき散らされていることは、まことに恐るべきことといわなければならない。

 

 

第十四章(慈覚の真言転落)

 本文

慈覚大師は去ぬる承和五年に御入唐・漢土にして十年が間・天台・真言の二宗をならう、法華・大日経の勝劣を習いしに法全・元政等の八人の真言師には法華経と大日経は理同事勝等云云、天台宗の志遠・広修・維蠲等に習いしには大日経は方等部の摂等云云、同じき承和十三年九月十日に御帰朝・嘉祥元年六月十四日に宣旨下、法華・大日経等の勝劣は漢土にしてしりがたかりけるかのゆへに金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻・已上十四巻此疏の心は大日経・金剛頂経・蘇悉地経の義と法華経の義は其の所詮の理は一同なれども事相の印と真言とは真言の三部経すぐれたりと云云、此れは偏に善無畏・金剛智・不空の造りたる大日経の疏の心のごとし、然れども我が心に猶不審やのこりけん又心にはとけてんけれども人の不審をはらさんとや・おぼしけん、此の十四巻の疏を御本尊の御前にさしをきて御祈請ありき・かくは造りて候へども仏意計りがたし大日の三部やすぐれたる法華経の三部やまされると御祈念有りしかば五日と申す五更に忽に夢想あり、青天に大日輪かかり給へり矢をもてこれを射ければ矢飛んで天にのぼり日輪の中に立ちぬ日輪動転してすでに地に落んとすと・をもひて・うちさめぬ、悦んで云く我吉夢あり法華経に真言勝れたりと造りつるふみは仏意に叶いけりと悦ばせ給いて宣旨を申し下して日本国に弘通あり、而も宣旨の心に云く「遂に知んぬ天台の止観と真言の法義とは理冥に符えり」等と云云、祈請のごときんば大日経に法華経は劣なるやうなり、宣旨を申し下すには法華経と大日経とは同じ等云云。

 

 現代語訳

慈覚大師は、去る承和五年に入唐、彼の中国で十年のあいだ、天台・真言の両宗を学んだのである。

法華経と大日経との勝劣について、法全・元政等の八人の真言師に学んだところが、法華経と大日経とはその所詮の理は等しいけれども、事相たる印と真言においては大日は勝れ、法華経は劣るという理同事勝をとなえていた。また、天台宗の志遠・広脩・維蠲等に学んだところは、大日経は釈尊一代五時説法中の第三方等部の部類であり、法華経より格段に劣ると説いていた。

こうして慈覚は、承和十三年九月十日に帰朝した。その翌々年の嘉祥元年六月十四日に、真言灌頂の事を願い出たところが、行なってもよいという宣旨が下った。慈覚は法華経と大日経等の勝劣については、中国で学んだあいだは、知ることができなかったかのごとくであった。ゆえに、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、合して以上十四巻の疏を作ったのであるが、この疏の意は、大日経、金剛頂経、蘇悉地経の説く義と、法華経の義は、その説き明かす所詮の理は同じであるが、事相たる印と真言においては、真言の三部経が勝れ、法華経は劣っているというのである。

この所見は、まったく善無畏・金剛智・不空等の意によったもので、彼らの大日経の疏の意と同じである。しかし、このように書いたものの、わが心になお不審が残っていたためか、また自分の心では決めていても、他の人々の不審をはらそうと思ったのか、慈覚は、この十四巻の疏を、本尊の宝前に安置して祈請をしたのである。すなわち、自分はこの疏に意見をしたためたのであるが、仏意のほどはなかなかはかりがたい。大日経の三部が勝れるものか、法華経の三部が勝れるのか、験をたまわりたいと祈ったところが、五日目の午前四時ごろに夢想があった。それは、青天に大日輪がかかり、矢をもってこれを射たところ、矢飛んで空に上り、日輪の中に当たったので、日輪は動転して地に落ちんとした時に夢さめたのである。夢さめて慈覚は、ひじょうに喜んでいうのには、「われにとってまさに吉夢である。法華経に真言勝るるという所見は、すでに仏意にかなっている証拠である」と喜んでいった。そこで宣旨を得て、日本全国にひろめたのである。

しかし妙なことに、この宣旨には、「ついに天台の止観と、真言の法義とは、その所詮の理は冥合である」といっている。祈請の意は、「大日経は勝れ、法華経は劣る」というのであるから、宣旨を申し下した「法華経と大日経とは同じ」という内容と、ぜんぜん違い、まことに奇怪千万なことである。

 

語釈

慈覚大師

07940864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。

 

法全

生没年不明。中国唐代の真言宗の僧で慧果の法孫。長安青竜寺で義操から真言密教の胎蔵界を学び、玄法寺に到り、後に青竜寺に移った。この両寺において、慈覚・智証等の当時日本からの留学僧の多くは、法全について胎蔵界を学び、両寺の二儀軌を持ち帰っている。

 

元政

中国・唐代の真言宗の僧。慧果の弟子恵則に従って密教を修業し、長安大興善寺翻経院に住んだ。叡山第三代座主の慈覚は承和5年(0838)入唐し、金剛界の教えを受けた。

 

志遠

07680844)。中国・唐代の天台宗の僧。幼くして父を失ったが、母は常に法華経を念じてその義を悟ったという。各地の名徳をたずね五台山華厳寺に入って天台宗を学び、入唐した慈覚に止観を伝えた。

 

広脩

07710843)。中国・唐代の天台宗の僧。広修とも書き、至行尊者ともいわれる。道邃和尚の弟子となり、天台山禅林寺で天台の教観を学び、法華経・維摩経・金光明経等を日々読誦したといわれる。後に、請われて台州に行き、学堂で止観を講じた。円澄の「延暦寺未決三十条」の問いに対して、開成5年(0840)弟子の維蠲とともに答えている。

 

維蠲

中国天台宗、天台山広脩座主の高弟。妙楽大師の法曽孫。

 

金剛頂経の疏七巻

金剛頂経を慈覚大師が訳した書。7巻からなる。

 

蘇悉地経の疏七巻

蘇悉地経を慈覚大師が撰した書。7巻からなる。

 

忽に夢想あり

慈覚大師は、仁寿元年(0851)金剛頂経の疏を作り、4年後の斎衡2年(0854)、蘇悉地経の疏を作った。この二経の疏を仏像の前に置き、7日間の祈りをこらした。5日目の夜に、晴天にかかった日輪を射て、動転させる夢をみて、これこそ仏意にかなった吉夢として、後世に伝え、流布した。ただしこの夢は吉夢ではなく悪夢である。

 

障なく通ずること。そこから、経典などの文義の筋道を明確にし、わかりやすく説き分けること。また、その書をいう。

 

講義

この章は慈覚の伝弘を明かし、その謗法を破折なされている。

14巻の疏を作り、その疏が仏意にかなう証拠として、夢に日輪を射て、矢が日輪に立ち、日輪が動転するのを見たという。このような大凶夢を、仏意にかなうなどというのは、じつに言語道断である。また、まことに非科学的であるといわざるをえない。

ゆえに撰時抄には「これよりも百千万億倍・信じがたき最大の悪事はんべり」(0279:12)とて、慈覚が天台の第三の座主でありながら、法華に真言は勝れると立て、日本国の滅亡の原因をつくってしまったことを責められている。慈覚、智証ともに本来は天台宗であり、伝教大師の弟子であり孫弟子である。ゆえに恩師の正義を奉じて、おおいにこれを高顕するとともに、もし恩師の滅後に邪智邪見の者が出現したならば、不自惜身命の戦いをなすべき地位にあったのである。

しかるに彼らは、真言の研究に没頭し、ついには法華が劣り、真言が勝れるという、とんでもない弘法の邪義に転落した。本来が弘法の弟子で、師の邪義を受け継いだというのなら、同じ地獄へ堕ちてもまだやむをえない一面があるとしても、天台座主という仏教界の最高の地位にありながら、邪義邪見に陥ったということは、「百千万億倍・信じがたき最大の悪事」と責められるのもとうぜんであろう。

宗教批判の原理に、文証、理証、現証ということがある。どんな幼稚な人であっても、太陽を射落として、これが吉夢だなどということが、道理の上から考えても、生活現証の上から考えても、どうしていえるであろうか。しょせん狂人というよりほかはないのである。

まことに慈覚の理同事勝の邪見は、救いがたいものであり、日蓮大聖人は「早勝問答」の中に「慈覚大師を無間と申すなり」(0165:12)ともおおせである。

慈覚は諱(いみな:本名)を円仁といい、下野国都賀郡の人である。年15にして伝教大師の弟子となり、後に止観院において円頓戒もうけ、承和5年(0838)、勅を奉じて唐に渡った。年の間、修行研鑽に励み承和13年(08439月帰朝した。この間の「日記」や「入唐巡礼記」は有名で、細密な記録は当時の唐を語る貴重な文献として珍重されているが、その後、延暦寺座主に任ぜられながら、真言に転落したのである。世上、いかに尊敬され、記録を残そうとも、仏法において大違失、大謗法あるならば、仏敵としか言いようがない。これは、弘法や智証等、すべての邪師に通ずる問題である。

はたせるかな、弘法、慈覚等の最後は、はなはだ悪かったのである。日蓮大聖人の教行証御書には「一切は現証には如かず善無畏・一行が横難横死・弘法・慈覚が死去の有様・実に正法の行者是くの如くに有るべく候や、……是くの如き人人の所見は権経権宗の虚妄の仏法の習いにてや候らん、それほどに浦山敷もなき死去にて候ぞや」(1279:16)とおおせである。

すなわち慈覚の遺体は、今、山形県の山寺、立石寺にありというが、首と胴が離れ離れになっており、死去のありさまは大変悪かったようである。また弘法も死去の前に悪瘡が身体に生じて苦しみ、死去の際も入定と称して誰にも会わせなかったといわれ、七百年前には、明白な記録があったゆえに、日蓮大聖人が、かくおおせになったと思われるのである。「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(1404:妙法尼御前御返事(臨終一大事の事):07)の御金言、もっていかんとなすや。

 

現代の仏教観

 

ところで、一般世間の弘法、慈覚、忍性良観等に対する見方は、仏法の正邪、あるいは民衆に真の幸福をあたえたかどうかではなくして、多分に表面的なものや形式等を中心にして評価しているのである。とくに、現代人の仏教観はますます仏法の真髄から離れる傾向にあることは、おおいにいましめていかなければならない問題であろう。

たとえば、現代の人々は、仏教といえば「消極的なあきらめの宗教である」「念仏のような他力本願の宗教である」「座禅を組むのが仏教の教えである」「仏教はなんでも同じである」あるいは「仏とは死んだ人をさすのである」「南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も同じである」等というような、きわめて浅薄な誤れる仏教観しかもっていない。

その結果、仏教を軽べつし、興味を失い、キリスト教や西洋哲学のような低級宗教、低級哲学に走ってしまうのである。これも、いままで、あまりにも堕落しすぎた既成仏教、葬式仏教、墓守り仏教の罪というべきである。しかし、真実の仏教は、全世界の宗教、哲学を堂々とリードし、指導しきっていく大生命哲学なることを知らなければならない。

よく仏教で「諦観」「諦め」「三諦」とかいう、いわゆる「諦める」とは、現在のように、「消極的に物事を思いきる」「断念する」意味ではなくて、「物事の道理をあきらかに究明しきっていく」ことを意味しているのである。そして、その結果、空仮中の三諦とか、三諦円融とか、西洋哲学も遠くおよばない、まさに画期的な思想体系を作り上げているのである。

また「念仏のような他力本願」「禅宗のような自力本願」といわれるような教えは、すでに三千年前、釈尊が方便権教として捨て去るべきであると決定した低級哲学であり、真実の仏教は、釈尊在世には法華経、像法時代には法華経迹門、理の一念三千、現代においては日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経の教え以外にないことを仏教史観に照らして明らかに知るべきである。仏教には五時八教、五綱等があって、けっして「仏教はなんでも同じ」ではなく、厳然と優劣正邪があるのである。

さらに仏とは「死んだ人」というような観念は、仏教思想が堕落した江戸時代ごろからいわれたことであり、真実の仏とは、インドの釈尊、日本の日蓮大聖人のごとく、絶対的幸福の境涯に達し、すべての民衆を救い切っていく大聖哲をさすのである。また仏教においては、一念三千の理法によって、真実の本尊を信じ行ずることによって、あらゆる人が、人間革命しえて絶対的幸福の境涯に達することができることを教えているのである。したがって、正しい仏教を信じた人は仏となり、邪法邪義を信じ正法を信じない人は現世にも苦しみ、死んでも仏とはなれないのである。

卑近な例のみをあげたが、そのほか現代人には真実の仏教に対する誤解が満ちみちているといっても過言ではない。心ある人々が、早く東洋仏法の真髄、世界最高の大哲学を求めて、各個人の偉大なる人間革命と、社会繁栄の実をあげていただきたいことを、心から念願してやまないものである。

 

 

第十五章(智証の真言転落)

 本文

智証大師は本朝にしては義真和尚・円澄大師別当・慈覚等の弟子なり、顕密の二道は大体・此の国にして学し給いけり天台・真言の二宗の勝劣の御不審に漢土へは渡り給けるか、去仁寿二年に御入唐・漢土にしては真言宗は法全・元政等にならはせ給い大体・大日経と法華経とは理同事勝・慈覚の義のごとし、天台宗は良諝和尚にならひ給い・真言・天台の勝劣・大日経は華厳・法華等には及ばず等云云、七年が間・漢土に経て去る貞観元年五月十七日に御帰朝、大日経の旨帰に云く「法華尚及ばず況や自余の教をや」等云云、此釈は法華経は大日経には劣る等云云、又授決集に云く「真言禅門乃至若し華厳法華涅槃等の経に望むれば是れ摂引門」等云云、普賢経の記・論の記に云く同じ等云云、貞観八年丙戌四月廿九日壬申・勅宣を申し下して云く「聞くならく真言・止観・両教の宗同じく醍醐と号し倶に深秘と称す」等云云、又六月三日の勅宣に云く「先師既に両業を開いて以て我が道と為す代代の座主相承して兼ね伝えざること莫し在後の輩豈旧迹に乖かんや、聞くならく山上の僧等専ら先師の義に違いて偏執の心を成ず殆んど余風を扇揚し旧業を興隆するを顧みざるに似たり、凡そ厥の師資の道・一を闕きても不可なり伝弘の勤め寧ろ兼備せざらんや、今より以後宜く両教に通達するの人を以て 延暦寺の座主と為し立てて恒例と為すべし」云云。

 

 現代語訳

智証大師は、入唐前、日本において義真和尚、円澄大師、別当の光定、慈覚等の弟子であった。ゆえに、顕密の二道は、だいたいこの日本国において勉学し終わった。しかるに天台、真言の二宗の勝劣に不審の念をいだき、それを解決するために中国へ渡ったのであろうか、去る仁寿二年に入唐し、中国においては、真言宗は法全・元政等に学んだが、だいたいにおいて、大日経の勝劣については、慈覚の邪義のごとく、同じく理同事勝の邪義であった。

天台宗については、良諝和尚に学びとり、真言、天台の勝劣においては、大日経は華厳・法華経にはおよばぬという教えを学んだ。七年のあいだ、中国において研究し、去る貞観元年五月十七日に帰朝した。その所見を発表した大日経旨帰にいわく「法華経でさえ大日経にはおよばない。ましてその他の教法においてをや」と。すなわち、この釈では、法華経は大日経に劣ることを説いている。また授決集にいわく「真言や禅宗が、乃至もし華厳や法華、涅槃経等と比較するならば、摂引門にあたり、大日経等は法華に入らしめるためである」と。その他、普賢経の記、および法華論の記にも同じく書かれている。

また、貞観八年丙戌四月廿九日壬申に勅宣を申し下して「聞くところによれば、真言、止観の両教の宗は同じく醍醐の教えであり、ともに深秘の法である」といっている。また六月三日の勅宣にいうには、「先師伝教大師は、すでに止観、遮那の両業を開いて、もってわが天台家の修道とされた。したがって、代々の天台宗座主はみなこれを相承して、両業を兼ね伝えぬことはなかった。後人のやから、またこの旧来の義に違背すべきではない。聞くところによれば、近来の比叡山の僧等は、もっぱら先師の義に違背して、自分の勝手な偏執の心をおこしている。しかして、ほとんど古来からの余風を宣揚し、旧業を興隆することを顧みようとしないのである。およそ、師資の道がそのまま一つ闕けてもならないのである。伝弘のつとめは、先師のごとく兼備していかなければならない。いまより以後は、よろしく顕密両教に通達する人をもって、延暦寺の座主として立てることを恒例とする」と。

かくのごとく、智証のいうことは、あるいは真言が勝れ、あるいは法華が勝れ、あるいは同じなどと、すべて矛盾に終始しているのである。

 

語釈

智証大師

08140891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。

 

義真和尚

07810833)。平安前期の天台宗の僧。比叡山延暦寺第一代座主。修禅大師と称される。相模(神奈川県)の出身。俗性は丸子連または丸子部。はじめ奈良興福寺で法相を学び、鑑真の弟子から受戒され中国語にも通じた。その後最澄に師事、延暦23年(0804)最澄の入唐時、訳語僧として随行し通訳を務めた。最澄の死後、大乗戒壇設立の勅許を得て戒和上となった。著書に「天台法華宗義集」1巻などがある。「義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり」(0310:報恩抄:14)とおおせで、義真が師の正義をよく奉じたことを賞されている。

 

円澄大師

0771年~0836)。比叡山延暦寺第二代座主。諡号は寂光大師。武蔵(埼玉県)に生まれ、はじめ道忠のもとで学んだが、後に伝教大師に師事し、円教三身・止観三徳の義などを授けられたという。「第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0310:報恩抄:14)、「円澄は天台第二の座主・伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり」(0320:報恩抄:04)とおおせで、円澄はその心の半分を、他師である弘法の方に向けている、と喝破されている。

 

別当

07790858)。光定のこと。延暦寺の別当となったことから別当大師とも呼ばれた。伊予(愛媛県)に生まれ、30歳の時に伝教大師の弟子となる。よく宗義を論じ、大乗戒壇設立に尽力した。著書に「一心戒文」などがある。

 

慈覚

07940864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。

 

顕密の二道

顕教と密教のこと。真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。

 

法全

生没年不明。中国唐代の真言宗の僧で慧果の法孫。長安青竜寺で義操から真言密教の胎蔵界を学び、玄法寺に到り、後に青竜寺に移った。この両寺において、慈覚・智証等の当時日本からの留学僧の多くは、法全について胎蔵界を学び、両寺の二儀軌を持ち帰っている。

 

元政

中国・唐代の真言宗の僧。慧果の弟子恵則に従って密教を修業し、長安大興善寺翻経院に住んだ。叡山第三代座主の慈覚は承和5年(0832)入唐し、金剛界の教えを受けた。

 

良諝和尚

生没年不明。中国・唐代の天台宗の僧。良湑とも書く。天台大師から第九代の伝法弟子。開元寺に住み、後に日本天台宗第五代になる智証が嘉祥4年(0851)にこの寺を訪れた時、天台宗旨を講述した。和尚は弟子から呼ぶ師匠の称。なお禅宗では「おしょう」、天台では「かしょう」、真言、律宗では「わじょう」と読む。

 

授決集

智証の著。二巻。

 

摂引門

授決集には「真言・禅門……若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば是れ摂引門」とある。真実の教えに摂引すべき方便の門すなわち、真言、禅等は、法華へ入らしむるためのものであるとの意。

 

普賢経の記

智証の著。「観普賢菩薩行法経記」2巻のこと。

 

論の記

智証の著。天親(世親)の法華論を注釈した「法華論記」10巻、略して「論記」という。

 

醍醐

五味の一つ醍醐味のこと。①蘇を精製してとる液で、濃厚甘味。薬用などにもする。②天台大師が一切経を五時の教判に約して、法華涅槃を醍醐味とたてたこと。③真言宗では自宗のことを醍醐とする邪義を立てている。

 

両業

天台宗の学生が学ぶべき二つの行為で、止観業と遮那業のこと。

 

相承

相は相対の意、承は伝承の義。師弟相対して師匠から弟子に法を伝承すること。

 

旧迹

伝教の開創した天台宗の行業。

 

山上の僧

比叡山延暦寺の僧。

 

扇揚

あふりたて、さかんにすること。

 

師資の道

教法を授受するの道。資は稟の義で弟子をいう。

 

両教

顕密両教のこと。

 

講義

次にこの章は智証の伝弘である。

智証は諱を円珍といい、後に三井寺を再興した。三井寺はまた園城寺ともいう。智証は慈覚と同じく、理同事勝の邪義を弘めたが、慈覚を祖とする比叡山延暦寺と、智証を祖とする園城寺は、後に犬猿のごとく相争い、日本歴史に、また仏教史上に、大きな汚点を残すようになるのである。

そして、比叡山と三井寺は、約千年の間、日本民族を不幸にしながら、現在においては、あわれな旧跡をとどめて、また観光地化に一役かっているような姿にすぎない。本師・伝教大師が、いかほど嘆き悲しんでいるか、察するにあまりあるものである。

智証は、伝教大師や慈覚と同じく、唐へ渡って仏法の正邪を明らめようとした。仏法東漸の像法時代において当時の仏道修行者は、一度は大陸へ渡って、一切経を学び、奥底をきわめようとすることを願っていた。これはちょうど現在、留学生が欧米に渡っているのと似ているのである。そうすることは、世間的にも、また官に仕える立場からいっても、ひとつの資格のように思われていたのである。しかるに今日では、かつて仏教の発生したインドにおいても、また多くの日本の留学生を迎え仏教の中心として栄えた中国の各地においても、仏教はすでに亡び去っている。

現在は仏法西漸の時代である。末法の御本仏は、この日本の国に出現あそばされ、三大秘法をお建てになったのである。これによって一切衆生の即身成仏もかなうのである。

 

智証の矛盾

 

さて本章では智証の矛盾を挙げられている。

一には大日経旨帰には「真言は勝れ、法華でさえ真言に及ばないから、余経は問題ではない」といっている。

二には授決集には「法華経が勝れていて、真言などは摂引門でしかありえない」といっている。

三には勅宣を引いて「真言と法華は等しい」といっている。

なぜ勅宣を引いて智証の矛盾をあげたかといえば、その宣示は智証の申し述べた意味をそのまま取って宣示されたから、これを引かれたのである。

 

 

第十六章(慈覚智証を破責す)

 本文

されば慈覚・智証の二人は伝教・義真の御弟子、漢土にわたりては又天台・真言の明師に値いて有りしかども二宗の勝劣は思い定めざりけるか或は真言すぐれ或は法華すぐれ或は理同事勝等云云、宣旨を申し下すには二宗の勝劣を論ぜん人は違勅の者といましめられたり、此れ等は皆自語相違といゐぬべし他宗の人はよも用いじとみえて候、但二宗斉等とは先師伝教大師の御義と宣旨に引き載せられたり、抑も伝教大師いづれの書にかかれて候ぞや此の事よくよく尋ぬべし、慈覚・智証と日蓮とが伝教大師の御事を不審申すは親に値うての年あらそひ日天に値い奉りての目くらべにては候へども慈覚・智証の御かたふどを・せさせ給はん人人は分明なる証文をかまへさせ給うべし、詮ずるところは信をとらんがためなり、玄奘三蔵は月氏の婆沙論を見たりし人ぞかし天竺にわたらざりし宝法師にせめられにき、法護三蔵は印度の法華経をば見たれども嘱累の先後をば漢土の人みねどもあやまりといひしぞかし、設い慈覚・伝教大師に値い奉りて習い伝えたりとも智証・義真和尚に口決せりといふとも伝教・義真の正文に相違せばあに不審を加えざらん、伝教大師の依憑集と申す文は大師第一の秘書なり、彼の書の序に云く「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し旧到の華厳家は則ち影響の軌範を隠し、沈空の三論宗は弾訶の屈恥を忘れて称心の酔を覆う、著有の法相は撲揚の帰依を非し青竜の判経を撥う等、乃至謹んで依憑集の一巻を著わして同我の後哲に贈る某の時興ること日本第五十二葉・弘仁の七丙申の歳なり」云云、次ぎ下の正宗に云く「天竺の名僧大唐天台の教迹最も邪正を簡ぶに堪えたりと聞いて渇仰して訪問す」云云、次ぎ下に云く「豈中国に法を失つて之を四維に求むるに非ずや而かも此の方に識ること有る者少し魯人の如きのみ」等云云、此の書は法相・三論・華厳・真言の四宗をせめて候文なり、天台・真言の二宗・同一味ならばいかでかせめ候べき、而も不空三蔵等をば魯人のごとしなんどかかれて候、善無畏・金剛智・不空の真言宗いみじくば・いかでか魯人と悪口あるべき、又天竺の真言が天台宗に同じきも又勝れたるならば 天竺の名僧いかでか不空にあつらへ中国に正法なしとはいうべき、それは・いかにもあれ慈覚・智証の二人は言は伝教大師の御弟子とは・なのらせ給ども心は御弟子にあらず、其の故は此の書に云く「謹で依憑集一巻を著わして 同我の後哲に贈る」等云云、同我の二字は真言宗は天台宗に劣るとならひてこそ同我にてはあるべけれ我と申し下さるる宣旨に云く「専ら先師の義に違い偏執の心を成す」等云云、又云く「凡そ厥師資の道一を闕いても不可なり」等云云、此の宣旨のごとくならば慈覚・智証こそ専ら先師にそむく人にては候へ、かうせめ候もをそれにては候へども此れをせめずば大日経・法華経の勝劣やぶれなんと存じていのちをまとに・かけてせめ候なり、此の二人の人人の弘法大師の邪義をせめ候はざりけるは最も道理にて候いけるなり、されば粮米をつくし人をわづらはして漢土へわたらせ給はんよりは本師・伝教大師の御義を・よくよく・つくさせ給うべかりけるにや、されば叡山の仏法は但だ伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん、天台座主すでに真言の座主にうつりぬ名と所領とは天台山其の主は真言師なり、されば慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給う人なり、已今当の経文をやぶらせ給うは・あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや、弘法大師こそ第一の謗法の人とおもうに、これは・それには・にるべくもなき僻事なり、其の故は水火・天地なる事は僻事なれども人用ゆる事なければ其の僻事成ずる事なし、弘法大師の御義はあまり僻事なれば弟子等も用ゆる事なし事相計りは其の門家なれども其の教相の法門は弘法の義いゐにくきゆへに善無畏・金剛智・不空・慈覚・智証の義にてあるなり、慈覚・智証の義こそ真言と天台とは理同なりなんど申せば皆人さもやと・をもう、かう・をもうゆへに事勝の印と真言とにつひて天台宗の人人・画像・木像の開眼の仏事を・ねらはんがために日本・一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり、例せば法師と尼と黒と青とは・まがひぬべければ眼くらき人はあやまつぞかし、僧と男と白と赤とは目くらき人も迷わず、いわうや眼あきらかなる者をや、慈覚・智証の義は法師と尼と黒と青とが・ごとくなる・ゆへに智人も迷い愚人もあやまり候て此の四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州・皆謗法の者となりぬ。

 

 現代語訳

されば慈覚と智証の二人は、伝教の弟子であり、また義真の弟子である。しかも、ともに中国に渡っては、天台宗や真言宗の明師に会って学んでいるのであるが、天台、真言の二宗の勝劣については、決定し兼ねたのか、あるいは真言がすぐれるといい、あるいは法華経がすぐれるといい、あるいは理同事勝である等といっている。宣旨を申し下した文の中には、天台、真言の二宗の勝劣を論ずるものは違勅の罪人であるといましめている。

これらは、みな自語相違というべきである。真言宗のほかの他宗の人々は、もはや信用しないであろう。しかして真言天台の二宗は斉しいということは、先師伝教大師の御義である等と宣旨に引きのせられているが、いったい伝教大師のいずれの書物に書かれていることか、よくよくたずねてみるべきである。慈覚、智証と日蓮大聖人とが伝教大師の御事を、いろいろ詮索するのは、親に会い親の前でその年をいいあらそうようなものであり、日天に向かって自分の目が太陽よりも明るいというようなものである。すなわち慈覚・智証は伝教大師の直弟であり、日蓮大聖人は後世の者であるからである。しかし、慈覚・智証の味方をする人々は、もっとも明らかなる証文をいだすべきである。ということは、つまりは真実の確信を得んがためのものである。

昔、玄奘三蔵はインドで婆沙論を見た人であるが、インドにも行かぬ宝法師に攻められた。法護三蔵はインドの法華経を見たけれど、嘱累の先後については正しくこれを見ることができなかった。ゆえに漢土の人々から、彼は誤ったといわれたのである。たとい慈覚は伝教大師にあいたてまつって習学したとしても、また智証は義真和尚から直接に口決の相承を受けたとしても、伝教大師、義真大師の確証たる正文と相違するならば、慈覚・智証の義に不審を懐かざるをえないではないか。

伝教大師の著に、依憑集という一巻の書がある。この書は伝教大師における第一の重要な意義をもつ秘書である。この依憑集の序にいわく「新来の真言宗は、すなわち筆授の相承の教義を泯亡するものである。旧到の華厳宗はすなわち天台の影響をうけ、天台を規範としたことを隠している。空に沈むところの三論宗は昔、天台の学徒より論破された屈恥を忘れて、章安の講義に心酔したことをかくしている。有相に執着する法相宗のものは撲揚が天台の教義に帰依したことを否定し、また青竜寺の良賁が天台の判教によったことを忘れている。いま、つつしんで依憑集一巻を著わして我に同心なる後来の学者に贈る。日本国第五十二代、弘仁七年、丙申の歳」と。

ついで次下の正宗文には「インドの名僧がいうには中国に天台の教迹があって、まことによく邪正権実を簡ぶということだから、ぜひ見たいと思ってたずねた」とあり、次下には「じつに仏法の中国たるインドに仏法を失って四周の他国に仏教を求めるものではないか。ところが、天台の国の人々は、これほどの大法が自分の国にあることを知っている者は、ほとんどいない。ちょうど、それは魯国の人が自分の国の孔子の偉大さを知らなかったようなものである」と。

依憑集は法相、三論、華厳、真言の四宗を論破したところの書である。天台、真言の二宗が同一味ならば、どうして真言を攻めるわけがあろうか。しかも不空三蔵のことを「魯人」とまでいわれているのである。善無畏、金剛智、不空等の主張する真言がりっぱであるならば、どうして伝教大師が「魯人」などと悪くいわれるわけがあろうか。またインドにある真言が天台宗に同じか、または勝れるならば、どうしてインドの名僧が不空三蔵に天台宗の調査を依頼し、「中国(インド)には彼の正法がないゆえにこれを釈せ」といっただろうか。

いずれにしても、慈覚、智証の二人は言葉では伝教大師の御弟子と名のっているけれども、心はけっして伝教大師の弟子ではないのである。そのわけは依憑集には「謹んで依憑集一巻をあらわして同我の後哲に贈る」とある。同我という二字の意味は、真言宗は天台宗に劣る教であると心得てこそ、同我というのである。しかして慈覚等が申し下した宣旨には「もっぱら先師伝教大師の義に違うて偏執の心を成ず」といい、「おおよそ師資の道というものは、一を闕いても成り立たない」とある。この宣旨によるならば、慈覚、智証こそもっぱら先師伝教大師にそむくものではないか。かくいって責めることは恐れ入ることであるけれども、このように責めなければ、大日経と法華経の勝劣が転倒してしまうと思い、命をかけてこの義を公言し邪義を責めるしだいである。

このようなわけであるから、この慈覚、智証の二人が、弘法大師の邪義を責めなかったのは、まことにとうぜんのことである。されば彼らは多くの費用を浪費し、数多くの人々の労力を使って中国へ渡ることよりも、本師伝教大師の御義を徹底してよくよく研究すべきであった。比叡山の仏法は、ただ伝教大師、義真大師、円澄大師の三代の時までで、以下の天台座主はまったく真言の座主に転落してしまったのである。ゆえにその名と所領とは天台山であるが、その主人は真言師である。

されば慈覚、智証の両大師は「已今当」の経文を破壊した以上は、釈迦、多宝、十方の諸仏の怨敵になるのであって、いままでは弘法大師こそが第一番の謗法者だと思っていたが、彼の慈覚、智証の両師は、弘法以上の大僻見者であった。

そのわけは、水と火、天と地ほど相違した僻事はだれでもこれを見破り、人は信用することがないから、その僻事は成功することはない。弘法大師のいう義は、あまりの僻見であるから、弘法の弟子たちも信用しないのである。弘法の門下たちは、その事相だけはその門流であるが、教相においては、弘法の義は依用しがたいから、善無畏、金剛智、不空、慈覚、智証の義を用いている。慈覚、智証の義こそ真言と天台の理は同じだなどというから、なにびともそうであろうと思っている。

こう思うところから、事に勝れた印、真言について、天台宗の人々も、画像・木像の開眼は、一様にこの事相によらねばならぬとしている。かくして日本一同、真言宗へと転落して、真の天台宗のものは一人もいなくなった。

このように、天台の末学が誤りをおかした原因は彼らに黒白を区分することができなかったからでもあるが、またそれほど酷似していたといえよう。たとえば法師と尼と、黒と青とはよく似ているので、目の悪いものは迷ってしまうのである。僧と俗人、白と赤とは目の悪いものも迷わない。ましてや目が健全なものは迷うわけがない。慈覚、智証の義は、法師と尼と、黒と青とのごとくであるから、智人も迷うのである。ましてや愚人はなお誤ってしまうのである。かくして四百余年間、比叡山、園城寺、東寺は無論のこと、奈良の諸大寺も、五畿七道のものも、日本全国みな真言のものとなった。ゆえにみな大謗法の者となったのである。

 

語釈

玄奘三蔵

06020664)。中国唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ751,335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。

 

婆沙論

説一切有部の教説の注釈書。旧訳は北涼の浮陀跋摩・道泰の共訳による「阿毘曇毘婆沙論」60巻、新訳には玄奘三蔵訳の「阿毘達磨大毘婆沙論」200巻がある。

 

宝法師

中国・唐代の高僧。はじめは玄奘三蔵の高弟であったが、玄奘が「婆沙論」を訳し終わったとき、非想の見惑について疑問を発した。玄奘は、みずから十六字を論中に加えてその疑問に答えたが、宝法師は、仏語の中に梵語を入れるとはもってのほかであるとし、玄奘の門を去った。後、俱舎宗を弘めた。

 

法護三蔵

竺法護のこと。中国・三国時代の僧。8歳で出家得道したが、諸大乗経があまり中国へ伝わらないのを嘆き、みずから西域に遊行し、広く言語を学び翻経に一生を捧げた。現存する法華経の三つのうち「正法華経」の訳者である。

 

嘱累の先後

鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」には、嘱累品は第二十二番目にあるが、法護訳の「正法華経」には経末にある。これを妙楽大師は法華文句記の嘱累品のなかで、羅什訳が正しいとしている。

 

筆授の相承を泯し

筆授の相承とは、中国・唐代の真言宗の一行阿闍梨が、善無畏三蔵より筆受した真言の相承をいう。一行は嵩山の普寂について禅を学び、更に諸方で律蔵ならびに諸経論を研鑽し、また天台の教義にも通じていたといわれる。善無畏述・一行記の「大日経疏」は、まったく天台宗の立場で大日経を釈したものであるが、弘法の東密は大日経を学ぶうえでこれを唯一絶対の権威としながらも、天台法華を大日の三部より劣ると下している。これは善無畏・一行の真言の相承を破ったものであるという意味。なお「泯す」とは、ほろぼす、すたれさせるなどの意である。

 

影響の軌範を隠し

華厳宗は、天台宗に影響を受け、天台を規範としたことを隠している。すなわち、華厳の法蔵三蔵の五教(小乗教・大乗始教・大乗終教・大乗頓教・大乗円教)は天台の五時(華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時)に範をとり、それに影響されたのである。

 

弾訶の屈恥を忘れて

三論の祖である嘉祥が、講義中に、天台の学徒で十七歳の法盛に論難され、まったく閉口したことを示す。

 

称心の酔を覆う

称心は、章安大師の住所。嘉祥が章安大師の講義を聞いて、体も心も酔うようになったという。このことを隠しているとの意。

 

撲揚の帰依を非し

撲揚は、中国法相宗第三祖の智周の住所。智周は初め天台に帰依し、「菩薩戒経」の疏をつくったが、日本の法相宗は天台の義によらないので、かくいったのである。

 

青竜の判経を撥う

中国青竜寺の良賁が、仁王経の註釈をするとき、従来の法相宗の師の分文に従わず天台大師の仁王経疏によって分文したことを忘れている。

 

同我の後哲に贈る

我に同心なる後来の学者。世の人々におくること。

 

日本第五十二葉

日本国第52代、嵯峨天皇の御世。

 

正宗

正宗分のこと。

 

「豈中国に」

中国とはインドのこと。仏教の中心地の意味でこういう。

 

四維

四方。周囲のこと。

 

魯人

露人とも書く。ロシア人のことで、仏教を知らない人々をあらわす言葉として用いられている。

 

不空にあつらへ中国に正法なし

不空に向かって、インドの僧が仏教の中心地である中国にもはや正法は存在しないといった語。

 

五畿

畿とは帝都に近い帝王直轄の地域で、帝都より四万500里以内の地をいった。京都を中心として山城・大和・河内・和泉・摂津のこと。

 

七道

東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道。地理的な行政区分であるとともに、畿内から放射状に伸びる道路名と同時に、諸国を包括する地理的区分でもある。

 

講義

この章は慈覚、智証が本師・伝教大師に違背した失を顕わし、その謗法の罪を破なされている。

 

此れ等は皆自語相違ともいゐぬべし

 

或いは真言すぐれ、或いは法華すぐれ、或いは理同事勝、宣旨には二宗の勝劣を論ずる者は違勅の者と禁止されている。このように真言と法華の勝劣についての彼らの見解がまちまちであるゆえに、自語相違と断ぜられているのである。

しかし、慈覚は、法華が勝れているとはいっていない。法華が勝れると立てたのは智証であるが、いまは相従して両方へかけられたのである。

等海抄にいわく「尋ねて云く真言天台、勝劣同異に幾不同有りや。心賀御義に云く爾なり。四義不同なり。

一には真言は事理倶に一向天台に勝る是れ弘法智証の御義なり。智証大師御釈に云く南岳大師の三観、一心の理は源、阿字本空の理より出ず。無畏、不空三密同体の教は、冥に円頓一実を助く。此の釈は能生の法は真言、所生の法は天台と釈する故、所生の法は事理共に劣るなりと聞きたり。

二には事理倶密は真言勝れたり。唯理秘密は両宗同じ。慈覚、五大院、兜率等の御義なり。

三には真言、天台は事理倶に一向全同なりと。是れ伝教の御義なり。山家の御釈に云く、真言止観、其の旨一なり。故に一山に於て両宗を弘む。本覚の身口意三業の行は更に三密修行に不同無き者なり。元より名目も不同に名言も相違せん事は、両宗格別なる故なり。然るに三密修行も三業相応の行にして共に本覚の修行を以てなり。更に不同有るべからざるなり。

四には天台は勝れ真言は劣るとは、四重秘釈を以て口伝する子細これ有り」と。

但二宗斉等とは先師伝教大師の御義等

本文に「抑も伝教大師いづれの書にかかれて候ぞや」とて、伝教大師には、法華と真言が等しいなどということを書いたものはないと述べられている。

しかるに伝教大師の書かれた物の中には、二宗が等しいと述べられたものが、次のように残されている。

すなわち牛頭決には「天台所立の十界互具の文と、秘密最大三十七尊住心城の文と、大道異なりと雖も不思議一なり」と。学生式には「止観真言、二羽両輪」と。しかるになぜ、伝教大師には「二宗斉等」の文がない、と本抄におおせられるのであるか。

それは、このように真言と法華が等しいと述べられたところは、約教一往の傍義である。約部再往の正意ではないのである。たとえば「此の妙彼の妙、妙の義異なることなしと雖も、但、方便を帯せるか、方便を帯せざるかを以て異と為すのみ」と同じ意である。「大道異なりと雖も不思議一なり」とか「止観真言、二羽両輪」とは、一往の傍義である。再往の正義とは、

一には真言には宗の名をつけず、天台法華宗と称された。

二には守護章に大日経を傍依の経となされた。

三には依憑集に真言を破する故。

四には記十を引いて真言の元祖を「魯人」となされた。

五にはそのような含光の物語りを書き載せられた。

これらの文義に准ずれば、伝教大師の御心は二宗勝劣にあることは分明である。守護章上にいわく「我が山家は教部にして、八教を摂ぜず」と。すでにわが山家は教部といわれていることを思い合わすべきである。それでは伝教大師はなぜ一往斉等の釈をなされたのであるか。それは一山において両業を修して除障方便となされたのである。その証拠として、日寛上人は次の等海抄に略引されている。

「等海抄に都率の三密抄を引て云く、大日経の疏の始終一向に文義を以て釈成す。此の経の理と三観の妙理全く天台に同じ。問う若し爾らば何ぞ秘密教は障を除き顕教は爾らざるや。答う円頓の理は法華経に過ぎず。除障の方便は三密の加持に如かず。天台の法華の陀羅尼品疏にいうが如し。悪世の弘教はすべて悩乱多し、咒を以て之を護る流通することを得る便りとす云云。正宗の妙理、勝ると雖も更に咒を用い難を除く故に、知ぬ三密の教門は除障の術なり。此の教門多く悪世を利する為に、学者我山は真言止観を兼学す。良に以有るなり」

 

伝教大師の依憑集と申す文

 

この文からは正文相違の失を破している。

天台大師の著述された依憑集とは、依憑天台集といって、序文は「天台の伝法は諸宗の明鏡なり」から始まり仏教の各宗派が天台に依憑して宗を立て義を立てていることを明かしている。

日寛上人は文段に次のようにお述べになっている。「此の序文の意、或は二意有り。謂く且く文相に准ずるに、但元祖の依憑を挙げて、以て末弟の偏執を破するなり。往て義意に准ずるに、彼の元祖の依憑は即ち盗台に当るなり。其の故は天台法華の義に依憑して、宗々の依経を誇耀する故なり」と。

この依憑集で破折されている真言宗、華厳宗、三論宗、法相宗等は、いずれもその時代の思想界、宗教界を指導し、あるいは政治権力と結んで東洋の各地に流行したものである。しかるにいかに巧妙な宣伝をしても、釈尊がみずから四十余年未顕真実と打ち破ったところの爾前権経を立てるがゆえに、天台法華宗とは天地雲泥の相違を認めざるをえなくなるのである。

今日においては創価学会のみが、仏法の正統であり嫡流である。しかるに、日蓮宗と名のる邪宗が流行し、いまだに立正佼成会などという、法盗人がことごとに創価学会のマネをし、大衆の無知を悪用して、私利私欲をむさぼっている。

 

師資の道

 

「師資の道・一を闕いても不可なり」であって、正法正義を選んで信心に励んでこそ、即身成仏がかない、邪法邪義を信ずる者は無間地獄に堕ちることも深くいましめなければならないのである。

「師資の道・一を闕いても不可なり」とは、師弟の道を示しているのである。師とは師匠である、資とは稟けるの意で、弟子を意味する、すなわち、仏法において、師弟の道は一を闕いても成仏はできないとの謂である。仏法はいかに師弟相対を重んじていることか。

日蓮大聖人と日興上人のお姿こそ、厳然たる師弟の道であり、六老ありといえども、ただ日興上人お一人が、日蓮大聖人の大仏法を余す所なく理解され、大聖人を正しく御本仏と拝されたのである。しかして、日興上人のほかの五老僧や、その末流は、日蓮大聖人を御本仏と仰げず、三大秘法の御本尊を信じ得ないゆえに、謗法の徒であり、断じて師弟の道は成り立たないのである。とくに五老僧は佐渡以後の常随給仕がなく、信心もなく、大聖人御滅後、退転し師敵対してしまった。学会にあっては、一人も五老僧のようなものを出してはならない。

わが学会が、日蓮大聖人、日興上人いらいの唯一の相伝たる御本尊を信じている姿こそ、正しく師弟の道を遵奉しているものである。しかるに邪宗邪義のものは、師対弟子という真の師弟の道に立てず、あまつさえ自宗内で世襲制をしいているがごときは、けっして仏法とはいいえないのである。

とくに、浄土真宗の東西両本願寺や、立正佼成会のごとき新興宗教は、明らかな宗教企業であり、しかも信徒から奪った財を世襲制によって子孫に渡すというような醜態は、仏教の仮面をかぶった餓鬼という以外にないのである。

 

 

第十七章(法華最勝の経釈)

 本文

抑も法華経の第五に「文殊師利此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の上に在り」云云、此の経文のごとくならば法華経は大日経等の衆経の頂上に住し給う正法なり、さるにては善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は此の経文をばいかんが会通せさせ給うべき、法華経の第七に云く「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し一切衆生の中に於て亦為第一なり」等云云、この経文のごとくならば法華経の行者は川流・江河の中の大海・衆山の中の須弥山・衆星の中の月天・衆明の中の大日天、転輪王・帝釈・諸王の中の大梵王なり、伝教大師の秀句と申す書に云く「此の経も亦復是くの如し乃至諸の経法の中に最も為第一なり能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し一切衆生の中に於て亦為第一なり」已上経文なりと引き入れさせ給いて次下に云く「天台法華玄に云く」等云云、已上玄文と・かかせ給いて上の心を釈して云く「当に知るべし他宗所依の経は未だ最も為れ第一ならず其の能く経を持つ者も亦未だ第一ならず、天台法華宗所持の法華経は最も為れ第一なる故に能く法華を持つ者も亦衆生の中の第一なり已に仏説に拠る豈自歎ならん哉」等云云、次下に譲る釈に云く「委曲の依憑具さに別巻に有るなり」等云云、依憑集に云く「今吾が天台大師法華経を説き法華経を釈すること群に特秀し唐に独歩す明に知んぬ如来の使なり讃る者は福を安明に積み謗る者は罪を無間に開く」等云云、

 

 現代語訳

そもそも法華経の第五の巻安楽行品には「文殊師利菩薩よ、この法華経は諸仏如来の秘密の蔵である。諸経の中において最上の経法である」とある。この経文のごとくであるならば、法華経は大日経等の諸経の頂上に位するところの正法である。

であるならば、善無畏、金剛智、不空、弘法、慈覚、智証等は、この経文をいかに解しているのだろうか。法華経第七の巻、薬王品には「この経を受持するものも、またかくのごとく一切衆生の中で第一人者である」と。この経文の通りであるならば、法華経の行者は川流、江河中の第一の大海であり、衆山中第一の須弥山であり、衆星中第一の月天子であり、多くの光明中第一の日天子、諸の小王中第一の転輪王、三十三天中第一の帝釈天、一切諸王中第一の大梵天王のごとくである。

伝教大師の法華秀句という書には、「この経も、またまた、かくのごときである。乃至多くの経法の中で法華経が最もこれ第一の経である。よくこの経を受持する者もまたかくのごとく一切の衆生の中で第一の衆生なり」と。以上経文であると引き入れておいて、その以下にはそれを解釈した「天台法華玄に云く」としてその文を示し、已上玄文と書かれて、その心を釈していうには、「まさに知るべし、他宗所依の経は、まだこれ第一ではない。その経を受持するものも第一ではない。天台法華宗所持の経典こそ、最もこれ第一であるゆえに、よく法華経を受持するものはまた、衆生の中の第一である。これは明らかに仏説によるのであって、決して自分の独りよがりではない」と、いっている。同じく伝教大師は法華秀句の巻末に「諸宗の諸師が天台大師に依憑している仔細のことは別巻にある」と記された。その依憑集には「今わが天台大師が法華経を説き、法華経を解釈することは、南三北七の諸群聖に秀で、中国全土に独歩するものである。これまことに如来の使いである。ゆえに如来の使いたる天台大師を賛嘆するものは福を安明(須弥山)よりも高く積み、これを誹謗するものは無間地獄におつるという大罪をうけるであろう」とある。

 

語釈

文殊師利

文殊師利菩薩のこと。文殊師利は梵語マンジュシュリー(Mañjuśrī)の音写。妙徳、妙首、妙吉祥と訳す。迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。法華経序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、同提婆達多品第十二で沙竭羅竜王の王宮に行き、女人成仏の範を示した竜女を化導している。

 

会通

「和会疏通」の意。和会、融会、会釈ともいう。経論の異義異説を和会し、一意に帰させること。「和会」は経論の説を照らし合わせること、「疏通」とは筋道が通ることをいう。

 

須弥山

古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。

 

委曲の依憑具さに別巻に有るなり

伝教大師が、秀句の巻末に述べた語。諸宗・諸師が依らないことの仔細は、別巻(依憑集)で書き記すとの意。

 

安明

須弥山の訳名を安明山という。水に入ること深くして動ぜざることが「安」、諸山に超出して高きことを「明」という。

 

講義

この章からは、正しく日蓮大聖人の御弘通を明かしている。初めに法華が一切経中において最も勝れているという経文と、天台、伝教の釈を引かれるのである。

法華経第五の「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の上に在り」との御文は、安楽行品第十四の文である。次に引かれた法華経第七の文は、薬王品第二十三の十喩のうち、第八の四果辟支仏喩の文である。

伝教大師の「法華秀句」には、次に示すように、第八喩の所持能持、一連の文を引いているのに、本抄ではなぜ安楽行品を引いて、薬王品の所持第一の文を引かないのか。これに対し日寛上人は文段に次のようにお答えになっている。

「然るに元意を推するに恐らくは真言宗を破せんが為、別して此の文を引くなり。此に二意有り。一には彼宗は大日経を以て即秘密と名く。釈尊は法華経を以て別して秘密と名く故に経に〝秘密の蔵〟と云うなり。問う若し爾らば彼は秘密にあらざるや。答う彼は是れ隠密にして微密に非るなり。二には彼の宗は金剛頂経を以て衆経の頂上と為す。釈尊は正しく法華経を以て衆経の頂上と為す。故に〝諸経の中に於て最も其の上に在り〟というなり」と。

 

伝教大師の秀句と申す書

 

秀句の第八喩の文は次のとおりである。

「又云く、一切凡夫人の中、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏、第一なるが如く、此の経も亦復是の如し。一切如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為れ第一なり。能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し、一切衆生の中に於て亦第一なりと。ある。

天台の法華玄に云く五仏子の如き、凡夫の中に於て第一なり。或は衆生を抜きて涅槃に出だす。菩薩の無学の上に居するが如し。今の経は衆生を抜きて方便教の菩薩の上に過ぐ。即ち法王と成る最も第一なりと。已上玄文

当に知るべし他宗所依の経は未だ最為第一ならざることを。其の能く経を持する者も、亦未だ第一ならず。天台法華宗所持の法華経は最も第一なり。故に能く法華を持する者も亦衆生の中に第一なり。已に仏説に拠る、豈自歎ならんや」と。

「諸の経法の中に最も為れ第一なり」は、所持第一の文であり、「能く是の経典を受持すること有らん者」からは、能持の行者第一の文である。「妙法なるが故に人貴し」であって、この法を毀りこの人を毀る者は、無間地獄の罪業を造るのである。

法華秀句は、伝教大師は、なにを目的として書いたものであろうか。

法華秀句は上中下の三巻からなり、弘仁十二年に作られたものである。「十勝」とも称され、日蓮大聖人は「秀句十勝抄」を著わされ、法華秀句を研究なされたことが明らかである。しかし、この「秀句十勝抄」は大聖人の御真書ではあるが、天台の法門の御抄録文とみなして、御書全集のなかには入れていないのである。

法華秀句を著わした目的は、秀句の序分にのべられている。すなわち、

「法華秀句は髻珠を琢磨するの砥礪なり。乃ち霊山の明珠は遠く西秦に伝わり、天台の珠嚢は遥かに東海に流るるあり。珠を施すの客、各是非を諍い、珠を求むるの主、所帰を知るなし。是れを以て麤食の見林を剪除して天台の円城を建立す。是に於いて一謀家ありて云く、天台所立の四車の義は、華厳宗をして其の義を奪い取らしめ又其の所立の成仏の義は三論宗をして其の義を奪い取らしむと。然れば則ち天台法華宗は何等の義を以て自宗の義と為ん。若し自宗の義なくんば別宗を許さざる者なり。時人を矇さんと欲し其れを度りて謀を為す。誣誷も亦甚だし。是の故に且く法華秀句三巻を著わす。庶わくば妙法の勝幢千代に傾かず、一乗の了義、群心を開悟せんことを。但恐らくは織成正しからずして聖の耳目を汗さんことをや」と。

この序文によって、法華秀句の目的は、法華が最勝であることを主張し、他宗の策謀家を粉砕して天台法華の光輝をいよいよ増益するためであることが知れる。

また顕勝門の十勝とは、仏説已顕真実勝一、仏説経名示義勝二、無問自説果分勝三、五仏同道帰一勝四、仏説諸経校量勝五、仏説十喩校量勝六、即身六根互用勝七、即身成仏化導勝八、多宝分身付属勝九、普賢菩薩勘発勝十である。

とくに「仏説已顕真実勝一」には、得一の「慧日羽足」の十教二理・四教二理等を徹底的に破折している。これが上中二巻となり「仏説経名示義勝二」以下をもって下巻としているという。

このように、伝教大師は多くの著述をあらわして、邪宗邪義を、ただ一人で粉砕されていったのである。

釈尊と天台と伝教は、法華経を諸経法中の第一となしているのに、慈覚は真言を諸経法中の第一となしている。これは仏敵であり大罪人である。

弘法は、法華経を第三となしたが、弘法のほうがまだ罪は軽い。法華を第二となして人々を迷わした慈覚、智証のほうがさらに罪は重いのである。

 

仏教研究の初歩

 

およそ、いかなる学問・研究においても、またどんな時代でも、文証・経文・原典を根本として究明していくということはとうぜんのことである。とくに、宗教、哲学、思想等では、おおいに厳格なることが要求されるのである。因果の理法を説き、最高の哲学体系を誇る仏法においては、さらに正確、細密でなければならない。

ところが、善無畏、金剛智、不空、弘法、慈覚、智証等が、法華経、大日経等を研究するのに、みな我見私見を基にして、経文、原典を省みないありさまは、じつに軽率でありふまじめである。哲学究明の初歩において、すでに誤り転落したものというべきではないか。

このような傾向は、真言、念仏等の邪宗にすべてみられるところである。すなわち念仏の法然等の論釈をみても、まず道綽、善導等の人師の釈を引用して解釈し、次に論師の論を引用し、終わりに申しわけていどに法華経や浄土三部経を援用しているというような書き方で、これでは論文として倒錯であり落第である。しかも、これが学生の卒業論文などと違って、仏法の誤りは何十万何百万という民衆を不幸に突き落す作用をしているのである。

日蓮大聖人が、また天台大師、伝教大師等が、まず経文を引き、次に論釈を援用して、みごとな論説を展開して、正法正義を宣揚しておられるのと比べて、まことにその差の大きいのに驚くのみである。

依憑集において伝教大師は、天台大師を如来の使いなりと断定し、「讃る者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く」と述べられていることは、釈尊の経典から天台の立ち場を絶対のものとの確信に立たれていたものと思われるのである。

現代においても明らかに邪宗とわかる新興宗教などよりも、邪宗日蓮宗のほうが謗法の罪が重く、さらに創価学会の組織や行事などを、ことさらにまねて大衆をまどわしている立正佼成会のごときは、もっとも邪宗、邪義のはなはだしいものである。

しかして現代においては、天台も、伝教も如来の使いとしての働きはないのである。釈尊の仏法自体がすでに白法隠没しさっているから、その使いの功能のないのもとうぜんである。

末法今日の大白法は日蓮大聖人の三大秘法である。この三大秘法を仏説のごとく信じ行ずる創価学会員こそが如来の使いである。ゆえに信心折伏に励む学会員を、讃むる者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開くのである。「妙法なるが故に人貴し」であって、いかに下賤の者といわれようとも、持つところの御本尊が貴いゆえに、その人も尊貴の人となるのである。ゆえに、日蓮大聖人は、もったいなくも、われわれの尊貴なるゆえんをのべられた後に「請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ」(0342:08)等と、おおせられているのである。

 

 

第十八章(法華経の三国三師)

 本文

法華経・天台・妙楽・伝教の経釈の心の如くならば今日本国には法華経の行者は一人も・なきぞかし、月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は 大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし、漢土には陳帝の時・天台大師・南北にせめかちて現身に大師となる「群に特秀し唐に独歩す」という・これなり、日本国には伝教大師・六宗にせめかちて日本の始第一の根本大師となり給う・月氏・漢土・日本に但三人計りこそ於一切衆生中亦為第一にては候へ、されば秀句に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦に敷揚し叡山の一家は天台に相承して法華宗を助けて日本に弘通す」等云云、仏滅後・一千八百余年が間に法華経の行者・漢土に一人・日本に一人・已上二人釈尊を加へ奉りて已上三人なり。

  外典に云く聖人は一千年に一出で賢人は五百年に一出づ、黄河は涇渭ながれを・わけて五百年には半河すみ千年には共に清むと申すは一定にて候けり、

 

 現代語訳

以上、釈尊の法華経、また、天台大師、妙楽大師、伝教大師、こうした人々の経釈の心からするならば、いま日本国には法華経の行者はひとりもいないことになる。

昔、インドで、釈尊が法華経を説かれたが、その宝塔品の時、いっさいの諸仏を雲集せしめられ、大地の上に集められた。その時、釈尊は多宝仏の塔中にあったが、大日如来は、宝搭中の南の下座に座し、釈尊は北の上座に着座された。しかもこの大日如来は、大日経に説くところの胎蔵界の大日如来、金剛頂経に説く金剛界の大日如来、この両界の大日如来の主君なのである。

かくのごとく両部の大日如来を郎従とする多宝如来のさらに上座に、教主釈尊は席をとられたのである。この釈尊こそ、法華経の行者なのである。インドにおけるありさまは、かくのごとくであった。

中国では、陳の時、天台大師が南三北七等の諸師に攻め勝って、現身に大師として尊敬せられた。これは伝教大師が法華秀句の中で「群賢に秀で唐土に独歩す」といったゆえんである。日本では伝教大師は六宗のものを降伏せしめて、日本における最初の第一の根本大師となられた。

このように、インド、中国、日本において、釈尊、天台、伝教の三人だけが、法華経にいう「一切衆生中第一」なる人である。ゆえに、伝教大師の法華秀句には、「浅きは易く深きは難しとは、釈尊の説きたもうところである。浅きを去って深きにつくのが丈夫の心である。天台大師は釈尊に信順して法華宗を中国に弘布し、比叡山の一門すなわち伝教大師等は、天台大師に相承して、法華宗を日本にひろめるのである」と。仏滅後、一千八百余年、この間に法華経の行者は、中国に天台一人、日本に伝教一人、以上二人である。それに釈尊を加えたてまつって、以上三人だけである。

中国の外典の書にも、聖人は一千年に一度出で、賢人は五百年に一度出るという。また黄河は涇河、渭河と流れを別にしているが、五百年には、その流れの半分が清み、千年には全流が清むという。まことに、たとえのとおりで、彼の三人は聖人であり、賢人であるといえる。

 

語釈

大日経の胎蔵界

真言密教の教えで、胎蔵とは含蔵と摂持をあらわす。含蔵とは、女性の胎中に輪王の聖胎を得たように、凡夫の煩悩の心中に諸仏の慈悲の功徳を含蔵することをいう。摂持とは、女性の胎中の輪王は、四天下を統御し、万民を撫育する徳を摂持するように、凡夫の心中に仏界は隨縁生起し、自他ともに利益をおよぼし、いっさいを摂持することをいう。金剛界の智性に対して理性をあらわしている。根本経典は大日経。

 

金剛頂経の金剛界

金剛とは、堅固をあらわす。不可破壊すなわち堅固をもって本義としている。根本経典は金剛頂経。

 

現身に大師となる

大師とは、仏の尊号の一つ。のちに、僧の尊称としても使われるようになった。日本では、高僧に対して勅賜されたが、生前にこの号を賜った先例はない。種種御振舞御書に「現身に大師号もあるべし」(0909:03)とある。中国では、天台大師その他に例がある。

 

根本大師

07670822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(080438歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(082264日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の611日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄まで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。

 

浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判

浅きとは、随他意の方便権教で、信じやすく解しやすいけれども、深き教え、随自意の正法は、信じがたく解しがたいということ。宝塔品には六難九易、法師品には難信難解を説いている。

 

震旦

一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。

 

涇渭

涇水と渭水をいう。涇水は濁り、渭水は澄んでいる。共に中国陝西省を流れる。

 

講義

この章からは、前章に引くところの、経の意を釈すのである。初めに日本国にはすべて法華経の行者がいないことを明かし、次に末法には日蓮大聖人のみが法華経の行者なることを明かしておられる。

すなわち「一切衆生の中に於て亦為第一なり」とは、日蓮大聖人の御事である。このことを示さんがために初めに日本国には法華経の行者がいないことを明かすのである。

なぜなら、法華経によっても、天台、仏教の釈によっても、「法華経こそ諸経法の中で最為第一であり、諸経の中に於て最もその上(かみ)に在り」と行ずる者を法華経の行者と名づけるのである。

しかるに日本国中一同に、あるいは「諸経法の中で最為第三」といったり、「諸経の中に於て最も其の下に在り」といっている。あるいは「諸経法の中で最為第二」といったり、「諸経の中に於て最も其の中に在り」などといっている。

それというのも、日本国中が、弘法、慈覚、智証に惑わされて、真言の邪義に堕ちたからである。なぜそのような邪義、邪宗のやからを、法華経の行者といえるであろうか。ゆえに日本国は一人も法華経の行者がいないのである。

 

月氏には教主釈尊等

 

月氏、漢土、日本を通じて法華経の行者が但三人であるとは、上代においてもなお法華の行者が希有なることを明かし、第十九章の「然るに日本国……」からは、日本国にはすべて法華経の行者なく、ただ謗者ばかりあることを明かしている。

「教主釈尊、宝塔品にして一切の仏をあつめ……」とは、儀式に約して第一を示し、「此の大日如来……」からは、所説に約して第一を示している。

儀式に約して第一を示す中で、分身の諸仏はすでに大地の上にいるゆえ、下劣である。多宝如来は塔中にいるゆえ、分身に勝れている。しかして、大日如来は南の下座にいるのに対し、教主釈尊は北の上座につくから、第一である。

次に所説に約して第一を説くとは、権教の三身は「未免無常」のゆえに、大日経、金剛頂経の二種の大日如来は、所従である。実教の三身は倶体倶用のゆえに、法華経の多宝如来は主君である。

しかしまた、この多宝如来も迹門宝塔品の仏であって所従である。本門寿量品の教主釈尊は、久遠の本仏のゆえに主君である。もししからば、両部の大日の主君は多宝であり、多宝の主君は釈尊であって、釈尊こそ第一となるのである。

法華取要抄にいわく「大日経・金剛頂経・両界の大日如来は宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり、例せば世の王の両臣の如し此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり」(0333:04)と。

右の御文のように、両界の大日の主君は多宝如来である。しかるに本抄ではなぜ「大日如来計り宝塔の中の南の下座」とおおせられ、「多宝」とおおせられていないのか。

この疑問に対し、日寛上人の文段には次のように答えられている。

「ここに二意があり。一には他師に順ずるゆえである。蒙十八に賢記を引いて云く、多宝を大日という事は、不空の法華儀軌に両部の大日を脇士となしている。法華の多宝を不二の大日と名づけ、中央となしている。若ししからば、不空の儀軌によっても、二種の大日の主従が明らかである。

二には所表に従うゆえである。朝抄に云く多宝を大日ということは、多宝が法仏を表する釈の意である。ゆえに但法身ということである。大日経でいう権教の法身は、法華経の実教に説く法身の所従なりとの意である。

次に〝南が下座〟〝北が上座〟とは、インドの風俗の上からそうなるのである。すなわち、インドでは右尊左卑である。宝塔は西向きであるから、西へ向いた場合、北が右で尊く、南が左で卑となるのである」と。

次の結文の「此れ即ち法華経の行者なり」の文に対し、釈尊のことを「行者なり」といって、なぜ「教主なり」といわないのか。この疑問に対し日寛上人は、いうところの行者に「自行有り、化他有り」、いまは化他に約すゆえに、行者というのであるとおおせである。

 

現身に大師となる等

 

「南北にせめかちて現身に大師となる」とは、第一の義を顕わしているのである。

「六宗にせめかちて日本の始第一の根本大師」とは、また第一を顕わすのである。

この「日本の始第一」の文について、文段には次のように釈されている。

「第一の言に就いて二義有り。一には最勝の極を第一と名づく、即最為第一の如し。二には衆次の首を第一と名づく、即序品第一の如し。今第一とは是れ衆次の首の義なり。当に知るべし、始第一とは是れ根本の二字の意を顕わすなり。謂く前に望むるに、日本元始の大師なり、故に根本大師と云う。後に望むるに第一の大師なり、故に根本大師と云う。故に前後に望みて其の意を顕わすなり」と。

さらに日寛上人は、「啓蒙」に「日本始めての法華最第一の法華の行者なる故に第一といわれた」と解釈しているのを「穏かならず」と破折なされている。

また日蓮大聖人はいかに、というに、すでに諸宗の邪義を責め落して、前代未聞の妙法を弘通せられているので、第一の法華経の行者であらせられるのはとうぜんである。

撰時抄にいわく「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもってすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず」(0284:08)と。

しかるに日蓮大聖人は、諸宗の邪義に攻め勝ったとはいえ、いまだ大師とはなっていないから、第一とはいえないではないか。

右の疑問に対しては次のとおりである。すなわち、

種種御振舞御書にいわく「賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし」(0909:03

たとえ大師の徳があっても、賢王、聖主の御代でなければ、大師号を授けられることがないのである。

 

聖人は一千年、賢人は五百年

 

仏滅後1,800余年が間に、釈尊、天台、伝教の三人が、法華経を説いて、民衆を救ってきたのである。在世および像法時代の法華経が、一千八百余年の間、東洋民族の哲学として奉ぜられたということは、まことに驚くべきことといわなければならない。

聖人とは、みずから悟るもの、賢人は教えをうけて悟るものともいわれる。また「三世を知るを聖人という」と。真実の聖人とは、三世を知り、自解仏乗なされ「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」とおおせられた日蓮大聖哲あられるのみである。ゆえに大聖人とお呼び申し上げ、これ御本仏の異名なのである。現代において、日蓮大聖人に帰依したてまつる以外に、世界の民衆の不幸は救われないし、真の世界平和もありえないということを、声を大にして叫ぶものである。

 

仏法は演繹的哲学

 

仏法は演繹的哲学の最高峰であり、仏が一大事因縁によって出現し、究極の大生命哲学を説いたのである。仏法哲学は、根本の生命哲学を解明しきっているがゆえに、観念哲学や唯物論等の西洋哲学より格段にすぐれているのである。本講義の主題である報恩観にしても、また師弟相対においても、西洋哲学は驚くほど貧弱であるのは、まったく西洋哲学の貧困と低級さを示しているものにほかならない。

西洋の哲学は、帰納的である。ゆえに、アリストテレスに対するプラトン、ヘーゲルに対するフォイエルバッハ等の師弟観は、まさに対立的抗争的であって、仏法の演繹哲学における師弟関係とは、根本的に異なっているのである。すなわち、あらゆる分野から思惟して、仏法は西洋哲学に幾千万億倍すぐれているといわざるをえない。

 

 

第十九章(日本に謗者のみあるを明かす)

 本文

然るに日本国は叡山計りに伝教大師の御時・法華経の行者ましましけり、義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり、第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり、第三の慈覚大師は始めは伝教大師の御弟子に・にたり、御年四十にて漢土に・わたりてより名は伝教の御弟子・其の跡をば・つがせ給えども法門は全く御弟子にはあらず、而れども円頓の戒計りは又御弟子ににたり蝙蝠鳥のごとし鳥にもあらず・ねずみにもあらず梟鳥禽・破鏡獣のごとし、法華経の父を食らい持者の母をかめるなり日をいるとゆめに・みしこれなり、されば死去の後は墓なくてやみぬ、智証の門家・園城寺と慈覚の門家・叡山と修羅と悪竜と合戦ひまなし園城寺をやき叡山をやく、智証大師の本尊の慈氏菩薩もやけぬ慈覚大師の本尊・大講堂もやけぬ現身に無間地獄をかんぜり、但中堂計りのこれり、弘法大師も又跡なし弘法大師の云く東大寺の受戒せざらん者をば東寺の長者とすべからず等御いましめの状あり、しかれども寛平法王は仁和寺を建立して東寺の法師をうつして我寺には叡山の円頓戒を持ざらん者をば住せしむべからずと宣旨分明なり、されば今の東寺の法師は鑒真が弟子にもあらず弘法の弟子にもあらず戒は伝教の御弟子なり又伝教の御弟子にもあらず伝教の法華経を破失す、去る承和二年三月二十一日に死去ありしかば・公家より遺体をば・ほうぶらせ給う、其の後誑惑の弟子等集りて御入定と云云、或はかみをそりて・まいらするぞと・いゐ或は三鈷をかんどより・なげたりといゐ或は日輪・夜中に出でたりといゐ或は現身に大日如来となりたりといひ或は伝教大師に十八道を・をしへまいらせ給うといゐて、師の徳をあげて智慧にかへ我が師の邪義を扶けて王臣を誑惑するなり、又高野山に本寺・伝法院といいし二の寺あり本寺は弘法のたてたる大塔・大日如来なり、伝法院と申すは正覚房の立てし金剛界の大日なり、此の本末の二寺・昼夜に合戦あり例せば叡山・園城のごとし、誑惑のつもりて日本に二の禍の出現せるか、糞を集めて栴檀となせども焼く時は但糞の香なり大妄語を集めて仏と・がうすとも但無間大城なり、尼犍が塔は数年が間・利生広大なりしかども馬鳴菩薩の礼をうけて忽にくづれぬ、鬼弁婆羅門がとばりは多年人を・たぼらかせしかども阿縛寠沙菩薩にせめられて・やぶれぬ、拘留外道は石となつて八百年・陳那菩薩にせめられて水となりぬ、道士は漢土をたぼらかすこと数百年・摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ、趙高が国をとりし王莽が位をうばいしが・ごとく法華経の位をとて大日経の所領とせり、法王すでに国に失せぬ人王あに安穏ならんや、

 

 現代語訳

しかるに日本国を見るに、比叡山は法華経の山であるが、伝教大師の御在世中だけ、法華経の行者がおられたにすぎない。

義真、円澄は第一、第二の座主である。第一の義真だけが、伝教大師に似て正法をたもった。第二の円澄は、半分は伝教大師の弟子、半分は弘法の弟子である。

第三の慈覚は、最初は伝教大師の弟子のようであった。しかし、年四十にして中国に行ってからは、名は伝教大師の弟子であるが、しかも、その弟子として伝教大師の跡を継いだのであるが、その説くところの法門は、まったく弟子の分際ではなかった。しかし、円頓戒だけは、まだ弟子であったようである。これはあたかも、蝙蝠のようである。蝙蝠が鳥でもなく鼠でもないようなものである。また、母を食う梟のごとく、父を害する破鏡のごときものである。第三の慈覚こそ、父たる法華経を食らい、母たる法華経の持者を害するものである。慈覚が日輪を射たと夢に見たのは、まったくこの父母の殺害を意味するものである。こうした大罪を犯した彼であるから、死後も、まことに情けない姿であった。

また、智証門流の園城寺と。慈覚門流の比叡山とは、修羅と悪竜のごとく争いを繰り返している。あるいは園城寺を焼き、時には比叡山を焼いたのである。そのために、智証大師の本尊である慈氏菩薩(弥勒)も焼けてしまった。慈覚大師の本尊も、大講堂も焼けてしまった。慈覚や智証は、現身に無間地獄を感じているのである。このような中で、ただ一つ、伝教大師の建立された根本中堂だけが残ったのである。

弘法大師のあとも、またひどいものである。弘法大師は「鑒真が建てた東大寺の戒壇を踏まないものは、東寺の長者としてはならない」といい残した。然し、かの寛平法王は、仁和寺を建立して、そこに東寺の真言の僧を移されたが、後、「わがこの仁和寺には比叡山の円頓戒を受持しないものをば住させてはならぬ」と明白な宣旨があった。これによれば、いまの東寺のものは、鑒真の弟子でもなく、弘法の弟子でもない。戒律においては、伝教の弟子である。ところが伝教の弟子とすることもできない。なぜなら、伝教大師の法華経に違背するからである。

弘法大師は、さる承和二年三月二十一日に死去した。そのときは、公家において遺体をほうむった。ところがその後、誑惑の弟子たちが集まって評議して「弘法大師は入定されたのであって、入滅ではない」といいだした。またあるものは、「入定した弘法大師の遺骸の頭髪が、あまりに伸びたので、そりたてまつった」といい、あるものは「弘法大師が唐から帰られる際、日本に向かって、三鈷を投げられた。それがいまの高野山の地に留まったのである」といった。あるものは「弘法大師が疫病を祈られたら、日輪が夜中に現われた」といい、あるものは「弘法大師は現身に大日如来を現じ給うた」といい、「伝教大師に密教の十八道を教授した」といった。こうした弘法一派の邪義は、いずれも師匠の弘法の徳をあげることによって、わが智慧にかえ、わが師の邪義を助けて、王臣の帰依を得ようとする謀計である。

また高野山には、本寺と伝法院の二寺がある。本寺は弘法の建立した金剛峯寺で、大塔の大日如来を本尊とする。伝法院は正覚房の建立するところで、金剛界の大日如来を本尊とする。この本末の二寺は、当初から今日にいたるまで、つねに合戦をしている。ちょうど、比叡山と園城寺の争うがごときものである。これらは、彼らの長年の誑惑が積もって、わが日本に叡山と園城、高野と伝法院の二つの禍いとして出現したのであろうか。

たとえば、いかに糞を集めて栴檀だと称しても、これを焼いてみれば、やはり糞の香ばかりである。そのごとく大妄語を集めて、いかに仏の教えと称しても、ただ無間大城へ堕するのみである。

尼犍外道の塔は、数年のあいだは利益も多かったが、馬鳴菩薩に礼拝されたら、たちまちに崩落してしまった。鬼弁婆羅門の教えは多年のあいだ、人々をたぶらかして信仰されたけれども、阿濕縛窶沙菩薩(馬鳴)のために責められて、その邪義をあらわしたのである。

拘留外道は化石となって八百年、陳那菩薩に責められて水となった。中国の道士は、中国の人々を数年のあいだもたぶらかしてきたが、迦葉摩騰、竺の法蘭の二人に責められたとき、仙経は焼けて、道教に法力がないことを示した。趙高が主君を廃してその国を奪い取り、王莽が、主人の地位をうばって王と称したように、法華経の王位を横取りして、大日経の所有としてしまった。法王すでに、その所領を失ったのであるから、人王また平静でありえようか。日本国は、みな、慈覚、智証、弘法の亜流となってしまった。ゆえにひとりとして、謗法でないものはない。

 

語釈

梟鳥禽

フクロウのこと。俗に〝成長すると母を食う〟といわれ、母食鳥とも不孝鳥ともいう。千日尼御返事に「梟鳥と申すとりは生れては必ず母をくらう」(1320:15)とある。

 

破鏡獣

破獍とも書く。父を食う、虎に似た悪獣といわれる。一説には、むじなの一種ともいう。史記の封毒書等にある。

 

智証の門家・園城寺と慈覚の門家・叡山

山門派と寺門派の抗争をいう。比叡山第19代座主尋禅座主が引退して、20代余慶が任命されたころより、抗争は表面化している。

 

東大寺の受戒せざらん者をば東寺の長者とすべからず

東寺の長者は、弘法大師の時はすこぶる重要な地位を占めていたもので、弘法の第一の弟子たる実恵が、その位置にすえられたのをみてもわかる。また、弘法は東大寺の戒壇で弟子たちを受戒させたが、弘法の考えでは、小乗律である東大寺の戒壇で、真言密教の人が受戒すれば、真言律になると思っていたのである。

 

寛平法王は仁和寺を建立

寛平法王とは第59代宇多天皇のこと。寛平9年(0897)位を第60代醍醐天皇にゆずり、翌々年、真言宗の益信について出家し、名を空理と称し、灌頂をうけて真言の列祖中に加わった。法皇となって後は、仁和寺に住し、そこを御室といった。

 

叡山の円頓戒

法華迹門の円頓戒壇であるが、慈覚・智証の代より真言の邪義に汚染されている。

 

誑惑の弟子等集りて御入定と

弘法大師は承和2年(0836321日に死去し、遺体は公家によって葬り去られたのであるが、弟子たちは、弘法は高野山奥の院に入定しているのであって、死んだのではないといっていること。

 

三鈷をかんどより・なげたり

三鈷は真言密教の祈禱に用いる道具で、先端が三つに分かれている金剛杵のこと。弘法が帰朝するさい、中国明州の浜より、三鈷を海上に向かって投げた。それがはるか雲の中にかくれ、後日、高野山において発見された。高野山こそ感応の地であるとして寺を建立し、真言宗の道場とした、という弘法の邪義。

 

日輪・夜中に出でたり

弘法大師が病気を祈ったら夜中に日輪があらわれたという。

 

現身に大日如来となりたり

弘法の弟子真済(08000860)が述べたことばで、弘法が帰朝して、朝廷において諸宗の高僧と対論したさいに、手に印を結んで大日如来の姿を現じてみせたという作り話。

 

十八道

密教の修法。

 

本寺・伝法院といいし二の寺

本寺は弘法大師によって建立された高野山の金剛峯寺、嵯峨天皇の弘仁7年(0818)に寺塔を構え、後に金堂・根本大塔を建立。伝法院は正覚房覚鑁が建立した寺院。両寺は勢力争いを起こし、真言宗古義派と新義派に分裂している。

 

正覚房

10951144)。新義真言宗の祖、覚鑁のこと。

 

尼犍が塔

付法蔵経巻五にある。かつて外道の尼犍が、泥団を塔上におき「来世の千仏の中にして成仏できるならば、その証拠にその泥団を仏像にかえてほしい」と誓ったところ、実現したのでおおいに歓喜した。たまたま、この塔のそばを国王がとおり、外道の塔が七宝で荘厳されてあるのを見て、如来の塔と思い、香華をそえ、偈を読んでその徳をたたえた。すると、その塔が分裂してしまった。王は驚いて、「自分の福運がつきたか」と悲しんだが、ある人が「それは外道の塔である」と教えた。衆人は、王の徳深厚なるゆえに、この邪塔を礼拝したら破壊したのであるといった。本抄では、王ではなく馬鳴菩薩になっているが、あるいは、王が馬鳴に帰依していたことによるものであろうか。

 

馬鳴菩薩

梵名アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoa)。音写して阿濕縛窶沙。馬鳴は漢訳名。付法蔵の第十二。1世紀から2世紀にかけての、中インド出身の大乗論師。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰依した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」1巻などがあり、「大乗起信論」一巻なども馬鳴の作といわれている。

 

鬼弁婆羅門

鬼弁婆羅門とは、二世紀ごろインドにいたバラモンの一人。大唐西域記に「摩訶陀国鶏園寺の鐘塔の北に住み、逆説的理論をもてあそんでいた。世をさけて林中におり、鬼を祀って世人の尊敬をうけていた。常に帷をたれ、問答を行なっていたので、だれもその正体を知らなかった。阿濕縛窶沙菩薩(馬鳴菩薩)は、ある日、国王とともにその場所へ趣き、問答をしたところ、鬼弁は口を閉じてしまったので、馬鳴は、帷をあけてその妖態を見破った」とある。

 

拘留外道は石となって

拘留は鵂鶹の借字で、鵂鶹は漚楼僧佉のこと。釈尊が出現する800年以前のインド勝論学派の祖。止観私記巻十には「真諦云く、休留仙人成劫の末に出でて長生の薬を服し、変じて石と為る、形・牛の臥せるが如し。仏前800年の中に在りて石消融すること灰の如し、門人皆称して涅槃に入ると称す」とある。また輔行巻十に「外道が身の死するのを恐れて、林中で化して石となった。その石に偈を書いて祈ると何でも願いがかなうという。のちに、陳那菩薩がその石に偈を書くと、石は裂けて水になった」とある。

 

摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ

摩騰迦・竺法蘭で、ともに中インドの人。後漢の明帝の命により、中国に仏典をもたらし、崇重された。すると、昔から皇室の祭祀をしていた儒家、道家の人人数千人が、この事を嫉んで訴えたので、双方を召し合わせて、勝劣を決することとなった。道士は喜んで、唐土の神、百霊を本尊とし、一方、摩謄迦・竺法蘭の二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊となし、その力を頼りとした。道士は、昔から王の前で行なってきた習わしどおり、仙経・三墳・五典・二聖・三王の書を薪と一緒に積んで焼いたところ、仏法渡来以前は焼けなかった書が、この度はことごとく灰となってしまった。また以前には水に浮かんだものが、今は水に沈んでしまった。鬼神を呼んでも、それも来ず、あまりの恥ずかしさに褚善信・費叔才などという道士は思い悩んで死んでしまった。一方、仏教の二人の聖人が説法をすると、仏舎利は天に登って光を放って、日の光すらみえないありさまであった。そして画像の釈迦仏は眉間から光を放たれたのである。呂慧通等の600余人の道士は、その場で仏法に帰伏して出家し、30日の間に10箇寺が建立されたと、仏祖統記にある。四条金吾殿御返事に詳しい。

 

趙高

(~前0207)。中国・秦代の宦官。史記等によると始皇帝に仕えていたが、帝の死後、丞相の李斯と謀って詔を偽造し、帝の長子の扶蘇を殺して末子の胡亥を即位させ権力を握った。旧臣を退けて酷政を行ったため、国中に乱を招いた。二世王を意のままに操り、李斯をも殺させたが、秦軍の形勢が不利と見るや二世王を殺害した。しかし、次いで即位した子嬰によって殺された。

 

王莽

(前00450023)。漢書王莽伝によると、中国・前漢末の政治家、新の建国者。名家の出身であるが、父が早死にしたため少年時代は貧しかった。一族の推挙を受けて出世し、哀帝の没後、九歳の平帝を立てて権勢を握った。平帝が長ずると毒殺して二歳の劉嬰を立て、自ら摂政となった。符命説で漢王朝の天命は尽きたと流言し、帝位を譲り受けて新を建国した。儒教の理想を実現しようと復古的政策をしいたが成功せず、内乱が続発する中で新は滅亡した。

 

講義

この章は、わが国にすべて法華経の行者がなく、ただ謗法のみあるを明かしている。さらに三段に分かれ、初めに慈覚、智証、弘法の現罰と、死後の恥辱を明かし、次に尼犍の下は世間を誑惑してもそれは長くつづかないとの前例を示し、三に趙高からは亡国の所以を明かしている。

慈覚は「死去の後は墓なくてやみぬ」と。「あさましい」ことを「はかなし」ともいうから、慈覚の死去の後のあさましい勢力争いや謗法の現証を示していることにもなる。しかしまた実際に慈覚の墓もないのである。山門の記録には慈覚は比叡山で死んだことになっているが、別の説によれば、出羽国立石寺で死んだともいう。そうして頭は立石寺にあるともいい、ある弟子が慈覚の遺骨は比叡山にあるべきであるといって、頭を切って比叡山へ持ってきたともいう。

これについて御書には、「最在其上」の法華の首を切って、金剛頂の字につけた過によってこの悪報を感ずるのであると責められている。「法華最第一の経文を奪い取りて金剛頂経に付くるのみならず、……法華経の頭を切りて真言経の頂とせり、此れ即ち鶴の頚を切って蝦の頚に付けけるか真言の蟆も死にぬ法華経の鶴の御頚も切れぬと見え候、此れこそ人身うけたる眼の不思議にては候へ」(1019:慈覚大師事:07

 

園城寺と叡山の合戦ひまなし

 

園城寺は現在の滋賀県大津市の西北にあり、地名を三井ということから、三井寺ともいう。智証がこの寺の出身であったので、その後比叡山と長年にわたって勢力争いをし、たびたびの兵戦や焼き討ちをくりかえした。

その争いは「啓蒙」に詳しく記されている。

64代円融院の天元4年(0981)、智証の門人余慶が座主に任ぜられたのを怒り、慈覚門徒が讒訴をなしたのが初めである。これより長暦年(1037)まで4度にわたって兵乱が起こり、山門から三井寺を焼き討ちなどした。

その後も、比叡山の三井寺焼き打ちは次のようにつづけられた。

72代白河院 永保元年(1081

84代順徳院 建保2年(1214

治承のころには、高倉の宮謀叛の時、清盛の命令で三井寺が焼かれた。

文永元年(1264)月、延暦寺が炎上した。これは天王寺の別当を三井寺へつけられることを怒り、山僧がみずからの寺へ火を放って焼いた。

文永元年(12645月、山門より三井寺へ押し寄せ悉く焼きはらう。

文永5年(1268)、同じく山僧みずから放火して比叡山を焼く。

実に御書に「修羅と悪竜の合戦」とおおせられ、智証の本尊も焼け、慈覚の本尊も焼け、大講堂も焼けうせて、「現身に無間地獄を感ぜり」のおおせどおりではないか。

 

弘法大師も又跡なし

 

「跡なし」とは、弘法の死後、禁誡も守られず、遺跡も断絶したことをさす。禁誡の一つは本文にお示しの「東大寺の受戒」うんぬんである。すなわち弘法は、鑒真の立てた東大寺の小乗の戒壇をふまない者は、東寺の長者としてはならないと遺誡した。

しかるに寛平法王は、仁和寺を建立して東寺真言の僧を住せしめたが、仁和寺には比叡山の円頓戒を受持しない者は住してはならないと宣言している。このように弘法の流れが、たちまちに乱れていたのである。

さらに弘法の死後、弟子たちが集まって「師の徳をあげて智慧にかへ我が師の邪義を扶けて王臣を誑惑するなり」と。その意味は、弘法が智者ならば、法華経を第三戯論というからには、分明の経文を出して証明すべきである。しかるに証文はまったくない。そこで末弟らは他宗から論難されるのを防ぐため、種々の虚偽の徳をあげて宣伝しはじめた。

その一つは、弘法は死んだのではなく入定したのだといい、あるいは弘法の髪をそってきたといい、あるいは中国から投げた三鈷が高野山の地に留まった等々、およそありもしない妄想を並べ立て、師匠たる弘法の徳を偉そうにかざりたてたのである。さらに高野山では、弘法の建てた本寺と正覚房の建てた伝法院が争いを起こし、昼夜に合戦をつづけてきている。あたかも叡山と三井寺のようであると。

弘法、慈覚等の末流の騒乱、また邪師の悲惨なる墓ない最後をみるときに、およそ天下の騒乱の根源は、邪宗邪義邪師にあり、しかして、邪師は必ずその末路は悲惨であることを、しみじみと感ずるのである。

中国にあっても、玄奘、善無畏等が、法相、真言等の邪義を弘めてから、さしも絢爛たる文化を誇った唐朝も、また玄宗等もはかなく滅びゆき、禅、念仏等が弘まった時も同じく騒乱がたえなかったのである。日本においても、御書にくわしく説かれてあるとおりではないか。

とくに現在の真言宗の現状は、総本山高野山は観光地化によって、ようやく息をつき、いまや心から真言を信ずるものは、激減の一歩をたどっている。

 

 

第二十章(日蓮大聖人の国家諌暁)

 本文

日本国は慈覚・智証・弘法の流なり一人として謗法ならざる人はなし。

  但し事の心を案ずるに大荘厳仏の末・一切明王仏の末法のごとし、 威音王仏の末法には改悔ありしすら猶・千劫・阿鼻地獄に堕つ、いかにいわうや日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心なし如是展転至無数劫疑なきものか、かかる謗法の国なれば天もすてぬ天すつればふるき守護の善神もほこらをやひて寂光の都へかへり給いぬ、但日蓮計り留り居て告げ示せば国主これをあだみ数百人の民に或は罵詈・或は悪口・或は杖木・或は刀剣・或は宅宅ごとにせき・或は家家ごとにをう、それにかなはねば我と手をくだして二度まで流罪あり、去ぬる文永八年九月の十二日に頚を切らんとす、最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に他方の怨賊来つて国人喪乱に遭う」等云云、大集経に云く「若しは復諸の刹利国王有つて諸の非法を作して世尊の声聞の弟子を悩乱し、若しは以て毀罵し刀杖をもつて打斫し及び衣鉢種種の資具を奪い、若しは他の給施せんに留難を作さば我等彼れをして自然に他方の怨敵を卒起せしめん及び自らの国土も亦兵起り病疫飢饉し非時の風雨・闘諍言訟せしめん、又其の王をして久しからずして復当に己が国を亡失せしめん」等云云、此等の経文のごときは日蓮この国になくば仏は大妄語の人・阿鼻地獄はいかで脱給うべき、去ぬる文永八年九月十二日に平の左衛門並びに数百人に向て云く日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ等云云、此の経文に智人を国主等・若は悪僧等がざんげんにより若は諸人の悪口によつて失にあつるならば、にはかに・いくさをこり又大風吹き他国よりせめらるべし等云云、去ぬる文永九年二月のどしいくさ同じき十一年の四月の大風同じき十月に大蒙古の来りしは偏に日蓮が・ゆへにあらずや、いわうや前よりこれを・かんがへたり誰の人か疑うべき、

 

 現代語訳

日本国の人々は、みな慈覚、智証、弘法の末流である。したがって、邪宗真言にたぶらかされて、ひとりとして謗法でないものはないありさまである。

しかして、この日本の一国謗法の姿を、つらつら考えてみれば、まことに、過去世の大荘厳仏における末法のごとく、同じく一切明王仏における末法のごとくである。また威音王仏の末法には、不軽菩薩の折伏によって、後に改悔したものすら、なお千劫の長いあいだ、阿鼻地獄に落ちて大苦を受けたのである。いかにいわんや、日本国の真言師や禅宗のものや、念仏者等は、それに反して一分の改悔心もないゆえに、法華経常不軽品に「是の如く展転して無数劫に至る」とあるごとく、永遠に無間地獄をさまようようなことは疑いなしというべきものか。かかる謗法の国なるがゆえに、諸天も日本国を捨てたのである。諸天が捨てたゆえに、守護の善神も、その祠を焼き払って、寂光の都に帰りたもうたのである。

このことを知るのは、ただ日蓮大聖人おひとりである。もし日蓮大聖人が、諸天善神の捨て去った後に、ただひとり、この国にとどまって、このことを知らし示せば、国主は日蓮大聖人を怨み、数百人の人々は、あるいは罵詈し、あるいは悪口し、あるいは杖木をもって打ち、あるいは刀剣をもって切らんとし、あるいは各戸ごとに門を閉じ、あるいは家ごとに日蓮大聖人を追い払ったのである。それでもダメだと知って、みずから手を下して、日蓮大聖人を二度までも流罪したのである。すなわち伊豆の流罪と佐渡の流罪である。また、去る文永八年九月十二日には、竜の口において、首を切らんとした。

最勝王経にいわく「悪人を尊敬し、善人を治罰するがゆえに、他国の怨賊が攻めきたって、そのために、その国の人々が喪乱にあうのである」と。大集経には「諸々の刹利種たる国王があって、種々の非法なることをなし、仏の声聞の弟子を悩乱し、またはののしり、または刀杖をもって打ち、および僧衣や鉢など種々の修行の器具を奪い去り、あるいは仏弟子に布施するものを迫害する。これらの留難をなすならば、われら諸天善神は、その王のために、しぜんに他国の怨賊をおこして攻めさせ、および自国にも内乱をおこさせ、病気疫癘をまんえんさせ、飢饉におとし入れ、非時の風雨、諍い、訴訟などをおこさしめよう。また、その王をして久しからずして、かならず自国を滅亡させるであろう」と。

これらの経文のごときは、日蓮大聖人がこの日本国におわしまさぬならば、かならずやいつわりの経文となり、仏は大妄語の人となって、大阿鼻地獄に堕さなければならぬこととなったであろう。

さる文永八年九月十二日、竜の口に引かれる前、日蓮大聖人は、平の左衛門尉頼綱および数百人のものに向かって、厳然と宣言した。「日蓮は日本国の柱である。日蓮を失うことは、日本国の柱を倒すことである」と。

前に挙げた最勝王経、大集経には、「国主らが悪僧の讒言を信じたり、諸人の悪口を取り入れて、国を憂い国を救わんとする智人を、迫害するようなことがあったら、たちまち戦争が起こったり、また大風が吹いたり、あるいは他国から攻められて塗炭の苦しみを味わうであろう」と説かれている。

すなわち、さる文永九年二月の北条時宗、時輔の争った大内乱、同じく文永十一年四月の大風、さらに文永十一年十月の大蒙古国の襲来は、まさしく末法唯一の大智人・日蓮大聖人を迫害したゆえではないか。いわんや、このことは前々から、天下に予言していたことである。ゆえに、だれびとがこのことを否定できようか。

 

語釈

大荘厳仏の末・一切明王仏

仏蔵経・往古品には「大荘厳仏の滅後に、五人の比丘がいて、大衆もこの五人のもとにそれぞれわかれていた。そのなかで、普事比丘のみが、仏の正法を護持していたが、四比丘尼は、この普事比丘を誹謗したため地獄へおち、それにしたがって大衆も、ともに命終して地獄におちた。そして、八大地獄をめぐり、十方世界の大地獄をへて、ようやく人中に生じたが、五百生のあいだ生きめくらの報いを受けた。その後、一切明王に会い、過去の正法誹謗の罪により、涅槃をうるものが一人もいなかった」とある。

 

威音王仏の末法

不軽品に説かれている無量無辺不可思議阿僧祇劫の過去の仏。この時の劫を離衰、国を大成という。威音王仏は声聞の四諦の法、辟支仏は十二因縁の法、菩薩には六波羅蜜の法を説いた。この威音王仏の寿は四十万億那由佗恒河沙劫である。この威音王仏の滅後、正法・像法が終わった後、また威音王仏の名号の二万憶の仏がいたという。この二万億の最初の威音王仏の滅後、像法の末に不軽菩薩が出現した。不軽品には「乃往古昔に、無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎて仏有ましき。威音王如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と名づけたてまつる。劫を離衰と名づけ、国を大成と名づく。その威音王仏彼の世の中において、天人阿修羅の為に法を説きたもう。声聞を求むる者のためには、応ぜる四諦の法を説いて、生老病死を度し、涅槃を究竟せしめ、辟支仏を求むる者のためには応ぜる十二因縁の法を説き、もろもろの菩薩のためには、阿耨多羅三藐三菩提に因せて、応ぜる六波羅蜜の法を説いて、仏慧を究竟せしむ。得大勢、是の威音王仏の寿は、四十万億那由他恒河沙劫なり。正法世に住せる劫数は一閻浮提の微塵のごとく、像法世に住せる劫数は、四天下の微塵のごとし。その仏、衆生を饒益しおわって、しかして後に滅度したまいき。正法、像法、滅尽の後、この国土に於いて、復仏出でたもうこと有りき。また威音王如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と号づけたてまつる。かくのごとく次第に二万億の仏有す、皆同じく一号なり。最初の威音王如来、既已に滅度したまいて、正法滅して、後像法の中に於いて、増上慢の比丘、大勢力あり。その時に一りの菩薩比丘あり、常不軽とづく」とある。

 

阿鼻地獄

阿鼻大城・阿鼻地・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。

 

廻心

心を廻転することで、邪教を転じて、正信に帰すことをいう。

 

如是展転至無数劫

法華経譬喩品第三に「其の人は命終して 阿鼻獄に入らん 一劫を具足して 劫尽きなば更に生まれん 是の如く展転して 無数劫に至らん」とある。展転とはころがること、めぐることで、つぎつぎとめぐり続くこと。無数劫とは数えきれないほどの長い間のこと。すなわち、正法誹謗の無間地獄に堕ち、未来永劫にその苦悩を受けるさまをいう。

 

最勝王経

中国・唐代の義浄訳の金光明最勝王経のこと。1031品からなる。金光明経漢訳5本の一。仏が王舎城耆闍崛山に住していた時に説いたとされる方等部の経、この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ、一切の諸天善神の加護を受けるが、逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨て去るため、三災七難が起こると説かれている。

 

大集経

方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳。②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳。③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳。大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。

 

刹利国王

刹帝利国王。インド四姓の一つ。刹帝利は梵語クシャトリア(kşatriya)の音写で、訳して王種という。四姓とは婆羅門、刹帝利、毘舎、首陀のことで、国王、大臣、武人は必ず刹帝利から出る。

 

非法

仏の正法にそむく行為や制法。社会の道理に反した行為、制度。

 

衣鉢

衣は法衣。鉢は布施の食物などを受ける器。ともに僧侶の生活を助ける道具。

 

給施

布施供給の義で、施すことをいう。

 

留難

留は拘留、難は迫害のこと。身命に害を加えて、正法流布を妨げること。

 

平の左衛門

平の左衛門尉頼綱。北条氏の家司で、侍所の所司を兼務していた。北条幕府の政務は評定制度であるが、最後の決は執権がにぎっていた。しかるに平左衛門は、北条氏の家司、すなわち執権の執事であるから、実際上の政治的権力は、政所の執事二階堂氏、問注所の執事太田氏よりも、強大となるべきで、加えて侍所の実権をにぎっているため、政兵の大権を自由にしていた。

 

どしいくさ

同士打ち。味方同士が戦うこと。ここでは北条時輔の乱をさす。執権・北条時宗の異母兄にあたる北条時輔は、第七代執権・政村のあとに時宗が擁立されたのを不満とし、さらに蒙古、高麗の使者が相次いで来朝して京都、鎌倉と折衝を加えるに及んで時宗と対立した。時宗は文永9年(1272211日、時輔に異心ありとし、大蔵頼季を派遣して時輔に加担していた名越教時らを鎌倉で誅殺させ、同15日北条義宗に京都六波羅で時輔を殺害させた。これを二月騒動ともいい、北条得宗家の内乱であることから人心に大きな動揺を与えた。日蓮大聖人が立正安国論で予言した自界叛逆難にあたる。

 

同じき十月に大蒙古の来りしは

文永11年(1274)年10月、蒙古軍は、6日に対馬を攻撃、守護代の宗助国以下全滅、14日には壱岐を攻撃、守護代の平景高以下全滅、更に20日、九州・博多湾に上陸、博多、箱崎を侵略した。しかし、太宰府の占領を翌日に延ばして船に引き揚げたところ、冬の季節風にみまわれ、遠征軍は高麗の合浦へ引き返した。文永の役である。

 

前よりこれを・かんがへたり

日蓮大聖人は文永8年(1271912日に受けられた竜の口の大法難の直前、平左衛門尉に向かって、大聖人を迫害する時は、必ず自界叛逆と他国侵逼の二難があることを断言された。この予言どおりに、「自界叛逆難」は安国論以後12年、竜の口法難以後150日目に的中し、文永9年(1272211日に、北条時輔の乱が起きた(二月騒動)。「他国侵逼の難」は安国論から8年後の文永5年(1268)に最初の国書が到来して現実の問題となり、更に安国論から14年の文永11年(127410月には大軍をもって襲来した。

 

講義

この章は、末法今時は、但日蓮大聖人のみが法華経の行者であって、日本国の一切衆生を救い、日本の国を救われるのであるという所以を明かしている。

 

大荘厳仏の末・一切明王仏の末法等

 

仏蔵経第三往古品には、大荘厳仏を説く。大荘厳仏の滅後に5人の比丘がいて、普事比丘のみが正法を護持していた。四比丘はこの普事比丘を誹謗して地獄へおちた。長いあいだ、地獄で苦悩を受けて後、一切明王仏の法の中に生まれ、出家修道したが、得道することなく、過去の謗法により、さらに無間地獄におちたという。

さて「一切明王仏の末法」とは誤りであって、諸法無行経の師子音王仏の末法、勝意比丘の例を出されたものと思われる。すなわち一切明王仏とは、前述のように末法の事を説いてはいない。しかるに今の文には一切明王仏の末法と述べられているから、この場合の引例とならない。

そのような書き誤りは、示同凡夫のゆえにとうぜんであろうと、日寛上人は述べられている。

さて大荘厳仏と師子音王仏については、次の御書に、その例を引かれている。

兄弟抄には「大荘厳仏の末法における六百八十億の檀那等は、苦岸等の四比丘にたぼらかされて、普事比丘を迫害したので、大地微塵劫という長いあいだ、無間地獄の生活を送った。師子音王仏の末法の男女等は勝意比丘という持戒の僧について喜根比丘を嘲笑したので、無量劫があいだ地獄に堕ちた」(1082:12)とある。

諌暁八幡抄にも「たとえば大荘厳仏の末法の四比丘が六百万億那由佗の人々をみな無間地獄に堕したこと、師子音王仏の末法の勝意比丘が無量無辺の数の持戒の比丘・比丘尼・うばそく・うばいをみな阿鼻大城に導いた……」(587:02)と。

 

かかる謗法の国なれば天もすてぬ等

 

この文から下は呵責謗法を明かす段であり、初めに国主の諌暁を明かしている。国主の諌暁がまた二となり、一には諸天善神が謗国を捨離したことを明かし、二には但日蓮計りから下に正しく諌暁を明かしている。

「守護の善神」とあるが、日寛上人は文段に、神には三種ありと、次のように明かされている。

一に法性神。これは万法の精霊天然不測の理である。ゆえに善悪の分けようもなく、来去の分けようもない。

二に邪横神。これは実迷の悪霊神である。

三に有覚神。これは垂迹和光の神明である。いわゆる仏菩薩が、内証三身の光りを和らげて同居四住の塵にまじわり、この世に働きをなすのを善神という。今国を捨てて去るのはこの第三の有覚神である。ゆえに守護の善神というのであると。

次に善神はなぜ謗法の国を捨てて去るのであるか。

これにまた多くの所以ありとて、次のようにおおせられている。

一には仏前の誓いに依る故である。立正安国論に詳しく諸経の文を引かれているが、例えば金光明経に「其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず、遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜ちて 涅槃の路に乖かん、世尊我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等斯くの如き事を見て其の国土を捨てて擁護の心無けん、但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん」(0018:03)とある。

また新池御書にいわく「霊山の起請のおそろしさに社を焼き払いて天に上らせ給いぬ……天照太神・八幡大菩薩・天に上らせ給はば其の余の諸神争か社に留るべき」(1442:10)と。

二には法味を嘗めざるに依る故。謗法の法味は厩の糞土の如し、妙法の法味は天の甘露の如し……と。

唱法華題目抄にいわく「守護の善神は法味をなめざる故に威光を失ひ利生を止此の国をすて他方に去り給い」(0008:08

そのほか、このような類文は多数の御書にお示しあそばされている。

三には住処無きに由る故。謗法の頂は銅燃猛火のごとく正法の頂は七宝の宮殿のごとし……と。

四条金吾許御文にいわく「八幡大菩薩の御誓いは月氏にては法華経を説いて正直捨方便となのらせ給い、日本国にしては正直の頂に・やどらんと誓い給ふ、而るに去ぬる十一月十四日の子の時に御宝殿をやいて天にのぼらせ給いぬる故をかんがへ候に・此の神は正直の人の頂に・やどらんと誓へるに・正直の人の頂の候はねば居処なき故に栖なくして天にのぼり給いけるなり」(1196:14)と。

八幡が右のとおりならば、他の善神も同じであることは、前述の新池御書のとおりである。

さて次にはまた諸御抄に、諸天善神が国を捨て去ったとも、あるいは去らないが、いても守護をする力がないともおおせられている。すなわちその文は、

開目抄にいわく「天照太神・正八幡・山王等・諸の守護の諸大善神も法味を・なめざるか国中を去り給うかの故に悪鬼・便を得て国すでに破れなんとす」(0190:16

曾谷入道等許御書にいわく「閻浮守護の天神・地祇も或は他方に去り或は此の土に住すれども悪国を守護せず或は法味を嘗めざれば守護の力無し」(1032:14

以上のように或いは住し或いは住しないとおおせられているのに、なぜ一方では神天上と断定なされているのかについて、日寛上人は次のように解釈なされている。

或いは住すの辺があるといっても、悪国を護らない。たとえ護ろうと欲しても法味を嘗めないから威力がないゆえに、住するといっても住しないごとく、去らずといっても去るがごとしで、ゆえに通じて諸神は天上したというのであると。

また次に神が天上して日本の国を守護しないならば、蒙古襲来の時に、なぜ神風が吹いて国が救われたのかと疑問が生ずる。この問いに対しては、日蓮大聖人はすでに佐渡御流罪中においても、日蓮が日本の国に居れば日本の国は諸天に護られると、次のようにおおせられている。ましてや弘安四年の蒙古襲来の時には、幕府は佐渡流罪を悔いて赦免しているので、護られることができたのである。

種種御振舞御書にいわく「日蓮は幼若の者なれども法華経を弘むれば釈迦仏の御使ぞかし……教主釈尊の御使なれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり……かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919:11)と。

さて日蓮大聖人が日本の国にお出でになれば、善神が国を護るということは、安楽行品にも「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す」とあるとおりである。

次に本文に「ほこらをやひて」とおおせられているが、守護の善神がほこらを焼いて昇天したのは、何年何月かという問題がある。

日寛上人は文永11年(12741114日であるとなされている。すなわち御抄には、

諌暁八幡抄にいわく「去ぬる文永十一年に大蒙古よりよせて日本国の兵を多くほろぼすのみならず八幡の宮殿すでにやかれぬ」(0583:06

四条金吾許御文にいわく「去ぬる十一月十四日の子の時に御宝殿をやいて天にのぼらせ給い」(1196:15

これらの御文からして、文永11年(127410月に蒙古が襲来し、戦乱の最中に1114日、ほこらを焼いて昇天したのであると。ゆえに文永8年(1271912日に八幡を諌暁あそばされたことも実に理由のあるところである。

次は本文に「寂光の都へかへり給いぬ」とある。諸抄の中には或いは他方へ去るといい、或いは天上といい、今はまた寂光の都とおおせられるのは、どのような相違があるのであろうか。

日寛上人文段には「天上の義に即三義有り」として、一には地祇が去って天神に帰す故に天上という。二には都率天に帰る故に天上という。三には法性真如の第一義天に帰す故に天上というと。

本抄においては、法性真如の第一義天を指して寂光の都というのである。

もし本迹に約せば、諸抄の意は迹門の意であり、本抄が本門である。ゆえに本地自受用身の垂迹としての諸天善神が、本地の寂光の都へ帰り給うのである。

諌暁八幡抄にいわく「諸の権化の人人の本地は法華経の一実相なれども垂迹の門は無量なり」(0588:07

一実相とは一念三千であり、一念三千とは自受用身である。すなわち久遠元初の自受用身の垂迹である。

日眼女造立釈迦仏供養事にいわく「東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏・上行菩薩等・文殊師利・舎利弗等・大梵天王・六天の魔王・釈提桓因王・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星・阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる・天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり、例せば釈尊は天の一月・諸仏・菩薩等は万水に浮べる影なり」(1187:02

この教主釈尊とは久遠元初の自受用身、本因妙の教主釈尊である。ゆえに十方三世の諸仏乃至梵帝日月天神地祇はみな本地自受用の一仏の内証に帰するゆえに、寂光の都へ帰るというのである。

当に知るべし、久遠は今に在り、今は即ちこれ久遠なりと。久遠元初の自受用身とは日蓮大聖人の御事であり、日蓮大聖人は即ち是れ久遠元初の一仏である。

 

但日蓮計り留り居て告げ示せば等

 

此の下は正明でまた二。初めに初度の諌暁と国主の怨嫉。次の最勝王経からは二度の諌暁と国土の災難を明かしている。

「但日蓮計り留り居て」とは、法華経譬喩品の「唯我れ一人のみ能く救護を為す」の御一人であり、また開目抄に「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」とおおせのとおりである。

また「一迷先達して余迷に教ゆ」という最初の導師が即ち日蓮大聖人であらせられる。ゆえにただ日蓮大聖人御一人を信じ奉って、南無妙法蓮華経と唱えれば、すなわち十方三世の諸仏乃至梵帝日月天神等をことごとく信じ奉ることになるのである。

本文に「留り居て告げ示せば……」とは、文応元年、立正安国論をもって、最初に諌暁あそばされたことを指すのである。

最勝王経や大集経を引く意味は、およそ爾前経を引くのに当分跨節の二意がある。

当分に約せば、最勝王経や大集経の行者を指して善人および世尊の声聞の弟子といい、この善人を治罰しこの声聞を悩乱せば、にわかに自界叛逆、他国侵逼等の難が起きるのである。このように権大乗の行者を治罰し脳乱するのになお自他の怨賊が起きる。いわんや実大乗たる法華の行者を治罰し脳乱するにおいてをやである。

次に跨節に約すとは、彼の文の善人および世尊の声聞の弟子とは、ただちにこれ末法の法華経の行者、日蓮大聖人の御事である。ゆえに日蓮此の国に無くばとか、日蓮は日本国の柱等とおおせられているのである。

「日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ」日蓮大聖人は平の左衛門尉ら数百人に対して厳然と叫ばれて、国家諌暁をなされたのである。日蓮大聖人こそ、人類を救う御本仏であられるという大宣言でなくて、なんと拝そうか。

同じく、われらは、身不肖なりといえども大乗を学し、大仏法を信奉するものであるがゆえに、「創価学会は日本の柱である。学会を失うほどならば、日本の柱を倒すことになる」と堂々と主張しつつ、広布の大道を歩んでいくものである。

世に多くの団体、多くの指導階層があるが、真に民族の興隆を願い、人類の幸福、社会の繁栄、世界の平和を祈って立ち上がっているものが、学会を除いて、どこにあるかといいたい。

われらは断じて世の誹謗や中傷を恐れるものではないが、具眼の士であるならば、どうして、このような学会の前進に怨嫉し、日本の柱、世界の柱の倒るることを願うような行動ができようか。

 

 

第二十一章(災難の所以を明かす)

 本文

弘法・慈覚・智証の悞国に年久し其の上禅宗と念仏宗とのわざわいあいをこりて逆風に大波をこり大地震のかさなれるがごとし、さればやふやく国をとろう太政入道が国をおさへ承久に王位つきはてて世東にうつりしかども但国中のみだれにて他国のせめはなかりき、彼は謗法の者はあれども又天台の正法もすこし有り、其の上ささへ顕わす智人なし・かるがゆへに・なのめなりき、譬へば師子のねぶれるは手をつけざれば・ほへず迅流は櫓をささへざれば波たかからず盗人はとめざれば・いからず火は薪を加えざれば・さかんならず、謗法はあれども・あらわす人なければ王法もしばらくはたえず国も・をだやかなるに・にたり、例せば日本国に仏法わたりはじめて候いしに始は・なに事もなかりしかども守屋・仏をやき僧をいましめ堂塔をやきしかば天より火の雨ふり国にはうさうをこり兵乱つづきしがごとし、此れはそれには・にるべくもなし、謗法の人人も国に充満せり、日蓮が大義も強くせめかかる修羅と帝釈と仏と魔王との合戦にも・をとるべからず、金光明経に云く「時に鄰国の怨敵是くの如き念を興さん当に四兵を具して彼の国土を壊るべし」等云云、又云く「時に王見已つて即四兵を厳いて彼の国に発向し討罰を為んと欲す我等爾の時に当に眷属無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して為に護助を作し彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし」等云云、最勝王経の文又かくのごとし、大集経云云仁王経云云、此等の経文のごときんば正法を行ずるものを国主あだみ邪法を行ずる者のかたうどせば大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ、例せば訖利多王を雪山下王のせめ大族王を幻日王の失いしがごとし、訖利多王と大族王とは月氏の仏法を失いし王ぞかし、漢土にも仏法をほろぼしし王みな賢王にせめられぬ、これは彼には・にるべくもなし仏法の・かたうど・なるようにて仏法を失なう法師を扶くと見えて正法の行者を失うゆへに愚者はすべてしらず智者なんども常の智人はしりがたし、天も下劣の天人は知らずもやあるらん、されば漢土・月氏のいにしへのみだれよりも大きなるべし。

 

 現代語訳

弘法・慈覚・智証等の仏法上の誤りは、すでに長く日本国を大苦難におとしいれた、その上、禅宗と念仏宗等のわざわいが重なって、そのため日本の国土は、逆風に大波が重なり、その上に大地震が重なったような大災害にみまわれることになったのである。されば、いよいよ日本の国は衰微していくのである。

しかし昔は現在ほどのひどい謗法、災害はなかった。昔のことを思えば、太政入道(平清盛)が国政をすべて左右し、さらに承久の乱の後には、京都の朝廷の威令が達せず、政治の中心は東国の鎌倉にうつった。これらは一応、事件ではあったが、しかし、その時は、ただ国内の動乱のみであって、いまだ他国よりの侵略はなかった。また、あの当時は、正法に反対する謗法の者は多かったけれども、まだ当時の正法たる天台の教えも残っていた。また、その上、謗法を破折し、大正法をひろめる智人なきゆえに、智人を迫害する必要もなかった。そのため、智人出現をあらわす諸難もなく、世はまずまず平静ではあった。

このことは、たとえば、眠れる獅子に手をつけなければ、獅子は吼えることはない。いかに、急流とはいえ、流れに櫓を支えなければ、波は立つことがない。いかなる盗人といえども、これをとがめなければ騒ぎ立てることはない。また、火は、新しく薪を加えなければ、盛んに燃ゆることはない。同じく、謗法はあっても、これを指摘し破折する人が出なければ、この智人を迫害する大謗法は世に起こらず、したがって、一国の政治もしばらくのあいだは、そのまま保ちえて、おだやかなままに過ぎていくであろう。

たとえば、日本国に仏法が伝来した最初のころは、別に何ごとも起こらなかった、しかし、その後、物部守屋等が仏法を憎んで、仏像を焼き僧をとらえ、仏法の堂や搭などを焼くという謗法を重ねたため、天より火の雨が降って御所を焼き、国内には伝染病たる疱瘡が流行し、その上、兵乱が続出したようなものである。

しかし、このたびのことは、かの仏法伝来の時のようになまやさしいものではない。謗法のものは国内に充満している。これを折伏する日蓮大聖人の大義も強く、邪宗にせめかかった。ちょうど修羅と帝釈との争い、仏と魔王との合戦にも、けっして劣るものではない。

金光明経には「時に応じて隣国の怨賊が、かくのごとき念をおこすであろう。まさに歩兵、馬兵、車兵、象兵の四兵をうごかして、彼の謗法を壊滅すべし」と。また同じく金光明経には「時に彼の外敵の王は、見終わって、四兵を動員して、彼の謗法の国に押し寄せて討罰を加えんと欲す。われら諸天善神も、その時に、まさに眷属の無量無辺の多くの夜叉諸神を動かし、各形をかくして王を援護し、彼の謗法の怨敵をしぜんに降伏させるようにしむけるであろう」と。最勝王経の文も、これと同じである。大集経にも、仁王経にも「破仏破国の因縁のゆえに七難おこる」と説かれている。

これの経文のごとくであるならば、国主が正法を行ずるものに仇をなし、邪法を行ずるものの味方となって擁護するならば、大梵天王・帝釈天・日天・月天・四天等が、隣国の賢王の身に入りかわって、その謗法の国をせむるであろうというのである。

たとえば、訖利多王が仏法破滅を策したゆえに、雪山下王がこれを攻め滅ぼし、大族王が仏教徒を殺害したゆえに、幻日王がこれを打ち滅したごとき姿となるのである。すなわち訖利多王と大族王とは、月氏(インド)の仏法を迫害した国王であることを忘れてはならぬ。かくのごとく漢土(中国)においても、仏法を滅した国王は、みな隣国の賢王にせめられて、滅び去ってしまった歴史がある。

しかるに、今時の日本は、これら月氏、漢土の例よりも、なおひどい姿であった。すなわち、仏法の味方のように見せかけて、じつは仏法を滅ぼす邪宗の坊主を保護し、正法の行者を迫害しているのである。あまりにも狡猾なるため、愚者はみなこのことを知らず、智者といわれる人も、普通の智人では、この真実のことを、なかなか知りえないであろう。諸天も、さぞ、下劣の天人は、このことを知らずにいることであろう。

されば、いにしえの中国、インドの乱れよりも、現在の日本の乱れの方が、限りなく大きいというべきである。

 

語釈

太政入道

11181181)。平清盛のこと。太政大臣に任ぜられ入道したのでいう。平安時代末期の武将。忠盛の長子。法号は浄海。大相国(太政大臣の唐名)と呼ばれた。36歳で平氏武士団を率い、保元・平治の乱を経て対抗勢力が消滅すると著しく権勢を伸ばし、仁安2年(1167)には太政大臣となったがほどなく辞した。娘の徳子を高倉天皇の中宮として皇室の外戚となり、全国の半ばを超える知行国と五百余の荘園、そして対宋貿易の利益を経済的基盤に六波羅政権を築いて専横を極めた。治承元年(1177)、鹿ケ谷での平家討伐計画が露見するや、反平氏勢力の一掃を図った。「国をおさへ」とは、治承3年(1179)後白河法皇を幽閉して、独裁政治を行ったこと。だが、かえって各地の反対勢力の反感を募らせ、源頼政・頼朝の挙兵を導くこととなった。治承5年(1181)、台頭する源氏軍の情勢に平氏の未来を憂慮しつつ、熱病で苦悩のうちに亡くなった。

 

承久に王位つきはてて

承久の乱。源実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、後鳥羽上皇は政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と諮って、承久3年(1221515日、義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈禱をさせたが効なく、朝廷側は敗れて第85代仲恭天皇は廃され、後鳥羽・順徳・土御門の三上皇は島流しとされた。

 

守屋・仏をやき

30代敏達天皇の代に、大臣の曽我馬子が仏法を信じた。そのとき、疫病が流行し、物部の守屋は蘇我氏が仏法を崇拝するためであるとして、堂塔をこわし、仏像を焼いた。

 

四兵

歩兵・騎兵・車兵・象兵をいう。

 

訖利多王を雪山下王のせめ

大唐西域記巻三にある。訖利多王は、仏滅後600年、北インド加湿弥羅国の王。訖利多は種族名。はじめ阿難の弟子・末田底迦阿羅漢が加湿弥羅国に五百の伽藍を建立する時に、異国から連れてきた奴隷であったが、後に勢力を得て自立した。犍駄羅国の迦弐志加王に支配されていたが、王の死後、再び王位につき、僧徒を追放して仏法を破壊した。時に、都貨羅国の雪山下王は、厚く仏法に帰依していた。勇士500人とともに、刀を袖にかくし、奇宝を訖利多王に献ずるふうをして王を刺した。その後、堂塔を建て、僧尼を供養して、仏法は再び加湿弥羅国に栄えた。

 

大族王を幻日王の失いし

大唐西域記巻四にある。大族王は、北インド・結迦国の王で、邪見にして仏法を破壊した。時に、摩竭陀国の王、幻日王は篤く仏法を崇敬し、大族王との戦に勝った。大族王は幻日王の母のとりなしで、国に還るよう放されたが、大族王は加湿弥羅国に投じ、その国を奪って自立した。その勢いに乗り健駄羅国を征伐し仏教徒を殺害した。大族王は国に還ろうとしたが、中途で死んだ。幻日王は後に王位を捨てて出家した。

 

月氏

中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。

 

講義

ここからは災難の超過を料簡するのである。

「逆風に大波をこり大地震のかさなれるがごとし」とは、一義にいわく「逆風を真言に配し、大地震を禅・念仏に配す」と。一義にいわく「逆風大波の起こるを真言に比し、大地震の重なるを禅念仏に比すべし」と。一義にいわく「逆風を謗法に比し、大波起こるを災難に比すべし」と。

日寛上人はいわく「逆風を真言の悞に比し、大波起るを禅・念仏の禍に比す」と。また「大地震を真言の悞に比し、重なる辺を禅・念仏の禍に比するのである」と。いずれにしても真言の邪法によって亡国の悲運にありながら、さらに禅宗、念仏宗の邪法が栄えて三災七難が競い起こっているのである。

さて本文に「ささへ顕わす智人なし」とおおせられているが、昔は謗法を責める人がなくて平静であったが、いまは日蓮大聖人が一国の謗法を呵責するので三災七難が起こるというのである。しからば、その次の守屋が仏法を破った例はどうなるか。

 

災難の起こるわけ

 

これに対し、日寛上人は、次のように災難の起こる所以を明かされている。

「汎く災難の起こりを究明するに、重々の由来があるのである。つまり、謗法の者が充満するゆえに、善神は国を捨て、善神が国を捨てるゆえに、悪鬼が乱入し、悪鬼が乱入するゆえに、国土に災難が起こり、災難が起こるゆえに、日蓮大聖人がこれを諌暁されるゆえに、国主が怨嫉し、国主が怨嫉するゆえに、当世の災難が盛んに起こるのである。

今略してこれを論ずると、一応、二つの由来となる。つまり、日蓮大聖人の諌暁は遠由であり、国主の怨嫉は近由である。すなわち、日蓮大聖人の諌暁により、国主が怨嫉し、国主の怨嫉により、当世の災難が盛んに起こって、ついには他国侵逼難に至るのである」と。

次は本文に「此れはそれには・にるべくもなし」云云とは、正しく当世の災難強盛の所以を明かされている。さらに「これは彼には・にるべくもなし」からは釈成の文である。

守屋の場合は仏法の敵人となって、寺塔や僧尼に迫害を加えるから、極悪なること分明であって、愚人もこれを知っている。いわんや智者はもちろん知っている。

いまの場合は仏法の方人となって、しかも仏法を破している。このことを愚人はすべて知ることなく、智者もまた、常の智人はこれを知らない。ゆえに国をあげて正法を怨嫉するゆえに、災難もより強盛なのである。

妙法比丘尼御返事にいわく、

「大族王や武宗皇帝の漢土の場合は、王一人の悪心であって、大臣以下は本気になって仏法を破ったのではない。また当時の仏法は、権仏・権経であり、僧も法華経の行者ではなかった。いまの場合は、全員が法華経(御本尊)の敵となっている。国主一人のみならず、日本国の智人ならびに万民全員の心から起こっている大悪心・大怨嫉なのである」 取意、「大族王が五天の寺をやき十六の大国の僧の頸を切り・武宗皇帝の漢土の寺を失ひ仏像をくだき、日本国の守屋が釈迦仏の金銅の像を炭火を以てやき・僧尼を打ちせめては還俗せさせし時も是れ程の彗星大地震はいまだなし、彼には百千万倍過ぎて候大悪にてこそ候いぬれ、彼は王一人の悪心大臣以下は心より起る事なし、又権仏と権経との敵なり僧も法華経の行者にはあらず、是は一向に法華経の敵・王・一人のみならず一国の智人並びに万民等の心より起れる大悪心なり」(1416:08)本文。

仏法は現証を重んずる。金光明経、最勝王経、大集経、仁王経等は、いずれも、国主が正法を行ずるものをあだみ、邪法を行ずるものの味方をすれば、必ず大梵天、帝釈、日月、四天等の諸天善神が、隣国の賢王の身に入りかわって、謗法の国を攻めると説いてある。

この日蓮大聖人のおおせのごとく、正法時代のインドでも、カニシカ王の死後、カシミラ国の王位についた訖利多王が仏法を破壊したため、正法を奉ずる雪山下王が訖利多王を刺し、ふたたびカシミラ国に仏法が栄えたことがあり、また、大族王は仏法を破壊したため幻日王と戦って敗れたという。

像法時代の中国では、唐の武宗が邪宗念仏を国に弘めたため、回鶻国の攻めを受け、また武宗が仏法を破ったため、乱を治めることができずに亡び去ったのである。日蓮大聖人は、そのほか中国で仏法を亡ぼした王は、みな賢王に攻められ衰亡したとおおせである。

しかも、日本では「漢土・月氏のいにしへのみだれよりも大きなるべし」と申されている。すなわち日本においては、後鳥羽院の時代に法然が念仏を広めたため、後鳥羽上皇に難があり、また承久の乱で三上皇が邪法真言で祈ったため、戦いに敗れて島流しにあう等の悲劇を重ねているのである。

さらに、今時の大平洋戦争において、軍部が正法を奉ずる初代会長牧口先生等を迫害したために、有史いらいの大敗北を喫し、日本民族が塗炭の苦しみをなめた等は、明らかな現証というべきではないか。

今、全世界が第三次大戦の危機におののき、もし原水爆使用の世界大戦おこるならば、勝者も敗者も等しく全滅の憂き目をみるという現代に、正法を奉じて前進するわが創価学会を誹謗することは、いかに恐るべきことであるか、大いなる警告を発せざるをえないのである。そして、正法の広宣流布以外に、世界の平和も人類の幸福もありえないことを強く訴えていこうではないか。

 

 

第二十二章(国中の謗法を明かす)

 本文

法滅尽経に云く「吾般泥の後五逆濁世に魔道興盛し魔沙門と作つて吾が道を壊乱せん、乃至悪人転多く海中の沙の如く善者甚だ少して若しは一若しは二」云云、涅槃経に云く「是くの如き等の涅槃経典を信ずるものは爪上の土の如く乃至是の経を信ぜざるものは十方界の所有の地土の如し」等云云、此の経文は時に当りて貴とく予が肝に染みぬ、当世日本国には我も法華経を信じたり信じたり、諸人の語のごときんば一人も謗法の者なし、此の経文には末法に謗法の者・十方の地土・正法の者爪上の土等云云、経文と世間とは水火なり、世間の人云く日本国には日蓮一人計り謗法の者等云云、又経文には大地より多からんと云云、法滅尽経には善者一二人、涅槃経には信者爪上土等云云、経文のごとくならば日本国は但日蓮一人こそ爪上土一二人にては候へ、されば心あらん人人は経文をか用ゆべき世間をか用ゆべき。

  問て云く涅槃経の文には涅槃経の行者は爪上の土等云云、汝が義には法華経等云云如何、答えて云く涅槃経に云く「法華の中の如し」等云云、妙楽大師云く「大経自ら法華を指して極と為す」等云云、大経と申すは涅槃経なり涅槃経には法華経を極と指て候なり、而るを涅槃宗の人の涅槃経を法華経に勝ると申せしは主を所従といゐ下郎を上郎といゐし人なり、涅槃経をよむと申すは法華経をよむを申すなり、譬へば賢人は国主を重んずる者をば我を・さぐれども悦ぶなり、涅槃経は法華経を下て我をほむる人をば・あながちに敵と・にくませ給う、

 

 現代語訳

法滅尽経に、釈尊は次のごとく説いている。すなわち、「われ、入滅ののち、五逆濁世に悪魔の邪教が盛んになり、魔が僧侶の姿となって出現して、わが仏法を乱し破壊してしまうであろう。また、悪人の数は海中の砂のごとく多くして、しかも善者ははなはだ少なく、わずか一人か二人にすぎぬであろう」と。

同じく釈尊は涅槃経に、「このような涅槃経典を信ずるものは、爪上の土のごとく少なく、乃至この大乗経を信じないものは、十方界の所有の地土のごとく多いであろう」と説かれている。この経文は、まことに時にあたって尊く、日蓮大聖人の肝に染むるものである。

当世の日本国には、「われも法華経を信じたり、われも法華経を信じたり」という人が多い。この諸人のことばのごとくであるならば、日本国には一人も謗法のものはいないことになる。この仏説たる涅槃経の経文には、「末法悪世においては、謗法のものは、十方の地土よりも多く、正法のものは爪上にのせうる土よりも少なし」等と説いている。経文と日本当世の姿をくらぶるに、水火のごとき相違がある。世間の人々のいわく「日本国には、日蓮法師ひとりのみが謗法のものである」と。しかるに釈尊の経文には「謗法のものは大地よりも多いであろう」と説かれている。

すなわち、法滅尽経には「善者は、わずか一人、二人にすぎない」と。涅槃経には「正法の信者は爪上の土よりも少なし」と。もし経文のごとくであるならば、日本国には、ただ日蓮大聖人おひとりのみが「爪上の土、または一人、二人のみ」といわれた正法のものであり、善者というべきである。されば、心あらん人々は、仏説たる経文を用ゆべきか、世間の凡夫のことばを用ゆべきか、よくよく考えるべきである。

問うていうのには、涅槃経の文には、「涅槃経の行者は爪上の土」等とあって、けっして法華経の行者は爪上の土等とは説いていない。しかるに、汝が義は、法華経の行者を正法のものとしているのは、いかなるわけか。

答えていうのには、涅槃経には「法華の中のごとし」等と説いている。また妙楽大師のいわく「大経はみずから法華をさして極としている」と。この釈の中の大経と申すのは、涅槃経には、法華経を極の法とさしているのである。しかるに、涅槃宗の人々が、「涅槃経のほうが法華経よりも勝る」などというのは、あたかも、主人を所従とけなし、下郎を上郎という人と同じである。涅槃経をよむということは、法華経を真実によむことである。

たとえば、賢人というものは、たとえわれを下げても、国主を重んずる人をば喜ぶのである。そのように、涅槃経の精神は、法華経を下げて、涅槃経をほむる人をば、敵として憎むのである。

 

語釈

法滅尽経

仏説法滅尽経。1巻。訳者不明。仏の涅槃が近づき、説法せず、また光明を現じなかった。そこで阿難が3回たずね、仏はそれに対し、末法法滅の時、魔が比丘となって生ずることを説いている。

 

般泥洹

般涅槃・涅槃・入滅と同意語。

 

五逆濁世

五逆罪の者が充満した濁悪の世。

 

魔道

正法に背き、人を邪法・邪見に導く道。

 

妙楽大師

07110782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(074838歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。

 

大経

大般涅槃経のこと。

 

講義

これより真言の折破であり、この章はまず承前起後となるのである。

法滅尽経は、普賢経と涅槃経の中間に説かれた経である。それは経の文に「一時仏、拘夷那竭国に在り、如来三月あって、当に般涅槃すべし」とあるから明らかである。

さて法滅尽経には「吾涅槃の後、法滅せんと欲する時」とある。「法欲滅時」とは像法の終わりを指す文であって、末法の始めではないではないかとの疑問が生じる。

これについては伝教大師の顕戒論には「時を知りて山に住する明拠を開示す。法滅尽経に云く仏賢者阿難に告げ給わく吾が般泥洹の後五逆の濁世魔道興盛にして、乃至悪人転多きこと海中の沙の如し、乃至善者甚だ少くして若しは一、若しは二、乃至三乗山に入り福徳之地に淡泊自ら守り以て欣快と為さんと已上経文今已に時を知る、誰か山に登らざらんや」と。

ゆえに善者が若しは一若しは二とは、正しく像法の終わり伝教や義真のことである。どうして末法の日蓮大聖人のことであるといえようか。この疑問に対し、日寛上人は、じつにそのとおりであるとお答えになっている。

たとえば安楽行品の、三処の「後の末世の法滅せんと欲する時」の文を伝教大師は守護国界章に次のように引かれている。「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是れ其の時なり、何を以て知ることを得る、安楽行品に云く末法法滅の時なり」と。

しかるにいま法滅尽経を引いて末法をあらわそうとするのは、像法の終わりと末法の初めは同じ状態であるがゆえである。さらにはまた、像法の終わりすら善人はもしは一、もしは二である。いわんや末法の初めをやという意味にもなるのである。

また、法滅尽経の「善者は一、二人」および涅槃経の「信者は爪上の土」という経文は、まさに太平洋戦争中の創価学会の姿ではなかろうか。その時、清純に大聖人の正義をお守りし、国家諌暁を断行された人こそ、初代会長牧口常三郎先生、恩師戸田城聖先生であった。

 

涅槃経には法華経を極と指して候事

 

涅槃経は所従のごとく下郎のごとし、法華経は主君のごとく上郎のごときゆえに、極とおおせられるのである。

上郎・下郎等の文は、現代の世相には的確な例ではないが、当時の世相を御書には次のように引かれて、法華経第一を示されている。

顕謗法抄にいわく「例せば上郎・下郎・不定なり田舎にしては百姓・郎従等は侍を上郎といふ、洛陽にして源平等已下を下郎といふ三家を上郎といふ」(0457:11)と。

次に「涅槃経をよむと申すは法華経をよむ」とは、購読賛嘆のことである。それでは涅槃経を読まず、但法華経を読むのを、涅槃経を読むと名づけてよいか。そうではない。涅槃経を読む時に法華経を賛嘆すれば、法華経が即涅槃経の意に称うがゆえに、じつにこれ涅槃経を読むというのである。

また涅槃経は残党のごとく、法華は大陣を破るが如し。法華は秋収冬蔵のごとく、涅槃経は捃拾のごとし。法華は主君のごとく、涅槃経は臣下のごとし。

 

 

第二十三章(嘉祥の懺悔謗罪)

 本文

此の例をもつて知るべし華厳経・観経・大日経等をよむ人も法華経を劣とよむは彼れ彼れの経経の心にはそむくべし、此れをもつて知るべし法華経をよむ人の此の経をば信ずるよう・なれども諸経にても得道なるとおもうは此の経をよまぬ人なり、例せば嘉祥大師は法華玄と申す文・十巻造りて法華経をほめしかども・妙楽かれをせめて云く「毀其の中に在り何んぞ弘讃と成さん」等云云、法華経をやぶる人なりされば嘉祥は落ちて天台につかひて法華経をよまず我れ経をよむならば悪道まぬかれがたしとて七年まで身を橋とし給いき、慈恩大師は玄賛と申して法華経をほむる文・十巻あり伝教大師せめて云く「法華経を讃むると雖も還て法華の心を死す」等云云、此等をもつておもうに法華経をよみ讃歎する人人の中に無間地獄は多く有るなり、嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし、弘法・慈覚・智証あに法華経蔑如の人にあらずや、嘉祥大師のごとく講を廃し衆を散じて身を橋となせしも猶已前の法華経・誹謗の罪や・きへざるらん、例せば不軽軽毀の衆は不軽菩薩に信伏随従せしかども重罪いまだ・のこりて千劫阿鼻に堕ちぬ、されば弘法・慈覚・智証等は設いひるがへす心ありとも尚法華経をよむならば重罪きへがたしいわうや・ひるがへる心なし、又法華経を失い真言教を昼夜に行い朝暮に伝法せしをや、世親菩薩・馬鳴菩薩は小をもつて大を破せる罪をば舌を切らんとこそせさせ給いしか、世親菩薩は仏説なれども阿含経をば・たわふれにも舌の上にをかじとちかひ、馬鳴菩薩は懺悔のために起信論をつくりて小乗をやぶり給き、嘉祥大師は天台大師を請じ奉りて百余人の智者の前にして五体を地になげ遍身にあせをながし紅の・なんだをながして今よりは弟子を見じ法華経をかうぜじ弟子の面を・まほり法華経をよみたてまつれば我力の此の経を知るににたりとて・天台よりも高僧老僧にて.おはせしが・わざと人のみるとき・をひまいらせて河をこへ・かうざに.ちかづきて・せなかにのせまいらせて高座にのぼせたてまつり結句・御臨終の後には隋の皇帝にまいらせて小児が母にをくれたるがごとくに足ずりをしてなき給いしなり、嘉祥大師の法華玄を見るにいたう法華経を謗じたる疏にはあらず但法華経と諸大乗経とは門は浅深あれども心は一とかきてこそ候へ此れが謗法の根本にて候か。

  華厳の澄観も真言の善無畏も大日経と法華経とは理は一とこそ・かかれて候へ、嘉祥大師・とがあらば善無畏三蔵も脱がたし

 

 現代語訳

この涅槃経の例をもって知りなさい。同じく、華厳経、観経、大日経等を読む人も、もし法華経をそれらの経より劣ると読むのは、彼の華厳経や観経や大日経等の経々の心にそむくことである。これをもって知りなさい。法華経を読む人が、たとえこの法華経を信じているような姿をしても、もしも、法華経以外の諸経でも得道があると思うのは、この法華経を正しく読まぬ人というべきである。

例をあげれば、中国の三論宗の開祖、嘉祥大師は「法華玄論」という十巻の疏釈を作って、法華経を賞賛したけれども、妙楽大師はかの嘉祥大師を責めていうのには、「いかに法華経を賛嘆しているように見せかけても、法華経に対する毀りが、その中にあらわれている。どうして、弘讃といえようか」と破折している。

すなわち、じつには、嘉祥大師は、法華経を破る人なのである。されば嘉祥大師は、後に降伏改悔して天台大師に仕えた。しかして、「われ法華経を読まず。もしわれ法華経を読むならば、元のように悪道に落ちること、まぬがれがたし」といって、七年間、あるときは、天台大師を背負って河を渡るなど、我が身を橋として、天台大師に仕えきったのである。

また法相宗の開祖、慈恩大師は「法華玄賛」という、法華経を賛える十巻の疏釈を作った。しかし伝教大師はかの慈恩太師をせめて法華秀句にいわく「法華経を讃むるといえども、かえって法華経の心を死す」等と。

これによって、つくづくと思うのは、むしろ法華経を読み法華経を賛嘆する人々の中に、かえって無間地獄におちる人が多くあるのである。先にあげた、中国の嘉祥大師、慈恩大師という人々こそ、法華経を一応は賛えているけれども、じつには、すでに法華一乗を誹謗する人たちである。いわんや、弘法とか慈覚とか智証とかいうものどもが、どうして法華経を蔑視する謗法の人でないわけがあろうか。

すでに、嘉祥大師のごとく、前の自身の講を廃して、いままで嘉祥に師事していた大衆を散じて、しかも、わが身を橋として天台大師を背負って河を渡るなど、誠心誠意、天台大師に仕えたけれども、なお以前の法華経誹謗の大罪は、かんたんに消えることはなかったのであろう。たとえば、過去世、威音王仏の像法時代に二十四文字の法華経を説く常不軽菩薩を軽しめ迫害した大衆は、後に不軽菩薩に信伏随従したけれども、法華経誹謗の重罪いまだ残るゆえに、なお千劫のあいだも阿鼻地獄に堕して苦しまざるをえなかった。

されば、弘法や慈覚や智証等の法華経誹謗の大重罪人は、たとい万一、謗法の心をひるがえし法華経を賛嘆したとしても、なお彼らが法華経を読むならば、以前の重罪は消え難いのである。いわんや、彼らは謗法をひるがえす心は微塵もないではないか。またその上、法華経を誹謗し失わせ、真言の邪教を昼夜に修行し、朝暮に伝法するにいたっては、まことにその謗法は消えがたしというべきである。昔、月氏(インド)の世親菩薩や馬鳴菩薩は、小乗教をもって大乗教を破った謗法罪を後悔して、大乗教を誹謗したその舌をば切って詫びようとまでしたのである。ゆえに世親菩薩は、阿含経はたとえ仏説なれども、小乗教であるゆえに、たわむれにも舌の上にもてあそばず一言も言うまいと堅く誓った。また馬鳴菩薩は、懺悔のために、大乗を賛嘆する大乗起信論を作って、小乗教を打ち破った。

嘉祥大師は、後に天台大師に帰依し、天台大師に請い奉って、百余人の智者の前で、わが五体を地に投げ、全身に汗を流し、紅涙をたたえて、誓っていうのには、「いまよりわれは弟子を指導いたすまい。法華経を講ずることもやめましょう。もしや弟子の前をかざって、法華経の講義をつづけるならば、自分は法華経の極意を知らないのに知っているかのような錯覚を世間の人に与えるであろう」と。

しかして、嘉祥大師は、天台大師よりも年長で高僧老僧のような姿ではあったが、わざと自分のかつての弟子や知人等が見ている前で、天台大師を背負って河を渡り、また高座のそばでは、天台大師を背中にのせて高座にのぼらせるなど、誠心誠意、天台大師に仕えたのである。ついに、天台大師の御臨終のときには、隋の皇帝の前にあって、あたかも幼児が母にさきだたれたような思いで、足ずりをして悲しみ泣いたといわれている。

いったい嘉祥大師の法華玄論を見ると、ひどく法華経を誹謗したという疏釈ではない。ただ「法華経と諸大乗経とは、はいるべき門には浅深はあるけれども、その根本の心は一つである」と書いてあるが、このことばが謗法の根本といえようか。

しかるに華厳の澄観も、真言の善無畏も、「大日経と法華経は、理は同じである」ということを説いたのである。もし、かくのごとく嘉祥大師に仏法上の過失があるならば、どうして善無畏三蔵も、のがれることができようか。

 

語釈

嘉祥大師

05490623)。吉蔵大師の別名。中国隋・唐代の人で三論宗の祖。祖父または父が安息人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論(「中論」「百論」「十二門論」)を学んだ。隋代の初め、開皇年中に吉蔵が嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)で八8ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。「法華玄論」10巻をつくり、法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し7間仕えた。

 

法華玄

嘉祥著の「法華玄論」十巻。この中に、華厳は純一乗・法華は会三帰一と説く。

 

慈恩大師

0632年~0682)。中国唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観6年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。

 

玄賛

慈恩撰の「妙法蓮華経玄賛」10巻。五性各別の邪義を説く。

 

不軽軽毀の衆

不軽菩薩を軽賎し、毀謗して地獄におちた増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆。

 

世親菩薩

生没年不明。45世紀ごろのインドの学僧。梵名はヴァスバンドゥ(Vasubandhu)。世親は新訳名で、旧訳名は天親。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」30巻、「十地経論」12巻、「法華論」2巻、「摂大乗論釈」15巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。

 

馬鳴菩薩

付法蔵の第十二。仏滅後六百年ごろに出現し、大乗教をおおいにひろめた。梵名はアシュヴァゴーシャ(Aśvaghoa)。はじめ婆羅門の学者として一世を風靡し、議論を好んで盛んに仏教を非難し、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され屈服して仏教に帰依し弘教に励んだ。馬鳴の名は、過去世に白鳥を集めて白馬を鳴かせて、輪陀王に力を与え、仏法を守ったためといわれる。著書には「仏所行讃」5巻、「犍稚梵讃」1巻、「大荘厳論」15巻等がある。

 

馬鳴菩薩は懺悔のために起信論をつくり

馬鳴は小乗に執していたが富楼那に説破され、舌を切って謝罪しようとした。そのとき、富楼那はこれを止めて出家せしめた。のちに馬鳴は大乗起信論2巻(漢訳には実又難陀の2巻・真諦の1巻がある)を著した。

 

講義

この章からは正しく真言を破すのである。本章は総破である。また四に分け一に依経違背の謗法、二に不信毀謗の謗法を責む、三に不懺悔の謗法を責む、四に謗法の根本を責むとなっている。

一に依経違背の失とは、華厳経、観経、大日経等を読む人が、法華経がこれらの経に劣ると読むならば、それぞれの経の心に背くのである。顕謗法抄にいわく「謗法とは法に背くという事なり法に背くと申すは小乗は小乗経に背き大乗は大乗経に背く法に背かばあに謗法とならざらん」(0455;06)と。これは爾前経を信じながら爾前の意に反するので、信じながらも不信の謗法となるのである。

二に不信毀謗の謗法を責むとは、爾前経を信じても爾前経の意に反すれば不信になると同じに、法華経を信じても法華の意に反すれば不信となる。法華の意とは、爾前は無得道堕地獄の根源であり、法華経のみが已今当に勝れ、法華経よりほかに仏になる道はなしと強盛に信ずることである。顕謗法抄にいわく「一切衆生悉有仏性の説を聞きて之を信ずと雖も又心を爾前の経に寄する一類の衆生をば無仏性の者と云うなり此れ信而不信の者なり」(0459:14)と。

本文に「例せば嘉祥大師」からは、引例として嘉祥と慈恩を挙げられている。妙楽が嘉祥を責めて「謗其の中に在り」といっている。この点において異義もあるが、日寛上人は「嘉祥が疏を造って法華経を賛嘆しているけれども、その賛嘆の言の中に、毀謗の義があることを在其中というのである」とおおせられている。

三に不懺悔の謗法を責むとは、嘉祥のごとく懺悔してもなお謗法の罪は消え難いのに、弘法、慈覚のごとく懺悔もしない者はどれほどの大罪となるか、はかり知れないのである。

四に謗法の根本を責むとは、嘉祥の法華玄には、法華経を謗じてはいないけれども、諸大乗教と法華経と其の心は一つと書いていることが、謗法の根本となっている。顕謗法抄にいわく「諸大乗経の中の理は未開会の理いまだ記小久成これなし法華経の理は開会の理・記小久成これあり」(0458:15)と。

このように天地の相違があるのに、澄観や善無畏は大日経と法華経は理が一つであるなどといった。諸大乗経の理は、有名無実であり、本無今有である。法華経の理は名体倶実、本有常住である。どうして理一などといえるであろうか。

なお次の御抄によっても、爾前と法華経の相違がじつに明らかなのである。法華初心成仏抄にいわく「いかさまにも法華経ならぬ得道は当分の得道にて真実の得道にあらず、故に無量義経には『是の故に衆生の得道差別せり』と云い又『終に無上菩提を成ずることを得じ』と云へり、文の心は爾前の経経には得道の差別を説くと云へども終に無上菩提の法華経の得道はなしとこそ仏は説き給いて候へ」(0548:05)と。

 

法華の心を死す

 

伝教大師のいわく「法華経を讃むると雖も還て法華の心を死す」と。いま、この慈恩に対する破折のことばを、現代の宗教界に適用すれば、どうなるであろうか。

まず天台宗や日蓮宗他派の者が、日蓮大聖人も法華経を弘めた法華経の行者であるというように、かんたんに考えて、釈尊在世、像法時代と同じく法華経を賛嘆し、法華経二十八品を読誦し書写し用いている。これらは釈尊が末法には「白法隠没」するがゆえに「法華経も功力を失い、ただ法華経に予言された末法出現の仏を信ぜよ」と予言したことに反するものである。すなわち法華経を賛嘆するといえども、法華経の精神を破る姿である。

末法の法華経とは、三大秘法の南無妙法蓮華経である。日蓮宗他派の徒が、日蓮大聖人の御正意、末法における本尊を知らず、あるいは法華経、あるいはニセマンダラ、あるいは釈迦仏像、あるいは鬼子母神、キツネ、竜神、戒名等を本尊にしている姿は、正しく「法華の心を死す」ものであり、破仏法このうえもないことである。

末法今時においては、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ」とおおせられた、正しき御本尊を信ずる以外には、真の信心はありえないことを知るべきである。

世親菩薩、馬鳴菩薩、嘉祥大師等は、いずれも小乗を捨てて大乗を弘め、わが小法を捨てて天台大師に師事する等の有羞、懺悔の僧であった。しかるに、現代の僧が、自分の法が邪劣であることを知りながら、大法正法に信順できないのは、じつにはかない姿である。

 

 

第二十四章(中国の真言三祖を破る)

 本文

されば善無畏三蔵は中天の国主なり位をすてて他国にいたり殊勝・招提の二人にあひて法華経をうけ百千の石の塔を立てしかば法華経の行者とこそみへしか、しかれども大日経を習いしよりこのかた法華経を大日経に劣るとや・おもひけん、始はいたう其の義もなかりけるが漢土にわたりて玄宗皇帝の師となりぬ、天台宗をそねみ思う心つき給いけるかのゆへに、忽に頓死して二人の獄卒に鉄の縄七すぢつけられて閻魔王宮にいたりぬ、命いまだ・つきずと・いゐてかへされしに法華経を謗ずるとや・おもひけん真言の観念・印・真言等をば・なげすてて法華経の今此三界の文を唱えて縄も切れかへされ給いぬ、又雨のいのりを・おほせつけられたりしに忽に雨は下たりしかども大風吹きて国をやぶる、結句死し給いてありしには弟子等集りて臨終いみじきやうを・ほめしかども無間大城に堕ちにき、問うて云く何をもつてか・これをしる、答えて云く彼の伝を見るに云く「今畏の遺形を観るに漸く加縮小し黒皮隠隠として骨其露なり」等云云、彼の弟子等は 死後に地獄の相の顕われたるをしらずして徳をあぐなど・をもへども・かきあらはせる筆は畏が失をかけり、死してありければ身やふやく・つづまり・ちひさく皮はくろし骨あらはなり等云云、人死して後・色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし、善無畏三蔵の地獄の業はなに事ぞ幼少にして位をすてぬ第一の道心なり、月氏・五十余箇国を修行せり慈悲の余りに漢土にわたれり、天竺・震旦・日本一閻浮提の内に真言を伝へ鈴をふる此の人の徳にあらずや、いかにして地獄に堕ちけると後生をおもはん人人は御尋ねあるべし。

  又金剛智三蔵は南天竺の大王の太子なり、金剛頂経を漢土にわたす其の徳善無畏のごとし、又互いに師となれり、而るに金剛智三蔵・勅宣によて雨の祈りありしかば七日が中に雨下る・天子大に悦ばせ給うほどに忽に大風吹き来る、王臣等けうさめ給いき使をつけて追はせ給いしかども・とかうのべて留りしなり、結句は姫宮の御死去ありしに、いのりをなすべしとて御身の代に殿上の二女七歳になりしを 薪に・つみこめて焼き殺せし事こそ無慚にはおぼゆれ、而れども・姫宮も・いきかへり給はず不空三蔵は金剛智と月支より御ともせり、此等の事を不審とやおもひけん畏と智と入滅の後・月氏に還りて竜智に値い奉り真言を習いなをし天台宗に帰伏してありしが心計りは帰えれども身はかへる事なし、雨の御いのり・うけ給わりたりしが三日と申すに雨下る、天子悦ばせ給いて我れと御布施ひかせ給う、須臾ありしかば大風落ち下りて内裏をも吹きやぶり雲閣・月卿の宿所・一所もあるべしとも・みへざりしかば天子大に驚きて宣旨なりて風をとどめよと仰せ下さる・且らくありては又吹き又吹きせしほどに数日が間やむことなし、結句は使をつけて追うてこそ風も・やみてありしか、此の三人の悪風は漢土日本の一切の真言師の大風なり。

  さにてあるやらん去ぬる文永十一年四月十二日の大風は阿弥陀堂の加賀法印・東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり、善無畏・金剛智・不空の悪法をすこしもたがへず伝えたりけるか心にくし心にくし。

 

 現代語訳

しかして、この真言の邪師・善無畏三蔵は、初め中天竺の国主であった。しかるにその後、思うところあって位を捨てて出家した。他国をめぐって修学し、殊勝・招提の二人に会って、法華経を学び、百千の石の塔を立てて修行したゆえに、初め世間から法華経の行者のごとく思われたのである。

しかしながら、その後、大日経を学んでからは、法華経を大日経に劣るものと勘違いをしたのであろうか、初めは、ひどく大日経第一という義はなかったのであるが、中国にわたって玄宗皇帝の師匠となってから、心変わりをしたのである。

すなわち漢土には、すでに法華経をもとにしたりっぱな天台宗があった。善無畏は、この天台宗に怨嫉する心が生じて真言を弘めたのであろうか。そのために、たちまちに罰をうけて、あるとき善無畏は頓死した。二人の獄卒に鉄の縄を七すじも身体にいましめられ、閻魔王宮に引かれていった。

しかし善無畏の命いまだつきずといわれて、また蘇生して、娑婆世界に戻されたのであるが、そのとき、これは法華経を誹謗した罪であると自覚したのであろうか、真言の観念、印真言などの邪法をば、みずから投げ捨てて法華経譬喩品の「今此三界皆是我有……」云云の経文を唱えたため、七すじの縄も切れて、ようやく許されて帰されたのである。

その後、善無畏は朝廷から、雨の祈りを命令された。善無畏の祈雨によって、たちまちに雨は降ったことは降ったのであるが、大風が同時に吹いて国土を荒らした。これまったくの悪相である。結局、善無畏が死にいたったとき、彼の善無畏の弟子たちが集まって、臨終がりっぱであったと追従してほめたのであるが、じつは善無畏は無間大城におちたのである。

問うていうのには、いかなる理由をもって善無畏が地獄におちたと知るのかと。

答えていうのには、善無畏の伝記をみると、次のように書かれている。すなわち宋高僧伝には「いま、善無畏の遺体の形相を見ると、だんだんに、ますます遺体は縮小し、黒皮が隠々として、骨もあらわになっている」と書かれている。

善無畏の弟子たちは、善無畏の死後に、地獄の相がはっきりと顕われたのを知らずに、臨終正念であったとして、「生前の遺徳をあげた」などと思っているかしらぬが、じつには、善無畏の伝記を書きあらわした筆には、善無畏の堕地獄の相を示しているのである。すなわち、それによれば「死んだ後の善無畏の遺体を見るに、身体はだんだんに縮まり、小さくなり、皮膚は黒く、骨は露出している」等と書いてあるのである。

そもそも人がなくなって後、色の黒いのは地獄の業相であると決定したことは、これじつに仏陀の金言なのである。ゆえに善無畏三蔵は地獄におちたのである。それでは、善無畏三蔵の地獄の業因はなにごとであろうか。善無畏は、幼少にして国王の位も捨てた。これ第一の求道心というべきではないか。その上、月氏(インド)、五十余か国を経めぐって修行を積んだ。民衆を一人でも多く救いたいという慈悲の心のあまり、月氏より漢土まで渡って、仏法をひろめた人である。インド、中国、日本、またアジア諸国のなかで、真言宗を伝え、鈴をふって修行する人の多いのは、みなこの善無畏の徳のいたすところではないか。

このような人が、どうして地獄におちたのかと、後生の大事を思う人々は、深くその根本原因を追及していくべきである。

また、同じく中国の真言の開祖といわれる金剛智三蔵は、南インドの大王の太子であった。金剛頂経を漢土にわたす仕事をした人で、その徳はおよそ善無畏のごとしというべきである。また善無畏とは、たがいに相手の足らざるところを教えあう師となりあって研究に励んだ。

しかるに、金剛智三蔵は、勅宣によって雨の祈りをしたときに、七日以内に雨が降った。天子はおおいに喜んだのであるが、その後たちまち大風が吹いた。ために天子も臣下も一同みな興ざめして、使者をつかわして金剛智を追放したのであるが、金剛智はなんとか理屈をいいつのって、また中国にとどまってしまった。さらに、ついには、その後、皇帝の寵愛した姫が臨終となったとき、祈願を命ぜられた。金剛智は早速、姫の身代りとして、殿上の七歳になる二女を選んで、これに緋絵をまとわして、そばに火をたいて祈った。しかし、結局、無残にも二女は焼け死んでしまい、姫もついに生き返ることなく死んでいったのである。まことに、ふびんなことであった。

不空三蔵は、金剛智三蔵の弟子として、月氏より供をして漢土にわたった。しかし、これら善無畏、金剛智の不祥事を見て、不審に感じたのであろうか、善無畏と金剛智の死後、ふたたび月氏にかえって、竜智菩薩にあって、真言を習学しなおして、ついに天台宗に帰伏したのであるが、心ばかりは法華経に帰伏し、身は帰伏することができなかった。

不空も同じく祈雨を命ぜられた。雨の祈りによって、三日のうちに雨が降った。天子はひじょうに悦んで、みずから布施をさし出した。しかるに、たちまちのうちに、大風が吹ききたって、宮殿の内裏をも吹き破り、雲閣、月卿の宿所なども、みな吹き飛ばされて、ただの一所も残っている建物はないようなありさまであった。されば天子はおおいに驚き、命令を下して「風をとどめよ」と言いつけられた。しかし、しばらくやんでは、また猛烈に吹きすさび、また吹き荒れて、ついに数日の間、止むことはなかったという。ついには、勅使をつかわして不空を追放して、初めて大風はやむしまつであった。

この漢土の真言師、三人の悪風は、ただ彼ら三人だけのものではなく、漢土、日本のいっさいの真言師の大風であり邪教の証拠なりというべきである。

そのためであろうか。去る文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂の加賀法印という東寺第一の智者の雨の祈りによって吹いた逆風である。東寺は邪教真言を伝えるものであり、正しく善無畏、金剛智、不空の悪法を少しもたがえず、この日本に伝えたるがゆえに、同じく大風が吹いたというべきである。まことに心にくいまでに符合しているではないか。

 

語釈

善無畏三蔵

06370735)。梵名シュバカラシンハ(Śubhakarasiha)、音写して輸波迦羅。善無畏はその意訳。中国・唐代の真言宗の開祖。東インドの烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」「蘇婆呼童子経」「蘇悉地羯羅経」などを翻訳、また「大日経疏」を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てている。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。

 

中天の国主

善無畏は、中インド烏仗那国仏種王の子で、13歳にして王位についている。

 

殊勝・招提

宋高僧伝・善無畏伝にある。「善無畏が烏仗那国を後にして南に行き、海浜に至った。そこで、殊勝・招提の二人に会って法華三昧をえた。砂を集めて塔をつくること一万か所、その徳により、黒蛇に指をかまれたが絶息することがなかった」と。

 

玄宗皇帝

06850762)。中国・唐朝第6代皇帝(在位07120756)。26歳で即位し、外征を抑えて政治の乱れを正し唐の繁栄に貢献した(開元の治)。しかし「漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う」(1509-16)とおおせの通り、真言を信じ、善無畏三蔵に師事したため、臣下の安禄山によって都を追われ、皇位を失った。これは真言亡国の現証である。

 

真言の観念・印・真言

真言蜜教で説くところの観念、唵字観・阿字観・五輪観等の法門をいう。印とは、真言宗における漫荼羅の諸尊が、おのおの、その内証の本誓を表示する形式。広義の印とは、刀剣・輪宝・宝珠・金剛杵・蓮華等をさし、狭義には、本尊の手相および行者の手の形をいう。われわれの合掌も印の一種となる。真言とは、真言陀羅尼ともいい、仏の真実のことばをいい、呪文のようなものである。

 

法華経の今此三界の文

法華経の譬喩品第三にある。「今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子」(今此の三界は 皆な是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり)との文。

 

隠隠

憂い悲しめる状態。色のどす黒くなるありさま。

 

金剛智三蔵

05710741)。梵名バジラボディ(Vajrabodhi)、音写して跋日羅菩提。金剛智はその意訳。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。

 

姫宮

「宋高僧伝」には、玄宗皇帝の寵愛された姫とある。

 

不空三蔵

07050774)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)。阿目佉跋折羅と音写。意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。15歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家した。開元29年、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、6年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。

 

雲閣

四位・五位・六位の昇殿をゆるされたものの称で、殿上人ともいう。

 

月卿

天皇を日になぞらえ、三位以上の公卿を月になぞらえてこのようにいう。なお、公卿とは公と卿のこと。公は太政大臣・左大臣・右大臣をいい、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいう。大臣公卿と分けていうときは、公卿とは納言以下の公家をいう。

 

阿弥陀堂の加賀法印

鎌倉大倉の阿弥陀堂の別当で、加賀の法印定清のこと。真言宗小野流定清方の開祖。

 

講義

真言を破す中に、前章は総じて破し、本章は別して破す段である。別して破す中では、本章に漢土の三祖を破し、次章に日本の弘法、慈覚を破している。

さて、漢土の三祖とは、善無畏、金剛智、不空のいわゆる三三蔵である。かれらの邪義を破するにあたって、本章では祈雨の失敗や、臨終の相が悪いという現証をもって破折なされているのである。

現証の大事なことは御書に、三三蔵祈雨事にいわく「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468:16)と。

しかしてこの御抄にも三三蔵の祈雨についてお述べになっている。「善無畏は、唐の玄宗の時、大雨を降らせたけれども大風が出て国土を吹き破った。金剛智は、同じく七日の内に大雨が降ったが、前代未聞の大風が吹き、国外へ追放せよとの命令さえ出された。不空は、三日のうちに大雨を降らせたが、大風が吹き、数十日とどまらなかった」。また日蓮大聖人当時の文永11年(1274)の大風は、東寺第一の智者といわれた阿弥陀堂の加賀法印の雨の祈りの逆風であった。また極楽寺良観が、日蓮大聖人から祈雨の失敗を追求され、怨嫉を懐き幕府へ訴えて弾圧の端緒をつくったことも有名である。

そもそも国に正法なく、邪宗が盛んであるからこそ大旱魃も起きるのである。にもかかわらず、邪宗の雨乞いを行なったのでは、雨も降らなければ、国土も安穏になるわけがない。かえって国を滅し、民を滅し、地獄の業因をつくりかさねているにすぎないのである。

そもそも日蓮大聖人が良観を責められたのは、

種種御振舞御書にいわく「一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか、(乃至)いかに二百五十戒の人人・百千人あつまりて七日二七日せめさせ給うに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ、これをもつて存ぜさせ給へ各各の往生は叶うまじきぞ」(0912:12)と。

顕立正意抄にいわく「設い日蓮富楼那の弁を得て目連の通を現ずとも勘うる所当らずんば誰か之を信ぜん」(0537:04)と。

法蓮抄にいわく「近き現証を引いて遠き信を取るべし」(1045:03)と。

このように日蓮大聖人は、予言の的中することを見て、仏法の正邪も判定されるし、永遠の幸福も疑ってはならないと断定あそばされているのである。しかして御自身の立正安国論の予言については、

立正安国論奥書にいわく「既に勘文之に叶う、之に準じて之を思うに未来亦然る可きか、此の書は徴有る文なり」(御書全集:0033:05)と。

こうして国家の危急を救い、一切衆生に即身成仏の大直道を与えられる御本仏日蓮大聖人に相対する時、雨乞いの祈りさえかなわないような邪法邪宗のいかに、はかない存在であるか。国民大衆の願うところは、旱魃に悩み苦しみて後、雨を祈ってもらうよりも、初めから旱魃や豪雨や大風の被害のない平和な幸福な社会である。

 

死後に地獄の相の顕われたるをしらず等

 

善無畏三蔵が死んだ時、その身が縮まり、色が黒くなり、骨があらわになってきたというのは地獄の相である。

死相については、御書に数多くの文証がある。

千日尼御前御返事「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅緜の如し」(1316:11

妙法尼御前御返事「大論に云く『臨終の時色黒き者は地獄に堕つ』等云云、守護経に云く『地獄に堕つるに十五の相・餓鬼に八種の相・畜生に五種の相』等云云、天台大師の摩訶止観に云く『身の黒色は地獄の陰に譬う』等云云、夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが……臨終の事を習うて後に他事を習うべし……大論に云く『赤白端正なる者は天上を得る』云云、天台大師御臨終の記に云く色白し、玄奘三蔵御臨終を記して云く色白し」(1404:03)と。

およそ仏法は師弟相対である。師匠が地獄におちれば、弟子はまた地獄におちざるをえないのである。真言、念仏、禅宗等の中国、日本における元祖は、いずれも堕地獄の相を現じたことを、よくよく考うるべきではないか。

すなわち、中国の真言三祖、善無畏、金剛智、不空の三三蔵は、いまのべたごとく、いずれも悪現証をあらわしたのである。また、日本の真言の祖も、弘法にせよ、慈覚にせよ、みな死去のありさまは堕地獄の様相を示したのである。

また念仏においても中国の開祖・善導は、寺院の前の柳の木に首をくくって死のうとし、苦しんで死んだといわれる。日本の法然も死して後、墓をば犬神人に発掘され、遺骨は加茂川に捨てられた。謗師の実態は、いずれも、かくのごときである。

 

 

第二十六章(善導の悪夢の例を挙ぐ)

 本文

例せば漢土の善導が始は密州の明勝といゐし者に値うて法華経をよみたりしが後には道綽に値うて法華経をすて観経に依りて疏をつくり法華経をば千中無一・念仏をば十即十生・百即百生と定めて此の義を成ぜんがために阿弥陀仏の御前にして祈誓をなす、仏意に叶うやいなや毎夜夢の中に常に一りの僧有りて来て指授すと云云、乃至一経法の如くせよ乃至観念法門経等云云、法華経には「若し法を聞く者有れば一として成仏せざる無し」と善導は「千の中に一も無し」等云云、法華経と善導とは水火なり善導は観経をば十即十生・百即百生・無量義経に云く「観経は未だ真実を顕さず」等云云、無量義経と楊柳房とは天地なり此れを阿弥陀仏の僧と成りて来つて汝が疏は真なりと証し給わんはあに真事ならんや、抑阿弥陀は法華経の座に来りて舌をば出だし給はざりけるか、観音勢至は法華経の座にはなかりけるか、此れをもつてをもへ慈覚大師の御夢はわざわひなり。

 

 現代語訳

次に、悪夢凶夢の例をあげてみよう。一例として、漢土の善導は、初めは密州の明勝というものに会って、法華経を学んだのである。しかるに、後に道綽に会ってより、法華経を捨て、観経を用いるようになった。すなわち観経によって疏を作り、法華経は「千中無一」であり「法華経によって成仏するものは千人の中に一人もなし」と誹謗し、念仏は「十即十生・百即百生、すなわち、十人が十人、百人が百人、往生する」と定めたのである。そして、この義を成就するために、阿弥陀仏の前で祈誓をなした。仏意にかなったのか、どうか、毎夜、夢の中に、いつも一人の僧が出現して教授し指導したので、この書を完成したのだという。ゆえにこの観経疏は、つねに「仏の経法のごとくせよ」といわれ、彼の著「観念法門」も経のごとく尊敬せよといわれているのである。

法華経方便品には「もし法華経を聞くものがあれば、ひとりとして成仏しないことはない」と説かれている。しかるに、善導は、「千中無一、すなわち法華経を信じても、千人のうち一人も成仏するものはない」といっている。法華経の説くところと、善導のいいぶんは、まったく水火のごとき相違がある。

善導は、観経は「十即十生、百即百生」の経と説いている。しかるに無量義経には「四十余年の中に説いた観経は、いまだ真実を顕わしていない」等と説かれている。善導は、後に楊柳の枝に首をくくって自殺をしたが、仏説たる無量義経と、この楊柳房とは、まったく天地の差がある。これをもって思うのに、善導の夢の中に、阿弥陀仏が僧となって出現して、「汝が説いた疏は真なり」と証明したということは、どうして真実のことといえようか。そもそも、阿弥陀如来は、三世十方の諸仏のひとりであるべきなのに、法華経の座にきて、「法華経は皆是れ真実なり」という証明の舌を出さなかったのであろうか。また、観音、勢至の二菩薩も、迹化他方の菩薩として、法華経の座にいなかったのであろうか。もし、法華経の座にいたならば、善導の夢にあらわれるはずはないではないか。これをもって、善導の夢は、大妄語であったことは明白である。

これをもって思うのに、同じく、慈覚大師の日輪を射る夢も、悪夢であり、凶夢である。これこそおおいなるわざわいと知るべきである。

 

語釈

善導

06130681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。

 

密州の明勝

「観経玄義分伝通記」によると、三論宗の嘉祥と同門の師に、明勝というものがいて、善導は、その明勝から法を受けたという。密州はいまの中国山東半島の浙水のあたり。

 

道綽

05620645)。中国の隋・唐時代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。

 

千中無一

善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。

 

楊柳房

善導のこと。みずから居住している寺の門前にある柳の木に首をくくって自殺したことから、こう呼ばれている。

 

観音

観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。

 

勢至

勢至菩薩のこと。阿弥陀仏の脇士で、知恵をあらわす。

 

講義

この章は、中国の念仏の開祖たる善導をあげて、善導が夢で阿弥陀の指授を受けたというごまかしを、破折されている。

善導も、慈覚も、たとえそのとおりの夢を見たとしても、仏法の正邪の判定は、道理、証文、現証とか、依法不依人とか、とにかく仏説を基にし、経典を基準にしてのみ判定されるべきである。一宗一派の開祖の夢などが基準になろうはずがないのである。

下山御消息にいわく「されば念仏者が本師の導公は其中衆生の外か唯我一人の経文を破りて千中無一といいし故に現身に狂人と成りて楊柳に登りて身を投げ堅土に落ちて死にかねて十四日より二十七日まで十四日が間・顛倒狂死し畢んぬ」(0361:06)と。

日寛上人の文段にいわく「浄家良忠伝通記に云く、善導入寂の日を明して云く、新修伝に云く、春秋六十有九、永隆二年三月十四日入滅す、帝王年代銀に云く高宗皇帝永隆二年三月二十七日、善導和尚亡す等云云、吾祖深く此の両説を探り、十四日間顛狂死云云、豈明察に非ずや」と。

 

念仏の邪教

 

浄土宗であれ浄土真宗であれ、いわゆる念仏は非科学的な教えである。現代科学からの追求批判を待つまでもなく、念仏は釈尊の方便権教にすぎないのである。

念仏における指方立相の西方浄土を否定する声は、他門のみならず、浄土門内からも、たびたび聞かれるところである。しかし、彼らの教祖は「たとえ阿弥陀仏にすかされて方便の念仏を信じて地獄へ堕つるとも悔いはない」という狂信であるから、初めから念仏が方便であり非科学的な教えであることは、先刻承知の上なのである。

他力本願の念仏は、まことに仏法を毒する邪道である。努力や向上を否定し、生命力を衰亡させ、無気力な人生に堕落させる念仏思想は、歴史的にみても、中国、日本の民衆をどれほど不幸にしてきたか、わからない。

親鸞が86歳の時に作ったという「愚禿悲歎述懐」と題する和讃の一節に「浄土宗に帰すれども、真実の心はありがたし。虚仮不実の我が身にて、清浄の心もさらになし」というのがある。これが、すでに「教行信証」をあらわして浄土真宗を確立して30余年後の述壊なのであるから、念仏はまさに「絶望の宗教なり」といわざるをえない。これに宗教的価値を見出そうとするような日本の哲学者は、ただ西洋のキリスト教に追随せんとする卑屈な宗教観しかもたないゆえと断ずるほかはない。

西洋のキリスト教や日本の新興宗教の一つの天理教なども、同じく念仏と似た非科学的な他力主義の低級宗教にすぎない。科学の進歩とともに、キリスト教、念仏、天理教等は、だんだんに姿を消すことは、もはや世界的傾向である。

ちなみに、終戦後、アメリカ占領軍と共に日本に押し寄せたキリスト教のごときも、最近では衰退の一歩をたどり、昭和26年(1951)から昭和35年(1960)までの10年間に、キリスト教の日曜学校にくる生徒が10万人も減少したという統計も、これを雄弁に物語っているのである。

もっとも科学的で、人生を発展向上させる、人間革命の宗教、これこそ日蓮大聖人の大仏法であり、いまや創価学会を求むる声は、世界的な様相を示しているのである。

 

 

第二十七章(弘法の霊験を破す)

 本文

問うて云く弘法大師の心経の秘鍵に云く「時に弘仁九年の春天下大疫す、爰に皇帝自ら黄金を筆端に染め紺紙を爪掌に握りて般若心経一巻を書写し奉り給う予講読の撰に範りて経旨の宗を綴る未だ結願の詞を吐かざるに蘇生の族途に彳ずむ、夜変じて而も日光赫赫たり是れ愚身の戒徳に非ず金輪御信力の所為なり、但し神舎に詣でん輩は此の秘鍵を誦し奉れ、昔予鷲峰説法の筵に陪して親り其の深文を聞きたてまつる豈其の義に 達せざらんや」等云云、又孔雀経の音義に云く「弘法大師帰朝の後真言宗を立てんと欲し諸宗を朝廷に群集す即身成仏の義を疑う、大師智拳の印を結びて南方に向うに面門俄に開いて金色の毘盧遮那と成り 即便本体に還帰す、入我・我入の事・即身頓証の疑い此の日釈然たり、然るに真言・瑜伽の宗・秘密曼荼羅の道彼の時より建立しぬ」、又云く「此の時に諸宗の学徒大師に帰して始めて真言を得て請益し習学す三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄等皆其の類なり」、弘法大師の伝に云く「帰朝泛舟の日発願して云く我が所学の教法若し感応の地有らば此三鈷其の処に到るべし仍て日本の方に向て三鈷を抛げ上ぐ遥かに飛んで雲に入る十月に帰朝す」云云、又云く「高野山の下に入定の所を占む乃至彼の海上の三鈷今新たに此に在り」等云云、此の大師の徳無量なり其の両三を示す・かくのごとくの大徳ありいかんが此の人を信ぜずして・かへりて阿鼻地獄に堕といはんや、答えて云く予も仰いで信じ奉る事かくのごとし但古の人人も不可思議の徳ありしかども仏法の邪正は其にはよらず、外道が或は恒河を耳に十二年留め或は大海をすひほし或は日月を手ににぎり或は釈子を牛羊となしなんど・せしかども・いよいよ大慢を・をこして生死の業とこそなりしか、此れをば天台云く「名利を邀め見愛を増す」とこそ釈せられて候へ、光宅が忽に雨を下し須臾に花をさかせしをも妙楽は「感応此の如くなれども猶理に称わず」とこそかかれて候へ、されば天台大師の法華経をよみて「須臾に甘雨を下せ」伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらしておはせしも其をもつて仏意に叶うとは・をほせられず、弘法大師いかなる徳ましますとも法華経を戯論の法と定め釈迦仏を無明の辺域とかかせ給へる御ふでは智慧かしこからん人は用ゆべからず、 

 

 現代語訳

問うていうのには、(弘法大師の「般若心経の秘鍵」や「孔雀経の音義」や、あるいは「弘法大師の伝」には、弘法大師についての多くの奇瑞が出ている。どうして、弘法大師を信じてはならぬといい、弘法大師が阿鼻地獄に落ちたというのか。)

すなわち、初めに弘法大師の般若心経秘鍵の跋文にいわく「弘仁九年の春、天下に大疫病が流行した。ここに天皇は、自ら黄金を筆端に染め、紺紙を掌に握って、紺紙金泥の般若心経一巻を書写せられた。自分は、この般若心経を講読する命をうけて、経旨の趣を書きつづった。しかも、いまだ結願の詞をのべ終わらぬのに、この大疫病の流行はとまり、蘇生した人たちは道にたたずんでいる。また夜変じて世中に太陽が赫々と輝いている。これ、自分がごとき愚かな身の戒徳のゆえにあらず、ひとえに金輪聖王たる天皇の御信力のたまものである。ただし、今後は、神社に参詣するものたちも、この般若心経秘鍵の文を読みたてまつるべきである。昔、自分が霊鷲山の説法の座に列していたとき、眼前に、その深意を聞いたのである。ゆえに、どうして、この経の意義に達しないわけがあろうか」と。

また、孔雀経の音義にいわく、「弘法大師は、唐より帰朝の後、真言宗を立てんと思われ、諸宗の代表を朝廷に集めて論議した。みな真言宗の即身成仏の義を疑っていた。そのとき、弘法大師は、智拳の印を結んで南方に向かったところが、弘法大師の面門がにわかに開いて金色の毘盧遮那と化し、すなわち毘盧遮那の本体にたち還った。これによって、入我、我入の教意、すなわち、諸仏をわが身中に引入しまた、わが身を諸仏に引入すること、即身に仏果を証することが明らかになったので、衆人の疑いは、たちまちに氷解したのである。しかして、真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅の道は、この時から建立されたのである」と。

同じく、孔雀経の音義に、またいわく「この時に諸宗の学徒は、弘法大師に帰依して初めて真言を得て、請益し、習学したのである。すなわち三論宗の道昌、法相宗の源仁、華厳宗の道雄、天台宗の円澄などが、みなこのたぐいであった」と。

弘法大師伝には、次のように、弘法大師をたたえている。「いよいよ中国から日本に帰り帰朝のため、舟を出す日、弘法大師が発願していうのには、わが学んだところの教法をひろむるに適した感応の地があるならば、いまから投げ上げるこの鈷がかならず、その他に落ちるであろうと。そして日本の方に向かって鈷を抛げ上げた。三鈷は、はるかに飛んで、雲の中にはいった。しかして、その年の十月に日本に帰朝した」と。

同じく弘法大師伝にいわく、「高野山の下に弘法大師が入定すべき場所を決定した。乃至かの海上で投げ上げた三鈷が、いま、あらたにここに落下してあった」等と。この弘法大師の徳というものは、まことに無量である。その二・三を示しても、かくのごとき大徳があるのである。どうして、この弘法大師を信じてはならないとし、また弘法大師を信じたら、かえって阿鼻地獄に落ちると、あえていうのであるか。

答えていうのには、私も、弘法大師の徳を仰いで信じたてまつろうと思うのである。しかし、いにしえの人々も、不可思議の徳をもっていたのである。しかし、仏法の邪正は、けっして、このような奇事にはよらないのである。インドのバラモン外道は、あるいは恒河の水を、耳に十二年間とどめ、あるいは、大海を一日にしてすい干し、あるいは日月を手ににぎり、あるいは釈尊の弟子を牛や羊のごとくなすなどということをしたけれども、いよいよ大慢心をおこして、生死の業となったにすぎないではないか。

このことを天台大師は、法華玄義にいわく「名聞名利をもとめるもので、見愛の煩悩を増したにすぎぬ」とこそ、解釈されたのである。光宅法雲がたちまちに雨を降らし、法華経説法の時には、須臾の間に天から花を咲かせ降らせたのに対しても、妙楽大師は「なるほど、感応はかくのごとくあったけれども、なお理にかなわざるものだ」とこそ書かれたのである。されば、天台大師が法華経を読んで「須臾の間に甘雨を降らせ」伝教大師は3日間のうちに甘露の雨をふらせたのであるが、それをもって、なお仏意にかなったのだとは、おおせられなかったのである。

もしも、与えて、弘法大師に、いかなる徳があったとしても、法華経を戯論の法と定めたり、釈迦仏を無明の辺域と書いた筆跡を、智慧すぐれた人は、絶対に用いてはならないのである。

 

語釈

弘法大師

07740835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816八)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。

 

心経の秘鍵

心経は「般若波羅蜜多心経」のこと。弘法大師が心経を註釈したものが「般若心経秘鍵」1巻。

 

結願の詞

祈祷の終わりにあたって捧げる言葉。

 

戒徳

戒行を修して得た徳。

 

金輪

金輪聖王。転じて有徳の帝王のこと。

 

鷲峰説法の筵

霊鷲山における法華経説法の座。

 

孔雀経の音義

孔雀経とは、孔雀明王の神呪・修法、その功徳などを説いたもの。音義とは、漢籍や仏典の字句を抜出し、その発音や意味を注釈したもの。特に真言宗では、真言や陀羅尼の意味、読み方を学ぶ必要があった。

 

智拳の印

金剛界の大日如来の印。左右とも、小指、薬指、中指を屈し、親指を少し前に出して屈し、人差し指を屈して親指の第一関節を押す。この形を金剛拳という。さらに、この金剛拳の左を下にし、右の上にのせて石こぶしの下でもって左こぶしの頭指の屈頭をにぎるものを「智拳の印」という。

 

面門

口のこと。

 

金色の毘盧遮那と成り

弘法の弟子真済(08000860)が述べたことばで、弘法が帰朝して、朝廷において諸宗の高僧と対論したさいに、手に印を結んで大日如来の姿を現じてみせたという作り話。

 

本体に還帰す

本体である毘盧遮那の姿を示した。

 

入我・我入の事

「秘蔵記」に「真言印契等のゆえに、諸仏をわが身中に引入す。これを入我という。わが身を諸仏に引入す、これを我入という。入我我入のゆえに、諸仏の無数劫中に修習するところの功徳、わが身に具足す」とある。すなわち真言の法を修することによって、仏の三蜜と衆生の三業が互入して、仏の徳をわが身に具するという。

 

真言・瑜伽の宗

真言宗のこと。瑜伽とは相応という義。すなわち、大日如来の教えに相応する宗。真言宗が、三蜜の瑜伽をその宗とする。

 

秘密曼荼羅の道

真言は、顕教に対して密経を標榜し、その修行の道法は、漫荼羅によってあらわされている。

 

請益

教えにより利益を受けようと請願すること。

 

道昌

07980875)。 平安時代前期の僧。延暦17年(079838日生まれ。真言宗。はじめ三論をまなぶ。天長5年(0829)空海より灌頂をうける。京都の広隆寺,隆城寺の別当を歴任。貞観16年嵯峨の葛井寺を修築し・法輪寺として再興。少僧都。京都大堰川の堤防修築にもつとめた。貞観17年(087529日死去。78歳。讃岐(香川県)出身。俗姓は秦。

 

源仁

08180887)。平安時代前期の僧。弘仁9年(0818)生まれ。真言宗。元興寺の護命に法相を・東寺の実恵に真言をまなぶ。また真雅・宗叡に師事して灌頂をうけ、内供奉十禅師・東寺二長者となる。南池院を建立し、成願寺と称した。弟子に益信・聖宝。仁和3年(08871122日死去。70歳。通称は池上僧都。

 

道雄

生年不詳。仁寿元年(085168日は、平安時代前期の真言宗の僧。空海の十大弟子の一人。讃岐国多度郡の人。俗姓佐伯氏。空海と同族で、実恵の親族。また、一説には円珍の伯父ともいわれる。海印寺の開基。

 

天台の円澄

07710836)。比叡山延暦寺第二代座主。諡号は寂光大師。武蔵(埼玉県)に生まれ、はじめ道忠のもとで学んだが、後に伝教大師に師事し、円教三身・止観三徳の義などを授けられたという。「第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0310-14)、「円澄は天台第二の座主・伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり」(0320:04)とおおせで、円澄は伝教大師の弟子でありながら、心は弘法の方を向いている、と喝破されている。

 

帰朝泛舟の日

中国から日本に帰る船出の日。

 

感応の地有らば此三鈷其の処に到るべし

三鈷は真言密教の祈禱に用いる道具で、先端が三つに分かれている金剛杵のこと。弘法が帰朝するさい、中国明州の浜より、三鈷を海上に向かって投げた。それがはるか雲の中にかくれ、後日、高野山において発見された。高野山こそ感応の地であるとして寺を建立し、真言宗の道場とした、という弘法の邪義。

 

見愛

見思の煩悩。見惑と思惑。見惑は迷理の惑、真理を誤認することで、我見・辺見などの五見をいう。思惑は迷事の惑、生来そなわる煩悩のことで、貪・瞋・癡・慢・疑をいう。

 

光宅が忽に雨を下し須臾に花をさかせし

04670529)。中国・南北朝時代の僧。光宅寺に住して法雲という。開善寺の智蔵・荘厳寺の僧旻とともに梁の三大法師と称され、成実、涅槃の学匠として名高い。江蘇省宜興市の人で姓は周氏。7歳で出家し、30歳で法華経・浄名経を講じた。天監7年(0508)勅により光宅寺の主となる。天監10年(0511)の華林園において法華経を講ずると、たちまちに天華が舞い下り、また薬草喩品「其雨普等四方俱下」の句に至りて、雨が降ってきたという。

 

伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらし

弘仁9年(0818)、伝教大師と護命とが祈雨の争いをした。護命は法相宗の僧。美濃に生まれ元興寺に学んだ。伝教大師が祈ること3日にして甘雨を降らせたのに対し、護命は雨を降らすのに5日かかったので負けとなった。このことからも、3週間かけて降らせられなかった弘法の失敗がいかに無残なものであったかが、明らかである

 

講義

この章は次の第二十八章とともに、弘法の霊験と称する各種の妄談を破折されている。

 

不可思議の徳ありしかども仏法の邪正は其にはよらず

 

仏法の邪正は法門によって決定されるのであり、利根や通力によってはならない。唱法華題目抄にいわく「法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(0016:13)と。祈雨にしても、天台も伝教も雨を降らせたが、それをもって仏意にかなうとはなさらなかった。

夜中に太陽が出たとか、中国で舟に乗る時に投げた三鈷が、日本の高野山からでてきたなどという弘法の虚言は、じつに邪教中の邪教であり、亡国、亡家、亡人の法というべきである。

 

 

第二十八章(弘法の誑惑を責む)

 本文

いかにいわうや上にあげられて候徳どもは不審ある事なり、「弘仁九年の春・天下大疫」等云云、春は九十日・何の月・何の日ぞ是一、又弘仁九年には大疫ありけるか是二、又「夜変じて日光赫赫たり」と云云、此の事第一の大事なり弘仁九年は 嵯峨天皇の御宇なり左史右史の記に載せたりや是三、 設い載せたりとも信じがたき事なり成劫二十劫・住劫九劫・已上二十九劫が間に・いまだ無き天変なり、夜中に日輪の出現せる事如何・又如来一代の聖教にもみへず未来に夜中に日輪出ずべしとは三皇五帝の三墳・五典にも載せず 仏経のごときんば壊劫にこそ二の日・三の日・乃至七の日は出ずべしとは見えたれども・かれは昼のことぞかし・夜日出現せば東西北の三方は如何、設い内外の典に記せずとも現に弘仁九年の春・何れの月・何れの日・何れの夜の何れの時に日出ずるという・公家・諸家・叡山等の日記あるならば・すこし信ずるへんもや、次ぎ下に「昔予鷲峰説法の筵に陪して 親り其の深文を聞く」等云云、此の筆を人に信ぜさせしめんがためにかまへ出だす大妄語か、されば霊山にして法華は戯論・大日経は真実と仏の説き給けるを阿難・文殊が悞りて妙法華経をば真実とかけるか.いかん、いうにかいなき婬女・破戒の法師等が歌をよみて雨す雨を三七日まで下さざりし人は・かかる徳あるべしや是四、孔雀経の音義に云く「大師智拳の印を結んで南方に向うに面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云、此れ又何れの王・何れの年時ぞ漢土には建元を初とし日本には大宝を初として緇素の日記・大事には必ず年号のあるが、これほどの大事に・いかでか王も臣も年号も日時もなきや、又次ぎに云く「三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄」等云云、抑も円澄は寂光大師・天台第二の座主なり、其の時何ぞ第一の座主義真・根本の伝教大師をば召さざりけるや、円澄は天台第二の座主・伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり、弟子を召さんよりは三論・法相・華厳よりは天台の伝教・義真の二人を召すべかりけるか、而も此の日記に云く「真言瑜伽の宗・秘密曼荼羅彼の時よりして建立す」等云云、此の筆は伝教・義真の御存生かとみゆ、弘法は平城天皇・大同二年より弘仁十三年までは盛に真言をひろめし人なり、其の時は此の二人現におはします又義真は天長十年までおはせしかば其の時まで弘法の真言は・ひろまらざりけるか・かたがた不審あり、孔雀経の疏は弘法の弟子・真済が自記なり信じがたし、又邪見者が公家・諸家・円澄の記をひかるべきか、又道昌・源仁・道雄の記を尋ぬべし、「面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云、面門とは口なり口の開けたりけるか眉間開くとかかんとしけるが悞りて面門とかけるか、ぼう書をつくるゆへに・かかるあやまりあるか、「大師智拳の印を結んで南方に向うに 面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云、涅槃経の五に云く「迦葉仏に白して言さく世尊我今是の四種の人に依らず何を以ての故に瞿師羅経の中の如き仏瞿師羅が為に説きたまわく若し天魔梵破壊せんと欲するが為に変じて仏の像と為り三十二相・八十種好を具足し荘厳し円光一尋面部円満なること猶月の盛 明なるが如く眉間の毫相白きこと珂雪に踰え乃至左の脇より水を出し右の脇より火を出す」等云云、又六の巻に云く「仏迦葉に告げたまわく我般涅槃して乃至後是の魔波旬漸く 当に我が正法を沮壊す乃至化して阿羅漢の身及仏の色身と作り魔王此の有漏の形を以て無漏の身と作り我が正法を壊らん」等云云、弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論等云云、而も仏身を現ず此れ涅槃経には魔・有漏の形をもつて仏となつて 我が正法をやぶらんと記し給う、涅槃経の正法は法華経なり故に経の次ぎ下の文に云く「久く已に成仏す」、又云く「法華の中の如し」等云云、釈迦・多宝・十方の諸仏は一切経に対して「法華経は真実・大日経等の一切経不真実」等云云、弘法大師は仏身を現じて華厳経・大日経に対して「法華経は戯論」等云云、仏説まことならば弘法は天魔にあらずや、又三鈷の事・殊に不審なり漢土の人の日本に来りてほりいだすとも信じがたし、已前に人をや・つかわして・うづみけん、いわうや弘法は日本の人かかる誑乱其の数多し此等をもつて仏意に叶う人の証拠とはしりがたし。

 

 現代語訳

いかにいわんや、いままであげた徳などには、多くの不審があるのである。

まず弘法大師の般若心経秘鍵に「弘仁九年の春、天下大疫す」等とあるが、春といっても、一月から三月まで九十日間ある。いずれの月の、いずれの日だったのか、明らかにすべきではないか。これ第一の不審である。

また弘仁九年に、はたして大疫病がまん延した事実があったのであろうか、これ第二の不審である。

同じくまた般若心経秘鍵には、「弘法大師が般若心経の経旨の宗を書いただけで、夜変じて日光が赫々と輝いた」という。このことは、第一の大事である。弘仁九年といえば嵯峨天皇の御代である。しかし、このようなことは、左史の書、右史の書にも、載っているであろうか。これ第三の不審である。

たとえ左史右史の記に載せてあったとしても、このことは、まったく信じられない。なぜなら、この世界で、成劫二十劫、住劫九劫、合わせて二十九劫の間に、いまだ、かつてなかった天変である。夜中に太陽が出現するということは、いったい、いかなることだろうか。また釈迦如来、一代五十年の聖教にも、このようなことは見えないのである。「未来に、夜中に太陽が出現するだろう」などとは、中国の三皇五帝の三墳五典の書にも、まったく載っていないのである。仏経典の説によれば、壊劫にはいったときこそ、二つの太陽、三つの太陽、ないし、あるいは七つの太陽の出現があるだろうとは説かれているけれども、これは昼に出るとのおおせである。もし南閻浮提に夜、太陽が出現したならば、東西北の三方の世界は、いかなることになるだろうか。

たとえ内典、外典に記していないとしても、判然と弘仁九年の春、いずれの月の、いずれの日の、いずれの夜の、いずれの時間に、太陽が出現したという、公家、諸家、叡山等の日記があるならば、少しは信ずることもできようが、それにも、ぜんぜんないではないか。

般若心経秘鍵の次ぎ下の文に「昔、弘法大師が霊鷲山で般若心経の説法の座につらなっていて、まのあたり、その深遠な経文を聞いた」等とある。この般若心経秘鍵の書を、人に信じさせるためにかまえた大妄語ではないか。されば霊鷲山において、釈尊が「法華経は戯論の法、大日経は真実の法」と説いたのを、阿難や文殊菩薩が誤って、「妙法華経は真実なり」と反対のことを書いたというのか、まさに、いうもおろかな昔の婬女や破戒の法師などが、歌をよんで降らした雨を、三七日すなわち21日間も祈りつづけて降らすことのできなかった弘法などに、法華経聴聞の徳があるはずがあろうか。これ第四の不審である。

また孔雀経の音義にいわく「弘法大師が、智拳の印を結んで南方に向かったところ、面門がにわかに開いて金色の毘盧遮那となる」等と。これまた、いずれの王、いずれの年時であるか。中国においては建元の年号を初めとし、日本においては大宝の年号を初めとして、かならず年号があり、しかも、仏法に関してのことも一般の世間のことも大事の文章には、かならず年号を記載するのがならわしである。しかるに、これほどの大事に、どうして、王も臣も年号も日時も記載していないのか。

同じくまた孔雀経の音義にいわく「三論の道昌、法相の源仁、華厳の道雄、天台の円澄などは、弘法大師に帰依して習学した」と。そもそも、円澄寂光大師は天台宗第二の座主である。そのとき、どうして第一の座主である義真大師、また根本大師たる伝教大師を招かなかったのであるか。円澄は天台宗第二の座主であり、伝教大師の弟子であるけれども、また弘法大師の弟子ともなりさがった。弟子を招くよりも、また三論宗、法相宗、華厳宗よりも、天台宗の伝教大師、義真大師の二人を招くべきではなかったのか。

しかも、この日記すなわち、孔雀経音義にいうのには、「真言瑜伽の宗を、秘密曼荼羅を、かの時より建立したのである」等と。この書は、伝教大師、義真大師の御存生の時の書と思われる。弘法は、平城天皇の大同二年に帰朝したときから弘仁十三年伝教大師が入滅されるまでは、盛んに真言の教えを弘めた人である。その時は、この伝教大師と義真大師の二人は、現にまだ御存生であった。しかも義真大師は、天長十年存生であられたから、そのときまでは、弘法の真言は弘まらなかったというのか。これについて、まだいろいろな不審がある。すなわち、孔雀経の音義は、弘法の弟子、真済の自記である。ゆえに、はなはだ信じられない書である。また、邪見者が、公家・諸家、円澄の記を引けるわけがあろうか、また道昌・源仁・道雄の記をたずねてみるべきである。

同じく孔雀経音義には、「面門がにわかに開いて金色の毘盧遮那となる」等とある。面門とは口のことである。弘法の口が開いたというのか。これは、眉間が開くと書こうとしたのであるが、誤って面門と書いてしまったのであろう。謀書を書いたゆえに、このような誤りがあるのであろうか。

孔雀経音義にいわく「弘法大師が智拳の印を結んで南方に向かったところ、面門にわかに開いて金色の毘盧遮那となる」等と。

涅槃経の第五の巻にいわく「迦葉、仏に申していわく、仏世尊よ、われ今、この四種の人を依拠としない。何となれば、瞿師羅経の中のごときは仏が瞿師羅のために説いていわく、もし天魔が梵を破壊せんと欲するがゆえに変じて仏の像となり、三十二相、八十種好を具足し、荘厳し、円光一尋・面部円満なること、なお月の盛明なるごとくであり、眉間の白毫相の白く輝くことは珂雪にこえ、乃至、左の脇より水を出し、右の脇より火を出した」等と。

同じく、また涅槃経の第六の巻にいわく「仏は迦葉に告げいうのには、われ般涅槃して、乃至、後に是の魔や波旬が、ようやくまさに我が正法を沮壊せんとしている。乃至、化して阿羅漢の身および仏の色身となり、魔王はこの有漏の形をもって、無漏の身となり、わが正法を破壊するであろう」と。

弘法大師は、法華経を華厳経、大日経に対して戯論である等といった。しかも、孔雀経音義によれば仏身のごとき相を現わしているという。これ涅槃経には「魔が有漏の形をもって、仏となって、わが正法を破壊するであろう」と記されてあるとおりである。涅槃経でいう正法とは、法華経のことである。ゆえに、涅槃経の次ぎ下の文にいわく「久しくすでに成仏している」と。涅槃経に、また、いわく「法華の中のごとし」と。

釈迦、多宝、十方の諸仏、一切経に対して「法華経は真実であり、大日経等の一切経は不真実である」といっている。しかるに、弘法大師は、仏身を現じながら、華厳経、大日経に対して法華経は戯論である、といっている。仏説がまことであるならば、弘法大師は天魔ではないか。

また、三鈷を中国から投じたということも、ことに不審きわまることである。中国の人が事情を知らない日本にきて、三鈷をただちに掘り出したとしても、そういうことは信じられぬことである。堀り出す以前に、人をそこにつかわして、三鈷を埋めたのではなかろうか。いわんや、弘法は日本の人であり、どんな工作もできる立場にある。そして、このような誑乱は、数多くいままでもあったことである。

これらのことをもって、弘法は仏意にかなう人であるという証拠にはならないのである。それどころかまったくの邪義邪教の人である。

 

語釈

左史右史の記

歴史の記述ということ。左史右史は太政官の職員で、左史右史ともに大史小史各二員ずつ、計八史がある。左史は天下の事を起し、右史は天子の言を記すという。

 

三皇五帝

中国古代の伝説的帝王。古来多くの説があるが、大聖人は儒教の学者・孔安国の尚書序等において立てられた説に従われている。すなわち三皇は伏羲・神農・黄帝で、五帝は少昊・顓頊・高辛・唐堯・虞舜である。

 

三墳五典

三皇・五帝が著わしたとされる書。尚書の序に「三皇の書を三墳といい、五帝の書を五典という」とある。三墳の墳とは〝大道〟を意味し、五典の典とは〝常道〟を意味する。しかし、いずれも現存しているわけではなく、内容も不明である。

 

婬女・破戒の法師

ここで婬女とは和泉式部、破戒の法師とは能因法師をさす。和泉式部は平安時代の女流歌人。異性関係が派手で乱脈であったという。その歌は情熱奔放、想像力豊かで、わが国女流歌人のなかでは異色の存在である。「ことわりや日の本なれば照るぞかし、降らざらめやはあめが下には」と詠み、雨を降らせたという。能因法師は本名を橘永愷といい、平安時代の京都の歌僧。父の忠望の跡を継いで和歌を好み、藤原長能について和歌を学んだ。のちに出家して、能因と称した。伊予国(愛媛県)の大旱魃をみて、「天の川苗代水にせきくだせ、天くだります神ならば神」という和歌を詠み、三島神社に納めたところ、たちまちに雨が降ったという。

 

漢土には建元を初とし

中国では、前漢の孝武帝が即位した建元元年(西暦前0140)をもって、年号の初めとした。

 

日本には大宝を初とし

わが国では、大化が年号の初めである。大宝元年は第四十二代文武天皇の世、西暦0710年になる。

 

緇素

僧侶と俗人のことを緇素という。緇は黒色、素は白色のことで、インドでは僧侶は黒衣を著し、俗人は白衣を着していた。

 

真済

08000860)。平安時代前期の真言宗の僧。山城の神護国祚真言寺(神護寺)第二代。俗姓は紀氏。京都の人。若くして出家し弘法に従って胎蔵・金剛両部の大法を受け、25歳で伝法阿闍梨となり、斉衡3年(0856)僧正に任ぜられる。高雄僧正、柿本僧正、紀僧正ともいう。

 

四種の人

四依の人と同じ。仏の滅後、衆生をあわれみ、その依処となるべき四種の人をいうのである。

 

瞿師羅経

瞿師羅は梵語ゴーシラ(GhosiLa)の音写で、美音などと漢訳される。中インド・憍賞弥国の長者で、美音精舎を造って仏を招き、ここで説法することを請うた。この経の中には、仏道を破らんがために魔が仏の姿となり、神通力を現じて瞿師羅をまどわしたとある。現在の大蔵経の中には、この経の名は見当たらない。

 

三十二相八十種好

三十二とは、応化の仏が備えている特別な相のことで、仏はこの三十二相を現じて、衆生に渇仰の心を起こさせ、それによって人中の天尊、衆星の主であることを知らしめること。八十種好とは「はちじゅつしゅごう」とも読み八十種の好ましい相ことで、八十随形好・八十随好・八十微妙種好・八十小相ともいう。この三十二相に八十種好が具り円満になるのである。

 

珂雪

珂は、めのうの一種とも、また珂具といって海中よりとれる白雪のごときものともいう。白雪のごとき白き色にたとえた。

 

三鈷

三鈷杵ともいう。真言密教の祈禱に用いる道具。鈷はもと古代インドの武器で、仏教では法具となり、煩悩を破るとの意をもつ。金剛杵の一種で、手杵の形に似ており、両端に各三鋒あるものを三鈷という。

 

講義

この章は前章につづいて、弘法のかずかずの誑惑を破折なさっているのである。

 

一、心経の秘鍵(夜中の太陽の事件)

 

疫病流行のこともなんらの記録はなく、まして夜中の太陽の記録などあろうはずがない。

「設い載せたりとも信じがたき事なり」とは、一には前二十九劫の間に、そのような例はなく、二には未来にもあるべしという予言は、内典にも外典にもさらにないから、信じられないのである。

「東西北の三方は如何」とは、南州の夜中は、北州の日中であり、東州の日の出の時、西州は日没の時であると当時は考えていた。ゆえに夜中に急に太陽が南州へきてしまったら、ほかはどうなっているのかとの問いである。「予鷲峰説法の筵に陪して」との文を信ぜしめようとするために、疫病や太陽のごまかしを作り上げたのであろう。それにしては、法華経の説法をほんとうに聞いていたならば、法華経を戯論とか、釈迦仏を無明の辺域などという邪義を唱えられようわけがない。

また雨乞いをして、3週間も雨を降らせられなかったというような邪道を、平気で行なえるわけもないではないか。そのような邪師に、法華経聴聞の徳などあるわけがないのである。

 

二、孔雀経の音義、面門俄かに開く

 

弘法大師が智拳の印を結んで南方へ向かったら、口がにわかに開いて金色の毘盧遮那になったという。面門とは口であり、口をあいたら法身如来になったなどということは、まったく意味がない。おそらく眉間白毫がにわかに開いて成仏の姿をあらわしたと書くつもりで、誤って面門と書いたのであろう。謀書、偽書を作るからそういう誤りを犯すのである。

また次に三論、法相、華厳、天台の各派の代表を集め、これらの諸宗の学徒がみな弘法に帰依したという。これも、とんでもない妄説であることはいうまでもない。

第一に天台宗の円澄を呼んだというのが、どうかしている。弘法が中国から日本へ帰り、平城天皇の大同2年(0807)からは盛んに真言を弘めていた。伝教大師は大同2年(0807)から10数年後の、弘仁12年(0822)まで存命せられていた。天台第二の義真は、それよりさらに天長10年(0833)まで、12年も存命せられていたのである。このように、伝教、義真のお二人がいたのに、これを除いて円澄を呼んだというが、そもそも円澄は半ばは弘法の弟子だったのであり、天台宗の代表とはなりえないのである。

報恩抄にいわく「日本国は叡山計りに伝教大師の御時・法華経の行者ましましけり、義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり、第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0310:13)と。

次にこの孔雀経の疏というのは、弘法の弟子、真済の書いたものであって、こういう邪見の人間の書いた物は信じられないのである。

 

三、涅槃経、魔が仏の形となる

 

涅槃経には、魔が、三十二相八十種好を具足する仏の形を現わし、世間の人に信用させておいて、しかも仏法を破ると説かれている。正しく弘法がこれにあたる。面門を開いて法身になったといいながら、しかも法華経を戯論などといっているのである。

「三鈷の事・殊に不審なり」と。しかし法華経には「若し須弥を接って、他方の無数の仏土に擲げ置かんも、亦未だ難しと為ず。若し仏の滅後に悪世の中に於て、能く此の経を説かん、是れ則ち難しとす」と。三鈷を中国から日本へ投げたくらいのことは、法華経を末法に説き行ずる困難にくらべたら、問題にならないというのである。

 

近代精神と宗教観

 

近代精神は批判精神であり合理的精神である。ところが、ひとたび宗教の問題となると、まったく無批判に受け入れる傾向が、とくに知識人といわれるような人々に多い。古くは、弘法などに対する考えがそれである。日蓮大聖人の破折で明確にわかるように、およそ仏法に関しては弘法は誑惑のかぎりをつくしたのである。しかし、弘法がお灸や筆や社会事業などで有名になると、世人は宗教的にも正しいものであるという奇妙な錯覚におそわれるのである。

真実の宗教はけっしてお灸や筆や社会事業などが目的ではないのである。社会事業などは国家が政治で行なうべきもので、寺や神社がやるべきものではない。いったい、釈尊がどんな社会事業をやったというのであろうか。宗教は慈悲と道理と智慧、および宗教的な力によって民衆の苦悩を救い幸福をあたえていくべきものである。宗教家の社会事業などというものは、宗教の無力と政治の貧困を陰弊しようとする陰険な策謀という以外にはない。

このぶんでいけば、天理教や立正佼成会のごとき、とるにたりない新興宗教なども、あんがい、歴史とともに由緒ある宗教と認められて、ますます民衆を不幸にしていくことにもなりかねないのである。恐るべきは、民衆の宗教的無知であるといわざるをえない。

最近も、ある日蓮宗の僧籍にあるものが総理に指名されたとたんに僧位が七階級特進したり、またある殺人犯人を密告した娘の父が同じく僧位が七階級特進したごときは、どこか狂っている宗教観を反映したものではなかろうか。

わが創価学会は、あくまでも文証、理証、現証の厳密で合理的な批判精神に立って、宗教哲学を研究し実践しているのである。そして、あくまでも慈悲と道理の上から、民衆を不幸におとしいれる佼成会や天理教のごとき邪宗邪義を徹底的に打ち破っているのである。

 

 

第二十九章(真言破折を結す)

 本文

されば此の真言.禅宗・念仏等やうやく・かさなり来る程に人王八十二代・尊成・隠岐の法皇.権の太夫殿を失わんと年ごろ・はげませ給いけるゆへに大王たる国主なれば・なにとなくとも師子王の兎を伏するがごとく、鷹の雉を取るやうにこそ.あるべかりし上.叡山・東寺・園城・奈良七大寺.天照太神・正八幡・山王・加茂.春日等に数年が間・或は調伏・或は神に申させ給いしに二日・三日・だにも・ささへかねて佐渡国・阿波国・隠岐国等にながし失て終にかくれさせ給いぬ、調伏の上首・御室は但東寺をかへらるるのみならず眼のごとくあひせさせ給いし第一の天童・勢多伽が頚切られたりしかば調伏のしるし還著於本人のゆへとこそ見へて候へ、これはわづかの事なり此の後定んで日本国の諸臣万民一人もなく乾草を積みて火を放つがごとく大山のくづれて谷をうむるがごとく我が国・他国にせめらるる事出来すべし、

 

 現代語訳

されば、これらの真言宗、禅宗、念仏などの邪教が、ようやく盛んになってきたころ、人王八十二代、尊成隠岐の法皇(後鳥羽上皇)が、北条義時を滅ぼそうと年来、努力されていた。この上皇は、大王であり、国主であるから、どんなことがあっても、師子王が兎を取るように、鷹が雉をとるように、北条氏を滅ぼすことは容易であると思われた。その上に、比叡山、東寺、園城寺、さらに奈良の七大寺、また天照太神、正八幡大菩薩、山王、加茂、春日神社等に数年の間、あるいは北条氏の調伏を命じ、あるいはあらゆる神社に祈願をかけた。しかるに朝廷方は、わずか二、三日間も北条幕府の軍勢を阻止することができなくて総くずれとなり、かえって三上皇は佐渡の国、阿波の国、隠岐の国等に流罪されて、ついにそこでなくなられたのである。

しかも、北条幕府を調伏した上首たる御室は、ただ東寺を追われたのみではなく、目に入れても痛くないほどかわいがっていた第一の天童・勢多伽が首を切られたゆえに、調伏の結果は、かえって還著於本人となって、自分の災いが重なったことがわかるのである。

これらは、弘法の邪義、真言の邪法からすれば、まだまったくわずかの現証にしかすぎないのである。真言の邪法を用いつづけるならば、その後、かならずや、日本の諸臣万民は一人もなく乾草を積んで火を放ったごとく、大山がくずれて谷をうずめてしまうがごとく、わが日本国が他国に攻められるという未曾有の大事がおこるであろう。

 

語釈

人王八十二代・尊成・隠岐の法皇

11800239)。後鳥羽上皇のこと。高倉天皇の第四皇子。名は尊成。土御門・順徳・仲恭の三帝にわたり院政を敷いた。北条義時追討の院宣を出し、承久の乱を起こしたが失敗、隠岐に流された。配流の直前に出家し、法皇となった。

 

権の太夫殿

11631224)。北条義時のこと。建保5年(1217)右京権大夫になったところからこの呼称となる。

 

東寺

50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。

 

園城

琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三()井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。

 

奈良七大寺

奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。

 

山王

日吉山王のこと。日吉は当時「ひえ」と読んだが、現在では日枝神社との区別のためか「ひよし」と読むのを正式としている。滋賀県大津市坂本にあり、比叡山の本麓にあたる。延暦寺が建てられると、叡山の地主であるゆえに山王と称して崇敬された。

 

加茂

加茂神社のこと。桓武天皇が平安京に遷都の時、これを王城の守護神とした。

 

春日

春日神社のこと。奈良県奈良市春日野町にある。藤原氏の氏神で興福寺の鎮守。

 

調伏の上首・御室

59代の宇多天皇が、入道されて仁和寺を京都西山の地に建立し、御室をかまえて住んでより、御室の言葉が起こった。その後、法王・法親王は代々仁和寺の流れをくみ、たんに御室と呼称するようになった。調伏の上首・御室とは、承久の乱の祈禱を行った後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。

 

御室

59代宇多天皇が、入道して仁和寺を京都西山の地に建立し、御室をかまえて住んでより、御室のことばが起こった。その後、法皇、法親王は代々仁和寺の流れをくみ、御室と呼称するようになった。御書にある御室は、承久の乱の祈祷を行なった、後鳥羽天皇の第2子、道助法親王をさす。

 

勢多伽

佐々木山城守広綱の第6子。道助法親王の侍童である。承久の乱(1221)のとき、叔父信綱の讒訴により斬首された。吾妻鏡の承久3年(1221711日の条に「今日山城守 広綱の息小童(勢多伽)を仁和寺より六波羅に召し出す。これ御室道助の御寵童なり」とあって、後にその斬首のことが記されている。

 

還著於本人

法華経観世音菩薩普門品第二十五の文であり、「還って本人に著きなん」と読む。正法を持った者を呪詛する者は、かえって本人が調伏の祈りを蒙ることになるということ。四明知礼の観音義疏記巻四には「還著本人とは、凡そ呪毒薬乃ち鬼法を用いて人を害せんと欲するに、前人邪念ならば方に其の害を受く。若し能く正念ならば還って本人に著きなん」とある。

 

講義

この章で、真言の責破を結んでいる。

真言、禅宗、念仏という邪教が一国にはびこり、ついには承久の乱が起きて、朝廷は滅亡の悲運をたどったのである。

後鳥羽上皇は承久3年(1221515日に京都に兵を起こした。鎌倉幕府はただちに軍を編成し、一手は東海道を、一手は東山道を、一手は北陸道を京都へ攻め上る。614日、宇治勢多に朝廷軍を破って、京都へ攻め入る。上皇は兵をあげてわずか一か月、合戦をまじえては、わずか一日の戦いに完敗して終わった。その結果は、後鳥羽院は隠岐国へ、順徳院は佐渡国へ、土御門院は阿波国へ流されてしまった。

こうして朝廷軍と幕府軍を比較してみれば、一には君と臣との相違がある。二には朝廷はあらゆる調伏を行ない、三には神社に祈願をさせた。臣下でもあり、神社や仏に祈願や調伏をしない幕府軍が、かんたんに勝つとは考えられないのが常識である。しかるに、わずか一日の戦いで、朝廷方が完敗したのは、すべてこれ邪宗真言に祈ったゆえである。

そのために調伏の上首たる御室は、東寺から追放され、天童として愛されていた勢多伽は首を切られてしまった。公卿をはじめ、この祈りに加わった者は数千人が死んでしまう。これ還著於本人の現証である。

しかも日蓮大聖人は「これはわづかの事なり」とおおせられて、早く邪教を禁じなければ、日本国の諸臣万民、一人もなく他国に攻め滅ぼされるであろうと予言なされている。

「これはわづかの事なり此の後定んで日本国の諸臣万民一人もなく乾草を積みて火を放つがごとく大山のくづれて谷をうむるがごとく我が国・他国にせめらるる事出来すべし」

これはじつにきびしいおことばではないか。しかも、それが七百年後に完全に事実となって現われた以上、御本仏の御慈悲と御予言の前に厳然と襟を正して、正法弘通につとむべきである。そして、このおことばは、邪宗邪義が撲滅されないかぎり、いかなる時代にも通用する御金言と拝すべきである。

この報恩抄を著わされたのは建治2年(1276)であるから、すでに第一回の蒙古襲来がすんでいた。そして第二回は弘安四年である。しかしこの元寇は、御本仏、日蓮大聖人が厳然として日本に御存生であったがゆえに、不思議にも大嵐がおこって、日本国は事なきをえたのである。日蓮大聖人の御金言にいわく「日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」と。

そして、それから七百年、謗法を重ね、あまつさえ正法を護持する創価学会に強力な弾圧迫害を加えたわが国は、ついに原爆のもとに亡国の悲惨を味わったのである。広島・長崎の惨状、また東京をはじめとするあらゆる大都市の姿を想起せよ。一発の原子爆弾により、一瞬にして数十万人の人が焼けただれて死んだ。あるいは爆撃を受けてすべての大都市が壊滅してしまったのである。まさに、乾草を積んで火を放ったがごとくではなかったか。また大山のくずれて谷をうむるがごときではなかったか。

まして、今後といえども、原水爆の破壊力のすさまじさを思えば、御金言たる広宣流布に励む創価学会に迫害弾圧をくわだて、広宣流布を遅延させるような事態が生じたならば、同じ方程式によって、いかなる惨事が発生するか予測を許さないものがある。

願わくは、仏天の加護と御仏意によって、広宣流布の達成の一日でも早からんことを祈って、力強く前進しようではないか。

 

 

第三十章(日蓮大聖人の知恩報恩)

 本文

此の事・日本国の中に但日蓮一人計りしれり、いゐいだすならば殷の紂王の比干が胸を・さきしがごとく夏の桀王の竜蓬が頚を切りしがごとく檀弥羅王の師子尊者が頚を刎ねしがごとく竺の道生が流されしがごとく法道三蔵のかなやきをやかれしがごとく・ならんずらんとは・かねて知りしかども法華経には「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」ととかれ涅槃経には「寧身命を喪うとも教を匿さざれ」といさめ給えり、今度命をおしむならば・いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母・師匠をも・すくひ奉るべきと・ひとへに・をもひ切りて申し始めしかば案にたがはず或は所をおひ或はのり或はうたれ或は疵を・かうふるほどに去ぬる弘長元年辛酉五月十二日に御勘気を・かうふりて伊豆の国伊東にながされぬ、又同じき弘長三年癸亥二月二十二日にゆりぬ。

  其の後弥菩提心強盛にして申せば・いよいよ大難かさなる事・大風に大波の起るがごとし、昔の不軽菩薩の杖木のせめも我身に・つみしられたり覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も此れには及ばじとをぼゆ、日本六十六箇国・嶋二の中に一日・片時も何れの所に・すむべきやうもなし、古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事・羅云のごとくなる持戒の聖人も富楼那のごとくなる智者も日蓮に値いぬれば悪口をはく・正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者等も日蓮を見ては理をまげて非とをこなう、いわうや世間の常の人人は犬のさるをみたるがごとく猟師が鹿を・こめたるににたり、日本国の中に一人として故こそ・あるらめと・いう人なし道理なり、人ごとに念仏を申す人に向うごとに念仏は無間に堕つるというゆへに、人ごとに真言を尊む真言は国をほろぼす悪法という、国主は禅宗を尊む日蓮は天魔の所為というゆへに我と招ける・わざわひなれば人の・のるをも・とがめず・とがむとても一人ならず、打つをも・いたまず本より存ぜしがゆへに・かう・いよいよ身も・をしまず力にまかせて・せめしかば禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき或はきり人につき或はきり女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし 但須臾に頚をめせ弟子等をば又頚を切り或は遠国につかはし或は篭に入れよと尼ごぜんたち・いからせ給いしかば・そのまま行われけり。

  去ぬる文永八年辛未九月十二日の夜は相模の国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん其の夜は・のびて依智というところへつきぬ、又十三日の夜はゆりたりと・どどめきしが又いかにやありけん・さどの国までゆく、今日切るあす切るといひしほどに四箇年というに結句は去ぬる文永十一年太歳甲戌二月十四日に・ゆりて同じき三月二十六日に鎌倉へ入り同じき四月八日平の左衛門の尉に見参してやうやうの事申したりし中に今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ、同じき五月の十二日にかまくらをいでて此の山に入れり、これは・ひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほうぜんがために身をやぶり命をすつれども破れざれば・さでこそ候へ、又賢人の習い三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり、 

 

 現代語訳

このことは、日本の中に、ただ日蓮一人のみが知っているのである。もしこのことを世間にいうならば、殷の紂王が、諫言した比干の胸を割いたように、夏の桀王が同じく竜蓬の頚を切ったように、また檀弥羅王が師子尊者の頚をはねたように、また竺の道生が蘇山に流されたように、法道三蔵が顔に焼き印を押されたように、大迫害をうけるであろことは、かねてから知っていたが、しかし、法華経には「我れ身命を愛せず、但無上の道を惜しむ」と説かれ、涅槃経には「むしろ身命を喪うとも、正法を匿していてはいけない。いいきらなければならない」といましめられている。

このたび正法流布のために命を惜しんで仏勅を実践しなかったならば、いつの世に仏になることができようか。また、いつの世にわれ成仏して父母、師匠を救うことができようか。このように考えて、ひとえに思い切って正法をもって国家諌暁したゆえに、思ったとおり、あるいは所を追われ、あるいは悪口をいわれ、あるいは討たれ、あるいは我が身に傷を蒙るというような迫害をうけつづけたのである。そして、ついにさる弘長元年辛酉五月十二日に御勘気を受けて、伊豆の国、伊東に流罪された。しかし、それは同じく弘長三年癸亥二月二十二日に許されたのである。

その後、いよいよ菩提心を強盛にして正法をひろめたがゆえに、いよいよ大難が重なってきたことは、あたかも大風によって大波が起こったような姿であった。

過去の不軽菩薩は杖木によって人々から打たれ責められたが、その苦しみも、わが身にして知ることができた。同じく過去の覚徳比丘が、歓喜増益如来の末法に大難を受けたけれども、日蓮がいまの大難にくらべれば、彼らは、遠くおよばないと思われる。日本六十六か国および島二つのなかで、一日たりとも、片時たりとも、どこにも安住するところがない。

いにしえは、二百五十戒をたもって忍辱の行を積み、羅睺羅のようであった持戒の聖者も、また富楼那のようであった智者も、日蓮に会って折伏を受けると、みな悪口をはくようになるのである。正直で魏徴・忠仁公のようである賢者も、日蓮を見ると、道理を曲げて非道なことをおこなうようになるのである。

いわんや、世間の常の人々は、あたかも犬が猿を見るように、猟師が鹿を追うのにも似て、日蓮を敵視したのである。日本国のなかに、だれひとりとして、日蓮の弘教に対して「何か深い道理があるのであろうか」と、まじめに話を聞く人はいない。しかし、それはむしろとうぜんなことであろうか。

なぜならば、念仏を信ずる人々に会うごとに「念仏は無間地獄に堕ちる」と折伏するからであり、また、真言を尊く思って信じている人に会うごとに「真言は国をほろぼす悪法である」と折伏するからである。さらにまた、国主たる北条時宗は禅宗を尊く思って信じているが、これに対しても「禅宗は天魔の所為である」と折伏するゆえに迫害を受けるのである。

かくのごとく、みずから招いた法難であるから、世間の人が悪口するのもとがめず、じっと耐え忍んできたのである。もっとも、とがめるといっても、相手は一人二人ならず大勢であるから、できようはずもない。また他人から打たれても、もとより覚悟していたがゆえに、痛いとも思わない。

このように、いよいよ身命を惜しまず、力を尽くして破折を加えたので、禅宗の僧は数百人、念仏者は数千人、真言宗のもの百千人、このような人々が、あるいは奉行にとりいり、あるいは幕府と縁故のある権勢家にこびて結び、あるいは、そうした権勢家の婦人たちに近づき、あるいは身分ある後家尼御前等などについて、はかりしれないほどの讒言をしてきた。

最後は「天下第一の大事である。それは日蓮が日本国をほろぼそうと呪咀する坊主であり、故最明寺殿(北条時頼)も極楽寺殿(北条重時)も無間地獄に堕ちたといっている。なにも取り調べるまでもない、即刻首を切るべきである。弟子たちも首を切り、あるいは遠島流罪、あるいは牢に入れよ」と、高位の尼御前たちが怒ってののしったので、そのとおり迫害が行なわれたのである。

さる文永八年辛未九月十二日の夜は、相模の国竜の口で首を切られることになったが、いかがしたのであろうか、その夜は首切らずに命のびて、相模の国の依智というところに到着した。あくる十三日の夜は「罪は許された」と、人々が騒ぎどよめいたが、また、どうしたことであろうか、今度は佐渡の国へ流罪になったのである。

きょうこそ切る、あすこそ切るといいながら、四か年の月日が過ぎて、結局、文永十一年太歳甲戌二月十四日許されたのである。文永十一年三月二十六日に鎌倉に帰り、四月八日、平の左衛門尉に面談して、さまざま話したなかに「ことしは必ず蒙古軍が攻めてくるであろう」と申したのである。

そうして、同五月十二日に鎌倉を出て、この身延の山にはいった。これは、ただひとすじに、父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国の恩を報ぜんがために身も命もなげうったのである。しかし、なお今日まで首を切られることもなく命を害されることもなく、今日にいたったのである。

また、賢人の習いとして、三たび国をいさめて用いられなかったならば山林にまじわれと、これは昔からの定まった例である。この古賢の法によせて身延に入山したのである。

 

語釈

殷の紂王の比干胸を・さき

殷王朝第30代の帝・紂王が妲己を溺愛し、政事を顧みようとせず国がほろびようとしたとき、忠臣の比干がこれを強く諫めた。すると、妲己は王に向かって「上聖は心に九孔あり、孔に九毛あり、中聖は七孔七毛、下聖は五孔五毛ある。比干は中聖である。心を割いてみたまえ」といったので、紂王は比干の胸を裂いたという。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれて滅亡した。

 

夏の桀王の竜蓬が頚を切り

夏王朝最後の王・桀王は大変な暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。臣下の関竜逢は、王を諌めたが用いられず、返って首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められて滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。彼ら比干、竜逢等は、共に「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と、命とひきかえに主君の非を諌め、諌臣の任を全うした。

 

檀弥羅王の師子尊者が頚を刎ね

付法蔵第24番目、最後の伝灯者である師子尊者は、釈尊滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について学び法を受け、罽賓国で弘法につとめた。この国の外道がこれを嫉み、仏弟子に化して王宮に潜入し、禍をなして逃げ去った。檀弥羅王は怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌き出し、王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日の後に命が終わったという。

 

竺の道生が流され

道生は、中国東晋の時代から南北朝の宋の時代の高僧。竺法汰につき出家。のちに長安に上り、鳩摩羅什の門に入り、羅什門下四傑の一人となる。般泥洹経を学び、闡提成仏の義を立て、当時の仏教界に波紋を投じた。これにより衆僧の大いに怨嫉するところとなり、洪州廬山に流された。その時道生は「わが所説、もし経義に反せば現身において癘疾を表わさん、もし実相と違背せずんば、願わくは寿終の時、獅子の座に上らん」と誓ったという。のちに、曇無讖訳の「涅槃経」が伝わり、道生の義が正説であると証明され、誓いの通り元嘉11年(0434)廬山で法座に上り、説法が終ると共に眠るがごとく入滅したといわれる。

 

法道三蔵のかなやきをやかれ

宋の徽宗皇帝時代の高僧。宣和元年(1119)、仏教を弾圧し道教を庇護しようとする徽宗が詔を下して仏僧の称号を改めようとしたとき、法道は上書してこれを諌めた。これを帝は怒って法道の面に火印を押し、江南の道州に放逐した。法道はその後、同7年(1125)に許されて帰った。彼ら師子尊者、竺の道生、法道三蔵等は、共に法華経の行者として、死身弘法、不自惜身命の仏道修行の例として挙げられたのである。

 

不軽菩薩の杖木のせめ

不軽菩薩は、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆から悪口罵詈・杖木瓦石の迫害を受けながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱え、一切衆生を礼拝した。あらゆる人を常に軽んじなかったので、常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。常不軽菩薩は命終に臨み、広く法華経を説いた。この時、かつて菩薩を軽賤・迫害した者は、みな信伏随従した。しかし、消滅しきれなかった謗法の余残によって、千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、再び不軽の教化にあって仏道に住することができたという。

 

覚徳比丘が歓喜仏の末の大難

涅槃経の金剛身品に説かれている。歓喜増益如来の末法に、正法を護持する覚徳比丘が破戒の悪僧に攻められたところを有徳王が守った。王はこの戦闘で全身に傷を受けて死んだ。しかし、護法の功徳によって阿閦仏の第一の弟子となり、のちに釈尊として生まれたという。

 

日本六十六箇国・嶋二

日本全国のこと。北海道を除く日本全国を66か国に分割したことにより、66州ともいう。壱岐と対馬は66か国の中には含まれず、2島と称した。

 

二百五十戒

「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。

 

羅云

羅睺羅の別称。釈迦十大弟子の一人。密行第一といわれた。釈尊が出家するまえに、耶輸多羅女との間に生まれた子。釈尊の出家を恐れて、魔が六年間も生まれさせなかったといわれている。20歳で仏弟子となり、舎利弗について修行し、ついに密行第一とまでいわれるまでになり、法華経で蹈七宝華如来の記別を受けた。

 

富楼那

富楼那弥多羅尼子の略称。釈迦十大弟子の一人。説法第一といわれた。聡明で弁論に長じ、その弁舌の巧みさをもって、証果より涅槃に至るま99,000人を度したといわれる。後世、弁舌の勝れていることを称して富楼那の弁という。法華経で法明如来の記別を受けた。

 

魏徴

05800643)。唐の第二代皇帝・太宗に重用された文臣。もと太宗の長兄・李建成に仕えたが、次弟の李世民(太宗)が李建成を殺して即位した。しかし太宗は、かつての政敵であった魏徴を評価し、登用した。これに感激した魏徴が「人生意気感、功名誰復論」との詩を詠んだ。諫議大夫として節を曲げぬ直言をもって仕え、侍中(宰相)にまで昇進し、後世に理想の政治と評価された〝貞観の治〟を支えた。没したときは太宗に「魏徴の沒、朕亡くせし一鏡矣と嘆かしめた。

 

忠仁公

08040872)。藤原良房。左大臣・藤原冬嗣の第二子。白河殿と称され、諡号は忠仁公。人臣初の太政大臣、また摂政となり、藤原北家の権力基盤をつくりあげ、子孫は相次ぎ摂政関白となった。「貞観格式」「続日本後紀」」の編纂にも当たった。

 

故最明寺殿

12271263)。北条時頼のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府第五代執権。時氏の子、母は安達景盛の娘(松下禅尼)。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。日蓮大聖人は、文応元年(1260716日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261512日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同3年に赦されたが、聖人御難事に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」(1190:09)とあるように、時頼の意図であったことがわかる。

 

極楽寺殿

11981216)。北条重時のこと。鎌倉幕府第二代執権・北条義時の三男。執権泰時の弟。宝治元年(1247)、執権北条時頼の連署となった。その後入道し、観覚と号した。極楽寺の別業となり、極楽寺殿と称された。日蓮大聖人が重時を破折したのに対し、重時は、自分が生来の念仏の信者であること、また、安房における東条の領家の問題とからんで、大聖人をひじょうに憎み、文応元年(1260)に起こった松葉が谷の草庵焼き討ち事件を黙認した。その翌年五月、重時の子の長時が中心になって、日蓮大聖人を伊豆、伊東へ流罪した。その翌月、にわかに病気になり、11月に死んだ。

 

三宝の恩

「三宝」とは、仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。心地観経では、この三宝に対する恩を報じることを四恩の一つとしている。

 

三度国をいさむるに用いずば……

孔子の孝経・諌争章に「三諌不納奉身以退」とある。

 

講義

この章では日蓮大聖人が、御一生を通じ生命をなげうって、父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国恩を報ぜられたことを明かしている。

本抄に明かしている報恩とは、父母、師匠、三宝、国主との四徳をあげられているけれども、別しては師の恩にあるのである。

また、いかにして恩を報ずるかは、一般的にいえば、一代聖教、八宗の章疏を修学しなければならないことになるが、当流においては三大秘法の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え、死身弘法に励むことのみが、唯一の知恩、報恩である。

日蓮大聖人の、伊東流罪、竜口法難、佐渡流罪、身延へ入山、とたどられた御一生は、じつに末法の御本仏として、永遠の未来の一切衆生を救われんがための、大慈大悲の御一生であらせられたのである。

わが創価学会の今日あるも、すべて初代会長、二代会長の死身弘法の賜物である。われらは、いかにしてこの師の重恩をば報ずることができようか。ただひたすら、寸刻を惜しみて信行に励み、不自惜身命の決意もあらたに、広宣流布の大道を邁進するのみである。しかし、また、ここに時代の相違を見ることができる。

日蓮大聖人の御一代にわたる大難をはじめとして、当流の歴史は迫害と法難の歴史でもあった。江戸時代においても、入牢、追放、遠流等が跡を断たなかったのである。

しかるに創価学会の初代牧口会長の牢死、二代戸田会長の会長就任よりは、ようやく広宣流布の時のきたれるか。日本国内はいうまでもなく、遠く世界の各国にまで、折伏の手が伸びつつある。弾圧や迫害に耐え忍んできた前代に比し、いまは個人も家庭も社会も、御本尊の大功徳に浴しながら、ますます信行に励む時代となったのである。

法難と戦いぬかれた諸先師を思うにつけても、創価学会員こそ、最も知恩報恩の誠を、一刻も忘れてはならないと痛感するのである。

 

此の事・日本国の中に但日蓮一人計りしれり

                                          

開目抄では「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」(0200:08)とおおせである。「此の事」とは、邪宗邪義こそ、民衆の不幸の根本原因であるということである。この恐るべき事実を知られた方は、日本国の中に、いな全世界の中で、日蓮大聖人ただお一人であるとの大宣言は、まことに強き御確信ではないか。

恩師戸田先生は開目抄の講義録の中で「ゆえに名誉も栄達をも考えることなく、身を凡愚に具して身命を捨てて大衆の救済に立たれたのである。末法において、ただ一人、民衆救済の大原理をお知りあそばされたからこそ、このお方こそ聖人であり、仏であらせられるのである。この一言の中に日蓮大聖人の勇猛心と精神力がうかがわれるではないか」と申されている。

われわれは、しあわせにも、このことを知った。ゆえに日蓮大聖人の弟子として、師匠と同じく、広宣流布の先駆をともに切っていこうではないか。

「古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事・羅云のごとくなる持戒の聖人も富楼那のごとくなる智者も日蓮に値いぬれば悪口をはく・正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者等も日蓮を見ては理をまげて非とをこなう」(0322:06

これは極楽寺の忍性良観等のことをいっているのである。良観は当時の鎌倉時代にあって、幕府の高官や信者の夫人たちの保護をうけて、慈善事業等を行なって宗教の無力をカバーしながら、民衆に生き仏のごとく思わせることに成功した。しかし日蓮大聖人の大破折にあい、大聖人の元品の法性によって、良観の元品の無明が猛然と燃え上がって、ひどく大聖人を怨み悪口し、卑きょうな手段で裏面から大聖人を迫害したのである。これ僣聖増上慢の代表的人物である。

このように、現代にあっても、ふだんはりっぱそうに思われる人が、ひとたび学会を怨嫉するや、あたかも忍性良観のごとく、感情的に学会の悪口誹謗をたくましうする姿は、正しく鎌倉時代も現代も原理は同じだという感がする。

「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」また「大聖にほむらるるは一生の名誉なり」と。われわれは、ほめられようと、けなされようと、ただ世界の平和、人類の幸福を願って、ひたすら広宣流布の大道を前進しゆくのみである。

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