兵衛志殿御返事(三障四魔の事)

兵衛志殿御返事(三障四魔の事)

 建治3年(ʼ77)11月20日 56歳 池上宗長

背景と大意

この手紙は、池上兄弟の弟である兵衛志殿・宗長(ひょうえのさかん・宗長)に宛てられたものである。もとは建治元年(1275年)に書かれたと考えられていたが、現在では1277年の執筆であることが明らかになっている。宗長は、兄の宗仲のすぐ後、1256年ごろに大聖人の教えに帰依したと考えられている。兄弟はともに鎌倉幕府の役人であり、父の康光は幕府の普請修理職(建設・修繕の役所)の長官であった。

康光は、真言律宗の僧・良観を熱心に信奉しており、彼は政治活動にも盛んに関与していた。康光は息子たちの信仰に強く反対し、1275年と1277年の二度にわたって宗仲を勘当した。宗仲を勘当することで、康光は事実上、二人の息子の間に亀裂を生じさせ、より気の弱い宗長が信仰を捨てて父の財産の相続権を得るよう誘惑したのである。

しかしながら、大聖人の御指導と励ましに支えられて、宗長は兄とともに信仰を堅持した。そして1278年、実に22年に及ぶ信仰実践を経て、兄弟の団結した努力によって、ついに父康光を大聖人の教えに帰依させることができたのである。

 

第一章(末法の相を示す)

本文

かたがたのもの、ふ二人をもっておくりたびて候。その心ざし、弁殿の御ふみに申すげに候。
 さては、なによりも御ために第一の大事を申し候なり。正法・像法の時は、世もいまだおとろえず、聖人・賢人もつづき生まれ候いき。天も人をまぼり給いき。末法になり候えば、人のとんよく、ようやくすぎ候いて、主と臣と、親と子と、兄と弟と、諍論ひまなし。まして他人は申すに及ばず。これによりて天もその国をすつれば、三災七難、乃至一・二・三・四・五・六・七の日いでて、草木かれうせ、小大河もつき、大地はすみのごとくおこり、大海はあぶらのごとくになり、けっくは無間地獄より炎いでて、上梵天まで火炎充満すべし。これていのこといでんとて、ようやく世間はおとろえ候なり。
 皆人のおもいて候は、父には子したがい、臣は君にかない、弟子は師にいすべからずと云々。かしこき人もいやしき者もしれることなり。しかれども、貪欲・瞋恚・愚癡と申すさけにえいて、主に敵し、親をかろしめ、師をあなずる、つねにみえて候。ただし師と主と親とに随ってあしきこと諫めば孝養となることは、さきの御ふみにかきつけて候いしかば、つねに御らんあるべし。

現代語訳

いろいろな品物を、使いの人二人をもって、送って下さいました。その心ざしについては、弁殿のお手紙に述べられていたようです。

さて、なにはさておいても、あなたのために第一に大事なことを申します。

正法、像法の時は、世の中もいまだ衰えることなく聖人、賢人も続いて誕生しました。諸天も人を守りました。末法になりますと、人の貪欲が次第に深くなって、主君と臣下と、親と子と、兄と弟と諍論のやむときがありません。まして、他人同士はいうまでもありません。

これによって、諸天も、その国を捨て去ったので、三災七難乃至一二三四五六七の日が出て、草木は枯れてしまい、河川は大小を問わず水が涸れ、大地は炭のように燃え、大海は煮えたぎった油のようになり、結局は、無間地獄から炎が出て上梵天まで火炎が充満するのです。このようなことが起こって、次第に世間は衰えていくのです。皆人の思っていることは「子は父に従い、臣下は主君の意にかない、弟子は師匠に違背すべきではない」と、このことは、賢い人も、卑しい人も知っていることです。しかしながら、貪欲、瞋恚、愚癡という三毒の酒に酔って、臣下でありながら主君に敵対し、子として親を軽んじ、弟子が師匠をみくびることも少しも珍しいことではなくなっている。

ただし、師と主と親とに随っては悪いときに、これを諌めるならば、かえって孝養となることは前の手紙に書いておきましたので、つねに読みなさい。

語釈

弁殿

六老僧の一人、弁阿闍梨日昭のこと。池上兄弟の叔父に当たる。

三災七難

三災に「大の三災」と「小の三災」がある。「大の三災」は火災、水災、風災で、「小の三災」は穀貴(五穀の値段が高い、すなわち物価騰貴)、兵革(戦争)、疫病(伝染病等がはやること。また、精神分裂、思想の混乱なども疫病の一つといえよう)。七難は経文により多少の差異はあるが、いま薬師経の七難をあげれば、人衆疾疫の難(伝染病等がはやり、多くの人が死ぬ難)、他国侵逼の難(他国から侵略される難)、自界叛逆の難(仲間同士の争い、同士打ちをいう)、星宿変怪の難(天体の運行に異変があったり、彗星があらわれたりする)、日月薄蝕の難(日蝕月蝕をいう)、非時風雨の難(季節はずれの暴風や強雨)、過時不雨の難(雨期にはいっても雨が降らない天候の異変)をいう。この三災七難の起こる原因は、国に邪法が横行し、正法の行者を弾圧することにあるのである。

講義

末法になり候へば人のとんよくやうやくすぎ候て主と臣と親と子と兄と弟と諍論ひまなし、まして他人は申すに及ばず

「正法・像法の時は世もいまだをとろへず聖人・賢人も・つづき生れ候き天も人をまほり給いき」に相対して末法の時代相を述べられたところである。

聖人・賢人とは、今日でいえば、立派な指導者のことである。社会の実相というものは、必ず指導者に端的にあらわれる。勝れた指導者が続出していくことは、社会自体の福運であり、社会自体が、はつらつたる息吹きにみなぎっているからにほかならない。さらに興隆しゆく時代の機運、衰微しゆく時代の風潮――これもまた指導者のなかに集約されるといっても過言ではない。

「天もひとをまほり」とは、社会の機運自体が正しい人を守り、賢明な指導者を育くんでいく姿勢にあることともいえる。いわば、指導者は、民衆の姿を映し出す鏡のごときものではなかろうか。

だが、末法の時代に入り、人々は、私利私欲にふけり、頭は鋭く研かれても、その鋭利な頭脳は、私利私欲の生命に駆使されて、ますます濁乱の社会を生み出していくのである。正しい指導者は絶え、腐敗と混濁に満ちた社会を反映した指導者が、横行するにいたる。

正像時代は、たしかに人々の心は単純であり、あるいは無智とさえいえたかもしれない。しかし、そこには、大らかで、人間性にあふれた、家族的な姿があった。末法においては、無智というより邪智であり、人間関係は、親子兄弟の間柄さえ、火花を散らす反目と葛藤の醜い実相をさらけ出している。社会は、本来、それを構成する人々に幸福と繁栄をもたらす共通の場であるはずであった。しかるに、それは、いまや利欲と利欲の激突の場であり、醜悪な修羅場と化してしまった。

もはや、このような時代にあっては、旧来の秩序や、体制を支えてきた過去の哲学、思想ではどうすることもできない。その根源は、深く人間生命に発しているからである。ここに日蓮大聖人は、社会の根底にある「人間」自身に、解決の出発点を置かれたのである。

 

 

第二章(兵衛志の信心を誡め励ます)

本文

ただこのたびゑもんの志どのかさねて親のかんだうあり・とのの御前にこれにて申せしがごとく一定かんだうあるべし・ひやうへの志殿をぼつかなしごぜんかまへて御心へあるべしと申して候しなり今度はとのは一定をち給いぬとをぼうるなりをち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず但地獄にて日蓮をうらみ給う事なかれしり候まじきなり千年のかるかやも一時にはひとなる百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり、さえもんの大夫殿は今度・法華経のかたきに・なりさだまり給うとみへて候、えもんのたいうの志殿は今度法華経の行者になり候はんずらん、とのは現前の計なれば親につき給はんずらむ、ものぐるわしき人人はこれをほめ候べし、宗盛が親父入道の悪事に随いてしのわらにて頸を切られし重盛が随わずして先に死せしいづれか親の孝人なる、法華経のかたきになる親に随いて一乗の行者なる兄をすてば親の孝養となりなんや、せんずるところひとすぢにをもひ切つて兄と同じく仏道をなり給へ、親父は妙荘厳王のごとし兄弟は浄蔵浄眼なるべし、昔と今はかわるとも法華経のことわりは・たがうべからず・当時も武蔵の入道そこばくの所領所従等をすてて遁世あり、ましてわどのばらがわづかの事をへつらひて心うすくて悪道に堕ちて日蓮をうらみさせ給うな、かへすがへす今度とのは堕べしとをぼうるなり。
  此の程心ざしありつるがひきかへて悪道に堕ち給はん事がふびんなれば申すなり、百に一つ千に一つも日蓮が義につかんと・をぼさば親に向つていい切り給へ親なれば・いかにも順いまいらせ候べきが法華経の御かたきになり給へば・つきまいらせては不孝の身となりぬべく候へば・すてまいらせて兄につき候なり、兄をすてられ候わば兄と一同とをぼすべしと申し切り給へ、すこしも・をそるる心なかれ・過去遠遠劫より法華経を信ぜしかども仏にならぬ事これなり、しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり、此の事はわざとも申し又びんぎにと・をもひつるに御使ありがたし、堕ち給うならば・よもこの御使は・あらじと・をもひ候へば・もしやと申すなり。

 

現代語訳

ただこのたび、右衛門志殿が再度の勘当をされたそうで、そのことに関してはあなたの奥さんにここ身延で言っておいたとおりです。すなわち、その時に「右衛門志殿は、また必ず勘当されるでしょう。そのとき兵衛志殿が気がかりです。そのときに、あなたがしっかりしなくてはいけません」と言っておいたのです。今度はあなたは必ず退転されると思うのです。退転するのを、どうこういうつもりは毛頭ありませんが、ただ、地獄に堕ちてから日蓮を怨んではなりません。その時は知りませんよ。千年間もたった苅茅も一時に灰となってしまい、百年の功も一言でやぶれるというのは、物事の道理です。

父の左衛門大夫殿は今度、法華経の敵に定まったように思われます。兄の右衛門大夫志殿は、今度、法華経の行者になるでしょう。あなたは目先のことばかりを思って親に従ってしまうでしょう。そして、物の道理のわからぬ人々は、これをほめるでしょう。平宗盛が父親の清盛入道の悪事に随って、篠原で頸を斬られ、長兄の重盛は随わないで先に死んでいます。このどちらが、本当の親孝行の人でしょうか。法華経の敵である親につき従って、法華経の行者である兄を捨てるならば、はたして親に対しても孝養になるでありましょうか。

つまるところは、一筋に思いきって兄と同じように仏道を成じなさい。父親は妙荘厳王のごとくであり、兄弟は浄蔵・浄眼という立場になるのです。昔と今と時は変わるとも、法華経の道理は違うことはありません。

先ごろも、武蔵入道が多くの所領・所従を捨てて遁世したということがありました。まして、あなたがたわずかの所領や利益のためにへつらって信心弱く、悪道に堕ちてから、日蓮を怨んではなりません。繰り返し申しますが、今度は、兵衛志殿は退転すると思います。

これまで、長い間信心してきたのにひきかえて、今、悪道に堕ちるのはかわいそうだからいうのです。百に一つ、千に一つでも日蓮の教えを信じようと思うならば、親に向かって言いきりなさい。「親であるから、いかにもその言葉に従うのは当然ですが、親が法華経の敵になってしまいましたもので、つき従ってはかえって不孝の身となってしまうので、私は親を捨てて兄につきます。兄を勘当されるのならば、私も兄と同じだと思って下さい」と言いきりなさい。少しも恐れる心があってはならない。過去遠遠劫より法華経を信じたけれど、仏になれなかったのは、これによるのです。潮が干るときと満つるときと、月の出るときと入るとき、また、夏・秋・冬・春の四季が変わるときには、必ず普段と異なることがあります。凡夫が仏になるときもまた同じことです。すなわち、仏になるときは、必ず三障四魔という障害がでて来るので、賢者は喜び、愚者はひるんで退くのです。このことは、こちらから使いを立ててでもいってあげたいと思い、またついでがあればと思っていたところにお使いを下さりありがたく思います。あなたが退転してしまうものならば、よもやこのお使いがあるわけはないと思いますので、もしかしたらあなたも信心を全うできるかもしれないと思っているのです。

 

語釈

かさねて親のかんだう(勘当)

文永12年(1275)、極楽寺良観の熱心な信奉者であった父康光に兄宗仲が勘当を受け、のち許された。しかし、ふたたび、信仰上の衝突でかさねて勘当されたことをいう。

 

かるかや(苅茅)

イネ科の多年草。葉は細長く白い筋がある。秋に褐色の花穂を出す。屋根を葺くために好適な材料となる。

 

宗盛・重盛

いずれも平清盛の子で、重盛は長子、宗盛は第二子。安元3年(1177)、後白河法皇が中心になって、鹿ケ谷の陰謀など平氏打倒の動きが現われた。そのとき、清盛は後白河法皇を幽閉しようとしたが、重盛に諌められて思いとどまった。しかし、治承3年(1179)、重盛が死ぬと、清盛は法皇を幽閉し、完全な独裁権を獲得したが、その事がかえって法皇の皇子・以仁王の挙兵に始まる大内乱の因となっていった。宗盛は清盛の跡を継いだが、寿永4年(1185)、壇ノ浦で敗戦、捕虜となって、のちに源義経によって近江の篠原(滋賀県野洲市篠原町)で斬殺され、首は獄門にさらされた。

 

妙荘厳王・浄蔵浄眼

妙荘厳王は法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれる王で夫人を浄徳、二人の子供を浄蔵・浄眼といった。浄蔵・浄眼の二子は仏の教えを信じ、無量の功徳を得て、母の浄徳夫人と共に出家し、仏のもとで修行した。王は初め外道を信じており、これに反対したが、のち二人の子供の導きで雲雷音宿王華智仏の化導を受けて正法にはいり、国を弟に譲って出家し、法華経を信じて娑羅樹王仏と記別された。法華経の会座にいる華徳菩薩が妙荘厳王であり、薬王・薬上菩薩が浄蔵・浄眼である。さらに、その因縁をたずねるならば、過去世に仏道修行を志す四人の仲間がいた。四人とも修行に出かけてしまうと食事の用意をする人もいなくなってしまうので、四人のなかの一人が食糧を集め、薪をとり、水をくんで給仕を務め、三人はもっぱら仏道修行に励んで、ついに成仏することができた。給仕した者が、その功徳によって国王と生まれ、他の三人はそれぞれ、王の夫人と二人の王子に生まれて、王を正法に化導して、ついに仏道を成就させることができたのである。

 

三障・四魔

仏道修行を妨げ善心を害する三種の障りと四種の魔のこと。三障は①煩悩障(貪瞋癡等の惑によって起こる障)。②業障(五逆・十悪等によって起こる。また妻子等によって起こる障)。③報障(三悪道・謗法・一闡提の果報が仏道の障礙となること。また国王や父母、権力者からの障礙)である。四魔は①煩悩魔(貪瞋癡等の惑によって起こる魔)。②陰魔(衆生は五陰の仮和合したものであるからつねに苦悩の中にあるゆえに五陰を魔とする)。③死魔(死の苦悩で、死がよく命根を断つので魔という)。④天子魔(他化自在天子魔の略称。他化自在天王がよく人の善事・善行を害すること。権力者による迫害等がこれにあたる)である。

 

武蔵の入道

北条義政(12421282)のこと。初名は時景。文永2年(1265)に引付衆、同4年(1267)に評定衆、同7年(1270)に引付頭人を経て同10年(1273)に執権北条時宗を補佐する連署となる。だが建治3年(1277)には連署職を辞して出家。信濃国(長野県)に赴き、その所領・塩田で没する。40歳。

 

講義

 

千年のかるかやも一時にはひとなる百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり

 

これは、仏道修行の要諦(ようてい)を説かれたものである。千年もたった苅茅でも、いったん火にあえば一時に灰となり、百年かかって立てた功労も、わずか一言で徒労に帰してしまう。なにごとにおいても、一つのことを成就するためには、最後まで全うしなければ、意味がない。家を建てる場合でも、九分通りまでつくっても、壁を塗るとか、畳を入れるとか、最後の仕上げをしなければ人は住めない。

いわんや、仏法は、一生成仏という、人生の根本的建設の戦いである。建設中の途上において、それをやめたならば、それまでの努力は水泡に帰す以外にない。

仏法は勝負であり、その勝負は最後で決まる。それが、仏法の厳しさであり、人生の厳しさでもある。たとえ、百のうち、九十二まで、力を注いでも、あと八を手を抜き、あるいは逃避していくならば、それは仏法の実銭とはいえないのである。そこに着目し、最後の画竜点晴に総力を注ぐとき、必ずや、つねに新しい光輝ある未来を開拓していけることは必定である。

 

昔と今はかわるとも法華経のことわりは・たがうべからず

 

たとえ、時代がいかに異なろうが、生命の奥底を説いた法華経の哲理は、変わることがないとの仰せである。

時代の制約を受けるものも当然ある。いや、あらゆるものが時代の制約をまぬかれないかにみえる。だが、それにもかかわらず、時代を超え、民衆を越えたなにかがある。それが、人間性の究極にある「生命」そのものである。この生命に洞察眼を開いたがゆえに、法華経には不変の力が付与されたのである。

いま、ここで述べられていることは、妙荘厳王、浄蔵・浄眼、浄徳夫人によって繰り広げられた家庭の在り方は、末法今時においても全く同じであるということである。

妙法を持った人が、太陽のごとき存在となり、つねに一家を、幸福の方向へ、建設の方向へと変えていこうとするとき、一家は、新しい鼓動を開始したというべきであろう。経文には浄蔵・浄眼が、父王を救うため、さまざまな神通力を現じたとあるが、この神通力とは、今日、旺盛な生命力で、自己を変え、力強い人生を歩んでいくことをも意味する。実相にまさる力はない。わが家を幸福に導く根本は、ここにあると銘記すべきである。

 

しをのひると・みつと月の出づると・いると……賢者はよろこび愚者は退くこれなり

 

潮の干満の境目、月の出入りの境目、夏と秋と冬と春の季節の変わり目には、必ず違った現象が起こる。それと同じように、凡夫が仏にならんとするその境目には、必ず三障四魔が競い起こってくるとの仰せである。

仏道修行それ自体が、即、魔との戦いである。魔とは人間生命を根本的に破壊し、その活動を狂わしめていく、大宇宙に瀰漫し、また生命それ自体に内在する作用、働きである。かつて人類の歴史において、この魔と対決し魔を摧破するという戦いはなかった。われらの実践は、この魔と対決し、これを打ち破っていく戦いであるがゆえに、最も本源的なものなのである。

「賢者はよろこび愚者は退く」とは、仏法の深い原理を知っている賢明な人は、難にあってくじけず、むしろ喜び勇んで、この魔と戦い、これを打ち破っていく。逆に、これを知らず、目先にとらわれた愚者は、難を逃避してしまうということである。

三障四魔が出来したことは、仏法を修める者にとって、絶好のチャンスを迎えたわけである。難があればあるほど、ますます旺盛な生命力をもって、莞爾として戦っていきたいものである。

同じく、現代は人類全体にとって未曾有の危機の時代である。いよいよ魔の実態が明確になったといえる。この時こそ、人類の運命を転換する、重大な時であることを知らねばならない。

 

 

第三章(法華経に値い難きを示す)

本文

 仏になり候事は此の須弥山にはりをたてて彼の須弥山よりいとをはなちて、そのいとの・すぐにわたりて・はりのあなに入るよりもかたし、いわうや・さかさまに大風のふきむかへたらんは・いよいよかたき事ぞかし、経に云く「億億万劫より不可議に至る時に乃ち是の法華経を聞くことを得億億万劫より不可議に至る諸仏世尊時に是の経を説きたもう・是の故に行者仏滅後に於て是くの如きの経を聞いて疑惑を生ずること勿れ」等云云、此の経文は法華経二十八品の中に・ことにめづらし、序品より法師品にいたるまで等覚已下の人天・四衆・八部・其のかずありしかども仏は但釈迦如来一仏なり重くてかろきへんもあり、宝塔品より嘱累品にいたるまでの十二品は殊に重きが中の重きなり、其の故は釈迦仏の御前に多宝の宝塔涌現せり月の前に日の出でたるがごとし、又十方の諸仏は樹下に御はします十方世界の草木の上に火をともせるがごとし、此の御前にてせんせられたる文なり。
  涅槃経に云く「昔無数無量劫より来た常に苦悩を受く、一一の衆生一劫の中に積む所の身の骨は王舎城の毘富羅山の如く飲む所の乳汁は四海の水の如く身より出す所の血は四海の水より多く父母兄弟妻子眷属の命終に哭泣して出す所の目涙は四大海より多く、地の草木を尽くして四寸の籌と為し以て父母を数うも亦尽くすこと能わじ」云云、此の経文は仏最後に雙林の本に臥てかたり給いし御言なりもつとも心をとどむべし、無量劫より已来生ところの父母は十方世界の大地の草木を四寸に切りてあてかぞうとも・たるべからずと申す経文なり、此等の父母にはあひしかども法華経にはいまだ・あわず、されば父母はまうけやすし法華経はあひがたし、今度あひやすき父母のことばを・そむきて・あひがたき法華経のともにはなれずば我が身・仏になるのみならず・そむきしをやをもみちびきなん、例せば悉達太子は浄飯王の嫡子なり国をもゆづり位にもつけんと・をぼして・すでに御位につけまいらせたりしを御心をやぶりて夜中城をにげ出でさせ給いしかば不孝の者なりと・うらみさせ給いしかども仏にならせ給うては・まづ浄飯王・麻耶夫人をこそ・みちびかせ給いしか。

 

現代語訳

仏になることは、かりに二つの須弥山が二つ並んでそびえているとして、こちらの須弥山に針を立てて、あちらの須弥山より糸を放って、その糸がまっすぐに渡って針の穴に入るよりも難しいのです。いわんや、逆向きに大風が吹いてきたならば、いよいよ難しいことです。

常不軽品には「億億万劫の昔から不可思議劫に至る長い間を経て、この法華経を聞くことができる。億億万劫より不可思議劫に至る長い間を経て、諸仏世尊は是の経を説かれるのである。このゆえに行者は仏滅後に、このように値い難い経を聞いて疑惑を生じてはならない」と。この経文は、法華経二十八品のなかでも、ことに大事な文であります。序品から法師品に至るまでの法華経の会座には、等覚の菩薩已下の人・天・四衆・八部など、その数は多かったが、仏は但釈迦如来一仏であり、重みがあるようでも軽いともいえます。宝塔品から嘱累品に至るまでの十二品は、とくに重い経のなかでも重いのです。そのゆえは、釈迦仏の御前に多宝の宝塔が涌現しました。それは月の前に日の出たようなものです。また、十方の諸仏は樹下におられたが、それは十方世界の草木の上に火をともしたようです。その前で説かれた経文です。

涅槃経には「無数無量劫の昔より以来、衆生はつねに苦悩をうけてきた。一人一人の衆生はそのただ一つの劫の間だけでも、かぞえきれないほど何回も生を受けてきており、その間に積んだところの骨は王舎城の毘富羅山のようになる。また、飲んだところの乳汁は四海の水のようであり、身より出した血は四海の水より多く、父母兄弟妻子眷属の命終に哭泣して流したところの涙は四大海の水よりも多く、大地の草木の全てを四寸の籌として、それによって、父母を数えてもなお数えることはできない」と。この経文は、釈尊が最後に雙林の下で臥して説かれた経であり、最も心をとどめなければなりません。無量劫より以来、自分を産んでくれた父母は十方世界の大地の草木を四寸に切って、一人一人にあてて数えてもたりないという経文です。

このように数多くの父母には値ったけれども、法華経にはいまだ値っていません。それほどに父母には値い易いが法華経には値い難いのです。今度、値い易い父母の言葉に背いて、値い難い法華経の友から離れなかったならば、わが身が仏に成るだけではなく、背いた親をも導くことができましょう。譬えば、悉達太子は浄飯王の嫡子でした。浄飯王は国も譲り王位にも就けようと思い、すでに王位に就けましたが、その心に背いて太子は夜中に城を逃げ出されたので、浄飯王は不孝の者であると恨んでおられた。けれども太子は仏になられると、まずまっ先に浄飯王・麻耶夫人を導かれたのでした。

 

語釈

王舎城の毘富羅山

王舎城は梵語ラージャグリハ(Rājagrha)の訳で、古代インドの摩掲陀国の首都。現在のビハール州南部のパトナ県ラージギルに当たる。毘富羅山はこの王舎城を囲む五山の一つで、王舎城の東北にあたる。雑阿含経第四十九に「王舎城の第一なるを毘富羅山と名づく」とあり、有名な山であった。

 

雙林

拘尸那掲羅国跋提河のほとりの沙羅双樹の林のこと。釈尊は沙羅双樹に四方を囲まれたこの林において80歳の215日に入滅した。その時、沙羅双樹がことごとく白くなり、沙羅林は白一色につつまれ、あたかも白鶴のように美しかったという。このため、沙羅林を鶴林ともいう。

 

講義

 

宝塔品より嘱累品にいたるまでの十二品

 

これは、法華経の虚空会の儀式をさし、二処三会の一つである。法華経ははじめに霊鷲山会、それから虚空会、最後に再び霊鷲山会というように、霊鷲山と虚空の二処で、三回にわたって説法が行なわれた。これが、二処三会である。そのうち、重要な説法が行なわれたのがこの虚空会である。それゆえ「殊に重きが中の重きなり」と説かれているのである。

御義口伝に「惣じて妙法蓮華経を上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り・寿量品の時事顕れ・神力属累の時事竟るなり」(0770:第一妙法蓮華経如来神力の事:03)とある。虚空会の儀式が重要なのは、従地涌出品において、上行菩薩を上首とした地涌の菩薩が大地より涌出し、寿量品が説かれ、神力品において、本化地涌の菩薩に、三大秘法の大法が付嘱され、嘱累品において迹化の菩薩および梵天帝釈に付嘱されるという、重要にして荘厳な儀式が行なわれたからである。

では、一体、法華経の会座に、宝塔が涌現したということはなにを意味するのか。また虚空会の儀式および二処三会の儀式とはなにか。これを大聖人の仏法、生命論から論ずるとき、まことに深遠な哲理を含んでいる。戸田前会長は次のごとく、虚空会の儀式について思索されている。

「迹門の流通分たる見宝塔品において多宝塔が虚空に起ち、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中に並座し、十方分身の諸仏・迹化他方の大菩薩・二乗・人天等がこれにつらなるいわゆる虚空会の儀式が説かれている。これは甚だ非科学的のように思われるが如何。しかし仏法の奥底よりこれを見るならば極めて自然の儀式である。もしこれを疑うなら序品の時に既に大不思議がある。数十万の菩薩や声聞や十界の衆生が悉く集まって釈迦仏の説法を聞くようになっているが、こんなことができるかどうか。拡声機もなければ、またそんな大きな声が出るわけがない。況して八年間もそれが続けられるわけがない。すなわち、これは釈迦己心の衆生であり釈迦己心の十界であるから何十万集まったといって不思議はない。されば、宝塔品の儀式も観心の上に展開された儀式なのである。

われわれの生命には仏界という大不思議の生命が冥伏している。この生命の力および状態は想像もおよばなければ筆舌にも尽くせない。しかし、これをわれわれの生命体の上に具現することはできる。現実にわれわれの生命それ自体も冥伏せる仏界を具現できるのだと説き示したのが、この宝塔品の儀式である。

すなわち、釈迦は宝塔の儀式を以って己心の十界互具一念三千を表わしているのである。日蓮大聖人は、同じく宝塔の儀式を借りて寿量文底下種の法門を一幅の御本尊として建立されたのである。されば御本尊は釈迦仏の宝塔の儀式を借りてこそおれ、大聖人の己心の十界互具一念三千――本仏の御生命である。この御本尊は御本仏の永遠の生命を御図顕遊ばされたので、末法唯一無二の即身成仏の大御本尊であらせられる。末法の民衆は、この御本尊によってのみ救済せられるのである」

さらに、これをすすめて、御義口伝講義によれば、次のように意義づけることができる。すなわち、宝塔品第十一より虚空会の儀式が始まるのであるが、まだ地涌の菩薩の出現もなければ、常住の生命も説かれていない。涌出品第十五を説き進み、寿量品十六にいたって、虚空会の儀式は完璧に整うのである。すなわち寿量品の儀式が、釈尊一代五十年の最高の儀式であり、生命の真実の姿を説き明かしたものである。しかし、寿量品において、釈尊己心の十界三千の生命が厳然と説き明かされたけれども、いまなお文上の範囲内であり、五百塵点劫の色相荘厳の釈尊の心具の十界三千である。日蓮大聖人が御図顕された大御本尊は、寿量文底に説き明かされた、久遠元初自受用身の一念の心法即南無妙法蓮華経が根底となり、したがって左右の十界三千は、一往、寿量品第十六の儀式を借りてはいるが、久遠元初自受用報身如来の一念の心法に具備する十界三千であり、御本仏の生命それ自体である。

要するに、虚空会の儀式は、釈尊が、大宇宙に、また己心に御本尊の姿を描いたものである。しかしながら「南無妙法蓮華経日蓮」という根本がない。それゆえ、それは十界三千の姿を描いたに過ぎない。つまり、その根源である南無妙法蓮華経からあらわれた働き、現象を説明したにすぎないのである。所詮、霊鷲山、虚空の二処三会の儀式は、ことごとく、大御本尊におさまり、一法も余すところがないのである。

釈にいわく「霊山一会儼然未散」と。霊山一会とは、法華経が説かれた霊鷲山の会座であり、二所三会の儀式である。その儀式は、大宇宙の実相であり、その姿は、いまなお厳然として散っていないのであり、全て、末法出現の大御本尊に包含され、永遠に常住するということである。

 

 

第四章(邪法の現証を示し重ねて激励する)

本文

 をやという・をやの世をすてて仏になれと申すをやは一人もなきなり、これは・とによせ・かくによせて・わどのばらを持斎・念仏者等が・つくり・をとさんために・をやを・すすめをとすなり、両火房は百万反の念仏をすすめて人人の内をせきて法華経のたねを・たたんと・はかるときくなり、極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし、念仏者等にたぼらかされて日蓮を怨ませ給いしかば我が身といい其の一門皆ほろびさせ給う・ただいまは・へちごの守殿一人計りなり、両火房を御信用ある人はいみじきと御らむあるか、なごへの一門の善光寺・長楽寺・大仏殿立てさせ給いて其の一門のならせ給う事をみよ、又守殿は日本国の主にてをはするが、一閻浮提のごとくなる・かたきをへさせ給へり。
  わどの兄をすてて・あにがあとを・ゆづられたりとも千万年のさかへ・かたかるべし、しらず又わづかの程にや・いかんが・このよならんずらん、よくよくをもひ切つて一向に後世をたのまるべし、かう申すとも・いたづらのふみなるべしと・をもへば、かくも・ものうけれども・のちのをもひでに・しるし申すなり、恐恐謹言。

       十一月二十日                    日 蓮 花 押

     兵衛志殿御返事

 

現代語訳

親という親で、世の中を捨てて仏になれとすすめる親は一人もないものです。これは、なにかと、ことによせて、持斎・念仏者たちがさまざまに画策してあなたたちを退転させるために、まず親をそそのかして悪道に堕としているのです。両火房は百万べんの念仏称名をすすめ、人々の仲を裂いて、法華経の仏種を断とうと謀っていると聞いております。

極楽寺殿は立派な人でしたが、念仏者等に騙されて日蓮を怨みに思われたので、わが身といい、その一門といい、皆滅びてしまったのです。ただいま残っているのは、越後の守殿一人だけです。両火房を信用している人が栄えているとお思いになりますか。名越の一門が善光寺・長楽寺・大仏殿を立てられて、その後、その一門がどうなったかをみなさい。また、守殿は日本国の主ではあられるが、一閻浮提すなわち全世界を敵にまわしたといってもいいような、大蒙古国という敵にぶつかっています。

あなたが兄を捨てて、兄が勘当になったその跡を譲られたとしても、千万年も栄えることは難しいことです。わずかの間に滅びてしまうかもしれない。どうしてこの世の内に滅びないという保証がありましょうか。よくよく思い切って、ひたすら後世を頼みなさい。

このようにいっても、むだな手紙になると思うと、書くのも気が進まないけれども、のちの思い出に記しておきます。恐恐謹言。

十一月二十日            日 蓮  花 押

兵衛志殿御返事

 

語釈

両火房

律宗の僧、極楽寺良観(12171303)のこと。文永12年(1275323日、極楽寺から出火して、鎌倉の将軍家の御所に飛び火して炎上した。極楽寺良観の謗法がその原因であるが、日蓮大聖人は、この極楽寺と御所の二か所の焼失および現世の火と後世の無間の火の意味を含めて両火と呼び、良観房の音にかけて、皮肉の意味であだ名されたもの。

 

極楽寺殿

北条重時(11981261)のこと。北条義時の三男。執権北条時頼の連署(執権の補佐役)を務めたあと、建長8年(125658歳の時、職を辞し、入道して極楽寺の別荘に住んだ。そのことから、極楽寺殿と称された。

 

へちごの守殿

えちごの守殿のこと。鎌倉時代は「へ」と「え」の音は、どちらにも通じていたらしい。北条重時の五男、業時のこと。重時の長男・為時が若死、次男の長時は35歳で、三男の時茂は30歳で、四男の義政は39歳でそれぞれ死に、五男の業時だけが建治3年(1277)に越後守に任ぜられて生き残っていた。

 

なごへの一門

北条朝時(11931245)の一門のこと。鎌倉名越に住していたところから名越という。朝時は執権北条義時の子で泰時の弟。名越一家は念仏の強盛な信者であったため、善光寺・長楽寺・大仏殿等の建立には大いに尽力したと伝えられている。その一門の最期は、まさしく念仏無間地獄の現証の示すとおり、名越朝時の子息六人の中、時長、時基は相次いで早死。光時は隠居。時章、教時は相次いで誅され、時幸は病没あるいは自害したともいう。このように一門は全て横死を遂げている。

 

守殿

こうどの。守は「かみ」の転訛したもの。四等官の最高位。国政をつかさどる長官を、たとえば武蔵守、相模守などと呼ぶが、この官名が個人をさすようになった。御書において単に「守殿」「かうどの」あるいは「かうのとの」と記されたものは、相模守の略称に殿をつけた呼び名で、北条時宗をさす。

 

講義

大聖人はここで、極楽寺良観と結んで、大聖人を迫害して悲惨な罰の現証をうけた北条重時等の例を引かれ、仏法の厳しさを示されている。

北条重時は康元元年(1256)入道して、極楽寺の別荘に住んでいたので極楽寺入道と呼ばれていた。強盛な念仏信者であった重時は、立正安国論によって念仏を「この一凶」と断じて破折された大聖人を憎むこと絶大であった。文応元年(1260)松葉ケ谷の襲撃の際も暴徒を黙認し、伊豆・伊東の流罪に際しては、重時の子・長時等が中心になって策謀したのである。表面には出なかったが裏で陰謀をめぐらし、大聖人を迫害していたのが、重時であることは明らかである。

重時は大聖人の伊豆流罪の一か月後、急に病気になり、苦しみの末、死んだ。重時だけでなく重時の長男・為時は早死、次男・長時は35歳、三男・時茂は三十歳、四男・義政は39歳で、それぞれ夭折している。ただ五男・業時だけが越後守に任ぜられていた。大聖人は正法誹謗のこの厳罰を宗長に教えられたのである。

 

権力の弾圧

 

日蓮大聖人を、当時の権力者・北条氏および鎌倉幕府と結託して陰に陽に迫害しつづけた元凶が、本抄にも述べられているところの、極楽寺良観等の念仏者たちであった。

正しい仏法のあるところ、あたかもそれを証明するかのごとく、邪な宗教があり、権力と結びついて、弾圧を加えるようである。

涅槃経に「爾の時に多く無量の外道有って和合して共に摩訶陀の王、阿闍世の所に往き、今は唯一の大悪人有り瞿曇沙門なり、一切世間の悪人利養の為の故に其の所に往集して眷属と為って能く善を修せず、呪術の力の故に迦葉及び舎利弗、目犍連を調伏す」とある。

すなわち、釈尊在世の邪教外道が寄り集まって、当時の国主――権力者のもとにいって、瞿曇沙門は大悪人であると悪口をいって、釈尊を迫害しようとしたのである。これは在世の権力の弾圧である。

ひるがえって、20世紀の今日、太平洋戦争中においては、大きくは神道と国家権力との結託があり、また身延派がやはり国家権力にとりいって日蓮正宗を滅ぼそうとした事実があった。

だがこれらの宗教と権力者とが結託し、正法を断圧したときには、立正安国論に仁王経の「仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」(0021:03)の文をひかれて、大聖人が述べられているごとく、必ず一国滅亡の結果がでているのである。

 

 

 

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