蒙古使御書
建治元年(ʼ75)9月 54歳 西山殿
第一章(西山殿の帰国を喜ぶ)
本文
鎌倉より事故なく御下りの由承り候いて、うれしさ申すばかりなし。
現代語訳
鎌倉から事故なく御帰国の由をお聞きし、嬉しさは申し上げようもない。
講義
本抄は建治元年(1275)、日蓮大聖人54歳の御時、身延山から駿河国(静岡県)富士郡の西山入道へ宛てられた御消息である。これより先、西山殿は鎌倉に出向き、幕府の仕事をしていたのであるが、その役務が御免となって所領の駿河国に帰ってきたのである。その旨を大聖人にお手紙で報告し、併せて蒙古国からの使者を幕府が竜の口で斬首した様子をお知らせしたのであろう。
これに対する返書が本抄である。
題号の「蒙古使御書」は、本文に「日本国の敵にて候念仏真言禅律等の法師は切られずして科なき蒙古の使の頚を刎られ候ける事こそ不便に候へ」と述べられているところから名づけられたものである。
なお、御真筆の所在は不明である。
まず、ここでは西山殿が鎌倉から無事所領に帰国したとの報を受けて「うれしさ申す計りなし」と喜びを述べられている。当時は不穏な世の中で、鎌倉から駿河国までたいした距離ではないとはいえ、箱根の難所もあり、大聖人は御門下の身を心配されたのであろう。
第二章(蒙古遣斬首の愚行を指摘)
本文
又蒙古の人の頚を刎られ候事承り候日本国の敵にて候念仏真言禅律等の法師は切られずして科なき蒙古の使の頚を刎られ候ける事こそ不便に候へ子細を知ざる人は勘へあてて候をおごりて云うと思ふべし此の二十余年の間私には昼夜に弟子等に歎き申し公には度度申せし事是なり
現代語訳
また蒙古の人が頚を刎ねられたとのこと、お聞きしました。日本国の敵である念仏・真言・禅・律等の法師は切られないで、罪のない蒙古の使いが頚を刎ねられたことこそ哀れである。事情を知らない人は、日蓮が予言したことが合致したのを、思い上がって言っているとおもうであろう。この二十余年の間、私的には昼夜に弟子等に嘆き語り、公にはたびたび諌めてきたことはこの国を災いから救うためだったのである。
語釈
蒙古
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
禅
禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
律
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
講義
鎌倉幕府が蒙古の使者を斬首したとの西山殿の報告を受けられて、日蓮大聖人の所感を語られたところである。
初めに、日本国の本当の敵である念仏・真言・禅・律等の謗法の徒を処罰せずして、何の罪もない蒙古の使者の頸をはねたことに対して、その愚かさを嘆かれている。
次に、大聖人が、ずっと以前に蒙古襲来のあることを予知され警告されたのが、そのとおりに符合したことを述べられている。そして、世の人々は、この予言的中で大聖人が喜び得意になっていると思っているかもしれないが、この災いをだれよりも憂え、それを避けるために諌暁してきたのだと仰せられている。
蒙古の人の頚を刎られ候事承り候
これは、前年の文永11年(1274)にあった文永の役で、いったんは軍を退いた蒙古が翌年の建治元年(1275)、再び日本に入貢を求めて遣わしてきた使者を、竜の口で斬首した事件である。
保暦間記によると、「建治元年四月十五日、大元使長門の国室の津の浦に付く。八月、件の新使五人関東へ召下され、九月七日、竜の口にして首をはねらる」とある。
ここでは使者の名は明らかにされていないが、史料綜覧の建治元年(1275)9月の項には「七日、幕府、蒙古の使臣杜世忠、何文著等五人を竜口に斬る、因りて、京師、幕府の公事を減じ、民力を休養して、兵備を厳にす」と、杜世忠、何文著の代表2人の名が見えている。執権・北条時宗にしてみれば、蒙古とは断固戦うとの姿勢を示し、国内の士気を固めるためにしたことであろうが、日蓮大聖人は日本国の本当の敵であり、三災七難の元凶である禅・念仏・真言等の邪法の僧侶を斬らないで、何の罪もない使者の頸を斬るとは、まことに不憫であると、蒙古の使いを哀れまれるとともに、この幕府の処置の愚かさを嘆かれている。
勘へあてて候
ここでは、文応元年(1260)7月16日に鎌倉幕府へ上呈された立正安国論で予言し警告されたことがそのとおりに的中したことを言われている。
次に「おごりて云うと思ふべし」とは、よく事情を知らない世人は、予言が的中したので大聖人が得意になっているのではないかと思っていることであろうとの意である。もっと端的にいえば、大聖人が蒙古軍の襲来を喜んでいると世人は思っているにちがいないということである。
もとより、大聖人が日本の国が滅び、人々が苦悩に陥るのを期待されるわけがない。そのような悲惨な事態になることをだれよりも心配されたのが大聖人であられた。だからこそ、御弟子の人々にも、つねづね、この国の災いについて嘆き語ってこられたのであり、「公」すなわち幕府に対しては、命をかけて諌暁してこられたのである。すなわち、日蓮大聖人は蒙古襲来という最大の災いを避けるために努力を重ねてこられたことが明らかである。民衆の幸福と平和を願われての言動であったことを忘れてはならない。
第四章(三世を知る智慧と法華経の超勝性を示す)
本文
夫れ大事の法門と申すは別に候はず、時に当て我が為め国の為め大事なる事を少しも勘へたがへざるが智者にては候なり、仏のいみじきと申すは過去を勘へ未来をしり、三世を知しめすに過ぎて候御智慧はなし、設い仏にあらねども竜樹.天親・天台・伝教なんど申せし聖人・賢人等は仏程こそ.なかりしかども・三世の事を粗知しめされて候しかば名をも未来まで流されて候き、所詮・万法は己心に収まりて一塵もかけず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり、然りといへども盲目の者の鏡に影を浮べるに見えず・嬰児の水火を怖れざるが如し、外典の外道・内典の小乗・権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり、然りといへども法華経の如く説かず、然れば経経に勝劣あり人人にも聖賢分れて候ぞ、法門多多なれば止め候い畢んぬ。
現代語訳
さて大事の法門というのは別のことではない。時に当たって、我が身のため、国のために、大事な事を勘えて少しも間違わないのが智者なのである。仏が尊いというのは、過去を勘へ、未来を知り、三世を知っておられるからであり、これに勝る智慧はない。たとえ仏ではないけれども、竜樹・天親・天台大師・伝教大師などという聖人・賢人等は、仏ほどではなかったけれども、三世のことを粗知っておられたので、名を未来まで伝えられたのである。
所詮、万法は己心に収まって、一塵も欠けてはいない。九山八海も我が身に備わり、日月・衆星も己心に収まっている。しかしながら、盲目の者には鏡に映る影が見えず、嬰児が水火を怖れないように、凡夫には己心に収まる万法が見えないのである。
外典の外道や内典の小乗・権大乗等は、皆己心の法を片端片端説いているのである。しかしながら、法華経のようには説かない。それゆえ、経々に勝劣があり、持つ人々にも聖賢が分かれるのである。法門のことは限りないことなので、ここで止めにしておく。
語釈
竜樹
梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
天親
天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
天台
(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
伝教
(0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土 させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
聖人・賢人
聖人とは、世間・出世間ともに通ずる語で、智慧が広大無辺で、徳の勝れた者のうち、賢人より勝れた者の場合に用いる。仏法上では仏を意味し、また正しく仏法を弘める高僧のこともいう。賢人とは、聖人に次ぐ賢明で高徳の人をいう。
九山・八海
須弥山を中心とする一小世界の山海の総称。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。すなわち須弥山を中心として周囲を同心円状に七つの香海と七つの金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水の海がある。この鹹水の中に閻浮提などの四大州が浮かんでおり、一番外側には鉄囲山が取り囲む。須弥山の高さは八万四千由旬。七つの金山は、内側から持双山、持軸山、檐木山、善見山、馬耳山、象鼻山、持辺山といい、その高さは金山の外側に向かうに従い、隣接する内側の山の半分の高さとなり、最も外側の持辺山の高さは六百二十五由旬となる。以上の須弥山・七金山・鉄囲山の九山と七内海・外海をまとめて九山八海という。
外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
小乗
小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
権大乗
大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
講義
冒頭でまず、仏法における「大事の法門」は、大事な時に、我が身のためにも国のためにも最も重要なことを、寸分もたがうことなく〝勘へあてる〟ところにあり、それができる人が智者であると述べられる。仏が偉大なのは、ひとえに過去・現在・未来の三世を知る智慧を有しておられるからにほかならない。竜樹・天親・天台大師・伝教大師などが聖人・賢人の名を自らの死後にまで流しているのは、やはり、仏ほどではないにしても、ほぼ三世のことを知っていたからである。
こうして三世を知る智慧の大切さを述べられた後、法華経と外典・外道、小乗、権大乗とを比較されて、法華経の説き示す法門こそ無上であることを明かされ、この無上の経典である法華経を受持してこそ我が身のため国のために最も肝要なことを知りうる最高の聖人となることができると仰せられ、大聖人が三世を正しく知っておられたのは、法華経の聖人、末法の御本仏であるがゆえであることを暗に示されている。
所詮・万法は己心に収まりて一塵もかけず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり
本来の生命の正しい姿を述べられている。
宇宙森羅万象は私達凡夫の一心の中に収まっていて一塵といえども欠けるものはなく、須弥山を中心とする九山八海も我が身に備わり、天空にある日月も諸々の星も己が心の中に収まっているというのが、真実の姿である。この生命の真実の姿を明らかにしたのが法華経である。換言すれば、一念三千の法理ということであろう。
法華経は人間や日月、諸星、山川草木などの森羅万象がことごとく〝一法〟から顕現したものであると説く。そして、この〝一法〟を〝妙法蓮華経”とも〝妙法〟とも称するのである。法華経の開経・無量義経で「無量義は一法より生ず」と暗示された〝一法〟こそ、この妙法蓮華経なのである。
ところが凡夫は無明の迷妄のために「盲目の者の鏡に影を浮べるに見え」ないように「嬰児の水火を怖れ」ないように、この真実の生命の姿が分からないのである。
通常、私達は、自分と日月、諸星、山川草木などの森羅万象とが別々に存在していると思い、またそのように生きている。
しかしこれは、人間の理性やそれに基づく思考が自分と自然の事物現象とを分け、対立させる働きをもっていることによるのである。
生命の真実の姿は自然の事物現象と一体なのである。この人間と森羅万象とが根源的な生命次元において「一つ」であるという真理を明かしたのが一念三千であり、我即宇宙とは、その悟りに立った仏の境界を端的に表現した言葉である。
私達一個人にとってみれば、自己存在の奥底の生命が宇宙森羅万象と根底において一つであるということであり、この奥底の生命を〝仏性〟とも〝仏界の生命〟ともいうのである。
この仏性を開く鍵が御本尊への信心・唱題であることはいうまでもない。妙法への信と唱題により顕現してきた仏界の生命は、そのまま宇宙森羅万象の本源と一つであるから、我が奥底の一念が他者の生命に波動を与えたり、森羅万象の根底に響いていくということが可能になる。ここに、私達の祈りがかなっていく根本的な原理があるといえよう。
日蓮大聖人はこの我即宇宙、換言すれば宇宙森羅万象が具わる根源の大生命を悟り究められている御本仏であられるからこそ、国のために大事な蒙古襲来の招難を予見されたのである。
外典の外道・内典の小乗・権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり、然りといへども法華経の如く説かず
法華経に対して、外道や仏教の小乗、権大乗などの教えは〝己心の法〟すなわち己が生命に宇宙森羅万象を備えているという全体の相貌をありのままに説かず、その一部分や片鱗のみをそれぞれ説いているにすぎないとの御文である。
法華経が生命の全体像を説き明かしているのに対し、外道、小乗、権大乗などは生命の部分観を説いたものなのである。したがって、部分観のみを説く法華経以外の教えをもってしては、真実は分からないのである。
以上から「経経に勝劣あり人人にも聖賢分れて候ぞ」と仰せのとおり、いかなる経教を持つかによって、聖人と賢人との違いが生じてくると述べられているのである。