妙心尼御前御返事(御本尊護持の事)
建治元年(ʼ75)8月25日 54歳 窪尼
第一章(御本尊が一切経の眼目なるを説く)
本文
すずの御志、送り給び候い了わんぬ。
おさなき人の御ために、御まぼりさずけまいらせ候。この御まぼりは、法華経のうちのかんじん、一切経のげんもくにて候。たとえば、天には日月、地には大王、人には心、たからの中には如意宝珠のたま、いえにははしらのようなることにて候。
現代語訳
種々の物をお送りいただきました。
あなたの幼子のために御守り御本尊を授けて上げましょう。この御本尊は法華経の肝心であり、一切経の眼目であります。たとえば天では日月、地では大王、人では心、宝のなかでは如意宝珠、家では柱のようなものです。
語釈
法華経
釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。
現存しない経
①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)
②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)
③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)
現存する経
④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)
⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)
⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)
このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
如意宝珠
意のままに宝物や衣服・食物を取り出すことのできるという宝珠。如意珠・如意宝ともいう。大智度論には仏舎利の変じたものとか竜王の脳中から出たものといい、雑宝蔵経には摩竭の脳中から出たものといい、また帝釈天の持ち物である金剛杵の砕け落ちたものなど諸説がある。摩訶止観巻五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(1087:12)、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈し「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」(0747:第八有一宝珠の事:01)と仰せになっている。
講義
本抄は建治元年(1275)8月25日、日蓮大聖人が聖寿54歳の御時、身延で著され、妙心尼に与えられた御消息である。御真筆は現存しないが、日興上人の写本が大石寺に存する。
内容は、妙心尼の幼い子に御守り御本尊を授けるにあたって、この御本尊が法華経の肝心、一切経の眼目であり、御本尊を持ち信ずる者は必ず仏神に守護されることを述べられて、御本尊への深い信心を促されている。
妙心尼について
本抄をいただいた妙心尼は、駿河国富士郡西山(静岡県富士宮市西山)に住んでいた女性信徒とされる。妙心尼にあてられた御消息の内容から、夫の入道が重い病気になったため髪をおろして尼になったが、入道が亡くなった後は幼い子を育てながら信仰を貫いた人であることがうかがえる。
この妙心尼は、持妙尼、窪尼と同一人物と考えられている。
「妙心尼御前御返事」とされてきた弘安2年(1279)11月2日の御消息は、日興上人の写本が現存し、そのあて名は「持妙尼御前御返事」と記されている。
持妙尼とは、日蓮大聖人のおしたための建治2年(1276)2月の御本尊に「富士西山河合入道女子高橋六郎兵衛入道後家持妙尼仁日興申与之」と日興上人の添え書きがしたためられていることから、日興上人の叔母にあたる富士郡賀島の高橋六郎兵衛入道の後家尼であることが明らかである。
高橋六郎兵衛入道の夫人に対しては、建治元年(1275)7月26日に与えられた御消息で「女人の御身として尼とならせ給いて候なり……なによりも入道殿の御所労なげき入つて候」(1457:07)と仰せであり、夫の入道の病が重く、そのため夫人が尼になったことがうかがえる。
そして、持妙尼御前御返事に「すでに故入道殿のかくるる日にて・おはしけるか」(1482:01)と述べられていることから、この11月2日の御消息は、建治2年(1276)の御述作と推定され、高橋六郎兵衛入道は建治元年(1275)10月に亡くなったものと考えられる。
また弘安元年(1278)の8月16日とされてきた妙心尼御前御返事の「入道殿の御所労の事……わかれのをしきゆへにかみをそり・そでをすみにそめぬ」(1479:01)との御記述は、前述の高橋六郎兵衛入道の夫人への御消息と全く同趣旨であるところから、妙心尼と高橋六郎兵衛入道の夫人・持妙尼とは同一人物と推察することができる。そうすると、この御消息は建治元年(1275)の御述作と考えなければならなくなる。
一方、弘安2年(1279)5月4日の御述作とされる「くぼの尼」への御消息には「されば故入道殿も仏にならせ給うべし、又一人をはする・ひめ御前も・いのちもながく・さひわひもありて・さる人の・むすめなりと・きこえさせ給うべし」(1481:08)と仰せられており、夫の入道が死亡していること、幼い子がいることなどが、妙心尼と共通している。
「くぼの尼」とは、駿河国富士郡西山の窪(静岡県富士宮市大久保)に住んでいたためにそう呼ばれたものである。
窪は、高橋六郎兵衛入道夫人の持妙尼の実家・由比家のある河合のごく近くである。そのために、夫亡き後の持妙尼が幼い子を連れて実家の近くの窪に移り住んで「くぼの尼」と呼ばれたのではないか、と推せられるのである。
つまり、高橋六郎兵衛入道の夫人が、夫の重病によって尼となって妙心尼と名乗り、夫の死後に実家へ帰って、改めて持妙尼の法名をいただき、その住地から「くぼの尼」とよばれたものであろう、と考えられるのである。
もとより断定はできないが、妙心尼、持妙尼、窪尼と、ほとんど同じ境遇の女性が同じ時期、同じ地域に三人もいたと考えるより、同一人物と考えたほうが自然であろう。
おさなき人の御ために御まほりさづけまいらせ候、この御まほりは法華経のうちのかんじん一切経のげんもくにて候
大聖人は、妙心尼の幼い子のために御守り御本尊を授けられ、南無妙法蓮華経の御本尊こそ「法華経のうちのかんじん一切経のげんもく」であると、その深義を示されている。
日蓮大聖人が御図顕された御本尊は、法華経二十八品の要である如来寿量品第十六の文底に秘沈されていた事の一念三千の御当体であるゆえに「法華経のかんじん」なのである。さらに、法華経が一切経の要であるところから、御本尊はまた「一切経のげんもく」なのである。
三大秘法抄には「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023:13)と仰せである。また下山御消息に「実には釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり」(0359:08)と述べられている。
こうした諸御抄の意のうえから、日寛上人は「若し爾らば、三大秘法は但蓮祖出世の本懐なるのみに非ず。忝くも釈尊出世の大事、多宝・分身の証明・舌相の本意、本化を召し出すの本意、天台・伝教の内鑑の本意なること文義分明なり。豈この三大秘法を信ぜざるべけんや」と述べられているのである。
御本尊が一切経の眼目であることも、日寛上人は「これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」と述べられている。
大聖人があらわされた本門の本尊は、末法の一切衆生を救済するための御本仏の出世の本懐であるのみではなく、釈尊をはじめ三世の諸仏の説いた諸経の根本であり究極の大法なのである。
だからこそ「たとへば天には日月・地には大王・人には心・たからの中には如意宝珠のたま・いえにははしらのやうなる事にて候」と、譬えをもって示されているのである。
第二章(御本尊受持の功徳を説く)
本文
このまんだらを身にたもちぬれば王を武士のまほるがごとく・子ををやのあいするがごとく・いをの水をたのむがごとく草木のあめをねがうがごとく・とりの木をたのむがごとく・一切の仏神等のあつまり・まほり昼夜に・かげのごとく・まほらせ給う法にて候、よくよく御信用あるべし、あなかしこ・あなかしこ、恐恐謹言。
八月二十五日 日 蓮 花 押
妙心尼御前御返事
現代語訳
この曼陀羅を身に持てば、王を武士が護るように、子を親が愛するように、魚が水を頼みとするように、草木が雨を願うように、鳥が木を頼みとするように、一切の仏・神等が集まって、昼夜にわたって影のように護られるでありましょう。よくよく信じていきなさい。穴賢・穴賢。恐恐謹言。
八月二十五日 日 蓮 花 押
妙心尼御前御返事
語釈
曼陀羅
梵語マンダラ(maṇḍala)の音写。曼荼羅などとも書き、道場・壇・輪円具足・功徳聚などと訳す。古代インドの風習として、諸仏を祀(まつ)るために方形または円形に区画した区域に起源をもつ。転じて、信仰の対象として諸仏を総集して図顕したものを曼陀羅というようになった。①本尊のこと。②菩提道場のこと。釈尊が成道した菩提座、及びその周辺の区域。③壇のこと。仏像等を安置して供物・供具などを供える場所。④密教では本質、心髄などを有するものの意から、仏内証の菩提の境地や万徳具足の仏果を絵画に画いたものをいう。本抄の場合は、日蓮大聖人の出世の本懐である事の一念三千の御本尊のこと。
講義
本抄後半は、曼荼羅の御本尊を身に持つ者が、あらゆる仏と善神によって昼夜に守護されることを仰せられ信心を促されている。
一切の仏神等のあつまり・まほり昼夜に・かげのごとく・まほらせ給う法にて候
曼荼羅は、輪円具足とも功徳聚などともいい、一切の諸仏諸神諸法の功徳が欠けることなく円満に具足している姿を顕したものである。したがって、この曼荼羅を持つ者は、あらゆる仏や善神に守護されるのである。
御本尊には、南無妙法蓮華経を中心に、釈迦・多宝の仏、上行等の菩薩、舎利弗等の二乗、梵天等の諸天、鬼子母神・十羅刹等の諸神等々、十界のあらゆる衆生がしたためられている。
ゆえに、御本尊を身にたもつならば、これらすべての十界の衆生が集まって、昼夜を問わず、身に影が添うように付き従って守ってくれるのであると言われるのである。御文の「王を武士のまほるがごとく・子ををやのあいするがごとく・いをの水をたのむがごとく」云々の譬喩は〝子を親が愛する〟という例を除いては、下位の者が上位の者を守り、頼りにする関係である。これらは菩薩以下の衆生が守ってくれることを前提におおせられたのであろう。〝子を親が愛する〟との譬喩は、仏が御本尊を受持する凡夫を慈愛してくださることを言われたのである。
最後に「よくよく御信用あるべし」と、御本尊を深く信ずるよう勧められて、本抄を結ばれている。ただ御本尊を持っていれば功徳があるのではなく、御本尊を深く信じて護持し、行学に励むからこそ功徳があることを忘れてはならないであろう。